TETRA'S MATH

数学と数学教育

一貫性に執着しない、個人・組織・国家の矛盾の理解と許容

 『なめらかな社会とその敵』(鈴木健/勁草書房/2013)の「分人民主主義」の最後のところを読んでいます。


 
 かつて、何かの本を読んでいるときに、「わたし」はいて、そして「わたし」はいないという感覚を味わったことがありました。どの本のどの部分だったかメモしておけばよかったなぁとも思うのですが、その瞬間は栞とかメモとか、そういうことにも考えが及ばなかったでしょう。また、たとえメモしていてもう一度同じところを読めたとしても、同じ感覚は味わえないような気がします。覚えているのは、不思議な安堵感、開放感を味わったという事実のみ。

 鈴木健さんの提案する分人民主主義は、自己の結晶化を否定するものであるということを、前回のエントリで書きました。個人民主主義においては、個人の一貫性と組織や国家の同一化が中心となる規範と論理だったけれど、分人民主主義が大事にする規範の論理は、身体から生じる自然な声や情動を重視し、個人の中、組織の中、国家の中の矛盾を理解し許容する文化である、と。

 ここに出てくる「身体」という言葉には、一応「保留」の付箋を頭の中で立てていますが、「身体」がキーワードだということは、この本に出会ったときから感じています。

 で、鈴木さんは言います。

他者の言動の矛盾をことさらにあげつらって指摘し,責任を追及することはない。組織や国の代表者が人によって異なる発言をしていても,一貫性がないと非難することはない。
 一貫性という強迫観念から解き放たれた社会システムを,民主主義という社会のコアシステムから支え上げるのが分人民主主義の構想である。これは単なる民主主義の変革に留まらず,新しい社会規範を生み出すことだろう。静的で一貫し矛盾のないことを是とする世界観から,動的で変容し多様性にあふれることを是とする世界観へ,私たちの身体が今こそ試されている。

 (p.175)

 「静的で一貫し矛盾がない」。どこかできいた話です。

 また、こういう話をきくと、森毅の言葉が思い出されます(>森毅が「遠山啓の深さ」を語る、その深さに圧倒される。)↓

終世を変わらぬ硬骨の冷徹な知性の眼があったとしても,それは遠山自身の人間性に由来するだけのことであって,「意見を変えない」ことのイデオロギー的倫理性にこだわっていたとは思えない.何年か先にも通用しそうで,ツジツマの上での「無謬性」にこだわりたがる,文化官僚精神のようなものとは,遠山はむしろ無縁だった.

 ここで森毅の言葉を出すと、遠山啓の論の矛盾を擁護するのか!と怒られちゃうかもしれませんが、むしろ気になるのは、私自身が、遠山啓や数教協の矛盾をこれまであげつらってきたことが多かったかもしれない、ということです。なので耳がイタイ部分はありますが、かといって、やらなきゃよかったとも思っていません。私がもっとも批判したかったのは、「問い直すことなく、何かを頑なに守る」、つまり、守ることそのことに、いちばん重きを置こうとする姿勢だったから。それを守ることが、もっとも守らないことかもしれないのに。

 意見をくるくる変える人は信用できない(あてにならない)し、一貫性のない矛盾した言動をする人とは会話や議論が成り立ちにくく、そいうものを無条件で受け入れろといわれてもなかなかできることではありません。でも、「意見を変えないこと」「一貫していること」「矛盾がないこと」そのものが信用できる条件だとすると、中身はさして問題じゃないんだろうか、とも思えてきます。いやいやそうじゃなくて、一貫していることはあくまでも前提・条件であり、それを満たした上で、中身を考えていくこと、対立する概念を検討していくことが議論なんだよ……と考えると、ちょっと不思議なことが起こるように思います。

 というのは、その議論が意味をなすのは、どちらか(あるいは双方)に変化があるときであり、それは「一貫していたものの一貫性が破れたとき」か、「一貫性を失わないまま先に進めたとき」なのではないか、と思うわけであり。後者であればよりストレスが少ないかもしれませんが、となると、議論する前の意見は未完成の状態であり、先に進めたときの意見も、やっぱりまだ未完成ということになりそうな気がするのです。いずれにしろ、議論が意味をなすのは、「変化」があったときであり、それは意見に変化の余地があるときである、と。

