TETRA'S MATH

数学と数学教育

「解けない問い」

 久しぶりに近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』を手にしています。過去の自分のエントリをちょっと読み直してみて思ったことは、「けっこう時間かけて読んでいたんだなぁ、時間をかけて読むとわかることもあれば、ある程度の勢いでもってして読むとわかることもあるな」ということです。

 というのも、下読みのつもりで第4章をざざざっとめくったときに、「ああ、自律性ってそういうことか」とストンと腑に落ちる感触があったからです。かつてこの言葉に対してショックを受けたことがあったけれど(>「自己」にまつわるとりとめのない曖昧な思考)、別にショックをうけるようなことではないぞ、と。あたりまえの話にさえ思えてくる。そのときに手がかりとなる言葉が個人的には「内在」であり、野矢茂樹『無限論の教室』のあとがきに触発されて考えた「内側から膨らんでくるイメージ」です。

 で、第4章の最後のほうで「解けない問い」という言葉が出てくるのですが(檜垣立哉氏のドゥルーズに関する文献から借りてきた用語とのこと)、この言葉が上記の“ストン”にかなり役立ちました。

 思えば算数や数学の教科書・問題集に載っているのって、全部、「問題」ではないのですよね。あれは「解」の前半なのだ。「6×4」という計算問題は、「6×4=24」の前半部分を示しただけにすぎないのだ。だから先生は採点ができるし、○か×をつけることができる。

 数学の素朴な実在論が見落としてしまうのは、この「問題」という奇妙にも存在論的な審級である。「問題」は、意味論的には実在するとは言えない。その「問題」によってあらわされている内容について、それが「真」か「偽」のいずれであるかが、その「解」が提示される以前から決定されているのだとすれば、それは真に「問題」ではないだろうからである。「問題」とは、原理的に、解かれていないからこそ「問題」であるはずだ。解かれた「問題」は、「問題」ではなく「解」と呼ばれ、「問題」からはっきりと区別されなければならない。

(p.144/9〜16行)

 

「解けない問い」は、意味論的(真偽値的)には「不定」であり、存在論的には「潜在的」である。これにたいして、解かれた問い、あるいは解ける問いの存在のモードは、「現実的」であり、意味論的には「真か偽か」である。

(p.145)

 そして近藤さんはこう続けます。

 

 ここに、ある種の特異な時制が入りこんでいることがみてとられる。

 いまだ解かれていない問題と、すでに解かれた問題のあいだにある順序。しかしこれは本当に時制なのか? すくなくともそれは私たちの日常的な時間ではない。なぜならそこには、「いま・ここ」的なものがないから。数学的真理はつねにどの「いま・ここ」でも真理であるのだから「どこでもない」ものでしかない。

 では、この「時間」を進めるものはないかというと、「証明」のポテンシャルの増大という言葉で説明がされています。このことについてはあとでまた考えるとして、p.144にもどりますれば、上記引用部の直前に、こんなことが書いてあるのですよ〜!

 

この意味で、「数学的経験」は、本質的には「他者」の経験にほかならない。

(p.144/7〜8行)

 もうショックは受けないよ! 面白いねぇ。

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カヴァイエスが挙げている「乗法の反復としての指数」の例

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第3章を読んでいるところですが、ちょっと先にとんで、「第4章 操作と概念の弁証論的生成」の第2節の一部をのぞいておきたいと思います。ここは、カヴァイエスによる「理念化」のヒルベルト的解釈について述べてあるところで、1854年のデーデキントの議論のことが書かれてあるのですが、どうしてこういう話が出されているのかはひとまずおいといて、「乗法の反復としての指数」の例だけを抜き出します(p.120〜121)。まんま引用ではなく、学校数学の学習体系も考えあわせながら、指数の拡張についてみていきます。

 現在、学校で累乗を学ぶのはおそらく中1だと思いますが、2×2×2=2^3といった式を使って説明していることでしょう。「2を3回かけあわせることを、2^3と書きます」という言葉による説明もあるかもしれません。教科書でどうなっているかは未確認(というか忘れてしまった)です。

