TETRA'S MATH

数学と数学教育

あとで考えたいことの整理(合理主義と経験主義、ハイデッガーとスピノザ)

 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』「第一章 暇と退屈の原理論」に、興味深いことが書いてありました。水と油であるところのラッセルとハイデッガーが、「暇と退屈」に関連して、同じ時期に同じ指摘をしているという話です。その内容とは、食と住を確保できるだけの収入と、日常の身体活動ができるほどの健康をもち合わせている人たちの不幸、いわば日常的な不幸の話(p.51〜52)。

 「実はこの符合は、ハイデッガーとラッセルのことを知っている者にとっては少々驚きの事実である」として、この2人が政治的にも哲学的にも犬猿の仲であることが簡単に説明されています。ハイデッガーは20世紀の大陸系哲学を代表する哲学者であり、ラッセルは20世紀の英米系分析哲学を代表する哲学者であることと、これら2つの傾向はいまに至るまで対立し続けているということ。また、ハイデッガーはナチズムに加担したことでもその名を知られているけれども、ラッセルは反ファシズム運動の活動家でもあったこと。

 大陸系哲学ときくと、いわゆる大陸合理主義のことを思い浮かべるのですが、同じものと考えてもいいのでしょうか? むかし、初めて大陸合理主義という言葉をきいたときには意味がわかりませんでした。はじめてきくのだからわからなくてあたりまえなのですが、「大陸」の文字がつくことから、地理的、地学的な話なのかしらん?と思ったくらい。 これってたぶん、ヨーロッパ大陸のことをさしているのですね。

 英米系分析哲学のほうは、いわゆる経験論方向のことだと考えていいのでしょうか。こちらも、いまだからこそ経験という言葉を使うことの抵抗が以前よりは減りましたが、やっぱりなんだか不思議な感じがします(>「論理実証主義」と「経験主義」と「ウィーン学団」)。(もっといえば、ウィーンってヨーロッパ大陸のなかにあると思うんだけど・・・ だからこそあえてウィーン学団とよばれたのだろうか?) このへん、基本的な哲学史の流れが全然わかっていないので、いつかもうちょっと勉強したいです。

 ほんでもって、偶然か必然か!?(去年書いたエントリの訂正>「じんぶんや」)において、「スピノザの案内役にハイデッガーが選ばれていることが、意外」と書きましたが、あの場合はスピノザの案内役というより、選んだ本全体の案内役なのかもしれませんね。なぜ私が意外に思ったかというと、ちょうどそのころ、岩井寛『森田療法』における西欧と東洋の比較について考えており()、現象対峙的な西欧的の「ある」としてハイデッガーの名が出されていて、スピノザの「ある」は神と私を対峙させてはいないので、ハイデッガーの流れのなかにスピノザは入っていないと思ったからです。

 さらに、現象学とカヴァイエスの違いを軽くおさえておく―超越と内在とで引用した部分では、ハイデッガーとスピノザが、超越と内在という形で対立したものとして扱われています。ここんとこどう考えればいいのだろう?と思っていたわけなのですが、前回のエントリで示したように、國分功一郎『スピノザの方法』において、スピノザは合理主義者であるが、いわゆる合理主義と一線を画していると書いてあったので、ようやくほんの少しヒントがつかめてきたかもしれないと感じているところ。

 それにしても、最近考えることは・・・って、最近じゃなくてずっとそうなのですが、「わかる」ということの意味です。『暇と退屈の倫理学』でも最後の結論でスピノザが出てきていて、人は何かがわかったとき、自分にとってわかるとはどういうことかを理解する、ということについて書かれてあります。これ、ほんとそのまま、教育の基本の話だと思う。國分功一郎さんは大学の先生であり、それはつまり教育者ということでもあるので、日々このようなことを頭において、教育をされているのだと思います。

 また、郡司ペギオ-幸夫の印象について思うことの現段階のメモの最後で、「自分の頭で考えて、頭の後ろがキリキリ捻じれて、捻じ切れた途端に、あぁそうかとわかる快楽を知っている人には是非お勧めしたい一品」という近藤和敬さんの言葉を抜き出しましたが、ここにも、わかることの意味が書かれてあります。

 さらに、前回のエントリでご紹介した『暇と退屈の倫理学』に対する論評は、「ドストエフスキーはわかりづらい。そして、それでいいのである」と締められています。
http://d.hatena.ne.jp/HowardHoax/20111216

 教育で大切なのは、“正しい”とされている概念を“わかりやすく”教えることではなく、「わからない」ということは始まりだということを知ること、そして、わからないことと向きあって、自分の道筋でわかる喜びを知ること、わかるということはそういうことだということを知ることの経験ができる場を作ることではないかと思っています。
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國分功一郎『スピノザの方法』のあとがきと、『暇と退屈の倫理学』に対する論評

 最初に連絡をば。TATA-STYLEのほうで、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を読んで考えたことを書き始めています。>國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社/2011)から



 國分功一郎『スピノザの方法』を最初につまみ読みしたときに、印象に残ったところが2箇所あったと書きましたが、うちひとつは前回のエントリで抜き出したところで、もう1箇所は「あとがき」のなかのエピソードでした。

 國分功一郎さんは、2001年頃にこの論文を書き始めて、2004年の事前の審査会で完全否定され、もう一度最初からすべてをやりなおすことになったそうです。このときに著者は、何かを投げ出したい気持ちになったのだそう。そりゃそうですよね・・・

 で、当時、森山先生という方から指導を受けていたようなのですが、その先生が何度も繰り返し國分さんに伝え、そして結局乗り越えられなかった指摘として、次の言葉が示されているのです。

