TETRA'S MATH

数学と数学教育

木星の衛星の数はいくつ?

 2010年9月現在、木星の衛星は何個発見されているのだろう?と検索してみたら、ウィキペディアによると、2003年までに63個の衛星(うち1個は不確実)が発見されているのだそうです。63個!? 多いなぁ。

 「木星は月だらけだ」と思った直後、ああそうか、月というのは地球の衛星で、木星の衛星は「月」とは言わないよな……と気づきました。がしかし、moon には衛星という意味があるらしく、地球の衛星としての月をさすときには、the moon と言うようです。ドイツ語だと der Mond になるのかな。英語やドイツ語では、定冠詞をつけて「特定の衛星」を表すのですね。その点日本語は、最初から「衛星」と「月」で分けるわけだ。

 フレーゲの『算術の基礎』は1884年に書かれていますが、この時点では木星の衛星は4個だった(4個発見されていた)ようです。ということについての注意書きが、勁草書房のフレーゲ著作集2『算術の基礎』には次のように書かれてあります。
 

 フレーゲが本書を著した頃には、木星の14個の衛星のうち、最も大きな四つのものが発見されていた。

 つまり、勁草書房のこの本が編集されていた頃(2001年)には、木星の衛星は14個だった(14個発見されていた)ことがわかります。それから2年で、50個近く見つかったのですね。これからもっと見つかるのかもしれないし、見つかったと思ったものが違ったとされるかもしれないし、63個という数値も暫定的なものなんでしょうね。もしかするとある日突然0個ということになっちゃったりして!?

 また、金子洋之さんは、『ダメットにたどりつくまで』でフレーゲがいうところの「概念Fに帰属する数」を説明するにあたり、

概念「太陽系の惑星」に帰属する数は9

という例を出されています。「あれ?」と思って調べてみたところ、惑星の定義によって冥王星が太陽系の惑星からはずれ、太陽系の惑星が8個になったのは2006年頃のようです。『ダメットにたどりつくまで』は2006年の4月に刊行されていますから、ぎりぎりまだ9個だったのでしょう。

 で、フレーゲをはなれてつらつら考えたこと。

 実在論者が「草原、草原にいる蛙、それらを照らす太陽は、私がそれらを眺めていようといまいと、同じようにそこにある」と考えるとき、彼は一度は草原や蛙や太陽がいるその場に居合わせたことがあるのでしょうか。そして、そこから私が立ち去ったとしても、草原も蛙も太陽も在り続けると考えるのでしょうか。それとも、私がそこに立ち会ったことが一度もないとしても、在るものは在るのだ、ということなのでしょうか。そういうふうに考えていくと、“いようといまいと”という一言がついているのは、反実在論者に向けての言明のような気もしてきます。もしかして、実在論があって反-実在論があるのではなく、反-実在論があって、反-反-実在論、あるいは反-非実在論としての実在論があるのだろうか。実在論者にとって、木星の衛星の数は何個なんだろう? 

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1と2と3にまつわるとりとめのない曖昧な思考

 本日、常体にて。

 ダメットにすぐにもどれるような読み方でフレーゲ『算術の基礎』を読みたいのであれば、ダメットを少しでもいいからのぞいたあとのほうがよかったかな……と、フレーゲを読み始めてから思った。『ダメットにたどりつくまで』で直接引用されている『算術の基礎』の場所の前後だけを読んでもよくわからないし、その少し前、そのまた少し前……ともどってみてもよくわからない。結局、最初から読んだほうがよさそうだということになる。でも、そうなると今度はいろいろと連想が広がって、すぐにダメットにはもどれなくなってしまいそう。

 たとえば思い出すのは、ドゥルーズによるベルクソン『記憶と生』の訳者あとがきの次の部分。
 

翻訳に際して、私が何より心がけたことは、本書をそういう一冊として、多数性に満ちた単一として扱うことだった。

 

 多数性に満ちた単一とはなんだろう。訳者の意図を汲めているかどうかはわからないけれど、読者の一人として思うことは、それは、「1本道につながっているという意味での単一ではなく、点のないネット状になっている単一でもなく、各々がばらばらで独立しており、なおかつ、すべてがつながっている」という、そういう「一」であるのだろうと感じた。そもそもがこれは、ドゥルーズという編纂者がベルクソンの複数の本から文章を選び、77個のテクストを並べて作った1冊の本だ。しかもそのなかから私は、1文だけを抜き出すという作業をしてしまった。いや、「しまった」ということもないのだけれど。1文というのは、句点で区切られているということ。1つの文字、1つの語、1つの文、1つの段落、1つのテクスト、1つの章、1冊の本。多数性に満ちた単一であることの前に、この「一」冊の本にはさまざまな「一」が含まれている。

 そうして思い出すのは、かつて自分で書いた、0と1にまつわるとりとめのない曖昧な思考というエントリのこと。結局、私が「わたし」に興味をもつのは、それはつまり「1」に興味があるということであり、それはすなわち「境い目」に興味があるということなのかもしれない、というところまでは自覚していた。しかしこのたびハっとした。もしかすると私は、「1」を存在者として認めており、そうして数として「1」しか認めてはいないのではなかろうか。そもそもが、「何を考えているのかわからなくて、ちょっと身構えてしまう」くらい、まるでひとつの人格として私は「1」を認めている。これほどのイメージを、2や3や48や135や67981に対して私はもっているだろうか?

 となると、2は、1+1として認める?
 (そうとしてしか認めない?)

 3は、2+1=(1+1)+1として認める?
 (そうとしてしか認めない?)

