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数学と数学教育

系統学習のこととあわせて(まとめ)/芦田宏直『努力する人間になってはいけない』第7章(5)

 芦田宏直『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』(ロゼッタストーン/2013年)

   第7章 学校教育の意味とは何か
       ------中曽根臨教審思想から遠く離れて
       (個性・自主性教育はいかに間違ったのか)

 を読んできました。今回で第7章は一区切りです。

 芦田さんは、「誤解を恐れずに言えば」というかっこ書きつきで、学校教育の基本モデルは〈家庭〉だと思えばいい、と書いておられます。どういうことかというと、親は子供を〈子供満足〉のために育てているのではない、ということ。〈親〉は文字通り子供の″生産者”なのだから。

 この〈子供満足〉という表記は、その前にある〈顧客満足〉を受けているのだと思います。この「顧客満足」の反対語が、まさに「教育」である、と。

 「顧客」というマーケティング概念は〈消費者〉という概念が成立して以来のものであり、そもそも〈マーケティング〉という領域そのものが《消費者の時代》の到来と分かちがたく結びついている。《消費者の時代》とは、個人消費が国家の総消費の50、60%を超える時代のこと。1回で億単位のお金が動く大企業の設備投資よりも、デパート、スーパー、コンビ二、行楽地などでの個人消費の方が消費額として上回る時代のこと。

 そして《消費者の時代》というのは、生産が消費の前提ではなく、消費が生産の前提、消費が新たな消費を生み出す時代である。生産の前提となるような〈不足=欠如〉は、高度な消費大国では存在していない。

(私はこの部分を読んで、「ほしいものが、ほしいわ。」という1980年代の西武百貨店のコピーのことを思い出しました>http://math.artet.net/?eid=1351575)。

 何重にも記号化され、シンボル化された消費が、人々の消費行動を規定している。〈消費者〉〈顧客〉とはこういった人々のことを言う。なので、〈顧客満足〉とは、〈不足=欠如〉(※本では欠乏とありましたが欠如で統一しました)や〈必要〉を超えた消費者、自立した消費者としての〈顧客〉の"満足”を意味している。

 つまり生産に従属しない主体的な消費者=顧客の″満足”を意味している。

(p.201)

 〈学校教育〉の対象は、すべて〈顧客〉ではないと思う、と芦田さんは語ります。〈学校教育〉の対象は、〈生涯教育〉でいうところのような〈主体〉を持たない。主体を形成するために教育を行うのが〈学校教育〉であって、教育目的の形成は教育する側に委ねられている、と。

 したがって、〈学校教育〉は、学生の〈不足=欠如〉(=主体以前の欠如)に定位した生産型の教育を行う場所であって、〈消費者〉としての″受講生”を想定しているわけではない。社会がどんなに高度化しようと、〈学校〉は非消費的な場所である。

 これまで自分が興味をもってきた教育の問題と、消費社会の問題がこんなふうにつながるとは思っていなかったので、目から鱗でした。特に大学や専門学校といった高等教育の問題を考えるときに、ともすれば学生が〈顧客〉になってしまう、〈顧客〉扱いされるということが起こってくるのでしょう。

 つまり、〈学校教育〉の〈教員〉とは、社会的な〈親〉である、ということ。〈親〉が子供満足のために子供を〈育てる〉のではないようにして、〈教員〉や〈学校〉にとって、子供(児童・生徒・学生)は〈顧客〉なのではない、と。

子供は他動詞として学ぶことの中で、つまり〈対象〉に没入することの中で学ぶことの目的を見出し、〈主体〉を形成していくのである。〈学ぶ主体〉の〈学び〉が先にあるのではないのだ。

(p.212)

 この本を読んでいると、教師って生半可な気持ちでできるもんじゃないなぁ……と思うのと同時に、なんてやりがいのある仕事なんだろう!とも思えてきます。この道に入りかけて結局入らなかった私が言えたことでもありませんが、これから教師になろうとしている若い方々には、是非この本を読んでいただきたいです。

 さらに、芦田さんの提案を真摯に受けとめ、それを実践するのであれば、カリキュラム研究というものがもっともっと必要になってくるよなぁと思いました。そして算数教育の歴史について、もう一度考えなおさなくてはなりません。

 なぜならば、系統的な学習の必要性は、もう50年も前に主張され、1960年代に「教えの系統性」は熱心に研究され、そして実践されてきたので。で、それではうまくいかなかったという歴史的経緯があるわけなので。なぜうまくいかなかったのか。ここで今一度、汐見稔幸さんの指摘を思い起こしてみます。以前は引用しなかった部分もあわせて。>経験主義と系統主義の双方に潜む困難

系統主義とは、子どもの内面(主体)と社会や自然(客体)との間には,自然発生的には埋められない溝や矛盾があり,主体はときには禁欲してまで,その客体固有の論理をそれに固有のしかたで取り入れる(内面化する)必要がある。しかもその客体固有の論理は系統的,論理的に構造化されているので,その構造に沿って教えるのが合理的であるとする考えである。

(『時代は動く!どうする算数・数学教育』国土社/p.70)
 

つまり,外から持ち込む学習材に関するかぎり,「順次性」や「系統性」が保障されれば客体の論理と主体の論理の間に矛盾や溝はさして存在しないで同型性を保ちながら学習は進む,ということを系統主義は前提としたのである。

(同p.71)