 自らの一貫性にさえ執着しなければ,自分の思いどおりにならない集団的意思決定が行われたときの姿勢が変化することだろう。体裁を整えるために反対し続ける必要はなくなる。どれも正解かもしれないと考えてみる。自分の意見がいままで変化していたのだから,またこれから変わるかもしれないと思う。そういう考え方もたしかに自分の中にもあったなと反対意見の気持ちを汲み取ってみる。世界の多様性を自らの中に取り込み,自己の多様性を世界にさらけ出す。そのループの中からもしかしたら新しい知性が生じるかもしれない。

 (p.175)

 「世界の多様性を自らの中に取り込み,自己の多様性を世界にさらけ出す」ということを、(一般的な場よりも行いやすい環境で)できるのが、「学校」だといいなぁ……と思っています。なんていうと、「どれも正解ということは、こと算数・数学教育においてはありえない」と、各方面から怒られちゃうでしょうか。どれも正解という結論をめざすのではなく、どれも正解だとすると、どこかで何か困ったことが起こりはしないか、それを自分たちでさがす道筋、そういうものはあるのではないでしょうか。

〔2018年3月:記事の一部を修正しました〕

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鈴木健『なめらかな社会とその敵』を教育関係者に読んでほしいと思う理由

 『なめらかな社会とその敵』(鈴木健/勁草書房/2013)の「分人民主主義」の最後のところを読んでいます。



 これまで、「伝播委任投票システム」と、さらなる投票の可能性について、ほんのさわりだけざっと読んできましたが、先に進んで「7.3 分人民主主義の意義」を読んでいたら、なんだかこの本を教育関係者に読んでほしくなりました。このアプローチ、教育的な意義がとても大きいと思います。(でも、この本のままでは教育関係者にすすめにくいし読みにくいだろうな……かといって変に口あたりよく書きなおすと意味がないしな……)

 一応、細々と教材関係の仕事をしているので、私が(保護者としてではなく)お仕事で教育に関わるときには、ほんとうに「重箱の隅をつつく」作業をしています。でもそれは大事なことであり、つついてなんぼとも思っています。また、私が隅をつつき終わったあとで、他の人が重箱の蓋のヒビを見つけてくださったりすると、ドキっとして反省すると同時に、ありがたいなぁ!としみじみ思います。

 その作業は、教材を作るうえでとても大事だと思うのですが、一方で、「この料理を入れるの、重箱じゃないといけないのかな?」というふうに、ときには根本的なところから考えなおさなくちゃいけないのではないか、ということも、ときどき考えるには考えています。

 さらには、算数・数学の話にとどまらず、学校教育の意味をもっと根本的に捉えなおしたくなるきょうこのごろ。特に学校公開で娘の学校に行っていろんな場面を見ると、その思いが強くなるのです。

 たとえば、次のようなくだり。ドキっとしませんか?

……,責任を要求することによって,自己は統合され,自らを合理化して制御し,それを通じて組織や国家に尽くすことができるようになる。こうして,社会的責任を通して一貫した自己が生まれる。

 (p.174)

 教育って、この「自己の統合」を「あたりまえのこと」として扱っているように思うのです。

 鈴木健さんの提唱する分人民主主義は、こうした自己の結晶化を否定するものです。そんなこというと教育関係者に怒られそうだけれど、自己の結晶化を否定するというのは、「私の存在」を否定することではなく、全体主義に陥ることでもないと思うのです。むしろ、上記のような自己の統合が、「私の存在」の心許なさや、集団のなかで活動していくしんどさを生じさせているということもあるのではないか……と思うのです。学校現場に、「私」と「公」があるのに、「共」がない。

 かつて、娘の学校公開のときに「こういう授業っていいなぁ!」と思える算数の授業に出会ったのですが、あそこには「共」があったのだといまさらのようにふりかえっています。それはいわゆる協同的学習ではなく、少人数制のなかの、普通の形態の授業ではありましたが、だとしてもともに学びあっていた。「共」には、「私」も「公」もゆるやかに混ざっている。動いている。

