TETRA'S MATH

数学と数学教育

数値が大きいほどTNP(低・燃・費)、逆内包量のこと

 「わからないのかTNP。ちょっとかっこいいからだよ」と所長が言うのは、ダイハツムーヴのCMでした。あのときのムーヴの燃費はリッター27km、すなわちTNP27でした。

 リッター27kmは燃料1Lで27km走る走行能率であり、リッター30kmは燃料1Lで30km走る走行能率なので、どちらが走行能率が高いかというと、リッター30kmのほうです。なので、リッター27kmよりリッター30kmのほうが「燃費が低い=低燃費の度合いが高い」ということになろうかと思います。数値が大きいほうが(燃費が)低いというのが面白いです。

 ちょっと調べたところによると、日本やアメリカでは燃費として単位燃料量あたりの走行距離を用い、欧州各国では「liter/100km」のように一定距離を走行するのに必要な燃料量を用いているのだそうです。「27km/L」は「約0.037L/km」なので、100km走るのに約3.7Lの燃料を必要とします。

 一方、「30km/L」は「約0.033L/km」なので、100km走るのに約3.3Lの燃料を必要とします。「3.7Lから3.3Lになった」ときくと、いかにも「使う燃料が少なくなった」という感じがしますが、「27kmから30kmになった」ときくと、燃料が少なくなったというよりは、「よく走るようになった」という印象になります(個人的には)。「数値が大きいことはいいことだ」という印象を利用するなら、単位燃料量あたりの走行距離のほうがしっくりくるのかもしれない。

 で、日本で採用されている燃費測定方法のことを、10・15モード燃費というのだそうです(そういう1つの測定方法がある、ということ)。市街地を想定した走行パターンを10項目、郊外を想定した走行パターンを15項目設定してあるから、10・15モードなのでしょう。

 やがてムーヴの研究員たちに試練が訪れます。JC08モード(より実態に近い走行状態を想定した測定方法)が導入され、これは10・15モードに比べるとやや低めの数値が出るために。そしてNCI(燃費調査委員会)が登場。

 しかし、ムーヴはさらに改良をかさね、10・15モードでTNP30、JC08モードでTNP27を達成し、小日向文世が「SBN(そんなばかな)」と口にすることになるわけでした。
 
 CMの話はこのくらいにして、何のことを考えているかというと、「逆内包量」のことです。「単位あたり量」は2種類の量の関係であり、たとえば4mの重さが9.2gの針金の場合、重さを長さでわると、2.3g/m(1mあたり2.3g)という内包量が出ます。でも、逆に、長さを重さでわってもいいわけで、そうすると約0.43m/g(1gあたり約0.43m)という内包量が出ます。

 こんなふうに、1つの内包量を2つの量のわり算と考え、わられる数とわる数を入れかえてできる内包量のことを、逆内包量とよぶ場合があるようです。逆内包量があるということは、アクリルたわしの圏(もどき)で示したピンクの矢印は、それぞれ逆方向の矢印も考えることができるよ、ということに対応しています。

比例と内包量と圏論 | permalink

「第3のエコカー」“リッター30km”で関数的比例を考える

 きょうは「第3のエコカー」に注目してみます。 ダイハツの「ミラ イース」のCMのうち、「休日に古民家の再生を手伝うの巻」は印象に残った私。「これあれだろ、外国の俳優でCMやってる…」という会話があったからです。是非次のCMでは「これあれでしょ、“外国の俳優でCMやっている…”っておじさんが車の中で瑛太に話しかけるCMの会社のやつ…」という台詞のあるCM流してほしいな!

 さて、それはそうとして「第3のエコカー」です。そもそも何がどう「第3」なんでしょうか。調べてみたところ、第1がハイブリッドカー、第2が電気自動車で、その次に市場に投入されたとういことで第3のようです。簡単に言えば、ハイブリッドカーはガソリンと電気を動力源とし、電気自動車は電気のみを動力源とし、第3のエコカーはガソリンのみを動力源とするけれども低燃費を果たした、ということなのだろうと私は理解しています。