 芦田さんの本を読んでいると、「哲学をやってきた人は違うなぁ」なんてことを思うのですが、やはり(ちゃんとした)教育学者も侮れません。

 そしてカリキュラムを考えるうえで、1970年代に(1968年指導要領で)現代化に失敗したという経験もなかったことにはできないわけです。遠山啓は現代化の失敗(その原因は「集合」などをとりいれたためではなく、古い教材の切りすてを行わなかった点にあると分析している)をふまえ、1978年にこんなことを語っています(丸付き数字をかっこ付きかえました)。↓

いま,われわれがとくに力を入れてやらねばならないことはつぎの二つのことである。

(1)-----数学と,その隣接諸科学の全領域を見わたして,教育内容となりえるものを拾いあげて選択の対象にする。
(2)-----上記(1)によって拾いあげられた多種多様の内容からごく少数のものを選びだして,体系化する。

(遠山啓著作集・数学教育論シリーズ5『量とはなにかー機p.281)

 もっともな提案だと思うのですが、いま現在「数学と、その隣接諸科学の全領域」を見わたせる人は、どこにいるのでしょうか。そして、そのなかから何を根拠に、どうやってごく少数のものを選びだせばいいのでしょうか。もし、これ以外の方法があるとしたら、それはどんな方法なのでしょうか。だれがそれをやってくれるのでしょうか。いまの体系は、歴史的な流れをくんで、ちょっとずつ変えているものだと思うから(少なくとも小、中学校については)。いまの体系に大きな問題がないのであれば、あとは「有機化」の問題ですよね。

 前回示したように、芦田さんは、大学の基礎教育は4年次の仕上がり目標から逆算されて作られるべき、ということを書いておられます。ぶつ切りの授業構成ではなくて、だれでも階段をあがっていけるよう、積み上げ型教育をしていくためにはこのような目標と逆算が必要なのだろうと思います。大学の場合、各学部に分かれて入学し、各専攻に分かれて卒業していくのだから、それも可能でしょうし、必要なことでしょう。

 しかし、高校卒業時、あるいは中学卒業時に、進路に関わらずすべての生徒に共通した「目標」とはなんなのか。いま実際に設定されている「目標」は「目標」たりえているのか。それを考えていくと、なかなか難しいものがあるなぁ、という気持ちになってきます。

 さらには、高校や大学を選ぶとき、あるいは学部や専攻を選ぶ段階において、学ぶものの〈主体〉なしということはありえないのではないか、と私は思っています。それとも、進路さえも教師に示してもらうべきなのでしょうか。この大学のこの学部に行きなさい、と。

 なにしろ高校卒業時に〈主体〉を形成できなかった私は、志望校を選ぶのにすごく時間がかかってしまったうえ、大学卒業時にも〈主体〉が形成されておらず、ついに教員の道を選ぶということをしませんでした。(>

 だからいまごろ考えたくてしかたなくて、50歳手前にもなって「主体」ってなんだろう?などとをうだうだ考える毎日を送っているのかもしれません。まったくそんな時間があったら働けよと自分でも思いますが、もうどうにもこうにもダメみたいです。

 以上、芦田宏直『努力する人間になってはいけない』の第7章を読んできました。親子ブログで書いているキャリア教育の諸問題は、第8章に関するエントリはまだ1つですが、生活ブログで第9章についてけっこう書いています。図書館の都合で今回3週間借りられて助かったのですが、あした返却しなくちゃいけないのでいま焦っています〜(今回、経済的都合で購入までいきませんでした…でも、期間がかぎられていると集中していいかも…)。公開したとたんに間違いに気づくこともあるので、できれば本が手元にあるうちに公開しておきたい。

 というわけで、第7章についてはこれで一区切りです。

 あとはトークセッションの感想を書かなくちゃ(^^)
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現在の高等教育の問題点と、初等教育における発表型・討論型の授業について私が思うこと/芦田宏直『努力する人間になってはいけない』第7章(4)

 芦田宏直『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』(ロゼッタストーン/2013年)

   第7章 学校教育の意味とは何か
       ------中曽根臨教審思想から遠く離れて
       (個性・自主性教育はいかに間違ったのか)

を読んでいます。



 前回、大学の大綱化について書きましたが、そのなかで「討論型、体験型授業の流行」の話にちょっと触れました。この部分をもう少し詳しく読んでいきます。

 芦田さんは、コミュニケーション能力、問題発見・解決能力、人間力養成といったことを目標とするハイパー・メリトクラシー教育は、真剣に取り組もうとすればするほど「学際的」になると書いておられます。

 ここでいう各種「○○力」は、インプット型の知識や能力ではなく、アウトプット型の実践的な能力なので、総合的な能力になり、その分「学際的」になる、と。そして、授業形態としては、演習、発表型、調査型、議論・討論型、体験型、ワークショップスタイルになる。

 いまの高等教育の一番の問題は、大学教育も専門学校教育も、積み上げ型のカリキュラムになっていないことであり、大学教育の場合は教養主義的な科目単独主義がそれを阻害し、専門学校の場合は資格主義的な暗記教育、過去問教育がそれを阻害している、と芦田さんは指摘します。

 現在の私立大学カリキュラムは、バイキングレストランみたいなカリキュラムになっているそうです。なんとなくカルチャーセンターを彷彿とさせる話です。「お好きな講座をお選びください」みたいな感じで。そうなるとたしかに生涯学習っぽくなっていきますね。

 そんなこんなで、必修科目であっても積み上がっていかなくて、概論講座のオンパレードになってしまっているという現状があり、百歩譲って「体系的」ではあっても「有機的」ではない。大学進学率が20%程度の時代の大学生なら、概論講座を受講しても、それを滋養として自分の目指すべき専門性に特化していく能力を持っていただろうけれど、ここまで大衆化した大学生では、この種の概論講座は「国語・算数・理科・社会」なみの一般教育にしか見えず、魅力的なものに見えない、と。

