龍樹の双方向、因果集合の一方向
[2021年2月17日追記]
飲茶さんの本について、けっこうな読み間違いをしていたことに気付きましたので、後日、訂正の文章を書きます。
[2021年2月25日追記]
読み間違いということでもなかったようです。他の本とすりあわせたうえで、補足記事を書きました。
自分自身が要素を実体視したまま龍樹を語っていたこと
以前は、本のなかの図をスキャンしてブログに載せることに抵抗があったのだけれど、最近では、文章の引用と同じように考えることにしている。特に、自分で描き起こすより本にある図をそのまま載せたほうがいいと思われる場合は、そうすることにした。
というわけで、私にとってワクワクする要素と矢印の図を以下に2種類示してみる。(図1、2の番号はこちらでつけたもの)。
図1
『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』より
(飲茶、2016年、河出書房新社、Kidle版 位置No.1525)
図2
『時間の正体 ―― デジャブ・因果論・量子論』より
(郡司ペギオ-幸夫、2008年、講談社、p.57)
図1は「龍樹」について述べられているところに出てくる図で、矢印は双方向になっている。
図2は物理学者マルコポーロさんの時間の意味論を郡司さんが解説するなかで使われた因果集合の例の図で、矢印は一方向になっている。
まずは図1について。これは仏教の「縁起」が関わってくることであり、縁起については今年の4月に関連記事を10記事ほど書いた。「縁起」を「縁りて起こる」という語義通りに捉えれば、矢印は一方向として考えるほうが自然に思えるが、龍樹の矢印は双方向なのだ。
飲茶さんの本では、物事や現象は単独の存在ではなく、たくさんの間接的原因の絡み合いによって起こり、浮かんでは消えていく実体のないものだ、という意味として「縁起」が説明してある。そして、あらゆる現象は相互の関係性によって成り立っており、確固たる実体としてそこに存在しているわけではない「空の哲学」を龍樹は作り出した、と。
この記述の前半は、一方向の矢印として考えることができるというか、むしろそちらほうが自然だと思うのだ。どんなに複雑に絡み合っていても、前後関係ははっきりしていると考えられるから。しかし、後半では「相互の関係性」となっている。
また、話はここにとどまらず、物はたくさんの部品が組み合わさってできたものを「そう呼んでいる」だけのことで「独立した何か」 がそこに存在しているわけではないことや、あらゆる物理現象は「相互作用」だということ、あるものが別のものに一方的に影響を与えるという事象は決して起こりえないということ、「原因と結果」の関係は逆転させて考えることができることなどが示されている。
飲茶さんの本だけを根拠にするのもなんなので、中村元『龍樹』をのぞいていみる。ナーガールジュナ(龍樹)の書いたもので最も有名で最も特徴的な『中論』について、それが主張する縁起は相依性(相互依存)と考えられていると書いてある。しかし、その中身は上記とは雰囲気が違っていて、行為と行為主体とが互いに離れて独立に存在することは不可能であるとか、短があるときに長があるがごとくとか、そういう話になっていく。
とにもかくにも、『中論』のいう縁起は時間的生起関係ではない。
一方、上記図2では、出来事の連鎖を表しているので矢印は一方向だし、どこかで循環することもない。つまり、図2は順序集合として扱うことができる。
結局、郡司さんが Past や Future で示している「変換」というのは、「関手」のことだったのだ(ろう)と、「いまごろかい」と自分にツッコミながらしみじみ感じている。Past や Future は当時もなんとなくわかったのだが、p.61の図3−3の F の意味が何をしているのかよくわからなかった覚えがある。これはつまり、Past や Future ではない関手の作り方の例が示されていたのだ、きっと。たぶんそう書いてあるんだけれど、意味がわからなかった。
図1のほうは、図そのものよりも、なぜ龍樹はこのような考え方をしたのかに興味があるし、図2のほうは、この図そのものから思考を発展させていくことができて楽しい。もっとも、救急車が来る事態になっているのでそのことは楽しくないから、過去には自分で例を作って考えたのだった。
