TETRA'S MATH

数学と数学教育

ドゥルーズ、「動物になること」/非人称とスピノザ/わたし

 生活ブログ:TATA-STYLEのほうで、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』のことをずっと書いているのですが(ついにカテゴリーを作ってしまった→)、ぼちぼち結論に向かいつつあり、そこに「動物になること」という話が出てきます。

 で、エスポジト『近代政治の脱構築』も、「動物になること」の話で終わっています。

 不思議な話ではなく、要はどちらもドゥルーズが関係しているということなのでしょう。ただし、『暇と退屈の倫理学』では確かに結論近くでドゥルーズの名はあげられるものの、「動物になること」はハイデッガーとユクスキュルの議論を経て出された言葉なので、直接ドゥルーズからこの言葉はひいておらず(私が読み落としている可能性もなきにしもあらず)、実際ニュアンスが異なっているようです。

 ドゥルーズが出てくるとなると、もう一度こちらをリンク↓
http://repre.org/repre/vol9/conference04/
panel05.html


(そういえば前回のエントリで、同じ「表象文化論学会サイト」内のブランショのページの話題を出しておきながら、リンクするのを忘れていたので、リンクを追加しておきました。)

 一方、『近代政治の脱構築』のほうでは、
ドゥルーズが、人格という概念を脱構築する過程のクライマックスにおいて------哲学的でも、精神分析的でも、政治学的でもある調子を響かせつつ------、「動物になること」という謎めいた形象を措定したのは偶然ではない。
 (p.275〜276)

というふうに「動物になること」が出てきます。また、ドゥルーズのこんな言葉も引用されています。
「群れに対して、多様性に対して魅惑を感じることがなければ、われわれは動物に<なる>ことができない。これは<外>の魅惑なのだろうか。それともわれわれを魅惑する多様性が、われわれの内側に住まう一個の多様性とあらかじめ関連しあっているということなのだろうか」
 (p.276)

 「われわれの内側に住まう一個の多様性」ときいて、私は『記憶と生』の訳者あとがきのなかにあった、「多数性に満ちた単一」のことを思い出しました。>ドゥルーズによるベルクソン『記憶と生』の全体像・1

 話がもとにもどりますが、前回のエントリのなかで「匿名性のつぶやき」という言葉を含む箇所を引用しましたが、そのあと、匿名でありながら多数でもあり、非人称でありながら単独でもあるこのつぶやきが持つこととなるのは、生の形式であり、「ひとつの」生なのだ、と話は続きます。

 生というものは、生きとし生けるものすべての者に共通するものでありながら、けっして漠然としたものではなく、つねに誰かのものである。しかし、生は、人格という排他的で他を締め出す形式を持つわけではない。生は、人格という分割の装置による切断に抗うもの、それ自体でただひとつのものだからである。生とは、法のあらゆる主観的概念化に先がけて、不可分の一点を構成する。

 そして第11章の最後、つまりこの本のラストは、次のように締めくくられています。
人間が人間のうちで「動物になること」とは、人格という概念や慣習によって締めつけられてきた形而上学的な結び目をほどくことによって、もはやモノへの移行段階にあるのではなくて、ついに自分自身のみと一致した人間の存在様態へと向かうことを意味し、そして要求するのである。
 (p.276)

 『近代政治の脱構築』は、文字面を追うだけで、なかなか読めずにいるのですが、第1章の前半と、それからこの第11章だけは、すぐに心に響きました。

 そういえば、「第4章 免疫型民主主義」では、イェルネの名前が一度だけ出てきます。私にとってはちょっと懐かしい名前です>イェルネの「ネットワーク説」と「内部イメージ」 (1)(2)。当然、ルーマンも出てきます。
 
 あともうひとつ、非人称の話を聞いていると、どうしてもスピノザのことを思い出します。というか、非人称とはなんぞやを理解するとき、結局、(上野さんが紹介してくれるところの)スピノザがいちばんわかりやすい。
 真面目な思索は「私はいかに生くべきか」という問いから始まる。それはよいのだが、それだけだとろくでもない私さがしになってしまう。「私」をめぐる問いは非人称的な事物認識の世界にまで導かれ、事物の言葉で遂行されねばならない。幾何学仕様の『エチカ』が倫理学だという秘密はそこにある。一人称の倫理的な問いを、その強度はそのままに、非人称の世界にまで運んでいく道。それがこの『知性改善論』である。百の解説書を読むよりも、まずはこの道を自分で歩いてみたまえ、というスピノザの声がする。
(上野修『スピノザの世界』p.21〜22)

