TETRA'S MATH

数学と数学教育

森村修『G・ドゥルーズの「多様体の哲学」(1)』を読みながら、申し訳ないような、さびしいような気持ちになったのは

 ポスト複雑系(2)/マニュエル・デランダの準因果作用子というエントリにおいて、森村修さんの次の論文をリンクしました。

G・ドゥルーズの「多様体の哲学」(1)
──「多様体の哲学」の異端的系譜(3)──

http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/
10114/6331/1/ibunka12_morimura.pdf


この論文を読み始めたとき、以前見つけた別の論文を読んだ際にはなかった、ある種のさびしさのようなものを感じました。それは、次のくだりに対してです。

そもそも「多様体Mannigfaltigkeit (manifold, multiplicity,multiplicité)」概念は、19 世紀の数学者B・リーマンによって決定的な位置を与えられた。近代数学史を少し繙けばわかるように、この概念はその後のカントールによる超限集合論にも影響を与えている。しかし私は、数学史・物理学史のなかで多様体概念がどのような理解の変遷を遂げたか、またそれによって数学や物理学がどのように変化したかについては、まったく興味がない。

 (3ページめ/p.105)

なぜ森村さんはここでわざわざ、「まったく興味がない」と宣言しなければならなかったのでしょうか・・・

ちなみに、以前見つけた論文でも、これに近いことは書かれていました。

 しかし私としては、リーマンの学問業績を網羅し、その足跡を辿りたいわけではないし、そもそもそのようなことは不可能であり、その必要もない。またリーマンの哲学的な先見性を強調するために、彼の数学思想を検討するわけでもない。リーマンの講演から、数学の哲学へと繋がる思考を読み取ろうとするつもりもない。私の意図はこれらのこととはまったく別のところにある。すでに述べたように、私はリーマンの講演が思わぬところに影響を与え、新しい哲学の可能性を開花させたと考えている。

 (2ページめ/p.88)

しかしこちらの文面には、哲学的ポジティブさのようなものを感じます。それにひきかえ先の引用部分には、数学的・物理学的ネガティブさのようなもの-----それはもちろん、森村さんのネガティブさということではないのですが・・・-----を感じてしまうのです。

私はふだん、自分のいま考えていること、考えたいことが数学でなくてもちっともかまわないと思っているし、頭のどこかで「数学がなんぼのもんじゃい」とも思っているのですが、このくだりを読んでしゅんとしたときに、「ああ、私は数学が好きなんだなぁ」としみじみ思いました。たとえ数学者ではなくても、高尚な数学の知識は身につけていなくても。だから、森村さんに対して、だれかのかわりに謝りたいような、弁明したいような、複雑な気持ちなったのだと思います。

そして、『G・ドゥルーズの「多様体の哲学(1)」のほうの続く4ページめ(p.106)には、

その結果、数学的な多様体概念が、ベルクソンと、彼の哲学を再解釈するドゥルーズを介することによって、まったく異なる相貌を見せることになるだろう。もちろん、それは数学的な含意を含みながらも、独特な哲学的解釈による「変奏variation」として提示される。

という記述があり、ここに「巻末註6」の数字がふられています。けっこう長いですが、「巻末註6」を全文引用してみます。

ここで私は、数学概念の哲学的“濫用”を考えている。もちろん、私の念頭にあるのは、「サイエンス・ウォーズ」として思想界のメディアを賑わした論争である。そこでは自然科学的概念の哲学思想への転用をめぐる問題が取りざたされていた。自然科学的概念や数学的概念の“濫用”や“誤解・曲解”の指摘と批判については、ソーカルとブリクモンによる『「知」の欺瞞——ポストモダン思想における科学の濫用』(田崎他訳、岩波書店、2000年)が参考になる。また、日本内外で、自然科学者から、いわゆる哲学者や思想家に対して、自然科学理解の不十分さや誤解、曲解をあげつらう指摘は枚挙にいとまがない。特に、いわゆる“ポスト・モダニズム”に属する思想家たちが批判の標的とされている。ソーカルらの批判対象は、精神分析学J・ラカン、哲学ドゥルーズ/ガタリ、建築学P・ヴィリリオ、ジェンダー思想L・イリガライなどである。また日本に目を転じれば、1980年代に「ゲーデル問題」を取り上げた柄谷行人、“ニューアカデミズム”の寵児として登場した浅田彰、中沢新一などである。彼らもまた半可通の数学的知識を振りかざして、縦横無尽にメディアを賑わした廉で批判されている。しかしその一方で、科学者が自らの思想や「哲学」を語ることについては問題にされないことは不思議である。本来ならば「ヒューマニティーズ・ウォーズ」とでも言うべき現象が起こってしかるべきなのだが。例えば、“解剖学者”養老孟司や“脳科学者”茂木健一郎などの“自然科学者”が哲学的な認識や倫理的な判断、さらには宗教の問題を語ることについては肯定的に評価される傾向がある。

