TETRA'S MATH

数学と数学教育

知らぬまに、知らないことを知るように導く

 『現代思想』2011年4月号から、近藤和敬「問い・身体・真理 カヴァイエスとドゥルーズの問題論」を読んでいます。これがラストです。



7 真理の身体性と歴史性------「問題」と「問い」の関係

 この節は、「真理は身体的であると同時に歴史的である」という一文から始まっており、真理が身体的であるのは二重の意味においてである、という話が展開されてゆくのですが、この前半部分についてはひとまず割愛します。そして、後半部分を読んでいきます。

 後半では、「問題」と「問い」の区別について語られています。近藤さんは、これよりも前に発行されている『現代思想』において、「問題」と「問い」を次のように区別していたようです。

 「問題」というのは、学問を可能にするある具体的に解決可能な形式に制限された疑問であり、それゆえ客観的でありかつ共有可能である。それに対して、「問い」とは、そのような解決可能な形式をもたないがゆえに主観的であり、またある意味で無意識的でさえある、と。

 そして今回の議論を経て、さらにこの規定を詳しいものにすることができるとして、次のように語ります。

 「問題」が客観的であるのは、第一に、それを提起可能にする身体の水準において独特の共有可能性が担保されているから。

 ここでまた<サイボーグ化>された身体という言葉が出てきていて、「何かほかの言葉に言い換えられないかな…」ともやもやしてしまうのですが、もう一度確認すると、<サイボーグ化>された身体というのは、“身体を「条件づけるもの」によって条件づけられるべき身体そのものが変様した身体”のことです。

 さらにもう一声追加すると、身体の<サイボーグ化>というのは、「主題化」を介して身体と「条件づけるもの」が出会うことであらたな「問題的な場」が形成されることを指しています。

 第5節では、こうやってあらたな「問題的な場」が形成されると、そこで提起可能になる諸「問題」を解決することが、さらなる概念化と形式化を数学にもたらすことになるという話が途中で出てきていました。

 <サイボーグ化された身体>の話はまだ続くのですが、またまた割愛して、その先の「問い」についての記述を読んでみます。

 「問い」というのは、諸々の「問題」を貫く実在性それ自体を象徴するのであり、いわば「非-知」の絶対的な無尽蔵性を表している、と。

 これが主観的で無意識的であるのは、未知なる条件が「問題」のように定式化されるのに先駆けて、そのような定式化を求めるものが潜在的に存在していることを示すのが身体の「振る舞い」だからであり、身体の「振る舞い」という実践こそが、まさに知らぬまに知らないことを知るように導くからである…

 無尽蔵性という言葉を聞くと、『カヴァイエス研究』にもどりたくなりますね。あるいは、私はまだまったく読んでいないのですが、昨年発行された『数学的経験の哲学 エピステモロジーの冒険』を読んでみるといいのかもしれません(勝手な想像)。

 「知らぬまに知らないことを知るように導く」だなんて、こういう言い回しが苦手な人にとっては「はぁ?」となる文章かもしれませんが(^^)、私はこの文章を締めくくる次の一文とあわせて、面白いなぁと感じています。
歴史性と身体性とは、まさに「問い」を展開するものであるという意味で存在の力を表現するものであり、生み出す自然の力を巻き込みつつ展開する生み出された自然そのものなのである。
(p.203)

 もう一度最初にもどって考えてみます。

 数学的な発見が行われるとき、それは「問い」から始まります。しかし、もし、数学の真理が永遠不変のものであるならば、へんな話です。数学の真理がそれ自体で存在しているのなら、なにゆえ数学的真理の発見は「問い」から始まるのか?

 しかも、「問い」が提起されたとき、提起した人は真理を“知らない”状態でいなければなりません。真理を“知らない”のに、なにゆえその真理を発見することを可能にするかもしれない「問い」を提起することができるのか?

 近藤さんは、このような「問い」を立てるということは、身体における振る舞いが無自覚に実現する盲目の直観のようなものなのだと考えたうえで、この議論を展開されています。数学の証明や計算は明示的で厳密なのに、その「問い」が発せられる状況は、意外にも非明示的で曖昧なものなのかもしれない。

 私自身は、このような「問い」を数学のなかで立てたことはほとんどないというか、おそらく皆無だと思います。いつだって、もうすでに解かれている問題のプロセスをひーひー言いながら追っているだけだと思うし、すでに見つけられている真理をなんとか理解しようと努力しているだけのように思います。

 だけど、数学をつくってきた数学者たち、真理を発掘してきた先人たちは、このような「問い」を立てるところから始めたのではなかろうか、と想像しています。立てるところから始めたというよりも、問いが立ってしまったというか。こういう話になると、手元にある真理でもって暗闇にのりだしていくことを思い出します。

 また、数学はメンタルな「行為」だと主張した人:ブラウワーブラウアーの直観主義と、カヴァイエスと、近藤和敬さんカヴァイエスとブラウアーの直観主義をつなぐ、「真理観」のことも思い出します。

 というわけで、途中でわかっていたことではありますが、結論として、読むんだったらこれよりもあとに発行された近藤和敬さんの書籍を読だほうがよさそうです。

 えっらく時間がかかってしまいましたが、のりかかった船だったので、とりあえずひととおり読んでみました。というわけで、この話題に関してはここで一区切りです。
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プチ訂正:「問い」→「問題」

 先ほど公開した「解」を手にする前に確保される、「問題」の真理性のなかで、自分なりに言い換えた表現として「問いA」と「問いB」という言葉を使いましたが、ここで「問い」という言葉をつかうと第7節を読むときにややこしくなるので、「問題」にかえました。
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「解」を手にする前に確保される、「問題」の真理性

 『現代思想』2011年4月号から、近藤和敬「問い・身体・真理 カヴァイエスとドゥルーズの問題論」を読んでいます。



(6節のつづき)

