TETRA'S MATH

数学と数学教育

「内在論の哲学」と『カヴァイエス研究』

 『近代政治の脱構築』(ロベルト・エスポジト著/岡田温司訳)の訳者によるイントロダクションを読んでいます。

 話が前後しますが、前回の「免疫」(イムニタス)と「共同体」(コムニタス)よりも少し前に、「ゾーエー」という言葉と「ビオス」という言葉が出てきます。「ゾーエー」というのは、「剥き出しの生」ないしは動物的な生を意味するギリシア語であり、「ビオス」というのは社会的な生を意味する言葉であるようです。

 エスポジトはこの「ビオス」のほうをタイトルに選んでいて、それはきわめて象徴的なことである、と岡田さんは書いておられます。アガンベンは、ビオスをゾーエーへと畳み込もうとするプロセスのうちに生政治の闇を見たのだけれど、エスポジトは、ゾーエーはビオスの内的な差異とみなされるべきと考えたらしく。

 そうしてこのあと、近藤和敬『カヴァイエス研究』のあとがきで引用されていた例の言葉()が出てくるのです。
 ごく最近のインタヴューでも、内在論の伝統に依拠しつつ、以下のように明言されている。「いまや政治と生とのあいだに決定されるのは、相互に錯綜した内在的な関係であって、これは、かたちは異なるとはいえカントからハイデガーにいたる超越論的な哲学を通してはもはや解釈不可能なものです。そうではなくて、不連続的で断片的であるとはいえ、スピノザからニーチェを結びつける、まさしく内在論の哲学によって解釈されるのです」
  (『近代政治の脱構築』p.13〜14)

 近藤さんはご自身の立場を、「内在論の哲学」と言われる一連の思想家たちの立場と共鳴するものであるとしていますが、この「内在論の哲学」がもつべき真理の概念とはどういうものなのか、そして内在論の真理を把握する知とはどのようなものでありうるのかということが、まさに『カヴァイエス研究』の全体を貫いている直接の問題意識なのではないか、というわけです。

 そのような真理の概念とはどういうものであるか。
超越的な客体を根拠とするのでもなく、また超越論的な主体をその基礎とするのでもなく、それら双方を一時的で歴史的なものでしかないものに変換しながら、同時にそれら客体と主体の動的な再編成を要求するそういった歴史的生成を本質とするものであるだろう
  (『カヴァイエス研究』p.261)

 そして「内在論の哲学」のための真理の概念についての考察で、なぜ数学という題材が選ばれなければならなかったのかということについても論じてあるのですが、これについてはいずれゆっくり考えることにして先に進むと、終盤に向けて教育の話へと入っていきます。
 このような「内在論の哲学」がもたらすあたらしい真理の概念は、それと対になっている知そのものの概念もまた変えずにはおかない。このような真理を把握しようとする「内在論の哲学」における知とは、普通に想像されるような意味でなにかを計算できることでもなければ、なにかをよく覚えていることでもなく、あるいはなにかをうまく説明できることでもないだろう。むしろそれは、既成の知の安全地帯のそとで問いを立てることができるという力のことだと言わねばならない。(中略)「内在論の哲学」における教育とは、同一の結果を生み出すことのできるなにものかを訓育するものではなく、現在の不可能性を問いとして直視することに耐えつつ、それを解決可能な問題へと粘り強くつくりかえていく歴史的ポイエーシスを支え助けるものでなければならない。
  (『カヴァイエス研究』p.262〜263)

 近藤さんはこのあと、大学制度、科学研究という言葉を出されていますが、もちろん上記のことは、小・中・高校の教育を含む教育全般について言えることだと思います。

 先日はスピノザ、三数法、わかるということ、合理主義者というエントリを書きましたが、なんだか最近、(教育に関連した)勇気をもらえる本・言葉に出会えてうれしいです(私は教師でも教育者でもないので、教育するものとしての実践の勇気というわけではないのですが・・・)。ちょっと品のない言い回しではありますが、「哲学って使えるなぁ」としみじみ感じるきょうこのごろ(^^)。