 (26ページめ/p.128)

森村修さんは哲学の立場から、「ヒューマニティーズ・ウォーズ」という言葉を使って、この一件への疑問を示しておられますが、私はむしろ、数学や物理学の立場から、身内から、この一件に疑問を呈し、批判すべきではないのか、と感じています。数学や物理学を不当におとしめる(可能性のある)できごととして。

以前、数学と権威/数学と自然というエントリを書きました(なお、あのときには、圏論の勉強で感謝している---からこそ---檜山正幸さんの言葉を借りたのですが、向けるべき矛先はほかにあったのかもしれません)。なんというのか、私には、数学用語か科学概念を「権威づけに使っている」、あるいは、「彼らは、そういう概念を使うと頭がよさそうに見える、かっこよく見えると思っているのではないか」と言う人たちのほうに、「逆権威思考」のようなものがあるのではないか、と感じています。物理学や数学を、他の学問や概念の上位におく志向というか。数学や物理学や自然科学の「権威」にリアリティを感じていないと、それを他人にあてはめることはできないと思うのです。そしてそれは、かえって数学を小さくまとめてしまうものであるように感じています。「それほどのもんじゃないよ(たくさんあるうちの1つでしょ)」という気持ちと、「その程度のもんじゃないよ(そんな底の浅いもんじゃないでしょ)」という気持ちの両方があります。

実は少し前に、あることがきっかけとなって、ドゥルーズのことをぼんやり考えていたら、ふと、こんな妄想が口をついて出ました。いや、声には出していないから、口をついてでたというより、頭をついてでたのですが。「もしかして、ドゥルーズの流れにのれていないのは、数学と物理学だけ?」と。なんの根拠もない、ただの妄想です。なぜそんな言葉が頭をついて出たのか、自分でもよくわかりません。そのあとで、昨今のドゥルーズ需要について調べたら、やはり少なくともこの5〜6年の間に注目度はあがっているのですね。読まれ続けているのか、再燃しているのかはよくわかりませんが。http://book.asahi.com/clip/TKY200711150094.html
http://frenchbloom.seesaa.net/article/164195762.html

なぜ、特に興味もなかったのに、何かというとドゥルーズに行き着くのか不思議だったのですが、それも時代の流れなのかなぁ、といまでは思っています。

そして、先の妄想のあと、「サイエンス・ウォーズ」と当時のアメリカの状況 (1)で書いた、クリントンの政策のことを思い出しました。→「20世紀は物理学の世紀であったが、21世紀はライフ・サイエンスの世紀である。政府は今後ライフ・サイエンス支援を主とする」 だから、ソーカルらアメリカの物理学者にとっては、「逆権威思考」というよりは、「焦り」に近い感情があったのかもしれません。ついでに、少し前に生活ブログ:TATA-STYLE橋爪大三郎『はじめての構造主義』に関する連続エントリを書いていたことも思い出していました。

「サイエンス・ウォーズ」は、確かに一度は起こさないといけない事件だったのだろうと思います。そしてインパクトのためには、多少やり方が荒く&粗くならざるを得なかった面もあるのかもしれません。しかし、これは乗り越えられるべきウォーズなんじゃなかろうか、そしてまだ、乗り越えられていないのではなかろうか・・・と感じています。

もう私の知らないところで乗り越えられているのかな?という期待もあるにはありますが、郡司ペギオ幸夫が『現代思想』2013年1月号で、「果たして、ジル・ドゥルーズの生命哲学は、描像Aを指し示すものだった。しかし、それは自然科学の文脈で、十分理解されているだろうか」()と書いているところをみると、少なくともドゥルーズの哲学を自然科学の文脈で理解する試みは、まだ十分に行われていないのでしょう。あるいは、まだ始まってさえいないか。

私は、森村修さんの「まったく興味がない」という宣言にしゅんとしてしまったのですが、もしかするとこの宣言は、“現代の”自然科学者が、哲学に対して、言うともなく言い続けてきたコトバなのかもしれません。

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プチ訂正>その後の状況

ラッセルとヘーゲルの参考文献もいくつか教えてもらって、うふふっとなっているところ。

ライプニッツのことラッセルって書いちゃってました〜。

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その後の状況

 TATA-STYLE橋爪大三郎『はじめての構造主義』を読む作業はまだ続いております。もうブルバキも出てきたので、あともう少しで一区切りの予定。

 また、こどものちかくでは、年末にパソコンの古いフォルダから、娘の幼児期の記録が出てきて、それが面白かったのでちょっと抜き出しておいたのと、あと歴史の話を少し。

 それから、12月下旬に友人からメールをもらいました。最近は(というか出産してから?)なかなか会う機会がないのですが、たぶんもうすぐ20年来のお付き合いになる方で、たまぁにメールでお話ししているのです。大学時代に哲学を専攻していたことは知っていましたが(ちなみに出会ったのは大学卒業後なので同じ大学ではない)、フランス哲学専攻だったんですって。そういえばいままで専攻のこと意識したことがなかった…

