TETRA'S MATH

数学と数学教育

西谷得宝『柿の実』------数学とは何か

 なんだか、ミイラ取りに行きたくない自分がいつのまにかミイラ取りコースに迷い込んでミイラになりかけている気がしてきたので(^^;、ここらでちょっとクールダウンします。

 きょうは岡潔ではなく、山口昌哉のことばが恋しくなりました。

 山口昌哉『数学がわかるということ』(ちくま学芸文庫/2010年)より
 −『食うものと食われるものの数学』(筑摩書房/1985年)が文庫化されたもの−

   柿 の 実           西谷得宝
  
   せどの柿の木に柿が十五なっていたげな
   そこへ雀が八羽,椋鳥が五羽飛んできてあったげな.
   それでみんなで二十八になったげな,
   どうじゃな仏法とは,おおよそ
   こんなもんじゃげな.

 (p.35/ルビ省略)

 この詩の作者である西谷得宝(にしたにとくほう)さんは秋田県出身のアララギ派の歌人で、若い間の大部分を托鉢僧として東北地方をはじめ、日本の各地を歩いた方だそうです。山口昌哉先生は西谷さんから直接、京都でこの詩をいただいたとのこと。数学者である自分は仏法(ほとけさまのおしえ)というものはよく知らないけれど、この詩があまりにも数学の本当のところをついていて、それを数学にほとんど関係のない方から示していただいたことに感激した、ということを書いておられます。

 山口昌哉先生いわく、この詩は、数学がもつ、ものの見方の「あらさ」と「きちょうめんさ」の両方の性格を、よく表わしている、と。

 ずっと遠くから見れば、背戸(勝手口)の柿の木に、何だか「もの」が、1つ、2つと数えて28個ある。実際に近くに寄ってみると、柿の実が15、スズメが8羽、そしてムクドリが5羽いるわけで、ここではちょっと足し算をする気にはなれないというもの。しかし、それらがほとんど「もの」としか見えないぐらいの位置から見られるならば、1つ、2つ、3つと数えることができる。そしてその計算の結果は28個であって、けっして27個でも29個でもない。

 数学は、柿の木を遠くの方から、しかし、つぶつぶの「もの」が区別できる程度の近さ(遠さ)から眺める場面で“しか”成立していない。

 さらに、たし算をするときに、柿の実とスズメとムクドリという、まったくちがった種類の「もの」を足しあわせたのだけれど、実はこのように1つ1つのものが“ちがっていてこそ”、足し算の意味があるのではないか。

 しかし、異なった種類のものの足し算にも、常識的には限度がある。たとえば、ノミが3匹とゾウが5匹、あわせて8匹というのは、どう考えてもおかしい気がする。人間の世界から見て、ほとんどこのような足し算をする必要もないし、またそんな場面に出くわさないからだろう。

 ところが、この本の§9では、それに少し近いことやってみる。たとえばサメとその他の小さい魚のように敵対関係にある生物の数を、両方足し算するようなこともときにはある。また、寄生する生物と寄生される生物のそれぞれの群れの大きさを足し算したり、ということもある。そうすると、ゾウとそれに寄生するノミなどについて足し算するというようなことを、“考えて”もおかしくないかもしれない。
 
 つまり、はっきりした、「足し算できるもの」と「足し算できないもの」の境目はない。それはその場面場面の問題の性質に応じて、柿の実とスズメを区別したり、ノミとゾウをいっしょに数えたりすることがある、ということ。

 以上は、「数学のあらさ」というタイトルがついた§3のオープニングのざっくりとした要約で、このあと“計算できる「資格」”の話を経て、「集合」の話になっていきます。続く§4のタイトルは「数学のきちょうめんさ−現代数学における3つの立場」となっており、項目は、「形式論理」「誤った推論の例」「数学が正しいとは」「公理主義の立場」「実存主義の立場」「経験主義の立場」「数学はなぜ論理的か」となっています。

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山口昌哉 『数学がわかるということ』・4/微分方程式のこと