(つづく)
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「解けない問い」

 このエントリ、5月3日に前半部分を書いたのですが、きのうのエントリの次にこのタイトルがくるというのもなかなかオツなものがあるなぁ・・・と自分で感じています。(^^)

***

 久しぶりに近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』を手にしています。過去の自分のエントリをちょっと読み直してみて思ったことは、「けっこう時間かけて読んでいたんだなぁ・・・ 時間をかけて読むとわかることもあれば、ある程度の勢いでもってして読むとわかることもあるな・・・」ということです。

 というのも、下読みのつもりで第4章をざざざっとめくったときに、「ああ、自律性ってそういうことか」とストンと腑に落ちる感触があったからです。かつてこの言葉に対してショックを受けたことがあったけれど(>「自己」にまつわるとりとめのない曖昧な思考)、別にショックをうけるようなことではないぞ・・・と。あたりまえの話にさえ思えてくる。そのときに手がかりとなる言葉が個人的には「内在」であり、野矢茂樹『無限論の教室』のあとがきに触発されて考えた「内側から膨らんでくるイメージ」です。(>等比無限級数の収束と発散・対数螺旋)。

 で、第4章の最後のほうで「解けない問い」という言葉が出てくるのですが(檜垣立哉氏のドゥルーズに関する文献から借りてきた用語とのこと)、この言葉が上記の“ストン”にかなり役立ちました。

 思えば算数や数学の教科書・問題集に載っているのって、全部、「問題」ではないのですよね。あれは「解」の前半なのだ。「6×4」という計算問題は、「6×4=24」の前半部分を示しただけにすぎないのだ。だから先生は採点ができるし、○か×をつけることができる。
 数学の素朴な実在論が見落としてしまうのは、この「問題」という奇妙にも存在論的な審級である。「問題」は、意味論的には実在するとは言えない。その「問題」によってあらわされている内容について、それが「真」か「偽」のいずれであるかが、その「解」が提示される以前から決定されているのだとすれば、それは真に「問題」ではないだろうからである。「問題」とは、原理的に、解かれていないからこそ「問題」であるはずだ。解かれた「問題」は、「問題」ではなく「解」と呼ばれ、「問題」からはっきりと区別されなければならない。
  (p.144/9〜16行)
「解けない問い」は、意味論的(真偽値的)には「不定」であり、存在論的には「潜在的」である。これにたいして、解かれた問い、あるいは解ける問いの存在のモードは、「現実的」であり、意味論的には「真か偽か」である。
  (p.145)

 そして近藤さんはこう続けます。
 ここに、ある種の特異な時制が入りこんでいることがみてとられる。
 
 いまだ解かれていない問題と、すでに解かれた問題のあいだにある順序。しかしこれは本当に時制なのか? すくなくともそれは私たちの日常的な時間ではない。なぜならそこには、「いま・ここ」的なものがないから。数学的真理はつねにどの「いま・ここ」でも真理であるのだから「どこでもない」ものでしかない。

 では、この「時間」を進めるものはないかというと、「証明」のポテンシャルの増大という言葉で説明がされています。このことについてはあとでまた考えるとして、p.144にもどりますれば、上記引用部の直前に、こんなことが書いてあるのですよ〜!
この意味で、「数学的経験」は、本質的には「他者」の経験にほかならない。
  (p.144/7〜8行)

 もうショックは受けないよ(^^) 面白いねぇ〜
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カヴァイエスが挙げている「乗法の反復としての指数」の例

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第3章を読んでいるところですが、ちょっと先にとんで、「第4章 操作と概念の弁証論的生成」の第2節の一部をのぞいておきたいと思います。ここは、カヴァイエスによる「理念化」のヒルベルト的解釈について述べてあるところで、1854年のデーデキントの議論のことが書かれてあるのですが、どうしてこういう話が出されているのかはひとまずおいといて、「乗法の反復としての指数」の例だけを抜き出します(p.120〜121)。まんま引用ではなく、学校数学の学習体系も考えあわせながら、指数の拡張についてみていきます。