 結局私は、境目である{ }を1と考えているのではなかろうか? もし、0も考えなくてはならないときは、{●}を1とすることになる。でも、2は{●●}にならず、3も{●●●}にならない。境目をもつものを「1」として認める私にとって、境目が1つである以上、それはどこまでも1なのだ。あるいは、2個性をもつ一、3個性をもつ一なのかもしれない。

 また、数教協のタイルのことも思い出す(>「構造と素子」と、十進法理解のためのタイルの結集)。タイルには、中身の見える ―― それはすなわち自分の中の境目を意識するということ ――「びんづめタイル」と、中身の見えない ―― それはすなわち自分の中の境目を意識しないことにより自分と外部との境目を強調するということ---「かんづめタイル」とがある。十進数で示された「111」という数が百十一を示すとき、並んだ3つの「1」は、同じ「1」でありながら、同じ「1」ではない。ということを、「裏返して境目を消す」という作業と、「相対的な量感」でつかませようというのがタイルによる指導だと思う。いったい「1」はなんなのだ。これほどの思考のきっかけを、私は2や3や48や135や67981から与えられたことがない。

 なんだろう、この微かなショックは。素直に認めたくない気分。

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ダメットによる、フレーゲのプラトニズムの考察

 フレーゲは、「対象は固有名(単称名辞)によって指示されるものだ」と考えました。しかし、文中のある表現が固有名であるか否かをどうやって判定するのかについてはたいしたことを語っていないらしいので、わずかに語られたことを手がかりにがんばったダメットのお仕事をこれからのぞいてみることにします。

 その前に、「固有名」についての確認をば。巻末の「注」によると、フレーゲは現在の意味での固有名と確定記述の双方を含めて「固有名」という語を使っているそうです。

したがって、正確には、それは単称名辞と呼ばれるべきなのだが、ここでは固有名と単称名辞とを交換可能な仕方で併用する。

(p.225)

とのこと。確定記述とはなんぞや?

 検索してみたところ、あるひとつの個別的な対象を特定できる場合、その記述を確定記述というらしいとわかりました。「金子洋之」さんが固有名だとしたら、「『ダメットにたどりつくまで』を書いた人」が確定記述ということか。

 じゃあ、単称名辞ってなんだろう? t単称名辞というのは、確定記述と固有名詞をあわせたものってことかしらん? という理解でいいのだろうか? 不安は多々ありますが、なんとなくイメージはつかめました。

 イメージをつかんだところで、まずは「存在汎化」の話です。

 「存在汎化」というのは、文の中のある語を「あるもの(something)」に置き換えて進むような推論のことらしいです。ダメットは、この存在汎化をもとにして、文の中の語を「あるもの(something)」に置き換えた推論が成り立たないならば固有名ではないし、成り立つときにはその語が固有名である必要条件を満たす、というアイデアを示したようなのです。

 たとえば、Socrates is wise. の Socrates を something に置き換えて Something is wise. としてもその推論は成り立つので、Socrates は固有名としての必要条件を満たすけれど、Nothing is wise. の Nothing を something に置き換えて Something is wise. とすると、この推論は成り立たないので、nothingは固有名ではない、というような話だと私は理解しました。

 ところが、このアイデアではすぐに行き詰まりがきます。たとえば、「ピーターがまだ生きているならば、われわれは救出されるだろう」の中の「ピーター」は私たちの感覚からすれば固有名ですが、「ピーター」を「あるもの」に置き換えて、「あるものがまだ生きているならば、われわれは救出されるだろう」への推論は妥当ではないので、「ピーター」は固有名ではないということになってしまいます。

 また、「あるもの」そのものが固有名ということにもなってしまいます。Something is wise. からSomething is wise.への推論は妥当なので。で、こういうケースを除去するための条件が必要になってくるわけです。

 しかしながら、このようにして基準をいくら精緻化しても、こうした基準によって除去できるのは、‘something’や‘everything’のような実詞句といわれるような表現である。

(p.24)

 「実詞句」の意味がわからなかったので検索したのですが、まったくひっかかってきません。「実詞」だと漢文方面の話になるみたいだし。なんだろう、実詞句って。わからない。

 わかるのは、「存在汎化」でとりのぞける「固有名詞ではない語」って、かなり限られているということ(と思ってしまう私は、別の感覚ですでに固有名を判別しているのだろう)。たとえて言うならば、カボチャとサツマイモと大豆と小豆がたくさん入っている袋の中から小豆だけを取り出すにあたり、まずは大きな目の「ふるい」を使ってカボチャだけをとりのぞく作業をしているような感じがします。時々サツマイモも横向きになってふるいの目にひっかかってしまうし、小さなカボチャはふるいの目から落ちちゃうし(ってどんなたとえだ)。

 さらに(というか、根本的な問題として)、述語を固有名ではないとして除去することができません。「ある警察官が彼を叩いた」と「ある警察官が暴行の罪で彼を告発した」から、「あるものが、彼を叩き、暴行の罪で告発した(彼を叩き、暴行の罪で告発したものがいる)」への推論は正しくないのに、「ヘンリーは警察官である」と「ピーターが警察官ではない」とから「ヘンリーがそうであって、ピーターがそうではないところの何かが存在する」への推論は、(日本語ではかなり不自然だとしても)論理的には妥当ということになってしまうので。