 近代社会システムは,国家と個人に主軸をおいて,個人の所有権を認めるとともに,国家に公共財の所有権を認めてきた。二軸のうち国家に重点をおくか個人に重点をおくかという争いが,20世紀の歴史の大きな潮流である。だがここで,そもそも公私の二分性で世界をみるのではなく,「共」の考え方を導入するとどうなるのだろうか。ただそのときに,共同体というはっきりとした主体性をまずもってくるのではなく,ゆるやかなネットワークの中で共有される状態を想像してほしい。つまり,私がもっていると思い込んでいるものは,じつは私に関係のあるネットワークに濃淡をもって遍在している。「私」というのはその中で濃いだけの存在にすぎない。そう考えると,所有という概念が揺るがされるのである。

 (p.170)

 鈴木健さんは本文の最後のページ(p.244)で、「……,本書が目指すところは,仏教哲学のひとつの実装形態といっても過言ではないのかもしれない」と書いておられますが、この言葉が私にはしっくりきます。ということをここで書くと、仏教に詳しい人からも、数学に詳しい人からも、あるいは仏教にも数学にもさほど興味がない教育の専門家からも批判されてしまうのかもしれません。でも、そもそもそういう批判がなぜ成り立つのか?というところまでを掘り下げて考えさせようとする、そういう性質がこの本にはあるように思います。というか、そのような性質を、私はこの本から受け取りました。

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胃で投票する、胃が投票する

 『なめらかな社会とその敵』(鈴木健/勁草書房/2013)の「伝播投票委任システム」のところを読んでいます。委任がループする場合についても具体的に考えていきたかったのですが、目と頭がぐるぐるしてきたのでちょっとおいといて、先を読んでいくことにします。



 とにかく思うことは、鈴木健さんは確かに本気だな、ということ。これらのシステムを世の中に導入することを本気でリアルに考えながら、細かく具体的に検討していき、残っている課題点を示されています。

 その“本気さ”とあわせて、「え!そんなところまで考えているの!?」と、びっくりしている私。でも、昨今のもろもろの技術の進歩や世の中の動きと考えあわせると、それはけして突飛な発想ではなく、少なくとも技術的には数十年のうちには可能なことかもしれません。しかし、技術的には数十年のうちに可能かもしれないけれど、人間社会がそれを受け入れるか、あるいは真面目に検討したうえで拒否するには、やはりあと100年以上かかるような気がします。

 まず、p.156に、「7.1.8 線形投票と集合知」という項目があり、鈴木さんはここで私たちの投票に対する先入観をさらに崩そうとします。分人民主主義では1人がもっている1票を分割して、0.2票と0.8票というように、分割して投票できましたが、そのことについてはさすがにだいぶ慣れてきました。しかし鈴木さんはここでとまらないのです。この場合、たとえ分割してもスカラー値を投票する方法であり、スカラー値ではない投票も可能だとして例を示されるのです。

 たとえば、税制について、所得税の累進課税の度合いをどのようにするのが一番いいかを決めたいとき。普通の投票だったら、2つあるいは3つのプランの中から選択して、スカラー値を投票するという方法になるけれど、横軸に所得、縦軸に税率をとったグラフを考えて、何らかのタッチインターフェイス上で指を動かして、その運動の奇跡を投票することもできるというのです。つまり、手書きグラフによる投票。

 「そんなことまで考えているんだ!」とここでびっくりするのはまだ早かった。その次に「非線形投票」の可能性が示され、「胃の集合知」と進み、「無意識の生体情報を用いて投票ができるようになる可能性」が示されます。まず例に出されているのはブレインマシンインターフェイスを用いて、脳の情報を直接使って投票する方法。

だが脳に限らず,たとえば胃にセンサーをつけて投票させるということも可能だ。戦争するかどうかといったある種の議題については,脳で投票させるよりも意外と適切な結果がでるかもしれない。