 「國分さんはスピノザをひとりで読んでいる」

 この言葉自体に、感動した私。さすが指導教員の位置にいる方、「やるなぁ」という感じ。指導教員たるもの、大事なことはシンプルに、20文字以内でまとめられる言葉で言わなくちゃですよね。(^^)

 しかしこの話は、(私の中で)これでは終わりませんでした。

 というのも、検索によって國分功一郎『暇と退屈の倫理学』に対する次の論評を見つけたので。
http://d.hatena.ne.jp/HowardHoax/20111216

 びっくりしたのは、先の指導教員の言葉に対する捉え方。

 最初にこの引用部分を読んだとき、私はむしろ反発を覚えた。もしも私が同じような言葉を投げかけられる側にいたら、強く反駁したことだろうと思う。他人のあり方を強く規定し、断定する言葉を投げかけておきながら、その言葉が表していることがどういうことなのかを明確に説明することはしない、というのは、私には到底受け入れられない。

 それこそ「最初に」ここを読んだとき、「えーー!?!?」と思ってしまいました。こんなふうに捉える人がいるんだ〜とびっくり。

 だけど読み進むについてスピノザの教育の話も出てきますし、要は『暇と退屈の倫理学』に対する違和感を説明するための「最初の印象」なのだな・・・ということがわかってきて、「えー!?!?」も回収されていったのでした。

 確かに、『スピノザの方法』と『暇と退屈の倫理学』は違います。まず何が違うって、値段が違う(笑)。ページ数はさほど変わらないのに、価格は3:1。そして、出版社が違う。ちなみにスピノザについての博士論文を「みすず書房」から出したのは、ご本人の希望だったもよう。さらには、博士論文の完成を背後で支えたのは指導教員ですが、『暇と退屈の倫理学』の完成を背後で支えたのは編集者であること(博士論文を改稿して書籍にするときには編集者が関わったのでしょうが)。そしてもうひとつ、本のなかに出てくる先駆者たち(哲学者を初めとする学者たち)と著者との関係性の違いからくるものもあるのではないかと感じています。

 ちなみに私自身は、『暇と退屈の倫理学』は「國分さんがひとりで考えている」とは感じていません。また、先の論評では「(『暇と退屈の倫理学』は)読者がそれを読む時間の内に退屈に遭遇することがあらかじめ周到に排除されているようなのである」と書かれていますが、私は、この書物はむしろ「(國分功一郎さんいうところの)浪費に向いている」と感じました。ただし、スピノザと並行して読んでいたから感じたことかもしれず、スピノザなしでこの感覚が得られたのかどうかはわかりません。

 結果的にこの論者の方は、『暇と退屈の倫理学』を堪能されたのではないでしょうか?(^^) だって、あんなに長い論評が書けたのだもの。書こうと思ったのだもの。後半の自由間接話法の話も興味深く読ませていただきました。前述の「著者と先駆者との関係性」につながる話ですね。

 『スピノザの方法』は、はじめから「時間を必要としている」書物だと思います。しかし、『暇と退屈の倫理学』は、ページ数のわりに負担なく読み進めることができるので、どれだけこの書物に時間をかけるか(「注」まで読むか、一度通読して終わりか、何度も読むか、これをもとに考えごとをするか、・・・)は、その人しだいだと思います。『スピノザの方法』はおそらく「消費」は無理。だけど、『暇と退屈の倫理学』の場合、「消費」の対象にするのか「浪費」の対象にするのかは読者しだいではないか、と。

 ちなみに國分功一郎さんがいうところの「浪費」は、「必要の限界を超えて物を受け取ること」であり、それは「贅沢」につながるものです。もっと縮めていえば、浪費とはすなわち、「受け取ること」といってもいいだろう。國分さんは、「贅沢を取り戻そう」と言っています(と、私は受け取りました)。

 思えば学校schoolの語源は「暇」なのですよね(←ほんとかどうかは知らないけれど、この説お気に入り^^)。だからやっぱり学校って、教える(与える)ところなんじゃなくて、学ぶ(受け取る)ところになったときに、退屈ではなくなるのだと思う。うん。

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スピノザ、三数法、わかるということ、合理主義者

 上野修『スピノザの世界』にひととおり目を通して感動したとき、國分功一郎『スピノザの方法』のあるフレーズがにわかに気になりだしたと書きました。気になった2つのうちの1つは覚えていたのですが、本文のなかにあるはずのもう一方がドンピシャリの形で見つからず、「これだったっけ? これだったっけ?」と思いながら第2部、第3部をのぞいていました。

 私のイメージでは、「スピノザはおうちの中にいる」というような雰囲気のフレーズでした。もちろん、こんな言葉じゃなかったのですが。

 ほんでもって、前々回のエントリでは、上野修『スピノザの世界』をガイドにして「並行論」のさわりをちょっとのぞき、また、前回のエントリのようなイメージも私の中にすでにわいていて、その間をうめるためには、まず「観念の観念」を理解せねばならず、秩序と連結をおさえねばならないと思っているのですが、秩序と連結はともかく、「観念の観念」がどうもいまいちピンとこなくて立ち止まってしまっていたのです。