 さらに、最近では「リメディアル教育」も盛んになってきて、中学校・高校の復習授業を厚く用意する大学が出てきており、中学校・高校で勉強の苦手だった大学生たちは、ふたたびつまらない授業を受けることになる。リメディアルな「基礎教育」も、それを元にして積み上がる先の科目との連携など何も取れていない。基礎教育は4年次の仕上がり目標から逆算されて作られるべきなのに、4年生の専門ゼミの教授たちは、基礎教育課程にそもそも関心がない。

 結局、専門ゼミ教授たちは「基礎学力の低さ」に苦情は言いますが、基礎教育のあり方に関心はない。もちろんそれを担う気もない。昔は「概論」教授と言えば、その学科を代表する名誉教授級の先生が担っていましたが、いまでは、「『概論』くらいは誰でもやれるからあなたやってよ」みたいな乗りで新人専任教員がやる始末。概論教授ではなくて教授概論になっているわけです。終わり(出口や目標)を知り尽くしているからこそ、始まり(入門)を適切に誘導できるというのが、真正な「概論」教授の意味ですが、その基本をリメディアルな「基礎教育」は覆い隠している。

(p.223)

 で、このあと続く「教員人事が大学のカリキュラム改編を妨げている」という話を割愛して先に進むと、「キャリア教育はなんの役にも立たないのは明白」という話に入っていきます。本来のキャリア論というものは、キャリアカウンセラーと呼ばれる人たちの人生論をきくことではなくて、専門教育をやっている先生が、日々の教えるべき知識や技術の付加価値として伝えていくこと、コアカリキュラムの中でやっていくことだ、と。

 いわゆる″キャリア教育”に力を入れれば入れるほどコアカリキュラム改善が遅れるという悪循環、つまり大学改革の悪循環がいまの若者の就職難の実態です。

(p.225)

 なるほど。

 さらにこの先のp.232で、積み上げ型カリキュラムこそがリメディアル授業なんだということをみんなわかっていない、という指摘もあります。1つの科目、1つのテーマを100単位分かけてじっくり取り組むカリキュラムなのだから、学生が躓くところなどは前もってシミュレーションされて十分な時間数を配置できる。だからこそ誰でも高い階段を登っていくことができる。選択科目主義の方が遥かに放ったらかしの授業だと。

 最近、文科省は「主体的な学び」の必要を盛んに説き始めているけれど、「アホな大学関係者」はそれをハイパー・メリトクラシー能力育成推奨と勘違いして、「ゼミ」とか「発表型」「調査型」授業とか「ワークショップスタイル」の授業を盛んに導入しようとしている。文科省の言いたい、2008年以降の「主体」性とは、教育授業外学習をどう組織するかということ、つまり先生のいないときでも自ら学習しようとする予復習体制をどう形成するかということであって、そのために一番必要なのはシラバス・コマシラバスの充実なのに、

授業計画(シラバス・コマシラバス)の改善を避けて、学生に「主体的に」学ばせても何の意味もないのです。もう少し先生方自身が「主体的」に授業に取り組まないと。

(p.234)

 大学の先生が「主体的」に授業に取り組んでいない(そうしなくてもやっていける)というのはちょっと意外でした。それは不可能かと思っていたのですが…

 さて、そんなこんなで芦田さんの議論は、高等教育の内容を具体的にみていくものになっているので、ここから直接「では初等教育はどうあるべきか?」ということは読み取れないわけですが、発表型や討論・議論型、体験型の授業は、初等教育にとってはわるいことではないと私が思うその理由について、書いてみたいと思います。

 たとえば、娘が小学校2年生のときに見た学校公開中の授業で、三角形って3つの角って書いてあるということに気づいた児童がいたあの場面について(>「こういう授業っていいなぁ!」と思う授業 (3))。確か算数の少人数教室の授業で、先生は娘のクラスの担任の先生だったと記憶しています。正規採用されて1年目の若い教師でしたが、特にこれといって″乱れ”もない普通に成立している整った授業でした。

 その授業では、「3つの直線でかこまれた」図形を三角形といい、「4つの直線でかこまれた」図形を四角形ということに非常に重きをおいており、直線とはなにか、かこまれているとは何か、ということについても丁寧に教えていく内容になっていました。つまり、教育目標が非常にはっきりしている授業だったといえます。

 なおかつ、「角」は3年生の学習なので、カリキュラム上、いまは扱えないわけです。だから教師は、彼の疑問・発見を「ないもの」にするしかなかった。教師はきわめて「正しい授業」をしていたのだと思います。

 しかし私は思いました。こんなとき、彼の発見を面白いと教師は感じてはいけないのか?と。そして、「先生も気づかなかった、それは面白い発見だから、もし調べられたら調べてきて、次のときに発表してくれる?」と教師は言ってはいけないのか、と。

 そのような発言は、ある意味で「調査・発表」を促すものであり、「アウトプット型教育」につながるものと言ってもいいのかもしれません。しかし、アウトプットするにはインプットが必要だと思うのです。どんなものでも。しかも、この「お題」は彼自身が見出したものです。もし彼が「三角形の名称の歴史」を調べてきて、それをみんなの前で発表したとしたら、そこには確かに「インプット」があると思うのです。カリキュラムには予定されていなかったインプット。

 そして、そのきっかけとなったのは授業であり、授業をきちんときいていた彼の疑問・発見です。教師もそこにいた児童も、予定外の「インプット」ができてお得だと私は思うのです。もちろん、調べてきたことの正誤の確認は必要だと思いますが(ググればいいってわけじゃないのだし…って、それ言えば教科書にのっていることはすべて「正しい」のかという問題もありますが)、彼のこのインプットは、まさに文科省が説くところの授業外学習なのではないでしょうか。