 (p.157)

 これにはさすがに驚きました。だけど、「そんな投票ってアリ!?」と思った直後、いま私たちが実際に行っている「頭で(?)考えて判断して投票用紙に書き込んで1人1票を投じる選挙」の妥当性はいったいどこにあるのか、と問い直していくと、確かに投票に対する先入観が揺らいでいきます。

 さらに間をとばしてp.163に進むと、「秘密投票の歴史と思想」という項目があり、筆記投票、発声投票、喝采選挙のこと、思想家たちがどの投票制度を評価したのかなどについて書かれてあって、結局、いま私たちがやっている投票方法も、作られてきたもの、そして国家なりなんなりに採用されてきたもの、そうしてあたりまえのこととしてやってきた方法なんだなぁと思えてきます。そういえば、挙手をもって……とか、拍手をもって……という承認のしかたは、いまでもありますよね。そもそも選挙権の考え方からして、ひと昔前は、いまと違っていたわけであり。それいえば選挙そのものだって……。

 もちろん、小選挙区や比例代表制、1票の格差といった議論は盛んに行われていると思いますが、それ以前の根本的な投票制度の改革について、いままでこんなところから考えたことがありませんでした。いや、びっくり。

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1票そのものを分割する投票システム(3)/累積得票来歴行列

 『なめらかな社会とその敵』(鈴木健/勁草書房/2013)の「伝播投票委任システム」のところを読んでいます。



 「伝播投票委任システム」を理解するにあたり、同居しているA、B、C、Dの4人が今夜のごはんを、カレー、焼肉、おすしのうちのどれにするか、投票で選ぶという場面について考えています。

 いま考えている例は単純なので、途中経過を順に追っていくことができるし、結果だけを見ても何が起こったのかだいたい察しがつきますが、複雑な場合になると、いったい自分はどのメニューにどれだけの票を投じたのか、ということが結果だけからはわかりません。そこで、自分が投じた1票がどのような比率で分配されたのかが目で見えるものとして、「累積得票来歴行列」というものを考えます。

 まずはじめは、単位行列を考えます(t=0の場合)。そして、投票行列に単位行列をかけると、投票行列と同じものが出てくるので、これがt=1の場合の累積得票来歴行列となります。



 こうして出てきたA(1)をVの右からかけると、今度はA(2)が出てきます。



 ここで終わりなのですが、念のためもう一度計算しておきます。



 つまり、Aさんはカレーに1票投じたし、Bさんは焼肉とおすしに0.5票ずつ投じました。Cさんは自分の1票をまるごとAさんに委任したためにカレーに1票投じることになり、Dさんは焼肉に0.4投票した上で、Bさんに0.6票委任したので、Bさんによって半分に分けられて、0.3票ずつ焼肉とおすしに投票した、ということになるかと思います。

 結局、カレーは1+1=2(票)、焼肉は0.5+0.7=1.2(票)、おすしは0.5+0.3=0.8(票)獲得して、今夜のごはんはカレーでございます。前回の結果と一致してよかったです。

 せっかくなので、もうちょっとだけ複雑な例を考えてみます(委任関係がループしない場合)。

・・・の予定だったのですが、ちょっとだけ複雑にしたつもりが、けっこうプロセスが多くなることがわかり、手計算ではなかなか大変だとわかったので、ひとまずここまで。



(つづく)
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1票そのものを分割する投票システム(2)/累積得票ベクトル

 『なめらかな社会とその敵』(鈴木健/勁草書房/2013)の「伝播投票委任システム」のところを読んでいます。



 「伝播投票委任システム」を理解するにあたり、同居しているA、B、C、Dの4人が今夜のごはんを、カレー、焼肉、おすしのうちのどれにするか、投票で選ぶという場面について考えています。