 ここはひとつ國分功一郎『スピノザの方法』の第1部にもどってみようじゃないかということで、最初の部分のページをめくりました。そうしたら、これまででいちばん「あ! たぶんここだった」と思えるフレーズに再会したのです。
デカルトにとって真理は論駁する力、説得する力をもつ強い真理でなければならない。これはデカルトが徹頭徹尾他者に向かっていたことを意味する。デカルトの考える真理には、他者がつねに陰を落としている。
 それに対し、スピノザは、自分がデカルトのように問い詰められるかもしれないことなど気にもとめず、「いや、何事かを知っている者は、自分が何事かを知っていることを知っている」と述べているわけである。
  (國分功一郎『スピノザの方法』p.47/斜体は傍点付き)

 何事かを知っている者は、自分が何事かを知っていることを知っている。

 Amazonのレビューにあった「スピノザが禅僧にもみえてくる」というコメントが、「神」の在り方としてよりも「わかるということ」という意味合いにおいて、いまとなっては同意できます。たぶん、悟りとはなんぞやということは、悟った人にしかわからないのではないか、と。逆にいえば、悟れば、悟りとは何かがわかる。悟りとは何かがわかるためには、悟るしかない。悟っていない人に、悟りとは何かを知らしめることはできない。

 そういえばおじちゃんも言ってましたっけ。わかるときには、自分ではっきりわかる、と。

 ほんでもって。

 実は、スピノザを読み始めたばかりのときには頭の片隅にあったのに、読み進むにつれて忘れていたことがあったことを、國分功一郎『スピノザの方法』の「結論」を読んで思い出したのです。それはなにかというと、遠山啓著作集『量とはなにか―機戞p.111〜112)で、スピノザの名前が出てきていたこと。比例を解く3つの方法のうちの三数法の話にて(>中世ヨーロッパの商人にとっての「比例式」)。まさにこの三数法の話が、『スピノザの方法』の「結論 スピノザの方法からスピノザの教育へ」に出てくるのです。タイトルからわかるように、結論には「スピノザの方法は教育になる」ことが書かれてあり、その教育とはどういうものかというと、「教師はみずからの消滅をめざして活動する」ような教育のことなのです。

 小島寛之さんは、遠山啓の数学教育論の重要なポイントとして、「数学の自律性」をあげました()。しかし、スピノザの方法であるところの教育においては、各々の「精神」が自動機械として作動するようなのです。ということを理解するには、やはりスピノザのいう「精神」とはなんぞや、ということを深く理解する必要があるでしょう。

 スピノザは合理主義者と言われており、実際にそうである。精神の本性と法則が存在すると言い、しかもそれを認識しなければならないと説くところはまさに合理主義者そのものである。だが、そうした精神の本性と法則はあらかじめ与えられることはできないと考える点において、スピノザの哲学はいわゆる合理主義と一線を画していると言わねばならない。
  (p.353〜354)

 ああ・・・ いい人(スピノザのこと)を紹介してもらいました。ありがとう>近藤和敬さん、Fumibaさん、上野修さん、國分功一郎さん

 私のなかの実在論と反実在論のねじれ()を解消する(あるいは覆す)ひとつのヒントがここにあるのかもしれない。

 カヴァイエスにもどるのが楽しみ(^^)
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いま現在の状況

 スピノザについてイメージが膨らんでいるさいちゅうなのですが、それを言葉にするには、もう少し時間がかかりそうです。

 それにしても、スピノザのイメージを広げていると、やたらと郡司ペギオ‐幸夫のことを思い出すのですよ・・・。それがあたりまえのことなのか(あたりまえのことを自分の道筋で追っているのか)、意外なつながりなのか、大いなる勘違いなのか、よくわからずにいます。

 なんというのか、スピノザの「並行論」って、無限個ある順序集合(まったく同じ形のものなのだけれど、別々のもの)の対応の話のような気がして、それを考えていると、郡司ペギオ‐幸夫『時間の正体』で読みとばしていた「アジャンクション」という概念を思い出すのです。何しろスピノザも初心者ならアジャンクションについても理解しておらず、「なんとなくそんな気がした」程度の話なのですが。もしかしたら、17世紀にスピノザがユークリッドをお手本にして示そうとした「神」は、圏論っぽいもので、よりうまく表現できるのではないか・・・と、そんなことをシロウトながらにうっすら感じてみたり(それができたとして、だからどうなんだ、というのはよくわからないままに)。

 ほんでもって、アジャンクションについて調べていたら・・・ これはいわゆる「随伴」のことらしく、ウィキペディアに「スーパーヴィーン」の文字を発見・・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8F%E4%BC%B4  

  !

 出てきてたよこの言葉、上野修『スピノザの世界』にも。この言葉をタイトルにしてエントリを1つ書こうかと思ったこともあった。そうか、「随伴」って哲学用語でもあるんだ。

 だけど上野修『スピノザの世界』のスーパービーンは、むしろ「構造と素子」の話に近いような気がするのです。上記の対応関係とはちょっと違う。

 どちらも、いったい何次元で考えればいいんだ・・・??と、くらくらしてしまいます。

スピノザの神はこんなふうに観念連鎖の細部に遍在し、いたるところで知覚を生じている。そこには全体を高みから俯瞰する「神の視点」みたいなものはない。あるのは、いわば無限平面をびっしりと這い回る連鎖状の知性だけなのだ(第1部定理31)。
(上野修『スピノザの世界』 p.121/ルビ省略)
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スピノザの「並行論」を台風で考える

 もう少し上野修『スピノザの世界』を読んでいきます。きょうは「4 人間」のなかにある「並行論」の話。これはスピノザに関わる有名な用語らしいのですが、どちらかというと「平行」という文字をあてられることが多いような印象をもっています(他の本や、web上で)。でも、こんなにも、「並行」でも「平行」でもいいと思える概念って、これまでに出会ったことがありません。とりあえずいまは上野修さんにあわせて「並行」の文字を使いたいと思います。

 さて、その「並行論」の前段階を、上野修さんは「台風」の例でわかりやすく説明しておられます。いま現在、まさに台風17号が北上している最中ですが、この台風はジェラワット(JELAWAT)という名前なのだそうです。>台風の名前はだれがつけている?