 私(←このブログを書いているtamami)は、自分自身と、それから「わたし」という概念に、とても興味があります。そして、「私の道筋」というものを重要視しており、それが“私の”教育観の根幹を成しています。そんなふうに「“わたし”まみれ」の私であり、だからこそカヴァイエスの自己展開はショックだった()わけですが、ここ数ヶ月、ごくたまに、そんな私が解きほぐされる感覚を味わうことがあります。

 最初は仏教関係の本だったと思います。「あ、私なんていないんだ」という、不思議な開放感のような安堵感のような感覚を味わった瞬間があり、それは持続するものではなく、すぐに私は“わたし”まみれにもどるのですが、その瞬間を味わったことは覚えているわけです。そうこうするうちスピノザの“ずーん”を味わうことになり、その後いろいろなイメージが、言語化されることなく湧いて漂っては消えていっています。多と一、動き、透明と存在がないまぜになったイメージ。と、言葉にしたとたん、「ちょっと違う」と思われるイメージ。「私はないんだけど、私は確かにあって、そして私ってのは一人だけど、でもやっぱり私ってものはないんだ」ということ。“わたし”まみれの私を肯定したい自分を否定する必要もない。そして考え続ける。続けていい。続けるぞ。そんな感じ。

 きのう、上野修『スピノザの世界』の冒頭を読み直したのですが、あらためて(上野修さんが紹介してくれるところの)スピノザの企てが胸に響いてきます。
 スピノザの企ては、すぐれて倫理的な企てである。しかも、いかなる道徳的善悪にも出発点において無関係なことが、いまからわかる。彼はおのれの欲望に関して最初から一歩も引かない。そこを間違うとすべてが嘘になることを知っている。知性と欲望は対立するどころか、哲学の営みの中で同じ一つの衝動のもとにある。大丈夫、失うものは何もない。守るものなどはじめから何もないとスピノザは言う。哲学は生の強度として生きられるのである。
(p.39)
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フーコーが部屋に入ってきたとき

 『近代政治の脱構築』(ロベルト・エスポジト著/岡田温司訳)の第11章を読んでいます。

 ここは「非人称」の話なので、ちょっとそのことを。人称といえば、一人称・二人称・三人称があり、日本語の代名詞だと、「わたし」「あなた」「彼・彼女」などがそれぞれ対応するのでしょう。つまり、話し手を指すのが一人称、受け手を指すのが二人称、どちらでもないのが三人称。

 では、非人称とはなんなのかというと、日本語ではちょっと考えにくいのですが、たとえば「雨が降る」というときの英語の「It rains.」の It や、フランス語の「Il pleut.」(でいいのかな?)の Il などがそれにあたるのだろうと現段階では理解しています。

 さて、前回のエントリ他者のための孤独でモーリス・ブランショの言葉を引用しましたが、「エクリチュールは一人称から三人称へと突き抜けることに等しい」とブランショが主張するとき、彼は「作家の側が一人称で語るという可能性を放棄して、ムージルの主人公のように、アイデンティティや身分を欠いた登場人物たち自身に物語を解釈させるという非人称を受け入れるということ」をほのめかしている、とエスポジトは書いています。そして、「カフカに帰されるであろう、物語の声の脱中心化」の話へと続いていきます。

 ところで、表象文化論学会関連のサイトにあるブランショ関連のページでは、「ブランショといえば、連想される鍵概念は「不在」「無為」「死」「非人称」「彷徨」「中性的なもの」といったものだろう」と書いてあり、鍵概念のなかに「無為」という言葉が含まれています。

 なもんだから、私はまたもや(千夜千冊で紹介されている)ルソーを思い出したのでした。万余の言葉を費やしてきたルソーがたどりついた、たった一つの言葉「ファル・ニエンテ」(たぶん do nothing といったような意味)のことを。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0663.html

