TETRA'S MATH

数学と数学教育

芦田宏直×本間正人 トークセッション『ソーシャルメディア時代に求められる人材像とは?』の動画を観て(7)/質疑応答(その3)

 芦田宏直さんと本間正人さんのトークセッションの感想を書いています。

 芦田宏直×本間正人 トークセッション
 『ソーシャルメディア時代に求められる人材像とは?』
 (芳林堂高田馬場店)

 http://www.ashida.info/blog/2013/11/post_427.html

 上記のページからもいけますが、YouTubeはこちらです。↓
 https://www.youtube.com/watch?v=k4X9uJCeUws



 質疑応答の4つめ(動画開始1時間31分後くらい)は、「グローバル化、グローバル人材」について。

 芦田さんはまず、グローバル化によって高卒の労働市場が消えたことに触れます。低位なジョブ職、製造業や、IT、女性労働、非正規雇用によって肩代わりができる部分が国内から消えた、と。だから、高卒、短大卒、専門学校卒の就職場所がない。

 大学卒の就職率は、好不況の波と相関しているけれど、専門学校や一部専門学校的な短大の就職率は好不況と関係なく落ち続けている。それはなぜかというと、2年間のスキル教育くらいで通用する市場が国内から完全に消えてしまったから。

 だから、グローバル化対応というのは英語の勉強の問題ではなく、非正規雇用に打ち勝てるような人材を新卒の状態でつくれるかどうか、ということ。そのためには、「高度職業人」の育成が学校教育体系のなかにビルトインされていく必要がある、と。

 つまり、グローバル化対応というのは、日本の若者を、アジア全体の若者のリーダー、センターにしていくということ。偏差値40の人も、日本では部長になれないけれど、中国やインドネシアなら課長や主任になれるかもしれない、そういうところで考えていけばいい。高いところから低いところまで有為な人材になるように。

 アジア全体の若者の労働センターとして日本が主導権をにぎっていこうと思ったら、高度な超一級の新卒の職業教育体系から、低位な(中国やインドネシアなら課長や主任になれる)ところまで、全体を考えていかなくてはならならず、アジア全体の労働偏差値を考えていかなくてはならない。そのときに、日本の技術力、教育力がどういうふうに活かされるのか、というのが芦田さんの構想のようです。そのためには、超一流の高度職業教育がないとだめだ、と。(最後の部分は私がかなり我流でまとめています。)

 一方、本間さんは、悲観的というか、大変な状況だなぁと考えておられるようです。子どもの数が減って、大学経営としては留学生を入れなくてはいけない状況になっているというのがグローバル化。このことによって、これまで遊んでいた大学生が、学習意欲の高いアジアからの留学生に接して、ヤバイと思って背筋を伸ばす、これはいいことだと思う。

 しかし、(実際に仕事に就く場合について考えるとき)東大や京大や早稲田が日本のトップだと思っていたのが、気がついたらシンガポールにインシアードが来ていたり、イェール大学がアジアに進出していたりして、そっちのほうが国際的な偏差値が高いじゃないかということになって、日本は大学もガラパゴスになっていたのね……とならないように舵をきらないといけない、ということをすごく思っていると。

 そのために大事なことは何かというと、本間さんは大学のバリエーション、多様さだと考えておられるようです。ジェネラルエデュケーション、リベラルアーツでとことんやる大学があってもいいし、秋田の国際教養大学のようにとことん英語でやるようなところがもう2つ、3つあってもいいと思っている。文部科学省が旗を振ったらみんなそっちに向いてしまうというのは、事実的?自立的?(すみません、よく聞き取れませんでしたが、どちらでも意味は通りますね)に考えていないということであり、そういう大学経営者があまりにも多すぎるという危機感のほうをむしろ強く持っている、というのが本間さんの感触のようです。

 そして5人め、ラストの質問は、「大学生に対して、何をやったらいいか、アドバイスをいただけたら…」というもの。

 本間さんは、一人一人に対して違うから、みんなに共通して言えることはほとんどない、と答えられます。コーチングというのは個別的な対応であり、相手によってまったく違うことを言っているので、と。

 これに対して芦田さんは、「学校の外へ出るな」というシンプルな答え。夏目漱石全集など、ひとりの全集を全部読むくらいのことをやれば、そこらへんのいい加減な社会人には必ず勝てるから、一歩も出るな、と。

 そしてこのあと芦田さんは、先ほどの質疑応答の本間さんの回答をふまえて、このような話をされます。大事な話なので、という前置きのもと。

 先ほど、日本の一流とされている大学(←私の勝手なまとめ)は実は三流なのではないかという話があったが、その指摘はずっとされていて、世界基準でいえばすごくうしろのほうであり、自分はアジアを見下すようなことを言ったが、実はアジアの大学ほうがはるかにグローバル化していてレベルも高いという議論はよくある。

 それはそれとして事実だと思うけれども、実は日本にはすごく大きな資産があると思っている、と芦田さんは続けます。それは何かというと「消費偏差値」の高さ。
(※ この話は『努力する人間になってはいけない』にも出てきますし、芦田さんのブログでも読めます→http://www.ashida.info/blog/2012/06/post_417.html

 日本の若者は小さい頃から高度な消費社会を生きてきて、商品やサービスはどうあるべきかということがわかっている。つまり、商品やサービスに対する批評力を身につけていて、細かいことを要求する。これは大きなパワーで、(学力の)偏差値の高い低いと関係ないものであり、日本がもっている非常に大きな国力だと思う、と。

 その消費偏差値の高さを逆手にとった、それこそカウンセリングもコンサルティングも含めて、いろんな道筋で日本の若者をきちんとした社会人にしていくルートというものはあるのだけれど、その価値を教育側は全然気づいていない、と芦田さんは指摘します。大学のレベルが低いということはあるけれど、消費偏差値を大事にして教育体系にうまく取り込んでいく職業教育体系はできると思う、と。

 そして、楽天の幹部から聞いたという話が出てきます。楽天は北京大学などアジアの大学の優秀な人をいっぱい採用しており、彼らは頭はいいからなんでも言ったとおりやるのだが、なぜこれをやるのかを説明するのがとても大変だ、と。日本の若者はバカでもそこだけはわかる。その理由はわかっているけれど、どうしたらいいかがわからない。それが偏差値の問題なのだけれど、どちらからアプローチするかはそんなに簡単じゃないと、楽天のような少しずつグローバル化しつつある企業の人たちもそう思っている。