 そんなことをしていないで、カリキュラムにのとって、いらぬ疑問や発見はわきにおいといて、教師が粛々と授業をやっていけばいいのでしょうか。

 あるいは、小数のかけ算で、なぜ小数点をずらすことになるのか議論なんかしてないで()、タイルでもなんでも使って「こうなります」と教えていけばいいのでしょうか。

 もし、小学校低学年の児童に主体や自己がないとしたら、「疑問」をもつのはいったいだれなんだろう、という疑問があります。主体なしに学ぶということは可能なのか? こんなところでこんな話を出すのもあれですが、アラン・ジュフロアが松岡正剛にガタリを紹介したときに「この男も主体性が嫌いなんだ」と言ったそうですが、「主体性を嫌う」ことができるその人は主体性から完全に無縁でいられるのか?と私は思ってしまうわけなのです。(なお、この話にはちゃんと続きというかオチがありますので〜>http://math.artet.net/?eid=1421473

 と、ちょっと熱く書いてみましたが、芦田さんがおっしゃるところの「主体性」の意味は、私もわかっているつもりです。要は、学ぶ〈対象〉ではなく〈わたし〉に向かうような、そんな教育になっているということですよね。学ぶということが自己表現になりつつある、と。それは由々しき問題だと私も思います。

 それはそうとして、小学校の教育は一応(かなり)「体系化」されています。しかし、「有機化」はなかなか難しい。

 別に議論型や発表型の授業をしなくてもいいのです。そういうことしなくてもヒマしてる子どもがいない授業はできるわけであり。だけど、してわるいってこともないんじゃないのかな、と思うわけです。問題なのは結局、授業の「型」なのではなくて、「質」なのだから。

 生活ブログで書いたように、「校門と塀で囲まれた場所のなかにいて、なんとなく勉強する仕掛けができている」学校の中にいれば″すべての子ども”が学ぶかというと、そんなことはないだろうと私は思っています()。いや、学んでくれるのならそれがいちばんいいのですが、そうだったら先生方は苦労しませんよね? そういえば俵万智さんがこんな短歌を読んでませんでしたっけ?→「徒労という字を尋ねれば 生徒の徒 苦労の労とわけなく言えり」 (※正確な表現はわからず)

(つづく)
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大学の「大綱化」(1991年)が引き起こしたもの/芦田宏直『努力する人間になってはいけない』第7章(3)

 芦田宏直『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』(ロゼッタストーン/2013年)の

   第7章 学校教育の意味とは何か
       ------中曽根臨教審思想から遠く離れて
       (個性・自主性教育はいかに間違ったのか)

を読んでいます。



 思えば自分自身が大学生だったのはもう30年も前のことであり、ここ10数年は仕事としても保護者としても、小・中学校にしか縁がありません。それ以前は仕事関係で高校生や大学生と触れる機会もあったし、大学関係者の知り合いもいたので、大学の様子をきいたり、シンポジウムやレクチャーにもぐりこんだりすることもありましたが、最近は高校生・大学生と接触することがほとんどなく、特に大学についてはよくわかっていませんでした。

 で、芦田さんのこの本を読んでいると、「最近、大学ってどうなってるの??」という気持ちになってきます。分数ができないとか(←ふるっ)、小・中・高なんとかしてくれとか言っている場合ではなく、高等教育は高等教育の問題を、高等教育の問題として考えていかなくちゃいけないんでしょうか…って言いたくなります(>2002年の指導要領の動きをふりかえる)。でも、きっと考えられているんでしょうね。そして、私に興味・関心がなかったから耳に届かなかったのですね。

 第7章の第3節のタイトルは「〈シラバス〉はなぜ機能しないのか-----大綱化運動の経緯と顛末」となっています。同じ主旨の文章を「芦田の毎日」で読めます。↓
http://www.ashida.info/blog/2011/01/post_401.html

 なお、途中でBizCOLLEGEへのリンクがありますが、このリンク先の"「オンライン自己」という現象”が、第9章と関わってきます。第9章の感想は生活ブログでカテゴリーを作って書いています

 本では「個性主義」という言葉が生まれた背景も書いてあって面白いです(p.213〜214)。芦田さんいわく、もともと〈個性〉教育という言葉(正確には「個性重視の教育」)は、日教組対策を横目で見ながら臨教審第一部会に集まった自由化論者たちと、第三部会の公教育規制派との対立の落としどころ、妥協の産物にすぎない、と。
 
 「個性主義」という言葉は「教育の自由化」と同じ意味を有していたが、「自由化」という言葉が教育現場で逆手にとられて職場規律を乱す行動を認める根拠になる恐れも含めて、「日教組が主張する『教育の自由』と混同されるのをきらったための"窮余の策"」(大森和夫)の言葉だったらしい、と。

 だから90年代以降の学校教育論における「個性」主義は、まともに機能するはずがなかった、と芦田さんは指摘します。そして問題なのは、自由か規制かではなく、(寺脇研が感じ取っていたように)中曽根臨教審の根本思想は学校教育=生涯学習論だというところにある。そのことを、芦田さんのこの著作は、いろんな角度から検証しようとしているのだと私は理解しました。

 で、大学の「大綱化」(1991年)の話が出てくるのですが、私は1987年に大学を卒業しているので、私の卒業後ということになります。芦田さんは、カリキュラムや科目設置の自由化がこの「大綱化」から謳われ、その分、大学は教育内容自体を自ら検証する必要が生じ、それが詳細なシラバスによる授業内容の公開だった、と解説しておられます。