 燃費リッター30km、つまり30km/L、すなわち1Lで30km走るということが、どれだけすごいことなのか、自動車を持っていない私には想像がつきませんが、環境省サイトの以下の資料によると、1995年くらいに平均で12.5kmくらいだったらしく、2005年で15.5kmくらいらしいので、確かにすごいことかもしれません(「燃費」の「平均」の意味についてはいずれ考えることにしよう)。ガソリン価格が143円/Lのとき、143円で30km走るのですね。
http://www.env.go.jp/council/06earth/y060-47/mat03-2.pdf


 ほんでもって、いま考えたいのは、「関数的比例」のことです。私がなかなか理解できなかった、比例の分類のうちの「量的比例」ではないほう。

 で、たぶんこういうことかなぁ……といまは考えています。

 第3のエコカーのリッター30kmというのは、ガソリン1Lで30km走る性能ということですが、私が1L入りのガソリンタンクを抱きかかえていても30km移動することはできません。また、ガソリンタンクがひとりでに移動することもありません。自動車がないことには。そして、自動車にガソリンを入れただけでも30km移動することはできません。自動車を動かさないと。

 というわけで、環境再生保全機構のサイトで、自動車が動く仕組みについてちょっとお勉強します↓
http://www.erca.go.jp/taiki/siryou/pdf/W_B_002.pdf

 まずは、シリンダというものの中で、ガソリンを燃やすのですね。その爆発をピストンの往復運動の動力とする。そして、ピストンの往復運動はコンロッド、クランクシャフトなるものによって回転運動に変えられ、この回転運動がトランスミッションなるものの働きで回転速度・回転力が変換されて駆動輪に伝えられる。つまりおおまかには、爆発→往復運動→回転運動で自動車は走るようです。1Lのガソリンを燃やすことで、その爆発力がある量(回数)の往復運動に変わり、それがまた回転運動の量(回数)に変わり、タイヤが回転すればそれだけ車は走るので、最終的にはそれが距離に変わり、30km進むことになるわけですね。

 「ミラ イース」(の標準?)のタイヤの外径は557mmということで、56cmと考えると外周は約176cm=1.76mなので、30km=30000m走るには17045回転くらいしなければならないということになり、30Lの爆発が17045回転を生み出すと考えていいのでしょうか。って、ものすごく単純に考えればの話ですが。

 ほんでもって、「1L → 30km」が実現するわけですが、そもそもガソリンと道路があっても、リッター30kmという走行能率は存在しません。ガソリンを燃料として自動車を走らせることではじめて存在する数値です。そして、ガソリンの量から距離まで間にいろいろあれこれ変換があったとしても、自動車の燃費としては、ガソリンの量と距離の関係の話になります。したがって、「30km/L」という量、すなわちガソリン1Lあたりに走る道のりという「燃費」を1つの量として認めれば、これを指標をもとにあれこれ語ることができるようになります。

 針金の長さと重さのように、1つの物体の2つの側面としての量のみならず、2つの量の(途中のアレコレをはしょった)関係というのもあり、この「関係」も、「内包量(たとえば燃費)」という1つの量で示せる……というのが、銀林先生いうところの「関数的比例」と「内包量」の関係なのかなぁ、といまは理解しています。

比例と内包量と圏論 | permalink

「アクリル毛糸の量の圏」を作りながら思ったこと

 「アクリル毛糸の量の圏」―― 圏になっているものとして話を進めますが ―― をつくりながら、いろいろなことを思いました。

 以前、圏を自分でさがせるかな?とあれこれ身の回りをみまわしたとき、「対象よりも射をさがすほうが見つけやすそうだな。射をさがすには何か1つのものに2つのものがくっついているもの、その2つのものに方向性があるもの(区別がつけられるもの)じゃないと射にならないよな…」と思ったのですが、分数というのは、まさにその「区別のつく2つのものからなる1つのもの」だと気づき、こんなに身近に「区別のつく2つのものからなる1つのもの」があることになんだか感動してしまいました。もちろん、分数ではなくわり算の商でもよい(どちらかというと商のほうがよい?)のでしょうが。

 そうして思い出す、割合分数論争のこと。ただし、いま問題にしたいのは「1m^2を3等分して得られる1/3m^2」といった意味での「1つの量分数」ではなく、2つの量の関係(商)でありながら1つの量になれる「内包量」です。