 ここの価値を企業の人たちはわかっているが、肝心の教育側がバカはバカだと思っている。大学の先生たちはバカな連中を憎んでさえいる。なぜ自分たちがこんなひどいやつを教えないといけないか、経営側は誰でも入れろと言うし、と。

 大学の価値という問題と、日本の若者が自然に身につけている消費文化レベルのようなものとの関係をちゃんと考えていかないと、国力としての教育がトータルに考えられないのではないかと思っている、そういうことの提案もこの本のなかでさせていただいている、と芦田さんは発言をまとめられます。

 トークセッションのまとめは以上です。

 質疑応答を含めて、いい感じの締めくくりになったなぁ、と思いました。

 で、せっかくいい感じでまとまっているのに恐縮ですが、楽天の話が出たのでひとこと。楽天本体ではなく子会社の話ではありますが、楽天さんは「消費偏差値の高い」日本の若者をもっと採用して、進出するジャンルによってどうあるべきかの感覚を働かせ、利用者がイラッとするようなこと(記事の中の3つめ、「***」のあと)をやめたほうがよいと思います。同じことを感じたのは私だけではないようです。なお私は、他にもいくつか不快要素はあったのだけれど、これに背中をおされて楽天をやめました。それ以来、楽天経由では意地でも買い物をしないようにしています。芦田さんがおっしゃるように、消費者は黙って去るのです(この場合、私はやめる理由をひとこと書いて退会しましたが)。

 私のほうはなんだか妙な締めくくりになってしまって若干残念ですが、ちょうどよい機会だったのでひとこと添えさせていただきました。



 と言うわけで、長いこと『努力する人間になってはいけない』に関連した話を書いてきました。とても面白かったです。そして、次に考えたいことも湧いてきました。中学生の保護者としては、これから高等教育に向けて考えを進めていきたいし、自分の当面のライフラークとしては、引き続き初等教育を中心に考えていきたいと思っています。
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芦田宏直×本間正人 トークセッション『ソーシャルメディア時代に求められる人材像とは?』の動画を観て(6)/質疑応答(その2)

 芦田宏直さんと本間正人さんのトークセッションの感想を書いています。

 芦田宏直×本間正人 トークセッション
 『ソーシャルメディア時代に求められる人材像とは?』
 (芳林堂高田馬場店)

 http://www.ashida.info/blog/2013/11/post_427.html

 上記のページからもいけますが、YouTubeはこちらです。↓
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 質疑応答おふたりめは、キャリアコンサルタントの方ですが、この方とのやりとりについては芦田宏直さんに出会った経緯と、第一&第二印象でも書きましたし、親子ブログのキャリア教育って何だろう?でも書きましたので、そちらを読んでくださいませ。

 なお、1時間20分後くらいから本間さんがフォローしておられます。本間さんは、学生の状況にもよるので一概には言えないこと(個別に対応することの必要性)と、キャリアコンサルタントがいたからこそ希望の会社に入れた学生もいるのだから、全部を否定しないほうがいい、とおっしゃっています。このおふたり(芦田さんと本間さん)、ほんとにいいペアですねぇ(^^)。考えも語りも対照的なので、ちゃんとセッションになってる。

 そして3人め。「芦田さんの理想としているコアをもった新人とはどういう人なのか、芦田さんはそのような新人にどんなチャンスを与えたいのか」という質問です。つまらないものが面白いと思えるような力を身につけさせたいのか、つまらないことを継続することによって、世の中を生きていけるようにさせたいのか、と。(私が省略&補足しているので、正確な表現ではありません)

 この質問に対する芦田さんの返答は、長い時間の体系的な教育を受けてきた人は、世間の風評や世評で物事を判断しない力がついている、というもの。社会的なニーズというのは、みんなが反対しないものについていくということとわりと似ている。たくさん売れるものは何かについての感覚をもっている等。短い時間は刺激と反応の体系がはっきりしているが、長くなれば長くなるほどわからなくなっていく。わからなくなっていくということをポジティブに言うと、自立的に判断できる力がある、ということ。

 私も、それが教育の根本的な役割だと思っています。だからこそ、学校という「聖なる領域」「純粋な空間」がなくなることは、とても怖いと思うわけなのです(>)。

 芦田さんは、長い時間の教育というのは、すぐにアウトプットしないということなのだけれど、キャリア教育というのは、わりと短い時間で役立つようなカリキュラムにしかならない現状になっている、と指摘します。小学校から大学卒業まで長い時間をかけるということは、それの使用・利用・アウトプットを禁欲した状態を体験させるということ。これは、偏見やもろもろの述語で主語を形成をしない、そういう力を着々と身につけさせるということだ、と。そして社会に出るときには新しい世代として出て行く。

 若い人のいちばんのパワーは、先人たちがつくったもろもろの述語や、偏見や先入見やひとつの傾向に対して、相対的にクエスチョンマークをつける力をもっているということだと芦田さんは語ります。しかし、いまのコミュニケーション教育やキャリア教育というものは、いかに反応優位な人間をつくるかという方向に走っているので、新しいものを作るパワーがない。似かよったものを自分の個性と思ったり特徴と思ったり、アピールしたりしている。いまの社会接続におけるコミュニケーション能力論は、長い時間のコミュニケーションをまったく想定していない、と。

 なお、芦田さんは、自立的にものを判断できるということは、自分で思考するということとは違う、という補足もされています。フォークナーだったらここでこう言うだろう、ハイデガーならどう考えるか、ということがすぐに想像できる、それが自分が言うところの自立的に判断するということだ、と。

 この回答に対して質問者の方は、「長い時間をかけた学習は学校ではなくてもできるのではないか」と重ねて質問されます。芦田さんは、長い時間をかけた学習をどこでもできるという観点で考えると、それをするには修行僧のような主体を形成するしかない、あらゆる誘惑に打ち勝って集中する力がいる、と答えます。

 で、このあと堀江貴文さんの話が出てきます。「ホリエモンでさえ、監獄にぶちこまれたら1000冊本を読めた」と。学校は監獄、懲役十何年。これはメタファーでもなんでもない。(ちなみに『ゼロ』の話題も出てきますが、あれは売れないわけにはいかない本だったようですよ〜>https://cakes.mu/series/1505

