TETRA'S MATH

数学と数学教育

小数のかけ算の意味指導とは?(細水保宏さん)

 筑波大学附属小学校算数研究部企画・編集の『算数授業研究 VOL.80(かけ算を究める)』(2012年)を読んでいます。



 きょうは細水保宏さんのTOPIC、「小数のかけ算の意味指導で大切にしたいこと」を読んでいきます。筑波大学附属小学校の先生で、現行の学習指導要領解説の作成協力者でもある方です。

 細水さんはまず、小数のかけ算の導入風景を示しておられます。「1mの値段が80円のリボンがあります。このリボンを□m買います。代金はいくらになりますか」という問題で、□の中がどんな数だったらすぐにわかるかを問うと、1mだったらすぐにわかる、2mだったらすぐにわかる…として、子どもたちは「80×2=160」などの立式を引き出すことができる。

 「では、2.5だったら…」と問いかけると、「80×2.5」と簡単に小数のかけ算の立式をし、その答えを求める学習に展開していくことができるが、この展開での子どもたちの立式の根拠は何であろうか、と細水さんは問います。

 「2,3,5mだったらかけ算になる。数値が整数から2.5mという小数になっただけで問題文の意味は変わらないので,80×2.5になる」というふうに形式不易の考え方が基になっている、あるいは(1mの値段)×(買った長さ)=(代金)といった言葉の式を基にしている子どももいるだろう、と。

 そして細水さんはこう続けます。一見スムーズに流れている展開のどこに問題があるのであろうか、と。
 形式不易の考えでも言葉の式でも,整数の世界で成り立つものが小数の世界でも成り立つ保証はない。にもかかわらず,それを使うこと自体が数学的に問題だという意見もある。
 それ以上に,立式の根拠を意識しないで「何となくできるようになっていく」ことこそが問題なのではないだろうか。曖昧なままの理解が,小数のかけ算の応用や,小数のわり算,分数のかけ算,わり算の問題の演算決定する力を弱くしている原因なのである。
(p.46)

 で、このあと「乗法の意味の拡張」として、「幾つ分」や「同数累加」の発想から、「80×2.5は,80を1としたときの2.5倍の大きさを表す」と乗法の意味の拡張を図っていくことが必要になる、ということを書いておられます。

 また、その指導の難しさは現状でも明らかなので、幾つか感じていることを述べてみるとして、整数の乗法の場で、立式の根拠を明らかにする態度を身につけさせておく、「倍」の言葉に抵抗をなくしておく、数直線と関係を表す矢印で視覚的なイメージをつけることを示しておられます。

 ここで細水さんが提示されている図は、もちろん二重数直線です。が、私はいまだに、この図が演算決定のイメージ、後ろ盾になることの意味が理解できません。>二重数直線について思うことのまとめ(2012年夏)・2/教科書にでてくる二重数直線

 細水さんの小数のかけ算の発想はまさに「割合」の発想であり、「倍」の言葉に抵抗をなくしておくという主張と辻褄があっているし、学習指導要領解説の内容とも一致します。>学習指導要領「解説」の中で、割合の三用法はどこに出てくるか。

 問題は、「80を1としたとき」を、「1あたり量」の発想でいくのか、「割合」の発想でいくのかということ。それがどれだけ意識されているか、ということ。

 「1mあたり80円のリボン2.5m分の代金」では、長さと金額という2種類の量を使っており、これが数教協の「1あたり量」の発想です。先日、ご紹介した論文でいえば、「外比」に注目する考え方です。一方、「赤いリボンは80m、青いリボンは赤いリボンの2.5倍の長さです」というふうに、長さだけを使えば、「割合」の世界。先の論文でいえば、「内比」に注目する考え方です(赤と青の違いはありますが)。

 後者は、問題のなかに2.5倍という言葉がすでに入っているので、実際にどのような題材で小数のかけ算の導入がはかれるのか、私にはわかりません。むしろ、「赤いリボンの長さは80cm、青いリボンの長さは200cmです」という設定のなかで、赤いリボンと青いリボンの長さの関係を考えていき、そこで「倍」という言葉を使うほうが自然ともいえます。そうなると、小数については、かけ算よりもわり算を先にやる形になりますね。

 とにもかくにも、整数のときに使えたかけ算が、小数のときにも使える「保証」ってどこにあるのだろう?それは最初からどこかにあるのだろうか?という素朴な疑問が消えない私なのでした。

