TETRA'S MATH

数学と数学教育

折れ線と曲率

 遠山啓著作集・数学教育論シリーズ7「幾何教育をどうすすめるか」を読んでいます。1950年代後半から1960年代後半にかけての文章です。

 そんなこんなで、遠山啓は、折れ線・方眼による幾何教育を提案しましたが、折れ線というのは「辺と角」の連鎖なので、モノとしては線分で構成された図形になります。しかし、線分で構成されているわけではない図形、すなわち曲線についても折れ線の幾何は関わってきます。

 つまり、折れ線を無限に細かく分けていくと曲線になるというわけです。そのときの辺と角の表に当たるのは曲率を表わす微分方程式だ、と(p.30)。

 曲線の端から動点まで曲線に沿って測った長さをsとし、その点における接線と定直線とのなす角をθとすれば、曲率は dθ/ds、それを s の関数として表わした式は、dθ/ds=f(s)となり、
これは自然方程式とよばれているが,これは,つまり,方向転換の程度が各点で与えられているのである。これがほぼ折れ線の<辺−角>の表に相当する。
(p.30)

とのこと。

 二つの曲線において、dθ/ds=f(s)という微分方程式の形が一致するとき、その二つの曲線は合同になるのであり、これが曲線の合同定理ともいうべきものだということを遠山啓は書いています。

 こういう話になると、おのずと折れ線と円の関係についても考えたくなりますが、実際、「折れ線と円」という項目もあります。

 上記の話を読んだとき、私は、自分の興味がこれまでとは少し違う雰囲気でつながっていくような感覚を味わいました。図形にはもともと興味があったし、それとは別に内包量にも興味があったわけですが、それらがいままでとは少し違うアプローチで出会った感じというか。微分方程式にはこれまでも触れる機会がありましたが、曲率は新しい出会いでした。

 分数の形をしていて、上にも下にもdがあるというおなじみの記法のなかに、θがあるのが私にとっては新鮮でした。

 なお、かつて、「dx」と「dy」と「dx/dy(ライプニッツの記法)」というエントリを書いたことがあります。

 また、微分方程式については、山口昌哉 『数学がわかるということ』・4/微分方程式のことというエントリなどを書いています。

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折れ線と方眼の幾何のどこに遠山啓らしさを感じるか

 前々回のエントリのなかで、折れ線と方眼による幾何は遠山啓らしいと書きました。なぜそう思うのかを、石原さとみさん出演のお酒のCM「主任って…」風にまとめると、次のようになります。

 遠山先生って…量が好きで…正方形状のものが好きで……
 デカルトが好き。

 量が好きなのは「量の理論」でこれまでさんざん見てきたことですが、幾何教育についても、「測度」を取り入れていること、「定木とコンパス」ではなく「物指しと分度器」よる作図を提案していることなどから感じられます。

 また、正方形状のものというのは、ここでは方眼のことですが、もちろんタイルからの発想です。実際、遠山啓は、
方眼の一つ一つは正方形であるから,切り抜くとタイルになることは量との関連を容易にする。したがって,それは数計算の出発点ともなり得る。水道方式とその点では共通の土台の上に立っているといってよい。方眼の幾何は水道方式の双生児のようなものである。
と書いています(p.14)。

 そしてデカルト。遠山啓とデカルトについては、かつて、今後のためのメモ3/遠山啓とデカルトというエントリを書いたことがありました。

 まず、方眼の幾何は座標につながります。そして、分析と総合。折れ線の幾何にも分析と総合の発想が取り入れられています。折れ線を分析すると辺と角の連鎖になり、辺と角の連鎖を総合すると折れ線になるので。

 ここですぐに付け加えなければならないことが2点あります。ひとつは、だからといって遠山啓はデカルト主義者である式の早トチリをするわけにいかないということ。>森毅が語る、遠山啓の思想の構図

 もうひとつは、遠山啓はユークリッド幾何の教育的価値について論じるなかでも分析と総合を出してきていること(p.55)。
ユークリッドの中にあざやかに表現されている思考法もしくは方法とはいったい何であろうか。それは何よりもまず分析と総合だと私は考える。複雑な図形,たとえば,多角形などをしだいに分解して,もっとも単純な三角形を得る。その三角形をさらに分解して点・線・角の要素に到達する。このように複雑なものを単純な要素に分解する手続きが分析(Analysis)なのである。このように最単純な要素にまで分解されたものをふたたびつなぎ合わせること,すなわち,再構成することが総合(Synthesis)である。
 なので、分析と総合という発想は、ユークリッド流を否定してのことではないことがわかります。