 3人めの方との質疑応答の内容は、おおよそこんな感じです。

 さて。

 『努力する人間になってはいけない』の第9章の感想を生活ブログのほうに書いていたのですが、そのなかで私は自分のためのメモをしたところがありました。>芦田宏直の「ツイッター微分論」(6)/本丸、機能主義批判へ

 まずはそのメモをそのまま抜き出してみます。
  ここで自分のためにメモ。この話のあとで(p.294)、
  フッサールに対して悪口を言う人は、
  あいつは哲学者としての素養がない、
  デカルトもカントもまともに勉強していないと言うが、
  ちゃんと正統派の哲学を勉強しなかったからこそ、
  「現象学」を確立することができたと言えるかもしれない、
  というようなことを芦田さんは書いているが、
  矛盾している(機能主義的な発想が入り込んでいる)
  気がするのは、私の読み込みがたりないせい?

  それから、私はクワインのことも思い出したのだけれど、
  さて、このことと「教育」を考えあわせると、
  どういうことになるのでしょうね。
  「正統派の勉強をしたこと」も
  「正統派の勉強をしなかったこと」も
  〈環境〉ではないのだとしたら……  
 第7章の感想(2)で示したように、〈学校教育〉に「上から」の「権力」が存在するとすれば、それは親や地域の影響という地上性を払拭するためのものだ、ということを芦田さんは書いておられて、なるほどなぁとしみじみ思ったのですが、果たして「時代や社会」の影響も受けずにすむのかと突っ込んで考えてみると、なかなか難しいものがあるなとあらためて思います。特に、時代。

 芦田さんの言う「社会」は、現状のキャリア教育の視点での「社会接続」の「社会」だと思うので、こちらはひとまずおいておきます。しかし、「時代」はなかなか難しいのではないか、と。

 末端的な話でいえば、学習指導要領などで「教育の内容」は変わっていきます。学習指導要領ではなくても、体系的な教育、カリキュラムのある教育をしようとする場合、そのカリキュラムは時代とは無縁ではいられないのはないか、という疑問があるわけなのです。そもそも、学問は時代から自立しているのか?

 もちろん、最終的には、引きはがすことが目的なのではなく、引き受けなおさせることが目的なのだと思うので、完全に時代からはなれる必要はないし、それは不可能だと思うのですが、親や地域という地上性はいったんもろに引きはがすことができるのにひきかえ、学校教育がやっていることは、「時代」から引きはがすことなのではなく、家庭生活、社会的生活とは別の形で時代を受け入れさせることなのではないか、と思うわけなのです。「体系的」な教育であればなおのこと。

 かつて、理科教育における構成主義に関する野家啓一さんの以下の論文をリンクしたことがありました()。
 http://ci.nii.ac.jp/naid/110006664604

 ほんでもって、理科教育の構成主義についての野家啓一さんの文章(2007年)を読んで、いまさらのように気づいたことで引用した次の部分について、再び考え込んでいます。
 
 むしろ小中学生に必要なことは,常識的な世界観や科学像をきちんと学習し,身につけることの方であろう.(中略)パラダイム転換は数百年に一度の稀な出来事であり,科学の歴史のほとんどは「通常科学」の時期だからである.通常科学は既存のパラダイムを受け入れるところから始まる.そしてパラダイムは権威ある「教科書」によって,あるいは実験や観察の実地訓練によって学ばれるのである.
 
 「常識的な世界観や科学像をきちんと学習し,身につけること」というのは、芦田さんのおっしゃる「長い時間をかけて行われる継続的で体系的な学校教育」に対応するものだと思います。これは、いまの時代の“常識的な”世界観や科学像なわけですよね。

 で、肝心なのは、芦田さんもおっしゃっているように、「世評に左右されず自立的に判断する力をつけること」だと私も思うのですが、そのためにもっとも大切なことは何かというと「道筋を追える」ということなんじゃないかと考えています。道筋を追う対象は既存のパラダイムであってかまわない。しかし…というかだからというか、「既存のパラダイム」を問答無用で受け入れさせる(問答無用で受け入れることのできる人間を育てる)こと、学校教育の意味ではないと思うのです。それでは〈新人〉は育成できないと。

 それをいったら〈新人論〉という発想がすでに「時代」と無縁ではいられないのかもしれません。芦田さんの議論には時間論が深く関わっていると思うので、そこのところを含めいつかまたゆっくり考えたいです。 

 しかしあれですね、既存のパラダイムを骨の髄までしみこませていたからパラダイム転換できた人もいれば、それを知らなかったがゆえに新しい発想を出せた人もいるのかもしれませんね。温故知新か、知らない強さか。

(以上は、1時間15分後〜1時間31分後の感想です。)

 あ、そうそう、野家啓一さんで思い出しましたが、最近、Twitter経由で、京都大学の林晋さんの興味深いブログの記事を知りましたので、この機会にリンクさせていただきま〜す。↓

何種類かの数学
http://www.shayashi.jp/xoopsMain/html/
modules/wordpress/index.php?p=301


(つづく)
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芦田宏直×本間正人 トークセッション『ソーシャルメディア時代に求められる人材像とは?』の動画を観て(5)/質疑応答(その1)

 芦田宏直さんと本間正人さんのトークセッションの感想を書いています。

 芦田宏直×本間正人 トークセッション
 『ソーシャルメディア時代に求められる人材像とは?』
 (芳林堂高田馬場店)
 http://www.ashida.info/blog/2013/11/post_427.html

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 開始1時間13分後からは、質疑応答の時間です。

 まずおひとりめ。ちょっと聴こえにくい部分があったのですが、ざっくり言うと、キャリア教育(のような小手先だけのこと?)だけをおこなって社会に出て行くと磨耗してしまうのではないか、という質問だと私は理解しました。

 これに対する本間さんの返答は、現状で、キャリア教育と題されて小手先だけに終わっているプログラムや講師が存在しているのは残念ながら否定しがたいことだけれど、いま学んでいることが社会に出たときにどんなふうに役に立つのかを教わるかどうかで、学んだことのしみこみ方が違うのではないか、ということについて主張されます。