 で、この文章を読みながら思い出したのは、かつて書いた「形式不易の原理」って、そんなにわるいこと?という記事のことです。遠山啓は、形式不易の原理を算数教育に持ち込むことに対して否定的な意見を述べていましたが、そんな遠山啓は北海道教育大学の宮下英明さんに、「形式不易の原理を実体法則にしている」と批判されたのでした。このあたりについては、「形式化」について興味深い論考が別にあったので、後日、触れたいと思います。

(つづく)
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「乗数が割合でなければならない理由」(池田敏和さん)

 筑波大学附属小学校算数研究部企画・編集の『算数授業研究 VOL.80(かけ算を究める)』(2012年)を読んでいます。



 次は、横浜国立大学の池田敏和さん。学校図書の教科書著者のおひとりですね。池田さんは、小数のかけ算の意味をいかに拡げるかというテーマで2ページ分書かれています。そのなかで、

(1)(量)×(量)による拡張
(2)(量)×(割合)による拡張
(3)(割合)×(割合)による拡張  

という3つの立場の説明をされています。が、全体的に説明不足の感が否めず。紙面不足(文字数不足)からきているのかもしれません。

 (1)は数教協の立場と思われますが、その名は出されていないし、実際に文章を読んでみても、あまり意識されていない様子。ちなみに、「ことばの式」と「数直線図その1」という2つの項目に分けて説明がなされています。

 (2)の立場は、「1量における1つ分の何倍という見方」と「2量の間の比例を前提とした1つ分の何倍(割合)という見方:数直線図その2」という2つの項目に分けて説明してありますが、2つめがよくわからず。

 「1量における1つ分の何倍という見方」のほうは、「白のテープは赤のテープの2.4倍です」というような場面設定で考えていく立場で、ここでは長さという一量だけが取り扱われているので、比例関係を前提とする必要はない、と書いておられます。前回の論文でいえば、「内比」のみを使おうというわけですね。こっちはわかりやすい。

 で、(1)の立場の2番目の項目と、(2)の立場の2番目の項目は、どちらも二重数直線を使って説明してあるのですが、違いといえば(2)の立場では「×2.4」を示す矢印が上下で示されていることです。

 たとえば、「リボンのねだんは、1m当たり80円です。2.4mでは,何円になるか求めましょう」という問題の場合、(量)×(量)の立場でいけば、80×2.4の「2.4」は2.4mそのもののことであり、(量)×(割合)の立場でいけば、80×2.4の「2.4」にmはつかず、これは1と2.4の間にある関係としての数ということになるのかもしれません。

 しかし、私には、後者の「2.4」と「2.4倍」の違いがわかりませんでした。このわからなさは4マス関係表へのわからなさにつながりそうです。もしかすると前者は「1あたり量」を利用するもの、(2)は「倍比例で、たまたま片方が1m」という発想になっているのかしらん。よくわからず。

 ちなみに(3)の立場は、「赤のテープを1.5倍すると白のテープになり,白のテープを2.4倍すると青のテープになる」というような場面設定で考えていくものです。

 この3つの立場を説明したあと、池田さんは、「乗数が割合でなければならない理由」について次のように書いておられます。
 数学的な立場から小数のかけ算をとらえると,(2)は一次元ベクトル空間におけるスカラー倍の考えに関連づけられ,(3)は2項演算の考えに関連づけられる。しかし,(1)の考えは数学の世界では意味をもたない。
 子どもの立場から考えてみても,最終的には,乗数は割合にすべきであると考える。
(p.45)

 池田さんは、小数のかけ算の指導の後に結合法則が導入されて、3項のかけ算が取り扱われるけれど、例えば80×2.4×1.5という式の意味はどのようにすればいいのか、80mのりぼんを2.4m買って、その192円に1.5mをかけると・・というふうに意味がチンプンカンプンになってしまう、と書いておられます。そこで、(2)、(3)のような乗数を割合とした見方が要求されるわけであり、この考えは無理数の情報の素地になる、と。

 そんなこんなで、(量)×(量)を真向から否定しているわけですが、ならばそういうふうに(学校図書だけでも)教科書を作り直せばいいのに…と思ってしまうのでした。そしたら分数のかけ算も、へいにペンキを塗らずにすむでしょうに()。