 話は前後しますが、エスポジトが「非人称の思想」の手がかりとして示している3つの領野「司法」「エクリチュール」「生」のなかで、私にとっていちばんわかりやすくしっくりきたのは、3つめの「生」の話のなかで出てきたドゥルーズによるフーコーについての言及でした。
「フーコー当人からして、すでに正確な意味で人称とはいえないような人物だったわけですからね。とるにたりない状況でも、すでにそうだった。たとえばフーコーが部屋に入ってくるとします。そのときのフーコーは、人間というよりも、むしろ大気の状態の変化とか、一種の<事件>、あるいは電界か磁場など、さまざまなものに見えたものです。かといって優しさや充足感がなかったわけでもありません。しかし、それは人称の序列に属するものではなかったのです」
(p.274)

 さらには次のようなことも言っているようです。
「ブランショの場合と同様、フーコーでも「誰か[on]」」の分析が促進されます。つまり三人称ですが、分析の対象にすべきなのはまさにこの三人称だということ。<誰か>が語り、<誰か>が見て、<誰か>が死んでいく。つまり複数の主体が存在するのです。主体とは<可視的なもの>の塵の中を舞う微粒子であり、匿名性のつぶやきのなかに置かれた可動性の場のことです」
(p.274〜275)

 主体が存在しないのではなくて、複数の主体が存在するのですね。
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「他者のための孤独」

 『近代政治の脱構築』(ロベルト・エスポジト著/岡田温司訳)の第11章を読んでいたら、第1章を読んでいたときに書きたいと思いつつも書かずにいたことを、やっぱり書きたくなりました。

 第1章にも第11章にも、エクリチュールという言葉が出てきます。「書かれたもの・書くこと」を意味するフランス語のようです。ウィキペディアではパロールとの対比で説明してあり()、この対比に注目した人としてジャック・デリダの名があげられています。また、モーリス・ブランショとロラン・バルトの名もありますが、このうちブランショのほうを頭に入れておくことにします。ちなみにパロールというのは話し言葉のことで、こちらに注目すると()、ソシュールの名のもとにラングとの対比が書いてあります。

 私は「書き言葉」と「話し言葉」の対比というと、吉田洋一『零の発見』に書いてあった、ギリシア人は語られる言葉にこそ力があると思っていたという話を思い出します。声に出される言葉の力のことを。

 ルソーは『告白』を、あちこちで人前で朗読したそうです。当時まだ『告白』は出版されていなかったようなので、そのエクリチュールにはだれも触れておらず、ルソーは語り聞かせることで読んでもらおうとしたのかもしれないなぁ、と想像しています。
 
 さて、前回のエントリで引用したエスポジト『近代哲学の脱構築』p.38の例の一節には、さらに次のような文章が続きます。
そうした状況にたいして、ルソーは、共有の絶対的必要性のネガとして、孤独を提示するわけだ。きわめて逆説的にも、このことはルソーにおいて、みずからの意思疎通の不可能性を、エクリチュールを通じて伝達しようとする点にあらわれている。エクリチュールはまさしく、「他者のための孤独」という性格を帯びることで、「現実の社会における人間の共同体の実現不可能性を代替するものとなる」(B.Baczko,1974,p.263)。
 話はズレるというか裏返しになりますが、私はこのあたりを読んだとき、「孤独はいいものだ。しかし、孤独はいいものだと話せる相手がいることもいいものだ」という文句を思い出しました。日本人の詩人か作家か劇作家が言ったことばだと思っていたのだけれど(とにかく日本のだれかを通して知りました)、バルザックだったんですね。→「孤独はいいものだという事を我々は認めざるを得ない。けれどもまた孤独はいいものだと話し合う事のできる相手を持つことはひとつの喜びである」(ウィキペディアより)

 そして第11章。この最終章の章タイトルは、「非人称(ルビ:インペルソナーレ)の哲学へ向けて」となっています。ペルソナというのは、「仮面」のようなものを指すようですが、本文中では「人格」のルビになっています。これがインペルソナーレとなると、「非人称」になるのですね。

 この章にもエクリチュールという語が出てきており、それはこんなふうに出てきます。
「エクリチュールは一人称から三人称へと突き抜けることに等しい」
  (p.272)
 