 たとえば三角関数を学ぶときも、GPSのアプリケーションに使われていることや、木造住宅ひとつ建てるにも三角関数は構造計算の基礎の基礎になっている、そういうことを教わるかどうかで、学んだことのしみこみ方が違ってくる。それはけして小手先のことではなく、根幹のことだ、と。

 ここで私の意見を書いておくと、三角関数がどんな場面でどんなふうに役に立っているのかを示すことは、学習するうえでとても有効だと思います。それは、GPSのアプリケーションを作るような仕事に就く人でなくとも、大工さんになりたいと思っている人ではなくても、知っておいて損はないと思う。

 また、場合によっては、その歴史を伝えることも、学習を深めるのに役立つのではないでしょうか。三角関数はGPSのアプリケーションや住宅の構造計算の“ために”編み出されたのか、そうではないとしたら、いったいどのような経緯で三角関数というものができて、それが利用されるようになり、私たちはそれを学ぶことになっているのか、というところまでふみこむことができると、面白いですよね。高校ともなると、このあたりは教師の「数学観」にかなり左右されるかもしれませんが。

 三角関数の計算だけができれば満足な生徒、グラフを描くことが楽しい生徒だっているでしょう。でも、そういう生徒も、それが何に役立つのか、どのような歴史をもっているかを知ることは、退屈ではないのではないでしょうか。(ただし、過去、家庭教師で違うジャンルでこういうことを″小手先”でやって、生徒さんから「あ、そういうのいいから」と言われ、「(だよねぇ)」と恥ずかしい経験をしたこともあります、はい。)

 で、思うにそういう授業は、芦田さんのおっしゃるような長〜い時間をかけた継続的で体系的な学校教育のなかでもできますよね? していけないということはないですよね? さらに、こういう授業は何も「将来の自分の職業に役立つかもしれない」「これを知っていないと将来、希望する職業に就けないかもしれない」という発想でやる必要はないと思うのです。そういう発想で行うと、「自分はGPSのアプリケーションに関わる仕事はしないし、大工さんにもならない」と思う生徒にとってはヒトゴトになってしまう。ヒトゴトになると、ヒマになる。

 ただ単にのほほんと生きていても、私たちのまわりでは算数・数学がいっぱい存在している、無縁ではいない、ということを知っておいてわるいことはないと思うのです。

 が。

 「牛乳の三角パックはこれこれこういった空間充填形なので荷詰めしやすいんですよ〜」といったようなテキトーな扱い方で社会と数学をつなげるのはやめていただきたいと思っています。それは数学に対しても実際に仕事をする人に対しても失礼だから。ちょうど先日、高校の先生の数実研のレポートを紹介させていただいたので、そちらをリンクしますね!→三角パックの「捩れた話」+爪楊枝の水戸芸術館タワー/高校の先生の数実研レポート

 しかし、このレベルで授業に社会をもちこむことは芦田さんにとってもアリだとしても、それに議論や体験といったアウトプット的なものが入るとアウトになるでしょうか。

 と書いていて思い出したのが、今年2月にTwitter経由で知った(たぶんメタメタさんのブログ経由)、中学生のレポート「メロスの全力を検証」。これ面白いですよねぇ。パソコンを使わずに手書きで仕上げられているのがまた味わいがあっていい。

 理数教育研究所のこちらのページから見ることができます。↓
http://www.rimse.or.jp/research/past/winner1st.html
(わお、これって塩野直道賞という名前がついてるんですね、知らんかった)

 こういうアウトプットをメインにする、あるいは全員に課すると、また妙なことになってしまうかもしれないけれど、やってはいけないということもないと思うのです。ひとつの機会として。このレベルのアウトプットには、それなりの時間がかかるはず。

 あらら、質疑応答でひとつにまとめて一連のエントリを締めくくろうと思っていたのに、けっこう長くなりました。というわけでここでまず一区切りです。

(以上は、開始後1時間13分後〜15分15秒後くらいの感想です。←2分強やん!?)

(つづく)
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芦田宏直×本間正人 トークセッション『ソーシャルメディア時代に求められる人材像とは?』の動画を観て(4)

 芦田宏直さんと本間正人さんのトークセッションの感想を書いています。

 芦田宏直×本間正人 トークセッション
 『ソーシャルメディア時代に求められる人材像とは?』
 (芳林堂高田馬場店)

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 動画1時間4分後以降、これまでの芦田さんの議論を受けて、本間さんは、芦田さんがいうところの摩滅しないコアを作ることと実習を充実させるという観点から考えてみたとき、実習を充実させていくほうが現実的だと思う、とおっしゃいます。芦田さんがワクワクした授業でも、同じ教室の中で寝ていた学生がいると思うし、そちらのほうが多かったんじゃないか、と。

 そして本間さんは、自分の目標は「最終学歴」という言葉を死語にしたいということと、それにかわる「最新学習歴」という言葉について話されます。たとえばきょうこのトークセッションに参加した人に、芳林堂から学位が出るわけではないが、何かここで気づきがあり、学びがあるのであれば、それは最新学習歴を更新したことになる。

 いまは自ら学ぼうと思えばさまざまな学習資源が存在しており、自分のタイミングで学び続けることができる。学びの開花時期は人によってちがっていて、それでまったくOKだというのが、本間さんの考えです。

 それに対して芦田さんは、免許証更新のときに見せられるビデオを例にとって、こんな話をされます。あの衝撃的なビデオを観たときだけは、これから二度とスピード違反をしないでおこうと思う。でも、3日ほどしたら忘れている。このトークセッションも、交通事故ビデオのようなものだ、と。

 学校教育が生涯学習と違うのは、長い時間をかけて教育しないと身につかないものを、身につけさせることだと。こういう経験を若いときにやれているかどうか。

 ここでちょっと自分自身の体験から思うことを書いておきますと、私は娘が幼稚園〜小学校低学年のときに、子育てに関するレクチャーや講演に行く機会が何度かあったのですが、こういう講演会は、1回こっきりでも意味があったといまでも思います。でも、数学関係のレクチャーなどは、1回だけではどうにもならないなぁと思ったことがあります。(その点、森田真生さんの連続していない1回だけのイベントは、単発でも十分に刺激的なものでした。直接、数学の内容に踏み込むものではなかったので、それが可能だったのだと思います。)