 池田さんも書いておられるように、現在の教科書では整数の段階で、「いくつ分」という見方に加えて「何倍」という見方も示しています。学習指導要領解説にもそう書いてあります。池田さんは、小数の乗法においては、「いくつ分」と「何倍」のどちらの見方が適用できるかを解釈・選択していく指導も考えられる、ということも書いておられますが、自然数のときには「累加」を前面に出し、小数のときに「倍」を前面に出すと、また違った教科書になるのではないかと想像しています。

 しかし悲しいかな、こういうふうに教科書をかえたとしても、「かけ算の順序問題」は解決するどころか、いっそう固定される可能性もあるかもな、と個人的には感じています。何しろ「倍」の場合、「もとにする大きさの何倍」であり、もとにする大きさを先に書くことは、「1つ分の大きさ」を先に書くことよりも“説得力”がありそうなので。

 それはそうとして、池田さんの文章を読んでいて、(量)×(量)の名残を踏まえつつ、割合の発想をより濃く出すために、二重数直線はもってこいだったのかもしれないなぁ、とあらためて感じました。別に比例をはやくから意識したがゆえのことではなく、いい感じで結果的に間をとりもつのが二重数直線だったということか?(そうなのか?)

 余談ですが、3項のかけ算のくだりを読んでいて、「アクリルたわし圏もどき」のことを思い出しました。これだったら、「内包量×内包量×内包量=内包量」にできるんじゃないかな!?(^_^)←もちろん私の趣味の話であり、これを学校教育に取り入れろということではありません、はい。

(つづく)
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杉山吉茂「かけ算の意味」から、比例について

 筑波大学附属小学校算数研究部企画・編集の『算数授業研究 VOL.80(かけ算を究める)』(2012年)を読んでいます。



 杉山さんは、かけ算の意味について4ページ分の文章を書かれているのですが、そのうち丸々2ページを比例の考察に割かれており、まずは2ページめ(p.5)の最後でこう語っておられます。
 かけ算は,最終的には「比例する2量の一方から他方を知る計算」と見ることができる。もう少し丁寧に言えば「yがxに比例するとき,比例定数kを知って,kとxからyを求める計算がk×xである」と言える。比例であることがわかっていれば,xが自然数であろうが,有理数であろうが,このことは成り立つのであるが,この域にどのようにして達するかが問題である。

 かけ算は、比例する2量の一方から他方を知る計算「である」というわけではなく、「そう見ることができる」というのがミソだろうと思っています。そして実際、算数の教科書は、かけ算を比例につなげることを強く意識して組み立てられています…というか、組み立てられているはずでした。

 遠山啓がいた時代には明確に意識されていたであろう(そして未完成に終わった)比例までのつながりを、現在、どのくらい意識したうえで教科書が作られているのか、私にはよくわかりません。考えているかどうかわからないけど、都合よく“使って”いる。

 たとえば、かけ算の計算を小数に拡張するときに、「針金の長さと重さの関係」などが使えるのも()、この2量に比例関係があればこそであり、大根やにんじんを題材にすることはできません。また、かけ算を分数に拡張するときに“ペンキを塗る”のも同じことです()。

 小学校では、比例の定義を「2つの数量A,Bがあり,一方の数量が2倍,3倍,……と変化するに伴って,他方の数量も2倍,3倍,……と変化するとき,AはBに比例するという」としていますが、これを杉山さんは次のように関数の式を使って確認しています。

  nに対応する値をf(n)とすると、mを自然数として,
     f(mx)=mf(x) …[1]
  この定義に基づくと、
     f(ax+bx)=f[(a+b)x]
           =(a+b)f(x)
           =af(x)+bf(x)
           =f(ax)+f(bx)…[2]

 xを1とすると、[1]から、f(m)=mf(1)
        [2]から、f(a+b)=f(a)+f(b)

 これらのことから、
  f(2)=f(1+1)=f(1)+f(1)=2f(1)
  f(3)=f(1+1+1)=f(1)+f(1)+f(1)=3f(1)

 つまり、自然数のときは、かけ算は同数累加と考えてよい、というわけです。2回たすことを「2倍」、3回たすことを「3倍」ということにし、2倍、3倍、……の値を求めることを「かけ算」といい、×2、×3と表すことにする、と。