 この段階では指数は「回数」ですから、基本的には正の整数だけが想定されており、1/2回や、0.87回や、−3.89回といったものは、

この定義の直観的な意味解釈においては含まれないはずである。

で、

これが「形式化から逃れる操作」である。

というわけです。

 指数が負の整数に拡張されるのは高校になってからで、手元にある少し古い世代の教科書では、数学兇了愎関数に入る前段階で指数法則を学んでおり、指数が分数、無理数まで拡張されています。検索してみつけたとあるサイトによると、数学Bで複素数まで拡張できることがわかると書いてありましたが、実際に複素数乗が出てくるのかどうかは未確認です。

 本にもどると、指数を含む計算では、反復の回数をあらわす指数においても a^x × a^y = a^(x+y) および a^x ÷ a^y =a^(x−y) と定式化することは可能であり、このこと自体はもともとの「反復としての指数」という定義の範疇内にある、と話は続きます。

 しかし、この式を、そのような直観的な定義という制限から解放し(これを解放するための条件が問題となることについて、このあと書かれてある)、この関係式自体を抽象的で普遍的な定義としてみなすならば、この式はxとyを変数とする連続関数となり、その連続関数を成立させるしかたでxやyに代入されるべき要素を決定することが可能になります。そして、xやyに代入されるべき要素の範囲は、負の数や有理数や実数の範囲内となります(近藤さんとはほんのちょっと違う書き方をしています)。

 ただし、そこでは、もはやもともとの直観的な意味解釈であった「乗法の反復としての指数」という定義は、その形式的に拡張された定義においては、部分的にしか維持されていません。

これが、「理念化」による「一般化」の方法のもっとも原始的な事例の1つである。
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メタ数学と形式主義のプログラム、なぜかサントリー「山崎」

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第3章を読んでいます。

 「見渡す」方法としての公理的方法の歴史的変遷において、「見渡す方法」としての公理的方法を、ヒルベルト(1898年頃)以前と、ヒルベルト以後に分けてみてきましたが、近藤さんは「ここで、可能な道は2つにわかれる」と先を続けます。

 1つは、じっさいにヒルベルトがこのあとに進んだ道、すなわちメタ数学と形式主義のプログラムにつながる道。もう1つは、ヒルベルトが選ばなかったけれども、ゲーデルの不完全性定理のあとでも無傷のまま残されることになる道、すなわちカヴァイエスが選ぶ道。

 前者は、「公理系を、公理系とは別のなんらかの内容に依存することなく、それとは独立に公理系のみによって維持可能な関係の記述とみなす道」、後者は、「公理系を、公理系とは別のなんらかの内容的なものに依存した関係の記述(あるいは「規則」の「概念」による把握)とみなす道」と説明してあります。

 で、ヒルベルトは「無矛盾=存在」のテーゼを提唱する話のあと、形式体系のアイデアを検討する必要があるということで、“もう1つの重要なアイデア”として「イデアルの添加」の話が出されています。なお、この用語そのものはカヴァイエスによるものらしく、ヒルベルトは「イデアルの一般的な方法」と述べているもよう。

 ただし、「つけくわえる」という言葉は、ヒルベルトが講義のなかで使っているようです。→「ユークリッド幾何学をえるためにはたったいま定義された領域に、どのような命題をわれわれは「つけくわえる」べきであるか?」(Toepellの文献による)

 論理学と算術を前提した上で、幾何学の諸定理を証明するためには、いかなる公理を「つけくわえることが必要なのか」ということが述べられているのですが、逆にいえば、「論理学と算術だけでは幾何学の定理が証明できない」という意味にもとれます。

 ほんでもって、公理は、ほかの公理からは証明不可能なものなので、「独立性」をもっているし、不必要な公理を使うべきではないという「方法の純粋化」の問題も生じる……という話をきいて、なぜかサントリー「山崎」を思い浮かべた私。例の、「何も足さない、何も引かない。」のコピーを思い出したのです。

 つまり、「いらないものも、不足しているものもない」という完全な状態のこと(公理系は熟成しないでしょうが)。ほかの公理から証明可能なものや、特に必要としていないものが公理として含まれていたら(そもそも前者は公理とは言わないだろうけれど)、その公理系は「いらないもの、無駄なものが入っている」ということになるでしょう。一方、必要なのに入っていない公理があると、それはそれで困ったことになってしまうだろうし。そうしてできた、「いらないものも、不足しているものもない」公理系は、ある意味、完璧な状態であり、ここに何かを足そうとするのは、けっこう勇気がいることなのではなかろうか?