 メニューからメニューへの投票を示す右下の3×3の部分は単位行列になります。というわけで、あらためて……↓



 さて、きょうは「累積得票ベクトル」について考えます。伝播委任ネットワークの伝播性がまだ働いていない状態(タイムステップ=0)においては、人は1票をもち、提案は票をもたない(0票)ものとします。したがって、累積得票ベクトルa(t)の初期値は、いま考えている今夜のごはん投票では、a(0)=t(1,1,1,1,0,0,0)となります。tはかっこの左上に小さくついているのですが、ここではそのまま示します。たぶん転置を表す記号ですね。本当はたて1列のベクトルだよ、ということなのでしょう(たぶん)。したがって、行列の右からかけることになります。



 こうして出てきたベクトルがa(t+1)になります。Aさんはすでに1票投じているのですが、Cさんからまた1票もらいました。BさんはDさんから0.6票、カレーはAさんから1票をもらい、焼肉はBさんから0.5票、Dさんから0.4票もらいました。また、おすしはBさんから0.5票もらっています。

 さらにa(t+1)を投票行列にかけて、a(t+2)を出してみます。



 Aさんがもらった1票はカレーに投じられ、Bさんがもらった0.6票は0.3票ずつ焼肉とおすしに投じられるので、カレー2票、焼肉1.2票、おすし0.8票となりました。

 念のためもう一度計算しておきます。

   

 もう人は票をもっていないので、単位行列×t(2,1.2,0.8)の形になり、これ以上数字は動かなさそうです。というわけで、今夜のごはんはカレーに決定しました(^^)。

 考えようによっては、焼肉を食べたい人が2人いるんだから、焼肉になってもよさそうなものですが、焼肉を食べたい人の気持ちよりも、Aさんがカレーを食べたい気持ちのほうが強く、しかも、Cさんの委任をうけていることが効いて、このような結果となったようです。

 この理解であってるんだろうか??


(つづく)

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1票そのものを分割する投票システム(1)/投票行列

 『なめらかな社会とその敵』(鈴木健/勁草書房/2013)の「分人民主主義」のところを読んでいます。鈴木さんは分人民主主義のための投票システムとして、「伝播投票委任システム」を提案されています。

 はやい話、自分のもつ1票を好きなように分割して投票できるシステムで、矛盾した意見に0.6票と0.4票に分けて投票してもかまわないし、だれかに委任してもいいようになっているのです。私、この投票システム、やってみたいな。でも、人によってはなんだかおかしいと感じたり、無責任だと感じる場合もあるかもしれませんね。衆議院選挙や知事選挙でこれをやってみたらどういう結果が出るのだろう? ぜいたくをいえば、一度、従来どおりの1人1票の投票と、「伝播投票委任システム」を同時にやって、結果がどう違ってくるかを見比べてみたい。

 とりあえず、具体的な投票の例で、システムの内容を確認していきたいと思います。

 いま、有権者は同居しているA、B、C、Dの4人として、今夜のごはんを投票で決めることにします。候補は、カレー、焼肉、おすしの3つ。この場合、1人の有権者は他の人に委任してもいいし、直接メニューに投票してもいいので、投票先できる相手(人・メニュー)は6項目です。自分もあわせると7項目になるので、7×7行列を考え、それぞれの要素の値で投票の割合を示すことにします。

 まず、Aさんは、断然カレー!と言っています。なので、カレーに1を投票します。Bさんは、焼肉かおすしがいいなぁと言っていて、それぞれに0.5投票しました。Cさんは特に希望がないようで、Aさんに任せると言っています。なので、Aさんに1投票。Dさんは、強いていえば焼肉がいいけど、まあ、Bさんに任せるよということで、Bさんに0.6、焼肉に0.4投票します。

 ほんでもって、これからまた行列を考えていくのですが、伝播委任投票システムでは j から i への投票値を意味するVijを成分として投票行列Vを考えるので、列和が1になるような行列を考えていくことになるらしいのです。PICSYのときと違いますね。なお、PICSYのときには出てきていなかったような気がする「確率遷移行列」という言葉がVにあてられています。そして、ベクトルを行列の右からかけるような形の式が出てきます。

 なお、メニューは人にも他のメニューにも投票しないわけですが、「反復計算のときに票をそこに蓄積させたいという技術的な理由のため」、メニューからメニューへの投票を表す3×3の部分は単位行列になります。すなわち、自分自身に1を投票するような形になります。こうなるとメニューの投票についても、列和が1になって、具合がいいですね。

