TETRA'S MATH

数学と数学教育

noteで、“「微分的」とはどういうことか”というシリーズのテキストを書いています。

 数学教育ブログの更新がすっかり途絶えてしまっておりますが、本来であればこちらで書けばよさそうな話題をnoteで書いています。もうしばらくしたら、こちらも再開する予定でおります。

 なんでもnoteのコンテンツがサイトに貼り付けられるようになったらしいので、それもやってみたくてこのエントリを書きました〜(^_^; 第1話はこちら(↓)で、ここから順にたどれるようになっています。

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林晋さんの田辺元論文を通して読む、ブラウワーの直観主義数学の本質

林晋さんの

 田辺元の「数理哲学」
 http://www.shayashi.jp/sisou201201a.pdf

から、

 「数理哲学」としての種の論理
 ―田辺哲学テキスト生成研究の試み(一)―
 http://www.shayashi.jp/Tanabe/shyunoronri20101110.pdf

に移っております。いやー、面白いです。林晋さんって、貴重な位置にいる方ですね〜〜(って私が言うのもえらそうですが…)

 後者の論文は、以前にもこのブログでリンクしています。近藤和敬『カヴァイエス研究』を読むにあたり、ブラウワーの自由選列について知りたくなったとき、少しお世話になりました()。

 そのほかブラウワーとの接触といえば、金子洋之著『ダメットにたどりつくまで---反実在論とは何か---』において。

 数学はメンタルな「行為」だと主張した人:ブラウワー
 ブラウワー/ハイティンク/ダメットの関係
 ブラウワーがいうところの数学の無言語性

 直観主義論理については、野矢茂樹『論理学』や山下正男『論理学史』などでも接触がありました。後者はハッセ図で考えたのでした。6年半前だ。

 直観主義論理の公理系
 直観主義論理を表すハッセ図・1

 今回は、田辺元の「数理哲学」を研究する林晋さんの言葉を借りて、ブラウワーがどんなことを考えていたのか、そして歴史的にはどういう流れになっていったのかを大まかに見ていきたいと思います。最初にリンクした2つの論文のうちの、後者の第三章の内容をざっと読んでいく形になります。

***

 19世紀〜20世紀初頭のお話。

 ニュートン、ライプニッツ以来、無限小の矛盾的性格は数学者を悩ませ続けた。この状況の解消を目指し、論理学や集合の概念を用いて極限、実数などの概念を整備することが行われたのが、いわゆる「解析学の算術化」。ところが、算術化に用いられた集合・論理概念が集合論のアンチノミーを導き、却って「数学の危機」を招く。

 その後、数学の基礎について様々な思想が現れ、この困難を取り除こうとした。危機に瀕して現れた数学思想の内で大きな流れを形成したのが、ラッセルの「論理主義」、ヒルベルトの「形式主義」、ブラウワーの「直観主義」。現代の数学は、公式見解ではヒルベルトの形式主義研究の中で作られた「公理的集合論」が支えていることになる。これは論理主義の末裔と考えることもでき、残る直観主義は、現代の数学の基礎については、ほとんど何の貢献をもしていない。

 直観主義数学は、数学史上の奇観ともいうべきもの。20世紀初頭という、数学が哲学から哲学的にも独立する過程の最後に現れ、数学の存在論についての哲学的考察から数学の基礎を改変し、さらには数学的内容(定理、定義など)自体を変えようとした。それは、結局は受け入れられなかったという社会的側面を無視すれば、「正しい理論」だった。

 ブラウワーは、彼の数理哲学的基礎をカントに求め、その哲学的「基本方針」は次のように特徴づけることができた。非ユークリッド幾何学や相対性理論などの登場により、人間が先験的なユークリッド空間直観を持つというカント哲学に基づく数学観が否定された後、残る時間直観のみで数学を再構成すべきである、と。

 ブラウワーにとっては、直観主義数学の本質は、彼が「二一性」とも呼んだカント風の「時間の原直観」なのである。

(tamami注:私もかつて誤解していた…というか理解不足だったのですが、排中律云々は本質的な問題ではないようです)