 たとえば、何かの料理で、だいたい満足できる味になったあと、もうちょっとだけ何かを加えてみたいという衝動にかられ、塩を一振りしてみて全部が台無しになることだってありそうなこと。

 もし、「山崎」に何かを加えて、山崎をしのぐウイスキー(あるいは他の飲み物、この際、食べ物でもいい)ができたなら・・・

 ほんでもって、そのあとに続く難しい話を全部がーーーっととばして、とても魅力的なフレーズがある「可解性」のところもひとまずとばして、ゲーデルの不完全性定理による影響のところもとばして、せっかちに「結論」の節へ飛んでざざざっとながめていたら、次の項目が目にとまったのです。
 

<4> 公理(「イデアル・エレメント」)の添加が、内容そのものを変更することになる。

(p.110)

 ここに巻末註の番号がふってあったのでのぞきにいくと、「デザルグの定理」の文字を発見。あらま。実はつい先日、全然別のことで、この定理を確認したところであり、なんだか最近、この定理とご縁があるのです。

 で、このさい、もう第3章のまとめを読んでしまえ〜!ということで、読みにいくと……
 

したがって、カヴァイエスのかんがえる「俯瞰」は、つねに部分的であり(そして場合によっては誤りを含み)、その境界は、「問題」と「解」の弁証論的生成をとおして、つねに揺らぎ続ける。それは、まさに、第2章の結論で述べたような真理の歴史的生成の描像にほかならない。

(p.112)

 なるほどねぇ。とはいえ、「問題」と「解」の弁証論的生成について、もう少しちゃんと読まなくちゃ。

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「見渡す」方法としての公理的方法の歴史的変遷

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第3章を読んでいます。

 というわけで、まずは、「見渡す」方法としての公理的方法とその歴史的変遷についてみていきたいと思います(ここではボニファスという人の文献がおもに参照されているようです)。 

 最初にヒルベルトの公理的方法以前の公理および公理系について。登場するのは、アリストテレス、エウクレイデス(ユークリッド)、フレーゲの3人。いろいろ詳しく書かれていますが、要点のみ。

 まず、アリストテレス『分析論後書』においては、「論証」の出発点となるのが「原理」であり、これは「それ自身は論証されない第一のもの」ということらしいです(つまり、論証そのものが、論証されえない原理を積極的に必要とするということが見抜かれている)。

 そして「原理」は、「公理」(諸学問に共通の原理)と「定立」(各学問に固有の原理)の2つに分類されます。たとえば、「線とはこれこれのものである」という原理は幾何学を学ぶためには必要だけれど数論を学ぶのであれば必要ないので、こういうものは「定立」ということになります。

 さらに「定立」は、「基礎定立」(存在主張を含む定立)と「定義」(存在主張を含まず意味にのみ関わる定立)の2つに分類されます。「基礎定立」で、その学問によって考察される存在者の類が規定され、「定義」によって、その学問でもちいられる用語の意味が規定されるというわけです。

 エウクレイデスの『原論』においても、アリストテレスの分類とほぼ同じ分類がもちいられているようなのですが、「基礎定立」のかわりに「要請」という語が使われているようです。

 で、それからはるか2000年以上の年月を経て、フレーゲの時代にいたっても、表面上の用語の用法に変化が見られ内容が洗練されているとはいえ、それらのあいだに本質的な変化は見られないとボニファスさんは指摘しているそう。ここを読んだときに、「え? フレーゲのときにぐわーんと変わったんじゃなかったっけ?」と思いきや、ここは単に(公理的方法の組み立てを考えるうえでの)用語の話なのでしょう。そしてボニファスさんはフレーゲの段階でどのような変化があったかを、次の2点として示しています。

 1つは、アリストテレスにおいて「公理」と言われていたものは、フレーゲにおいて「論理法則」と呼ばれるようになったこと。もう1つは、アリストテレスにおいて「基礎定立」と呼ばれていたものが、フレーゲでは「公理」と呼ばれるようになったこと。

