TETRA'S MATH

数学と数学教育

一貫性に執着しない、個人・組織・国家の矛盾の理解と許容

 『なめらかな社会とその敵』(鈴木健/勁草書房/2013)の「分人民主主義」の最後のところを読んでいます。


 
 かつて、何かの本を読んでいるときに、「わたし」はいて、そして「わたし」はいないという感覚を味わったことがありました。どの本のどの部分だったかメモしておけばよかったなぁとも思うのですが、その瞬間は栞とかメモとか、そういうことにも考えが及ばなかったでしょう。また、たとえメモしていてもう一度同じところを読めたとしても、同じ感覚は味わえないような気がします。覚えているのは、不思議な安堵感、開放感を味わったという事実のみ。

 鈴木健さんの提案する分人民主主義は、自己の結晶化を否定するものであるということを、前回のエントリで書きました。個人民主主義においては、個人の一貫性と組織や国家の同一化が中心となる規範と論理だったけれど、分人民主主義が大事にする規範の論理は、身体から生じる自然な声や情動を重視し、個人の中、組織の中、国家の中の矛盾を理解し許容する文化である、と。

 ここに出てくる「身体」という言葉には、一応「保留」の付箋を頭の中で立てていますが、「身体」がキーワードだということは、この本に出会ったときから感じています。>つながる快感

 また、前回のエントリの「濃淡」の話は、ものを一元的にみるということにもつながります。

 で、鈴木さんは言います。
他者の言動の矛盾をことさらにあげつらって指摘し,責任を追及することはない。組織や国の代表者が人によって異なる発言をしていても,一貫性がないと非難することはない。
 一貫性という強迫観念から解き放たれた社会システムを,民主主義という社会のコアシステムから支え上げるのが分人民主主義の構想である。これは単なる民主主義の変革に留まらず,新しい社会規範を生み出すことだろう。静的で一貫し矛盾のないことを是とする世界観から,動的で変容し多様性にあふれることを是とする世界観へ,私たちの身体が今こそ試されている。
 (p.175)

 「静的で一貫し矛盾がない」・・・どこかできいた話です。

 また、こういう話をきくと、森毅の言葉が思い出されます(>森毅が「遠山啓の深さ」を語る、その深さに圧倒される。)↓
終世を変わらぬ硬骨の冷徹な知性の眼があったとしても,それは遠山自身の人間性に由来するだけのことであって,「意見を変えない」ことのイデオロギー的倫理性にこだわっていたとは思えない.何年か先にも通用しそうで,ツジツマの上での「無謬性」にこだわりたがる,文化官僚精神のようなものとは,遠山はむしろ無縁だった.
 ここで森毅の言葉を出すと、遠山啓の論の矛盾を擁護するのか・・・と怒られちゃうかもしれませんが、むしろ気になるのは、私自身が、遠山啓や数教協の矛盾をこれまであげつらってきたことが多かったかもしれない、ということです。なので耳がイタイ部分はありますが、かといって、やらなきゃよかったとも思っていません(^^)←結局かなり頑固。私がもっとも批判したかったのは、「問い直すことなく、何かを頑なに守る」、つまり、守ることそのことに、いちばん重きを置こうとする姿勢だったから。それを守ることが、もっとも守らないことかもしれないのに。

 で、こんなことも思うのです。>どの時点での私の意思が、私の意思なのか。

 また、「わたしの考え」と「だれかの考え」の境い目のことも。

 意見をくるくる変える人は信用できない(あてにならない)し、一貫性のない矛盾した言動をする人とは会話や議論が成り立ちにくく、そいうものを無条件で受け入れろといわれてもなかなかできることではありません。でも、「意見を変えないこと」「一貫していること」「矛盾がないこと」そのものが信用できる条件だとすると、中身はさして問題じゃないんだろうか、とも思えてきます。いやいやそうじゃなくて、一貫していることはあくまでも前提・条件であり、それを満たした上で、中身を考えていくこと、対立する概念を検討していくことが議論なんだよ・・・と考えると、ちょっと不思議なことが起こるように思います。

 というのは、その議論が意味をなすのは、どちらか(あるいは双方)に変化があるときであり、それは「一貫していたものの一貫性が破れたとき」か、「一貫性を失わないまま先に進めたとき」なのではないか、と思うわけであり。後者であればよりストレスが少ないかもしれませんが、となると、議論する前の意見は未完成の状態であり、先に進めたときの意見も、やっぱりまだ未完成ということになりそうな気がするのです。いずれにしろ、議論が意味をなすのは、「変化」があったときであり、それは意見に変化の余地があるときである、と。
 自らの一貫性にさえ執着しなければ,自分の思いどおりにならない集団的意思決定が行われたときの姿勢が変化することだろう。体裁を整えるために反対し続ける必要はなくなる。どれも正解かもしれないと考えてみる。自分の意見がいままで変化していたのだから,またこれから変わるかもしれないと思う。そういう考え方もたしかに自分の中にもあったなと反対意見の気持ちを汲み取ってみる。世界の多様性を自らの中に取り込み,自己の多様性を世界にさらけ出す。そのループの中からもしかしたら新しい知性が生じるかもしれない。
 (p.175)