 ほんでもって、その友人のツイッターまわりでも、「かけ算の順序問題」がたまに盛り上がるときがあるらしく(「かけ算の順序問題」おそろしや!)、そういうときに私のことを思い出して、ブログをたずねてくれているそうなのです。で、そうして久しぶりに訪れてみたら、『差異と反復』について書かれてあってびっくり…という状況だったもよう。

 その友人が、『差異と反復』の邦訳は持っていないけど原書をもっているということで、これ幸いと、いくつか質問をさせてもらっていたのでした(「かけ算の順序問題」ありがたや!)。ライプニッツとヘーゲルの参考文献もいくつか教えてもらって、うふふっとなっているところ。

 友人と数通のメールを交わして思ったことは、『差異と反復』を本気で読むなら、やはり原書を読んだほうがよさそうだ、ということ。日本語を読み解くのにもある程度の時間と予備知識がいるのだから、それだったら辞書片手にがんばったほうがいいのかもしれないなぁ…と。いまだ実行にはいたっていませんし、とうぶん手にすることはなさそうなのですが。

 で、ドゥルーズ『差異と反復』第四章の前半から気になるところを抜き出しておく(1)〈差異的=微分的〉と〈問題的〉のところで、“「部分分解式」の滝”という言葉をメモしましたが、この滝はおそらくcascadeにあたる言葉だろうと思っていたので確認してもらったところ、une cascade de << resolvantes partielles >> という言葉があるそう。

 ちなみに、なぜカスケードと思ったかというと、その前後で、継続的な添加や入れ子構造の話が出ているので、インターロイキン「つたえもん」で出てきたカスケード反応を思い出したのです。すなわち、反応の連鎖のようなものを指しているのだろうな、と。

 resolvantes は数学用語らしいとのことで、partiellesは部分的という意味なのだそうです。こうなるとresolvantesが気になってくるわけであり。そこで調べていたら、レゾルベントという数学用語を発見。私は初めてきく言葉でした。ただし、resolvantes partiellesだと何もひっかかってこないので、resolvantesがレゾルベントなのかどうかはいまだわからず…。そして、これがどのようなものなのか、どういうふうに「滝」なのかどうかも、いまださっぱりわからず…。

 一方、「部分分解」で検索をかけると、部分分数分解のページが多数ひっかかってきます。こうなると英語ならpartial fraction decompositionみたい。

 というふうに、邦訳を読み込むより、原書にチャレンジするほうが、結果的に近道なのかもしれないなぁと思うわけなのでございます。

 いまはとても理解できないけれど、いつか何かのヒントになるかもしれないので、論文を1つリンク↓
http://www.kurims.kyoto-u.ac.jp/~kyodo/
kokyuroku/contents/pdf/1666-09.pdf


 という、状況でございますーー
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ドゥルーズ『差異と反復』第四章の前半から気になるところを抜き出しておく(2)

《理念(ルビ:イデア)》と多様体
すなわち、多様体(ルビ:ミュルティプリシテ)が指示しているのは、〈一〉と〈多〉との組み合わせではなく、むしろ〈多〉であるかぎりでの〈多〉に固有な組織でなければならないのであり、したがってこの組織は、ひとつのシステムを形成するための一性(ルビ:ユニテ)〔単位〕などはけっして必要としていないのである。
 (下p.46)
ひとは反対のものどうしを組み合わせて、矛盾を学ぶのである。だがひとは、肝心かなめなことを、すなわち、「どのくらい」、「どのように」、「どのような場合に」ということを語らなかった。
 (下p.46)

【メモ】 受動的総合、静的発生
微分法に関する近代の解釈の誤りは、それがあらゆる運動学的な考察や力学的な考察から微分法を切り離すひとつの「構造」を取り出してみせたのを口実にして、発生に関する微分法の野心を咎めだてした、ということにあったのではなかろうか。
 (下p.50)
それゆえ、きわめて異なったもろもろの領域において、そうした〔構造的かつ発生的な〕諸基準の適用を、ほとんど手当たりしだいに例を挙げながら追究していかなければならない。
(下p.51)

諸構造-----それらの基準、諸《理念(ルビ:イデア)》のタイプ

【メモ】 物理学的《理念》としての原子論、クリナメン〔偏り〕/生物学的《理念》としての有機体、ジュフロア・サンティレール/マルクス主義的な意味からして社会的諸《理念》は存在するのか

副次的矛盾の方法-----特異なものと正則なもの、特別なものと通常なもの
だからわたしたちは、「特異なそして特別な点」、「体の添加」、「特異性の凝縮」といった表現をすべて、数学的な隠喩とみなしてはならないのである。「融点、氷点・・・・・・」などを物理的な隠喩とみなしてはならず、「愛と怒り」を叙情的なあるいは神秘的な隠喩とみなしてはならないのだ。それらは、弁証法的な《理念(ルビ:イデア)》のカテゴリーなのである。それらは、微分法の(すなわち普遍的数学(ルビ:マテーシス・ウ二ヴェルサリス)〔普遍学〕であるばかりでなく、普遍的物理学、普遍的心理学、普遍的社会学でもある微分法の)外延的意味である。
 (下p.66)