 現在、学校で累乗を学ぶのはおそらく中1だと思いますが、2×2×2=2^3といった式を使って説明していることでしょう。「2を3回かけあわせることを、2^3と書きます」という言葉による説明もあるかもしれません。教科書でどうなっているかは未確認(というか忘れてしまった)ですが、たとえばこんな感じで。↓
http://posi-nega.juniorhighschool-math.net/multiplication_division/involution.php
http://buchiyamato.web.fc2.com/ruijoutoshisuu.html

 この段階では指数は「回数」ですから、基本的には正の整数だけが想定されており、1/2回や、0.87回や、−3.89回といったものは、

この定義の直観的な意味解釈においては含まれないはずである。

で、

これが「形式化から逃れる操作」である。

というわけです。

 指数が負の整数に拡張されるのは高校になってからで、手元にある少し古い世代の教科書では、数学兇了愎関数に入る前段階で指数法則を学んでおり、指数が分数、無理数まで拡張されています。検索してみつけたとあるサイトによると、数学Bで複素数まで拡張できることがわかると書いてありましたが、実際に複素数乗が出てくるのかどうかは未確認です。

 本にもどると、指数を含む計算では、反復の回数をあらわす指数においても a^x × a^y = a^(x+y) および a^x ÷ a^y =a^(x−y) と定式化することは可能であり、このこと自体はもともとの「反復としての指数」という定義の範疇内にある、と話は続きます。

 しかし、この式を、そのような直観的な定義という制限から解放し(これを解放するための条件が問題となることについて、このあと書かれてある)、この関係式自体を抽象的で普遍的な定義としてみなすならば、この式はxとyを変数とする連続関数となり、その連続関数を成立させるしかたでxやyに代入されるべき要素を決定することが可能になります。そして、xやyに代入されるべき要素の範囲は、負の数や有理数や実数の範囲内となります(近藤さんとはほんのちょっと違う書き方をしています)。

 ただし、そこでは、もはやもともとの直観的な意味解釈であった「乗法の反復としての指数」という定義は、その形式的に拡張された定義においては、部分的にしか維持されていません。

これが、「理念化」による「一般化」の方法のもっとも原始的な事例の1つである。
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ヒルベルトと「可解性」のこと/山口昌哉、林晋とあわせて

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第3章を読んでいます。

 きょうは、ヒルベルトと「可解性」のことについて考えたいと思います。

 「可解性」というのは、漢字で見れば“解くことが可能である性質”と読めますが、はやい話、「解ける」あるいは「答えがある」ということなのでしょう。

 ヒルベルトについて考えるとき思い出すのは、15年くらい前にきいた山口昌哉先生の複雑系のレクチャーです。というわけで、資料を本棚のファイルからひっぱりだしてきました。タイトルは「戦後50年の数学は何をもたらし,未来に何を期待されるか」となっており、最初にヒルベルトが出てきます。

 ヒルベルトは1900年8月にパリで開かれた世界数学者会議で有名な講演を行いましたが、この講演の要旨は雑誌『アンセイニュマン マテマティク』に掲載されたそうです。で、論文の別刷をヒルベルトが弟子のリチャード・クーラントに与え、さらにそれが、クーラントの弟子であるピーター・ラックス教授から、山口昌哉先生にお誕生日のお祝いとして贈られたそうなのです。

 この講演の内容についての説明として、5つの項目があげられているのですが、このなかの3、4、5番目に注目します。

(3) 数学の問題の解決とはどういうことか?

 その問題自身が含んでいるいくつかの(hypotheses)から、有限回の3段論法の使用のみにより,その正しさを証明することである.

(中略)

(4) どのような方法によって、我々は問題を解くべきか?

 一般化(例えば,代数学におけるイデアールの概念では数や多項式を一般化している).

および
 特殊化である。(中略)

(5) ある問題が解決不能のときはどうするのか?

不可能であることを厳密に3段論法で証明するべきである.