 話をデカルトにもどすと、遠山啓は幾何教育について、空間とそのなかにある図形とを区別して教えるべきだと語っており、その話もデカルトにつながっていきます。デカルトははじめから空間そのものから出発した、と。

 さらに、数教協ではおなじみのシェーマという用語についても、デカルトが関係してきます(p.100)。というか、話は地続きなのですが。

幾何学的直観は数学研究ばかりではなく,数学教育においても,きわめて重要な役割を演ずる。そのことは,人間の思考においてなんらかの映像もしくはシェーマが,本質的に重要な役割を担っているからである。そのことをもっとも早くから明言していたのは,おそらくデカルトであっただろう。

 シェーマというのは、直訳すれば「図式」になろうかと思いますが、数教協の方法論のなかでいえば、タイル、水槽、ブラック・ボックスなどがあてはまると私は理解しています。

 なお、遠山啓は、ペリー運動の影響と関係している“直観幾何”は批判しています。ここでいう“直観”というのは“論理抜き”という意味だとして(p.34)。

 遠山啓の幾何教育論を読むときには、「直観」という言葉の捉え方に慎重になったほうがよさそうです。
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なぜ、折れ線の幾何だったのか

 遠山啓著作集・数学教育論シリーズ7「幾何教育をどうすすめるか」を読んでいます。1950年代後半から1960年代後半にかけての文章です。

 折れ線というのは、文字通り「辺―角―辺」でできる折れ線のことで、「長さ―角度―長さ」の三つの量によってつくられる図形です。逆にいえば、折れ線が与えられるとこの三つの量が決まります。1回だけだとV字型になりますが、これを繰り返すことによりN型やW型にもなります。つまり、閉じなくていいのです。

 遠山啓は、ユークリッドの方法の特徴のひとつに「三角形分割」をあげました。それはつまり、三角形を図形の要素とみることであり、三角形という2次元の単体から出発することです。

 そして、三角形の合同条件に登場するのは辺と角で、そこに面積は入っておらず、三角形の中身は考えられていません。また、それぞれの条件により合同が証明されると、残りの辺、角の相等が導き出されます。

 つまり、三角形を三辺と三角の6個の要素からなるものとして取り扱っているわけですが、遠山啓いわく、この6個の要素は互いに独立ではなく、かなり複雑な関数関係によってむすびつけられている、と。なるほど、だからこその正弦定理、余弦定理なのでしょう。

 これに対して、折れ線の幾何は1次元の複体をもとにしており、構成している二辺と一角はおたがいに何の関数関係もなく、三つの量は完全に独立しています。また、物指しと分度器を交互に使っていくと容易にできるので、小学生にも結構できる作図だ、と。

 本に書いてあることをあちこちから拾ってきて自分なりにまとめているのですが、なるほどこうやってみていくと、折れ線の幾何は「測度の不在」「三角形分割」「定木とコンパス」をきれいにクリアするものだったんだなぁと思えてきます。

 なお、角度は内角より外角をとったほうがよいと言っています。人間の歩く道で考えれば、方向転換の角度。3cmと5cmの辺が120度の角度をなしている場合、3cm進んで60度方向転換して5cm進むようなものだと考えればよいのでしょう。なので、折れ線というのは直進と方向転換を交互にくりかえしたものと言えます。

 ということを書いていると、記憶の底からうっすらと「タートル幾何学」という言葉が蘇ってきます。これってなんだったっけ…と検索をしていたら、LOGOという言葉とシーモア・パパートさんという妙に懐かしいお名前に遭遇。懐かしさを感じるだけでどこで出会ったのかよく思い出せず…。数教協とは別の文脈で出会ったのは確かで、少し心心当たりがあることはあるので、今度確認してみようと思います。

 それはそうと、このたび検索して知ったのですが、パパートさんはピアジェと交流があったのですね。前回書いたように、いま読んでいる遠山啓の幾何教育論をまとめた一冊の後半はピアジェの研究の紹介になっているのですが、それらがつながるのかどうかはまったく考察していない状況です。