 「世界の多様性を自らの中に取り込み,自己の多様性を世界にさらけ出す」ということを、(一般的な場よりも行いやすい環境で)できるのが、「学校」だといいなぁ・・・と思っています。なんていうと、「どれも正解ということは、こと算数・数学教育においてはありえない」と、各方面から怒られちゃうでしょうか。どれも正解という結論をめざすのではなく、どれも正解だとすると、どこかで何か困ったことが起こりはしないか、それを自分たちでさがす道筋、そういうものはあるのではないでしょうか。

 2週間ほど前に始めたTwitterのほうでちょっと書いたのですが()、先日、娘の学校の算数の授業(少人数制)を見て、はじめて(身近な例で)習熟度別学習に疑問を感じました。そのことについて、子育てブログのほうで書いていけたらいいな・・・と思っているところです。(書けるかな?)
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鈴木健『なめらかな社会とその敵』を教育関係者に読んでほしいと思う理由

 『なめらかな社会とその敵』(鈴木健/勁草書房/2013)の「分人民主主義」の最後のところを読んでいます。



 これまで、「伝播委任投票システム」と、さらなる投票の可能性について、ほんのさわりだけざっと読んできましたが、先に進んで「7.3 分人民主主義の意義」を読んでいたら、なんだかこの本を教育関係者に読んでほしくなりました。このアプローチ、教育的な意義がとても大きいと思います。(でも、この本のままでは教育関係者にすすめにくいし読みにくいだろうな… かといって変に口あたりよく書きなおすと意味がないしな・・・)

 一応、細々と教材関係の仕事をしているので、私が(保護者としてではなく)お仕事で教育に関わるときには、ほんとうに「重箱の隅をつつく」作業をしています。でもそれは大事なことであり、つついてなんぼとも思っています。また、私が隅をつつき終わったあとで、他の人が重箱の蓋のヒビを見つけてくださったりすると、ドキっとして反省すると同時に、ありがたいなぁ!・・・としみじみ思います。

 その作業は、教材を作るうえでとても大事だと思うのですが、一方で、「この料理を入れるの、重箱じゃないといけないのかな?」というふうに、ときには根本的なところから考えなおさなくちゃいけないのではないか、ということも、ときどき考えるには考えています。

 さらには、算数・数学の話にとどまらず、学校教育の意味をもっと根本的に捉えなおしたくなるきょうこのごろ。特に学校公開で娘の学校に行っていろんな場面を見ると、その思いが強くなるのです。

 たとえば、次のようなくだり。ドキっとしませんか?

・・・,責任を要求することによって,自己は統合され,自らを合理化して制御し,それを通じて組織や国家に尽くすことができるようになる。こうして,社会的責任を通して一貫した自己が生まれる。

 (p.174)

 教育って、この「自己の統合」を「あたりまえのこと」として扱っているように思うのです。

 鈴木健さんの提唱する分人民主主義は、こうした自己の結晶化を否定するものです。そんなこというと教育関係者に怒られそうだけれど、自己の結晶化を否定するというのは、「私の存在」を否定することではなく、全体主義に陥ることでもないと思うのです。むしろ、上記のような自己の統合が、「私の存在」の心許なさや、集団のなかで活動していくしんどさを生じさせているということもあるのではないか・・・と思うのです。学校現場に、「私」と「公」があるのに、「共」がない。

 「こういう授業っていいなぁ!」と思う授業 (1)で示したあの算数の授業には、「共」があったのだと、いまさらのようにふりかえっています。それはいわゆる協同的学習ではなく、少人数制のなかの、普通の形態の授業ではありましたが、だとしてもともに学びあっていた。「共」には、「私」も「公」もゆるやかに混ざっている。動いている。

 近代社会システムは,国家と個人に主軸をおいて,個人の所有権を認めるとともに,国家に公共財の所有権を認めてきた。二軸のうち国家に重点をおくか個人に重点をおくかという争いが,20世紀の歴史の大きな潮流である。だがここで,そもそも公私の二分性で世界をみるのではなく,「共」の考え方を導入するとどうなるのだろうか。ただそのときに,共同体というはっきりとした主体性をまずもってくるのではなく,ゆるやかなネットワークの中で共有される状態を想像してほしい。つまり,私がもっていると思い込んでいるものは,じつは私に関係のあるネットワークに濃淡をもって遍在している。「私」というのはその中で濃いだけの存在にすぎない。そう考えると,所有という概念が揺るがされるのである。

 (p.170)