 なお、台風18号/イーウィニャ(EWINIAR)も発生していますが、番号・名前が違うので、これらは別々の個体ということになるのでしょう。

 気象庁のサイトによると、台風というのは、熱帯低気圧のうち、北西太平洋または南シナ海に存在し、なおかつ低気圧域内の最大風速(10分間平均)がおよそ17m/s(34ノット、風力8)以上のものをいうのだそう。

 台風の発生メカニズムについてちょっと調べてみようかなと思って検索したのですが、難しいので、ひとまずのぞくだけ・・・↓
http://fnorio.com/0042Typhoon1/Typhoon1.htm
http://www.jma-net.go.jp/nara/
knowledge/saijiki2/14typhoon.htm


 とにもかくにも、原因はあるのでしょう。でも、「われわれは到底その原因をすべてたどることはできない」と上野修さん。「が、自然の方ではすべてたどりきって現に台風を存在させている」と。そして原因があるということは、なぜその台風が存在しているかの説明がある、ということでもある。たとえわれわれには無理でも、自然の方ではなぜその台風がそんなふうに存在しているかの説明が尽くされていて、台風の存在が現に結論されている。

 これが、現実に存在する台風についての「真なる観念」だ、ということになるらしいのです。いってみれば、自然のなかに思考がある、ということになる。
自然の中に台風の真なる観念が生み出され、猛威を振るう台風と「同じものの異なった表現」になっている。自然の中に思考があるというのは変な感じがするが、われわれだって自然の一部である。われわれに思考があるのに自然にはないと言う方が実は変なのである。
  (p.111)

 スピノザはこんなふうにして、同じものが、対象とその観念と両方の位置で表現されていると考えていたようなのです。同じ事物が、真なる観念の中に対象化されてあるあり方と、事物自身の属性のもとで表現されるあり方、その両方のあり方をしている。

 私がなるほどと思ったのは、この説明でした↓

つまり「神あるいは自然」は、あらかじめ考えてから「よし、実行だ」というふうにはなっていないのである

  (p.112)

 スピノザは何かをなしうる力をポテンチア(potentia)、「力能」という呼び方をしたようなのですが、すなわち台風を生じさせる神の力能と、台風を知る神の力能とは厳密に同等で並行しており、一方が他方に先立つということはない、ということらしいのです。

 ほんでもって、話が前後するどころか、完全に話が逆転してしまいますが、上野修さんは上記の話のまえに、あらかじめ、「スピノザの話についていくためには、何か精神のようなものがいて考えている、というイメージから脱却しなければならない。精神なんかなくても、ただ端的に、考えがある、観念がある、という雰囲気で臨まねばならない」と書いておられます。

ちょっと不安になるが、しかし問題は「真なる観念」そのものであって、だれの持っている観念かということはさしあたりどうでもよいのである。じっさい、だれが考えるかでころころ変わるような真理は真理とは言わない。真なる観念はだれが考えていようと-----それが人間であろうと天使であろうと神であろうと-----同じ真なる観念だろう。だから、観念を真にする「対象との一致」は精神の能力によってでなく、観念そのもののあり方によって説明しなければならない。

(p.108〜109)

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その後の展開

 岩井寛『森田療法』がいうところの、「人間としての自由」は、そのまま実生活に活かすことができそうな「自由」でした。何しろこの「自由」には、いつかなるときも「人間としての意味の実現」を求めようとする私の意識・意志を感じとることができるので。

 一方、スピノザがいうところの神の自己必然的な様態化としての「自由」は、何か途方に暮れる感じの「自由」です。

 しかし、スピノザの主著のタイトルは、考えてみれば『エチカ(倫理学)』なのです。何がどう、倫理学なんでしょうか? 神の自己必然的な様態化としての「自由」が、どう倫理学につながるのでしょうか。

 というところをざっと見ていきたかったのですが、やっぱりざっとは無理でした〜〜

 まず、スピノザの「自由」の話を、「自由意志の否定」に直結させようとしたのが間違いでした。自由と自由意志の違いについて、もっと時間をかけて丁寧に考えていかなくちゃいけないことに気がつきました。スピノザは、神にも人間にも自由な意志は存在しないとは言いましたが、人間は自由ではない、とは言っていません。それどころか、(自己肯定という意味合いに近い)正しい意味での自由も説明しているらしいのです。

 ちなみに、前回書いた「自由」については、上野修『スピノザの世界』の「3 神あるいは自然」で書いてあり、自由意志の否定がどう実生活につながるかということについては、「5 倫理」で書いてあります。そしてその間に「4 人間」があり、ここで「デカルトの残した問題」の話が出てくるのです。

 それはそうとして、『スピノザの世界』p.99に

 こうしてひとり神のみが「自由原因」であることになる。

とあるのは、「自己原因」の間違いなのではないかしらん?と思った私。なお、「自己原因」とは、『エチカ』で最初に定義されるものです。

〔第1部 定義1〕 「自己原因」とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの、と解する。

 やっぱり、『エチカ』(下)も手元に置こうと思って、Amazonで注文して、届くのを待っているところ。



 ほんでもって、読みかけていた國分功一郎『スピノザの方法』はどうなっているかといいますと。第2部を読もうとしていたのですが、こちらはこちらで、できれば、デカルトの『哲学原理』とスピノザの『デカルトの哲学原理』を手元において読んだほうがよさそうです。岩波書店によると、後者は「品切重版未定」とのことで、Amazonでの中古も最安値が1500円を超えています。前者は104円からあるのに。これらを手元においてまで読み込むかどうか、ちょっと様子見の段階。