《理念(ルビ:イデア)》、そして諸能力に関する差異的=微分的理論

【メモ】 調和的不調和。共通感覚ではなく、逆共通感覚。イデアは同一性という形式を前提としていない、超越的見地からする諸能力のバラバラな行使に生気を与え、かつそれを描き出している、純粋多様体。狐火のような差異的=微分的な微光の多様体、共通感覚を特徴づける自然の光の等質性などはけっしてもっていない。
だから、諸《理念(ルビ:イデア)》が関係する当の相手は、意識の命題としての、あるいは根拠としての《コギト》ではなく、反対にそれは、崩潰したコギトのひび割れた《私》、すなわち、超越的に行使される能力としての思考を特徴づける普遍的な脱根拠化である。
 (下p.77/斜体は傍点つき)


 以上です。第四章はまだまだ続きますが、今回はここで一区切りとします。
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ドゥルーズ『差異と反復』第四章の前半から気になるところを抜き出しておく(1)

 やはり4週間で読める量はしれていました。というわけで、まだ読み始めてもいない状態で『差異と反復』を図書館に返却することになってしまいました。「意固地にならずに買っちゃえば〜」というもうひとりの自分の声も聞こえますが(このあいだ高い本を買ったので購入をがまんしている)、とりあえずいったん返してきます。でも、読める期間が決まっていると、集中できるし、メリハリがつけられていいかもしれない。

 返却の前に、第四章前半の続きの部分から気になるところを抜き出しておきます。


微分法において無限小が無用であること
現代数学を画定している本当の境界があるとすれば、それは微分法そのものには見いだされず、むしろ、他の諸発見、たとえば集合論の発見に見いだされるのである。(中略)事実、周知のように、リミット〔極限、境界〕という概念は、すでに運動学的な性格を失っており、もはや静的な考察しか含んでいない。(中略)・・・そして、導関数と積分は、量を示す概念というよりは秩序を示す概念になっているのであって、・・・(中略)。まさに、以上の点において、〔数学における〕構造主義が生まれたのであり、同時に、微分法の発生論的あるいは力学的な野望が潰えたのである。
 (下p.32〜33)

〈差異的=微分的〉と〈問題的〉

【メモ】 アーベルとガロアが、カントの外在主義を超克したこと。解決可能性は問題の形式から生じねばならぬとする方法(与件が解の芽を含む)。基となる体から出発する体への継続的な添加、「部分分解式」の滝、「群」の入れ子構造→解を、問題の諸条件そのものから生じさせる。
わたしたちはもはや、先生と生徒の古典的な状況のなかにはいないからである-----すなわち、生徒が問題を理解し問題についていけるのは、先生が問題の解を知っていて、それに応じて必要な補助を与える場合にかぎられるといった状況のなかにはいないからである。
 (下p.41)

【メモ】 ガロアの「漸進的判定可能性」、時間の導入

問題の理論-----弁証法と科学
 したがって、現代数学は、微分法からというよりむしろ、群論もしくは集合論から出発するとみなされている。けれども、アーベルの方法が何よりもまず微分的な諸式の統合に関わっているのは、偶然なことではない。われわれにとって重要なのは、数学史におけるあれこれの切断(解析幾何学、微分法、群論・・・・・・)の決定ではなく、むしろ、数学史の各時代における、弁証法的な問題の構成様式、その問題の数学的表現、および解決可能性のもろもろの場の同時発生である。
 (下p.42〜43)
諸《理念(ルビ:イデア)》は、いつでも、量化可能性、質化可能性、ポテンシャリティ〔累乗的潜在力〕というエレメントをそなえており、いつでも、規定可能性、相互規定、十分な規定作用というプロセスをそなえており、いつでも、特別な点〔特異点〕と通常の点〔正則点〕の配分をそなえており、いつでも、ひとつの充足理由の総合的漸進を形成している〈体の添加〉をそなえているのである。
 (下p.44)

【メモ】 微分法の普遍性、弁証法の普遍性→「普遍的数学〔普遍学〕」
微分法というものは、功利主義者の薄っぺらな計算法ではない。(中略)微分法とは、純粋な思考の代数であり、諸問題そのものの高次のイロニー的技法である-----すなわち、「善悪の彼岸」にある唯一の計算法である。
 (下p.45)

(つづく)
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ドゥルーズ『差異と反復』第四章を読んでいく(8)/テイラー展開