 というわけで、ヒルベルト以前(ボニファスさんによると、実際には1898年前後の頃のヒルベルトを含む)においては、諸学問における「共通の原理」と、学問内の知識の対象となる存在者の存在を主張する「固有の原理」の2種類があり、前者は学問の全体を、後者は各学問の内部の全体を見渡しているという意味で、共通点をもっています。

 しかし、1899年以降のヒルベルトの公理的方法では、ある部分において根本的な違いが出てきます。それは、「なにごとかがあるとか、ありはしないとか」にかかわるような「原理」が含まれていないということ。(>ヒルベルトは最初から2次的な構成だったことと、無定義の意味

 その結果、ヒルベルト以前とは「俯瞰」の意味がかわってきます。つまり、ヒルベルトの公理的方法の「俯瞰」のしかたは、存在については措定しないまま、「しかじかの性質をもっているという条件に当てはまるものはなんであれ」俯瞰するという設定になっており、学問に固有でも、学問に共有(普遍)でもありません。物理学であれ、数学であれ、電磁気学であれ、宇宙物理学であれ、なんであれ、公理系が記述する条件に当てはまりさえすれば、その学問の固有の原理が措定する存在者の類は問われない、ということになります。しかし、その条件に当てはまらないものは除外されるので、すべての学問がそれに該当するわけではない。これを近藤さんは「条件的な性質の全体性」と呼んでおられ、これを見出したことがヒルベルトの公理的方法の独創性である、と書いておられます。

(つづく) 
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見渡せない無限と、見渡している無限を、交錯させる。

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』、「第3章 ヒルベルトの公理的方法と概念の哲学」を読んでいきます。ここもとても面白いよ!

 ブラウアーの直観主義と、カヴァイエスと、近藤和敬さんで書いたように、これまでのカヴァイエスの研究においては、ブラウアーの直観主義とのつながりが軽視されていて、あまりにも多くのことをヒルベルトの形式主義の学説に求めすぎる傾向があったのだそうです。その理由が第3章の最初で具体的に示されています。

 で、近藤さんいわく、カヴァイエスのヒルベルト受容は、「見渡す」ということをどのようにかんがえるかということに深くかかわっているようにおもわれる、と。

 ブラウアーの立場を、「本当は誰も見渡すことなんてできない」という主張だとみなすと、これを裏返すことにより、(「本当は」とか言わなければ)見渡しているという事実は現に存在しているという現実的な立場も可能だということになります。また、「見渡してしまったものは本当の姿ではない」(古典数学は本当の数学ではない)という議論が成り立つとすれば、「本当の姿」かどうかにこだわらないのであれば、現に見渡してしまっている(本当の数学かどういかということをかんがえなければ、現に古典数学は成り立ってしまっている)という議論もまた成り立つ、ということになるわけであり。(こういうふうに考えると、いったいどっちが「ほんとう」にこだわっているかどうかがわからなくなって、面白いです)

 というようなときの「見渡す」ということを、いったいどのようにかんがえるのか?

 「見渡せない」ということを強調する直観主義の無限は「潜在無限」であり、「プロセス」としての無限であり、視点の主観的有限性から導かれる未規定性としての無限でした。一方、「見渡している」ということを強調する古典的な無限は「実無限」であり、「俯瞰」としての無限であり、条件としての客観的絶対性あるいは必然性としての無限です。

 そんなふうに直観主義の無限と古典的な無限は反対概念になっているので、このままでは折り合いをつけることができません。で、カヴァイエスは何をしようとしたのかというと、ここに真理の歴史的生成のプロセスという観点を挟むことによって、「問題」と「解」の弁証論のなかで両者を交錯させようとしたらしいのです。

(つづく)
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「自己」にまつわるとりとめのない曖昧な思考

 本日、常体にて。

 「自」という文字の成り立ちが知りたくなって、ネットで調べてみたら、どうやら“鼻”と関わりが深いもよう。「鼻」の旧字体ということなのかもしれない。自分を指すときに鼻をさすので、そういうことになったという説あり。そうか、自分=鼻、なんだ。