 有理数についてもこの式が成り立ち、f(x)のxを1・xと見て、f(x)=f(m/m・x)から式変形をして f(1/m・x)=1/m・f(x) までもっていって、このあと f(n/m・x)=n/m・f(x) を導く式が書いてあります。

 n/m が問題になるのは小数のかけ算の意味を考えるときであり、自然数と自然数の間でも比例になっていることを確かめる必要があるとして、皿にリンゴが5つずつのっている場合、欠けた皿にはふつうリンゴはのっておらず、欠けた部分は比例関係が成り立っていないから、かけ算を使ってリンゴの個数を求めることはできない、という話が示されています。

 途中を省略して先に進むと、比例の定義の式 f(mx)=mf(x)の両辺をmxで割って、

  f(mx)/mx=mf(x)/mx=f(x)/x=f(1)…[3]

が得られ、この比の値は比例定数であるが、左辺を見ると異種の量の割合なので内包量と見られるとして、数教協の話に入っていきます。→数教協の人達は、わり算を(外延量)÷(外延量)で(内包量)を求める計算とし、(内包量)×(外延量)で(外延量)を求める計算をかけ算と考えている(から、自然数でも有理数でも区別することなくかけ算が使えるという)。

 そして杉山さんは、[3]の式の右辺のf(1)は「一当たり量」を示しており、f(x)/x=f(1)から、比例の式 y=f(1)・x が導かれることからも、(一当たり量)×(いくつ分)という式が得られ、内包量と見なくてもすむ、と書いておられます。が、私にはその意味がよくわかりませんでした。f(x)/xというのは、数教協風に言えば、外延量/外延量ではないのでしょうか?

 で、このあと「私は、内包量の考えは,かけ算の前にわり算があるようであり,一皿分を内包量と見ることが不自然な気がする」という例の記述につながるのでした。

 ちなみにその直後で、

同数累加のほうが自然な気がするのと同時に,きめていたことが不都合になったときには,それまでのことも含めて新しい事態に対応することを考えるという経験をすることも大切に思う。

(p.7)

と書いておられます。私もこのことには同意しますし、そう書いてきました。たとえば、累乗の指数の拡張にも、同じことが言えるのではないでしょうか。

 さて、それはそうとして。

 上記の f(1) は何かというと、x=1のときのf(x)の値であり、ここに重きをおくのがまさに「帰一法」と言えます。このことはむしろ、多次元量の拡張された帰一法で考えるとわかりやすくなるかもしれません。

(つづく)
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遠山啓を、だれも乗り越えられていない。

 筑波大学附属小学校算数研究部企画・編集の『算数授業研究 VOL.80(かけ算を究める)』(2012年)を読んでいます。



 TOPICのトップバッターは前早稲田大学教授の杉山吉茂さんです。たぶん私、ナマの杉山さんのお姿を、一度だけ遠くから拝見したことがあります。記憶・記録違いでないのなら、2000年の数教協全国研究大会(東京)において。当時、日本数学教育学会の会長を務められていたはず。いまは名誉会長。

 杉山吉茂さんと、当時、数教協委員長であった野崎先生と、実行委員長の小澤先生の鼎談があったのです。おそらく数教協の大会に日数教の会長が招かれる&参加してもらえるというのは画期的なことだったんでしょう。>「国民」というカテゴリーの相対化

 『算数授業研究 VOL.80(かけ算を究める)』に収められている杉山さんのTOPICの本文タイトルは、「かけ算の意味」となっています。現在の教科書の多くは、同数累加の立場に立ちながら、その姿勢は見せないようにしていること。小数の式をつくるときにも、自然数のときに作られたことばの式に有理数を当てはめるという安易な対応をしていて、意味の拡張などしていないことなどを指摘しています。教師の多くもそれを疑わないですましているようだ、とも。

 その原因は文部科学省にもあるとして、平成10年の学習指導要領解説p.132の記述を引用しています。
「……その際,数量の関係が同じ場所では,整数の場合に成り立つ式の形は,小数の場合にも同じように用いていくという考えにより,小数の場合の式をつくっていく。
 例えば,1メートルの長さが80円の布を2メートル買ったときの代金は,80×2という式で表せる。同じように,この布を2.5メートル買ったときの代金は,80×2.5という式で表せる。」

 これに続いて,「こうしたことから,整数や小数の乗法の意味は,(基準にする大きさ)×(割合)=(割合に当たる大きさ)とまとめることができる。」と書かれているが、整数の場合の式に当てはめて小数のかけ算の式を作っていて、このようなことがわかるだろうか、と杉山さん。