 鈴木健さんは本文の最後のページ(p.244)で、「・・・,本書が目指すところは,仏教哲学のひとつの実装形態といっても過言ではないのかもしれない」と書いておられますが、この言葉が私にはしっくりきます。ということをここで書くと、仏教に詳しい人からも、数学に詳しい人からも、あるいは仏教にも数学にもさほど興味がない教育の専門家からも批判されてしまうのかもしれません。でも、そもそもそういう批判がなぜ成り立つのか?というところまでを掘り下げて考えさせようとする、そういう性質がこの本にはあるように思います。というか、そのような性質を、私はこの本から受け取りました。

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胃で投票する、胃が投票する

 『なめらかな社会とその敵』(鈴木健/勁草書房/2013)の「伝播投票委任システム」のところを読んでいます。委任がループする場合についても具体的に考えていきたかったのですが、目と頭がぐるぐるしてきたので(^^;、ちょっとおいといて、先を読んでいくことにします。



 とにかく思うことは、鈴木健さんは確かに本気だな、ということ。これらのシステムを世の中に導入することを本気でリアルに考えながら、細かく具体的に検討していき、残っている課題点を示されています。

 その“本気さ”とあわせて、「え!そんなところまで考えているの!?」と、びっくりしている私。でも、昨今のもろもろの技術の進歩や世の中の動きと考えあわせると、それはけして突飛な発想ではなく、少なくとも技術的には数十年のうちには可能なことかもしれません。しかし、技術的には数十年のうちに可能かもしれないけれど、人間社会がそれを受け入れるか、あるいは真面目に検討したうえで拒否するには、やはりあと100年以上かかるような気がします。

 まず、p.156に、「7.1.8 線形投票と集合知」という項目があり、鈴木さんはここで私たちの投票に対する先入観をさらに崩そうとします。分人民主主義では1人がもっている1票を分割して、0.2票と0.8票というように、分割して投票できましたが、そのことについてはさすがにだいぶ慣れてきました。しかし鈴木さんはここでとまらないのです。この場合、たとえ分割してもスカラー値を投票する方法であり、スカラー値ではない投票も可能だとして例を示されるのです。

 たとえば、税制について、所得税の累進課税の度合いをどのようにするのが一番いいかを決めたいとき。普通の投票だったら、2つあるいは3つのプランの中から選択して、スカラー値を投票するという方法になるけれど、横軸に所得、縦軸に税率をとったグラフを考えて、何らかのタッチインターフェイス上で指を動かして、その運動の奇跡を投票することもできるというのです。つまり、手書きグラフによる投票。

 「そんなことまで考えているんだ!」とここでびっくりするのはまだ早かった。その次に「非線形投票」の可能性が示され、「胃の集合知」と進み、「無意識の生体情報を用いて投票ができるようになる可能性」が示されます。まず例に出されているのはブレインマシンインターフェイスを用いて、脳の情報を直接使って投票する方法。
だが脳に限らず,たとえば胃にセンサーをつけて投票させるということも可能だ。戦争するかどうかといったある種の議題については,脳で投票させるよりも意外と適切な結果がでるかもしれない。
 (p.157)

 これにはさすがに驚きました。だけど、「そんな投票ってアリ!?」と思った直後、いま私たちが実際に行っている「頭で(?)考えて判断して投票用紙に書き込んで1人1票を投じる選挙」の妥当性はいったいどこにあるのか、と問い直していくと、確かに投票に対する先入観が揺らいでいきます。

 さらに間をとばしてp.163に進むと、「秘密投票の歴史と思想」という項目があり、筆記投票、発声投票、喝采選挙のこと、思想家たちがどの投票制度を評価したのかなどについて書かれてあって、結局、いま私たちがやっている投票方法も、作られてきたもの、そして国家なりなんなりに採用されてきたもの、そうしてあたりまえのこととしてやってきた方法なんだなぁ・・・と思えてきます。そういえば、挙手をもって・・・とか、拍手をもって・・・という承認のしかたは、いまでもありますよね。そもそも選挙権の考え方からして、ひと昔前は、いまと違っていたわけであり。それいえば選挙そのものだって・・・

 もちろん、小選挙区や比例代表制、1票の格差といった議論は盛んに行われていると思いますが、それ以前の根本的な投票制度の改革について、いままでこんなところから考えたことがありませんでした。いや、びっくり・・・
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1票そのものを分割する投票システム(3)/累積得票来歴行列

 『なめらかな社会とその敵』(鈴木健/勁草書房/2013)の「伝播投票委任システム」のところを読んでいます。



 「伝播投票委任システム」を理解するにあたり、同居しているA、B、C、Dの4人が今夜のごはんを、カレー、焼肉、おすしのうちのどれにするか、投票で選ぶという場面について考えています。

 いま考えている例は単純なので、途中経過を順に追っていくことができるし、結果だけを見ても何が起こったのかだいたい察しがつきますが、複雑な場合になると、いったい自分はどのメニューにどれだけの票を投じたのか、ということが結果だけからはわかりません。そこで、自分が投じた1票がどのような比率で分配されたのかが目で見えるものとして、「累積得票来歴行列」というものを考えます。

