TETRA'S MATH

数学と数学教育

教師として生きてきた両親と、教師にならなかった私。

 私の父は私立高校の数学教師、母は公立中学の数学教師だった。また、保育士をやっていた叔母と、大学の先生をやっていた叔父もいる。というわけで、私は教育色の強い家系の中で生まれ育ったのだけれど、身近に小学校教師がいなかった。だからというわけでもないだろうが(だからだったかもしれないが)、大学進学のときに教育系学部の小学校教員養成課程に入学し、数学研究室に属した。しかし、結局、教師にはならなかった。

 いつだったか母が、私が小学校教員になれば幼稚園(保育所?)から大学までそろうので、○○学校が作れるというようなことを言っていたことがある。○○にはわが家の姓が入る(叔母と叔父は姓が違うんだけどね・・・)。冗談と本気の比率はわからない。おそらく机についている時間がきわめて少ない学校になるだろうと思われた。また、学校にいる間は楽しいかもしれないが、そこを卒業して社会でやっていけるかどうかは、きわめて疑問な学校になるだろうと思われた。もちろん、実現はしていない。
 
 私自身はほとんど覚えていないのだが、わが家は本当に来客の多い家だったらしい。生徒もよく遊びに来ているし、勉強に来ている。塾もしていたのだろう。そういえば新築する前の古いほうの家には、20名くらいの生徒が集まれるくらいの座敷があった。このスペースは、最初の家に増築して作った居宅部分の二階だったと思う。

 それ以外でも、たとえば私の小6の担任が、いったん家庭訪問に来たあと、他の家庭の訪問をすませて、またうちに来て母と話し込んでいたことがある。若い先生だったので、何か相談ごとがあったのかもしれない。

 また、母はよく生徒を連れて出かけていた。キャンプなどに私もいっしょに連れて行ってもらった記憶がある。よくあれだけ学校外活動ができたもんだと、いまさらながら驚いている。あの時代で、あの地域だからできたのだろうか。それとも、母だからできたのだろうか。

 そんなふうにして私が小さい頃の実家はにぎやかな家だったらしいのだが、母の教師時代の晩年は、少し事情の違う来客があったらしい。家出しそうな生徒に「行くところがないならうちに来い」と言った、という話を母からきいた記憶もうっすらとある。当時、私はもう実家には住んでいなかった。父はそのときの様子を次のように記録している(なお、○○というのは母が当時勤務していた学校、□□は母の名前。昭和59年のこと)。



[2/15] 九時少し前くらいから○○中の女生徒が二人来る。十時半頃また一人来る。□□のクラスの生徒らしいが、何か騒動していた。
[2/16] 午前三時まで騒動が続いていた。男の子二人と女の子二人、いずれも不純そうな生徒と一人の父親の揉め事で中々寝着かれなかった。
[2/27] この前泊まり込んで行った二人の女子、今日は三限目の授業を抜け出して我が家に来たらしい。
[2/28] ○○中の女生徒夜遅く来る。一人は親が迎えに来たが、もう一人は?
[3/2] △△(新聞社の名前)の社説に□□のことが書いてあると言うので、改めて見たら、先日の宿泊のことだった。
[3/8] 階下にまた不良生が屯していた。二、三人は親が迎えに来て連れて帰ったが、残りの何人かが泊まらせてくれと言っていたらしい。妻は先日約束したのだから今日は絶対駄目だと断行すると、そんなら野宿すると言って、これ見よがしに出て行った。その後を女の子が同情を繕って追い掛けて行ったようだ。その子は受け持ちの子で父親から面倒見を頼まれていたのだろう。頻りに呼び止めていたが、逃げ出した男が気になって、後ろを振り向きもせず、後追いして遂に帰って来なかった。わがままな性格が不良を産む。自分の子を我がままな性格にしたのは、親の責任だと結論するけれど、結局は自然の成せる技なのではないのか。誰にも責任なんてあるものじゃない。唯悪運を身に着けて現世に浮き出ただけなのだ。妻も、義母も一睡も出来なかったらしいが、私も午後三時の時報まで耳に残っていたようだ。これが教師の勤めなのか、とすれば、私は完全に自分の道を過った気がする。



 この記述を読む前にすでに私は、「教師にならなくてよかった・・・」と父の『思い出の記』を読みながら感じていた。父は、そういうことを感じさせるために書いたわけではないのだろうが。