 そして話は平成20年の学習指導要領解説に移ります。算数的活動として「小数についての計算の意味や計算の仕方を,言葉,数,式,図,数直線を用いて考え,説明する活動」をあげ,「120を1と見たとき,2.5に当たる大きさを120×2.5と表す」(p.146)という記述があるけれど、これは、本来、本文に書くべきことであろうと杉山さんは書いています。

 この発想は、既測量を「1」とおくことは困難か?/「倍」としてのかけ算で示した、倍としてのかけ算の発想です。これを本文に書くということは、学習指導要領において、乗法が小数に拡張される際には「倍の概念」を使って乗法を定義しなおすということになろうかと思います。

 前回のエントリで「どっちやねん!?」と書きましたが、実は辻褄があっていて、結局、自然数の段階では「同数累加」で乗法を扱い、小数に拡張されるときには「倍(割合)」の発想で定義しなおしたらどうか、という話だと私は理解しました。ここに「1あたり量」は一切からんでいないのに、「1つ分の数×いくつ分=全体の数」は健在なのです。つまり、数教協の名残が残っている。

 しかも、数教協の方法論に賛同している人が多い中で残っているわけではなく、メインストリームの人たちは賛同していなくて、それなのに残っているのだから、なおさら厄介。

 そして、田中博史さんの「研究発表」のほうの文中に、4マス関係表の発想の源は中世ヨーロッパの「三数法」にあるという話が書いてあって、いろんなことが腑に落ちました。

 かつて、もはや Double Number Line と化した二重数直線に対し、
なんだか、中世ヨーロッパの商人の三数法と同じレベルのものを、日本から輸出しているような気がするのは私だけでしょうか。
と書いたことがありましたが、気がするだけじゃなくて実際にそうなってました。これは二重数直線の話ですが、4マス関係表と根は同じでしょう(ちなみに礒田正美さんの論考中に、比例数直線をデカルトと絡めて論じた部分がありましたが、これについては後日触れる予定でいます)。

 「意味が大切だ!!」と、これでもかこれでもかと声高に叫ぶ一方で、「問題が解ければそれでいいじゃん」という発想の方法論が採用されており、このねじれがさらにめんどくささを生んでいるような気がします。

 数教協の「量の理論」は確かに大きな問題を含んでいたと私も思います。そして、おおもとが未完成のうえで、中途半端に教科書に取り入れられてしまったのでしょう。しかし、時代としても、登場人物としても、団体としても、あのときのようなうねりを起こせる状況には、もはやない。

 結果、遠山啓および数教協批判はできても、それを乗り越えることはまだだれもできていないのだと、しみじみ感じます。もちろん、私自身も。何しろ系統的な学習は、最初からから最後まで筋が通っていないと達成されません。そして結局、「よくないところ」だけが受け継がれてきているのだと思います。

(つづく)
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手島勝朗さん、杉山吉茂さんを手がかりに、「1あたり量」の問題点について再考する。

 筑波大学附属小学校算数研究部企画・編集の『算数授業研究 VOL.80(かけ算を究める)』(2012年)を読んでいます。




 前回書いたように、この冊子には遠山啓の「量の理論」がけっこう出てきていて、なかでも手島勝朗さんのまとめはシンプルで、勉強になりました。

 先に私の言葉で説明を加えておきますと、たとえば4mで9.2gの針金があったとき、1mあたりの重さは 9.2÷4=2.3(g)で、これがいわゆる「1あたり量」になるわけですが、小学校2年生の段階では、わり算を使わずに「1あたり量」をもってこなくてはならないので、「1なんとか」にあたる「容器」を準備しなければなりません。当時でいえばウサギのお面の部品の本体がその一例でした。いまでいえば「お皿」や「ふくろ」がその"容器”にあたるかと思います。

 手島さんはこのことを、次のようにまとめておられます(罫線で囲まれている部分は[ ]でくくりました)。
1あたり量は,例えば,
[3個で60円のみかん,1個のねだんは?]
の単価にしても,
[3時間で120km進むバスの速さは?]
などの時速にしても,そこには,わり算が介在する。1あたり量を理解させるには,わり算の知識を抜きにしては語れない。しかし,この段階の子どもたちは,わり算の知識を学習していない。そこで,水道方式では,自然に,直観的に付随する,1あたり量が認識できる素材を特定してきた。
(p.14〜15)