***

 「二一性」については、上記でもリンクした、ブラウワーがいうところの数学の無言語性で少し書いています。
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田辺哲学がもつ哲学の3つの流れと、外延・内包的な連続体の構成

 林晋さんの

 田辺元の「数理哲学」
 http://www.shayashi.jp/sisou201201a.pdf

を読んでいます。きょうは、4ページめ(p.200)に出てくる、「田辺哲学は哲学の3つの流れをすべて内含している」という話について。その3つとは、大陸哲学、英米哲学、そしてこれらが分断するまえともにルーツとしていたとされる新カント派(と、私は理解しました)。

 林さんいわく、
田辺は、分断していく現代哲学を繋ぎ止めようと孤軍奮闘した世界思想史的に見ても稀有な哲学者なのである。

 大陸哲学と英米哲学(の分断)および「新カント派」については、一応、過去にほんの少しだけ接触があるにはありました。

 前2つについては、クワイン関連の本のさわりを読んでいたとき→「論理実証主義」と「経験主義」と「ウィーン学団」と、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を読んでいたとき→あとで考えたいことの整理(合理主義と経験主義、ハイデッガーとスピノザ)と、近代について考えていたとき→近世哲学の祖としてのデカルト、数学と世界観

 新カント派、ヘルマン・コーエンについては、以前、森村修さんの論文を読んだとき→森村修「多様体と微分法」を読んでいく [3]/コーヘンと田邊元の「内包量」概念

 今回は林さんの言葉を借りながら、ラッセル、コーエン、田辺元の関係性をざっとおさらいしてみます。コーエンが微分哲学を提唱した時期は、数学から無限小が放逐される最終段階の時代であり、コーエンの微分哲学はラッセルから手酷い批判を受けることになりました。そして、コーエンの後継者であるナルトプが無限小を放棄して極限に置き換え、コーエン哲学をラッセルの批判から救い出そうとした。

 田辺元はといえば、ラッセルの数学的正しさを認めながら、それでも哲学者としてはコーエンのほうが深い、という姿勢をとったようです。これはナルトプがとった戦略の踏襲であった、ということも書いてあります。

 この田辺=ナルトプの戦略には重要な前提があったのだそうです。それは、数学と哲学はともに連続体について語りながら、別の真理をもつという二元論。自然科学の成功と哲学の劣勢を意識した新カント派特有の防衛戦略であるとか。

 文化科学を自然科学から区別したハインリッヒ・リッカートの場合は、歴史と自然という対象の違いを強調できたようですが、田辺元の場合、数学も哲学もともに語るのは「連続体」という同じ対象。にもかかわらず矛盾する二重の評価が可能なのは、外延量的連続体から内包量的連続体が区別されるから。

 ラッセルは、デデキント切断の2つの集合の対の左の集合だけを使って1つの実数を定義し、それの集まりとしての連続体を定義したわけで、田辺元の言葉でいえば、これは外延的に連続体を構成した、ということになります。それとは別に、微分が基本概念となる「内包的」な連続体があり、それこそが哲学者が問題とすべき「連続体」だ、と。

 外延的連続体と内包的連続体の区別は、新カント派を特徴づける二元論の表れだそうで、その後、哲学の歴史は、後者を語れぬものとして無視し前者の方向に進む英米系哲学と、後者を生の哲学のほうに伸ばし前者には触れもしないハイデガー的大陸哲学に分離した、ということのようです。

 ところが田辺元は、終生、二元論を捨てず、また、内包的連続体に拘った。

 このあと林さんは、『数理の歴史主義展開』から次の部分を引用しておられます。

「しかしもちろん、内包量が内包量のままで数学の対象にならぬことも、また否定せられない。数学としての困難が、これと外延量との媒介をいかに附けるかという点にあることは明である」

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√2を定義する2つの方法(切断と極限、ブラウワーの自由選出)

 田辺元「数理の歴史主義展開―数学基礎論覚書―」を読もうとしているところですが、まだ2節めを読み始めたばかりなのに、いきなり林晋さんの次の論文にもどっています。(←せっかち)