 ……って、その前に質問。1文だけじゃなくて2文を一緒にした推論というのも考えるのですか? というか、それが基本? あ、そうか。「ソクラテスは哲学者である」「ソクラテスは賢い」から、「あるものは哲学者であり、賢い」と推論するわけなのかな。固有名ならば2文だろうが3文だろうか、その推論が成り立つのだ。

 「存在汎化」という言葉とあわせて次のように考えなおしたら、ダメットのアイデアが固有名を区別する基準の最初の一歩として共感できるものに思えてきました。つまり、固有名を表わしているかもしれない同じ語に、AならAという記号をあてて(“記号”という言葉にいまはあまりひっかからないようにしながら・・・このAは、BでもXでも□でもいいのだけれど、とにかく“何ものかである”Aを表わしている。つまりは“あるもの”)、同じある語をAに置き換えた推論が成り立てば、その語がたった1つのある特定のものを指している固有名としての可能性が高くなる。

 たとえば、

 「くぐるくつは魚である」
 「くぐるくつはかわくとひひりひつになる」
 「くぐるくつは古典に出てくる」

の中の「くぐるくつ」を全部「あるものA」に置き換えて、「あるものAは魚であり、かわくとひひりひつになり、古典に出てくる」と推論した場合、その推論は正しくなります。

 とにかく、固有名ではないものを除く方向としてではなく、固有名を見つけようとするポジティブさでもってして「存在汎化」を考えると、上記の「使えないふるい」の印象も消えていきました。

 そうは言ってもやっぱりこのアイデアには困難があります。で、この困難に対処するための基準をダメットは考えたようなのです。

(余談:この本の中での「基準」と「規準」の使い分けがイマイチよくわからない。)

 というわけで、文中のある表現が固有名であるか否かを「存在汎化」によって区別しようとしたけれど、このアイデアは「述語を固有名ではないとして除去することができない」という根本的な困難を抱えていることがわかりました。

 そこでダメットはどうしたかというと、「属性は反対(の属性)をもつが、実体は反対をもたない」というアリストテレスの基準をもちだしたらしいのです。(というくだりを読んだときの私の内なる複数の声→「え、ここでアリストテレスが出てくるの?」「結局、アリストテレスにもどるのね」「やっぱこういうときに頼るべきはアリストテレスだよね」「しっかしアリストテレスって、どこにでもよく出てくるなぁ・・・」)

 属性を述語に、実体を固有名に重ねることによって、この基準は言語的基準としても使える、というわけです。以下は、私の理解による我流の表現です(本の中にG(x)はでてきません)。

 「賢い」という述語をF(x)という関数で表すことにする。
 「賢い」という述語が反対をもつということは、
 「F(x)は成り立たない」もまた同様に述語である。

 そこで、「愚かである」という述語を導入し、
 この述語をG(x)という関数で表すことにする。

 このとき、すべての固有名aについて、
 G(a)と「F(a)は成り立たない」は同じ真理値をもつ、
 と取り決めてやることができる。

  例:ソクラテスは賢い→真
    ソクラテスは賢くない→偽
    ソクラテスは愚かだ→偽

  今度は、固有名aに対して、
  非-aという名前を導入する。
  しかしこの場合は、
  「F(a)が成り立たない」とF(非-a)は同じ真理値をもつ、
  と取り決めてやることはできない。

  例:ソクラテスは賢い→真
    ソクラテスは賢くない→偽
    非-ソクラテスは賢い→?
  
 議論の内容はともかく、「非-ソクラテス」というのが面白いなぁ〜と思いました。

 で、ダメットによるフレーゲのプラトニズム理解の立ち入った考察は、実はここまでになっています。

問題は、こうした規準の設定に見込みがあるかどうか、である。

(p.25)

 その前に、2つの事柄が付け加えられています。まず、これらの規準は、実践的な規準として意図されたものではなく、あくまでも原理的な可能性を探る試みであるということ。それから、フレーゲは(あるいはダメットは)、現実的には、ある表現が固有名であるか否かが言語的規準によってすべて判別されなければならないと考えているわけではない、ということ。

 それはなんとなくわかります。袋の中にカボチャとサツマイモと大豆と小豆が入っていて(またかい?)、この中から大豆(小豆から大豆に変更)だけを取り出したいときに、どういう方法があるのかを考えてみる、というようなことですよね。見た目でも区別できるんだけど、大きさで選別できないかな、水に浮かせるとどうかな、転がしてみるとどうかな……という具合に。そういえば、きのうの例では、ふるいの目に小豆がかからないとヘンな話でした。固有名を通りぬけさせるための網に固有名がひっかかってしまうのだから。で、実はふつうの大豆のほか黒豆も混ざっていて、しかもその中から丹波の黒豆だけを選別したいとなったとき、いったいどんな方法で選別することができるのか。

問題は、境界線上のケースであり、境界線を越えてさらに先のケースである。

(p.26)

 そうですよね。ソクラテスやポチくらいだったら、苦労して考えなくても固有名だと思える。問題は、固有名と認定することが一見すると疑わしいようなケース。それを固有名として認定したいのだ。その方法がほしいわけだ。

 そのようなケースとはなんだ? 数詞だ。

〔2018年4月3日〕
 分けて書いていた記事をひとつにまとめ、整理しました。

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フレーゲのプラトニズム

 以前、フレーゲもちょっとだけのぞいたことがあるぞ……と思い、過去の記事をたぐってみたりしては削除)。で、久しぶりに野矢茂樹『論理学』を開いてみました。なるほどなるほど、わかりやすい。

 しかし、『ダメットにたどりつくまで』のフレーゲはちょっととっつきにくいです(ちなみにここでとりあげられるフレーゲのプラトニズムは『算術の基礎』に限定されたもの)。