 そうしてこのあと、ぞう2頭のイラストの下に「(ぞう1頭あたり鼻1本)×2」「(ぞう1頭あたり足4本)×2」という式が示されているのでした。手島さんはこの前の部分で、「1あたり量に関し,水道方式はそれなりの問題点を抱えてきた。それは,[1あたり量そのもののとらえさせ方]である。」と書いておられますが、上記のような"とらえさせ方”のどこがどう問題なのかまでは踏み込んでいません。(ちなみに直接異を唱えているのは、「小数×小数」→「整数×小数」→「小数×整数」という水道方式のカリキュラムに対して)

 また、杉山吉茂さんは、p.7で、  
 私は,内包量の考えは、かけ算の前にわり算があるようであり,一皿分を内包量と見ることが不自然な気がする。 
と書いておられます。

 結局、手島さんも杉山さんも、遠山啓の「1あたり量」を、分離量から導入することが受け入れられない(不自然だと感じる)のだと思います。

 遠山啓の「量の理論」を理解しようとするとき、「内包量」を「実在する量」と認めるかどうかがかなり重要な論点になると私は思っているのですが、そこには「わり算」をどう見るかも関わってくるでしょう()。だから、遠山啓は森毅とさえ意見が分かれたのだろうと私は認識しています()。

 で、わり算というプロセスを念頭におかない「1あたり量」に無理があるとするならば、やはり「倍」でかけ算を導入したほうがいいんじゃない?いう方向に考えは進みます。いいかわるいかはおいといて。つまり、4×6を、「みかんを1人に4個ずつ6人に配ったときのみかんの総数」ではなく、「4個の6倍」と考える。そうすればここに「1あたり量」は絡まない。4個そのものが「1」だから。>既測量を「1」とおくことは困難か?/「倍」としてのかけ算

 なお、手島さんは、遠山啓の「量の理論」を説明するまえに、文部省発行の指導資料(昭和55年)をとりあげています。この資料では、乗法を累加の簡便算として意味づけしようとしているのですが、このような意味づけでは×小数や×分数に対応できないということを説明したうえで、(時代は逆にさかのぼってしまうけれど)昭和26年の学習指導要領で×小数、×分数が中学校にまわったこと、その後、基礎学力の低下ということもあって昭和34年に再び小学校に戻ってきた経緯などについて説明されています。

 というわけで、昭和30年代の算数教育界では、×小数、×分数をどのように取り扱えばよいか大きな話題を呼び、その流れの中で登場してきたのが、水道方式でよく知られる遠山啓氏であった…というふうに「量の理論」に入っていくのでした。すっかり話を逆転させてしまいましたが。

 あれから時は流れ、算数教育界の重要な位置におられる方が「(整数の段階での)1あたり量って不自然」と感じておられるのなら、いっそ乗法を「倍」で定義するところにもどればいいのに、どうしてそうならないんだろう?と首をかしげてしまうのでした。こんなに、なんでもかんでも二重数直線で説明しちゃうんなら、いっそ、倍で定義して、そのまま割合にもっていけばいいのに、と。

 結局そうなってないのは、過去の流れを断ち切る勇気がないだけかもしれないな、と勝手に想像しています。「1つ分の数×いくつ分」に切り替えたときと同じ勇気をもっている人が、教科書業界のまわりにいないだけなのかもしれないな、と。

 ただし、守屋義彦さんは、"倍概念"の考え方については、あまり初期の段階で子どもたちに提示しないほうがよいのではないか、と述べられています(p.40)。その理由としては、同数累加の考え方とのちがいがはっきりせず、倍概念も同数累加で処理してしまう恐れがあり、結果的に小数や分数のかけ算で混乱させてしまうことになりかねない、と。

 乗法・除法を加法・減法と切り離し、最初から加法を絡ませずに乗法を定義する数教協方式でいくか、小数、分数が出てきたときに、あらためて乗法の意味を拡張させるのか、というのが数教協と文部省の対立点であったような記述をされている方もいらっしゃいましたが、対立点はもっと深いところにあったわけで、そこまで踏み込んだ解説はさすがに見つけられませんでした。また、それを求める場面でもないことでしょう。

(つづく)
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筑波大附属小算数研究部『かけ算を究める』の第一印象

 先日、 算数授業研究 VOL.80を購入しました。タイトルは『かけ算を究める』。筑波大学附属小学校算数研究部の企画・編集で、2012年3月1日発行です。あれからもう2年半たっているのですね。