 もともと自己相似に興味があった。たとえば、子どもの頃、思い描いていたイメージに、「白いピアノの置物」というものがある。白いピアノの上にピアノの置物がのっていて、そのピアノの置物は白いピアノのミニチュアなので、その置物のピアノの上にもピアノの置物がのっていて……と延々と続くイメージ。

 あわせ鏡による繰り返しよりも、単体で繰り返されるものに対する興味が強かった(なので、正四面体が自己双対だと知ったとき、妙に納得した)。そして、自己相似に対する興味のひとつの集約地点が、黄金比だったのだと思う。その後、必然的な流れとして、「自己言及」も気になるようになってくる。早い話、入れ子構造に興味があったのだと思う。

 1つのもので繰り返されるということは、閉じているのだろうか、開かれているのだろうか。永遠に双方向に繰り返されるということは、開かれていることであるような気もするし、所詮は1つのもので構成されていると思うと、孤独のきわみのようにも思える。サイズや次元を変えてどんなに繰り返しても、そこに質としての変容はない。異なるもの、他者との出会いがない。1つのもので永遠に繰り返され得るということは、さびしいことなのだろうか、賑やかなことなのだろうか。

 しかし、今度は自己そのものが気になるようになってきた。繰り返される前の「1」へ。そうなると、自己規定や自己制作というものへ興味が向かう。「境界」を手がかりとして。

 そうこうするうち、自己批判というキーワードが生じる。そこには時制が関わってくる。自己の解体と新たな制作の繰り返し。同一性の問題。

 そして昨年あたりから、ぼちぼち仏教のことを考え始めることにした。たぶん、「自己否定」に向かっているのだろう。

 ところが。

 ここにきて、カヴァイエスから「自己展開」を提示され、「自律性」を提示される。問題は、「展開」ではない。そうではなくて、これまでずっと私にとっては「わたし」だった自己が、「オート」になってしまったこと。ある種の「自己消滅」。カヴァイエスがそう言っているわけではなく、私が勝手に動揺しているだけのことなのだが。「自己否定」までは、自分でできる。と思う。だけど、自己展開は、自分ではできないし、そもそも、自分の話ではない。自律性の「自」は、「鼻」ではないだろう。どうせだったら、自分で自分をきっちり否定したあと、オートの展開を受け入れたかったような気がしないでもない。

 落ち着いて考えれば、カヴァイエスが言おうとしていることは、これまで自分が考えてきたこと、感じたことを覆すものではないのだと思う。だけど、その「必然性」を、私は、<時を越えた私>と称していて、どうしても、「私」をはずせずにいた。

 人間は自然物であるか、数学は発明なのか発見なのか。数学はきわめて個人的な作業なのか、まれにみる人類共通の知的活動なのか。「実証」の意味ではない経験主義、「子どもの思いつき」と見なされるレベルで終わらない構成主義が、相対主義や多元主義に陥らずに、「かたく閉じた心の窓を力強く押し開く()」教育へと結びつくことは可能か。私は、何かの掌の上で生きつつも、「私」であることは可能か。それとも、“掌”込みで生を受け入れるところに、私の意味があるのか。

 先の動揺は、いろんな問いへとつながっていく。

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「数学は生成である」ということと、「自律性」

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第2章「ブラウアーの直観主義と操作概念」を読んでいます。

 直観主義の真理観と、伝統的な真理観は、どのように対立するのか。

 簡単にまとめると、「数学的真理は即自的に存在し、永遠の相のもとで不変である」とするのが伝統的な真理観、「数学的真理は、その真理が数学的な方法によってじっさいに構成されるまでは真理としては認められない」というのが直観主義の真理観ということになります。直観主義の真理観の場合、真理は、証明の過程から独立して即自的に存在しているものではない、という見方に立っています。

 なお、本の中では、本質を不変なものとみなす伝統的な思想の例として、アリストテレスが出てきます。「アリストテレスには、世界を永遠不変の本質のみからなる世界と、生成する具有性からなる現実世界とに二分したような思想がある」と。

 で、カヴァイエスは、博士論文が完成する6年ほど前(1931年)の段階で、ある手紙のなかで、「真なる理性、すなわち思考の絶対性は、生成[devenir]の本質である」というようなことを書いているらしいのです。