 もっと言えば、これを読む前に、娘を通して小学校の先生と接する中で、私に学校の先生はやっぱり無理だったなぁ、と感じていたと思う。身体的にも精神的にも相当タフでないとやっていけないと思う。もちろん、テキトーにやっている教師もなかにはいるかもしれないが、それでもやっぱり教師という仕事は本当に大変な仕事だと思う。

 父も母も、生徒のことでも苦労しているが、校長とのすったもんだもあったろうし、同僚とのあれこれもあっただろう。 

 どんな職場にも、その職場なりの苦労とストレスがあるだろうし、どんな職場にも、その職場なりのやりがいがあるのだろうと思うが、父と母は、いったい何をやりがいとして、何を支えとして、教師を続けていたのだろうか。それについての答えはいろいろあるとは思うが、1つ思うことは(特に母に関しては)、「教科」が1つの支えであったのではないか、ということだ。

 私が大学を卒業したあと、小学校教員になった友人からある相談ごとを受け、それを母に相談したことがあった。そのときに、小学校教師と中学校教師の感覚の違いを感じたのだ。友人は同僚たちとある制度を変えようとしていて、母はそれに対して、「とても大変なことだから、いま受け持っている生徒たちを第一に考えたほうがいいのではないか」というようなアドバイスをした。複式学級に関することだったので、小学校と中学校の違いの前に、学校の規模や地域差のこともあったかもしれない。なお、友人たちはその改革を実現させた。

 思うに、中学校や高校の先生たちは、自分が専門としている「教科」のなかで、いろいろなことができるのではなかろうか。「教科」を支えにしたり、足がかりにしたりすることができるのではないだろうか。もちろん、教科の中でも、いろいろなしばりや制約はあるだろう。でも、数学なら数学の時間が、そのほかの時間よりも、1つの自由の可能性をもっているのではなかろうか。もっといえば、「自分らしく」あることができる場所なのではないだろうか。父の拠り所についてはよくわからないけれど、母にとって、数教協は、自分が自分らしくあるための大きな存在だったのだと思う。では、(専科ではない)小学校の先生たちの、やりがい、心の支え、「自由」は、どこにあるのだろうか・・・
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父が語る、高校教師・補導主任の日々

 父の『思い出の記』第1部から、「私と数学」の部分を読んでみたが、もちろん教師としての仕事は数学の授業だけではないわけであり、そのほかの部分(の一部)を第3部から抜き出してみようと思う。

 私立高校に勤め始めて3年めくらいのときに、父は学年主任に命じられ、同時に補導主任もまわってきたという。昭和40年度なので、父が33才くらいの頃。このあと2年間、大変な苦労が待ち構えていたらしい。授業の受け持ちのほうは、担任をしていた1年生の特別学級は手がかからなかったそうだが、他の1クラスと2年の1クラスは授業を成立させるまでに若干の時間を要し、事情があって自ら受け持った商業科3年のあるクラスは男子だけの学級で、「騒々しさに加え、猛々しさが醸され、威圧の姿勢を構えなくてはならない」という状況であったそう。

 さて、補導係(だったから、ということではないものも含まれているのだろうけれど)のお仕事のほう。生徒のイニシャルを実際と関係なくAから順に示すことにすると、ざっとこんなふうに記録している(補導主任2年目の日記より、1学期分を抜粋)。↓