飲茶さんの本について、けっこうな読み間違いをしていたことに気付きましたので、後日、訂正の文章を書きます。
[2021年2月25日追記]
読み間違いということでもなかったようです。他の本とすりあわせたうえで、補足記事を書きました。
自分自身が要素を実体視したまま龍樹を語っていたこと
* * *
以前は、本のなかの図をスキャンしてブログに載せることに抵抗があったのだけれど、最近では、文章の引用と同じように考えることにしている。特に、自分で描き起こすより本にある図をそのまま載せたほうがいいと思われる場合は、そうすることにした。
というわけで、私にとってワクワクする要素と矢印の図を以下に2種類示してみる。(図1、2の番号はこちらでつけたもの)。
図1
『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』より
(飲茶、2016年、河出書房新社、Kidle版 位置No.1525)
図2
『時間の正体 ―― デジャブ・因果論・量子論』より
(郡司ペギオ-幸夫、2008年、講談社、p.57)
図1は「龍樹」について述べられているところに出てくる図で、矢印は双方向になっている。
図2は物理学者マルコポーロさんの時間の意味論を郡司さんが解説するなかで使われた因果集合の例の図で、矢印は一方向になっている。
まずは図1について。これは仏教の「縁起」が関わってくることであり、縁起については今年の4月に関連記事を10記事ほど書いた。「縁起」を「縁りて起こる」という語義通りに捉えれば、矢印は一方向として考えるほうが自然に思えるが、龍樹の矢印は双方向なのだ。
飲茶さんの本では、物事や現象は単独の存在ではなく、たくさんの間接的原因の絡み合いによって起こり、浮かんでは消えていく実体のないものだ、という意味として「縁起」が説明してある。そして、あらゆる現象は相互の関係性によって成り立っており、確固たる実体としてそこに存在しているわけではない「空の哲学」を龍樹は作り出した、と。
この記述の前半は、一方向の矢印として考えることができるというか、むしろそちらほうが自然だと思うのだ。どんなに複雑に絡み合っていても、前後関係ははっきりしていると考えられるから。しかし、後半では「相互の関係性」となっている。
また、話はここにとどまらず、物はたくさんの部品が組み合わさってできたものを「そう呼んでいる」だけのことで「独立した何か」 がそこに存在しているわけではないことや、あらゆる物理現象は「相互作用」だということ、あるものが別のものに一方的に影響を与えるという事象は決して起こりえないということ、「原因と結果」の関係は逆転させて考えることができることなどが示されている。
飲茶さんの本だけを根拠にするのもなんなので、中村元『龍樹』をのぞいていみる。ナーガールジュナ(龍樹)の書いたもので最も有名で最も特徴的な『中論』について、それが主張する縁起は相依性(相互依存)と考えられていると書いてある。しかし、その中身は上記とは雰囲気が違っていて、行為と行為主体とが互いに離れて独立に存在することは不可能であるとか、短があるときに長があるがごとくとか、そういう話になっていく。
とにもかくにも、『中論』のいう縁起は時間的生起関係ではない。
一方、上記図2では、出来事の連鎖を表しているので矢印は一方向だし、どこかで循環することもない。つまり、図2は順序集合として扱うことができる。
結局、郡司さんが Past や Future で示している「変換」というのは、「関手」のことだったのだ(ろう)と、「いまごろかい」と自分にツッコミながらしみじみ感じている。Past や Future は当時もなんとなくわかったのだが、p.61の図3−3の F の意味が何をしているのかよくわからなかった覚えがある。これはつまり、Past や Future ではない関手の作り方の例が示されていたのだ、きっと。たぶんそう書いてあるんだけれど、意味がわからなかった。
図1のほうは、図そのものよりも、なぜ龍樹はこのような考え方をしたのかに興味があるし、図2のほうは、この図そのものから思考を発展させていくことができて楽しい。もっとも、救急車が来る事態になっているのでそのことは楽しくないから、過去には自分で例を作って考えたのだった。