 フレーゲは、抽象的対象としての数が「いかにわれわれに与えられるか」という点に関しては、通常のプラトニズムとは一線を画した独特の見解を示していたそうです。どこかどう独特なのかといえば、

プラトニズムが通常は最初から存在論的な見解であるのに対して、フレーゲのそれは、言語的考察、より正確に言えば、彼の論理学体系に関する意味論的な考察からの帰結だからである。

(p.17)

なんだそうです。

 で、フレーゲの言語的考察を理解するにあたり、「対象と概念を明確に区別せよ」という原則について考えなくてはなりません。そのまえに、まず、フレーゲの文脈原理をおさえておかなくてはなりません。

 文脈原理(慣例でこうよぶらしい)というのは、「語の意味を孤立して問うてはならない、語の意味は文という脈絡において問わなくてはならない」という原則のことであり、ある一つの文の中でその語がどういう役割を果たしているかを見ろ、ということです。役割というのは、その語が、それを含む文の真理値を決定するのにどのような貢献をしているかということで、このあたりが例の「文に対する関数論的視点」へとつながっていくのだと思います。

 文脈原理はともかく、さて、「対象と概念を明確に区別せよ」とはどういうことか?と自分で考えてみた場合、これはきっと、「数という抽象的対象は存在している」という主張にいたるためには「数が対象である」ということが言えなくてはならないということなんだろうな、対象であることがイコール存在なのか、対象であることは存在の前提なのか、そこのところがまだよくわからないけれど……と最初は思っていたのです。

 ところが、金子洋之さんは、フレーゲを紹介するにあたり、

数や概念、値-域(value-range)、さらには(SinnとBedeutungの区別の導入以降は)意義や思想といった、非現実的対象(non-actual object)あるいは抽象的対象と呼ばれるものの存在を一貫して明確に承認している

(p.17)

そうで、のっけから「概念」という言葉が出てきています。そうなると、概念も対象のうちということになってしまわないかい?? これって上記引用部の「概念」と、フレーゲが「対象と概念を明確に区別せよ」というときの「概念」は別物という話なんだろうか、それとも私の理解が間違っているということなんだろうか。

 で、いったんフレーゲをはなれて「ポチは犬である」という文章について対象と概念を考えてみたとき、「ポチ」が対象で「犬である」は概念です、と判断したある人が、それはなぜかときかれて、「ポチ」はポチという対象を指しているし、「犬である」は犬であるという概念を指しているからです、と答えたとすると、この人はすでに「対象」と「概念」を知っているということになります。「対象」と「概念」を知っている人でないと、こういう判断はできない。(ここでいうところの「対象」や「概念」が存在論的カテゴリーなんだと思う。)

 フレーゲはそんなふうには考えませんでした。フレーゲは、対象は何かという問いに対して、「固有名(単称名辞)によって指示されるものだ」という答えを出しました。固有名が何であるかが対象の観念によって特徴づけられるのではなく、対象というカテゴリーが固有名という表現カテゴリーによって特徴づけられるというわけです。あるいは、対象や概念という存在論的カテゴリーは、言語的カテゴリーに随伴する、と。

 なるほど。「存在」につながる話を存在論的カテゴリーから始めるのではなく言語的カテゴリーから始めるのが、フレーゲの特徴なのですね。

 じゃあ、対象や指示といった観念に訴えることなしに、文中のある表現が固有名であるか否かをどうやって判定するのか?

実際のところ、フレーゲ自身はそれについてたいしたことを語っているわけではない。というよりも、そのような判定の可能性をほとんど自明のように考え、せいぜいがいくつかのヒントめいたことを語っているにすぎない。

(p.21)

 えー、そんなのありぃーー!?>フレーゲ

ダメットは、そのわずかに語られたことを手がかりに、与えられた表現が固有名であるかどうかの判別規準を打ち立てるために膨大なページを費やしている。

(p.21)

とのこと。ならばダメットのお仕事をのぞいてみなくては。ところが、なにしろフレーゲもダメットも日本人ではないので、言語的考察の内容を日本語の具体例でダイレクトに感じられずにもどかしいのです。著者の金子さんも、「日本語にうまく対応する表現が見つからないのだが」とか「日本語ではかなり不自然な推論ではあるけれども」といったようなことを書いておられます。

 もどかしいながらも先を読んでいこう。

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数や集合や関数は、どんなふうに「存在」するのか

 草原や蛙や太陽は私と独立に存在していると考えられても、数や集合や関数は私の思考や認識とは独立に存在していると考えられないとしたら、その違いはいったいなんなのだろう?と(自分がそういう立場にたったつもりで)自問してみると、草原は眺められるし蛙はゲコゲコ鳴いているし太陽はまぶしいから存在していると思える、というのがすぐに思いつく答えです。つまり知覚できるかどうか、感覚でとらえられるかどうか。でも、私がそこにいなければ草原は眺められないし蛙の声も聞こえないし太陽のまぶしさも感じない。それなのになぜ、私がそこにいようがいまいが存在すると思えるのか?とさらに自問してみると、知覚できるということは私の外にあるのだから私とは無関係に独立に存在するのだ、という答えがとりあえず出てきます。

 そんな私の答えは答えとして、数学におけるプラトニストたちが、数や集合や関数、構造といったものが(われわれの思考や認識とは独立に)「存在する」と主張するとき、ここで言う「存在する」はどのような意味での「存在」なのか知りたいのです。