 というわけで、投票行列は次のようになります↓


  

(つづく)

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江本伸悟さんの行列のテキストを読みながら

 『なめらかな社会とその敵』(鈴木健/勁草書房/2013)についてあれこれ検索するなかで、この本の中に出てくる「行列」を理解するためのテキスト(PDFファイル)を見つけました。江本伸悟さんという方が書かれたもののようですが、どのサイトに属しているんだろう?ともとをたどったら、アシル治療室というところに到着。治療室で数学サロンを行ったときの資料なのだそう。治療室で数学サロン! 面白いなぁ。なるほど、こちらはこのアプローチからの「からだ」なのですね。「ファイルダウンロード」のページに、たしかに「2/17数学サロン資料」がありました。江本さんは物理畑で非線形科学を専攻されている方のようですね。

 で、私としては、やはり『なめらかな社会とその敵』のなかの固有ベクトルの定義が気になっているのです。固有ベクトルは、一般的には、Ax=λx、すなわち(行列)×(ベクトル)=(固有値)×(ベクトル)の形で定義されていると私は認識していて、それが『なめらかな社会とその敵』では、xA=λxというふうに、(ベクトル)×(行列)=(固有値)×(ベクトル)という形をしているので。

 なんだか久しぶりに、「かけ算の順序問題」を思い出します。かけ算に順序が“ある”場合の例として、行列どうしの積が出されることがよくあると思うのですが、行列とベクトルの積の場合はどうなんだろうなぁ・・・と。実際、行列の中身を転置すれば、どちらでもよくなるのですが、転置しないといけないわけであり、少なくともMaximaくんはAx=λxの定義を採用しているようなので、どうでもよくなっていないのでございます。どちらの定義が「一般的」なんだろう?と考えているうちに、固有ベクトルの歴史も気になってきました。

 

 このことを気にしているのは私だけなんだろうか??と、ちょっとさびしくなって検索してみたものの、特に違和感を感じている人は見つけられないので、私だけかもしれません。そうなのか……。いや、私も、定義が示されていればどっちでもいいと思うのですが、ちょっと気になったものですから。(もしかするとxA=λxのほうが一般的なのだろうか?)

 ほんでもって、江本さんも xA=λx で固有ベクトルを定義されています。そりゃそうですよね、『なめらかな社会とその敵』の理解のための資料だから。そしてこの資料のなかで、行列を「ベクトルを変化させるもの」と紹介されています。

 そういう話になると、かつてこのブログで書いた作用する行列作用するベクトルかけ算における「ハタラキ」という言葉の整理のことなどを思い出します。あるいはちょっと派生してベクトルで主客反転を考える---「あなたはだれ?」のことなど。

 江本さんのテキストを読んでいると、固有ベクトルを xA=λx と定義する方法は、行列のほうを「ハタラキ」と考え、そして、「モノ(?)×ハタラキ」の順で定義するものなのだなぁ、と思えてきます。

 ベクトルを横ベクトルで考えると、文中でもそのままの形で表せるので、便利といえば便利かもしれませんね。ただし、PICSYの評価行列では、メンバーを上から並べるので(自分から他への評価を横に並べて行和が1になる)、貢献度ベクトルをあわせて示すと、縦に並びます。でも、その状況は貢献度ベクトルを縦ベクトルで考えても同じなので(評価行列でメンバーが横に並び、貢献度を示すとこれも横に並ぶ)、どっちがどっちということもないですね。

 まあ、どうせ行列で縦幅とられるのだから、ベクトルも縦にしたほうが、逆に横に広がらなくて省スペースかもしれないですね……って、だんだん発想が森毅っぽくなってきた!?(いや、私は原稿料は関係ないけど)

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ベクトルの「正規化」はやはり理解必須だった。

 鈴木健『なめからな社会とその敵』に出てくる数式を細かく読み解いていく(2)/p.70の続きとp.72において、正規化は理解必須ではないというようなことを書きましたが、やっぱりこれも、もう少しちゃんと考えておくことにしました。