 トークセッションに話をもどすと、芦田さんいわく、偏差値の低い子どもたちというのは、「交通事故のビデオ」的なものでしか感激しない、そういう子どもたちを作ってしまっていると。そしてこのあとTwitterの話が出てきます。Twitterはいつも交通事故。タイムラインは短い時間の刺激で、役に立ったとか、この人いいこと言ってるとか、アホか、とかいうことの連続。最終学習歴を更新し続けているようなもの。

(考えてみればこのトークセッションのテーマは「ソーシャルメディア時代にもとめられる人材像とは何か」だったんですよね。でも、結果的にソーシャルメディアはあまり関係なかったですね。「キャリア教育の問題点と可能性」あるいは「学校教育と社会の接続性はどうあるべきか」のほうが近かった気がしますが、このテーマだと参加者数、減ったかもしれませんね〜。それはそうとして、芦田さんはとどのつまり、Twitterについてどう思っておられるのかな?とあらためて思いました。『努力する人間になってはいけない』を読んでいると、なんかすごいものに思えてくるのですがTwitter。生活ブログ>芦田宏直の「ツイッター微分論」(12)/ツイッターとポストモダン

 とにもかくにも芦田さんは、Twitterのような「短い時間の刺激の連続」の対極にあるのが学校教育だと語ります。長い時間をかけて手順をふまないとわからないことを教え続け、ひとりの主体を形成していく。ここを通過しない人の人生は悲惨だ、と。

 学校教育の特殊性の意義を高く評価している芦田さんは、若いときにしかできない勉強を若いときにきちんとさせるということがなければ、「らーのろじー」(あとで触れます)がうまく機能してようにはならない、と指摘します。学校教育のときから「最新学習歴」の発想を持ち込むと(キャリア教育がそうなっている)、若いときの主体形成がかなり阻害されるという弊害を心配している、と。

 私はこのたび「らーのろじー」という言葉を初めて知ったので、ちょっと調べてみました。たぶん、ラーンにオロジーがついた言葉なんだろうと思ってましたが、やはり日本語でいえば「学習学」のことのようです。平仮名表記なんですね。↓
http://www.learnology.co.jp/

 で、このあとは質疑応答の時間に入っていきます。

(以上は、1時間4分〜1時間13分後の感想です。)

(つづく)
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芦田宏直×本間正人 トークセッション『ソーシャルメディア時代に求められる人材像とは?』の動画を観て(3)

 芦田宏直さんと本間正人さんのトークセッションの感想を書いています。

 芦田宏直×本間正人 トークセッション
 『ソーシャルメディア時代に求められる人材像とは?』
 (芳林堂高田馬場店)

 http://www.ashida.info/blog/2013/11/post_427.html

 上記のページからもいけますが、YouTubeはこちらです。↓
 https://www.youtube.com/watch?v=k4X9uJCeUws



 動画の40分後以降は、「では職業教育はどうあるべきか」という議論になっています。これまでの本間さんの話を受けると、現在のキャリア教育の発想は、「いわゆるできない子(偏差値の高くない学校に進学するような生徒、学問の純粋な楽しさを味わえない生徒)に通用する職業教育」という流れになっており、逆に、職業教育というのはそんなにいい加減なものでいいのか、逆にできない子にはフォークナーをやらせ、できる子にはきちんとした職業教育をやるべきだ、と芦田さんは論じます。偏差値が70だから東大行こう、早稲田行こう、慶応行こうという学生に対して、人材をつくるようなカリキュラムが大学に存在していない、と。

 私がこの話をきいて思い出したのは、アクチュアリーというお仕事を知ったときに見つけた、東京大学理学部内の専用の教育プラムグラム()のことでした。いまはアクチュアリー・統計の教育プログラムのリンクが切れているようです。新たに検索したらこちらがひっかかってきました。↓
http://www.ms.u-tokyo.ac.jp/actuary/

 アクチュアリーという職業があること自体知らなかったし、「そっか、こういう世界があるんだ〜」としみじみ思ったものでしたが、やっぱ東大ってすごいんだなぁとも思いました。プログラム自体は平成25年で終了したようですが、関連講義は大学や大学院内で行われているようです。東大レベルになると、あるいはこのレベルの職業になると、職業教育に近いものが大学や大学院で行われているのでしょう。

 芦田さんも、国立大学ではまだ職業的なことを意識しているところもあるが、日本のほとんどの大学生をカバーしている私立大学には、優秀な学生が小躍りして集中するような専門家をつくるカリキュラムが存在しておらず、すごくもったいない状況になっている、と語ります。なので、職業教育を論じるのであれば、大学に人材を育成するような職業教育がないことを論じるべきだ、と。

 で、このあと「ピーマンの切り方」の話が出てきて面白かったです。芦田さんが顧問を務めておられる辻調理師専門学校に、四川飯店の陳さんのお弟子さんがいらしたときのこと。学校ではピーマンは繊維にそって切るように教わるのだけれど、四川飯店では繊維を絶つように切るのだそう。その時点で優等生で育ってきた専門学校生は萎えてしまう、と。そういう技術的・実践的なことは、小さな事業所では師匠のやり方が色濃くあるので、ちゃんと勉強してきている優秀な人ほどそこで萎えてしまうという状況がある。

 そして現場では逆に、食品衛生や食品の法規については疎い。なので、専門学校では、実践的な技術は教えておいてはほしいけれど、むしろ法規や理論といったことをちゃんと教えてほしい、というのが現場からの意見のようです。それを専門学校は気づいていないし、実践性ということの意味をはきちがえている、と。すばらしい職業教育をやっている辻調理師専門学校でさえそのような課題をもっているし、偏差値70の職業教育はまったく緒についていないと芦田さんは指摘します。

 また、専門学校には一流、二流、三流の分化さえない。サイズが違うだけでやっていることは同じ。大学の場合、三流があるということがプレゼンス(一流があっての三流なので)。専門学校は「(偏差値的に?)決着がついた人」たちしか受け入れる流れができてこなかった。それではだめだ、と。

 というわけで、芦田さんのここでの結論は、「できない子にはフォークナーを、できる子には在庫管理で100単位の授業を」というのが、キャリア教育の位置づけだということになります。