 圏を学び始めたばかりのころ、「射」がモノであるのか否かの違いは素人にとっては大きい()と感じていました。しかし、抽象的な関数であったものが具体的な内包量になることを考えると、関数という2つのモノの関係が内包量という1つのモノになるという雰囲気はつかめます。なので、内包量が射になれるのであれば、関係でもありモノでもある射の1つのイメージになりそうです。

 ただし、これが圏の射として正しい理解なのかどうかはまったくわかりません。そして、1つのモノになれた内包量が新たな対象となって新たな圏がつくられるとしたら、「構造と素子」の話につながってくるなぁ…と思っています。がしかし、いまのところまだつながっていないし、その先のことについては依然まったく理解できないままです。

 それにしても、射を「分数」に定義しておきながら、小数で表すってどうよ?と自分でも思います。でも、合成を乗法で定義しているので、結局、分数を“大きさ” ―― あるいは単位を伴った数 ―― として扱っていることになり、とりあえず小数になおしても射としての意味はあるかな…と自分では思うことにしています(そして恒等射のわからなさにはとりあえず目をつぶるのであった)。となると、やはり分数ではなくて、「“わる数”を始域、“わられる数”を終域とするわり算の商」を射としたほうがいいのかもしれません。

 射である分数を“大きさ”で扱うということは、1/2 と 2/4 と 3/6 を同じものとして考えるということであり、アクリル毛糸2玉分、アクリル毛糸3玉分の圏を考えたとき、対象となる量は違ってくるけれど(それぞれ2倍、3倍になる)、射はどれも同じになると考えてよさそうです。

  

 もちろん、同じ種類のアクリル毛糸の場合ですが。そして編んだときの面積に関しては、私が同じかぎ針を使って、同じ網み方で編んだ場合、という条件が必要です。

 そもそも、275^2という面積は、1つの「アクリルたわし」の重さとアクリル毛糸の重さの関係を使って計算で(さらっと)出したものでした。実際にアクリル毛糸1玉分の「たわし」を編んだわけではないので。そんなことしていいのかなぁと気になっていたのですが、どう考えたものか整理ができていない状態です。

 また、長さと重さはいいとしても、「たわし」の面積は私が「たわし」を編まない限り発生しないわけであり、「たわし」を編むという行為には、面積のほかにも関わってくる量があります。

 たとえば、私は1個の「たわし」を編むのに約20分かかるので、3.5個分の「たわし」を編むのにかかる時間は約70分ということになります。この70分と220円の関係を考えた場合、 220円/70分 や 70分/220円 にどんな意味があるのだろう?ということもつらつら考えてみました。

 最初は、「意味のない数値だよなぁ」と思っていたのですが、もし、私がアクリルたわしを編むことをこの上ない楽しみとしている人であれば、「1分間の楽しみをいくらで買っているか」「1円で何分間の楽しみを買っているか」と考えることもできるのかもしれません。さらに、アクリル毛糸の側から言えば、アクリル毛糸1玉を製造する際に、いろいろな量が関わってくるのでしょう。

比例と内包量と圏論 | permalink

銀林浩の、正比例関数から量圏への説明の流れ

 「アクリル毛糸1玉の量の圏」は銀林浩『量の世界・構造主義的分析』の第4章を読みながら考えたことですが、アクリル毛糸という例はもちろんのこと、射を分数にするのも私が勝手に考えたことなので、銀林先生が書かれていることをかなり曲解または誤解しているかもしれません。

 ちなみに、「§3 量のカテゴリ」はどのような話の流れになっているかというと、

● 理念的には、内包量と正比例関数はまったく一致する。しかし、人間にとっての認識の難易からみると、両者のあいだには違いがある。

● 正比例関数による内包量の創出には、認識上の制約がなく、入力-出力という対応関係だけに着目する。これは、内包量の範囲を一挙に拡げるものといえる。

● 関数を介することによって、内包量同士の演算を導入することができる。合成関数と、その加法保存性。2つの内包量のかけ算の定義。

● 正比例関数は双射(1対1)なので、その逆関数が考えられ、逆関数も加法を保存し、正比例関数になる。逆内包量。

● (この節の以下の部分はとばしてもさしつかえないという欄外コメント付きで)以上の叙述は、最近の数学における圏の定義を思い起こさせる。圏の定義。

● 「量圏」を考える意義

そして、

 ところが,これまで,正比例関数は y=ax というただの数学的パターンとしてのみ扱われていたし,量の世界の構築とは関係がなかった。一方,理科や社会科における諸量は,正比例を利用できないために,まったく非系統的にバラバラに,経験的にか天くだりにか与えられていた。これは,量にとっても正比例にとっても不幸な事態であったといわなければならない。