田辺元の「数理哲学」 http://www.shayashi.jp/sisou201201a.pdf

 この論文の9ページめ(p.205)で示されている「√2の定義」の話を、ちょっとのぞいておきます。林さんは、現代数学で無理数を定義するとき主に2つの方法がとられるとして、√2を例にとり、切断の方法と極限の方法を示しています。

 切断の方法というのは、√2より小さい有理数の集合と、√2より大きい有理数の集合の対とで√2が定義されたとする方法。ただし、この言い回しだと定義文のなかに定義されるべき√2が入ってしまっているので、別の言葉にする必要があるのですが、とにもかくにも連続体を切った切り口により√2を定義する考え方ということになります。

 もう一方の極限の方法というのは、√2を小数展開したときの1.41421を、1、1.4、1.41、1.414、…の数列とみなすことをもとにした定義のしかたで、ブラウワーの連続体論はこの極限の方法をとっているようです。さらに、そこには「自由選出」という特徴がある、と。

 林さんはここで「自由選“出”」という言葉を使われていますが、あとの部分で「自由選出列」という言葉も出てきているので、過去にこのブログで「自由選“列”」と称したものと同じ概念だろうと現段階では理解しています。

 ブラウワーの「自由選列」については、以下のようなエントリを書いています。


ブラウアーの「自由選列」に関する論文3つ
http://math.artet.net/?eid=1421720

ブラウアーの「選列」(1)/自然数で列をつくる
http://math.artet.net/?eid=1421724

ブラウアーの「選列」(2)/spread
http://math.artet.net/?eid=1421725

ブラウアーの「選列」(3)/コイントスと連続性
http://math.artet.net/?eid=1421726


 林晋さんの論文では、このあと田辺元の「変化」(極限より切断のほうが優れていると意見を変えていること)について触れておられ、これはこれで興味深いのですが、ひとまずがーっととばして15ページめ(p.211)に進むと、位相意味論を使えばブラウワーの自由選出列のモデルは簡単に作れる、ということが書かれています。

 位相意味論という用語はあまり耳にしないので、一応検索してみたのですが、どんぴしゃりのものがばんばんひっかかってくるほど一般的な言葉ではないようです。ただし、林さんの論文の上記のページに「トポス」の文字が見られますので、そのあたりに関連した話なんだろうということは、検索結果からも感じられます。

 というか、はやくそこにいきたいわけなのでございます。(←せっかち)

 予感を実感にするために。
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田辺元「数理の歴史主義展開―数学基礎論覚書―」のオープニング

 田辺元「数理の歴史主義展開―数学基礎論覚書―」は、次の1行から始まります。

 今日の数学が一般的にいって、公理主義の立場に立つものなることは改めて言うを俟たないであろう。

田辺元『哲学の根本問題・数理の歴史主義展開』/岩波文庫/p.219/ルビ略)

 最初の一節のタイトルは「1 数学基礎論・公理主義・証明論」。登場人物はカントール、ラッセル、ブラウワー、ヒルベルト、語句としては公理主義、二律背反、無限連続、集合論、論理主義、高次、直観主義、形式主義、証明論、超数学などが出てきます。つまりは、そういう歴史を3ページちょっとでざっと概観したうえで、公理主義が今日一般に数学界を支配するのは当然だろう、ということを述べた内容になっています。

 「後記」の日付は1954年なので、単純に引き算すると、田辺元が69歳くらいのときの文章のようです。実際、「…、今や一生の終に近い老学究の告白述懐として、…」といったことも書かれてあるので、つまりはそういう性質の覚書なのでしょう。

 続く「2 公理主義に対する連続体、切断概念の困難」では、ゲーデルとデテキントの名も出てきますが、ゲーデルはちょろっと出てくるだけなのに対して、やはりデデキントの切断概念は重要だと感じられます。

 ちなみに、文中で出てくる語句に対しては、巻末に、編者の藤田正勝さんによる注解が示されています。たとえば「デデキントの切断」だとこんなふうに…↓

デデキント切断 数学の基礎をなす実数の理論に不備があることに気づいたデデキント(Richard Dedekind, 1831−1916)は、『連続性と無理数』(一八七二年)において「切断」(Schnitt)という概念を導入し、連続を定義するとともに、実数が有理数と無理数からなることを示した。田辺は『岩波哲学辞典』(一九二二年)のために執筆した「切断」という項目のなかでこのデデキントの「切断」の概念について論じている(『田邊元全集』第一五巻四四七頁)。