[4/14] 化学教室で二年生三人が喧嘩。靴、長靴、傘の連続盗難。
[4/16] 単車に乗って帰る生徒を捕まえるため張り込み。店を間違えて失敗。A退学勧奨を補導委員会で決定。
[4/19] ○○駅前の○○氏宅倉庫で汽車通生数人が暴れていると言う通報。急行するも影見当たらず。
[4/25] (遠足の日)・・・結局現地で集合解散の羽目になった。教頭の心配通りバイクでやって来た者が多かった。それを摘発し説教するのは担任ならず我々補導部の仕事なのだ。
[4/26] 昨日単車で現地に行った生徒数名を補導する。警察署少年課より数人が来校。BとCが家出しているらしい。
[4/28] Bを連れて警察署へ。そこに又、Cが連行されていた。
[4/29] 自転車泥棒Dとわかる。EがFから脅迫を受ける。
[5/10] ○○五千円盗難。怪しい者を呼び寄せて事情を聞くも判明する筈がない。
[5/12] 交通安全指導のため○○の岐れ道に立つ。○○にて窃盗を働いた二人を補導する。単車通生二人も補導。
[5/17] ○○地区補導委員会有り。
[5/18] ○○商業補導主任の○○氏来る。
[5/19] 第一寮生四人喫煙。G家出。
[5/20] H自転車窃盗の事少年課より電話有り。
[5/23] 昼休み中校内暴力事件あり。映画館にてF喫煙の報告有り。
[5/24] ○○部の暴力事件。
[5/25] ○○中学校にて補導委員会。
[5/28] 三限目数人さぼって帰るのを○○君の車で追い掛ける。二人隠れて姿見せず。
[6/2] I喫煙。自転車泥棒の件もあり、謹慎させる。
[6/4] Iの父親来る。
[6/8] ズボン盗難。持ち物検査で発見する。
[6/10] 単車通生補導。
[6/13] 汽車の中でJ、Kの両名が暴力事件を起こす。
[6/14] 西瓜泥棒。L、M、N家出。交通違反と次々に補導事件起こる。
[6/17] 市内補導巡察。課長自ら陣頭指揮。婦人児童委員の○○さんに随行。
[6/18] O説諭。
[6/24] Pの破廉恥事件親を召喚し面接するも、非常識な応答にへこたれる。
[6/27] 二年担任会。修学旅行の件。学習計画の件。補導の件、制裁の件について温厚派と強硬派の意見半々し激論を交わす。
[6/29] 補導委員会の懲戒基準を作り成立させる。
[6/30] 全員賛成だった筈なのに、Qの問題だけ、それに係わる教員から急に温情意見が出てきて覆される。一学期最終職員会議後補導部だ。
[7/2] ○○に行き、Rの家庭訪問。退学勧奨の線を担っていく。帰り単車に二人乗りで夜間徘徊していたSとTを捕らえる。保持していた自転車のチェーンを押収する。
[7/3] 教頭と二人でPを訪れる。本人は外泊。
[7/4] Sの母親来る。贈り物あるも受け取らず。
[7/5] Sの父親来る。
[7/6] Uの母親来る。
[7/7] 高校補導部会に出席する。
[7/10] ○○呉服店で三年女生徒の万引きの情報入る。
[7/13] ○○地区補導委員会に出席。
[7/14] V、○○退学生より暴行を受ける。
  ・
  ・
  ・


 先生って大変だ・・・・・


 この頃の生徒さんたちは、いま60代ですね。


 ちなみに、5/3にはこんなことを書いている(□□というのは母の名)。

□□の知り合いの娘で、△△高校に転入し、ちょっと着いていけないからとの理由で○○嬢が数学学習に来る。だが教えたことはすぐ活用の出来る優等生でそんなに苦労はしない。県立高校普通科の先生は楽なんだなと羨ましい。
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父が語る、「私と数学」 (3)

 父は結核療養のあと、地方自治体の公務員になり、私が生まれる前年に私立高校教員になった。

 ちなみに母は公立中学校の教師をしていたわけだが、父と母の勤務状況は、高校と中学の違いのほか、私立と公立の違いも大きかったのではないかと思う。いちばんわかりやすい違いは、母は何度か転勤していくつかの学校を経験しているが、父はそれ以来退職まで同じ高校に勤めていたということ。また、組織としての在り方も違ったことだろう。教員生活についてはあとで詳しく出てくるのだけれど(補導係の苦労や、組合運動の記述が多いことが印象的)、「私と数学」のところでは、教材の工夫について綴られている。父いわく、
 数学と言う教科の履修を、将来の進路に合わせてると、生徒の学習態度は乱れてしまう。したがって、生徒の目を授業に集中させるためには、それなりの工夫を必要とした。
 その工夫をみていこうと思う。(私なりに要約)



○軌跡の犬(1、2年商業科)
 
 いくつかの座標をあたえ、指示通り点を連結していく。作業は単純だが、できあがった図形は最後に犬のシルエットになる。これに名前をつけさせ、色と模様を施して、簡単な物語を書かせてみた。


○人口構造の改革(2年文系)

 山村と都市を仮設し、人口を与える。山村から都市へ、都市から山村へと移動する人口比を4:6とし、将来、人口がどんなふうに変化し、最終的にどうなるかを推測していく問題。うまい方法を発見した生徒の名を借りて、○○の定理と名づけた。


○組み合わせの実験(3年商業科)

 授業中に活用する班の編成で、6、7人のグループができるだけスマートな形になるよう座席表を分割させる問題。全員から募集。普段の授業態度では想像もできない生徒から、目を見張るような作品ができた。


○猫の変換(>小沢猫のことだと思います)