 水槽のアナロジー()では、操作を何度繰り返しても変わらない水の量を整数で示すと、(40L、35L、38L)になりました。このとき、水槽の水の量の合計は、40L+35L+38L=113Lになります。固有ベクトルは、何倍かしてもいいのだから、もし、合計の水の量を1Lにしたいのであれば、水槽Aには(40/113)L、水槽Bには(35/113)L、水槽Cには(38/113)Lの水を入れておけばいい、ということになります。なので、合計の水の量を3Lにしたいのであれば、それぞれ3倍すればいいわけであり、小数で求めると、順に、約1.0619、約0.9292、約1.0088となります。Excelで求めた数値()もそのあたりに落ち着いています。

 で、以前、「正規化」について大間違いな記述を残したまま書きかけのエントリを公開したことがあったのですが、あのとき確か、113Lがノルムであるような書き方をしていたと思うのです。

 だけどこの場合、ベクトルのノルム、つまり(40、35、38)という3つの数の組をベクトルとして考えたときの“大きさのようなもの”は、√(40^2+35^2+38^2)=√4269で、約65.3376となります。ノルムはやはり矢線で考えたほうがわかりやすく、空間座標で原点と点(40,35,38)を結ぶ線分を直方体の対角線とみなすと、その長さは√4269となり、この方向の矢線で長さが1となるものの終点の座標は(40/√4269、35/√4269、38/√4269)となります。こういう形にするのが、いわゆる「正規化」なんだろうと思います。

 40L、35L、38Lというのはそれぞれ水の量なんだけれど、これが3つの数の組となったとき、つまりベクトルとなったとき、それはもう「単なる水の量」からとびたち、3つで1つの新たなものになるのだと思います。その、新たなものになったうえでの“大きさのようなもの”が、ノルムなのだな、と。

 だから、正規化をすると、(40、35、38)のそれぞれを約65.3376でわって、だいたい(0.6122、0.5357、0.5816)となるわけですが、水の量の合計を3Lにしたいときに、つい、この値を3倍したくなります。しかし、そうではなくて、この3つの数値をたした1.7295をもとにして、和を3にするためには 3÷1.7295=1.7346(倍) くらいすればよい、と考えなくちゃいけないわけですよね(何かにつけ桁数の区切り方がきわめて適当ですみません)。そうすると、(0.6122、0.5357、0.5816)→(1.0619、0.9292、1.0088)となり、先の数値と一致してとりあえずほっとします。でも、なんだかきつねにつままれた気分。不安。

 とにもかくにも、PICSYの貢献度ベクトルって、そういうふうに定義されているのですよね↓

  →  

 だからやっぱり、正規化の理解は必須でした。

 PICSYについて考えているときにわからなくなるのは、扱っている数値が普通の「300円」とか「1980円」とかではなく、また1割引きとか20%増しでもなく、単位のない小数がとびかっていて、それが行列のなかの要素なのか、固有ベクトルであるところの貢献度ベクトルのなかの数値なのかがわからなくなるところです。水槽のアナロジーでは、行列の中の数値は「ポンプが送り出す水の量の比率」だったし、固有ベクトルは「水の量」だったのだけれど。

 たぶん、普通の「お金」や「金額」で考えているうちは、わからないのでしょうね。1枚の値打ちが変化していく「自分株券」のようなものと考えるのがコツなのかな。やっぱり、ワークショップなどで実際に体験するのが、いちばん話は早いのかもしれません。

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鈴木健『なめらかな社会とその敵』に出てくる数式を細かく読み解いていく(7)/p.78のさらにつづき

 『なめらかな社会とその敵』(鈴木健/勁草書房/2013)のp.76〜78に載っている数式を細かく読み解いているところです。いま、(4.21)について考えています。

 さて、売り手sさんへの流入の差分まできました。

 (4.21)の前

 次は流出の差分です。本ではσ(1−Ess)となっていますが、これはこういうことでしょうか?