 だれが言ったのかというと、先のモーリス・ブランショ。ちなみにこの少し前にヴェイユが出てきますが、もちろん数学者アンドレ・ヴェイユではなく、妹の哲学者シモーヌ・ヴェイユ。シモーヌ・ヴェイユは非人称なるものを正義の地平に位置づけた人物として出てきており、ブランショは非人称なるものを「エクリチュールというレジームに持ち込んだ」人物として出てきます。妹ヴェイユがそういうことをしている一方で、兄ヴェイユは、本当は集団であるところの架空の数学者ブルバキを一個人として活動させる一人となり、その内容が構造主義のルーツになっていったわけですか。

 もう一度ルソーにもどりますれば、ルソーは『告白』のあと、『ルソー、ジャン=ジャックを裁く、対話』という書物を書いたようです。しかしこの草稿をルソーはだれにも手渡すわけにはいきませんでした。そして、ノートル・ダム寺院の祭壇の上に置くことで、いつかそれが直接国王に届けられることを考えたようなのですが、それもかなわず、神からも友人からも街頭で出会う人からも遠ざけられてしまったルソー。
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/
10291/12286/1/kyouyoronshu_116_29.pdf


 そして『孤独な散歩者の夢想』が絶筆となり、3つの自伝はおそらくルソーの死後、出版されたのでしょう。

 ルソーは、とことん他者を必要としていたのだと思うことであります。必要としていたというか、存在していたのだな、と。他者がリアルに。ときに過剰に。
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ルソーの孤独/リヴァイアサン・AKIRA・ラブマシーン

 『近代政治の脱構築』(ロベルト・エスポジト著/岡田温司訳)の訳者によるイントロダクションをもう少し読んでいこうと思っていたのですが、イントロダクションを読むと本文が読みたくなるので(それは当然のことで喜ばしいことですね^^)、ひとまず先に進んでみることにしました。といっても例のごとく前から順序よく読んでいく段階にはまだなくて、あれこれ思いを広げながらページをめくっていたら、ルソーの孤独のことについてちょっと考えたくなりました。

 ちなみに、生活ブログ:TATA-STYLEのほうで國分功一郎『暇と退屈の倫理学』についてずっと書いており、いまは第四章を読んでいるので、ルソーも少し出てきます。
ルソーによる、ホッブズの「自然状態」へのダメ出し
「利己愛」と「自己愛」のちがい
ルソーは「自然に帰れ」という言葉は使っていない

 突然ですが、松岡正剛さんは千夜千冊でルソーのどの著作を取り出しているかというと、『孤独な散歩者の夢想』です。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0663.html

 この空気と同じ空気のルソーに、『近代政治の脱構築』p.38でも会えます。
とりわけルソーの後期の著作のなかで強迫観念的に繰り返される、孤独な生活へのあくなき宣言でさえもまた、共同体の不在にたいする静かな抵抗という調子を帯びている。共同体が存在しないがゆえに、あるいは、存在する共同体のあらゆる形態が、唯一の本物の共同体とは正反対であるがゆえに、ルソーは孤独なのだ。
 急に「共同体の不在」の話を始めてしまいましたが、エスポジトによると、ルソーの著作はみな「共同体はわたしたちにとって必要であるが、わたしたしにとって閉ざされている」という事実に言及するため、それを声高に主張するためだけに書かれている、と言ってもいいほどだ、とのこと。

人間のあらゆる歴史は、共同体を内部から蝕み、空っぽにしてしまう、こうした傷口へと通じている。この「不可能なるもの(ルビ:インポツスイービレ)」という理論に依らないかぎり、共同体を解釈することはできない。それでも、避けがたい背信の姿をまとって、この不可能なるもののなかから、共同体は生まれてくる。つまりわたしたちは、為す義務があることと、為す権利があることのあいだの裂け目のなかに生きているのである。

  (p.37)

 再び千夜千冊にもどりますれば、ホッブズについては『リヴァイアサン』がとりあげられており、そこに大友克洋の『AKIRA』がちょろっと出てきます。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0944.html

 20年近く前に読んだ『AKIRA』の記憶をたどるもののいくつかの断片的な場面しか覚えておらず、おまけになんだか話がつならないぞと思ったら、どうやら『童夢』とごっちゃにしていたもよう・・・。ほんでもって、映画『サマーウォーズ』にもリヴァイアサン的なものが出てきていたような気がしてためしに検索してみたら、ツイートが1件ひっかかってきました。
http://mobile.twitter.com/hhasegawa/
status/227393217526632448