 山口昌哉『数学がわかるということ 食うものと食われるものの数学 (ちくま学芸文庫)』の§2を読んでいます。

 そんなこんなで、もう他人のつくった定理にたよることができなくなった山口昌哉先生は、 何とか自分で解答をさがさなくてはいけなくなりました。作業としては、平面上で、ある微分方程式の解を表す曲線を適当な形の別の閉じた曲線で「囲む」ということをする必要があったのだそうです。いくつかの線分や曲線の一部分をつなぎあわせていくのだけれど、だいたい囲めたぞと思ってよろこぶと、水が洩れるように最後のところでそとにとび出してしまう。という作業を40日ほど、毎晩毎晩、失敗失敗の連続でくりかえして、幸運にも成功した、というエピソードです。

 なお、微分方程式について、山口先生は水槽に水を入れてぐるぐるかきまわしたときのおもちゃの舟の動きでわかりやすく説明しておられます。

------ 水槽の水を手でかきまわすと、いくつかの渦ができ、表面の各点には水の流れの速度ベクトルが考えられる。こういうふうに平面の各点にベクトルを考えたものを“ベクトル場”という。微分方程式とは、このベクトル場をあらわす式であり、そして“微分方程式の解”というのは、この平面上の1つの曲線であらわされるだけではなく、その上の各点での接線がはじめにあたえたベクトルと一致している。つまり、かきまわした水槽の表面でいえば、その1点に小さな舟のおもちゃを落としたとき、それが流れていくあとをたどった曲線がこのベクトル場をあらわす微分方程式の解の曲線である。(引用ではなく要約)------

 私は微分方程式ときくと、遠山啓の「量の理論」を思い出すのです。著作集の数学教育論シリーズ6『量とはなにか−供戮法1966年初出の「微分方程式」という文章が収められており、遠山啓は、これまで微分積分というと微分方程式はふくまれていなかったが、ここではこれまでの常識を破って微分方程式のことをあつかうことにする、というふうに話を始めています。微分と積分はどちらかというと、主として、すでにきまっている曲線の接線を求めたり、面積や長さを求めたりすることを学ぶことになっていて、一つの計算術と考えられているが、微分方程式となると視点が大きく変わってくる、そこにはもはやたんなる計算術ではなくなり、未知の法則の発見という広大な世界が開けてくる、と。

 そして、風の流れや海流の方向の話が出され、具体的な式としてはまず同心円の例が出てきます。 点(x,y)において与えられる方向の勾配をf(x,y)で表すと、これが、その点を通る流れの曲線y=φ(x)の接線の勾配dy/dxと一致するから、dy/dx=f(x,y)という方程式を満足するはずであり、方向の場はこの式よって与えられるとみてよい、と。点(x,y)における方向は、点(0,0)と結ぶ直線の勾配y/xと垂直であるから、f(x,y)=−x/yとなるはず。つまり、方向の場は、dy/dx=−x/yという方程式によって与えられている。

 同心円は x^2+y^2=r^2 という形に書けるわけですが(rをいろいろにかえると、大小さまざまな同心円が得られる)、この同心円がdy/dx=−x/yという方程式を満足することは計算でたしかめられるとして、両辺をxで微分したときの式が示されています。→2x+2y dy/dx =0、dy/dx=−x/y

 「同じ方程式であっても、代数方程式では求められているものは未知の数であるが、微分方程式では求められているのは数ではなく,未知の関数である」と遠山啓。少し前に、外延と内包を円の定義で考えましたが(>円の外延的定義と内包的定義)、ここに微分方程式をからませると、また円の見え方が変わってきて面白いです。

 なお、『量とはなにか−供戮里△箸きは増島高敬先生が書いておられて、そのなかにある微分方程式についての山口昌哉先生のエピソードが印象深かった私です。山口先生は高校生を対象にして、“現在こうで(初期条件)”、“このままいくと”(微分方程式)、“やがてこうなる”(解)というふうに公開授業を行ったことがあるのだとか。そういえば山口先生が遠山啓なきあとに、「遠山先生にいまの自分の研究を見てほしかった」と書いていたのがどの本のどこの部分だったか、いまだ見つけられず・・・。なお、『量とはなにか−供拏体は1981年初版。また、『数学がわかるということ』のおおもとの本は1985年に出ていて、山口先生は10年かかってこの本を書かれたようなので、1975年頃から執筆がなされたのでしょう。

 ほんでもって・・・・・・

 またまた寄り道していいですか?(^^;