 まずはじめは、単位行列を考えます(t=0の場合)。そして、投票行列に単位行列をかけると、投票行列と同じものが出てくるので、これがt=1の場合の累積得票来歴行列となります。



 こうして出てきたA(1)をVの右からかけると、今度はA(2)が出てきます。



 ここで終わりなのですが、念のためもう一度計算しておきます。



 つまり、Aさんはカレーに1票投じたし、Bさんは焼肉とおすしに0.5票ずつ投じました。Cさんは自分の1票をまるごとAさんに委任したためにカレーに1票投じることになり、Dさんは焼肉に0.4投票した上で、Bさんに0.6票委任したので、Bさんによって半分に分けられて、0.3票ずつ焼肉とおすしに投票した、ということになるかと思います。

 結局、カレーは1+1=2(票)、焼肉は0.5+0.7=1.2(票)、おすしは0.5+0.3=0.8(票)獲得して、今夜のごはんはカレーでございます。前回の結果と一致してよかったです。

 せっかくなので、もうちょっとだけ複雑な例を考えてみます(委任関係がループしない場合)。

・・・の予定だったのですが、ちょっとだけ複雑にしたつもりが、けっこうプロセスが多くなることがわかり、手計算ではなかなか大変だとわかったので、ひとまずここまで〜(^^;


(つづく)
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1票そのものを分割する投票システム(2)/累積得票ベクトル

 『なめらかな社会とその敵』(鈴木健/勁草書房/2013)の「伝播投票委任システム」のところを読んでいます。



 「伝播投票委任システム」を理解するにあたり、同居しているA、B、C、Dの4人が今夜のごはんを、カレー、焼肉、おすしのうちのどれにするか、投票で選ぶという場面について考えています。

 まず、前回の訂正です。行列の要素が1つがまちがっていました。「おすしからおすしへ」のところが0になっていましたが、あそこも1です(訂正済)。メニューからメニューへの投票を示す右下の3×3の部分は単位行列になります。というわけで、あらためて・・・↓

   

 さて、きょうは「累積得票ベクトル」について考えます。伝播委任ネットワークの伝播性がまだ働いていない状態(タイムステップ=0)においては、人は1票をもち、提案は票をもたない(0票)ものとします。したがって、累積得票ベクトルa(t)の初期値は、いま考えている今夜のごはん投票では、a(0)=t(1,1,1,1,0,0,0)となります。tはかっこの左上に小さくついているのですが、ここではそのまま示します。たぶん転置を表す記号ですね。本当はたて1列のベクトルだよ、ということなのでしょう(たぶん)。したがって、行列の右からかけることになります。

   

 こうして出てきたベクトルがa(t+1)になります。Aさんはすでに1票投じているのですが、Cさんからまた1票もらいました。BさんはDさんから0.6票、カレーはAさんから1票をもらい、焼肉はBさんから0.5票、Dさんから0.4票もらいました。また、おすしはBさんから0.5票もらっています。

 さらにa(t+1)を投票行列にかけて、a(t+2)を出してみます。

   

 Aさんがもらった1票はカレーに投じられ、Bさんがもらった0.6票は0.3票ずつ焼肉とおすしに投じられるので、カレー2票、焼肉1.2票、おすし0.8票となりました。

 念のためもう一度計算しておきます。

   

 もう人は票をもっていないので、単位行列×t(2,1.2,0.8)の形になり、これ以上数字は動かなさそうです。というわけで、今夜のごはんはカレーに決定しました(^^)。

 考えようによっては、焼肉を食べたい人が2人いるんだから、焼肉になってもよさそうなものですが、焼肉を食べたい人の気持ちよりも、Aさんがカレーを食べたい気持ちのほうが強く、しかも、Cさんの委任をうけていることが効いて、このような結果となったようです。

 ・・・って、この理解であってるんだろうか??


(つづく)
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1票そのものを分割する投票システム(1)/投票行列

 『なめらかな社会とその敵』(鈴木健/勁草書房/2013)の「分人民主主義」のところを読んでいます。鈴木さんは分人民主主義のための投票システムとして、「伝播投票委任システム」を提案されています。

 はやい話、自分のもつ1票を好きなように分割して投票できるシステムで、矛盾した意見に0.6票と0.4票に分けて投票してもかまわないし、だれかに委任してもいいようになっているのです。私、この投票システム、やってみたいな・・・。でも、人によってはなんだかおかしいと感じたり、無責任だと感じる場合もあるかもしれませんね。衆議院選挙や知事選挙でこれをやってみたらどういう結果が出るのだろう? ぜいたくをいえば、一度、従来どおりの1人1票の投票と、「伝播投票委任システム」を同時にやって、結果がどう違ってくるかを見比べてみたい。