 それを受けて本間正人さんは、芦田さんとあまり意見は違わないと話を続けます。ジェネラルエデュケーション、リベラルアーツだけをやって、職業教育をやらない大学が全国に何校か聖域のようにあってもいいと思うし、旧制の大学のころは、一橋が東京商科大学だったり、秋田の鉱山や札幌の農学のように、それぞれの分野のひとつひとつの山の頂点だったのが、総合大学というくくりになってどこも似たような特色のないものになってしまった、いろんな大学があってしかるべきだと思う、と。

 しかし、偏差値70以上の子が生産管理で100単位といっても、2〜3ヶ月現場に行ってインターンシップを経験しないと机上の空論になるだろう、と本間さんは指摘します。現場との接続があってはじめて意味のある100単位になるのではないか、と。そういう意味でも、教室のなかだけの学びではなく、実地体験、実務体験とマッチングしたカリキュラムというのがあらゆるレベルで必要なのではないか、と本間さんはおっしゃいます。

 考えてみれば私の場合、教育系の学部の小学校教員養成課程に所属していたので、教育観察や教育実習といった、実地体験が重視されている学部だったとは言えます。確かに実習で学んだことは、(実際の教師という仕事からすれば意味があるかどうかわからないささやかな体験だとはと思うけれど)学生の立場としては意味が大きかったと思います。まあでもこれは特殊な例でしょうか。でも教育学部で特殊といってはいけないか。特殊と言うなら医学部かな?どうかな?(いまちょっと検索したら、医学部は医学部でいろいろ経緯があるようですね…)

 本間さんの話を受けて芦田さんは、実際に仕事に出て行っても摩滅していないような体験性の核はなんなのか、ということを考えるのが学校における職業教育における実践性だ、と論じます。5年10年すればそのくらいだれでもわかっているよという実践性ではなく、40歳になっても大学のあの授業できいたことが生きている、それがなければ同じ職場にいても自分はこんなふうにはなれなかっただろうと思う要素を、大学の(たとえば)在庫管理のカリキュラムをつくる人たちは考えなきゃいけない、と。

 いまのインターンシップは、あってもなくても同じような1ヶ月になっていることがあり、提携する企業に要望を出すと、そんな面倒なことまでうちは学校ではないのでやっていられないよ、と言われたりもする、それが現状だと芦田さんは語ります。ほとんど時間つぶしのようになってしまっている、と。

 このあと、専門学校に関わってきた芦田さんの“空虚”な経験の話に入っていきます。専門学校で意味のない実習授業をやってきた子たちよりも、高卒で職場に行っている人のほうがはるかに仕事ができるというようなことになると、あの2年のカリキュラムなんだったのかということになる。これはもう、専門学校の資格主義的囲い込み。そんなふうにして、ただ単に社会接続と言っても、ややこしい問題がいっぱいあるよ、ということを芦田さんは本間さんに伝えます。

(以上は、40分後〜1時間4分後くらいの感想です。)

(つづく)
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芦田宏直×本間正人 トークセッション『ソーシャルメディア時代に求められる人材像とは?』の動画を観て(2)

 芦田宏直さんと本間正人さんのトークセッションの感想を書いています。

 芦田宏直×本間正人 トークセッション
 『ソーシャルメディア時代に求められる人材像とは?』
 (芳林堂高田馬場店)

 http://www.ashida.info/blog/2013/11/post_427.html

 上記のページからもいけますが、YouTubeはこちらです。↓
 https://www.youtube.com/watch?v=k4X9uJCeUws



 私は、ブログでけっこう理想論を語るほうだと自分で思っていますが、このトークセッションを視聴して、そして『努力する人間になってはいけない』の第7・8・9章を読んで、「私よりもさらに理想を語る人がいた!」とほっとすることが何度かありました。あるいは、芦田さんと私ではどちらのほうが理想がより高いのだろう、と。

 トークセッション動画の20分後からしばらくは、芦田宏直さんの「キャリア教育はくそくらえ」を受けての本間正人さんの応答が続きます。本間さんは、芦田さんの言うような純アカデミア的な学校が全国に3校5校(と聴こえるのだけれどそれでいいのかな?)あってもいいかもしれないが…という話をされています。じゃあ、その学校に行けるのはだれなんだ?と私はすぐに考えてしまうのです。その選別をどういう方法でやるのか、と。

 かつて生活ブログのほうで、中学生や高校生が「市場から学ぶ」ということについての抵抗感というエントリを書きました。あそこに書いたように、ギリシャのポリスの「市民」ではなくても学ぶことができること、それが現代の学校であってほしいと私は願っているのです。というか、基本はそうなっているはずで、「願っている」という書き方をすることがすでに自分で怖いです。

 内田樹さん(その言説によく助けられています)はもう学校教育を終わらせちゃってますが(>http://blog.tatsuru.com/2013/04/07_1045.php
私は学校教育、公教育をあきらめたくない。

 なお、先の生活ブログの記事は、ちきりんさんのブログへの違和感をもとに書いたものです。以前、検索をしていたときに、ちきりんさんの実名・経歴をサーチしたページにいきついたことがありました。その真偽のほどはあきらかではないし本人が公開していないものをあばきだすのはどうかとは思うけれど、私にとってはとても納得のゆくサーチ結果だったし、その人が大学の教育学部のキャリア教育についての授業でゲストスピーカーに呼ばれたりしていることを検索で知って(1回だけだったかもしれないけど)、さもありなんと思ったのでした。そして、マズイ、と。

 芦田さんは、できないやつほど大学に行くべきだ、と主張されています。私も同意します。が、芦田さんのお話は、細かいところを突っ込んでいくと時々微妙に矛盾している(どう考えているか、どうあってほしいかがわからない)ところがあります。結局、「学問」であればいいのは大学だけなんでしょうか、それとも、小、中、高校もいまのままではいけない、変えていくべきだ、ということなんでしょうか。ジェネラルエデュケーションはどうあるべきなんでしょうか。もちろん、段差はあるでしょう。でも、質的に異なるものなのかどうか。

 私は、初等教育も「勉強(学問)の純粋な面白さ」を味わえるところであってほしいと思っています。っていうか、子どもたちは十分にその素地をもっていると思うんですよ。「何の役に立つか」なんて考える前に、「これは何?」「それはどうして?」ということを知りたくてしかたない。

 小さなお子さんをもつ保護者のみなさんは、そのことを日々感じておられるのではないでしょうか。深爪さんのnoteのテキストをリンクしておきましょう(後半は有料なので購入しないとは読めませんが、いまは前半に意味があると思うので)。↓