 そもそも私がガロアに接触することになったのは、ドゥルーズ『差異と反復』の邦訳第四章に出てくる「滝」という言葉が心にひっかかったからでした(参照1参照2)。

 もう一度、その該当部分を引用します。
したがって、「部分分解式」の言わば滝、あるいは「群」の言わば入れ子構造が存在するのであって、これこそが、解を、問題の諸条件そのものから生じさせるのである。
(ドゥルーズ著・財津理訳『差異と反復』<下>河出文庫/p.41)

 この“「部分分解式」の言わば滝”って何?というところから始まった興味でした。邦訳の巻末にちゃんと説明が書いてあったのに、そこを読んでおらず、ラグランジュ・リゾルベントのことを指していることに気づくのにずいぶん時間がかかってしまったのですが、私としてはそのあとに続く「群の入れ子構造」も気になっていました。

 滝はすぐに頭の中でカスケードに変換されたので、累々と続くなんらかの連鎖と入れ子構造のイメージは湧いていたものの、それが何を指しているのかはまったくわかっていませんでした。そして、結城浩『数学ガール/ガロア理論』を道しるべにしてガロア理論のほんの一部に触れることで(>カテゴリー:ラグランジュ・リゾルベント)、なんとなくその雰囲気がつかめてきたのでした。

 しかし、ドゥルーズを読んだ段階では、アーベルとガロアがなした仕事がいかに画期的であったか、というところまでしか考えておらず(実際、ドゥルーズも「コペルニクス的転回よりもはるかに重要な転回」と書いているわけであり)、前回示したような視点、つまりガロアが見出したことについても、ガロア自身が知らなかったことがある、というところまでは思いいたっていませんでした。

 ドゥルーズが第四章のここの部分で何を言わんとしているのか、そして近藤さんの解釈を自分がどれくらい理解できているかはわかりませんが、それ(ドゥルーズが言いたかったこと、近藤さんの解釈)はそれとして、「弁証法的な生成」ということの自分なりのイメージがここでようやくひとつの形になったような気がします。

 ガロア理論のなかにある数学的内容としての連鎖や入れ子構造に意味があるのではなく(ひとつの比喩して有効かもしれないが)、たとえば「方程式を解く」ということに関する数学的歴史のなかに、弁証法的な生成があるということ(最終的にそれは「方程式を解く」さえも超えてしまう)。

 1つ1つの具体的な方程式を解く段階、フォンタナやフェラリがやったように、特定の次数の解の公式を求める段階、そして方程式が一般的に解けるとはどういうことかを問う段階。

 ガロアの仕事のあとには、「方程式の問題を解くこと」という枠組みさえも変わってしまう。ということについて、倉田令二朗『ガロアを読む---第1論文研究』(p.214)のなかに次のような記述があります。
たとえばブルバキズムでは過去の数学は原則として現代数学に包摂されるという判断があり,この見地から書かれる教科書が多い.たとえばガロアの理論はそれがもともと方程式論であったことすら理解不可能であるようなやり方で体の一般論の基本定理の一つとしてえがかれる.

 つねにそこに存在するのは、「条件づけるもの」と「条件づけられるもの」のあいだの現実的な区分や限界ではなく、あらゆる現実において作用する「条件づけるもの」と「条件づけられるもの」のあいだの理念的な差異だけであり、そのあいだの弁証法的な生成だけ。

 という話をきくと、私は野矢茂樹『無限論の教室』のあとがきの対話のイメージのことを思い出すのです。

 とはいえ、アーベルやガロアの仕事が、その入れ子をなすたったひとつの場面にすぎないということではなく、やはりその仕事は他と性質が異なっているのでしょう。近藤さんは、ドゥルーズが強調したような、ガロア的な「認識論的切断」の意味を強調してみることも不可能ではないだろう、と話を続けます。

 ガロア(やアーベル)のような条件遡及的な思考は、そのあとのリーマンやデーデキントやカントールに始まる概念数学の流れが主流なものになるための土壌を作ったのだといえるかもしれないから。
彼らの集合論は、まさに実数をもちいる解析学の条件を実数論として明らかにするなかで形成されたのであり、実数の構造とは、解析学の振る舞いを「条件づけるもの」であった。同様の観点からゲーデルの不完全性定理の業績などを解釈することも不可能ではないだろう。その意味で、このガロアの仕事をひとつの歴史的メルクマールとみなすことは可能であるし、現代数学の地平を生みだすいわゆる「認識論的切断」をこの歴史的地点に引くことはそれほど理由のないものではないだろう。
(p.201)

 で、結局のところ、問題の次元に内的指標を見出そうとするということはどのように理解できるのか?ということについて、近藤さんが丸付き数字を使って説明されているのを(1)、(2)にかえて書きますと、「条件づけるもの(1)」(=「問題」)自体を「条件づけるもの(2)」を把握することで、「条件づけるもの(1)」の真理性を、(1)によって「条件づけられるもの」の経験的確認によらずに、つまり外的指標によらずに、手にするということである、と。

 なんのことやらなので、その先の「いいかえれば」のあとを読んでみます。
いいかえれば、かつて「問題」であったもの、たとえばある次数の方程式の解を代数的な方法でえるための公式を求めよという「問題」であったものが、上位の「問題」(ここではなぜ四次までの方程式であれば代数的な方法で解くことができるのかというもの)の「解」によって条件づけられることによって、その公式を求めよという「問題」の「解」を手にすることによらずに、つまりたとえば具体的な四次方程式の解の公式の例示によらずに、そのような公式を求めよという「問題」の真理性をいわば、それが解をもちうる「真なる問題」であることを確保するということである。これが、「問題」のもつ「客観性」である。
(p.201)