というふうに締めくくられ、正比例による内包量の創出の話へと移っていきます。

 私は、「量を対象とし、正比例関数を射とする圏」が具体的にどういうものなのか、なかなかわかりませんでした。というか、いまもわかっていません。正比例関数という関数自体は1つのものなので、1つ1つの射は「あるひとつの正比例関数」ということなのだろうと思いました。それを y=ax という形の式で与えるとして、aが決まっている場合だと考えてもいいのでしょうが、この式そのものを射としていいのかどうか、その場合、始域と終域を言葉でどう説明すればいいのか、なかなかわからなかったのです。

 で、内包量の二重構造を考える中で、『時代は動く!どうする算数・数学教育』を再び開いたときに、銀林先生は小学校の算数について、小数と分数、かけ算の導入、比例と反比例の3点をあげられており、比例と反比例については「関数的比例ならびに反比例は中学に送るのが望ましい」としたうえで、この3点を整理すると、小学校の低学年・中学年・高学年の教育内容は、「整数/離散量」「小数/外延量」「分数/内包量」と、きわめて合理的に分割され、しかも児童の発達にもマッチしたものとなる、と書かれていたのです。

 へえ、そうか、分数は内包量に対応するんだな…と思い、正比例関数と内包量が理念的に一致するのならば、「正比例関数を射とする」という言葉を「内包量を射とする」に置き換えてもいいのかもしれない、そして、具体的な1つ1つの内包量を表すものとして、具体的な1つ1つの分数を考えることで、圏をつくれないかな?と考えてみたわけなのでした(あとで自分の思考の流れを整理して言語化すれば…の話ですが)。

比例と内包量と圏論 | permalink

アクリル毛糸1玉に関わる量で圏はつくれるかな?

 先日、アクリルたわし用の毛糸を買いました。いつもは百円均一ショップで買うのですが、今回は別のお店で1玉220円で購入しました。45gで67m。この毛糸を使って私は直径約10cmの円形のたわしを編みます(使うかぎ針は、毛糸の太さに対して少し小さめのもの)。面積に換算すると約78.5^2、重さは約13gです。1玉から約3.5個分のアクリルたわしが作れる計算になるので、1玉で275^2分くらい編めることになります。

 というように、アクリル毛糸1玉に関する量はいろいろとあるわけですが、その中から「220円」「45g」「67m」「275^2」という外延量を取り出して、これらを対象とする圏はつくれないか考えてみることにしました。射は、これらの量を分母、分子にもつ「分数」です。そして、分母を始域、分子を終域にします。とりあえず、射として次の5つを考えてみます。



 それぞれの分数を小数第2位までの概数で表して単位を添えると、次のようになります。



 数字を丸付きにしてしまったので、かっこ付きに換えてこれらの値が何を表しているかを書くと、(1)は1円あたりの重さ、(2)は1gあたりの長さ、(3)は毛糸1mで編めるたわしの面積、(4)はたわし1cm^2を編むのにかかる毛糸の値段、(5)はたわし1cm^2を編むのに必要な毛糸の重さを表しています。つまり、射はすべて外延量÷外延量で得られる内包量ということになります。ちなみにそれぞれの矢印をひっくり返すと、それぞれの逆の内包量ができます。また、図には示していませんが、「220円」と「67m」を結ぶ→と←も考えることができます。

 では、射の合成はどうなるかというと、「かけ算」で与えることができそうです。たとえば、(4)と(1)の積は、(5)に一致します。1cm^2分のたわしを編むのに0.8円必要で、1円当たりの毛糸の重さは0.2gなので、0.8円では0.8×0.2=0.16(g)となり、1^2分のたわしを編むのに0.16gの毛糸が必要だということと一致します。