 母と育児とコンドームと私|深爪|note(ノート)
 https://note.mu/fukazume_taro/n/n92084c1bcb2d

 そしてもう少し大きくなってくると、自分を取り囲むすべてに対して好奇心をもつというよりは、特に興味をもつジャンルが出てきて、そういう意味では取り入れたい知識が偏っていくことでしょう。しかし、自分が極めたいものを極めようとするとき、それ以外の知識も必要になると気がつく。あるいは、「これがやりたい」からといって、その枠内の知識があれば、あるいは「やりたい」という気持ちがあれば実現できるかというと、そうではないことがわかってくる。

 すっっっごく卑近な例で恐縮ですが、漢字の練習が苦行だった小3の娘も、こういうときには漢字を書きたがるわけです>娘が考えた未来のサイト(1)。(ついでにこれもリンクしておきます>娘が考えた未来のサイト(2)/ステキ大人学校。久しぶりに眺めてみて思ったんだけど、やっぱ親の影響ってこわいですねぇ。確かに学校教育でひきはがすの大事かも!?)
   
  その好奇心や興味が、学校教育のなかで、なぜか活かされていかないという現状があるように思うのです。吉本隆明のいうように、大学教授を連れてきて話をさせれば、子どもたちは算数・数学の魅力に目覚めるかもしれません(と言いつつ、人によるかもなぁとも思う。話上手の人ならいいんだけど…)。大学教授ができることとは質が異なるけれども、学校でやっていることよりもプリミティブでオルタナティブな数学の肌触りを感じさせることを、たとえば森田真生さんのような“在野の”若い研究者がやっておられる。>http://togetter.com/li/377891

 大学教授が来ても、若い独立研究者が来ても、それは学校としてはゲストティーチャーによる非日常的なイベントになることでしょう。ほんとはそういうことを、学校の先生に日常的にやってほしい。でも、それはなかなか難しい。本間さんの「現実的には無理」という言葉も、否定できません。「それが理想ではあるけれど、そうは言っても…」と私も思う。本間さんがおっしゃるように、それをできる先生がどれだけいるか、と。芦田さんが「いるべきだ」と言ったとしても。

 ということで、公教育をあきらめたくない自分も、かつてこういうツイートをしたのでした。↓
 それから、開始22分40秒後くらいの本間正人さんの指摘は重要だと思います。私なりの言葉でまとめると、いまの時代は、いい大学に入ること、いい会社に就職するとが幸せにつながると実感できない、「がんばったらがんばっただけいいことがあるよ」と思えない、そういう時代なわけです。私たちの子ども時代とはそこが違う。それが、汐見稔幸さんの講演のあの冒頭部分につながると思うのです(>)。

 また、現在においては、e−ラーニングなどをはじめとして、知識を得る機会が学校以外にもあるということも本間さんはおっしゃっています。トークセッションのこの場面では出てきませんが、芦田さんはe−ラーニングで学ぶことの困難についても本で書いておられました()し、私もそれは同意します。校門と塀に囲まれた学校空間の意義、そして教育には教師の存在が不可欠であるということについても。

 しかし、芦田さんと私とで意見で異なるのは、おそらくその先の部分、教室の中での授業の在り方です。「同年代の他者とともに同じ空間で学ぶ」ということは、学校教育の意義なのかどうか、ということ。たとえば、十分な経費があって、生徒数と同じくらい教員数・部屋数を確保できるとしたら、1対1、あるいは1対2くらいで学校教育を行うのも是なのかどうか。1対多になるのは、単に合理性の問題なのか。

 ここに意義を見出せるかどうかが、学校教育の存続の要(かなめ)だと私は思っています。それは、かつて個人指導塾や家庭教師で子どもたちに関わった自分の経験に基づいた考えでもあります。家庭教師は本当に面白かった。自分の人生で、もっとも意味があった時間だったと思える。何かをなし得たと思える唯一の経験と言ってもいいかもしれない。でも、その経験で、個人指導でできることには限りがあるということも知ることができたように思います(個人指導だけでそう思ったのではなく、別の経験とあわせて)。芦田さんにも、メソッドとしての『学び合い』といったようなものではなくて、上記のような視点で初等教育を考える機会をもっていただくと、とてもうれしいなぁ、と思っています。

 話をもどすと、本間さんがおっしゃるように、「とにかく勉強するんだ」という力技だけで子どもたちは勉強しないと私も思います。だけど、それの動機づけとして有効なのが「社会との接続」なのか?というところに疑問を感じるのです。

 しかし、ここでまた少々話がややこしくなるのですが、私は芦田さんがおっしゃるレベルで教育は社会と断絶しているべきとも思っていなくて、教育と実社会をつなげていくのは大切なことだと思っているのです。

 問題はそのつなげかた。

 職業教育は違うだろ、と思うわけであり。

 具体的なつなげ方の例は親子ブログで書いています。>算数のための算数になりきってしまわないように、そして道具になりきってしまわないように(前半の“かわいい”例で、なんだそんなことかと終わらせずに、とりあえず最後まで本文に目を通してみてくださいね)

 そんなこんなで、教育と結びつく実社会は、リアルタイムの実社会であるべきだと私は思っています。そのような結びつけ方は、外から講師を呼ぶのではなく、民間の協力を得なくても、本来、教師自身ができることだと思うのです。だって、教師だって、教育以外のジャンルの専門家ではなくても、「教師」というひとつの職業しか知らなくても、社会生活を営んでいるはずだから。子どもだって、まだ就職はしていなくても、社会的に自立はしていなくても、子どもとしての社会生活を営んでいるのだから。

 芦田さんもおっしゃっていました。「役に立つ」と言って学んでいても、大学を卒業するころには社会が変わっている、要求されることが変わってる、ということがいつでも起こり得る世の中になっている、と(18分22秒後くらい)。

 だから、もし教育に「実社会」を取り込むとしたら、それは自分たちが就職する頃、社会的に自立する頃をなんとなく見通した未来の「実社会」ではなく、いまの「実社会」であるべきだと私は思います。それが、芦田さんの〈新人論〉につながっていく、と。