 ダメットは、数学におけるプラトニズムがいかに説得力をもちうるかを、物理学な世界における観察とのアナロジーから始めるのがよい、と主張しているんだそうです。なお、最初に書いておくと、ダメットはプラトニストではありません。何しろ反実在論の立場を主張している人なので。そんなダメットがプラトニストであるフレーゲを研究しまくって高く評価しているのはなぜかというと、やっつける相手を出来る限り上等に仕上げたうえで葬りさらないといけないからのようです(こわっ)。でもここはまだ、フレーゲのプラトニズムではなく一般的なプラトニズムの話です。
 
 ダメットは、数学の諸理論が一群の真理を構成するという仮定のもと、こんなようなことを考えたらしいです。数学的真理から何らかの非数学的原理や前数学的原理へとそれ以上遡ることができないとすれば(公理を考えるとわかりやすい)、それらの真理を知るわれわれの能力を、物理的な世界を把握する感覚的な能力になぞらえること以上に自然なことはあるだろうか?と。

 しかし、こうしたアナロジーを認めたからといって、「数学的な存在者に対するわれわれの信念の正当化は、物理学の理論的な存在者に対するわれわれの信念の正当化と同じだ」というゲーデルのアナロジーまでもが成立するわけではない、と話は続きます。なぜなら、物理学と数学とでは、存在者の正当化によって求められているものが根本的に違うから。何が違うかというと、説明能力をもつか否か。たとえば、電子や電磁波が存在するという仮定を拒否すれば、説明されない現象が残されてしまうけれど、古典的連続体や到達不可能順序数にこれと同様の説明能力があるわけではないし、それらの存在を撤回したときに説明不能のまま残される現象があるわけでもない、というわけです。おお、なるほど。

 ダメットは、プラトニズムに対する不信の念が多くはこのゲーデルのアナロジーに由来すると考えているらしいとのこと。しかし、ゲーデルのアナロジーが成立しないからといって、はじめに示したダメットのアナロジーまでもが成り立たなくなるというわけではない、か。ふむふむ。

 ほんでもってこのあとは、ヒルベルトの形式主義とプラトニズムを対比させることによって、プラトニズムの魅力的な側面を引き出すというダメットの議論が示されていくのですが、ここは“保留”の私です。そんなに難しい話ではないと思うのだけれど、悲しいかな数学的経験があまりにも乏しすぎて、実感をもって「なるほど〜〜」と納得できなかったのです。

 一応、ざっと書いておくと、形式主義は、形式体系(数学の公理系)に対して通常の古典的な解釈(モデル)を受け入れるけれども、唯一の意図された解釈・モデルというものは認めず、理論のどの解釈やモデルも同等だとする。しかし、ダメットは、様々な数学理論の中で数論と解析学と集合論だけは特別だと主張し、なぜ特別あるいは基礎的であるかといえば、これらの理論がドメイン(各理論がその中で展開される場)形成の役割 ―― 数論は可付番ドメイン、解析学は非可算ドメイン、集合論はさらに高階の無限に関して同様の役割 ―― を果たしているからだとしています。つまり、これらの理論は他の数学理論の土台を与えており、このような数学を貫いて応用される総体、あるいは総体を得るための手続きの存在をモデル相対的な形式主義は保証できない、という話です。そうかもしれないとも思うんだけど、うーん、と
りあえず保留。

 以上は、プラトニズムの一般的な立場とそれについてのダメットの理解(のおおまかな見取図)ですが、さてフレーゲのプラトニズムはというと、上記ような一般的なプラトニズムとは随分と違っているようなのです。

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私のなかの実在論と反実在論のねじれ

 金子洋之『ダメットにたどりつくまで』を第二章から読み始めていましたが、ここでいったん、序章、第一章にもどりたいと思います。

 序章は、フレーゲの次の言葉から始まります。

「草原、草原にいる蛙、それらを照らす太陽は、私がそれらを眺めていようといまいと、同じようにそこにある。」

(p.1)

 もしこのような発言によって実在論(少なくとも外的世界についての実在論)が要約され、反実在論が実在論を否定する立場だとすれば、反実在論はこの発言を否定するような立場だということになります。しかし、反実在論がそのように捉えられるとき、それはせいぜい旧来の観念論か、もしくは懐疑論の一種だということになりはしないか……と話は始まるのでした。

 ダメットは、すでに書いたように、「観念論に陥るのでもなければ懐疑論に陥るのでもない反実在論の立場がある」ということを長年にわたって主張してきた人で、さらに、いくつかのケースでは実在論よりも反実在論の方がより整合的な立場であり、われわれはそちらを採用すべきだ、とさえ論じてきたそうです。観念論や懐疑論ではない以上、この立場においては、蛙や草原の存在が否定されたり、疑われたりするわけではないし、われわれが見ていないときには、それらが存在しなくなると主張されるわけでもない。また、反実在論の立場に立つことによって、われわれのこれまでの実践や世界の見方が完全に覆されるというのでもない。

 おお。そんな反実在論の立場があるのであれば、是非きいてみたいです。

 この本を手にする前に私がぼんやりと考えていたことは、果たして自分は、実在論者と反実在論者のどちらに近いのだろう?ということでした。特に、算数・数学教育について考えるときの立場として。ということを考えるときに、実在論とは何か、実在とは何かについて、なかなか整理できないねじれのようなものが自分の中にあることを感じます。