 いま手元に、実践!「元気禅」のすすめ」という本があるのですが、このなかに「禅僧はなぜ○を描くのか」というコラムがあり、○の意味はひとまずおいとくとして、実際に描いてみると感じられであろうことの記述が面白かったです。○というのは筆を置いた瞬間から一瞬たりとも惰性では進めない、「思」という停滞を抱えてしまうと○にならない、絶えず変化しつづけるから気が抜けない、いわば流動そのもの、「空」と言ってもいいだろう、という内容。「一瞬たりとも惰性では進めない」「停滞を抱えてしまうと○にならない」「絶えず変化しつづける」ということは、全部数学で表現できそうだと思いました。

 また、変化し続けるその変化を記述するには変化しない何かが必要であり、その変化しない何かの設定しだいでは、○というのはとてもシンプルな---ある意味で変化がない---形であるとも言えるのかもしれません。さらに身体感覚でいえば、黒板にフリーハンドで円を描くときと、運動場に円形のラインをひくときとでは違いがあるでしょうね。水槽の表面を動く小舟を少し遠くから見ている私と、小舟に乗っている私とでは、円の意味が違ってくるだろう。

 そしてもう1つ面白かったのは、このコラムの著者である玄侑宗久さんの姪っ子さんが、小学校低学年のころ、宗久さんと宗久さんのおとうさんが書いた卒塔婆を百発百中で見分けたというエピソード。漢字はまだほとんど読めず、実際二人の文字は区別できなかったのだけれど、その頭に描いた○だけで見分けていたという話。それほどに、○には人間が滲み出る、と。なるほどねぇ。

 腕で書く場合も、チョークで描くか、筆で描くかでも違ってくるでしょうし、黒板という垂直面に描くか、机や床に置いた紙の上、つまり水平面に描くかでも身体感覚は変わってくるでしょうね。そういえばかつてこんなことも考えたことがあったっけ。>「円」を描くとき・書くとき

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山口昌哉 『数学がわかるということ』・3/「鹿おどし」の振動

 山口昌哉『数学がわかるということ 食うものと食われるものの数学 (ちくま学芸文庫)』を読んでいます。

 §2の冒頭で、山口先生はある数学者(たぶん岡潔)のエピソードを示したあと、こんな体験談を書かれています。

 数学科を卒業して工学部の先生をやっていた26歳の頃のこと。上司の先生は物理学科出身で、当時「非線型の振動」というものの研究をやっておられ、その先生が自分に、非線型の振動現象をあらわす(微分)方程式に関する質問をされた。一般的に振動現象は数学の式(微分方程式)であらわされ、それについてのさまざまな研究が多くの人でなされていたが、このような場合についての結果をキチンといいあらわすことのできる定理は、発表されているいろいろの論文をさがしてもみつからなかった。あれこれしらべたり、考えたりしたあげく、ブラウアーの平行移動定理がつかえそうだということになったが、いざ論文としてまとめて書こうとすると、わずかのことでこの場合にはこの定理は適用できないということがみつかった。このことで、自分はブラウアーの平行移動定理そのものは、やっと理解できた、わかった、という話です(ブラウアーの平行移動定理ってなんだろう?と思って検索したのですが、見つけられませんでした)。

 上記の経験談のなかで、山口先生は非線型の振動の話を「鹿(しし)おどし」の例でわかりやすく説明しておられます。竹の筒にちょろちょろ水を入れて、上のほうまでたまったら竹の筒が傾いて水が出され、もどるときに筒のおしりが石にあたってカコーンと音のするあれです。

 普通の・・・というか線型の振動のグラフ(時間と高さの関係)をかくと波型のラインになりますが、「鹿おどし」の場合、水が入るほうの先っぽの高さと時間の関係を、時間を横軸、高さを縦軸としてかくと、水がたまっている間は水平なラインが続き、水が上のほうまでたまってくると急激に低くなって、水が出たあとまたすぐにもとの高さにもどります。このもとの高さにもどったときに「カコーン」と音がするわけです(山口先生は「ポン」と書いておられますが^^)。波型のラインにはならないけれど、横線が続いて急にさがって急に上がるというラインが周期的に繰り返されます。

 実はですね・・・・・・ 思いきり寄り道していいですか(^^; 