 私なりの理解でさらにいいかえてみると、「三次方程式の解の公式とはどのようなものか」という問題Aがあり、さらに「なぜ四次までの方程式であれば代数的な方法で解くことができるのか」という問題Bがあったとすると、問題Bは問題Aの上位にあるので、問題Bの解により(その解に条件づけられることによって)、問題Aの解(すなわち三次方程式の解の公式)を手にしなくても、問題Aの真理性が確保できる、ということなのでしょう。つまり、問題Aの解を手にしないうちに、問題Aの真理性が確保できる、と。それが、問題Aの客観性である、と。

(つづく)
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異なる度合いの「問題」のあいだの視点の移動

 『現代思想』2011年4月号から、近藤和敬「問い・身体・真理 カヴァイエスとドゥルーズの問題論」を読んでいます。



 6 「真なる問題」の内容指標------ドゥルーズの問題論におけるガロアへの言及とその解釈

 前節までの議論で、身体と経験という側面から「問い」の提起可能性についてみてきたわけですが、その議論の前提となっている「条件づけられるもの」から独立した「条件づけるもの」の客観的存在、その実在性について、前提にこそすれ主題的にはまったく触れてこなかった、というふうに近藤さんは話を始めます。

 カヴァイエス=スピノザ=ドゥルーズ的な二元論イメージにおいては、「条件づけるもの」の固有の実在性といったものは、真理の内的指標として機能することになる。外的指標の観点から見れば、「問題」が「真なる問題」であるのは、それが解決されたものであり、つまり「解」をもつことが経験的に明らかであるとき。しかし、内的指標の観点から見るならば、その「問題」が「真なる問題」であるのは、それが経験的に解かれる以前に、「問題」の水準でその固有の実在性が規定されているから(←我流で書き換えています)。

 このあとの部分については最初の段階でかなり大胆にまとめたので、ガーッと割愛して、後半を読んでいきたいと思います。が、その途中で出てくる「注意点」のことに触れておきます。

 近藤さんは、ドゥルーズからの次の引用
 アーベルとガロアによってはじめて問題の理論は、数学において、本来的な意味での弁証法的なおのれの諸要素のすべてを満たすことができ、おのれに悪影響を及ぼしていた循環を打ち砕くことができるのである
をふまえて、ここでドゥルーズが述べていることをあまり具体的で現実的な次元で考えてはいけないだろう、と注意を促しています。

 理解すべきは、カヴァイエスが述べる意味での「条件づけるもの」と「条件づけられるもの」のあいだの弁証法的関係なのであって、ガロア理論が明らかにした拡大体とそのうえでの自己同型写像のなす群構造のあいだの対応関係というまさに数学理論的次元それ自体が、「問題」の次元そのものだと考えてはならない、と。

 そのように考えることは、ある具体的な数学理論をなにかしら曖昧なもの、神秘的なものにすりかえてしまうという危険以外のなにも生みださない、とも書いておられます。

 なんだか『ドゥルーズ/ガタリの現在』(平凡社、2008年)を手にしたときの第一印象を思い出すことであります。

 さらに話は続き、ドゥルーズは「(置換)「群」のあいだにいわば入れ子状の構造が存在するのであって、これこそが解を、問題の条件そのものから生じさせるのである」と述べているけれど、注意しなければならないのは、このようなガロアの「解」を可能にした「問題」の条件そのものは、このガロアの「解」のなかには現れていない、と近藤さんは言うのです。

 「「群」のあいだのいわば入れ子状の構造」というのは、部分群の集合が包含関係に関してハッセ図を形成することを表現しているものと解釈でき、そうだとすると、これこそが「問題」の条件そのものから「解」を発生させるとドゥルーズが述べているときの「解」とは、ガロアが手にした「解」そのものではなく、ガロアの「問題」とは度合いの異なる、代数的方法によって一般的に解く方法を求めよという「問題」の「解」であるだろう、と。
 重要なのは、異なる度合いの「問題」のあいだの視点の移動である。フェラリが三次方程式の公式をえたとき、それがえられるということの「条件」そのものは、まったく触れられていなかった。それは、まさにフェラリが「解けたこと」、つまりフェラリの「振る舞い」それ自体を「条件づけるもの」であって、フェラリの「振る舞い」はそれを知らないままにみずからのなしうることをなしたのである。それにたいしてガロアがなしたのは、そのようなフェラリの「振る舞い」そのものを「条件づけているもの」を、方程式の根の集合がもつ群という構造の観点から明らかにすることだった。アーベルはフェラリの「振る舞い」が条件づけられたものであるということを、その限界を示すことで明らかにし、ガロアはそれがどのような「条件」であったのかを明らかにしたのだと述べることもできる。
(p.200)

 さらに。

 ガロアが利用したもの(近藤さんは双対性という言葉を使って説明しておられます)は前代未聞の特筆すべき性質であり、この性質は、その後、位相幾何や微分方程式論など様々な分野に応用されることになるけれど、よく考えてみると、このガロアの「振る舞い」もまたフォンタナやフェラリ同様、「条件づけられたもの」であることがわかる、と。

 つまり、少なくともガロアは、なぜそのような性質が数学の領域とその構造のあいだに成りたつのか、というその理由を知らなかった。それがどのような条件で成りたつのか、あるいは成りたたないのか、それが成りたつということはなにに由来するのか、ということを知らなかったはずである。
つまり、つねにそこに存在するのは、「条件づけるもの」と「条件づけられるもの」のあいだの現実的な区分や限界ではなく、あらゆる現実において作用する「条件づけるもの」と「条件づけられるもの」のあいだの理念的な差異だけであり、そのあいだの弁証法的な生成だけだということである。
(p.200)

 なるほど、そこまでは考えていませんでした。「そこ」というのは、ガロアの「振る舞い」もまた、(ある見方にたつと)フォンタナやフェラリと同じ「振る舞い」である、というそのことです(と、私は理解しました)。