 (tamami)

 なるほど、流入の差分も流出の差分も、最終的な形に「t+1」は入っていないので(そうなるように変形したのですが)、もう「t」も消してよさそうですね。

 で、流入の差分と流出の差分が等しいので、

 (4.21)の前

という等式ができて、ここからσが求められます。

 (4.21)

 なお、(4.20)から(4.21)にいたる流れは、本の中では次のように示されています。



 そういえば肝心のことを書くのを忘れていましたが、自然回収によって生成されるEbbは予算制約として導入されたものであり、メンバーはこの予算制約の範囲内で他の人と取引をすることになります。

 で、鈴木さんは上記の式を導出したあと、「それゆえ,売り手の自己評価(予算制約)が高ければ高いほど,買い手にとっての価格は低くなる」と書いておられ、これは、Essが大きくなると1−Essは小さくなり、(4.12)の右辺の最初の分数の分母も小さくなるので、σが一定のとき、分子にあるαも小さくなって、買い手にとっての価格は低くなる、ということなのだろうと理解しました。予算制約を大きく取ろうとすると(使えるお金を少なくしようとすると)価格が安くなるのですね。

 ほんでもってこのあと、(4.21)の右辺で「1−Ess」をとりさった(1−Ess=1とみなした)ものが示されて、これは買い手から売り手へのフローの差分である、そのため、価格はほぼ流入量の差分になる、と書いてあります。

 結局、上の式で示した「売り手への流入の“差分”」というのが、買い手から売り手へのフローということになり、これがσ(1−Ess)とイコールで結ばれて(4.21)の式が出てくるのだから、1−Essをきわめて1に近いものと考えるという意味で“ほぼ”、σになるということなんだろうと私は理解しました(が、いまいちすっきりせず)。

 とりあえず文字式は追えましたが、具体的な数値の取引で考えないと、さっぱりイメージがつかめないですね……。


(つづく)

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鈴木健『なめらかな社会とその敵』に出てくる数式を細かく読み解いていく(6)/p.78のつづき

 『なめらかな社会とその敵』(鈴木健/勁草書房/2013)のp.76〜78に出てくる数式を細かく読み解いているところです。前回で(4.19)まできました。もう一度のこの式をば。

 (4.19)

 
 で、この式から(4.20)にいくときの式変形を、私は次のように考えました。

 (tamami)

というわけで、

 (4.20)

が導き出されます。この式をまじまじとながめてみると、実はそんなに複雑な形をしていないなぁと思いました。−Ebbがなければもっとシンプルになるんだけれど。この式は、時間(t+1)における「買い手bさんの」貢献度が、時間tにおける(?)貢献度に対して、どのような比率になっているか、ということを示す形になっています。「1−Ebb」というのは、自然回収としての自己評価分をのぞく評価(つまり自分以外への評価)で、分母はそれにαを加え、分子はそのままの形になっています。αが大きければ大きいほど、分母が大きくなり、分数全体は小さくなるので、貢献度も小さくなるということは、感覚的にわかります。しかし、ひき算ではない。
 
 さて、先に進みます。売り手sさんにとって、「流入の差分」と「流出の差分」は等しいことから、(4.21)という式が示されているのですが、1行目のイコールは式変形のイコールで、2行目のイコールは等式のイコールだと思うので、意味の異なるイコールが並列しており、私にとってはちょっとわかりにくかったです。というわけで、私は次のように考えました。ただし、最後のところでなんだか無理があるので、何かを間違っているか、あるいは意図をつかめていないのかもしれません。

 なお、すでに書いたように、ここから先、Eやcの右肩にtがついていないのですが、私としてはつけたほうがわかりやすかったので、つけてあります(つけちゃいけないのかもしれないけれど・・・)。まず、「流入の差分」については、


(tamami)

 私はここでとめたのですが、本では次のような式になっています。

 (4.21)にいたる過程の一部

 こういうふうに式変形できないこともないのですが、なんだか不自然なので、逆に、本に載っている式が自分の式と一致することだけ確かめておきます。

 (tamami)


 長くなったので、ひとまずここまで。


(つづく)

鈴木健『なめらかな社会とその敵』 | permalink
  

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