 原画(かわいい猫の絵)を与え、まずはその絵で惹きつける。一次変換の式を各自で作り、その変換で原図が千変万化に変形し、1本の直線になってしまうものもいる。これには逆変換がなく、交通事故にあった猫で、もはや生きかえれないのだと注釈する。それでないものは、逆変換によって、また元の姿になることを補足する。


○三次曲線の大型グラフ(2年生科コース)

 全員に共通の三次関数を与え、こちらで指示した変数に対し、分担して関数値を求めさせる。大きなグラフ用紙4枚を張り合わせ、それに点を記入させて、順次直線で結んでも、遠くからみるときれいな曲線に見えるのがねらい。


○七夕のお星様(3年文系、3年商業科)

 父が中学1年生のときに習った方法で正五角形を描かせ、頂点を1つおきに結び、さらに中心と各頂点を結ぶと、星型ができる。(「元陸軍の帽章みたいだ」と父)


○正十二面体の作成(3年文系)

 同じ大きさの正五角形を厚紙で2つ作り、折り重ねて正十二面体を作るもの。


○正五角形作図(3年文系)

 上記の作図が正しいかどうかの証明を三角比の三倍角を使って解かせる。


○年令当てカード(3年商業科、2年生科)
 
 6枚のカードに32個ずつ数を書き、1〜63の数を適当に覚えさせて、カードをめくりながら、覚えた数が入っているかどうかを「はい」「いいえ」で答えさせて、数を当てるゲーム。(年令当てというより数当てですね)


○円の作図(3年商業科)

 円の方程式であることをふせて、全員に共通の円の方程式を与える。xの区間を100等分し、それぞれのyの値を開平演算で求めさせ、グラフ用紙に念入りに点をとらせる。つくっていくうちに左右対称になることに気づき(上下対称ははじめから理解している)、最後にできた図形を見て、肩が凝るような今までの作業が快感に変わる。



 これらは、実際に授業に取り上げ成功した実践例で、私学4校で組織している組合連合の研究会で発表したものなのだそう。しかし、大学進学を主体とする現在のその高校教育の中では良い評価が得られるはずがない、と父は書いている。

 父の勤めていた高校は、私立のとある大学の附属高校で、国立大学に何人通すか、附属しているその大学に何人通すかが学習指導の焦点になっていた。これら100名そこそこの進路の保障に対し、スタッフも多くを必要とはせず、2、3人もいれば事足りたのだとか。後輩の何人かは努めてこのエリート学級を持ちたがったらしい。実力とは無関係に生徒の志望が高いところに向いていたらしいが、早い話、授業がやりやすかったのだろうと思う。

 父にはこの役がまわってこないので、僻みがつもって恨みにかわり、ここ数年は諦めともなって、進学のための教材研究や指導法の研究から遠退いてしまっていた、と書いている。定年前の最後の年には、大学進学志望者の面倒を徹底的に見たかったが、そのとき父は副校長だった。副校長の重責がのっかっていると無理だろうと思い辞表を提出し、副校長の椅子を返上して、非常勤として数学指導に熱中しようと思っていたらしいのだが、与えられたのは商業科3年の2クラスだったとのこと。もし、自分に特別学級の授業が無理だと判断するのだったら、せめて、いままで一年間楽しく授業を続けてきた2つの科の全クラスをあずけてほしかった、と父は思ったらしい。自分の実力はこんなものなのか、そんな風にしか評価されていなかったのかと思うと無性に腹が立って、会議室でもらった辞令をその日のうちに事務局に付き返して、早々と帰宅したらしい。

 らしいというか、この頃までに私はけっこう大きくなっているので、父が定年よりも1年早く退職したことと、何か気にくわないことがあったらしいことは、おぼろげながら感じていたし、記憶している。確か、出勤簿に「もう、来んからね〜」と書いて帰ってきたと話していたように覚えている(ほんとかどうかはわからないけれど)。そういう事情があったのかぁ、とこのたび確認したしだい(ほかにも理由はあるのかもしれないが)。

 父は「私と数学」を次のように終えている。
 この驕り、この我がまま、それだけで、教育組織の仲間としては不的確である。なまじっか、色気を持つのは止めて、静かに余生を送るのが、身のため、人のため、そして、学園のためだろう。

 なお、父は現役中に自宅でも高校生を教えていたが、退職後しばらくして、また自宅で生徒に勉強を教えていた時期があった。
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父が語る、「私と数学」 (2)

 話は高校時代へと進む。ここには、数学を得意とする同級生達=ライバルの話が書かれてある。

 「高校一年になっても、指導要領が改正になったのか、中学三年次と同じような教材を学習した」と書いているので、ちょっと調べてみたら、なるほど昭和22年に改正が行われているので、その時期だったのかもしれない。因数分解等は何回となくやらされて、うんざりするくらいだった、とのこと。