 ちょいとのぞいてみて感じたことは、スピノザは、デカルトの説得モードを、説明モードに変えようとしたのかな?ということ。

 それから、こんなことを思い出していました。あれは私が高校生のときだったと思うのですが、同居していた祖母が短歌をやっていて、ラジオ番組か何かに投稿してとりあげられたときに、専門家が「こんなふうに詠んでみたらどうか」ということで祖母の短歌をちょっとアレンジしたことがあったのです。私はそれを聞きながら、「人がつくったものをいじっちゃうなんて・・・」と思ったわけなのですが、その話を大学の友人に話したら、「アレンジすることで、その人が詠みたかったものが、もっと詠めるのではないか」というようなことを言っていて(言葉は違いましたが)、ハッとしたことがあったのです。

 もしかすると、スピノザもデカルトの『哲学原理』に対して、そういうことをやろうとしたのかな・・・なんてことを感じています。

 でもまだ全然読んでいないので、あくまでも予感。

 とにもかくにも『スピノザの方法』第2部は、「國分功一郎による「スピノザの「デカルトの哲学原理」」」ですね。これについて集中的に論じた人がいたら、またかっこが外側に巻きついていくんだな(^^)(



 それよりもなによりも・・・!!

 結局、買ったのですよ、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』。これ、面白い。いや、「面白い」で終わらせていいのかどうかわからない感じの面白さがある本。「『スピノザの方法』より面白いということはないだろう」なんて、中身をのぞきもしないうちにブログで余計なこと書かなきゃよかったと後悔しました。この本については、たぶん生活ブログ:TATA‐STYLEのほうに書くことになるかと思います。

 それにしても、『暇と退屈の倫理学』のほうも(「注」を除いても)362ページあるのに、1800円なんです。書店で手にしたとき、想像していたよりガタイのいい本だったのでちょっとびっくりしたのですが、よくこの値段で出しましたね。でも、この値段で出したほうがいい本ですよね。お願いだからツイッターのプロフィール欄で「“好評”発売中」なんて書かないで國分さ〜ん(ツイッターやってないけどたまに読んでる>)と思った私ですが(個人的な趣味により)、なるほどこれは好評発売中でしょうね。だけど、ものすごーーく売れる本でもないような気がします(って売れてたらどうしよう?^^; あまり売れすぎず売れなさすぎず、いい感じで売れるといいな・・・)。ご参考までに『スピノザの方法』(みすず書房)は5400円です。本の値段って面白いですね。どんな原理で決まってるんだろう?

 ちなみに國分さんは、いま保育の本を書かれているもよう。興味津々、楽しみ。

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スピノザの「自由」/神の自己必然的な様態化

 もう一度、上野修『スピノザの世界』にもどって、スピノザのいうところの「自由であること」について考えてみます。

 最初に、補足というか訂正をば。岩井寛『森田療法』がいうところの、「人間としての自由」の最後で、スピノザ『エチカ』の第1部にある「自由であること」の定義を示しましたが、この定義には続きがありました。私はあれが全文だと思っていたので、「〔第1部 定義7〕 自己の本性の・・・」という書き方をしてしてしまったのですが(訂正済)、上野修さんはこの一文のあと、「(第1部定義7)」というふうにかっこ書きで示しておられます。なるほど、第1部定義7からもってきた言葉だよ、という意味だったのですね。というわけで、続きを含めてもう一度示します。

〔第1部 定義7〕 自己の本性の必然性のみによって存在し、自己自身のみによって行動に決定されるものは「自由である」と言われる。これに反してある一定の様式において存在し、作用するように他から決定されるものは「必然的である」、あるいはむしろ「強制される」と言われる。

 さて、スピノザのいうところの自由を理解するためには、「様態化」というものをおさえなければなりません。

〔第1部 定義5〕 「様態」とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの、と解する。

 そして、「様態」をおさえるには「実体」と「属性」もおさえねばならないのですが、そうなるとどんどん前にさかのぼることになり、じゃあ最初から・・・ということになって、なかなか大変なので、ひとまず「様態とは実体の変状」ということだけ頭に入れておきます。

 上野修さんは「さしあたり」という前置きつきで、リンゴのイメージを示されています。リンゴは「実体」、リンゴを他の果物から区別できる手がかりとしてのリンゴ性みないなのが「属性」、そして、同じリンゴもいろいろ色つやが変わるので、それが「様態」というふうに。

 ほんでもって、途中の話をガーッととばして、いきなりひとつの結論を言いますれば、猫も台風も戦争も私も、すべての現実は、神の「様態」だ、ということになるのです。つまり、猫だの台風だの戦争だの私だのは、神が属性ごとに「どうにかなった(変状した)」ものだ、と。リンゴのイメージでいえば、猫も台風も戦争もわれわれも、「神の色つやみたいなもの」というわけです。

 いまとなっては、「ああ、そうかもしれないねぇ・・・」なんて思ってしまう私。最初のキランでは、神の「様態」の話のときに量子力学のこと(友人による私限定の量子力学の説明>わたしの存在)を思い出したと書きましたが、いまは柳澤桂子『生きて死ぬ智慧』ものを一元的にみるということを思い出しています。あのときは原子の密度だったけれど、それを神の色つやと言い換えることもできるのではなかろうか、と。なおかつ、量子力学の私限定の説明のほうもあながち大ハズレではなくて、汎神論って、考えようによっては、実は汎私論なんじゃないかと。もちろん、「神」をとらえなおす必要があったように、「私」をとらえなおした上での話ではありますが。