 たとえばプラトニズムという言葉。プラトニズムは、数や集合や関数、あるいは「正義」といった抽象的な概念や、「阪神タイガース」のような名前で表わされるチームや組織のようなもの、そういった具体的な事物とは異なるものを独立の存在者として認めるような立場だそうですが、草原や蛙や太陽の存在と、数や集合や関数の存在との間には、すでにここで大きな隔たりがあるように感じられるのです。草原や蛙や太陽は私と独立に存在しているけれど、数や集合や関数は私と独立には存在していないとする、そういう立場だってありそうなもの。

 ウィキペディアで「実在論」をひくと、「対応するものが概念や観念の場合は観念実在論になり、物質や外界や客観の場合は、素朴実在論や科学的実在論になる。」と書かれていますが、実在論に観念の文字がくっつくと、ややこしいことこの上ありません。

 ちなみに『ダメットにたどりつくまで』の巻末で、実在論に対立する立場が観念論ではなく、「反実在論」となっている理由についての注釈がついています。「観念論は反実在論の一種だが、反実在論イコール観念論というわけではないと考えておこう」とも書いてあります。一方、ウィキペディアで「観念論」をみてみると、対比する思想として「唯物論」があげられており、「唯物論」の対語は「唯心論」になっていて、そんなふうに調べていくと対比する相手がどんどんずれていくのでした。そういえば「唯名論」はどうなるんだと思えば、こちらは科学的実在論と対比するものになっています(ウィキペディア)。

 で、もやもやした気持ちのままに、もう一度、自分は実在論者に近いのか、反実在論者に近いのかと考えてみた場合、どちらかというといまのところは反実在論者に近そうだという答えが出ました。でもそれはたぶん、実在論を「ある種の客観主義」のようなものと捉えて拒否反応を起こしているくらいの話だと思います。また、「俯瞰する数学教育に対する違和感」ともつながっているかもしれません。がしかし、そんな私が「実在」から始める遠山啓の量の理論に共感している(夢と希望、勇気、明るさのようなものを感じる)ってそれってどういうことよ?と思うわけです。無限は実在するというときの「実在」と、遠山啓が実在から始めるというときの「実在」は、どう違うのか?(単純に考えると前者は動詞で後者は名詞だけど)

 こういう話になると、きっとメタメタさんが何か書いておられるだろう(というかその記憶がある)のでさがしてみたら見つかったので、リンクさせていただきます。>自然数は発見されたのか発明されたのか

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「構成主義」という言葉の多義性

 そもそも『ダメットにたどりつくまで ―― 反実在論とは何か ―― 』(金子洋之著/勁草書房/2006)を手にすることになったきっかけはなんだったのか記憶をたどってみると、たしか算数・数学教育に関わるあるwebページで、「構成主義」という言葉を目にしたことだったと思います(学習理論としての構成主義ではなく、数学的な構成主義)。そこで使われている構成主義という言葉は、これまで私が認識していた構成主義とはかなり違った使われ方をしていました(公理主義のような意味合いで使われている印象があった)。

 で、私は(数学的)構成主義を勘違いしていたのだろうか?という不安にかられ、まずは構成主義で少し検索をかけ、やがて「直観主義」にからめて検索をかけていきました。というのも、私の中では(数学的)構成主義は直観主義と関わりが深いものだという認識があったからです。

 検索をかけ始めたころの私は、「もっとも一般的な構成主義という言葉の意味」を知りたいと思っていたわけですが、直観主義をからめて検索をするうちに、この機会に構成主義や直観主義のことをもう少し知りたい、と思うようになっていきました。そして、『ダメットにたどりつくまで』にたどりつき、「これだ!」と思って注文するにいたったのでした。なお、ダメットという人名は郡司ぺギオ-幸夫『時間の正体−デジャブ・因果論・量子論』で見かけていました。郡司さんはダメットの論文でマクタガートの議論に初めて触れたそうです。

 さらに、「構成主義」という言葉の意味は、たとえ“数学的”構成主義に限ったとしても、思った以上に文脈に(誰に対して使われているかに)依存するのだと、当の『ダメットにたどりつくまで』を読んで知りました。

 先に書いたように、ブラウワーはびっくりするような発言をしましたが、必ずしも奇矯なものとしてのみ受け取られていたわけではなく、ブラウワーに到るまでに、数学を構成主義的な観点から捉えようとする人々はいたとして、巻末の「注」に具体的な名前があげられています。クロネッカー、ポアンカレ、ボレル、ルベーグなど。

ただし、これらの人々が古典数学の何を非構成的と見ていたかについては相当な違いがあり、一括して構成主義と呼ぶことは、そうした違いを曖昧にしてしまうおそれがある。

(p.226)

 なるほど。

 そういえば、遠山啓『数学は変貌する』をほんのちょろっとだけのぞいたとき、古代・中世・近代・現代という時代に分けて数学を考えた場合、現代の数学は構成的だ(ここではそれを構成的とよぼう)みたいなことが書かれてあったような気がします。

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ブラウワーがいうところの数学の無言語性

 さて、ブラウワーの思想をもう少しのぞいてみます。ブワウワーは「数学はメンタルな行為で、主体とわかちがたく結びついており、本質的に言語とは関係ない」と主張したようなのですが、だとしたら、「じゃあ、どうやって他人と共有するのよ?」という素朴な疑問がわいてきます。ちなみにブラウワーは、「厳密に言って、直観的数学の構成それ自体は、行為であって、科学ではない」とまで言っているそうですし、言語によるコミュニケーションの可能性を完全に否定しているように見える主張もしているようです(ただし、金子洋之さんは、ブラウワーは言語的コミュニケーションを完全に否定しているのではなく、言語について2つの根本的に異なる捉え方をもっており、その一方におけるコミュニケーション可能性を否定しているだけなのではないか、という仮説を立てられているようです)。