(つづく)
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「振る舞い」によって「問い」を立てるということ

 『現代思想』2011年4月号から、近藤和敬「問い・身体・真理 カヴァイエスとドゥルーズの問題論」を読んでいます。



 5 盲目の直観------「振る舞い」によって「問い」を立てるということ

 前節で出てきた身体の〈サイボーグ化〉というのは、「主題化」を介して身体と「条件づけるもの」が出会うことであらたな「問題的な場」が形成されること…であるらしいのですが、個人的には〈サイボーグ化〉という名付け方はピンとこなくて、なんかもっとほかに言葉がありそうな気がしています。

 ちなみに、1つまえのエントリでは具体例として「数」と「線」といったおおまかなものしか出しませんでしたが、もっとあれこれ数学の具体例が出てきます。

 カヴァイエスからの引用部分で言えば、「初等射影幾何学におけるデザルグ算」「カントールの理論における対角化あるいは線形化という一般的手続き」「デーデキントにおける鎖の手続き」など。

 近藤さんの本文で言えば、記号化に関連して「ベクトル空間の次元そのものの計算」「体上の自己同型写像の群の計算」など(記号なしに直観的に展開することは不可能であることの例)。

 そして続く5節では、「実数を数えられるようになること」という具体例が出てきます。

 実数を数えられるようになるということは、数を数えることを条件づけていたもの(「集合」や「写像」)と「主題化」を介して出会うということであり、この「集合」や「写像」という操作は、それらが「主題野」のなかでひとたび成立しさえすれば、それらの操作そのものを「条件づけるもの」を自覚しないままに遂行することが可能である。だからこそ、公理系の設定についての議論をへるよりもまえに、カントールは素朴集合論を構築することができたし、デーデキントは二階算術を構築することができた、と。

しかし、このあらたな<サイボーグ化>された身体による操作の遂行可能性は、同時にひとつのあらたな「問題的な場」を引き起こしたのであって、そこで提起可能になる諸「問題」を解決することが、さらなる概念化と形式化を数学にもたらすことになった、と理解することができる。
(p.194)

 3節では、海と身体の出会いの話が出ていました。同じようにして、身体は対象となった「条件づけるもの」と出会うことで、あらたな「問題的な場」を形成するということらしいのです(なお、文章の順に要約しているのではなく、自己流で流れを変えて、この一節の概要について書いています)。

 数学において「問い」を立てることとは、<サイボーグ化>された身体による経験のなかで、そのあらたな身体の「振る舞い」を「条件づけるもの」を自覚しないまま、その条件を直観するような、そういった経験であるだろう。
(p.194)

 何しろ、みずからの条件を知らないままになされる「振る舞い」なので、盲目の直観ということなのでしょう(と、私は理解しました)。

 そうして話は、ドゥルーズによるガロアへの言及と入っていくのでした。

(つづく)
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「理念化」と「主題化」は「一般化」への二重のプロセス/世界の外にあるのではなく、世界の変形

 『現代思想』2011年4月号から、近藤和敬「問い・身体・真理 カヴァイエスとドゥルーズの問題論」>4 カヴァイエスの「条件づけるもの」と「条件づけられるもの」の弁証法から見た「理論の身体」を読んでいるところですが、カヴァイエスが言うところの「主題化」「主題野」をもう少しとらえやすくするために、『カヴァイエス研究』をのぞいています。



 というわけで、いま、『カヴァイエス研究』の第4章・第4節(「概念」による「操作」の「主題化」)を読んでいるわけですが、この一節は次のように始まります。
 「主題化」は、公理化のプロセスのもう1つのアスペクトをなす。
(p.132)

 もう1つというからには、別の1つが既出なわけで、それが「理念化」というものです。その「理念化」(の「必然性」)については第3節で扱われています。さらにそのまえの第2節で「概念」による「操作」の「理念化」についてのヒルベルト的な解釈について述べられています。

(ちなみに『カヴァイエス研究』の第2章はブラウアーがらみの議論、第3章はヒルベルトがらみの議論になっているのですが、その第3章から次のエントリをリンクしておきます。↓)
メタ数学と形式主義のプログラム、なぜかサントリー「山崎」

 カヴァイエスが言うところの「理念化」と「主題化」は、「一般化」への二重のプロセスであり、その重要な具体例が「公理化」ということらしいのです。「理念化」については、次のエントリで触れました。↓
カヴァイエスが挙げている「乗法の反復としての指数」の例
(このエントリについては再考したいのですが、とりあえずそのままリンクしておきます)

 ほんでもって、ヒルベルトの意味での公理系は、それ自体が数学的対象を直接演繹することはなく、存在措定からは独立であり、ひらたくいえばその公理系は対象間の一般的で大域的な「規則」のみです。つまり見方をかえれば、その「操作」について、具体的で実効的な「遂行」とそれに相関して算出される数学的対象を忘却する(あるいは無視する)ことができるということでもある。

 だからこそ、公理系によって定義された任意の「集合」あるいは任意の「位相空間」を、そのうえでの「操作」(写像、順序、連続写像など)のための対象とすることができる。

 ということと、1つ前の既存の操作を上位の操作の対象とすることを考えあわせると、なんとな〜く「主題化」が見えてくるような気がします。

 なお、「主題野」というのは「主題化」によって産出された対象のことらしいです(『カヴァイエス研究』p.137)。

 個人的には、「主題化」という言葉を「スポットライトを当てる」というイメージでとらえるとわかりやすくなりそうな気がします。しかし、そのイメージがまあまあわるくないのか、大いなる勘違いかはよくわかりません。