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遠山啓の幾何教育論をまとめた一冊

 遠山啓著作集の数学教育論シリーズをぱらぱらとめくっていたら、7の「幾何教育をどうすすめるか」の一冊に心がとまりました。はたと気づけばこれまで、遠山啓が幾何教育についてどう語っているのかを、まとまった形で読んだことがありませんでした。

 大きな組み立ては、「幾何教育を改造する視点」「ユークリッド幾何の再検討」「幾何教育の展望」「幼児の空間的表象―ピアジェの研究の紹介」「幼児の自然発生的幾何学―ピアジェの研究の紹介」となっており、1950年代後半から1960年代前半にかけての文章を中心としてまとめられています(一部60年代後半のものを含む)。

 まず面白かったのが、オープニングの「図形教育の新しい視点」のなかに出てくる“生活”の話でした。生活単元学習のなかで強調された“生活”は、生活一般ではなく“消費生活”であり、“生産生活”はそのなかからは脱落していて、生産の脱落した消費生活だけを目安にしていくと、数の知識はたしかに必要だけど(金勘定)、図形の知識はほとんど不要であるといってよく、消費的であった戦後の生活単元学習では図形教育がほとんど無視された…というような内容の話です。

 ちなみに、森毅が語る、「遠山啓」の時代の区分でいえば第一期の終わり頃の文章ということになるので、生活単元学習の話が出てくるのでしょう。遠山啓の生活単元学習批判については次のエントリでざっくりまとめてあります。>遠山啓の生活単元学習批判の概要をもう一度おさらいしておく

 個人的には、数教協っぽい図形の題材として、比較的新しいところで多面体や敷き詰め、少し古いものとしてピックの定理、だいぶ古いものとして折れ線の幾何などが思い出されます。

 もっともこれは、数教協関係者の母の影響や何度か行った全国研究大会の記憶からそう思うので、それぞれの題材が数教協のメインストリームなのか、発表者独自の題材なのかはよくわからないままです。

 母が昔、数教協のレポートは図形分野が面白いと言っていたことがありました。他の分野のように方法論が確立されておらず、個性的で新しい発表に出会える機会が多かったのでしょう。

 著作集にもどると、遠山啓はユークリッド流の幾何教育の問題点をペリー運動をからませながら語ったうえで、その教育的意義についても触れ、ではどうすればいいかということで折れ線や方眼の幾何についての議論を展開し、その他の幾何分野についても具体的に論じていきます。

 なお、ペリー運動については、過去に別の文献をもとにした関連記事を書いています>ペリー、ムーア、クラインの教育改革運動

 遠山啓はユークリッド『原論』の特徴を「測度の不在」「三角形分割」「定木とコンパス」の3つにまとめ、折れ線や方眼の幾何といったものを提案しているのですが、それに対して「遠山啓らしいなぁ」としみじみ感じる私です。

 方眼については個人的にはほとんど印象にないなぁ…と思いつつ気づいたのは、そういえば数学教育協議会のマークは方眼にV字型の図形をあしらったものだということ。マークの由来がサイトのQ&Aにありましたが、詳細なエピソードはわかっていないもよう↓

http://www004.upp.so-net.ne.jp/ozawami/qa/hajimeni.htm#q6

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「遠山啓著作集・数学論1」より、関数の三用法で第1用法が2段階になっていること

 久しぶりの更新です。

 思うところあって、少し前から遠山啓著作集のページをめくっています。実家から引き取ってきたもので、何冊か欠番はあるものの、数学論シリーズ6冊、教育論シリーズ4冊、数学教育論13冊とそれなりにそろった状態で保管していました。

 もうひとつ別の数教協関係のシリーズものもあり、読まないままスペースだけとっていて、どうしたものかと思っていました。もちろん、遠山啓著作集のほうはピンポイントで読んできましたし、しばらく手放す予定はないのですが、それにしても読まない部分のなんと多いこと。

 というわけで、いまさらながら、まずは遠山啓著作集をぱらぱらとめくっています。いま、数学論、教育論とすすんで、数学教育論の途中までざっとめくってみたところです。

 数学論の大きな話の部分はさすがに既視感があり、具体的な数学の話は、何かの機会に必要に応じて読みたいと感じる内容でした。また、教育論のほうは、読む前から予感はしてものの、やはりページをめくってみても読み込みたいという気力がわいてこず…。