 そんなこんなで、「うー、やはりここ(デデキントの切断)を理解するところから始めねばならないのか…」と思いつつ読み進めていくことになるのですが、そうこうするうち、デデキントの切断を理解しなくても田辺元の言わんとすることはわかると思えてくるので不思議です。でも、数学の話として読むならば、もちろんのこと、ここ(デデキントの切断)の理解は避けられないのでしょう。

 それにしても、やはりというか、なんというか、言葉遣いが独特でございます。

なぜならば、切断は極限の如く一方的に系列のそれに近迫する固定点ではあり得ない、もし単にかかるものに過ぎないならば、それは決して、それを挟み相対立するところの方向反対なる両系列を、飛躍的に転換媒介することはできぬからである。切断は相対立する反方向的系列を互に喰合わせ、交互否定の極「無」の底に沈めて、翻転的にこれを復活し、相浸透せしむる如き、絶対無の象徴でなければならない。それは決して、単に両系列の間に有として固定せられた同時存在的空間点ではなく、両系列の発展衝迫毎にそれが互に否定、交徹、循環する渦動の中心として、不断に更新せられるところの、無なる生滅転換点ないし振動点であるより外ない。

(p.225)
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田辺元「数理の歴史主義展開」の組み立て

 「(つづく)」と書いておきながら、1ヶ月半もあいてしまいました。前回のエントリを書いた翌々日に頚椎椎間板ヘルニアを発症したりしましたが、なんとか元気で暮らしています。

 で、その後、やっぱり田辺元そのものを読んだほうがいいんじゃないかという気持ちになり、岩波文庫を2冊買いました。『種の論理』と『哲学の根本問題・数理の歴史主義展開』です(藤田正勝編)。とりあえず「数理の歴史主義展開」を読めるところまで読もうかと思っているところです。

 まだ読み始めたばかりなのでなんとも言えませんが、少なくともオープニングから″ひいてしまう”ということはなく、わかるところはスッとわかります。でも、わからないところはサッとわからなくなる。そんな感覚を味わっています。

 ひとまず、組み立てを示しておきます。

1 数学基礎論・公理主義・証明論
2 公理主義に対する連続体、切断概念の困難
3 場所的直観説の不備、時空「世界」の歴史性
4 数学的直観の歴史主義的制約
5 歴史主義と数学の妥当性
6 ヒルベルトの公理主義とカントの批判主義
7 二重背反突破の方法としての歴史主義と、
  公理主義との対決
8 数学の自由主義(集合論)より歴史主義(位相学)への進展
9 連続的見地と交互二重的方法とに由来する
  位相学の歴史主義的構造
10 集合論的位相学と代数学的位相学との媒介統一
11 位相学の行為主義的歴史主義構造
12 位相学と集合論との相補的結合
13 公理主義、プラトン弁証法、及び歴史主義の、
  発展的統一
後記 覚書の由来と要旨

 全部読めるかどうかはわかりませんが、とりあえず手にしていますというご報告まで…
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先に書いておく、遠山啓と田辺元の少しのつながり

 遠山啓関連の本のなかで、田辺元の名前を一度だけ見かけたことがあります。著作集の数学教育論シリーズ5『量とはなにか―機p.37。外延量・内包量という言葉は遠山啓の新造語ではないことを説明するにあたり、田辺元『数理哲学研究』を例にあげているのです。

 遠山啓が1960年頃に数学教育ではじめてこの言葉を使ったとき、やたらに新しい術語をつくるのは不届きだという意味の非難を受けたそうなのですが、その非難は見当ちがいであり、こういうことをいう人こそ自分の不勉強を恥じるべきであると遠山啓は述べています。「それと同時に従来の数学研究で量の研究がいかに等閑に付されていたかの証拠でもある」と。