 とりあえず、具体的な投票の例で、システムの内容を確認していきたいと思います。

 いま、有権者は同居しているA、B、C、Dの4人として、今夜のごはんを投票で決めることにします(^^)。候補は、カレー、焼肉、おすしの3つ。この場合、1人の有権者は他の人に委任してもいいし、直接メニューに投票してもいいので、投票先できる相手(人・メニュー)は6項目です。自分もあわせると7項目になるので、7×7行列を考え、それぞれの要素の値で投票の割合を示すことにします。

 まず、Aさんは、断然カレー!と言っています。なので、カレーに1を投票します。Bさんは、焼肉かおすしがいいなぁ・・・と言っていて、それぞれに0.5投票しました。Cさんは特に希望がないようで、Aさんに任せると言っています。なので、Aさんに1投票。Dさんは、強いていえば焼肉がいいけど、まあ、Bさんに任せるよということで、Bさんに0.6、焼肉に0.4投票します。

 ほんでもって、これからまた行列を考えていくのですが、伝播委任投票システムでは j から i への投票値を意味するVijを成分として投票行列Vを考えるので、列和が1になるような行列を考えていくことになるらしいのです。PICSYのときと違いますね。なお、PICSYのときには出てきていなかったような気がする「確率遷移行列」という言葉がVにあてられています。そして、ベクトルを行列の右からかけるような形の式が出てきます。

 なお、メニューは人にも他のメニューにも投票しないわけですが、「反復計算のときに票をそこに蓄積させたいという技術的な理由のため」、メニューからメニューへの投票を表す3×3の部分は単位行列になります。すなわち、自分自身に1を投票するような形になります。こうなるとメニューの投票についても、列和が1になって、具合がいいですね。

 というわけで、投票行列は次のようになります↓

         
  

(つづく)
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個人(individual)

 再び 『なめらかな社会とその敵』(鈴木健/勁草書房/2013)を読んでいきたいと思います。PICSYについては一段落させて、次は「分人民主主義」について。

 第6章のタイトルは、「個人民主主義から分人民主主義へ」となっています。分人民主主義というのは、はやい話、個人を分ける発想です。いや、その言い方もおかしいのかもしれません。個人はもともと分かれているものかもしれないわけであり。

 PICSYは価値が伝播する経済システムなので、「自分という存在が世界の中で同心円に広がっている」という感覚を生じさせる(と期待される)ものでしたが、これはいってみれば、自分という存在が世界の一部となるような、そういう感覚にもつながるものではないかと私は思っています。一方、分人民主主義は、自分を分割されたものと考える発想です。

 こういう話になると、構造と素子のことを思い出します。つまり、PICSYは自分を素子とみなす考え方であり、分人民主主義は自分を構造とみなす考え方ではないかと。

 そもそも個人という言葉は、英語ではindividualであり、これは分割できるという意味のdividualに、否定の接頭語inを合体させたものなのだそうです。つまり、「これ以上分割できない」ということで「個人」。なんか昔、こういこと考えたぞ・・・と思いきや、これでした。>命の細分化、トータルな死

 英語のindividualについては本に書いてあることですが、そういえば日本語の「個」ってなんなんだろう?とあらためて考えてみました。人が固まると個になるんでしょうか。娘の漢字辞典によると、やはり「人」と「固い」の組み合わせのようです。かたい物の一つ一つを示す、と。

 そういえば、溶け合う身体/かつての社会運動と現在のボランティア活動とのちがいでリンクした杉万俊夫さんの論文の9ページめ(p.25)では、こんなことが書いてありました。
個人主義に言う個人の身体は「個体」に、溶け合う身体は「気体」になぞらえることができる。個人主義に言う個人の身体は、皮膚で画された肉体の中に、判断の座である中核部分を内蔵している。それは、内部に中核部分を有する固体に似ている。一方、他の身体と溶け合う身体は、気体に似ている ---- 最初は分離している複数の気体は、容易に混ざり合い、最初の区別はなくなってしまう。
 最初の一行の「個体」はおそらく「固体」の誤植でしょうね。「皮膚で画された肉体の中に、判断の座である中核部分を内臓している」というのは、まさに【膜】と【核】だ。一方、溶け合う体は「気体」になぞらえられていますが、あらためて考えると、【網】とはちょっと違うかもしれませんね。網には一応、交点あるし。

 ほんでもって、このdividualを導入したのはジル・ドゥルーズらしいです。「管理社会について」という短い論考の中で使った概念なんだとか。1990年だそうで、大澤真幸さんが『身体の比較社会学機戞片α霆駛次砲鮟个靴診と同じですね。管理社会ときくとフーコーを思い出しますが、やはり関連しているもよう。

 このようなdividualの発想をふまえて、鈴木健さんは、民主主義(Democracy)ならぬ、分人主義(Divicracy)を提唱するのでした。


(つづく)
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溶け合う身体/かつての社会運動と現在のボランティア活動とのちがい

 現在、生活ブログ「TATA-STYLE」のほうで、久保田裕之『他人と暮らす若者たち』について書いているところなのですが()、関連する話題を検索してさがしているときに、次のような面白い論文を発見しました。