 架空ブランド KALONS BEKARAZ の水時計(>漏刻)のことを夏子さんはその後も考えておりまして、そうだ!音が出る水時計にしよう、と思いついたのでございます。ちなみに夏子さんは娘に「ママの好きな音楽って何?」ときかれたときは、「風鈴と水琴窟」と答えているわけなのですが、いまは水なので、水琴窟なのでございます。しかし、水による音といえば、まさに「鹿おどし」があてはまる。でも、私は周期的ではない音が欲しかったので、「鹿おどし」ではダメ(と思う私は、水琴窟の音は鹿おどしとはちがって周期的ではないと認識しているのですが、その認識が正しいかどうかはよくわかりません)。たとえ振動が非線型であったとしても、音の出方が単純だから。ところがですね、水時計は時計なのだから、なんからの周期性---水の周期的な動き、周期的という意味での単純な動き---を利用することになるのだろうと思うのです、そうなると、水時計機能の水の動きと、水琴窟の水の動きは別々に考えなきゃいかんな・・・と夏子さんは考え込んでいました。というか、水琴窟の音のほうは非周期的にしたい。

 ほんでもって、そんなことにアレコレ思いめぐらせながら検索するうちに、世の中にはこんな会社があることを知ったのでございます。↓

  水琴窟の総合プロデュース ティーズ・コーポレーション
  
 山口昌哉『数学がわかるということ』の野崎昭弘先生のあとがきとは別の意味で、「さすが京都〜」と思いました私。何がどう“さすが”なのかは自分でもよくわかりませんが(^^; 水琴窟に「実績No.1」とか「親切で素早い対応」とか「メンテナンス」の文字がついているのが新鮮です。リビングで楽しめる水琴窟もあるんですよ奥さんっ! 高感度マイクによる配信システムもあるのだとか・・・すごいな、この発想。このサイトを知ってから、私は KALONS BEKARAZ の水時計に水琴窟機能をもたせることをあきらめました、はい。

 脱線ついでにもうひとつ。美音子グリマー作の“音響彫刻”のことも思い出していました。たくさんの小石を氷で固めて吊るして、その下には水が張ってあり、ピアノ線や竹?も仕込んであって、氷が溶けるとまず水滴が落ち、それから小石が落ちて、ピアノ線や竹に当たって音がするという仕組み。検索したら見つかりました!(この『水の声』を観たんだったかな?)↓
http://www.dance-media.com/report/
ws2006/index.htm


 こういう音がいいんだよな〜、水時計・・・

 と、思いきり寄り道してしまいましたが、微分方程式の話はまだ続きます。

(つづく)
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山口昌哉 『数学がわかるということ』・2/何かがわかる瞬間

 山口昌哉『数学がわかるということ 食うものと食われるものの数学 (ちくま学芸文庫)』を読んでいます。

 §2の冒頭で、山口先生はまず、ある数学者(たぶん岡潔)のエピソードを示しています。どういうエピソードかというと、数学の試験の話。

 よくよく準備して受けに行って、試験の部屋に入り、問題を見て、「アッ! これはできるぞ」と思い、一生懸命答案を書き、よく注意して1つ1つ確かめながら、今までに習ったやり方や方法をつかって書きおえる。これで今日のテストは満点にちがいないと思って試験の部屋を出て、しばらく歩いて部屋から遠ざかったところで、今書いたばかりの答案を頭に描いているうちに、「アッ! しまった」と1つの問題について、答えの誤りに気がつく。この瞬間こそ、その問題そのものと、それにつかった方法の原理が“わかった”、はっきり“わかった”という瞬間なのだ、という話。

 山口先生はこのあとご自分の経験を書いておられて、こちらはこちらで興味深いのですが、この話の流れだと、岡潔(と思われる)のエピソードの意味が、ちょっとぼやけてしまうな・・・と私は感じました。ちなみに、上記のエピソードは数学者が学生たちに語ったものだとして、紹介されています。

 山口先生がこのあとどんな話を続けているかについては次のエントリで書きますが、先に、私の思う岡潔の上記のエピソードの核心を書いておきますれば、この話のポイントは、間違いに気づいたのが「教室を出たあと」だったところにあるのではないかということです。

私が中学生のころ、数学の試験は答案を書き終ってからも間違ってないかどうか十分に確かめるだけの時間が与えられていました。それで十分に確かめた上に確かめて、これでよいと思って出すのですが、出して一歩教室を出たとたんに「しまった。あそこを間違えた」と気づくのです。(中略)教室を出て緊張がゆるんだときに働くこの智力こそ大自然の純粋直観とも呼ぶべきものであって、私たちが純一無雑に努力した結果、真情によく澄んだ一瞬ができ、時を同じくしてそこに智力の光が射したのです。