 ほんでもって、「理念化」「主題化」を考えていたら、懐かしい歌詞を思い出したのですよ。懐かしすぎて曲名どころか歌手名も思い出せず、あれこれ検索して目星をつけてみたのですが、いちばん可能性が高そうなのが鈴木さえ子です。“男の子は1つずつ階段をのぼる、女の子は1つずつ扉を開く”…といったようなフレーズがあったのです。個人的には「理念化」が扉、「主題化」が階段という感じがしますー。(^^)

 このあたりまで読んで『現代思想』にもどりますれば、要は、最初に述べられていたような直観的領域としての「主題野」は歴史性をもっており、弁証法的な進展の継起を内在させているんだよ…ということをカヴァイエスは言っているようなのです。以下は、カヴァイエスの引用部分についての近藤さんの説明から↓
そしてさらにいえば、この直観的領域としての「主題野」は、「断片的な意識の初期段階にあって固定化されていない真の感性的直観の延長」であって、その意味で、われわれの身体的水準での直観と完全に切り離されているわけではない、ということである。しかし、重要なことは、切り離されていないという消極的保証ではなく、所与の世界そのものを「変形」してしまうという積極的で「切断」的な「構成」の契機が、この「主題野」という直観的領域の本質に含まれているということである。
(『現代思想』2011年4月号/p.191)

 せっかくなので、カヴァイエス自身の言葉(といっても和訳されたものだけど)からも引用しておきます。
対象------そしてそれを動かす手続きとの二元性は、ある方法がほかの方法を弁証法的に追い越すということの仮面である。つまり、追い越されるがわの方法から独立して立てられる対象があるとすれば、それは追い越すがわの方法の相関項だということである。プロセスの原動力は、一切の探究から免れているのかもしれない。それは、条件にしたがう企ての力としての意識活動と、この条件そのものとのあいだに生じる対話なのであり、それこそが経験の十全な意味である。 (中略) 形式体系が何であるかを知ることができ、手続きの限界を自覚することができたのは、まさにここにおいて、形式化の果てまで進むことでのみ------とりわけて構文論を言語のなかで形式化することでのみ------である。しかしながら直截的な具体的意識である感性的なものは放棄されていない。感性的なものに働きかけることは、それを離れることではないのだ(例えば主題化によって手にされた一切の抽象的対象は、原初的な感性的なものについての振る舞いについての振る舞いについての……振る舞いである)。主題野とはそれゆえ世界の外に位置づけられるのではなく、世界の変形なのである。
(p.192)

 やっぱり階段よりも扉のほうがいいかも。部屋の扉をあけたらその先にまた部屋があった、部屋の外に部屋があった、ということではなくて、扉をあけたときに世界そのものが変形する。そして、世界が変形するときには扉をあけるという断絶(切断)がある。

 算術的な数とか、幾何学的な線といった数学的対象は、「主題野」において現れる構成的対象であると同時に、「問い」でもある。

 つまり、構成的対象としての数や線は、私たちの感性的経験という原初的な「主題野」を「条件づけているもの」を概念化し、それを記号化した上で、その記号についての操作の経験が構築する直観的な「主題野」において現れるのと同時に、その「主題野」が喚起する「条件づけるもの」の余剰としての「問い」である。

 この「主題野」の重ね合わせは、原初的な世界への回帰ではなく、「世界の変形」である。

 あらたな経験を創りだすことは、意識そのもの進展を同時に要求するのであり、それは身体の、つまり「世界」の変形を必要としている。

 近藤さんは、原初的な世界への回帰と言うのであれば、フッサールの「幾何学の起源」の議論に帰着するだろう、という内容のことを、かっこ書きで添えておられます。

(つづく)
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カヴァイエスの「主題化」/既存の操作を上位の操作の対象とすることについて

 『現代思想』2011年4月号から、近藤和敬「問い・身体・真理 カヴァイエスとドゥルーズの問題論」を読んでいます。



 4 カヴァイエスの「条件づけるもの」と「条件づけられるもの」の弁証法から見た「理論の身体」

 前節では、カヴァイエスの「理論の身体」を理解するために、ドゥルーズの「身体論」が引き合いに出されました。しかこれだけでは充分ではないとして、近藤さんは話を続けます。

 「数学的経験」はたしかに直観的なものであり、感覚的なものとの連続性を維持しているけれど、それ以上のもの、つまり、必然性、規則性、(概念の)絶対性、(計算の)不可謬性といった特徴を含む。

 さらに、「数学的経験」における「理論の身体」は、歴史的な進展をその本性に含んでいるが、ドゥルーズの先の例では、理念的なものの歴史性ということを考えるのに充分ではない。

 近藤さんはこのあと、<サイボーグ化>された身体という言葉を出してきます。<サイボーグ化>された身体とは、“身体を「条件づけるもの」によって条件づけられるべき身体そのものが変様した身体”ということらしいです。

 そしてカヴァイエスの文献からかなりの分量で引用がなされていくのですが(途中でいったん説明が入る)、ここの部分を読み込みたいならば、やはり(これよりもあとに刊行された)『カヴァイエス研究』を読んだほうがよさそうです。

 カヴァイエスによる直観主義のアイデアの批判的継承については、以下のエントリで部分的にまとめました。

ブラウアーの直観主義と、カヴァイエスと、近藤和敬さん
主観と客観、主意と主知
カヴァイエスによる直観主義のアイデアの批判的継承

 ほんでもって、カヴァイエスがいうのところの「主題化」あるいは「主題野」については何も書いていなかったので、今回あらためて『カヴァイエス研究』の該当部分をのぞいてみます。

 ちなみに近藤さんがいうには、カヴァイエスの「主題化」の解釈は、カヴァイエス解釈史のなかでもっとも問題が大きいものであるとのこと。というのも、カヴァイエス本人が「主題化」についてそれほど詳細な規定をあたえていないらしいのです。