(中略)

 確信(Conviction):数学においては,問題が解けるか,解くことが不可能が証明されるかのいずれかである.
 “数学者は絶対に不可知論Ignorabimusを許してはならない.”
 『カヴァイエス研究』においても、上記のことがらについての詳しい説明があるのですが、近藤さんいわく、「形式主義のプログラムは、19世紀までの数学に比較するとき、ある種のグロテスクな様相を呈する」と。その理由は、とりわけ「可解性」とかかわる、と。

 19世紀においても、代数方程式の根の可解性の定理などが知られており、「可解性」ということ自体は、1つの数学的な「問題」として提示されていたわけですが、ヒルベルトが形式体系の手法によって示そうとしたのは、たんなる一理論の条件つきの領域のなかでの可解性などではなく、ほぼ全数学(あるいは、数学の主要部門である数論、幾何学、解析学、集合論)におよぶあらゆる定理の「可解性」の要求を含んでおり、そのことがグロテスクな印象をあたえる、ということらしいのです。
 まさに、数学の営みの場所が、たんなる記号の論理的変換におきかえられるのかどうか、というところである。つまり、そこでは、「問題」と「解」は完全に等価物となってしまう。数学の「問題」は、つねにすでに、形式体系のうちで人知れず解かれており、その「解」は、形式体系内のどこかに既在なのである。
  (p.102)

 で、ここでもう1つ別の論文をのぞいてみたいと思います。検索で見つけた比較的新しい林晋さんの論文→「真のHilbert 像をもとめて−Hilbert 研究の現状−」(平成22年3月18日)
http://www.shayashi.jp/HistoryOfFOM/tuda2007ver2.pdf

 この論文の12ページめに、「2.2 可解性原理−Hilbert 数学基礎論の原点−」という一節があり、13ページめに次のようなことが書かれてあります。

 たとえば, Paris 講演の哲学的議論の部分で, Hilbert は「一つの数学の問題が解ければ,その問題の代わりに, 多くの新しい問題が生まれる,数学の問題は無尽蔵(unermeβlich)である」という意味の発言をしている.(中略) Hilbert にとって重要なのは解けた問題ではなく,問題を解くこと“suche die Lösung”なのである.Hilbert にとっては,数学者が常に新しい問題に取り組み解決している状態こそが数学の健康な状態なのである.Hilbert はどの時点をとっても数学の問題が無くなるなどという「悲惨な事態」は考えていなかったはずである.
 この論文は「新しいHilbert像」を説明しているもののようですが、上記の内容とカヴァイエスのヒルベルト観をすりあわせていくと、どういうことになるんだろう・・・?と考えこんでいます。数学の「問題」は“人知れず”解かれており、それは形式体系内のどこかに既在であり、「発見されるにすぎないもの」と考えれば辻褄があいそうな気がしますが、生成も進展もせずに既在であれば、数学の問題数自体は有限ということになり、いつかは発見作業が終わるようにも思えてきます。でも、ヒルベルトは、「多くの新しい問題が生まれる」とも言っているようなのです。それは、「生まれる」というより、数学者に見えてくるってことなのかな・・・ だけどその場合、「無尽蔵性」のことはどうなるんだろう・・・
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メタ数学と形式主義のプログラム、なぜかサントリー「山崎」

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第3章を読んでいます。

 「見渡す」方法としての公理的方法の歴史的変遷において、「見渡す方法」としての公理的方法を、ヒルベルト(1898年頃)以前と、ヒルベルト以後に分けてみてきましたが、近藤さんは「ここで、可能な道は2つにわかれる」と先を続けます。

 1つは、じっさいにヒルベルトがこのあとに進んだ道、すなわちメタ数学と形式主義のプログラムにつながる道。もう1つは、ヒルベルトが選ばなかったけれども、ゲーデルの不完全性定理のあとでも無傷のまま残されることになる道、すなわちカヴァイエスが選ぶ道。