「集団主義−個人主義」をめぐる3 つのトレンドと現代日本社会
(杉万俊夫/2010)
http://www.group-dynamics.org/pdf/journal/27/02sugiman.pdf

 参考文献のなかに、大澤真幸さんの『身体の比較社会学機戞片α霆駛次1990)が含まれています。含まれているというか、この文献にかなり依拠した論文なのかもしれません。

すなわち、本稿では、規範を身体の溶け合いから擬制される「第三の身体」の声であると捉える大澤(1990)の規範理論に依拠し、第三の身体が具象的身体とオーバーラップする段階を集団主義、そのオーバーラップを減じ、第三の身体が不可視の抽象的身体となった段階を個人主義と定義する。

 (1ページめ/p.17)

 この「溶け合い」について興味深かったのは、阪神大震災のボランティアについての次の話でした(10ぺーじめ/p.26)。

 日本におけるボランティア活動は、1980年代から徐々に広まりつつあったけれども、まだまだ先駆者の時代、つまり、一部の人間が行う特殊な活動だった。それが阪神大震災で一気に大衆化した、というところから話は始まります。

 杉万さんは、阪神大震災の3 日後から被災地に入り、その後長期にわたって多くのボランティアとともに救援活動に携わりながら、現地の推移を観察したそうですが、ボランティアに参加する人々のうちもっとも多かったのは大学生で、彼らと活動をともにする中で、自分が学生だったころ(1970 年ごろ)の政治運動、社会運動との大きな違いに気がついたそうです。

 かつての政治運動や社会運動の原動力は、理想や思想(イデオロギー)であったのに対し、被災地で見たボランティア活動は思想的に無臭だという点。被災地で活動した多くの団体の中には、杉万さんと同じ世代がリーダーシップをとって、明確な思想性を打ち出していた団体もあったそうですが、そのようなリーダーは、いつしか大多数のボランティアから孤立していったのだとか。

 では、ボランティアを救援活動へと突き動かすものは何なのかと考えたとき、彼らの原動力は、身体の溶け合いではないのだろうか、と杉万さんは言います。被災者のために炊き出しをする、大量の被災者が身を寄せる避難所で労働をする、高齢者や障害者など災害弱者と呼ばれる人たちを励まし援助する、そのような救援活動を通じて被災者と至近距離で触れ合うことは、救援する者と救援される者の垣根をなくし、双方が溶け合う状態をもたらす、と。
 
 かつての政治運動、社会運動を行う身体は、理想や思想に駆動されるものであり、高度に抽象化した規範の作用圏に身を置いたものでしたが、被災地で活動するボランティアたちは、思想的無臭性を特徴とし、溶け合う身体を希求しつつ活動する、というわけです

 また、その点は、阪神大震災以降、ボランティア活動の一領域をなすにいたった災害NPO(災害救援・防災活動に特化した非営利組織)に限らず、福祉、地域づくり、海外協力など、他の領域で活動するボランティアたちにも共通している、と杉万さんは書いておられます。

 この論文は2010年ですから、東日本大震災が起こる前であり、その後また考察も進んでいることでしょう。おそらくボランティアのあり方は、阪神大震災の流れを汲んだものになっているのではないかと想像しています。

 ここで久しぶりに鈴木健『なめらかな社会とその敵』にもどると、p.123にこんなことが書いてあります。

 PICSYという仕組みは,ひとりひとりが自分株を発行して,その自分株の金庫株で取引をしているのと同様である。自分株の所有関係は自分が誰に依存していまここに生きているかという情報であり,自分が誰を部分的に養っているかという情報でもある。さらにいえば,自分という存在の価値もまた,たくさんの人々の貢献によって今ここに成り立っている共有物であるという感覚が育まれるだろう。自分という存在が世界の中で同心円上に広がっているという感覚こそ,近代社会を超える新しい世界観なのではないだろうか。

 このような仕組みは、貨幣制度とボランティアの違いはあれども、「救援するものと救援されるものの垣根をなくす」という感覚と無関係ではないと思うし、少なくとも相反するものではないと思います。かつての社会運動が「膜」と「核」に近いものであるとすれば、現在のボランティアは「網」と言ってもいいと思うし。

 しかし、気になることがあるのです。上記のようなボランティアの捉え方は杉万さんのものであるし、それを『なめらかな社会とその敵』につなげるのは私の捉え方なわけですが、「溶け合う身体」は大澤真幸さんの議論に依拠したものだと思うわけであり、その大澤真幸さんは鈴木健さんの提案に反対しているらしいのです↓
https://twitter.com/kensuzuki/status/335051420585836544

 議論の内容をきいてみたいな。

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数式をはなれて、つらつら考えていること(3)/人々のつながり方の変化