 本人が述べていることを要約すると、

<1>既存の操作を上位の操作の対象とすることができる。
<2>その例の1つは「位相変形のトポロジー」である。

の2点にまとめられるそう。<1>については、どのような操作でどのような根拠に基づいて可能であるのかということが明示されていないし、<2>については、どの例について考えていたのか明らかにされていないもよう。

 そんななか近藤さんは、(これらの解釈は最終的にカヴァイエスの「概念の哲学」全体のなかでの一貫性においてのみ評価されうるものと考えるとしたうえで)「かなり踏みこんだ解釈」を試みておられます。

 まず、<2>の例については、ホモトピーの導出からはじまる一連の位相幾何の理論(ホモトピー群、ホモロジー群、コホモロジー群)を念頭においていたのではないか、という解釈。

 つまりカヴァイエスは、位相空間XとYのあいだの連続写像のことを「位相変形」と呼び、その連続写像たちの族が連続であることを「位相変形のトポロジー」と呼んだのではないか、と。

 で、これは<1>の「例」なわけですが、いったい何をどうして「例」になりうるのかといえば、<1>でいうところの「操作の対象」の例の1つが位相空間XとYであり、そのうえの「操作」が連続写像ということらしいのです。

 このとき位相空間XとYは、位相と集合の公理系によって定義されているけれども、それ自身も、もともとは「操作」(被覆関係、順序関係など)であった。しかし、それが対象としてあつかわれるときには、その具体的な「操作」が何であるのかということは問われていない。

 というわけで、既存の操作を上位の操作の対象とすることができる、と。

 なんだか「構造と素子」と、圏論のことを思い出します。

 で、このあとは公理系の話になっていくのですが、長くなるのでいったん切ります。

(つづく)
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海と出会う前の身体は、泳げないのでもなければ、泳げるのでもない。

 『現代思想』2011年4月号から、近藤和敬「問い・身体・真理 カヴァイエスとドゥルーズの問題論」を読んでいます。



3 ドゥルーズとスピノザの身体論
  -----泳ぐことを学ぶことの例の解釈


は、次のように始まります。
 考えること、学ぶことは、一般に考えられているのとは違って、必ずしも頭だけを使うとはかぎらない。
(p.188)

 「わたしたちは、すでに身体において頭以上に思考することができる、ということを卓抜の比喩で示したのはドゥルーズだった」

 として、『差異と反復』からの引用が示してあります。そしてその比喩の意味するところを、近藤さんがわかりやすく端的に説明してくれています。
人は海に入るまで泳ぎかたを知らない。泳ぐということは、わたしだけで生じる出来事ではないし、わたしだけに生じる出来事でもない。それは海との出会いのなかで、そして海においても同時に生じる出来事である。海には海の自律性があり、人の身体には人の身体の自律性がある。自律性、いいかえればそれは物質性にともなうコナートゥスである。それらが出会い、ある動きがそこにおいて同時に両方の自律性において生じる。重要なのは、その動きを、それぞれの物体、つまり人の身体と海の双方は、前もって知らないということである。
(p.188)

 コナトゥスという言葉は、上野修『スピノザの世界』でももちろん出てきますが、p.34において上野さんは、「スピノザの大変重要なジャーゴンなので覚えておこう」というかっこ書きを添えておられます。そして、コナトゥスを次のように説明しています。
石ころであろうと雨粒であろうと馬であろうと人間であろうと、何かある事物が一定の時間、それでありそれ以外のものでないというふうに存在するとき、そのようにおのおのの事物が自己の有に固執しようと努める力、それが「努力」(コナトゥス conatus)と呼ばれるものである
(上野修『スピノザの世界』p.33〜34)

 近藤さんの文章にもどると、海の微小な流れがどう動きうるかということも身体の微小な動きも規定されているのに、それにも関わらず、その変化の度合いの理念的な規定は、現実的な出会いおける現実的な変化を演繹しない、と話は続きます。
それは、あとでみるガロア理論の例で考えるなら、方程式の解と1の累乗根を添加した拡大体の集合の集合論的記述が、直接的に中間体Mの特定を導かないのと同じである。それは自己同型写像の群との出会いによってはじめて浮かびあがる拡大体の特異な変様である。
(p.188)

 冒頭の『差異と反復』からの引用部分には、「ライプニッツが例示しているように、海の理念は、微小なものたちのあいだの差異的連結つまり差異的関係とそれらの関係の変化の度合いに応じた特異性とからなるひとつの体系である」と書いてあるのですが、海の理念がそうであるように、同時に、身体の理念も、「差異的関係とそれらの関係の変化の度合いに応じた特異性とからなるひとつの体系」と考えることができます。

 そのような、身体と海というまったくことなるふたつの「理念」(「条件づけるもの」)が出会うとき、そのふたつの「理念」のあいだにだけ共鳴する「特異性」が浮かび上がり、そこにある種の「共役的関係」が生まれる、つまり、身体の運動でもあると同時に海の運動でもあるようなひとつの変様を生み出す特異な諸条件が生じる、
それが「泳ぐこと」の理念であり、それを実現した「解」が「泳ぐ」ということである。
(p.189)

 いまは近藤さんの言葉をざっくり要約しているだけなのですが、この一節を読んでいると、差異的関係の入れ子構造・出会うこと・変様・体系というもののイメージが豊かに広がっていきます。しかし、広がっていくだけで、あいかわらずそのイメージに追いつく自分の言葉を見つけることができません。
泳げるか泳げないかというのは、この「問題的な場」におけるひとつの現実的な問題であって、それが生じる以前には「問題的な場」そのものが存在しない以上、「解」についてはなおのこと、そのアプリオリな存在も非存在もありえない。泳げるようになること、つまり泳ぐことを「学ぶ」ことは、この「共役的関係」を、つまり身体と海の動きを同時に「条件づけるもの」を身体化することである。
(p.189)