 前者は、「公理系を、公理系とは別のなんらかの内容に依存することなく、それとは独立に公理系のみによって維持可能な関係の記述とみなす道」、後者は、「公理系を、公理系とは別のなんらかの内容的なものに依存した関係の記述(あるいは「規則」の「概念」による把握)とみなす道」と説明してあります。

 で、ヒルベルトは「無矛盾=存在」のテーゼを提唱する話のあと、形式体系のアイデアを検討する必要があるということで、“もう1つの重要なアイデア”として「イデアルの添加」の話が出されています。なお、この用語そのものはカヴァイエスによるものらしく、ヒルベルトは「イデアルの一般的な方法」と述べているもよう。

 ただし、「つけくわえる」という言葉は、ヒルベルトが講義のなかで使っているようです。→「ユークリッド幾何学をえるためにはたったいま定義された領域に、どのような命題をわれわれは「つけくわえる」べきであるか?」(Toepellの文献による)

 論理学と算術を前提した上で、幾何学の諸定理を証明するためには、いかなる公理を「つけくわえることが必要なのか」ということが述べられているのですが、逆にいえば、「論理学と算術だけでは幾何学の定理が証明できない」という意味にもとれます。

 ほんでもって、公理は、ほかの公理からは証明不可能なものなので、「独立性」をもっているし、不必要な公理を使うべきではないという「方法の純粋化」の問題も生じる・・・という話をきいて、なぜかサントリー「山崎」を思い浮かべた私。例の、「何も足さない、何も引かない。」のコピーを思い出したのです。

 つまり、「いらないものも、不足しているものもない」という完全な状態のこと(公理系は熟成しないでしょうが…^^;)。ほかの公理から証明可能なものや、特に必要としていないものが公理として含まれていたら(そもそも前者は公理とは言わないだろうけれど)、その公理系は「いらないもの、無駄なものが入っている」ということになるでしょう。一方、必要なのに入っていない公理があると、それはそれで困ったことになってしまうだろうし。そうしてできた、「いらないものも、不足しているものもない」公理系は、ある意味、完璧な状態であり、ここに何かを足そうとするのは、けっこう勇気がいることなのではなかろうか?

 たとえば、何かの料理で、だいたい満足できる味になったあと、もうちょっとだけ何かを加えてみたいという衝動にかられ、塩を一振りしてみて全部が台無しになることだってありそうなこと。

 もし、「山崎」に何かを加えて、山崎をしのぐウイスキー(あるいは他の飲み物、この際、食べ物でもいい)ができたなら・・・

 ほんでもって、そのあとに続く難しい話を全部がーーーっととばして、とても魅力的なフレーズがある「可解性」のところもひとまずとばして、ゲーデルの不完全性定理による影響のところもとばして、せっかちに「結論」の節へ飛んでざざざっとながめていたら、次の項目が目にとまったのです。

<4> 公理(「イデアル・エレメント」)の添加が、内容そのものを変更することになる。
  (p.110)

 ここに巻末註の番号がふってあったのでのぞきにいくと、「デザルグの定理」の文字を発見。あらま。実はつい先日、全然別のことで、この定理を確認したところであり、なんだか最近、この定理とご縁があるのです。

 で、このさい、もう第3章のまとめを読んでしまえ〜!ということで、読みにいくと・・・

したがって、カヴァイエスのかんがえる「俯瞰」は、つねに部分的であり(そして場合によっては誤りを含み)、その境界は、「問題」と「解」の弁証論的生成をとおして、つねに揺らぎ続ける。それは、まさに、第2章の結論で述べたような真理の歴史的生成の描像にほかならない。

  (p.112)

 なるほどねぇ〜〜 とはいえ、「問題」と「解」の弁証論的生成について、もう少しちゃんと読まなくちゃ・・・
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「見渡す」方法としての公理的方法の歴史的変遷

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第3章を読んでいます。

 というわけで、まずは、「見渡す」方法としての公理的方法とその歴史的変遷についてみていきたいと思います(ここではボニファスという人の文献がおもに参照されているようです)。 