 ラブマシーンというものでしたか。人工知能だったんだ。(←忘れてる or 把握してないし)
http://dic.pixiv.net/a/%E3%83%A9%E3%83%96%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%B3

 ルソーはホッブズ的パラダイムにたいして、こんなふうな批判をしたらしいのです。→「もしばらばらの人間が、ただ一者に次々と屈服されていくとしたら、それが人びとの望みであったとしても、それは単なる「集合」であり、「結合」ではない。そこには、いかなる公的善も、いかなる政体も存在しない」。

 そしてエスポジトは、ルソーが上記のように述べるとき、「彼は、共同体のあらゆる概念の不在ばかりでなく、その暴力的な駆逐をも、ホッブズに帰そうとしている」と指摘しています。

イギリスの哲学者が、自然状態のもとで闘争的関係にある個々人を、リヴァイアサンの巨大な身体に統合しようと努めるかぎりにおいて、この批判は的を射ている。もし人びとを結びつける接合剤が、共同の恐怖にほかならないのならば、そこから生じる結果はつねに共同の隷属でしかなく、それは共同体とは正反対の状態を意味する。

  (p.37〜38)

 この話をきいたときに私は、遠山啓の順序構造の説明を思い出しました(>「構造と素子」と、十進法理解のためのタイルの結集)。構造とは「要素どうしが何らかの相互関係によって結ばれている集合」のことでしたが、たとえば{Gさん、Yさん、Lさん、Bさん、Kさん、・・・}という共同体があったときに、これを単なる集合ではなく共同体にしている「相互関係」とは、いったいどのようなものなのでしょうね。先のエントリのなかでは「国家という構造」という言葉をさらっと使ってしまっていますが、その構造とは、いったいなんなんだろう? AKIRAがAKIRAであること、ラブマシーンがラブマシーンであることの意味。

 さらには、私という人間はタンパク質の構成物かもしれず、波の塊かもしれないのに、どうしてひとりの人間として生きることができ、「自分の思考」をする(していると思える)のだろう?

 なぜ、ルソーは、孤独になれるのか?

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「免疫」(イムニタス)と「共同体」(コムニタス)

 『近代政治の脱構築』(ロベルト・エスポジト著/岡田温司訳)の訳者によるイントロダクションを読んでいます。

 あらためて「免疫」という言葉をながめてみると、これは「疫を免れる」と書くのですよね。言葉の成り立ちにもどると、時として新しい視点を得られることがあります。エスポジトは、「免疫」を語源にさかのぼって考えることで、それを「共同体」に結びつけることをしたらしいのです。

 「免疫」というのは、ラテン語の「イムニタス」を語源にもち、これはもともと司法にかかわる語だそうで、「義務から免れていること」「職務から解放されていること」「税を免除されていること」といったような意味があるのだとか。「ムヌス」が「義務」や「責任」や「贈り物」の意味で、これに打ち消しを表す接頭辞「イン」がついて、イムニタス。

 これにたいして、「コムニタス」は、「ムヌス」と「ともに(クム)」あることを意味し、それが「共同体」の語源となったということらしいのです。
つまり、共同体と免疫とは、同じ「ムヌス」をはさんで、一方は他者への義務を負うこと、外部へと開かれることを含意するのにたいして、他方はそれから免除され、自己を閉ざそうとする傾向をはらむといった具合に、ちょうど正反対の関係にあるのである。
  (p.15〜16)

 「免疫」のことについては、以前から興味がありましたが、「共同体」についてはあまり考えてきませんでした。というか、避けるともなく避けていたというか、考えようとしていなかったかもしれません。何しろ「共同体」ときいてすぐに思い浮かぶのがPTA(笑)。「共同体」とは言わずに、「地域」あるいは「コミュニティ」というと、がぜん身近な問題になってきます。大震災の経験が、さらにそれを感じさせるものになってきているように思います。実はこのあと、ホッブズのリヴァイアサンが出てくるので、つい川端裕人さんを思い出し、ますますPTAのことを思い出してしまうのかもしれまんが、PTAそのものが共同体というよりは、PTA活動を通して、学校が地域と切り離しては考えられないことを感じるようになり、それを含めてのコミュニティという感じです。ちなみいまは、PTAにCommunityを加えたPTCAという名称もあるようです。