 質化可能性と相互規定の原理の話はまだ続くのですが、本の返却期間がせまってきているので、次の項目ポテンシャリティ、および十分な規定作用の原理(セリー的形式)に移ります。ここではソーカル&ブリクモンいうところの「おそろしく衒学的なテーラー展開の説明」が書いてあります()。もともとテーラー展開を知らない人に理解できるとは思えない、と。確かにテイラー展開を知らない人がこの文章を理解するのは無理なことでしょう。

 だけど思うに、ドゥルーズは何もないところで持論を展開しているのではなく、先行研究をふまえて(ここではヘーネ・ロンスキ等)議論をしているのだから、テイラー展開を説明なしで出してくることは、それほど大胆なことではないと思うし、続く議論を呼んでいると、テイラー展開を考えるのがいちばんわかりやすい、と思えてきます。そして、この議論を理解したいけれどテイラー展開を知らない人は、(これとは別に、それこそ数学の文脈で)テイラー展開を勉強すればいいのではなかろうか・・・と思ってしまう私。

 ちなみにこのブログでは、テイラー展開については過去に以下のエントリを書いています。

  テイラー展開・01テイラー展開・02
  母関数とテイラー展開テイラー展開と微分
 
 私はテイラー展開について、高校か大学のどの段階かでちろっと接触したことはあったのかもしれませんが、まったく記憶にないので、上記の内容は完全に独学です。したがって、私はテイラー展開を“正しく”理解しているかどうかはいまだもってまったく自信がありません。っていうか、実は忘れてるし…

 なお、ドゥルーズは「ラグランジュの説明」というふうに呼んでテイラー級数の式を出してきています。ソーカル&ブリクモンにいわせると、ドゥルーズはヘーゲルと同様、1770年頃のラグランジュによる古風な「関数」の定義を用いており、これはコーシーの研究(1812年)以来お蔵入りになったものである、とのこと(『「知」の欺瞞』p.220)。

 ちなみに、このたびラグランジュとテイラー級数との関係を調べるなかで、興味深いページにいきつきました。『解析教程(下)』のページです。まだ全部読んでいないので、栞がわりにリンク。
 
 手元にある『差異と反復』の訳本で具体的に出されている式は、〔  〕でくくられていますから、ドゥルーズが直接示したものではなく、訳者が小堀憲『数学の歴史后18世紀の数学』を参照して補ったもののようです↓



 上の式の右辺の項を見ると、右にいくにしたがって、iの累乗の数が1ずつふえていっています。つまり、べき級数になっているわけですが、その前にくっついている係数の部分には、みんなf´やf´´や、f´´´が含まれています。「´」が増えるのは微分する回数が増えるから。

 で、テイラー展開と微分で示したやり方で考えると、最初の係数a1を求めるときに、私は微分をしているので、結果的に係数には導関数f´(x)が含まれることになります。以下、同じ作業を反復し、各項の係数には、「導関数」「(導関数の)導関数」「(導関数の導関数の)導関数」・・・が含まれることになります。

 どうやらヘーネ・ロンスキは、この最初の係数の規定に反論しているらしいのです(と、私は理解しました)。そして、ロンスキは、テイラー級数のみならず、カルノーの「誤差の埋め合わせ」に対しても同じような反論を向けているとのこと。

 テイラー級数って、あらためてながめてみると不思議です。ある関数の導関数、その導関数、そのまた導関数、・・・という次元の違うものが係数として現われたうえで、プラスで単純に結ばれ、同じ地平で折り重ねられている。これってあり? いや、だからこそ、あり?

 ドゥルーズの議論にもどると、ここではポテンシャリティという言葉が出てきます。とりあえず「潜在力」といった日本語でとらえておけばよさそうですが、ちょっと調べてみたら、物理学でいうところのポテンシャルの考え方を導入したのはラグランジュなのだそうです>ウィキペディア:ポテンシャル。上記のラグランジュと同じラグランジュかどうかは未確認ですが、たぶん、同じラグランジュだろうと推測しています。

 ドゥルーズは、「累乗の切り下げは、純粋なポテンシャリティというエレメントの出現の条件となっている」という言い回しをしており、「累乗の切り下げ」のところにデポテンシァリザシオンという言葉がルビとしてつけられています。この言葉のなかにも「ポテンシャル」という言葉が含まれていると思うので、このあたりも倍音が聴き取れれば、もっとダイレクトに理解できるところなのかもしれません。

 このあと「度」という言葉もちろっと出てきて(ここでのルビはドウグレですが、ヘーゲルのGradを思い出した私>)議論は続くのですが、そのあたりをとばして、以下の部分だけ引用しておきます。