 最初にヒルベルトの公理的方法以前の公理および公理系について。登場するのは、アリストテレス、エウクレイデス(ユークリッド)、フレーゲの3人。いろいろ詳しく書かれていますが、要点のみ。

 まず、アリストテレス『分析論後書』においては、「論証」の出発点となるのが「原理」であり、これは「それ自身は論証されない第一のもの」ということらしいです(つまり、論証そのものが、論証されえない原理を積極的に必要とするということが見抜かれている)。

 そして「原理」は、「公理」(諸学問に共通の原理)と「定立」(各学問に固有の原理)の2つに分類されます。たとえば、「線とはこれこれのものである」という原理は幾何学を学ぶためには必要だけれど数論を学ぶのであれば必要ないので、こういうものは「定立」ということになります。

 さらに「定立」は、「基礎定立」(存在主張を含む定立)と「定義」(存在主張を含まず意味にのみ関わる定立)の2つに分類されます。「基礎定立」で、その学問によって考察される存在者の類が規定され、「定義」によって、その学問でもちいられる用語の意味が規定されるというわけです。

 エウクレイデスの『原論』においても、アリストテレスの分類とほぼ同じ分類がもちいられているようなのですが、「基礎定立」のかわりに「要請」という語が使われているようです。

 で、それからはるか2000年以上の年月を経て、フレーゲの時代にいたっても、表面上の用語の用法に変化が見られ内容が洗練されているとはいえ、それらのあいだに本質的な変化は見られないとボニファスさんは指摘しているそう。ここを読んだときに、「え? フレーゲのときにぐわーんと変わったんじゃなかったっけ?」と思いきや、ここは単に(公理的方法の組み立てを考えるうえでの)用語の話なのでしょう。そしてボニファスさんはフレーゲの段階でどのような変化があったかを、次の2点として示しています。

 1つは、アリストテレスにおいて「公理」と言われていたものは、フレーゲにおいて「論理法則」と呼ばれるようになったこと。もう1つは、アリストテレスにおいて「基礎定立」と呼ばれていたものが、フレーゲでは「公理」と呼ばれるようになったこと。

 というわけで、ヒルベルト以前(ボニファスさんによると、実際には1898年前後の頃のヒルベルトを含む)においては、諸学問における「共通の原理」と、学問内の知識の対象となる存在者の存在を主張する「固有の原理」の2種類があり、前者は学問の全体を、後者は各学問の内部の全体を見渡しているという意味で、共通点をもっています。

 しかし、1899年以降のヒルベルトの公理的方法では、ある部分において根本的な違いが出てきます。それは、「なにごとかがあるとか、ありはしないとか」にかかわるような「原理」が含まれていないということ。(>ヒルベルトは最初から2次的な構成だったことと、無定義の意味

 その結果、ヒルベルト以前とは「俯瞰」の意味がかわってきます。つまり、ヒルベルトの公理的方法の「俯瞰」のしかたは、存在については措定しないまま、「しかじかの性質をもっているという条件に当てはまるものはなんであれ」俯瞰するという設定になっており、学問に固有でも、学問に共有(普遍)でもありません。物理学であれ、数学であれ、電磁気学であれ、宇宙物理学であれ、なんであれ、公理系が記述する条件に当てはまりさえすれば、その学問の固有の原理が措定する存在者の類は問われない、ということになります。しかし、その条件に当てはまらないものは除外されるので、すべての学問がそれに該当するわけではない。これを近藤さんは「条件的な性質の全体性」と呼んでおられ、これを見出したことがヒルベルトの公理的方法の独創性である、と書いておられます。

(つづく) 
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見渡せない無限と、見渡している無限を、交錯させる。

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』を読んでいます。きょうからは「第3章 ヒルベルトの公理的方法と概念の哲学」です。ここもとても面白いよ!