 ほんでもって、スピノザが言うところの神は、制作しません。当時は、世界は神がつくったというのがふつうの考え方だったようですが、スピノザの神はつくらない。つくるのではなく、事物に様態化し、変状する。
 
 ここで幾何学が出てきます。

 たとえば、ユークリッド幾何学の、「三角形の内角の和は180度である」ということについて考えてみます(なお、いまはユークリッドをお手本にした17世紀のスピノザについて考えているので、この定理に深くつっこむことはナシにします)。この定理は、三角形がないうちには考えることができません。そして、三角形を三角形にしている「本質」を定義すると、そこから必然的に「3つの角の和が180度である」という三角形に特有の性質、つまり「特性」が出てきます。「三角形の内角の和は180度である」という「特性」は、三角形においてあり、三角形なしにはあることも考えることもできない。

 神と様態との関係も、同様に考えればいい。神を神にしている本質は無限に多くの属性で表現される。つまりおのおのの属性が「こいつは実体だ」と告げるのだから、属性が神的実体の実質的な定義に当たる。すると、三角形の場合と同様、それらの属性から無限に多くの特性が必然的に出てくるはず。それらの特性はみな、もちろん神において在り、神なしには在ることも考えることもできない。定義からしてそれは神の様態のことである(属性の話を省略しているので、ちょっと話の流れがわかりにくいですが・・・)。

 だから、様態は神的実体によって「つくり出される」のではなくて、神的実体の本質の必然性から、ちょうど幾何学的な特性が帰結するように「出てくる」(sequi)。これは英語で言うとfollowに当たるラテン語で、論理的に「帰結する」の意味でもあるのだそう。

 すなわち、神は幾何学者のように考えて世界を設計し、つくるのではない。いわば、神自身が幾何学なのだ。神を制作者のように考えているあいだは、「つくろうと思わなければつくらないこともできたのに、神はどうしてこんな世界をつくったのか? いったいそれは何のためか? どうすればわれわれはその目的にかなうことができるのか?」と人は問うことになり、神学ははじめから解ける見込みのない思弁に迷い込む。
スピノザの答えは、単純明快である。神は制作者ではない。その意味で「神の本性には知性も意志も属さない」(定理17の備考)。在りて在るものはその本性の必然性から一切を生じる。それで十分である。スピノザはこういう神の自己必然的な様態化を「自由」と呼んでいた。
  (上野修『スピノザの世界』p.99)
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岩井寛『森田療法』がいうところの、「人間としての自由」

 「自由」という言葉、「ある」の意味/岩井寛、ハイデッガーの続きです。

 というわけで、ハイデッガーのことが気になり始め、Googleで検索をかけてみたのですが、「ハイデッガー」ではなく「ハイデガー」にすると、3番目に心理学のページがひっかかってきます。
http://yamatake.chu.jp/03phi/1phi_a/2.html

 左側のメニューに「精神分析」の文字があり、「あ、もしかしたら」と思い、ビンスワンガーで検索をかけてみたところ・・・

■みすず書房>
http://www.msz.co.jp/book/author/13910.html

■kotobank>ビンスワンガー

 ふむふむ、なるほど。ユングやフロイトと交流があり、その影響を受けつつも、独自の構想を発展させていった方なのですね。「現存在分析」なるものの創始者とのこと。

 ちなみに、精神分析と森田療法は対立関係にあり、岩井寛『森田療法』(講談社現代新書)にもその話が少し出てきます。私のお気に入り(!?)の“売り言葉に買い言葉”は別の本で知ったこのやりとり↓
「精神分析は小説だ」「森田療法は散文にもなっていない」
(TATA-STYLE>森田療法 vs 精神分析

 それから、千夜千冊のジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』の回のことも思い出していました。アラン・ジュフロアが、主体性が嫌いな松岡正剛さんに、同じく主体性が嫌いなガタリを紹介したくだりのことを()。

 ちなみにこのブログでは、過去に森田療法とベルクソンというエントリも書いています。

 また、私は森田療法のこのあたり(>私の内側に私はダイレクトに手を出せない)に面白さを感じています。

 そんなこんなで、「ある」「在る」について、いろいろな方向から考えていきたいのですが、ひとまず「自由とは何か」ということについて、岩井寛さんの考え方と、それからスピノザの考え方を、ちょっとのぞいておきたいと思います。

 岩井寛さんのほうは、そんなに難しい話ではなくて、簡単にいえば、「人間としての選択の自由」ということになろうかと思います。すなわち、「意味の実現」である、と。耳がきこえなくなり、目が見えなくなり、身体が動かなくなっても、人は自由を行使しうる。たとえばそこには、“物事を考えること”そして“喋ること”という自由がある。この自由の行使は、厳しく、苦しいものであり、けしてラクなほうに流れるという意味での自由ではありません。

 岩井寛さんはこの自由を最期まで行使された方ですが、このときの自由には、「強い意志・意識をもってそれを行使する私」の存在を感じます。なので、意識のない状態ではこの自由は行使されえず、実際、岩井寛さんは「おわりに―生と死を見つめて」のなかで、「“人間としての尊厳”を守った選択の自由」「“人間としての自由”を自分のものにしておきたい」という言葉を書いておられます。