 以上のようなドゥルーズの「学ぶ」ことの理解は、あきらかにスピノザ的な二元論を改変したものを前提しているとして、このあと『エチカ』からいくつかの定理を抜き出しつつさらに考察が進んでいきます。どの定理が抜き出されているかは割愛しますが、その考察の中から印象的だった次の2文を引用したいと思います。
したがって、わたしたちは誰も、自分たちの身体しか知らないならば、自分たちの身体がなにをなしうるのかについて知らないと結論できることになる。
(p.190)

 あらたな「条件づけるもの」あるいは「問題的な場」が発生するのは、異他的な対象との出会いによるのであり、そしてこのとき、自覚されない物体を巻き込んだ身体の自律的な変様の動きこそが、その「問題的な場」と「解」の発生の両方にとって不可欠なものとなるのである。
(p.190)

(つづく)
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スピノザ的二元論、わたしたちが〈知らない〉ということ自体を自覚することの困難

 『現代思想』2011年4月号から、近藤和敬「問い・身体・真理 カヴァイエスとドゥルーズの問題論」を読んでいます。



2 カヴァイエスとスピノザの「数学的経験」
 ------カントとスピノザの「条件づけるもの」の系列


は、次のように始まります。
 数学それ自体が即自的に存在しているという単純な図式に陥らないためには、「理論の身体」とわたしたちの「身体」とがなんらかのしかたで結びついている接続点を明らかにすることが必要である。
(p.185)

 そのためには、数学のがわにある「操作的な統一性」の俯瞰的な記述からするのでもなく、わたしたちの肉体的で心理的ないわゆる「身体」から出発するのでもなく、その両方と接している両義性の中心から議論を開始する必要がある、と。

 カヴァイエスが「数学的経験」と呼んだのは、この両方と接している地点のことのようです。なので、カヴァイエスの「操作」概念は、公理的体裁のもとで記述可能な、いわゆる数学によって理解可能な「操作」でもあるけれど、同時に、「操作を遂行する」というこの〈わたし〉の経験における「操作」でもある、と。
ここにおいて、「数学」でありうるものの〈外〉との接点が数学の〈内〉において見出されることになる。
(p.185)

 カヴァイエスは「数学的経験」を次のように定義しているようです。→「規則に支配され、それ自身から独立した条件にしたがう振る舞いの体系」

 なんだか国語の文法の問題に出てきそうだけど出てきたら困る一文です(^^;。どれが、何を修飾しているのか。どこが何にかかるのか。

 とりあえず、「それ自身から独立した」の「それ」は、「振る舞い」と考えてよさそうです。すなわち、「振る舞い自体から独立している条件にしたがう振る舞いの体系」。

 このあとカントがからんだ記述があるのですが、そこをとばして先に進むと、とにかくカヴァイエスの独自の「身体論」を理解するためには、この「振る舞い自体から独立している条件にしたがう振る舞い」というパラドックスを真剣に受け入れることがミソらしいのです。

 近藤さんいわく、「これがパラドックスに見えるのは、通常わたしたちが前提している認識枠組みが、スピノザ的な(あるいはドゥルーズ的なといってもよいと思うが)二元論的な思考のイマージュを拒否しているからではないだろうか」と。

 スピノザ的な二元論とはなんでしょうか? 二元論というのは、何か2つのものを原理とみなす(言い換えれば区別できる2つのものがあるとする)考え方だと思うので、いろんな「2つのものの組み合わせ」があるのでしょうが、とりあえず最初に思いつくのはデカルトの二元論です。

 かつて上野修『スピノザの世界』を読んだときに、スピノザが一番勉強したのはデカルト哲学だと書いてあったし(p.107)、デカルトとスピノザを結びつけることは不自然でもなさそう。

 しかし、スピノザの二元論はデカルトの二元論ではないはず……というのも、上野修『スピノザの世界』に、スピノザはデカルトの残した問題(デカルトが目をつむった問題)に答えを出したと書いてあり、その問題というのは二元論(につながるもの)だったと私は理解しているからです。つまりはその答えが、「スピノザ的二元論」ということなのだろうか?

 近藤さんはこう続けます。
二元論的な思考のイマージュが必要になるのは、心と体の並行関係のアポリアを形而上学的に受けいれるためではまったくないだろう。むしろそうではなくて筆者は、そのような二元論的なイマージュが必要になるのは、わたしたちが知っているものを越えているもの(いわば未だ来らざるもの)が、経験されて現にあるというありかた以外で〈ある〉ということを引き受けるためなのであって、いいかえれば、わたしたち(様態的個物)が、みずからの本質を逸脱してでもわたしたち以外のものに〈なる〉ということを引き受けるためでしかないと考えてみたい
(p.186)

 実際、カヴァイエスは、「数学的経験」を定義するために、「スピノザの加護を求めました」と自分で書いているらしいのです(父への手紙のなかで)。そもそも私がスピノザを何か1冊と思ったのも、そうしないと『カヴァイエス研究』の第五章が読めないと思ったからでした。

 そこでいったん、『カヴァイエス研究』の第五章に移ってみると、こんなことが書いてあります(p.171〜172)。
第4章の結論で見たように、カヴァイエスの「数学的経験」とは、「規則」についての局所と大域の二元的な経験のことを意味している。すなわち、「規則」の有限的な様態である「操作」の「遂行」と、その「規則」そのものの一般的で直接的な、しかし対象を措定しないままの把握である「概念」との二元性からなる「規則」についての経験である。すなわち、「規則」を真理として理解するのであれば、「数学的経験」とは、すなわち真理の二元的な経験のことと解されることになる。
 ここに「二元的」「二元性」という言葉が出てきます。しかも、この記述が含まれる第4節のタイトルは“カヴァイエスのスピノザへの言及と「数学的経験」”となっており、まさに先ほどの引用部分と対応する箇所です。そしてこのあと第5節で「観念の系列」と「概念の連鎖」が出てくるのです。