 また、彼は、科学的思考を、昆虫標本のように真理をピンでさして固定するようなものとしてみなすのではなく、反対に「本質にしたがって自己展開する思考」であるとかんがえていた。

(p.56)

 この、「真理をピンでさして固定する」という表現はすごいですね。ちなみに巻末註によると、上記の「本質にしたがって……」の部分は、カヴァイエスが25才くらいのときに父親にあてた手紙の中に書いてあった言葉のようです。

 ほんでもって、上記のような手紙を書いてから10年後くらいの1939年の博士論文の公開答弁では、「数学は、生成である」と述べているそうなのです。

 というようなカヴァイエスの真理観は、直観主義の真理観に相通ずるものがあるわけですが、資料の年代を考えると、カヴァイエスはその真理観をブラウアーから受けとったわけではなさそうなのです。つまり、ブラウアーに出会う前にカヴァイエスは「真理の生成」ということは考えていた。でも、まだ充分には作りこまれないままであり、そのあと、同じような主張を数学の中でおこなっているブラウアーに出会い、自分の思想を具体化・補強するアイデアを受け取ったのではないか、と近藤さんは書いておられます。
 
 で、上記p.56の引用部分の少しあとで、カヴァイエスいうところの数学の「生成」は、アリストテレス的な偶有性のがわに属してはいない、という話が続きます。なぜなら、「この生成は自律的であるようにおもわれる」からであり、その「自律性」は「必然性」を含意するからである、と。

 私はここを読んだとき、衝撃を受けました。そして、自分が衝撃を受けていることにショックを受けました。

 そんなこんなで、カヴァイエスの真理観を読み込む前に、あれこれ考え込んでしまっています。

(つづく)

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カヴァイエスとブラウアーの直観主義をつなぐ、「真理観」

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第2章「ブラウアーの直観主義と操作概念」を読んでいます。

 前回のエントリで、カヴァイエスにおけるブラウアーの影響が軽視される傾向にあることについて書きましたが、第2章・第1節では、その理由が2つあげられています。ここ、とても面白いのですが、あえて、あとでみていくことにします。

 というわけで、まずはストレートに、「カヴァイエスの哲学と共鳴するブラウアーの直観主義の中心的なアイデア」を見ていきます。ここで「共鳴する」と書いてあるように、カヴァイエスはブラウアーから影響を受けて(受けたから)、これこれこういうことを考えるようになったわけではないようなのです。すでに考えていて、そして、ブラウアーに出会った、ということのようなのです。

 なお、このブログではブラウ“ワ”ーと書いていることが多いですが、近藤さんはブラウ“ア”ーにしておられるので、これからしばらくはブラウアーで書いていきます。

 ちなみに2010年の夏には、金子洋之『ダメットにたどりつくまで』を読むなかで、ブラウアーに関わるけっこうな数のエントリを書いています。 おもなところでは、

  数学はメンタルな「行為」だと主張した人:ブラウワー
  ブラウワー/ハイティンク/ダメットの関係
  ブラウワーがいうところの数学の無言語性
  フレーゲとラッセル、そしてブラウワー

などがあります。

 このとき垣間見たブラウアーと、近藤さんが示しておられるブラウアーは、もちろん大きく異なるものではないというか、私が思うブラウアーそのものなのですが、表現のしかたが違っていて、面白いし、ドキドキします。というのも、ここはブラウアーそのものを語るところではなく、カヴァイエスがブラウアーから何を受け継ぎ、何を受け継がなかったか、という視点で書かれてあるからだと思います。

 近藤さんは、カヴァイエスが「直観主義から受け継いでいるいくつかのアイデアをつなぐハブとなるアイデア」として、「ブラウアーの真理観」をあげておられます。

 ブラウアーの真理観は、ハイティンクのまとめにしたがえば、「認識の可能性が、認識をおこなう作用そのものによってしか、われわれにはあらわれない」ということになり、これがブラウアーの構成主義的立場とつながっていると私は理解しているのですが、カヴァイエスはブラウアーの真理観を、「問題は、それが解かれるかぎりにおいてのみ、可解である」と表現しているようなのです。この可解性を、私自身は「問うこと・解くこと」という対のフレーズでとらえており、このフレーズはカヴァイエスの真理観を理解するための重要なキーワードになるのだろうと思っていますし、私自身のサブテーマでもあります。
 