 しかし、このシラバス運動はうまく機能しなかった。それは、80年代後半の中曽根臨教審路線に乗っかった個性教育・自主性教育路線が、大綱化によるカリキュラムの自由化の主旨を選択制強化へとねじ曲げてしまったから。

個性尊重、自主性尊重が、いつのまにか教育内容自体を、学習の対象と言うよりは自己表現の対象にすり替えてしまったのである。

(p.213)

 大綱化(カリキュラムの自由化)は、4年間のカリキュラム全体の目標を明確化し、その人材目標から、各科目編成、科目内容を定めなさいというものだったのに、それがいつのまにか選択制、コース制、専攻制などの「自己表現」カリキュラムに変貌していった、ということのようです。だからシラバスは、科目間連携(縦の専門ヒエラルキー連関、横の科目連携)の教員間検証資料とならずに、もっぱら選択科目登録のための学生サービスに成り下がった、と。

 で、このちょっと先で、「討論型、体験型授業の流行」という話が出てくるのですが、このような授業の形態は、演習、発表型、調査型、議論・討論型、体験型、ワークショップスタイルといったものになり、古典的な講義スタイルで授業をコントロールできない教員には救いの神だった、とも書いてあります(次回、もう少し詳しくみていきます)。

 というのは大学での話でしょうが、私が思うに、小学校の教員にとっては「救いの神」になりえなかったのではないか、と想像しています。小学生たちを相手にアウトプット型能力を養う形の授業を成立させるには、相当な力が先生に求められるのではなかろうか、と。いわゆる総合的な学習をどうもっていくか、ということです。ちなみに指導要領がどうあろうとも、できる先生はもう各教科のなかで総合的な学習をやっていたんじゃないかと思うし、できない先生は指導要領が変わっても急に「総合的な学習」はできないんじゃないかと思うわけであり。少なくとも小・中学校では、「古典的な講義スタイル」のほうがラクなんじゃないでしょうか、どうでしょうか。高校もそうかな?

 ところで私は、大学はともかく、小学校ではそのような授業を推奨したいと思っているのです、やはり。本を読めば読むほど芦田さんに共感するのに、このような学校の実践に感動したり、こういう授業をいいと思う自分は考え方が間違っていたとはどうしても思えないのです。それは高等教育と初等教育の違いでしょうか。いや、そうじゃないはず。芦田さんのおっしゃる「塀で囲まれた場所」での学校教育の意義は、時間を拘束されていることにも意味があると思うわけであり、長い長い時間かけて行われる〈学校教育〉は、まさに小学校から始まっているのだから。

 なお、すでに書きましたが、私は西川純さんが提唱するところの(固有名詞の)『学び合い』の内容はまったく知りません。芦田さんは学び合いという言葉を「まえがきにかえて」で二重かっこつきで出されているほか、第9章の本文(講演を記録したものだからか一重かっこになっている/p.326)でも出されていますが(なぜか講演者が聴衆から学ぶという話になっている、あと〈学び〉という変な自動詞はたぶんリクルートあたりが流行らせたとも書いてある)、芦田さんのいう「学び合い」がどういうものか疑問符が立っています。が、このあたりについては、また別の流れで考察したいと思っています。

 とにもかくにも現在の教育問題を考えるならば、少なくとも1980年代終わり頃から考えなくてはいけなかったのだ、としみじみ感じています。「生涯学習」という視点があると、いろいろなことが考えやすくなります。

(つづく)
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学校教育は校門と塀によってこそ、「ジェネラル」で「リベラル」/芦田宏直『努力する人間になってはいけない』第7章(2)

 芦田宏直『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』(ロゼッタストーン/2013年)

   第7章 学校教育の意味とは何か
       ------中曽根臨教審思想から遠く離れて
       (個性・自主性教育はいかに間違ったのか)

を読んでいます。


 前回、第2節を読んでいるときに青ざめた話を書きました。それは、〈学ぶ主体〉を〈学校教育〉以前に認めないことについてでした。ここでいう〈主体〉とは、いわば〈生涯学習〉でいうところの〈主体〉。学ぶ「意欲」や学びの「個性」が前面化して、何か〈を〉学ぶという対象への集中より、それ以前に存在する抽象的な〈私〉の〈学び〉が存在するような、そんな〈主体〉。

 そんな〈主体〉を学校以前に認めると、
世界は、客観ではなくて、〈私〉の自己表現の手段と見なされる。
(p.206)

 芦田さんは、〈学校教育〉以前の〈学びの主体〉とは、結局のところ、親や地域の(あるいは時代や社会の)影響を色濃く受けた〈主体〉にすぎないと指摘します。そして、〈学校教育〉に「上から」の「権力」が存在するとすれば、それは親や地域の影響という地上性を払拭するためのものだ、と。

 この指摘はショックであると同時に納得でした。もっと言えば感動ですらありました。そして、自分がこれまで忌み嫌ってきたものについて、考えなおさせられる機会となりました。

 私はこれまで「俯瞰する教育」が嫌いでした。それはつねに権威とセットになっているものでした。つまり権威がイヤだったのです。ニセ科学という言葉が苦手なことも、権威が苦手なことに関わっていると思います。権威そのものがイヤなのではなく、「だれかに借りた権威をふるわれること」がイヤだった。さらに、数学や科学が「権威」扱いされることもイヤでした。>数学と権威/数学と自然