目下の場合は対象のなかにこそ、たとえば曲線のなかにこそ、あらかじめ定められた「線型の」関係=比を提示するもろもろの要素を見いださなければならないのである。そして曲線という対象においてはじめて、ポテンシャリティにおける級数的形式はその全き意味を受け取るのである。したがって、ひとつの関係=比であるものを和として提示することが、まさしく必要になってくる。なぜなら、定数係数を伴ったひとつのベキ級数が、ひとつの特異点を取り囲んでいるからであり、しかも一度にただひとつの特異点を取り囲んでいるからである。級数的形式の利点と必要性は、その形式が包摂している級数の複数性に現われており、また特異点に対する諸級数の従属性に現われている。さらに、その利点と必要性は、つぎのような様式にも現われている。すなわち、ふたつの級数が収束あるいは接続するにせよ、あるいは反対に発散するにせよ、対象〔曲線〕の一部分-----そこでは関数が一方の級数によって代理=再現前化される-----から、その対象の他の一部分-----そこでは関数が他方の級数のなかで表現される-----への移行がなされるときの様式に現われている。規定可能性の原理が相互規定の原理へ越え出ていったのとまったく同様に、相互規定の原理は十分な規定作用の原理へと越え出てゆく。

  (下p.30〜31)

(つづく)

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ドゥルーズ『差異と反復』第四章を読んでいく(7)/《理念》の《理念》

 5番の項目は、質化可能性、および相互規定の原理です。これまで見てきたように、dxもdyも、それぞれxとyとの関係においてまったく未規定なのに、これがdy/dxという分数のかたちをした相互関係ということになると、完全に規定可能になり、そうした意味で規定可能性の原理が未規定なものそのものに対応している、とドゥルーズは語ります。ボルダスがいうには、〈普遍〉が無でないのは、「普遍なるものの関係=比」が存在するからである、と。

 では、dy/dxという関係=比はどのような形式のもとで規定可能になるかというと、それはまず、質的な形式のもとで規定可能になり、そのかぎりで、いわゆる原始関数とは本性的に異なっている、と話は続きます。そうして再び円の方程式が出てくるのですが、原始関数のほうは前回出てきた円の代数方程式と同じx^2+y^2―R^2=0で、そのあと訳者補足で〔導関数〕の文字が入れられたあと、dy/dx=−x/yという式が示されています。これは円の接線がx軸とつくる角のタンジェントを表現している、と。

 こういうときに人は、原始関数と導関数の質的な差異の重要性、あるいは微分に含まれるそうした関数の変換の重要性を強調することがあるけれど、これは第一のアスペクトでしかない、とドゥルーズ。ここにデデキントの切断の話も一文かませてあるのですが、ひとまず割愛して次に進むと、今度は、導関数はそれがまたさらに微分できる話へと入っていきます。

 導関数の導関数については、WIKIBOOKS>解析学基礎/二階微分をリンクさせていただきます。手元の高校の教科書では、数学掘癖神11年発行)で高次導関数が出てきています。
それはひたすら、《理念》の《理念》を発生させうる、《理念》の、〈力=累乗〉(ルビ:ピュイサンス)を証示しているのである。ひとつの質〔円〕に対する普遍〔差異的=微分的な関係=比〕は、その普遍がさらに別の質〔タンジェント〕に対して所有している個別的な量と混同されてはならない。その普遍は、おのれの普遍の機能〔関数〕において、たんにそうした別の質を表現しているばかりでなく、質化可能性という純粋なエレメントをも表現している。そうした意味でこそ、《理念》は差異的=微分的な関係=比を対象として有しているのである。
 (下p.23〜24/「理念」には「イデア」のルビあり)

 こういう文章のときに、原語で読める力があったらいいのになぁと思うのでした。機能〔関数〕のところはfunctionにあたる言葉なのでしょうが、差異的=微分的な関係=比ではどういう語が使われているのでしょうね? そして例のピュイサンスの問題()。

 実は、少し前に何かの検索途中で、訳者の財津理さんのブログにたどりつき、そのなかの「ドゥルーズ『差異と反復』の改訳と解釈4」という文章のなかに、「ドゥルーズが用いる言葉には、聞き取れないほどの倍音が響いているはずだから、私に聞き取れたと感じる倍音を〔〕で示すので、やや煩瑣に思われるかもしれないが、ご辛抱いただきたい」と書いてあり、なるほどねぇと思った私。
http://zaitsu.blog137.fc2.com/blog-entry-89.html

 私もその倍音を、倍音のままきいてみたいと思いました。そうしたほうがむしろよくわかるのではないかと。そしてこのあとは、変化可能性、多様性の話になっていきます。巻末訳註によると、ここの部分は訳者が直接ドゥルーズから教示を得たとのこと。しかし仏語の未熟さもあってよく理解できなかった、おおよそ訳文のようなことを解説してもらった気がする、と書いてあります。

 という訳注がついている部分の前後で、変化可能性、変化性、多様性という言葉が出てきています。前から順に、ヴァリアビリテ、ヴァリエテ、ミュルティプリシテがルビとしてつけられています。さらに変化性には〔多様性〕、多様性には〔多様体〕という語も補われています。また、セリーという語もあり、これには〔グループ〕という語が補われています。