  『なめらかな社会とその敵』(鈴木健/勁草書房/2013)を読みながら考えたことを書いています。



 あれは私が20代後半か30代前半の頃、つまりはいまから20年近く前のことだったと思うのですが、当時の仲間(女性数人)でおしゃべりをしているときに、そのなかのひとりがこんなことを切り出しました。大きな家か何かを1件借りて(アパートだったかな?)、そこでみんなで暮らすってどうだろうね、と。実現に向けて本気で話を出したというより、ちょっと話題に出してみたという感じだったのですが、まわりの反応がどうだったのかはよく覚えていないものの、心の中で「私は無理〜」と即答しました。実際、声に出して言ったかも。

 いま思えばシェアハウスにつながる発想だったかもしれませんが、もともと仲間だった人たちがいっしょに住むということなので、シェアハウスというより同居なのかもしれませんね。おしゃべりのなかで「たとえば」の話として出てきただけで、実現に向けての動きはありませんでした。同居といえば、私は大学1年生の頃、同郷の女の子3人で暮らしていました。いま思うと、家族5人の生活から、ひとり暮らしデビューへ向かう過渡期のような1年だったのでしょう。

 今年の2月にノマドのことが気になって、あれこれ検索していたら、次のような座談会を見つけました(生活ブログ:TATA-STYLEのほうで関連記事を書いています>)。

 佐々木俊尚×独自の生き方を開拓する5人
 (安藤美冬・大石哲之・玉置沙由里・米田智彦・pha)
  http://www.ustream.tv/recorded/19198532

 5人のなかのpha(ファ)さんという方は、ギークハウスというところの関係者(創始者?)らしく、このギークハウスは、シェアハウスのまさにはしりだったようです。佐々木俊尚さんがこのギークハウスを知ったときのことを、座談会映像開始24分後くらいに話しておられるのですが、それをきいて、言い得て妙だわ〜、その感覚、わかる・・・と思った私。なお、phaさんの話によると、シェアハウス的なものはすでにあったのだけれど、まだネットに露出してはいなかった、という状況だったようです。

 一方、鈴木健『なめらかな社会とその敵』に対する辛口批評についてで山形浩生さんの次の書評をリンクしましたが、

「鈴木『なめらかなその敵』ヒース『ルールに従う』:社会の背後にある細かい仕組みへの無配慮/配慮について、あるいはツイッターでなめ敵とかいって喜んでる連中はしょせんファシズム翼賛予備軍でしかないこと」
http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20130326/1364268478

このなかで山形さんは、次のようなことを書いておられます。
なめらか、つながり、関係性と言えば聞こえはいい。しかしそれは裏返せばべたべたしたしつこいしがらみでもある。本書は実は閉鎖的で息苦しい村社会(悪い意味で)を電子的に再構築しようとする反動的な試みでもある。
(中略)
毎度のことだが、ネットで孤立するインテリ都会人たちは、農村生活を美化し、つながりだのふれあいだのに憧れるのだ。でもそれなら、こんな面倒なシステムを作るまでもなく、勝手に近所づきあいをふやし、親戚づきあいをすればいいだけではないか? でも、みんなそんなことはしない。実際にはみんな、そんなものは面倒でうっとうしいと思っているのだ。
 この感覚も、私にはよくわかります。


 が。


 鈴木健さんが前提としている社会は、このような村社会ではないのではないでしょうか。そして実際、社会はそちら方向ではない向きへ「つながり」がシフトしているのではないでしょうか。血縁や“古くから続く”地縁をメインのベースにしないつながり。佐々木俊尚さんは、このような社会の流れ、若者の感覚をよく理解されている方というか、感知されている方なのだろうと思います。

 それとは別に、「ご近所」としての地域コミュニティの大切さも見直されているように思います。もともとあったその流れを、大震災の経験が後押しした面もあるでしょう。たとえば、シンプルライフ関連の著書を多数出されている金子由起子さんの本を読んでいても、そのことをよく感じます。『持たない暮らし』(2006年)には、「友達がいればモノが要らない」という項目がありますし、『わたし時間のつくり方』(2008年)では、「まわりとつながる」という項目があります。また、『買わない習慣』(2009年)の最後の項目は、「自分ひとりでは豊かになれない」となっています。

 佐々木俊尚さんは私よりちょっとだけ年上だし、金子由起子さんは私より1歳年下なだけなので、いちがいに年代で語れないものはあると思いますが、山形さんが想定している上記の「つながりを厭う感覚」は、ある時代を代表するものであり、そしておそらく、もう古いものなのだろう感じています。だれよりも私が、その古い感覚を維持したまま今も生活しています(そして、無理して変えなくてもいいよ〜と自分に言ってあります)。

 がしかし、そういう頑なな私に風穴をあけてくれたのが「子育て」であり、そしてPTA活動のプラス面でした(いや、PTAにはマイナス面もあるよ、それは認めるよ〜、っていうか身をもって体験したよ〜)。あと、老後のことを考えると、いつまでも頑なじゃいられないよなぁとも思います。