 エスポジトは、「個を放棄し、主体を横切り変化させるものへと向かうこと、感染と傷にさらされること、それこそが共同体の本義なのだ。固有なものなど何もないということ、このパラドクスこそ、共同体のメンバーが共有するものである」というようなことを言っているらしいです。

 その次の一節でリヴァイアサンが出てきます。エスポジトは、近代化とは免疫化、もっと限定するなら、自己免疫化を推し進めてきた過程のことにほかならない、主権や代表、自由や所有など、近代が練り上げてきた政治哲学の概念のうちには、基本的に、個人や国家をその外部から守ると同時に、自己の内部の葛藤を中和化しようとする自己免疫化のメカニズムが働いている、と指摘しているらしいのですが、その先駆けとして、ホッブズのリヴァイアサン国家、ロックの所有権、ルソーの自由などがあげられているのでした(ちょうどいまTATA-STYLEのほうで、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』第四章を読んでいる最中なのですが、こちらにもホッブズとルソーが出てきています)。
 
 このあと「免疫化の功罪」の話が新型インフルエンザなども例にとりつつ続けられていくのですが、次の一文に私はドキリとしました。
いまや、リスクが免疫を要請しているというよりも、免疫と自己保全への願望がリスクの感覚を煽っている、そういう時代にわたしたちは突入しているのである
  (p.18)

 このことについては本文のp.158に書いてあるようなので、該当部分をのぞいてみると、保険会社がしているように、リスクをコントロールできるようにするために、リスクが人工的に作りだされる話や、「自己免疫疾患」という言葉などが出てきています。私自身の免疫への興味は、身内の膠原病に端を発しているのですが、まさにこの膠原病は自己免疫疾患との関係が深いものだと思います。また、ここから自己と他者、「わたしとは何者であるか」という問い、そして自己と他者をへだてる境い目への興味へとつながっていったのだろうと思っています。ついでに本文中のこのセクションの冒頭をのぞいてみると、「わたしちの生を守るために必要な免疫は、ある閾の向こう側へ越えていくと、生の否定に行きつくということである」(p.156)なんてことも書いてあります。

 近年、エスポジトだけではなく、二クラス・ルーマン、ダイアナ・ハラウェイ、ペーター・スローターダイクらも免疫に注目しているらしいのですが、彼らとエスポジトが決定的に異なるのは、免疫化社会のユートピア的な夢想を断固として退けている点である、と岡田さんは書いておられます。

 その意味では、ジャック・デリダとの共通性を指摘することはできるけれども、デリダが指摘するグローバルな自己免疫化の危機は、生政治というよりはむしろ宗教と科学技術に関するものであり、エスポジトは生政治の舞台の中心に免疫化という概念をすえているところが独創的だ、ということのようです。
この観点からすると、ナチズムは、完璧なる自己免疫化への志向が、自己と他者との完璧なる破壊という事態を招いてしまった生政治にほかならない。言い換えるなら、生政治が死政治へと転倒するとすれば、それは、「イムニタス」という装置が究極的なかたちでそこに介入するからなのであって、アガンベン的な黙示録によるわけではないということだ。自己の固有性や純粋性にしがみつこうとする共同体は、免疫化を発動させるとき、まさしく共同体そのものの死へと行き着くのである。

  (p.19)

(つづく)

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フーコーが開き、アガンベンとネグリによって正反対の方向に分裂されてしまった問い

  『近代政治の脱構築』(ロベルト・エスポジト著/岡田温司訳)の訳者によるイントロダクションを読んでいます。

 以前、現象学とカヴァイエスの違いを軽くおさえておく―超越と内在とにおいて、こんなことを書きました↓
近藤さんの立場は、戦後の現代思想のなかで、とりわけ「内在論の哲学」と言われる一連の思想家たちの立場と共鳴するものなんだそうです。戦後の現代思想で言えば、ドゥルーズ、ガタリ、フーコー、90年代以降で言えば、アガンべン、ネグリ、エスポジト(最初の3人の名前はイヤでも知っているけれど、うしろの3人は全然知らない・・・)。
 この全然知らなかった90年代以降の3人にこれから接触することになるわけですが、アガンベンやネグリについては間接的な接触であるにしても、『近代政治の脱構築』の訳者イントロダクションを読むことで、フーコーからエスポジトの流れが見えてきます。(少し調べてみて思ったのですが、ネグリをいままで認識していなかったなんて、ちょっと恥ずかしいです・・・ 二ュースで知ることもなかったのだろうか?>私)