   (『春宵十話』光文社文庫2006年/p156〜157)

 岡潔も言っているように、このようなことは大抵の人が経験していることではないでしょうか。印刷物が完成したあとで校正ミスがみつかり、「あんなに見たのになんで?」と思いながらシールを貼る悲しい作業をすることになったり…(いや、聞いた話よん^^;)、ブログの記事を投稿したとたん、下書きを何度も読み直すあいだは気づかなかった間違いに気づいたり。自分の話でいえば、かけ算における「ハタラキ」という言葉の整理が必要なことを「買い物の帰りがけ」に気づいたのが、これと同じような経験になるかと思います。
 
 上記の話はポアンカレの「調和」の話から始まり、大脳前頭葉の鍛錬の話とからめながら進められていくのですが、前頭葉はおいとくとしても、熱してばかりじゃだめなんだよ、冷やすことも大事なんだよ、ということはよくわかるような気がします。もちろん、熱することも必要であり。なお、岡潔は「無差別智」という言葉も使っています。意志が大脳前頭葉に働くのを抑止しなければ本当の智力は働かない。この本当の智力というのは、本当のものがあればおのずからわかるという智力である。自分が知るというのではなく、智力のほうから働きかけてくる。

これにくらべれば、こちらから働きかけて知る分別智はたかの知れたものといえましょう。

(つづく)
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山口昌哉 『数学がわかるということ』・1

 山口昌哉『数学がわかるということ 食うものと食われるものの数学 (ちくま学芸文庫)』を読んでいます。さすがの副題。
 
 §1は「岡村先生のこと---論理とことばについて」、山口先生の大学生時代の話です。論理もことばも、人間が人間どうしのためにこしらえたものだから、たいせつにしなければならない、ちょっとでもその値打ちを下げないようにしなければならない。そんな岡村博氏の「数学とは謙虚なものだ」という言葉が心にしみます。と同時に、“現代数学の目から見れば論理的まちがいが数多くあり、しかも大筋で正しく重要な仕事なのである”と斉藤利彌がいうところのポアンカレの仕事を思うのでした(>数学のロマンティック)。

 それから、実際の具体的な講義の話もでてきます。岡村先生がある定理の新しい証明法を説明しようとしていたときのこと。途中でうまくいかないところが見つかって、いろいろ試して何回かの講義を経て、研究室までついて行って、ようやく正しい証明へとたどりつくまでのプロセスを、山口先生はリアルタイムで見たらしいのです。そのとき使われた方法の1つ1つはとくにきわだった考えではなく、どれもそのときの自分たちでも考えつきそうな平凡な考えばかりでおしとおしていて、「数学がこんなにも手のとどくところにあったのだ」という気になれたのはそのときが初めてのことだったと山口先生は語っています。

 そして面白いのは最後の一節。「なぜ論理があるかということは,そのまま論理的に考えていってもみつからないのです.その答は実に思いがけないところにある」という部分。かつて、「数学とは何か」は定義で始められない、と思ったことを思い出します。あるいはかなり話は飛躍しますが、諸行は無常だけれども、「諸行は無常である」という命題は変わらない。 ことなど。

 ちなみに§3は「仏法と数学」という話題で始まっていて、西谷得宝の「柿の実」という詩が紹介されています。このセクションのタイトルは、「数学のあらさについて」。「柿の実」とは、柿の木に柿が十五なっていて、そこへ雀が八羽、椋鳥が五羽とんできて、みんなで二十八になった、仏法とはおおよそこんなもんらしいよ、という内容の詩なのですが、あまりにも数学の本当のところをついていて、そしてそれを数学にほとんど関係のない方から示していただいたのに感激した、という話。この詩は、数学がもつ、ものの見方の粗さと几帳面さの両方をよく表している、と。「ズームイン型・ズームアウト型かけ算」とはまたちがった意味での距離感が意識されます。
お借りします〜↓
http://blog.goo.ne.jp/tnnt_1571/e/
fc79b5cfdaa5a9cacc4f601df637be1d


 そしてもどって§2の冒頭、「ある1人の日本の大数学者」のエピソード。これは岡潔のことですね、きっと(>一応、岡潔『春宵十話』)。このセクションのタイトルこそ、「数学がわかるということ」なのです。

(つづく)
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