 で、このような直観主義の真理観は、伝統的な真理観と対立するということを、もう一度見ていきます。

(つづく)

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ブラウアーの直観主義と、カヴァイエスと、近藤和敬さん

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』を読んでいます。きょうから第2章。

 章タイトルは、「ブラウアーの直観主義と操作概念」です。私にとっては、とても自然な流れです。岡潔と同じ意味で、すでに了解している気分。だって、近藤さんが、そういう流れで序章と第1章を書いているから。

 何が面白いって、2章がブラウアーで、3章がヒルベルトだということ。この本、カヴァイエスのモノグラフィという形で書かれた、近藤和敬さん“の”本なんですよねぇ。

 私はあれを思い出しましたよ、デューイの二元論批判(河村望による訳者あとがき)のことを。デューイの和訳は、訳者自身の二元論的認識論の枠組みのなかで勝手に解釈されることが多かったという話。

 書かれたものから何をどう読みとるのかは、しみじみ、読み取る側に依存していると思うことであります。しかし論文の場合、物語の感想などとは違って、そう読む根拠を示さなくては意味がないし、示すことができる。

 早い話、カヴァイエスの一般的な解釈は、代数学と構造主義に傾倒して行われることが多かったようなのです、これまで。

 一般的なカヴァイエス解釈の例として、シナサールという人と、グランジェという人が出てきます。

 シナサールは、カヴァイエスが博士論文を書き終えたあと、ブラウワーとハイティングに論文を手渡すために直接アムステルダムに赴いているという事実に注意しながらも、その意味を軽視して、カヴァイエスの概念の哲学とブラウアーの直観主義との差異を確認するだけにとどまっているのだそう。
 
 また、グランジェは、いいところを突いているにも関わらず(←私の表現)、それをウィトゲンシュタインの数学の哲学と結びつけてしまうらしいのです。

 で、それぞれの気持ちや根拠もわかるんだけれど、近藤さんは、そうじゃないんじゃないかな、ここでもってくるべきはブラウアーの直観主義なんじゃないかな、ウィトゲンシュタインとカヴァイエスで一致する点があることについても、ブラウアーが一枚噛んでいるんじゃないかな?という見方をしておられます(←全体的に私の表現)。

 と、近藤さんが考えるのも、カヴァイエスの「操作」概念に注目したからこそのこと。

 というわけで、第2章は、「カヴァイエスは、カントの直観の理論を数学的に解釈しなおしたものとして、ブラウアーの直観主義を高く評価していた。」という1文で始まります。しかし、カヴァイエスとブラウアーの直観主義との関わりが、集中的に検討されたことはなかった、ということで、上記の話へとつながっていくのです。

 実際、カヴァイエスは、直観主義の主張をそのままのかたちで同意しているわけではないのだそうです。ということは、やはりカヴァイエスはダメットに何か通じるものがあるのかもしれません。もちろん、直観主義の何を重視し、何を拒否したかは違っているかもしれませんが。

 そのような現状にあって、ブラウアーの直観主義とカヴァイエスの概念の哲学とのかかわりについて正当な評価をくだしているのが、スブスティク(Sebstik)という人なのだそうです。スブスティクいわく、

「カヴァイエスは、(直観主義が主張する)原直観の作用による数学的基礎づけに賛成することもなければ、ブラウアーによって数学に課された制限に賛成することもない。そうであったとしても、直観主義の2つの主題が、本質的には活動性と実効性の要求から成り立っている(カヴァイエスの)学知の構想のなかで、彼の学知の理論の中心に見出される。彼の学知の理論と深く共鳴しているブラウアーの認識論の詳細な検討を、カヴァイエスが先延ばしにしてしまったことは残念なことである」

(p.54)

 そんなスブスティクも、上記の「活動性」と「実効性」について、その内容的な検討をじっさいにおこなったわけではないそうなのです。なので、それを近藤さんがやろうとしておられるのだと、私は理解しました。

(つづく)