 「生政治」という言葉は、「18世紀以来の西洋の政治が、人民の生をその最大の賭け金とするようになる状況」を総括したものであるようで、用語自体はフーコーが考案したものではないようですが、この概念を明るみに出したのがフーコーということなのだと思います。

 そしてこの思考は、ジョルジュ・アガンベンの『ホモ・サケル』(1995年)によって発展させられ、さらにアントニオ・ネグリ『帝国』(2000年)でも展開されていきました。しかし、この2人が進んだ方向は対照的だったのだそうです。アガンベンにとって生政治とは本質的に否定的で悲劇的でさえあり、それは必然的にナチズムの強制収容所へと行き着かざるをえないものであった。一方、ネグリは生政治を肯定的なもの、場合によっては楽天的なものとしてその光景を描いたもよう。

 アガンベンは、生政治は基本的に、わたしたちを「剥き出しの生」(ギリシア人が「ゾーエー」と呼んだもの)にさらし、いやおうなくも死と隣り合わせにさせないではおかない、と考えたようです。このことを考えるために、身近な日常の例として、臓器移植の話が出されています。臓器移植の論理は、一部の人に「合法的」に「死」を押しつけることで、別の一部の人の生を救おうとするものだから。

 また、ネグリについては、「マルチチュード」という言葉が説明の中で出てきています(ちなみに『帝国』はマイケル・ハートとの共著なので、「ネグリ=ハートにとって」という書き方がなされています)。マルチチュードは、情報のグローバルなネットワークや変化する労働の共同形態等によって形成されるもののようで、ネグリ=ハートはこれを新たな主体性のかたちを出現させる場と考えたのだとか。

 ウィキペディアによると、マルチチュードという概念は最初マキャべリによって使用され、その後スピノザも用いたもよう。「多数性」「多性」「群集性」などの訳語もあてられるそうで、地球規模による民主主義を実現する可能性として、国境を越えるネットワーク上の権力として提唱している概念なのだとか。

 なお、岡田温司さんは、アガンベンとネグリの対比を、「アガンベン的な黙示録、ネグリ的なユートピア」「アガンペン的な悲観論、ネグリ的な多幸症」という言葉で表現しておられるのですが、このような表現をすることになるのも、エスポジトがそのどちらでもないことを示すため。ちなみに「あなたはアガンベンとネグリのどちらに近いか?」と問われれば、やはりネグリは楽観的にすぎるような気がして、「強いていえばアガンベンかなぁ・・・」とうつむいて答えそうな気がするのですが、そのどちらでもない方向に議論を展開した人がいると聞けば、がぜん興味がわいてきます。

 フーコーがかすめて通り、その後アガンベンが黙示録として提示したパラドクスは、「なぜ生政治はいつも決まって死政治へと裏返る危険性をはらんでいるのか」という問いでした。なお、「いうまでもなく、そのパラドクスをもっとも雄弁なかたちで体現したのがは、ナチズムであった。(中略)だが、それは、けっして一回性のものでもなければ、いまや過去形になったというわけもない」と書かれてあります。

 フーコーはこの問いを開いたけれども、深化させることはなかった。そして、アガンベンはこれが宿命だと考え、ネグリは生政治のこのネガティブな側面に目を瞑った。

 エスポジトは、なぜフーコーの枠組みのなかでは上記の問いに答えることはできないのか、ということについて、次のように考えているようです。それは、フーコーにおいて生と政治とが2つの異なる項としてまず別々に前提され、しかる後に両者が外在的に結び付けられているからだ、と。そうすると必然的に、生政治は、生にたいする過剰な行使とみなされるのか(アガンベン)、それとも、主権にたいする生の過剰な潜勢力とみなされるのか(ネグリ)といった具合に、正反対の方向へと分裂することになる。言い換えると、生政治は、生にたいする絶対的な権力のうちに解消されてしまうか、さもなければ、生の絶対的な力に吸収されてしまうかの、どちらかになってしまう、と。