 同級生は4人登場する。うち2人は、父の小テストの成績を見に来ては悔しがっていたと書いているので、この2人には“勝てた”のだろう。あとの2人の話がなかなか面白い。まず1人は、放課後の掃除は時間の無駄だといって終鈴が鳴り終わらないうちに脱兎のように中庭を走りぬけ、早く帰宅して受験勉強に取り組んだという(高校一年生のころから)。彼は独学で微積の分野に跳び込んでいて、因数分解などで現をぬかしている我々をいかにも軽蔑しているようであった、と父。そしてもう1人。(誤字そのまま↓)
 ある時、古ぼけて、今にも崩れそうな櫓を思わせる図書館の中で、分厚い本を呼んでいる彼を見掛けたことがあった。「何を呼んでいるのだろうと」背後から覗いてみると、積分記号の二、三個重なった数学の本であった。その傍らに閉じたまま置かれていた本の表紙には、楕円関数論と書かれてあった。
 父は大きな衝撃を受け、焦りを感じたらしい。そして、友人から隠れるようにして書店で「新数学解法」という参考書をなけなしの金をはたいて購入し、がむしゃらに取り組んだという。

 高校2年生になって、幾何か解析兇箸いα択肢をあたえられたとき、父は解析兇鯀んだらしい。幾何は授業で習わなくてもどうにかできるという確信(実は自惚れ)があったので。ところが、この教室には一年上級の秀才組が数名集まっており、加えて父の目が極度に悪くなっており(近視)、家計に余裕がないので医者にもいけず眼鏡を買うこともできず、黒板の細やかな文字が皆目見えず、完全に落ちこぼれとなってしまったそう(どうにか及第だけはさせてもらったとか)。ちなみに、このときには上級生の受験のため、教科書は、受験からはずされる後のページの統計・確率から入ったそうで、三年次に再び解析兇鯀択したときには、級数微分からやってくれたので、昨年の多少の残骸もあり、全テストに好成績を上げることができるようになった、と書いている。・・・って、なんで分野のことまで覚えているの??

 大学は、地元の大学の「中学四年過程」というところの数学科に進学している。1、2年生の間は下級生らしく講義に参加し、ノートも書き、おおよそ好成績だったらしいが、上級になってからはよろしくなかったもよう。微分幾何などはフランス語で講義され、皆目判らず、単位を落としたのだとか。しかし、ぎりぎりの線で認定の単位を取得し、どうにか留年せずに卒業に漕ぎ着けたとのこと。卒業論文はとても書くことができず、幸いゼミ方式が取られたので、他の2人と組みながらガウス平面幾何学の研究を交替ですることで単位を取得できるよう取り計らってもらった、と書いている。

 大学で得た教員免許を実際に活用したのは、卒業後7年たってからのことだった。父は、結核検査でひっかかり、教員不採用となったため、療養生活を送ったあと、公務員になっている。その後、高校の教員となったのだった。

(つづく)
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父が語る、「私と数学」 (1)

 父の『思い出の記』は、時系列に即した物語としては81ページから始まっており、それよりも前は、家族のことや自分の趣味、娯楽、本棚などについてまとめてある。そのなかからまず、第五章「私の本棚」におさめられている「私と数学」をのぞいてみようと思う。

 父は、小学校3年生くらいのころ掛け算の九九がうまくいかなくて居残りを命じられたことがあり、そのときまでは誇れるものを何も持てない哀れな落ちこぼれだと自覚していたという。それが一斉実力考査のようなものがあったときに算術だけは上位にランクされていて、保護者面談でそれを知った父の母親は大いに気を良くし、ついでにあらぬ期待を自分に求め始めた、とのこと。

 算術が楽しくなってきた父は、小学生のころの具体的なエピソードをいくつか書いている。よくこれだけ詳細に覚えているもんだと、わが父のことながら感心する。

 たとえば、異なる4つの物を1列に並べる順列の数についての問題が、「桃太郎、犬、猿、雉」を題材にとり、この4者が1人ずつしか渡れない1本の丸太を渡るとき、その順番は何通りあるか、というような表現で出されたことがあるらしい。この問題に対し24通りという答えを出したのは父だけで、大多数の生徒は秀才を含め16通りだと言い、先生もそれを信じて16通りを正解と結論し、あやうく次の題材に進もうとしたときに父が待ったをかけた、という話。そして繰り返し吟味して、父が書き並べた要素の中に、一通りの重複もないことを確認してもらい、凱歌は父に上がったという。