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そしてカントへ、「予見不可能な生成」と「絶対的価値」

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第1章を読んでいます。

 前回は、ライプニッツが、数学を「よく基礎づけられた現象」として定義したこと、しかし、数学的な実数連続体の基礎としての無限集合の実在性は、数学ではないもの、すなわち形而上学によって肯定されると考えていたことを見てきました。そして、このような数学を学問づけるのは、ライプニッツが理想的なものとして構想する論理学(普遍記号学)であり、数学は「基礎としての単純観念からなる原始体系の無際限に変化する組み合わせへと還元される」ということになります。

 カヴァイエスは、ライプニッツが数学を「よく基礎づけられた現象」として定義したところに「カントの図式論への道」を見出し、その一方で、ライプニッツが数学を「形而上学」によって基礎づけようとすることについては否定的にかんがえていたようです。したがって、かんがえられるべきはことは、数学に固有の領域とそれを基礎づけるものとのあいだの関係だ、ということになります。

(ちなみに近藤さんは、「かんがえる」という言葉を平仮名で書いておられます。引用のときにはもちろんそのまま書きますが、私は普段は「考える」と漢字で書くので、本文を参照しながら自分なりにまとめるときに、どっちにしたらいいのか迷うことしばしば。今後は、本文に近い形で抜き出すときには平仮名にしようかと思っています。)

 で、その、数学に固有の領域とそれを基礎づけるものとのあいだの関係を考えるにあたり、カヴァイエスが向かうのは、カント哲学における「アプリオリな綜合判断」に含まれる「予見不可能な生成」と「絶対的な統一」です。

 「予見不可能な生成」/「絶対的な統一」という二元性は、デカルト哲学でいえば、「延長」の観念あるいは「操作」としての「思考する作用」/「数」の概念あるいは代数方程式としての「知性的な観念」、ライプニッツ哲学でいえば、「よく基礎づけられた現象」/「単純観念からなる原始体系」という二元性に対応すると捉えることができます。

 ちなみにデカルトのところで出てくる「思考する作用」という言葉については割愛してしまっていましたが、やはりここをさけては通れないと(あたりまえのことながら)思うことであります。

 というわけでいったんデカルトにもどります。

 カヴァイエスは、「三角形の観念」という「延長」の観念は、「数」の観念である代数方程式そのものに尽きるものではなく、それを形成する「規則」という側面を含んでいるとデカルトはかんがえていたと解釈していたようなのです。言い換えると、「延長」の観念は、代数方程式には還元されない「思考の能動性」としての「作用」[acte]であると解釈できる、と。

つまり、「延長」を把握するがわである代数方程式としての「知性的な観念」あるいは「数」の観念と、その代数方程式によって把握されるがわである「三角形を作りあげる」構成操作ないし「思考する作用」(すなわち「操作」あるいは「延長」の観念)とのあいだに、思考の内部である種の二元性が存在していることを、ここでカヴァイエス見出そうとしているのである。

(p.33〜34)

 この「思考する作用」は、知的な「直観」とも言い換えられています(カヴァイエスの文中において)。なお、この話には「関係」[比]というものも関わってきます。

 いちばんわかりやすいと思った表現は、「思考する作用こそが思考されているのであって、思考の対象が思考されているのではない」という一文です。この一文がいちばんわかりやすいということが、この話は私にとってわかりにくいということを表しているように思います。なんとなくわかるんだけど、なんとなくしかわからない。

 だけど、これがカントのところにくると、わからない部分はわからないままに話はつながっていきます。

 「思考する作用」は、それが作用であるかぎりは、その展開をまたねばならず、展開をまたねばならないかぎりにおいて予見することは権利上不可能である。したがって、「思考する作用」には「予見不可能性」という特徴が付与される。

……、その一方で、作用の一般的な「関係」[比]の把握としての「思考」は、もろもろの作用のあいだの等質性と差異の把握であるがゆえに、あるいは作用の条件の把握というその作用にたいするメタ的な(あるいは上位の統一的な)把握であるがゆえに、絶対的だからである。

(p.40)

 そして、この思考の二元性を肯定的に解消するために、カントが導入した新しい概念が、「アプリオリな綜合判断」だとカヴァイエスは考えたようなのです。

(つづく)

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