 しかし、遠山啓は哲学者をひきあいに出したあと、哲学者の説明は厳密でないうらみがあるとして、数学者ワイルの定義を示すのでした。

 とりあえず、遠山啓が田辺元の著作に触れているのを見たのは、私はこの箇所だけなのですが、もしかするとその他の文章でもちょろっと出てきているということはあるかもしれません。

 いずれにせよ、遠山啓が田辺元に(頻繁に名を出すほど)傾倒していたということはなさそうな気がするし、強い影響を受けたということはないような気がしているのですが(←私の勝手な想像)、だとしても私の田辺元に対する興味は、遠山啓に対する興味とつながっているんだろうなぁと予想しています。

 はやい話、「内包量」あるいは「内包」ということについて考えたいのです。

 もう一度、いま私が考えたい2つのことを書き出してみます。

● 積分的であることを拒否し、微分的であることに徹する

● 「時間軸」というものは、決して大域的に鳥瞰することは適わないものである

 この2つのことに対する私のイメージは自分のなかでけっこう強まっているのですが、それをもう少し深く豊かにしたい、他の方と共有できるように表現したいというのが、いまの自分の願いなのでした。

 遠山啓の話をもう少ししておくと、「量圏」のその先と、森ダイヤグラムで書いたように、遠山啓と森毅の微分に対する視点は違っていたようなのです。その視点の違いとは、微分することを商のかたちでおさえるのか、積のかたちでおさえるのかということ。

 具体的にどのような考えに基づいて遠山啓と森毅がそれぞれの主張をしたのかまでは確認できていませんが、もしかすると、上記の「微分的であることに徹する」ということと、「微分することを商のかたちでおさえる」ということは、無関係ではないのかもしれません。

 なお、いま私が考えたいことは、外延量・内包量を初等数学教育に持ち込むことの意味ではなく、それを教育に持ち込んだ遠山啓の功罪について考えることではないことを付記しておきます。

(つづく)
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田辺元が気になっている

 ここのところ、田辺元が気になっています。

(田辺元と書いたほうがいいのか、田邊元と書いたほうがいいのかよくわからないのですが、ひとまず「田辺元」と表記させていただきます)

 その関係で、林晋さんの文章や講演レジュメなどを読む機会が増えているきょうこのごろ。林晋さんのブログから、カテゴリー:田辺元をリンク↓
http://www.shayashi.jp/xoopsMain/html/
modules/wordpress/index.php?cat=2


 1月に出会ったのは、次の文章たちです。最初の論文は、過去に結城浩『数学ガール/ガロア理論』を手にすることになった意外な経緯/滝とリゾルベントでもリンクしています。


■「澤口昭聿・中沢新一の多様体哲学について
      ―田辺哲学テキスト生成研究の試み(二)―」

http://www.shayashi.jp/
tayotaitetugakuhihanCorrected20130204.pdf



■田辺元の「数理哲学」
http://www.shayashi.jp/sisou201201a.pdf


■西田・田辺記念講演会2011
「種の論理再考―数理思想史の観点から」レジュメ

http://www.shayashi.jp/xoopsMain/html/
modules/wordpress/index.php?p=145





 田辺元といえば、以前、森村修さんの次の論文もリンクしました。


■『多様体と微分法―田邊元の「多様体の哲学」(2)
      ―「多様体の哲学」の異端的系譜(2)』森村修

http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/
10114/6372/1/ibunka10_morimura.pdf



 さらに最近、以下の論文タイトルを見つけて気になっています。まだ中身は読むことができていません。


■連続と切断 : 田邊元の後期数理哲学における「ベルクソン主義」について
http://ci.nii.ac.jp/naid/40020172742


「種の論理」におけるメタフィジックス : ドゥルーズ哲学から見た田辺の実践哲学
http://ci.nii.ac.jp/naid/40020172551




 私がもっとも考えたいのは、最初にリンクした論文の次の箇所のことです。
積分的であることを拒否し、微分的であることに徹する
(二六頁)
彼にとって「時間軸」というものは、決して大域的に鳥瞰することは適わないものなのである。
(六三頁)  

 上記リンク先の文章を読んでいると、他のことにも興味が広がっていきます。

(つづく)
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