 乗法に結合法則が成り立つことを考えると、かけあわせる順番は関係なさそうです。これで圏の合成の条件も満たしました。

 で、恒等射が難しいのですが、とりあえず1つの量を分母と分子とする分数を考えると「1」という数とみなせ、これが実質的に何を意味するのかは自分でもさっぱりわからないけれど、とりあえずかけ算においては他に影響を与えないので、恒等射の条件は満たしそうです。

 というわけで一応、圏の定義は満たしていると思うのですが、これを圏といっていいでしょうか。

 なお、ある量を分母としてある量を分子とする分数は1つしか作れないので、この圏は(もし圏なのであれば)「やせた圏」ということになりそうです。

比例と内包量と圏論 | permalink

内包量を二重構造で考える意味

 銀林浩『量の世界・構造主義的分析』を読んでいます。

 きのうのエントリのような話をきくと、なるほど、内包量には直接的なものと間接的なものがありそうだ、という話が少し納得できてきました。ぱっきりわけられるものではないだろうし程度問題という気はしますが、1つの物体の「質量」と「体積」や、ある人が歩いた「時間」と「距離」にくらべ、「ガソリンの量」と「走行距離」は離れているといえば離れています。何しろガソリンで走る自動車がないとこの2つの量は結びつきそうにないし、そんなふうにして“作られてきた量”というものはたくさんある気がしてきました。

 銀林先生のいう直接的内包量とは、xとyが比較的近くにある場合、つまりxとyとの関連が直接つかまえられるくらい接近している場合でした。

 一方、正比例関数による内包量の創出には、そのような認識上の制約がない、としています。だから、2つのかけはなれた物体A、Bのそれぞれの側面x(A)とy(B)を結びつけることも可能である、と。

 銀林先生は、このような内包量の二重構造を、 

    内包量→正比例関数→内包量

という図式や、下のような図を用いて説明しています。

     

 また、「この図式は、あとの内包量が前のそれを画期的に拡大したものとなっているときにのみ、意味をもつ。ところが、緑表紙は公式を中心に据えたために、この大事な本質を見失ったのである」というようなことも書かれています(p.155)。

 公式がわかっているということはどういうことかというと、y=axのaがわかっていることなので、内包量がわかっているということです。自動車の走行距離の例で見たように、正比例関数の考察は内包量がわかっていなくても(公式がなくても)可能であり、その正比例関数から創出されるのが、後者の内包量でした。これは、関数fのままではとえらにくかったガソリンの量と走行距離の関係を、走行能率という1つの内包量で表すことであり(>抽象的な関数より、具体的な内包量)、「後者を土台にしてさらに先へ分析を進められることをも意味する」ことになります。こうなるとがぜん、量分数の考えに近くなります。

 さて、とはいえあいかわらず私の中には「何ゆえ内包量を二重構造で考えるのだろう?」という疑問があり、それについてつらつら考えていました。そうしたら、ふと思い出したことがありました。内包量からはなれますが(そしてこの本の内容からもはずれますが)、遠山啓の「量の理論」が関数教育で何をしようとしていたのかについて、いったん考えておきたいと思います。

比例と内包量と圏論 | permalink

生物、人間、量と法則のからみあい

 正比例関数を介さず、直接的に構成される内包量で書いたように、銀林先生は内包量を直接的に構成される典型的な内包量と、正比例関数を介して構成される間接的な内包量に分けて考えておられます。そのことについて、第1章にもどって考えてみます。

 第1章の「§2 量と人間」で、銀林先生はまず、森の中に住むある種のダニの話を出されています。ユクスキュル、クリサート『生物から見た世界』の中に書かれてある話のようです。このダニは、茂みの枝などにいて、人間であろうと動物であろうと、獲物が通りかかるのを待ち伏せ、その上に落下して生き血を吸うのだそうです。この生物には視覚も味覚も聴覚もなく、ただ酪酸の匂いに反応する嗅覚だけしか備わっていない、という話です。

このような生物にとっては,その環境世界の中で意味をもつ量は,酪酸の濃度だけである。

 このように下等な生物であれば環境世界は単純ですが、生物が高等になるほど、その環境世界は複雑で、関与してくる量は多岐にわたります。特に人間にとっては、きわめて多くの量が意味をもってきます。