 「権威」という言葉と「権力」という言葉は違う言葉ですが、どちらも「相手を服従させる、相手に強制する」という意味を含んでいると私は思います。しかし、学校教育にある「権力」は、「親や地域の影響という地上性を払拭するためのもの」と言われると、うむむと唸らざるを得ません。親や地域の影響は強く根深いものであるでしょう。そうそう簡単に引き剥がせるものではない。それを払拭するためには、なんらかの力(ちから)が必要だというのは、確かにそうだと思えます。

 実は、同じようなことを私も考えてはいたのです。生活ブログのほうで書いています。ちきりんさんのブログの記事に違和感を感じて書いたものです。>中学生や高校生が「市場」から学ぶということについての抵抗感

 しかし、それを〈学校教育〉における「上から」の「権力」に結びつけて考えることはこれまでしていなかった。

 個性・意欲重視の教育は学力格差を広げるということについては、実際にデータから示されているとして、池田寛さんと苅谷剛彦さんたちの「関西調査」の話も出てきます。また、意欲を育てるのは学力であって、学力のないものは意欲もないこと、意欲や姿勢を尊重する「新学力観」型授業は、むしろ、その意欲こそを減退させるということも、この調査から結論づけられているそうです(「学力」というものが存在するかどうかについては、保留にしておきます)。
 結局のところ、中曽根臨教審以後の個性主義教育+意欲主義教育は、〈学校教育〉に《家族》と《地域》を持ち込んだだけのことである。それは〈キャリア教育〉の名の下に、《社会》が〈学校教育〉に入り込みつつあるのと同じ事態だ。
(p.208)

 〈学校教育〉が「家族や地域の影響を払拭する」ことは、社会的な階層流動性の原理であり、つまり〈学校教育〉は家族や地域から相対的に自立していなければならない。この自立性こそ「ジェネラル」エデュケーションや「リベラル」アーツのパワーを形成している、と芦田さんは語ります。ここまでくるともうショックは癒えて、勇気と希望がわいてきます。

 そのようにして学校が家族・地域・時代・社会から相対的に自立していることは、具体的な学校の構造として現れているというわけです。つまり、学校は塀で囲まれていて、立派な正門がある。塀でしっかりと囲まれているからこそ、この中に入ることで子どもたちは家族や地域や時代や社会の影響を受けない環境を具体的に得られる。そうであるならば、学校で行われる教育も「家族・地域・時代・社会」の影響を払拭するものでなければならないでしょう。

 芦田さんは言います。〈学校教育〉が対象とする児童・生徒・学生は、まだ社会人のようには〈目的〉を自立的に持てないが、この「持てない」というのは、何らかの限界や無能力を意味しているわけではない、と。何にでもなれるし、何を目的にすることもできるということが若者(児童・生徒・学生)の、つまり次世代を形成する人材の特質だと。
〈学校教育〉の対象である若者(児童・生徒・学生)は、〈学校教育〉を通じて目標を見出すのであって、そこに〈学びの主体〉は存在しない。〈学びの主体〉を形成するところが〈学校〉であって、〈学校教育〉は〈学校学習〉ではない。
(p.211)

 もう、ぐうの音も出ません。

(つづく)
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〈学ぶ主体〉を〈学校教育〉以前に認めないということ/芦田宏直『努力する人間になってはいけない』第7章(1)

 というわけで、芦田宏直『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』(ロゼッタストーン/2013年)

 第7章 学校教育の意味とは何か
     ------中曽根臨教審思想から遠く離れて
       (個性・自主性教育はいかに間違ったのか)

を読んでいきたいと思います。



 芦田さんの(この本を書かれた時点での)肩書きは、ある大学の副学長であり、専門学校の顧問も務められているようです。また、以前は専門学校の校長先生もなさっていたとか。したがって、芦田さんの教育についての議論は、おもに高等教育についての内容となっています。しかし、芦田さんの議論は初等教育にも大きな影響を与えるものだと感じました。

 第1節は「学生は<顧客>か」という話から始まり、《消費者の時代》とからめた議論になっていて、消費社会にも大変に興味のある私は「わが意を得たり!」と揚々と読み始めたのですが、第2節に進んでしばらくしたころ、青ざめることになるのです。
 その分、〈学校教育〉にはその〈教員〉資格が公共的に条件づけられている。どんな僻地の学校にも大学を卒業して教員公共資格を持った〈教員〉が「先生」と言われながら存在している。この意味は、〈学ぶ主体〉を〈学校教育〉以前には認めないということだ。
(p.206)

(同じ主旨の文章を、ブログでも読めます↓
 http://www.ashida.info/blog/2011/06/post_411.html

 言うまでもなく私が青ざめたのは最後の一行。何しろこれまで自分は「主体的な学び」を理想としてきたし、主体的でない学びは学びたりえないと思ってきたから。それと同時に、「主体」って何よ?という問いかけもずっと自分のなかにありました。

 いきなり上記の部分を引用すると誤解を与えるかもしれませんが、芦田さんは〈生涯学習〉と〈学校教育〉の違いをふまえたうえで、その対比のもとに上記の話を出されています。(また、〈学校教育〉の意義は、子供を教育することを親の影響や地域の影響、あるいは古い世代の影響から隔離することにある、ということについても述べておられます。)

 つまり、〈生涯教育〉〈社会人教育〉は〈学校教育〉の反対概念である。〈生涯学習〉や〈社会人教育〉は、最終的に目的の定位者は受講者の方にあり、各講座は、すでに存在している受講者の目的に従属している。

 いろいろな講座を“必要”に応じてチョイスして、それらを何に役立てるかは、受講者側の自立した動機が決めており、そんなふうにして〈生涯教育〉や〈社会人教育〉には受講の〈主体〉が成立している。それは消費的な教育、〈顧客満足〉が問われる教育なのである、と。