 これにたいしてエスポジトは、生そのものがその成り立ちからすでに政治を内包しているという視点を提起したらしいのです。おお。

(つづく)
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ロベルト・エスポジト『近代政治の脱構築』/訳者(岡田温司)によるイントロダクション

 あとで考えたいことの整理のなかで、スピノザとハイデッガーのことを書きました。そうなってくると今度は、近藤和敬『カヴァイエス研究』の「あとがき」で出てきた『近代政治の脱構築 共同体・免疫・生政治』(ロベルト・エスポジト著/岡田温司訳/講談社選書メチエ/2009)のことが気になってきます。近藤さんが引用した部分では、ハイデッガーとスピノザが、超越と内在の対比で名前を出されているので。

 そこで今度はこの本をのぞいてみることにしました。訳者によるイントロダクションはナポリの話から始まるのですが、そこにベンヤミンがこの町を形容して使った「多孔性」という言葉が出てくるのです。また、このあと免疫の話も出てきます。

 あれ・・・?と思って、スピノザからのシンクロニシティにもどってみました。

同じページに、シンポジウム「免疫・多孔・液晶──表象文化論のアクチュアリティ」なんて言葉もあります。芸術系大学では、こんな面白そうなことやってるんですか〜!!

 あのときリンク先を読むところまでいかなかったのですが、今回クリックしてみたら、やはり岡田温司さんを発見(でも、あのときは読んでも気づかなかったかもしれない)。
http://repre.org/repre/vol9/conference04/
symposium01.html


 エスポジトのこの書物には、「生政治」という言葉が副題に入っており、この言葉は私もかつてどこかで見かけた記憶がありますが、例のごとく(内部観測と同様に)、「知っている言葉の組み合わせからくる微妙なわかりにくさ」をまとった言葉だという印象をもっていました。つまり、「生」と「政治」の関係がよくわからない(そもそも、「なませいじ」なのか「せいせいじ」なのか・・・)。 “生”が「政治」を修飾しているのか、それとも「生」と「政治」が同じくらいの重さで組み合わさっているのか。

 どうやらコトの発端は、フーコーであるようです。そして、「生」が「政治」を修飾しているわけでもなさそう。「生」はそのまま「生(せい)」と考えていいらしい。このことばはウィキペディアにもあるくらい一般的なもののようで()、むしろBio-politicsと言われたほうがわかりやすいです。

 そしてなにか「生」というものと「政治」というものを切り離して考えていた自分、「政治」は「生」から少し離れたところにあるものとして捉えていた自分を、いまさらのように自覚しました。われながら能天気な話ですが、この「生」と「政治」の関係が、フーコー(が未解決のまま残したアポリア)と、アガンべン、ネグリ、そしてエスポジトを理解するのに役立ちそうです。

 そんなこんなで、かつて免疫に興味をもち、自己の問題がずっと心にあり、臓器移植や出生前診断や延命治療について考えてきた自分にとって、ヒトゴトではない問題がまさにここにあると知り、「いままでこの議論に気がつかなかったなんて不覚・・・」と思いながら、この訳者イントロダクションに深く感応したのでした。

 岡田温司さんは、ナポリの哲学者たちの説明のなかで、「その思考の射程の広さ、吸収力の大きさにおいて傑出しており、さらに哲学をその内部に閉じ込めてしまうのではなくて、積極的に外部へと開いていこうとする思考のスタイルにおいても共通している」という内容のことを書かれています。そしてエスポジトもこの特異な思考の系譜を受け継いでいるとして、その紹介のなかで「たぐいまれなる許容力―積極的な意味での受動性―」という言葉を使っておられます。積極的な意味での受動性、それはつまり能動的な受動性と言い換えてもいいと思うのですが、このあたりのことも最近のテーマでした。

 この訳者によるイントロダクションには、ドキッとするフレーズがたくさん出てきており、20数ページの案内文が、すでにひとつの読みものになっています。なので、ちょっとのぞいてみることにします。

(つづく)

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