 これらの量のうち、生存にとって致命的なもののいくつか ―― 温度・味・匂い・音・光・痛み ―― などについては、直接それを受容する機関が備わっており、直接感覚でとらえられますが、量の中には直接感覚から導き出せないものもあり、それらは間接的に構成されなければならない、と話は続きます。

 科学技術や工業生産の進んだ現代社会においては,実に多種多様な量がわれわれを取り巻いている。それらは,単に個々の人間がその環境世界に適応するために必要であるばかりではなく,類としての人間がその環境世界を制御したり,人間社会そのものを統御したりしてゆくために不可欠のものである。

 そして、かつて度量衡法の名づけられてられていたものが、より一般的な「計量法」という名称で呼ばれなければならなくなったことと、実際に計量法にあげられている70種の量が列挙されています

       *       *       *

 計量法であげられている量を眺めていると、量というものはきわめて社会的なものなんだなぁと思えてきます。太古の昔には量として認識されていなかったもの、認識する必要がなかったものもいっぱいある気がしました。というか、そんな量だらけです。なるほど、こういう話をきくと、内包量が二重構造になっているということも、前よりは納得できます。

 そしてまた第4章にもどると、「§3 量のカテゴリ」において、銀林先生は「理念的には、内包量と正比例関数とはまったく一致する。それは実は見方の相違にすぎない。」と書いておられるのです。なんだ、やっぱり一緒じゃん、と思うわけですが、「人間にとっての認識の難易からみると、この両者のあいだには違いがある」という姿勢にかわりはなく、あいかわらず二重構造は保持したまま話が続きます。

比例と内包量と圏論 | permalink

緑表紙(昭和10〜16年)における比例の扱い

 銀林浩『量の世界・構造主義的分析』の第4章を読んでいます。

 さて、第4期の国定教科書(緑表紙)(昭和10〜16年)では、次のように比例が扱われていたようです。なお、銀林先生はそのまま抜き出しておられますが、ここでは私が現代風に書きなおしました。

(1) 池に小石を投げると円い波ができて、だんだんひろがっていく。円の直径が大きくなるにつれて、円周はどう変わるか。円周を表す公式「円周=直径×円周率」について考えよ。

(2) 自動車が1分間0.5キロメートルの速さで走り出した。時間がたつにつれて、走った距離はどう変わるか。次の公式「距離=速さ×時間」について考えよ。

 このように公式を使って2つの変量の対応する変化を考えさせたあと、正比例の定義

「甲・乙2つの量があって、乙が2倍、3倍、4倍、……になると、甲も2倍、3倍、4倍、……になるような関係にあるとき、甲は乙に比例するという。」

が出されているようです。また、比例問題の解決について解法は明示されていないそうですが、 

(14) 月給に比例してお金を出すことになって、月給75円の甲は1円20銭出した。月給60円の乙はいくら出さなくてはならぬか。

という問題に対しては、

   60円は75円の60円/75円=2/3倍だから、
   出す金額も2/3倍で、120銭×2/3=80銭 となる。

と指導書で説明してあるそうです。これは倍比例の考え方です。

 銀林先生は 

 この緑表紙の比例指導は,ともかく変化を考えるという点では,黒表紙に比べて格段の進歩であるといえる。しかし,いくつかの原因から,このやり方は不徹底で,おかしな程非論理的でその効果は減殺されてしまっている。

と指摘しています。それはどういうことかというと、公式から出発して、2倍、3倍という正当な関数的定義にいきつくのだけれど、逆に、この定義に当てはまる典型的な関数はなく、「変量y=内包量a×変量x」という《公式》、あるいは新しい内包量を創り出す過程はない、したがって、公式が前もって作られている場合にしか正比例関数が考えられないし、正比例の扱える範囲は実際上既知の公式の場合に限られてしまっている、ということらしいのです。これでは、正比例関数というものを考える効果はほとんどなくなってしまうだろう、と。

(p.152〜154の要約)