 また、松岡正剛さんの冒頭の追悼文には、「植物人間となってまで生きたくはない、それでは意味の実現にはならないという強烈なメッセージがひめられていた」とあります。この場合の「意味」は、「私にとっての意味」でしょう。なぜならば、植物人間になって生きることが、他者の意味になることもあると思うので()。

 この「自由」と、現象受容的な「ある」がどう結びつくのか、結びつかないのか、これらの「自由」と「ある」をどうすりあわせればいいのかという大きな疑問がわいてきますが、それはそれとして、今度はスピノザの言う「自由である」をのぞいてみたいと思います。スピノザは『エチカ』でのっけ(第1部)から「自由であること」を定義しています。

 自己の本性の必然性のみによって存在し、自己自身のみによって活動に決定されるものは「自由である」と言われる。(第1部定義7)

(つづく)
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「自由」という言葉、「ある」の意味/岩井寛、ハイデッガー

 國分功一郎『スピノザの方法』の第2部を読もうとしているところですが、いったん脇道にそれます〜

 きのう、生活ブログ:TATA-STYLEをつらつら読み直していたら、こんなエントリを見つけました。→人間はタンパク質の構成物なんだろうか?

 そして、もし今度(今度?)スピノザに会えたら(←すっかりお友だち気分)、このあたりの話をふってみたいなぁなんて思ったしだい。

 ほんでもって、上記のエントリをさがすときには「構成物」でサイト内検索をかけるとよかろうと思ってかけてみたら、もうひとつエントリがひっかかってきたのです。→岩井寛『森田療法』(講談社現代新書)

 そうそう、スピノザを読んでいるときに、岩井寛さんのことを思い出す瞬間がありました。それから、金子由紀子さんのことも>人の暮らしの共通項と、「私の暮らし」のカスタマイズ、そしてシンプルライフ志向の意味。「自由」という言葉の意味に関連して。

 以前、「自」という語の成り立ちに興味をもったことがありますが()、今度は「自由」という言葉が気になってきました。「由」は「理由」の「由」であり、ヨシですよね。なので、まず「由」について調べていたら、なんと、白川静さんによると、「由」はひょうたんの類の実からきたもので、「中が空っぽになったもの」をさしているようなのです。 

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/
qa/question_detail/q126813007

http://www.youtube.com/watch?v=gGGpWYH9yuY

 「由」がついている漢字(油・抽・袖・宙・笛・軸)についてはなるほど納得だとしても、単体の場合についてはどう解釈したらいいんだろう?

 で、手元にある古い漢和辞典をのぞいたら、由来(←おお、ここにも由が)の一説が書いてあるのですが、突っ込んで考えるとまた長い話になりそうなので、謎のまま残しておくとして、今度は「自由」について調べてみました。ウィキペディアではfreedom、libertyに対応する「自由」だけが取り扱われていて、これは哲学用語とのこと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1

 ふむふむ、他のものから拘束・支配を受けないで、自己自身の本性に従うことをいうのですね。そうか、もうここでは、他―自は解決済みのことになっているのですよね。

 さてここで、岩井寛『森田療法』をちょっとのぞいてみます。この本の最後で、森田療法からはなれてもっと普遍的な立場で「あるがまま」について考察してある一節があり、それは上記リンク先のエントリで抜き出した部分(西欧と東洋の対比の話)を含んでいます。

 岩井寛さんいわく、そもそも「あるがまま」というのは、東洋における仏教的理念を包含した言葉であり、西欧においては、現象を「あるがまま」に認めるというよりも、それを分析し、整理し、論理づけることをモットーとしてきた、と。
それは西欧の伝統であり、自然と私、神と私、他者と私、というように、あらゆる現象が対峙する形で受けとられてきたからである。
  (p.186)

 そして、上記リンク先の話へと続き、「四諦」(“生老病死”に抗うことはできないということ)という言葉が出されたあと、その場合の「ある」とは、現象がそのままで存在する限りにおいての「ある」であり、それを素直に認めるということが、すなわち、真理なのである、と岩井寛さんは書かれています。

 これに対して、西欧における「ある」の思想は、同じ言葉であってもかなり内容が異なっているとして、ドイツ語のSeinがとりあげられているのです。哲学者のハイデッガーや精神医学者のビンスワンガーが人間の存在を「現存在」(Da‐Sein)」と呼び、現存在を満たすものとして、「世界―内―存在」(In-der Welt‐Sein)と定義づけ、自己の存在を自覚しながら生きる人間を、「世界―内―存在」者と規定している話。

 この場合の「ある」は、あくまでも人間中心的な「ある」であって、自己の内に内在するものと、自己を包含している世界を自覚しつつ自己認識のできた存在なのであって、そうした意味で、現象と対峙しつつ自我を確立し得た自己としての「在る」なのである、と。

 ひとことでまとめれば、東洋の「ある」は現象受容的、西欧の「ある」は現象対峙的ということになりそうです。

 東洋も西欧も十把ひとからげでは語れないのでしょうが、そんなふうに大きく捉えることで見えてくるものはあろうかと思います。

 そこで今度はハイデッガーについて検索をかけてみると、ウィキペディアに「デカルト批判と現存在」という項目があります()。こんな感じになってくると、現象学とカヴァイエスの違いを軽くおさえておく―超越と内在とで引用した内在論の意味が、以前より少し見えてきます。

 長くなったので、ここで一区切り。

(つづく)
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國分功一郎さんが考える、スピノザ『デカルトの哲学原理』を読むときに問われるもの