 そんなこんなで、補われた言葉がたくさんあり、わかりにくい日本語の文になっています。訳者が苦労したところかもしれません。一応、引用してみます。
このとき《理念》がおのれのうちに統合〔積分〕している変化はもはや、定常的だと仮定されたひとつの関係=比の変化しうる規定(「変化可能性」)ではまったくなく、反対に、その関係=比それ自体の変化の度(「変化性」〔多様性〕)であって、その度には、たとえば、もろもろの曲線の質を示すセリー〔グループ〕が対応しているのである。《理念》が変化可能性を除去するのは、変化性あるいは多様性〔多様体〕と呼ぶべきもののためなのである。具体的普遍としての《理念》は、悟性概念に対立しており、そしておのれの外延が広大であるだけに、ますます巨大な内包を有している。〔差異的=微分的な〕関係=比のもろもろの度の相互依存、究極的には、もろもろの関係=比自身のあいだでの相互依存、それこそが《理念》の普遍的総合(《理念》の《理念》、等々)の定義となるのである。
 (下p.24/ルビ省略)

 財津さんは巻末註で、「変化性」と訳した言葉が数学用語ではn次元多様体を意味すること(ただし、ドゥルーズはこの語をゆるい意味で用いている)、「多様体」と訳した言葉はリーマンの多様体を指すが、哲学用語としてはカントにおける「多様」、ベルクソンにおける「多様性」などを指す、ということも示しておられます。ちなみに10番目の項目として《理念》と多様体という一節があり、ここには確かにリーマンの名前が出てきます。

(つづく)
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ドゥルーズ『差異と反復』第四章を読んでいく(6)/微分方程式と切断

 第四章の4つめの項目、量化可能性、および規定可能性の原理ところを読んでいます。

 まず、前回の最後の部分の復習をすると、直観の対象としての量は必ず特殊な個別的な値をもっており、悟性概念としての量は一般的な値をもっている、という話でした。一般的な値というのは、変数がとりうる範囲内の、無限個の可能な特殊値のことです。

 で、このあと円の方程式と微分方程式が出てきます。円の方程式はx^2+y^2−R^2=0、微分方程式としてはydy+xdx=0が示されています。前者にはもともと「円の代数方程式」という言葉がついていますが、後者は訳者補足で「それの微分方程式」という言葉が示されていて、dy/dx=−x/yという式も補われています。

 円の方程式と微分の関係については、「円」の式表現と、「円の接線」で確認しておきました。訳者補足の式は微分係数を示す形の見慣れたものですが、ドゥルーズの示した式は両辺をxで微分した直後の式でもないので、どういう意味なんだろう?と首を傾げてしまいました。単に変形したあとの式なのでしょうか。ただ、yにdyがかけられ、xにdxがかけられて、その和が0になるというのは、たとえ変形すれば見慣れた式になるとしても、見え方が違っていて面白いです。

 さて、ドゥルーズは、x^2+y^2−R^2=0はydy+xdx=0においてはもはや事態は同様ではないと語ります。
この式は、「円周の、かつそれに対応する関数の普遍」を意味している。dxとdyという二つのゼロは、「そうした普遍およびその出現の」ための、クワントゥムとクワンティタスの消滅、特殊値ならびに一般値の消滅を表明している。そうしたところに、ボルダス=ドゥムーランの解釈の強みがある。
 (下p.20〜21)

 すなわち、dy/dxあるいは0/0というかたちで取り消されるものは、諸微分量ではなく、ただ関数のなかにある、個的なものと、個的なもののの関係=比のみである、と。なお、訳者補足によって、諸微分量には〔dx、dy〕が、関係=比には〔分数〕が補われています。
わたしたちは、ひとつの類から、あたかも鏡の向こう側へ移るように、他の類へ移ったのである。こうなると関数〔代数方程式〕は、〔微分方程式となって〕それの可変的な部分もしくは変化する特性を失い、もはや、不変的なものと、その不変的なものを取り出した操作しか表していない。
 (下p.21)

 このことに関連して私が思い出したのは、ちょっと比例の話を広げてみる>エレベーターとアクリルたわし圏もどきのことでした。毎秒8mで上昇するエレベーターの、一瞬一瞬の時間と高さの対応を1枚の紙に書き、それをぱらぱらマンガのようにめくったら、8m/秒のところだけが止まっているように見えるのではないか、という話。まるで無数の紙をひとつにたばねる留め具のように。私はあのとき、「ともなって変わる量を、ともなって変えさせるための、変わらない量」というふうに8m/秒をとらえたわけですが、ドゥムーランは、「関数において、変化するものは取り消され、取り消されることによって、変化しないものを向こう側に見えさせるのである」と考えたようなのです。(私が考えていることとドゥムーランが考えていることはまったく同じではないかもしれませんが)

 そうしてドゥルーズは、「リミット」という言葉を切り替えていきます。すなわち、「極限」から「境界」へと。どちらも訳者によって言葉が補われているので、原語では文脈から読み取るものになっているのでしょう。limitは、関数のlimitとして理解されてはならず、それは、ある真の切断、関数それ自身における変化するものと変化しないものとのlimitとして理解されなければならない、というふうに。