 本間さんは、芦田さん自身の体験に対して、よい教師であり、よい生徒であり、そしてよい相性だったのだろうと思うけれども、それが普遍化できるかというと、なかなか難しいと思うといったようなことを書いておられます。私も難しいと思うし、「あきらめないで〜」と叫ぶだけではどうにかなるものでもないと思います。

 が。

 その状況を打破するのはキャリア教育ではないだろ、と思うわけなのです。外部の人材の品質保証の問題でもないと思う。学校教育に何を求めるかという、根本的な理念の問題だと思っています。

(以上は、20〜40分後を視聴して、いろいろ思い出しつつの感想です。)

(つづく)
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芦田宏直×本間正人 トークセッション『ソーシャルメディア時代に求められる人材像とは?』の動画を観て(1)

 芦田宏直さんに出会った経緯と、第一&第二印象で話題に出した、芦田宏直さんと本間正人さんのトークセッションの感想を書くところまでようやくたどりつきました。まずは芦田さんのブログの該当ページをリンクします。↓

 芦田宏直×本間正人 トークセッション
 『ソーシャルメディア時代に求められる人材像とは?』
 (芳林堂高田馬場店) 

 http://www.ashida.info/blog/2013/11/post_427.html

 上記のページからもいけますが、YouTubeはこちらです。↓
 https://www.youtube.com/watch?v=k4X9uJCeUws



 本間正人さんという方を私はこのたび初めて知りました。京都造形芸術大学の先生で、コーチングの第一人者とのこと。コーチングについては生活ブログでちらっと(しかもこんな話題のなかで)名称を出したことがありますが、どんなものか私はまったく知りません。知らないままに(つまり本間正人さんのお立場を理解しないままに)、とりあえずこの動画から感じとれることだけを拠り所にして感想を書いていきます。

 まず、開始4分10秒後くらいで、本間正人さんが、芦田宏直評をひとことで言えば「哲学者である」とおっしゃっているのがとても印象的でした。多くの大学の授業において、哲学というのは思想史になっていて、文献研究で終わっているけれども、芦田さんはいまどきめずらしい「哲学者」なのではないか、つまり「哲学する」という動詞をやり続けている人なんだろうと思う、と。

 本間さんは(一例として出されたのかもしれませんが)まさしく「ヨーロッパの…」という言い方をされています。くしくも「哲学が哲学ではなく哲学史になっている」ことは、永井俊哉さんが「英米系哲学の魅力」で指摘していたことでした。↓
http://www.systemicsarchive.com/ja/b/anglophilosophy.html

(ちなみにこの話題は、初等数学教育をとりまく、私が感じる″ねじれ”を整理してみるのなかで出しています。)

 そのあとで、「ある人から見れば愛情、ある人から見ればとんでもないお節介」と語っておられるように、この方(芦田さん)はホントーに「愛あふれるおじさん」です。それこそ、いまどき珍しいほどの愛情。私は『努力する人間になってはいけない』の一部を読んでしみじみそう思いました。私なんかよりよっぽど若者への愛情が深い、と。

 その愛の深さ・強さゆえ、時として頭ごなしの頑固親父に見えることがあるかもしれませんが、頑固親父の話はちゃんと聞いてみるとスジが通っていたりするので、ちゃんと聞かなくてはなりません。

 で、いよいよキャリア教育について。

 大学全入時代の現在、ひとくちに大学といってもいろいろなタイプ・レベル(偏差値)があり、大学に残って大学の先生になるような人たちを養成するところもあれば、そうではない大学もあり、大学に行く準備ができていない人が入るような大学もある。
 
 そのような状況にあって、大学教育と社会の連結はどうあるべきか、職業教育はどうあるべきか。キャリア教育の問題というのはつまり、「学校教育と社会の接続性」の問題だ、というわけです。

 私は基本的に、キャリア教育に大反対している芦田さんの意見に賛同するのですが、本間さんの「キャリア教育を全否定されるのは辛い」という言葉も胸にしみます。学校はこうあってほしいという希望が心のほとんどをしめる一方で、「そうは言っても…」という気持ちがどこかにあるのも確か(割合としては99:1くらい)。

 娘が小学校のうちは「なんだか不安だなぁ」くらいですんでいたキャリア教育も、これから先、中学、高校、そしてその先に進むなかで、「なんだか不安」ではすまされない問題になっていきそうだということを、まさに『努力する人間になってはいけない』で知らされたわけです。だからなおのこと、考えなくちゃいけない。キャリア教育の何が問題で、可能性があるとしたらどこにあるのかについて。

 芦田さんは開始16分後くらいで、「何のために勉強しているのかということを生徒に問わせてはいけない聖なる領域が学校」と語っておられます。私もそう思います。「何の役に立つの?」と児童・生徒が問うてきたら、教師はその問いに答えようとするのではなく、自分の授業を総点検しなくちゃいけない、そういう機会なのだろうと思います(って、いつものことながら″言うは易し”を承知で書いています〜〜)。>http://math.artet.net/?eid=1335922

(ちなみに、遠山啓の生活単元学習批判としての「役に立つ」の意味も、こちらに書いています。→算数・数学が「生活」の「役に立つ」ということの意味

 なので、「何に役立つかという問いを一切禁じて、長〜いインプットの状態を、継続的に若い人たちに提供していくのが、新しい世代の形成の場所としての学校教育の意味だ」という芦田さんの意見には大いに賛同します。が、その途中ではさまっている「体系的に」というところが、具体的に考えていくとこれがなかなか難しいと思うということについて、前回書きました

 ちなみに、こんなときにこんな話題を出すのもあれですが、上記のような意味合いにおいて、「かけ算の順序問題」を「算数のガラパゴス性」という言葉を使って批判しようとするとき、下手をすれば的外れな視点になってしまうと私は思っています(伝票の書き方もわからない非常識な大人になる、といったような話)。

 とにもかくにも、芦田さんがおっしゃる、学校教育という「聖なる領域」「純粋な空間」-----社会から隔絶された空間-----が世の中からなくなってしまったら、それは本当に怖いことだと思います。完全になくならないとしても、公的空間(公教育)としてそれがなくなって、多額のお金を払わないとそのような空間に入れなくなるとしたら、それもまた怖い。なんとなくそうなりつつあるような気がして、不安なのだと思います。勉強する場所がなくなってしまうという不安。

(以上は、開始〜20分後の感想)

(つづく)
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