 私の求めるものがあるかどうかわからなかったので購入を迷っていたのですが、「買って損はない」という助言をいただけたので、購入しました。結果的に買って大正解。全体的に興味深く読ませていただきました。ところどころで、「あ〜、そんなこと語ったらTwitterや掲示板でえらいことになるよ〜」と思いながら(^_^)。

 まず驚いたことは、遠山啓および数学教育協議会の「量の理論」の話がけっこう出てくること。まさかこの本で、数教協の方法論がこんなに論じられているとは思ってもいませんでした。ということはやはり、現在の算数教育は1960〜1970年代の数教協抜きでは語れないし、研究されたうえでいまの算数教育がある、ということになるのでしょう。

 それから、ここに文章を寄せられている方々の視点・意識は、私自身が「かけ算の順序問題」について考えるときの視点・意識にけっこう近いということも感じました。ある意味ちょっと安堵しました。

 以前、「ミイラ取りにいきたいわけでもないのにミイラにされてしまいそうなので、かけ算の順序問題のその先にある問題を本気で考えないようにしたい」という内容のことを書いたことがありましたが()、ここでいうミイラとは「系統的学習のしばり」のことです。その後、結局、かけ算の順序問題についてある程度考えることになり、そうなると学習の系統性について考えざるを得ません。具体的には、かけ算の拡張と式の順序はどう関わっていくのかということです。まずは、小数、分数への拡張、そして比例とのつながり。

 で、そのような視点にもとづいた論考も数多く見られ、杉山吉茂さんは比例まで詳しく論じていますし、小数、分数への拡張を中心課題として扱っているものも複数見られます。(なお、杉山さんの“吉”は「土」の下に「口」を書く“つちよし”」ですが、ここでは「吉」と書かせていただきます。)

 全体的に予想していたより共感する部分が多く、問題意識がわりと近いことを感じられたのはいいのですが、一方で、なぜ、あのような検定教科書が生まれ、あのような現場での指導が生じているのか?ということについては疑問がふくらむ一方です。

 ちなみに巷での「かけ算の順序」論争もそれなりに意識されているようで、数箇所でそのことを思わせる言及がありました。提起文の盛山隆雄さんの「裁判にまでなった」という記述にはメタメタさんが突っ込みを入れていますが↓
http://ameblo.jp/metameta7/entry-11180938321.html
編集後記のことも書いておくと、盛山隆雄さんは次のように書いておられます。
かけ算の式の順序は、今最もホットな話題かもしれない。これについては、正木孝昌氏に持論を述べていただいた。
 正木さんの文章のTOPICタイトルは「かけ算の式に順序はあるか」なんですが(本文のタイトルは「かけ算のイメージを育てたい」)、これ、先にお題を与えられてしぶしぶ書いたんでしょうかね? 書きたくて書いた文章には読めないのですが…。もし書かせられたのだとしたら、同情します。

 盛山さんは「現場教師にとって大いに参考になる考え方だと思う」とありますが、参考のしかたにいもいろいろあろうかと思いますので、そこのところ、現場の先生方、よろしくお願いします。
 
 ちなみに21名分の文章が掲載されたこの冊子にひととおり目を通したとき、唯一、読み流していいと思ったのが正木孝昌さんの文章でした。正木さんに対してもメタメタさんが突っ込みを入れています。↓
http://ameblo.jp/metameta7/entry-11184338137.html

 私も入れろといわれれば入れられるものの(たとえ入れても、結局、メタメタさんと同じ視点になるかも)、時間がもったいないので省略させていただきます(と書いておくことで、かけ算の順序固定に強く反対されるみなさまのストレスが減ることを祈っております)。

 なお、正木孝昌さんは、現行の学校図書の教科書の監修者のおひとりです。↓
http://www.gakuto.co.jp/web/h27/junsansu/pdf/
h27junsansu_H3.pdf


 ついでに言うと、この冊子の著者のなかでは、黒澤俊二さん、守屋義彦さん、池田敏和さん、田中博史さん、夏坂哲志さん、山本良和さん、中田寿幸さんも学校図書の教科書の監修者です。その他の執筆者のみなさんも、算数教育において重要な位置、役割を担っている方々ばかり。というか、だからこそ寄稿しているのでしょう。

 なお、前半のTOPICは1人が4ページとなっていますが、後半は1人2ページで、ざっと計算したところ2300字程度のようで、まとめるのが大変だったかもなぁと勝手に想像しながら読みました。もちろん、実のところどうだったのかはわかりません。

(つづく)
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