 それゆえニュートンの誤りは諸微分量をゼロに等しいと見るところにあり、ライプニッツの誤りは諸微分量を個的なものあるいは変化可能性と同一視するところにある、とドゥルーズは続けます。このあと、「ボルダスはすでに、微分法の現代的解釈に近づいている」という話になり、デデキント的な意味での「切断」の話に入っていきます。「そうした意味で、切断こそが、数に近接した上位の類を、連続性の理念的原因を、もしくは量化可能性という純粋なエレメントを構成しているのである」というふうにこの項目は終わるのでした。

(つづく)
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補足

 ドゥルーズ『差異と反復』第四章を読んでいく(5)/量化可能性において、連続体の話のなかで以下の部分が抜けていました。(訂正済)

しかしこのあと、中間値や数列といった、実数方面の話も出てきます。つまり、火や水銀のイデアについて考えるとき、感性的直観や幾何学的直観を根拠にできないのは、実数についてそれらが根拠にできないのと同じことだ、とドゥルーズは書いています。(かな〜り我流に書きかえています)
 
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ドゥルーズ『差異と反復』第四章を読んでいく(5)/量化可能性

 続く4,5,6番目の項目は、

4番目/量化可能性、および規定可能性の原理
5番目/質化可能性、および相互規定の原理
6番目/ポテンシャリティ、および十分な規定作用の原理(セリー的形式)

となっています。 

 まず4番目、量化可能性について。ドゥルーズは、“連続体”の例として火と水銀から話を始めます。火のイデアには、火が、増大しうる単一な連続的な量として包摂されており、水銀のイデアには、その対象が貴金属の液状の連続体として包摂されている、と。(なお、本文中では、イデアは《理念》のルビとして示されているのですが、今回はイデアというカタカナ書きにしてみます)

 とりあえずウィキペディア:連続体をのぞいてみると、物理学と数学に分けて示されたうえで、数学については連続体濃度を参照と書かれてあります。連続体濃度というときの連続体とは、実数全体のなす集合ということになるようです。火や水銀がどちらの連続体かといえば、普通に考えると、前者に近い連続体かと思います。とても簡単にいえば、そのままでは区切れないもの、数えられないもの、といってもいいでしょうか。しかしこのあと、中間値や数列といった、実数方面の話も出てきます。つまり、火や水銀のイデアについて考えるとき、感性的直観や幾何学的直観を根拠にできないのは、実数についてそれらが根拠にできないのと同じことだ、とドゥルーズは書いています。(かな〜り我流に書きかえています)

 ドゥルーズは、このような連続体が真にイデアに属するのは、連続性の理念的原因が規定されるかぎりのことでしかなく、その原因から理解された連続性は、量化可能性という純粋なエレメントをなしている、と論じます。

 そうして、quantum と quantitas という2種類の「量」が出てきます。前者のクワントゥムは感性的直観に与えられる量、後者のクワンティタスは悟性概念としての量のことらしいです。

 quantitasに長めの訳注がついていて、何事かとおもいきや、この語そのものについては『純粋理性批判』参照ということだけ示してあり、ついでに、これからしばらく続く数学がからむ議論についての注釈が書いてありました。ここは識者の教示を得て訳出したけれど、試訳の域を出ない、と。ドゥルーズは、ヘーゲルの「大きさ(量)」に対して、現代数学の立場から批判しているみたいです。訳者の財津理さんは、ラグランジュに対するヘーゲルとドゥルーズの解釈の違いなど指摘するべき点は多々あるが、訳注は数学に関して最低限必要と思われるものを付すにとどめ、不備については読者の指摘を待つのみ、と書いておられます。

 それを頭に入れつつ先を読んでいくと、ドゥルーズは、量化可能性のエレメントは、クワントゥムともクワンティタスとも混じり合っていないとしています。それゆえ、そのエレメントを表現している記号は、まったく未規定なものである、すなわち、dxという記号は、xとの関係においては、まったく何ものでもなく、dyという記号も、yとの関係においては、まったく何ものでもない、と。このあたりからだんだん、ヒトゴトではない話になっていきます。
しかし、問題全体は、dxとdyという二つのゼロの意味のなかにある。直観の対象としてのもろもろのクワントゥムは、必ず特殊な〔個別的な〕値をもっている。そして、それらクワントゥムは、分子と分母の関係というかたちで結び合わされても、それぞれ、その分数関係から独立した値を保持している。悟性概念としてのクワンティタスは、一般的な値をもっている。この場合、一般的な値というのは、変数がとりうる範囲内の、無限個の可能な特殊値を示している。けれども、〔方程式において〕、他のもろもろの特殊値を代表=再現前化し、それらの値に妥当する役割をもったひとつの特殊値がつねに必要になる。
 (下p.20)
 
 そしてこのことを考える例として、円の代数方程式、および微分方程式の話が出てくるのです。

(つづく)
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