 そんななか、ただひとつ目がとまったのが、数学論1「数学の展望台―I中学・高校数学入門」の後半にある「関数の性質」です。初出は1965年の『数学教室』。なぜ目がとまったかというと、「関数の三用法」が出てくるから。いわゆる「度の三用法」や「率の三用法」ではなく、x、y、f で構成されているのがいまさらのように新鮮だったのです。なので、この点について、ブログに書いてみることにしました。

 数教協の量の理論には「度」や「率」というものが出てきます。速さや密度のように、違う種類の量どうしのわり算でつくられる量が「度」。これに対して含有率などのように同種類の量の除法によって得られる量が「率」と呼ばれています。

 そして、度や率の三用法なるものがあり、速度と含有率のそれぞれを示すと、次のようになります。

第1用法:長さ÷時間=速度
第2用法:速度×時間=長さ
第3用法:長さ÷速度=時間

第1用法:含有量÷全体の量=含有率
第2用法:全体の量×含有率=含有量
第3用法:含有量÷含有率=全体の量

 これが関数の三用法になるとどうなるかというと、遠山啓はまず、正比例 y=ax の x、y、a を使って、度の三用法を次のように示します。

第1用法 ――― x,yが既知で,aが未知の場合
第2用法 ――― a,xが既知で,yが未知の場合
第3用法 ――― a,yが既知で,xが未知の場合

 これを一般化して y=f(x)に当てはめると、

第1用法 ――― x と y から f を求める。
第2用法 ――― f と x から y を求める。
第3用法 ――― f と y から x を求める。

となります。いわば「関数の三用法」とでもよばれるものができるわけですが、この分類は関数の指導体系をつくる上でかなり有効であろうと思われる…というようなことを遠山啓は書いています。

 さらに先を読むにつれ、私がなぜこの一節に立ち止まったのか解せました。第4用法という言葉が出てくるから。明確にそう示されているわけではなく、第1用法ではなく第4用法とよんだほうが適切かもしれない、という流れで。

 そして実際、この文章の組み立ては、「関数の三用法」「第1用法」「第2用法」「第3用法」「むずかしい第1用法」「関数の複合過程」となっているのです。「第3用法」では逆関数や代数方程式、運動方程式の話、「むずかしい第1用法」ではラグランジュの補間法、テーラー展開の話などが出てきます。

 注目したいのは「第1用法」のところで示されている次の話です。度や率の三用法では、第1用法は内包量の概念づくりに相当するもので、これをはじめにもってくるのは当然だけれども、関数では第1用法はそれほど簡単ではない、ある意味ではもっともむずかしくて、最後にもってくるようがよいともいえる…という話。

 むずかしい部分は第2用法、第3用法の後にくるので、第4用法というわけです。
第1用法のうちで関数の概念づくりに当たる部分は,f という操作・写像・変換等のコトバで表わされるものが存在することを理解させることに主力がおかれる。
(p.212)

 そしておなじみ、暗箱(black box)が出てきます。

 ブラック・ボックスというのは、f という文字のついた箱状のものに入口と出口がある簡単な装置のことで、図示されたもののほか、実際に箱として作ったリアルな教材もあります。

 私はかつて、数教協の「量の理論」が未完に終わっていることにこだわっていて、特に、小学校の「量」の学習の組み立てと、中学校へつながる比例の導入との間に大きな断絶があるところが気になっていたのですが、上記の記述には、それについて考えるためのひとつのヒントがあるかもしれないと感じました。

 そしてこのことは、銀林先生の『量の世界・構造主義的分析』のなかで、なかなか理解できずにいた二段階の内包量のことにもつながる話だと思います。

 正比例関数を介さず、直接的に構成される内包量

 先の引用部分に「 f という操作・写像・変換等のコトバで表されるもの」が「存在」すること、という文言があります。「量の理論」で出てくるブラック・ボックスという装置は、まさにこの「存在」を具現化し、存在たらしめるものであったのだろうとあらためて感じているのですが、私がひっかかっているのは「内包量」との段差なのでした。

 さらに以上のことは、かつてnoteで書いた以下の話にも関わってきそうです。

 「微分的」とはどういうことか(番外編)/私の問題意識

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