 上野修『スピノザの世界』にひととおり目を通して感動したとき、國分功一郎『スピノザの方法』のフレーズがにわかに気になりだしたと書きましたが、それは2ヶ所あって、うちひとつは本文中、もうひとつはあとがきのなかのとあるエピソードでした。あとがきのほうは覚えているけれども(それに短いから見つけやすい)、本文中のほうは、デカルトとスピノザの対比についての一節だったということ以外、具体的な言葉を思い出せなくて、目次を頼りにぱらぱらめくってみるものの、見つけられずにいます。

 やっぱり、最初から読んでみるしかないかな・・・と思って第1部を読み始めたのですが、ここはここで大変興味深いものの、余韻のうちにあのフレーズに出会いたいので、第1部をとばして第2部を読み始めることにしました。

 もちろん、上野修『スピノザの世界』でも、デカルトとの対比については書かれてありますが、何しろ『スピノザの世界』は大きなストロークで書かれた入門書なので、そんなに細部に突っ込むことはできなかったと思います(またそれゆえ、読みやすく面白い)。ページ数も「はじめに」「あとがき」を含めて193ページとコンパクト。

 一方、國分功一郎『スピノザの方法』は、博士論文を改稿したもので、序章と「あとがき」を含めて359ページあり、スピノザのデカルト読解で3章分あります(これが第2部)。

 なので、スピノザとデカルトの関係について興味をもったのなら、やはり國分功一郎『スピノザの方法』を手にするとよさそうです。

 というわけで、國分功一郎『スピノザの方法』の第2部をちょっとのぞいてみます。ここは冒頭で第1部の流れをふまえたスピノザの方法および方法論についての逆説について述べられたあと、『デカルトの哲学原理』の話に入っていきます。スピノザを語るとき、あるいは『エチカ』を語るときには、『知性改善論』が参照されることが多いのかな?という印象をもっていて、上野修『スピノザの世界』にも出てきていましたが、ここで『デカルトの哲学原理』が取り上げられるその理由が、まず、とても面白いと思いました。もうこの事柄だけで、しばらく考え事ができそう。

 『デカルトの哲学原理』は、スピノザがデカルト哲学について解説したモノグラフィであり、いわば、デカルト哲学に対しするスピノザ自身の証言ということになります。しかし、単なる要約ではない。スピノザは、デカルトの証明の不備を指摘するばかりか、まったく別の証明を提示することも憚らなかったようで、デカルトの思想を再構成しているのだそう。しかし、かといって、ここに書かれてあるものはスピノザの思想ではない。
要するにスピノザの解釈が明るみに出す「テキストが引き受けえたものの向こう側」は、「デカルトの思想」の外側にあるわけでもなければ「スピノザの思想」の内側にあるわけでもない。むしろここで問われているのは、かくのごとく思想の所有権を決定するという所作の妥当性そのものだと言っていい。
  (p.115)

 なるほどねぇ〜〜 いまとなっては、スピノザを読むときに「思想の所有権を決定する所作の妥当性」が問われるというのは、とても納得できる話です。

 考えてみれば私も、上野修『スピノザの世界』に感動したときに、「スピノザに感動したのか、上野修さんのスピノザ観に感動したのかわからない」と書きました。また、ブラウアーの直観主義と、カヴァイエスと、近藤和敬さんでは、「この本、カヴァイエスのモノグラフィという形で書かれた、近藤和敬さん“の”本なんですよねぇ」と書いています。

 さらには、丹治信春『クワイン―ホーリズムの哲学』の前半をのぞいたときに()出てきた、中島義道氏いうところの「ついて論文」のことも思い出しました。もっといえば、「ついて論文」への見方がかわりました。実は、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』も読みたくて(でも、買うところまではいかなくて)、図書館で予約中なのです。予約数が多いので、単純に計算すると私の手元に届くのは4ヶ月先になりますが、その間にどうしても読みたくなったら購入しようと思っています。『暇と退屈の倫理学』は、たとえそのなかに哲学者の名前が出てきたとしても、「ついて論文」ではない國分功一郎さんの本ということになろうかと思います。これが『スピノザの方法』より面白かったらすごいことだと思う。たぶん、それはないだろうと推測していますが、だとしても十分に面白いかもしれない、そうだといいな、と思っているところです。というか、たぶん、面白さの種類が違うことでしょう。

 國分功一郎さんがいうには、この『デカルトの哲学原理』はほとんど論じられておらず、おそらくは論じられることのもっとも少ないスピノザの著作なのだそう。スピノザ哲学とデカルト哲学を並べて比較する論文というのは枚挙に遑がないけれど、そうした論文でこの本がとりあげられることはない、と。さらに奇妙なことに、この本には『形而上学的思想』という論文が付録されていて、そちらのほうは大きな論争の対象となり、少なからぬ量の論文がそれに費やされてきているのだとか。

 なぜそういうことが起こっているのか。それは、『デカルト哲学原理』の描く思想が誰の思想であるのかについては疑いを差し挟む余地がないと決めつけられているからだと思われる、と國分さん。つまり、ここで語られているのは、スピノザの思想ではなく、デカルトの思想であると自明視されていたがゆえに、研究者の関心を引くことが少なかったのではないか、と。おお!とても興味深い話です。っていうか、私の人生のメインテーマのひとつだ。

 そして思い出したのは、ベルクソン著/ドゥルーズ編/前田英樹訳の『記憶と生』のこと。(訳された)この本は、いったい誰の本なのでしょうね?(ちなみに『エチカ』を訳した畠中尚志さんも、「『エチカ』について」という文章を25ページ分書いておられます。)
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