 また、そもそも〈生涯教育〉や〈社会人教育〉が成立する社会はそれ自体が高度社会、高度な消費社会でしかないということも書いておられます。

 そういえば、もう10年以上も前のことになりますが、こんな話をきいたことがあります。ある大学の先生が、学生の親の年代の人が講座に参加していることをふまえて、「なぜそんなに勉強したがるのか(勉強したがる人が多いのか)」ということを言っていた、と。それをきいた私は、「なぜその年代の人が勉強をしてはいけないのか?」と疑問に思うのと同時に、なんとなく全面否定する気持ちにもなりませんでした。

 当時は、「勉強している自分に対する自意識」というイメージがそうさせたような気がしますが、もしかするとあのイメージは「消費者としての主体感覚」につながる話なのかもしれません。講座にお金を払っているとかいないとか、そういうことはおいといて。

 で、そんな性質がある生涯学習の内部で、〈学校教育〉を大々的に位置づけたのは80年代後半の中曽根臨教審であり、芦田さんはその思想的支柱ともいえる教育モデルについて言及するのです(p.202)。そのモデルは「復員軍人教育プログラム」だったと。

 中曽根臨教審という名称はあまりにも懐かしくて、そこから考えることをしていなかったのですが、1984年といえばまさに自分が教育系学部の学生だった時期です。しかし、臨教審の内容について考えた記憶がありません。

 芦田さんは、個性・意欲重視の教育は学力格差を拡大させるばかりではなく、意欲自体を衰退させると指摘します。「関心・意欲・態度」が評価に加わったのは、中曽根臨教審答申を受けた1992年の新学習指導要領以来のことなんですね。2002年のことを考えることはあっても、1992年のことはあまり考えていませんでした。

 ちなみに、教材の仕事をするうえで、いわゆる「観点別評価」に接触したことが少しだけあります。自分が作った問題ではなく、校正のときに(校正レベルで)チェックするだけの話だったので、まあ所詮カタチだけだろうという印象を持っていました。あと、若干面倒だなぁ、と。しかし、学校の先生方は実際に評価していくのだから、ないがしろにできない問題ですよね。

 なお、私が消費社会に興味を持っていたのは、消費者が主体的ではない社会が消費社会だと思っていたからです。買うのではなく買わされる、使うのではなく使わされる、選ぶのではなく選ばされる、そういう時代。だから、消費者が主体的であることは私にとっては理想で、それゆえシンプルライフに興味をもち、そのことについて生活ブログのほうでずっと書いてきました。

 ということも含め、いろいろ考えなおさなくちゃいけなくなりそうで、さらに、理想とする学校教育観については根本的なところから覆されそうになる予感もして、青ざめてしまったのですが、そもそもどうでもいい話ならば覆されることもないわけで、芦田さんの理路に納得する部分があればこそ、青ざめることになったのでしょう。

 そしていったん本を閉じた話については芦田宏直さんに出会った経緯と、第一&第二印象で書きました。本を閉じて他の方のレビューを読み、トークセッションの動画をネットで観て、第9章を通して読み、これはちゃんと考えたほうがいいな、と思ったしだい。

 芦田さんのおっしゃる学校教育は、私が忌み嫌ってきた系統学習につながるものなんでしょうか、どうなんでしょうか。先を読みながら、考えていきたいと思います。

(つづく)
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芦田宏直『努力する人間になってはいけない』の感想を、こんなふうに書いていきます。

 これから、芦田宏直『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』(ロゼッタストーン/2013年)の感想を、次のように書いていきます。(なお、本から察するに、芦田さんの「芦」の字は、くさかんむりの下にそのまま「戸」を書く漢字だと思いますが、出し方がわからなかったので、ブログでは「芦」で表記させていただきます。)

 最初にお伝えしておきたいのですが、私はこの本の「まえがきにかえて」と、第1章の40数ページしか読んでいない状態で、第7・8・9章の感想をブログに書こうとしています。

 他の章を読めば、おのずと第7・8・9章の感想も変わってくることでしょう。しかし、他の章を読まない状態で書かれる第7・8・9章の感想というのもあるのではないか、と思っています(書いていけないことはないだろう、と)。

 ただし、感想を書く途中で他の章もぱらぱらとめくってしまうかもしれません。それはそれとして、とりあえず全部は読んでないし、まして熟読はしてないよ、ということをはじめにお伝えしておきます。

 なお、章立てに関しては、上記リンク先のAmazonページの「なか見!検索」をどうぞ。

 それで感想の書き方なのですが、第7章についてはこのブログ[数学教育ブログ:TETRA'S MATH]で、第8章については[親子ブログ:こどものちかく、親子でちょっとトーク]で、第9章については[生活ブログ:TATA-STYLE]で書いていきます。いまのところ並行して書いていくつもりでいます。

 第7・8・9章の章タイトルを、副題も含めてもう一度書き出しておきますね。


  第7章 学校教育の意味とは何か
      ------中曽根臨教審思想から遠く離れて
         (個性・自主性教育はいかに間違ったのか)

  第8章 キャリア教育の諸問題について
      ------学校教育におけるキャリア教育とは何か
         (ハイパー・メリトクラシー教育批判)

  第9章 ツイッター微分論
      ------機能主義批判と新人論と

 
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芦田宏直さんに出会った経緯と、第一&第二印象

 カテゴリーを迷って、とりあえず「学校教育」という地味で大雑把な名前のカテゴリーを新設しました。続けて書けそうだったら途中でカテゴリー名を変えますね。

 さて。

 数ヶ月前、芦田宏直さんという方を知りました。おおもとは、米田智彦『デジタルデトックス』にイリイチが出てきていたので、イリイチで検索をかけるうちに、山本哲士さんのレクチャーの動画を知り、山本哲士さんで検索をかけているときに、芦田宏直さんのこのツイートを知ったのがきっかけだったと思います。なお、この山本哲士さんとあの山本哲士さんが同一人物なのか同姓同名なのかいまでもわかりません。