       *       *       *

 上記の話がいまひとつ理解できないまま、私は緑表紙から抜き出されている3つの問題のうち、(1)と(14)について考えていました。

 (1)の円周も(14)の支払いの話も、変化する2つの量が同じ種類((1)は長さ、(14)は金額)なので、これらの比例関係にある内包量は、濃度と同じく純粋な数になります(そう考えていいとして)。なので、(1)(14)は「倍比例」と相性がいい問題設定だと思うのです。逆にいえば、遠山啓の「量の理論」ではいちばん最後に配置される=帰一法がもっとも苦手な「比的な率」です。

 すなわち、比例関係を「変量」をもとに考えさせるならば、(1)(14)のような問題をもってくるのは不適切である、ということならばよくわかる話です。裏を返せば、「量の理論」は均等分布や変化と関わりが薄い比に弱い、ということになるのでしょう。

比例と内包量と圏論 | permalink

内包量は正比例関数を媒介する

 銀林浩『量の世界・構造主義的分析』を読んでいます。きょうはまた第4章にもどります。

 自動車の例では、正比例関数から走行能率という内包量が生み出されることがわかりました。では逆に、内包量があれば正比例関数が生じるのか?という疑問がわいてきます。

 第3章に出てくる直接的な内包量mは、2つの外延量の章y/xなので、y/x=m(内包量の第1用法)より、mx=y(内包量の第2用法)という式が導けます。よって、

          内包量×外延量=外延量

               m×x=y

となり、いま、xとyを変化する量として考えると、これは関数

          f:x |―――→ mx=y

を生み出します。内包量mを一定に保っておけば、これは斉次1次関数だから、正比例関数です。したがって、「内包量は正比例関数を媒介する」ことになります。

 たとえば、物質密度pkg/m^3が一定であると、体積Vm^3に対してその質量pVkgが対応させられます。したがって、密度は体積を質量に変換する関数だということになります。また、発熱量は重さを熱量に変えるし、単価は「もの」を金額に変えるし、斜面勾配は長さ(水平距離)を長さ(鉛直距離)に変えるし、流量は時間を体積あるいは質量に変えます。

 そして、速度は時間を距離に変えます。

このことの意味はきわめて興味深い。実際,運動(あるいは移動)というものは,時間とともに位置を変えることであるから,運動こそは時間を変位に変える働きそのものであるといえる。この働きが格別重要なのは,それが人間認識の最も基本的枠組である時間と空間を互いに変換するからである。

(p.146)

 そんなふうにして、それぞれの内包量について正比例関数が生まれるのですが、内包量をこのように比例定数として解釈することは、正比例関数の理論が確立したから可能となったのであることに注意すべきだ、と銀林先生は書いておられます。

第3章で分析した典型的内包量は,このような関数概念をへずに直接構成されるものなのであって,このように事後的に(à posteriori)のみ正比例関数を生み出すのである。
 こうして,正比例関数,つまり法則があれば内包量が生み出され,逆に内包量は関数の役割をも果たす。ここに,第1章§2(18ページ)に述べた量と法則とのカテゴリ論的からみ合いがある。

(p.147)

 このあとしばらくは、黒表紙や緑表紙など、国定教科書時代の比例教育の問題点について語られており、三数法、帰一法、倍比例の話が続きます。そのなかから、倍比例を採用している第4期国定教科書(緑表紙)の内容、およびそれに対して銀林先生が循環論法であると指摘しているわけを見ていきます。

 

〔2018年3月22日:記事を整理・修正しました。〕

比例と内包量と圏論 | permalink

正比例関数を介さず、直接的に構成される内包量

 銀林浩『量の世界・構造主義的分析』から、「第4章 比例関数」を読んでいるところですが、きょうはいったん「第3章 内包量」にもどります。

 前回までみてきたように、正比例関数があれば、そこから内包量を生み出されることがわかりました。しかしこの内包量は、正比例関数があって初めてつくり出される量ともいえます。走行能率という内包量は、自動車という1つの物体の属性ですが、ガソリンを使って自動車を走らせてみなければ意味のない量です。つまり、走行能率という内包量は、ガソリンを距離に変えるという正比例関数をへないかぎり、決して構成されることのない内包量だというわけです。

 これに対して、関数を考えることなしに、物体から直接的に構成される内包量というものがあります(と、銀林先生は考えられたようです)。これは「第3章 内包量」で扱われています。つまり、正比例関数から生み出される内包量よりも、関数を考えることなしで直接的に構成される内包量のほうが話が先になっています。