 ブラウアーの直観主義と、カヴァイエスと、近藤和敬さんで書いたように、これまでのカヴァイエスの研究においては、ブラウアーの直観主義とのつながりが軽視されていて、あまりにも多くのことをヒルベルトの形式主義の学説に求めすぎる傾向があったのだそうです。その理由が第3章の最初で具体的に示されています。

 で、近藤さんいわく、カヴァイエスのヒルベルト受容は、「見渡す」ということをどのようにかんがえるかということに深くかかわっているようにおもわれる、と。

 ブラウアーの立場を、「本当は誰も見渡すことなんてできない」という主張だとみなすと、これを裏返すことにより、(「本当は」とか言わなければ)見渡しているという事実は現に存在しているという現実的な立場も可能だということになります。また、「見渡してしまったものは本当の姿ではない」(古典数学は本当の数学ではない)という議論が成り立つとすれば、「本当の姿」かどうかにこだわらないのであれば、現に見渡してしまっている(本当の数学かどういかということをかんがえなければ、現に古典数学は成り立ってしまっている)という議論もまた成り立つ、ということになるわけであり。(こういうふうに考えると、いったいどっちが「ほんとう」にこだわっているかどうかがわからなくなって、面白いです)

 というようなときの「見渡す」ということを、いったいどのようにかんがえるのか?

 「見渡せない」ということを強調する直観主義の無限は「潜在無限」であり、「プロセス」としての無限であり、視点の主観的有限性から導かれる未規定性としての無限でした。一方、「見渡している」ということを強調する古典的な無限は「実無限」であり、「俯瞰」としての無限であり、条件としての客観的絶対性あるいは必然性としての無限です。

 そんなふうに直観主義の無限と古典的な無限は反対概念になっているので、このままでは折り合いをつけることができません。で、カヴァイエスは何をしようとしたのかというと、ここに真理の歴史的生成のプロセスという観点を挟むことによって、「問題」と「解」の弁証論のなかで両者を交錯させようとしたらしいのです。

(つづく)
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手元にある真理でもって暗闇にのりだしていく

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第2章を読んでいます。

 カヴァイエスによる直観主義のアイデアの批判的継承についてはかなり端折った読み方になっており、特に非可述的定義の数学的役割については何も触れないままになっていますが、第3章のヒルベルトを読んだうえで、またもどってきたいと思っているところです。

 ただし、カヴァイエスがブラウアーの「随意性」を、「問題」を解決し、数学の「証明」の領域を拡張するためにもちいられる「非可述的定義」を含む公理的方法の使用というかたちに制限する、ということはおさえておきたいです。
この「随意性」の制限は、すなわち、数学の生成が「問題」によって制約を受けるということでもある。このような制約が意味をもつことは、まさに直観主義的な真理観、すなわち、「真理はその方法とともにのみあらわれる」という真理基準と一貫している。(中略)真理は、それ自体としては絶対的でありながら、それを部分として含む全体は絶えず生成途上にあるものでしかない。
  (p.79)

 そうなると、カヴァイエスの「潜在無限」は、ブラウアーの「自由選列」のような“生成する無限分岐の無限木”、つまり樹状のイメージで示されるものとはまったく違うものになってくるとして、近藤さんが次のようなイメージを書いておられます。この部分がとても面白かったので、ちょっと長いですが、引用します。 
 まず出発点に、なにか確実な真理がある。その一方で、その真理の範囲ではなく、その真理のそとである未規定な暗闇がひろがっている。その暗闇のなかに、手元にある真理でもってのりだしていき、一歩その真理の領域を拡張する(他方で、かつて見えていた真理にたいしても異なる関係性が生まれてくることもあるだろう)。すると、今度はさきほどまで見えていた暗闇と、よく似てはいるが、まったく異なる(同じであれば、かつての真理でもってどんどん進むことができるだろう)暗闇の相貌が眼前に浮かびあがってくる。しかし、その一方で、真理の領域も確実に増えてはいる。いままでの真理だけでは、そのあらたな暗闇にのりだしていくことはできないかもしれないが、いまはそれにくわえてあらたな真理がいくつか手元にある。それらを使ってさらにもう一歩さきへと進む。すると、ふたたび暗闇のなかに真理の光が照らす大地が見えてくるが、今度は、また見たことのない暗闇がその果てにはひろがっている。したがって、カヴァイエスの「潜在無限」は、「列」の「随意性」ではなく、「問題」と「解」の弁証論のなかで生成する「真理」全体の「予見不可能性」においてこそ、見出されるのである。
  (p.79〜80)