 で、品のないツイートだなぁとは思ったものの、Twitterの独自性について津田大介さんがこんなこと言ってるし、少し気になったのです。

 そうこうするうち、Twitter経由で西川純さんという方を知り、この方が(二重かっこつきの、いわゆる固有名詞的な)『学び合い』というメソッドを提唱されているらしいということを知って、あ、そういえば芦田さんのツイートにあった「学び合い」という単語はこれのことだったのかしらん?と思い、芦田宏直さんのツイートをまた思い出したしだい。

 で、ツイートを読みにいって、ひとつふたつのツイートで判断してはいかんなと思いなおし、なんだか気になるので『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』を図書館で予約したのです。Amazonの「出版社からのコメント」欄にあった、「ここまで書けばあと何が必要だというのだ。一冊も売れなくてもいいくらいに私自身が気に入っています」という文言も背中をおしてくれました。

 なお、芦田宏直さんは西川純さんと『学び合い』をめぐってやりとしりたことがあるようで、そのことは芦田さんの非公式RTで知りました。みんなやっぱりエゴサーチやってるんですね。私自身は『学び合い』がどういうものかはまったく知りません。とりあえず脇に置かせてください。

 で、先日、『努力する人間になってはいけない』が私の手元に届いたしだいです。おそらく次の予約の人がいると思うので、借りられる期間は2週間。その間にどれだけ読めるかがんばってみます。

 ちなみにこの本のタイトルが何を意味しているのか気になる方は、図書館で借りるか購入するかして読んでみてくださいね(このブログではそのあたりは触れないことになるかと思います)。

 最初に、私の芦田宏直さんへの第一印象を書いておこうと思います。その印象とは、「よくわからない」という身も蓋もないものでした。言っていることがわからないのではなく、自分はこの人とどうつきあったらいいのかわからない、という感じです。直感がはたらかない相手というか。だから『努力する人間になってはいけない』も、どれ、ちょっとのぞかせてもらおうか、という感じで予約しました。

 そして「まえがきにかえて」を読み始めたとき、また「ん??」となりました。これまで出会ったことのないタイプの文章。だけど「まえがきにかえて」を読み終わるころには「なるほどね」と思いました(この意味についても、本を読んだ方にはわかるかもしれないし、もしかしたら私独自の感覚かもしれません。今回は割愛します)。

 そうして読み始めたはいいけれど、こりゃ全部読むのは大変だな…と感じて、自分がいちばん興味のある第7・8・9章をのぞくことにしたのです。ちなみに章タイトルは次の通り(副題は省略)。

 第7章 学校教育の意味とは何か
 第8章 キャリア教育の諸問題について
 第9章 ツイッター微分論

 で、ぱらぱらっとのぞいているうちに…またまた戸惑いを感じたわけであり。「これ、どう読んだらいいの、読み込んだほうがいいの…!?」というふうに。このまましらんぷりして通りすぎるという道もあるかもしれない…とまでは言わないけれど、うーん、ちょっと待って、という感じがありました。なんというのか、自分の中身が予想外に揺さぶられそうな快感と不快感(緊張感)がないまぜになったような感じ。

 そして、いったん本を閉じて、Amazonのカスタマーレビューを読みにいきました。中西大輔さんという方のレビューです。痛烈な機能主義批判…ふむ。

 この日は中西さんのレビューしか読まなかったのですが、その後、山本啓一さんという方のレビューも読みました。本の感想だけでなく、山本さんの芦田宏直遭遇体験も書かれてあって面白いです。

 さらに、あとでまた触れますが、本間正人さんとのトークセッション(https://www.youtube.com/watch?v=k4X9uJCeUws)も発見して、そのオープニングの話をきき、やっぱりそういう人(この場合は本ですが)なんだと思ったしだい。ある種の苦味をともなう身体感覚を催させる本。あるいは人。

 ちなみに本間正人さんは、トークセッションをするような相手でありながら、Twitterで芦田宏直さんをブロックしているそうですよ。芦田さんのツイートは読んでいるんだけれど、芦田さんのペースで茶々を入れられたら自分の社会生活が破綻する、と。経験ないけど、なんかわかる気がする。

 とにもかくにも、「な、なにこの人!?」というところから芦田体験をした人ってけっこういるんじゃないか…と思えてきました。自分はこの人を好きとか嫌いとか、敵とか味方とか判断する前に、なんか「気になる存在」になっちゃってる。そして書いていることをある程度の量読むと、「あ、この人大事なこと言ってる…」と気づくというか。たった1つの品のないツイートでシャットアウトしなくてよかったなぁといまは思っています。

 上記のトークセッションの質疑応答の時間で、キャリアコンサルタントの方がこてんぱんにやられて(と私は感じました)お気の毒だなぁと思う一方で、芦田さんの言う通りだと私も思いました。ここで妙に相手に気を遣うことは、キャリアコンサルタントが学生に対して気を遣うのと同じ構図で、言うべきことははっきりそのままの形でシンプルに、そして強く言わなくちゃいけない、そういう姿勢を感じました。

 これを書いている時点で私はまだ、第7・8章を、最初から最後までは通して読んでいません。第9章を読んだ段階で、このエントリを書いていいGOサインが(自分のなかで)出ました。そして、勇気を出して(!?)第7章も読まねばならない、という気持ちになっています。
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