 しかし、ブラウワーの言い分を詳しくきいていくと、なるほどと思える部分も確かにあります。

 言語というのは社会的な道具であり、つねに一般化・普遍化の方向に向かって作用する。その作用は、体験のコンテントをその体験へ至る個人的背景やプロセスから切り離すことによって初めて成立するような作用にほかならない。個人的な背景やプロセスを引きはがすことなしには、内容の「共有」はあり得ない。

 つまりブラウワーは、内的体験を言語化することによって元の体験がもっていたはずの個人的な特質が失われてしまうことを、極度に懸念していたらしいのです。

 なぜ、そんなに懸念していたのか。

 ブラウワーは、数学をあくまでも行為のシステムとしてとらえようとしていた。もし、構成されたものと構成のプロセスとの分離を認めてしまうならば、プロセス抜きの構成結果や内容がそれ自体として操作可能な対象となる。直観主義数学は、概念的操作や言語的操作のシステムではない。

 なるほど、この段階で、ブラウワーがプラトニズム(実在論)を拒否していることがよくわかります。

 こう解説してもらうとよくわかるのですが、でもブラウワーったら、こんなすごいこと言ってるらしいんですよ。↓

直観主義の第一の活動は、数学を、数学的言語から、特に理論的論理学によって記述される言語現象から切り離し、直観主義数学が、時間の動きの知覚にその起源をもつような、心の本質的に無言語的な活動であることを認識する。すなわち、[ここでいう時間の動きの知覚とは、] 生の瞬間を、二つの異なるものへと切り離すことである。その際、二つの異なるものの一方は他方によって退けられるが、なお記憶によって保持されている。こうして生まれる二−一性(the two-ity,the two-oneness)が、あらゆる質を剥奪されるならば、あらゆる二−一性の共通な基体の空虚な形式が残される。この共通の基体、この空虚な形式こそが、数学の基本直観にほかならない。

 (p.44/引用部分)

 この引用部分の直後に金子洋之さんが

 突然このようなことを言われても、という感がないわけではないが、

と説明を続けておられていて、「くすっ」となると同時にほっとしました。

 ちなみに、ブラウワーの直観主義の「直観」はどこからきているかというと、カントです。数学は行為だとはいってもメンタルな行為なのだから、行為の可能性を保証するものとしての空間は必要ない、必要なのは時間だけだと考えて、そのための保証をカントの時間の直観に求めたというわけです。なるほど、心的構成プロセスには時間が必要だろうて。

 なお、ブラウワーが数学の無言語性を強調する背景、そのもうひとつの可能性について、巻末の「注」で金子洋之さんの補足説明があり、ここも面白かったです。(第二章(8))

 ブラウワーが体験のもつ個人的背景やプロセスが失われることを極度に警戒していたということは、そうした背景やプロセスに何らかの意義を認めていたということになります。その意義とは何なのか?

それを明確な認知的タームで語るのは難しいが、一つの可能な解釈は、その意義が体験内容のおかれるべき文脈ないしパースペクティヴの保存にある、というものである。われわれは、ある一定の前提から推論を開始し、ある定理に到達したところで、その推論を終える。論理的推論はそうしたプロセスを完全に平板化してしまい、なぜ当の前提から始め、当の定理で終了しなければならないかについては何も答えてはくれない。しかし実際にその定理を証明しようとする数学者は、その前提と定理との間に、論理的推論連鎖とは異なる何らかのつながりを見ているのでなければならないはずである。
(p.227)

 そういった、数学的文脈、数学的パースペクティヴの保存をブラウワーは重視していたのであり、言語がそうした文脈性には顧慮することなく体験の内容そのものを文脈から独立させてしまうことに対する警戒だったと見ることもできる、と金子さんは書いておられます。

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ブラウワー/ハイティンク/ダメットの関係

 金子洋之『ダメットにたどりつくまで』をなし崩し的に2章から読む形になっていますが、そのままいきまーす。

 さて、直観主義論理の公理を整えたのがハイティングだったことについては、以前ちょっとだけ勉強しました>。なお、『ダメットにたどりつくまで』では「ハイティンク」というふうにクは濁点なしになっているようなので、これ以降はハイティンクでいこうと思います(でもp56で濁点ついてるの見つけちゃった)。

 以前、直観主義論理をのぞいたときに、私は
構成主義的見方としての直観主義論理を考えると、なんかそれっておかしくない?と言いたくなるときがあるけれど、直観主義論理の公理系をもとに「そういう世界なのだ」と考えれば、それはそれで全然オッケーだという気がしてきます。
と書いています。つまりこの時点では、私は直観主義に対して「なんかそれっておかしくない?」と思っていたらしいのです。

 ところが、今回『ダメットにたどりつくまで』を読み始めてまもないころに感じたことは、「ひょっとしてひょっとしてひょっとしたら、私はブラウワーの数学を(ものすごーく浅いレベルで)地でいってる? いこうとしてる?」ということでした。そう思うことがおこがましいことなのか恥ずかしいことなのか、喜ばしいことなのか不安に思うべきことなのか、それさえ判断がつかないままに。

 ブワウワーは、「思想は、わかちがたく主体に結びつけられている」と主張したり、「数学的構成の内省的性格」という表現を使ったりしているようなのですが、金子洋之さんいわく、ブワウワーいうところの“体験のとらえがたい質”“体験の内省的性格”とは、おそらく、そうした体験へと至る個人的な背景やプロセスのことだと考えられる、とのこと。うーむ、他人事に思えない。
 