 とはいえ、基本は古くて頑固なので、ツイッターが(私でさえ認知できるくらい)流行してきたころ、首を傾げてしまいました。なにゆえこのようなものがはやるのか?と。みんなそんなに、しじゅうつながりたいんかい!?と。facebookも不思議でした。下手すりゃ、わざわざ切ってきたもの、いい感じでゆるやかに切れてきたものとも、またつながっちゃうんじゃないの・・・?と。そしたまたあの言葉を思い出すのです。「人はどうしようもなくだれかとつながりたいものなのだ」>

 そうこうするうちに今度は逆に、ツイッターをやらなくちゃいけないんじゃないかという強迫観念のようなものにおそわれるようになったのですが(って、それほどのものでもなかったけれど)、検討した結果、自分はやらなくていい(向いていない)という結論が出たしだい。でも、いまとなっては毎日のように検索して読んでいるわけであり、ツイッターから得られるものは大きいと認めざるをえないきょうこのごろです。

 現在は、つながりやすい、つながることが推奨される、つながることが求められる状況になりつつあるように感じています。なので、「つながること、つながり方を選択する」のではなく、「つながらないこと、つながらない方法を選択する」やり方で、人との距離を保っていくような、そんなご時世になりつつあるのではないか・・・と感じています。ちなみにPICSYは、有無を言わさずつなげる経済システムですね。

 余談になりますが、いま娘と2人で、『電脳コイル』のDVDを第1話から順にレンタルして観ているところ。『なめらかな社会とその敵』にちょっとだけ出てくるので。テレビで放送されていたころには虫食い的に観ていたので、ストーリーがよくわからないまま雰囲気だけ味わっていました。以前テレビで観ていたときには意識していなかったのですが、キュウちゃんのあのデザインは、郵便局の〒のマークだったのですね。キュウちゃんとサッチーがお仕事できるのは、郵政局の管轄だけだということが気になっています。そういえば、何ヶ月か前に図書館から借りた東浩紀『存在論的、郵便的−ジャック・デリダについて』は、タイミングはずして結局読まずに返却したのでした。『電脳コイル』については、もう少ししたら、子育てブログ:こどものちかくで感想を書く予定でいます。
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数式をはなれて、つらつら考えていること(2´)/どこからを自分のお金(自分株)にしようか?

 『なめらかな社会とその敵』(鈴木健/勁草書房/2013)を読みながら考えたことを書いています。



 数式をはなれて、つらつら考えていること(2)/高校時代をふりかえるを書いたあと、ピアノの月謝も大学の学費も親のお金だったことに気づきました。ということは、ピアノの先生や大学へ「評価」として自分株を発行したのは、私ではなく私の親ということになるのでしょうか。そうなると、ピアノの先生や大学関係者の手元にあるPICSYシステムの貨幣に伝播していくのは、私のその後ではなく、親のその後なのだろうか? でも、それだと、鈴木健さんのピアノの先生の例があてはまらなくなりますよね・・・(社会人の話ではなさそうだから)。

 やっぱり私は、PICSYをぜんぜん理解していないのだろうか??

 で、もし、私の理解が大きくずれていないとして考え続けてみたのですが、実際は親のお金だとしても、子どもの株として発行することは可能かもしれないなぁと思うにいたりました。たとえば、いまうちの子は歯列矯正をしているのですが()、基本の料金は娘が小さい頃からいただいてきた各種お祝い金のなかから出しており、生活費には計上していません。

 そんなふうにして、これはこの子のお金と決めたものを、その子の自分株にすれば、伝播していくのはその子の今後ということになるかもしれないですね。それをいえば、日々食べている食材だって、その子を作っているのですが、家族の買い物の内容を個人株で考えるのはあまりにも煩雑です。だからそういう家族共通の部分は家計から出して(複数人の収入で家計を維持している場合、その扱いもまた難しそうだが)、それとは別に、塾や習い事などは、それぞれの子どもたちに配分した「子ども株」から出すというのでどうでしょうか。って、複雑なまま生きようとするとやっぱ複雑だなぁ・・・(^^;

 鈴木さん、p.111で書いておられるんですよね。
PICSYの社会では教育者は大きな見返りが期待できる職業となり,
 たぶんそれは、相手が若いから(子どもだから)だと思うんだけど、となると、大抵は親のお金だと思うわけであり。そのへん、どう考えておられるんだろう・・・ 私が読み落としているのかもしれません。どっちにしろいえることは、「将来有望」というその将来がくるまでに、時間差があるということ。

 ちなみに、p.115ではこういうことも書いておられます。
 若い才能のある子どもは,後で高い価値を生み出すので,教育はPICSYにおいて価値の高いサービスとなる。才能のある子どもは優秀な教師から教育を受けるが,教師から受ける期待から逃れにくくなり,ある意味で自由を奪うことになるかもしれない。こうした問題は,貨幣システムの外部から,社会制度として補正していく必要がある。
 社会制度として補正していくのですか・・・・・・うーん・・・ 
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