 ここを読んで私が感じたことは、ブラウアーの無限木は「未完」ではあったけれど、どこかシステマティックなところがあるのに対し、上記のイメージで示されるカヴァイエスの「予見不可能性」のほうは、暗闇にのりだす「わたしの意志」のようなものを感じる、ということです。主観と客観、主意と主知のことを思うと、なんだかひっくり返っているようにみえて、面白いです。
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訂正

カヴァイエスによる直観主義のアイデアの批判的継承

私はこのあとに続く近藤さんの第3章のまとめがすっかり気に入ってしまって、

は、「第3章」ではなく「第2章」でした。(訂正済)

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カヴァイエスによる直観主義のアイデアの批判的継承

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第2章を、自分の都合であっちこっちページをいったりきたりしながら読んでいます。ブラウアーの「自由選列」については中途半端になっていましたが、とりあえず「潜在無限」のことについてはおさえておかなければなりません。

 ブラウアーの「選列」は、つねに「未完」でした。列の要素はその選択の回数の分しか構成されていないので、その選択が再開されることによって、さらなる規定が続きます(「さらなる規定の可能性に開かれている」という表現が印象的でした)。そうして、未規定な潜在性としての無限が数学的に肯定されることになるわけですが、この点について巻末註で「潜在順序」の補足説明がついています。(「a<bでもa>bでもないが、そのことからa=bであるとはいえない」ということが成り立つという話)

 そしてブラウアーは、この「選列」の選択は「自由意志」のはたらきに任されているような「選列」としていましたが、カヴァイエスはこの点を受けとらなかったのです。つまり、直観主義の真理観とそれから派生する「構成」や「潜在無限」というアイデアを積極的に受容しつつも、この「意志の作用」と、それに基づく「自由選列」を認めなかった。

 では、カヴァイエスは直観主義のアイデアをどのように批判的に継承したのか。ということについて、第3章ではそのアウトラインが示してあり、「重要な箇所なので全文引用する」ということでけっこうな行数のカヴァイエスの言葉を引用したのち、6つの項目にまとめられています。その中から、3、4、5番目の項目を示します。

〈3〉 しかし、「自由選列」に認められる「任意性」(随意性)は、「問題」の真なる要求のなかに置きいれるべきではないのか、とカヴァイエスはかんがえている。
〈4〉 そして、「自由選列」の真の意義は、「数学者が不完全に規定された列のうえであっても、その列において規定されているもののみを考慮するかぎりにおいては、意味のある推論をおこなっている」ということを認めることではないのか、とカヴァイエスはかんがえている。
〈5〉 前項〈4〉のようなことは、まさにカヴァイエスが「一般化」と述べる手続きによっておこなうことであり、その創造の力を擁護することこそが、ヒルベルトの本来の狙いであったはずである。
  (p.77)

 重要なところらしいなので、もっと本文をしっかり読んだほうがいいとは思うものの、私はこのあとに続く近藤さんの第2章のまとめがすっかり気に入ってしまって、ついついそちらのほうに目が向かい、気がせいてしまうのでした。

 というわけで、カヴァイエスが考えていたことについては上記の3項目を引用するに留め、そのあとに続く近藤さんのまとめのうち、まずはこの2文を抜き出します。
したがって、生成は生命的な意志の流れのなかにではなく、「問題」と「解」の弁証論的生成をなす数学的経験において見出されることになる。
  (p.77)

 カヴァイエスにしたがえば、このような定義は、その定義が借定された歴史的プロセスのなかに位置づけられて、はじめてその真の意味を理解することができるものである。
  (p.78) 


(つづく)
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