 そして、「公理系をもとにそういう世界だと考えればそれはそれで全然オッケー」と私が思ったのも、ハイティンクが時間をかけて直観主義を近づきやすい形に整えたからこそなのだということがわかってきました。現在では、多くの人が、必ずしもブラウワーには賛成せずに、直観主義を数学の一分野として(古典的な論理や数学とは異なる形式的な体系として)研究対象としているそうです。

 では、ダメットはどういう立場に立っていたのか。

 いきなり2章から読み始めているので、ダメットという人が何を考えている人なのかすっとばした形になってしまいましたので、一応ひとことで紹介しておくと、「観念論に陥るのでもなければ懐疑論に陥るのでもない反実在論の立場がありうるということを長年にわたって主張してきた人」らしいのです(序論より)。おお、なんて面白そうな話なんだ。なお、ダメットの反実在論は数学の哲学のみに関わるような立場ではなく、言語活動全般を対象としたものなんだそうです。そんなダメットを理解するには、フレーゲと直観主義をおさえるのがミソらしいのですが、1章のフレーゲはあとでのぞくことにして、まずは直観主義から始めています。

 で、ダメットはどういう立場に立っていたのか。

 ブラウワーの思想は観念論的すぎてそのままでは受け入れられない。一方、ハイティンクは直観主義を形式化して理解しやすい形に整えた反面、ブワウワーの直観主義がもっていた、数学や論理の改訂という方向をしりぞかせてしまった。だから、ダメットは、主観的観念論に陥らないという意味ではハイティンクに近く、数学や論理の改訂の方向をもっているという意味ではブラウワーに近い立場にたっていた。つまり、古典的な論理学や数学を批判し、それに取って代わる新たな論理学や数学の構成を目指すという直観主義の基本的な方向性は維持しながら、それを支える哲学を根本的に構築し直すという作業に従事しなければならなかった、というわけらしいのです。ほう。
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数学はメンタルな「行為」だと主張した人/ブラウワー

 先日帰省したときに、旅のおともの1冊として、『ダメットにたどりつくまで ―― 反実在論とは何か ――』(金子洋之著/勁草書房/2006)を持って行きました。実際には、帰省しているあいだは序論と第1章、第2章をざっとながめただけでほとんど読めなかったのですが、ざっとながめただけでも、なんというのか、スリリングな予感がしました。

 まず驚いたのは、「ブラウワーって人はそんなこと考えていたの!?」ということ(第2章)。ブラウワーについてはこのブログでもちょっと触れていますが()、私はこれまでブラウワーのことを、「排中律を拒否した人」くらいに認識していました。もちろん、「存在することは構成されること」という構成主義的立場も一応頭に入れていましたが、実はもっと過激な(!?)ことを考えていたのだと、このたび初めて知りました。

 その直観主義数学の基本的な見解とは、次のようなものだそうです。

(1) 数学は本質的に言語とは無関係な活動である。
(2) 数学は心的構成活動以外の何ものでもない。
(3) 数学は時間の直観を前提にしなくてはならない。
(4) 数学的構成は論理に先行する。

 あらまーー

 ブラウワーは、数学は数学者が行う心的な構成活動であり、したがって、その活動によって構成される数や関数や集合は、心的構成(mental construction)にほかならないと考えたのだそうです。しかし、デデキント、ラッセルのような論理主義的傾向をもつ人々や、ヒルベルトのような形式主義者たちは、心的構成を記述するための不完全な道具でしかない言語を、まるでそれ自体が数学の対象であるかのように考え、数学の内に取り込んでしまっているうえ、彼らはそのような言語的な対応物にしか成り立たない原理---論理学の原理---を、あたかも数学の原理であるかのように使用して理論を作り上げている、そんなものは数学としては認められない、ということらしいのです。・・・※

 なお、ブラウワーが(上記※のような批判の形で)直観主義的な考え方を初めて明らかにしたのは、1907年の博士論文においてだったそうですが、これはヒルベルトの例の有名な講演(1900年)の7年後であり、ラッセルのパラドクス(19041902年?)の発見の35年後?ですね。そのくらいの時期だったのは昔何かの本で読んだ記憶がありますが、よくよく考えてみれば26歳くらいのときなんですねぇ。なんかすごいなぁ。

 さらに私が面白いと思ったのは、ブラウワーがもっていたある種の“世間の感覚”。どういうことかというと、ブラウワーはいったん直観主義的な考え方を明らかにしたあと、10年間、直観主義にはまったく言及せず、トポロジーに専念して、次元の問題や不動点定理に関して数々の業績を上げ、一流の数学者としての名声を獲得したのだそうです。

自分のそうした業績が、直観主義の市民権確立に与っていることを彼自身ははっきりと自覚していたのである。

 やるなぁブワウワー。業績をあげずして大物数学者たちに異を唱えても、ただのトンデモ扱いされるか、あるいは認知もされないということを、よくわかっていたということですね(と私は捉えました)。なお、最初に示した(1)〜(4)の見解は、10年の中断のあと示されたもののようです。

 つまり、1907年の時点で、古典数学的実践に対する批判という形で直観主義数学のマニフェストを示し、10年の中断ののちに、古典数学にとって代わるべき新たな数学の構成に従事した、ということのようです。なるほど。しかし、実際に直観主義論理がどういう形で“市民権を確立”したのかは、先を読まねばなりません。

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