 このような直接的な内包量については、「スキヤキ用の牛肉の価格」が例として取り上げられています。牛肉を買うときの「高い、安い」という感覚はどのように比較され、どのように数値化されるのか、という話です。

 同じ分量の肉ならば価格で比べられるし、同じ価格の肉ならば分量で比べられますが、分量も価格も違う場合はどうするのか?ということで、どちらかをそろえるということを考えます。そうして、1gあたりの価格を比べるという発想が起こり、ここから内包量の説明がなされていきます。

…すべての場合について比較を行なうためには,外延量xの単位当たりに対する外延量yの「大きさ」,すなわち商
          y/x
を求めてやればよい。
 このように,2つの外延量の商として数値化(評価)される量を,内包量(intensive quantity)といい,分母にくる外延量xをその基底外延量略して土台量とよぶ。この内包量を構成する2つの外延量の単位同士を割ったものが,その内包量の単位である。

(p.101)

 なお、1g当たりの値段ではなく、1円あたりの分量によって比較することもできます(逆内包量)。

 さらにこの内包量がいろいろな観点(2つの外延的のそれぞれが分離量か連続量か、空間型・時間型、分布型・位差型)で分類されていきます。

 この中で、空間型であり、かつ分布型であるものはどういうものかと考えると、1つの物体A(またはごく近くに連結した2つの物体の組A)の2つの側面であるx(A)、y(A)の商

          m=y(A)/x(A)

で、一般に「密度」とよばれているとして、次のような図式(シェーマ)が示されています(p.106)。
     
     

 空間量yが空間量xの上に「一様に載っている」図です。商 m=y/x は、基底外延量xの各単位当たりの上に載っているyの分量を表しているともみられるので、基底量xを横に延びた線分で表し、分子yをその上に位置する長方形で描くわけです。この場合、内包量mは長方形の縦の長さで表現されます。

 また、勾配や速度といった位差型の内包量に関しては、直角三角形の“シェーマ”を示しています。

 密度・流量・勾配・速度といったタイプの内包量は、いかなる法則も介さずに、ただ一様性あるいは均質性を前提とするだけで直接的に構成できるので、これらは「典型的内包量」だというわけです。

(p.99〜109の要約)

       *       *       *

 以前、佐伯胖氏は数教協の「タイル」をどう見たか・2というエントリを書きましたが、あのとき、数教協の先生の授業においても、佐伯氏の授業例においても、針金は一様に作られているという「比例関係」を前提にしていると私は感じていました。「長さ」と「重さ」という2つの量を使って小数のかけ算を学ぶとき、普通はダイコンやニンジンやゴボウは使わない。

 そういう感覚をもっている私には、銀林先生の言われる「直接的に構成される内包量」と「正比例関数という法則を介して構成される内包量」の厳密な違いがわからないのです。「一様性あるいは均質性を前提とする」ことと、そこに「正比例関係があるとみなせる」ことは、本質的に何が違うのでしょうか?

 人間が製造した一様な太さの針金の線密度と、理想的な自動車の走行能率とは、何が異なるのか。物質の密度が決まっていることと、自動車というブラックボックスの中で行われる様々な量の変換に法則性があることとは、何が異なるのか。そもそも、スキヤキ用の牛肉を売るときに単価という発想が起こり得るのはなぜなのか。比べることを前提としない「内包量」があるのか。「内包量」がつねに比べることと密接に関わっているとしたら、比例関係を前提としない(比例関係よりも先にくる)「内包量」というものはあり得るのか?

 あるいは、違いがあることはなんとなくわかるけれど、そんなに大きな違いとは思えない、と言えばいいのかもしれません。内包量は、人間によって知覚され、構成され、共有され、利用される。そのことのコトの大きさから思うと、直接的か間接的かはさほど大きな違いではないのではないか、と。

 しかし、銀林先生の論において、この2つの内包量の違いは重要です。というわけで、内包量の二重構造についてさらに考えていきます。

 

 

〔2018年3月22日:記事を整理・修正しました。〕

比例と内包量と圏論 | permalink
  

| 1/2PAGES | >>
サイト内検索