 以前、上野修『スピノザの世界』を読んだとき、この「観念の系列」のことは気になっていたのですが、結局、ブログの記事に起こせたのは台風で「並行論」を考えるくだりについてだけでした。そこから、こういうイメージを抱くことはできて、そうなるとなんとなくドゥルーズっぽくなってくる感じがするのですが、なかなか自分のなかでクリアにできずにいます。

 とにかく、カヴァイエスの「数学は生成である」という主テーゼは、スピノザの加護のもとになりたっている、ということだけはわかりました。

 しかし、条件の自覚的把握が「条件づけるもの」の無際限な系列を形成するという発想自体は、スピノザをもってこなくても、カントの『純粋理性批判』における「宇宙論的理念」を参照すれば説明できるとして、該当部分が引用されています。

 説明はできるんだけど、つぎのことはわからないのではないか、と。

 「すなわち、いかにしてわたしたちは上位の条件を自覚することができるようになるのか」ということ。

 近藤さんは、こんなことを語っています。カントの議論は、わたしたちが〈知らない〉ということ自体を自覚することの困難を甘く見積もりすぎているのではないか。むしろわたしたちにとっては、〈知っている〉と〈誤認〉することのほうがよっぽど簡単であり、効率的なのではないか、と。

 そしてこの一節を次のようにしめくくったうえで、第3節へと移っていくのでした。
無知を「非認」(méconnaître)することが表象可能性の条件であるとするならば、わたしたちが日常において共通感覚と常識を働かせるためには、必然的にみずからの無知を「非認」し、イデオロギーのなかで息をするしかないのではないか。そのなかにあって、みずからの無知を知るということは、表象可能性の外において、つまり同時に妥当な言説空間の外において思考するということであり、それはいいかえれば頭以外で考えるということではないか。

(つづく)
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カヴァイエスの「理論の身体」、「数学の身体全体」

 『現代思想』2011年4月号から、近藤和敬「問い・身体・真理 カヴァイエスとドゥルーズの問題論」を読んでいます。



 1 カヴァイエスの「理論の身体」 のオープニングでは、カヴァイエスという人がいったい何をした人なのかということについてざっと紹介してあるのですが、当然のことながらここを詳しく読みたいのなら『カヴァイエス研究』を紐解くのがよいのだと思います。また、文末のにもかなり興味深いことが書いてあり(ブルバキズムとカヴァイエスのねじれた関係について)、ここを考えるだけでもけっこうな時間がかかりそうです。

 そのあたりはひとまずおいといて、本文を読んでいきます。カヴァイエスを理解するうえでは「操作」と「概念」という概念(!)が重要になってくるのですが、とりあえず「操作」については次のようなエントリを書いています。>カヴァイエスのいう「数学的経験」としての「操作」とはどのようなものであるのか。

 近藤さんいわく、カヴァイエスの「操作」概念は、カントの直観的構成の議論を明確に引きずりながら、ブラウアーの直観主義数学における「構成」概念を彼なりに引き受けたものである、と。

 さらに(カヴァイエスの文献からの引用をふまえて)いわく、カヴァイエスにとって「操作」とは、主観的で独我論的でありながら、同時に客観的に条件づけられたものではなければならないということだ、と。

 カヴァイエスの文献からの引用部分には、「理論の身体(corps d'une théorie)」という言葉と、「数学の身体全体(corps entier des mathématiques)」という言葉が出てくるのですが、当人の文章を読んでもさっぱり意味がわからないのに対し、近藤さんがこれらの言葉に対して加えている次の説明は、なんて面白いんだ!と思える内容になっています。(太字は傍点付き)
つまり、「理論の身体」とは、わたしたちの個々の「身体」であると同時に、それには還元されない独立した自律性と同一性をもったある部分的に超越論的なものの「身体」であもるのだ。この部分的に超越論的なものである「理論の身体」が、さらに相互に連絡しあい、そのなかで特殊な襞がおりあげられていくことで「数学の身体全体」なるものが生成していく。しかし、その「全体」というのは、網羅的な全体ではなく、あくまで部分的な全体であって、暫定的な全体にすぎないのだが。ここで重要なのは、この部分的に超越論的なものという一見して奇妙な概念でなにを把握することができるのかを見極めることだろう。
(p.185)

 ここを読んだあと、カヴァイエスの文献からの引用部分を落ち着いて読んでみると、次の箇所などにピンとくるものを感じられるようになってきました。
内的必然性が、予見不可能な増大によってみずからを乗り越えるよう体系に強いる。そのうえこの増大は、後になってからしか増大したことがわからないようなものなのだ。もはや最初の固定のときにしか列挙することはなく、数学の身体全体[corps entier des mathématiques]こそが諸段階を通じて、そしてさまざまな形式のもとで、唯一の運動によってみずからを展開する。そしてこの数学の身体全体こそが、同様に、技術的な人為性を巻き込みながら、認識の同じ機能を遂行したり、あるいはしなかったりするのだ。つまり、認識とは数学がそれをもたらす場合には、演繹以外ではありえない、ということだ
(p.184)

 以前、『カヴァイエス研究』を読んだときには、「自律性」に対してついついこのような反応(>「自己」にまつわるとりとめのない曖昧な思考)をしてしまったわけですが、きのうもリンクした「解けない問い」までいくと、ショックを受けるような話ではないのだな、と思えるようになりました。

 では、「部分的に超越論的なもの」という、一見して奇妙な概念でなにを把握することができるのかを見極めるためにはどうしたらいいのか。

 というわけで、「条件づけるもの」と「条件づけられるもの」という観点から考えていくことになります。

(つづく)
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