 また、正方形の縦横を4等分して、その図形の中に四辺形をいくつ数えられるか、という問題でも、いろいろ異なった解答が出されたそうだが、父の申告する「100個」の正解が出るまでは、次に進まなかったのだそう。

 というようなことがあり、算数だけは誰にもまけないという自信がついた父に対して、中学校を受験するときの内申書には「理数系に富む」という評価が書かれたらしい。

 話が前後するが、父は昭和7年に、当時日本統治下にあった台湾で生まれている。父の父は警察官だった。受験した中学というのは台北第一中学校のことで、この学校のことや受験の様子についてもあとで説明が出てくる。市内の小学校の秀才が集まる学校であるらしく、一学期の成績は250人中109番とふるわなかったが(っていうか何で覚えてるの??)、数学だけは100点であったという。

 まだまだエピソードは続く。2桁の整数の暗算がはやかったこと、そのおかげで2数の和差の積が平方差に等しいという公式を、図形で説明される前に、何題か暗算でやらされたときに正確に答えを出せたこと、内地の進度を配慮してハードスケジュールな授業が行われたおかげで、引き揚げたあとの中学校で出された図形の面積の大小の問題が自分だけ解けたこと(三平方の定理を使えたから)、初等平面幾何の問題を解くのが大好きで、数学だけは友人達に一目置かれる存在になっていたことなどなど。

 小中学生時代のささやかな自慢話のようにも聞こえるが、次のようなくだりでは、歴史の色合いを感じるのだった。
 台湾から引き揚げて来て、友人も少なく、出来るだけ近着こうとしても、彼らの遊びには、中々着いていけない。彼らは、ピンポンや、潮浴び等をよくしたが、私は、不得手であった。
 孤独の淋しさを紛らわすものと言えば、数学の本だけであった。私は、台湾から持って帰った、立体図の投影画法と、難解な文語調で書かれた旧中学校の幾何の本を出しては、それを解いて一人で遊んでいた。
(つづく)
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父からのメッセージ/こんな残し方もある

 本日、常体にて。

 11月下旬、夢見がわるかった。いや、夢見がわるいという言い方も変かもしれない。短期間のうちに、3回、父の夢を見たのだ。父は8年前に亡くなっている。

 1回目は、父と私と娘が、誘拐されそうになる話。目覚めたとき、「おとうさんの夢を見たなぁ」と思った。2回目は、内容を覚えていない。目覚めたとき、「最近、おとうさんの夢をよく見るなぁ」と思った。3回目は、父にいいことがあったのに、それにだれも言及しなくて父が憤慨するという夢。目覚めたとき、さすがに考えこんだ。

 なんだろう・・・  父は私に何が伝えたいのだろう?

 実は、父が亡くなる数ヶ月前(入院する少し前)に、私は父の夢を見ている。薄暗い灯りの中、布団におばあちゃんが寝ていて、そして、父が私にきくのだ。「帰ってこんとか?」と。暗示的な夢だった。

 夢分析についてはよくわからないが、どうにも今回の父の夢は、私の深層心理というよりは、外から入ってきたもののような感じがした。

 また、夢に母がからんでいないことも気になった。母とは関係のないことらしい。

 父は私に、何をしてほしいのだろうか。

 年末に帰省してこいということだろうか。父のいないわが家に? おばあちゃんの仏壇をおばさんの家に移して、父の神徒壇だけを実家に残しているから、さびしいのだろうか。夏に帰省したときに、お墓参りに行かなかったから? 年末に母をお墓参りに連れていけということだろうか。

 でも、父はそういうタイプではないと思う。お墓参りとか、神徒壇とか、そういうことにこだわってのことではないような気がする。

 そうしてふと思いついたのが、父の『思い出の記』のことだった。いわゆる“自分史”で、父が亡くなったあとに、母と姉で製本した5冊組の冊子(1冊が200ページあまり)。ずっと本棚に入ったままになっているのだ。今年こそは読もうと思って、スケジュール帳の「今年やりたいことリスト」の1番目に「おとうさんの『思い出の記』を読む」と書いているにも関わらず、「まあ、タイミングがきたら読もう、そのうちタイミングがくるだろう、今年でなくてもいいだろう」なんてやりすごしていた私。

 とりあえず、この『思い出の記』を読み始めてみよう。年末の帰省はそれから考えてもいいだろう。と思って読み始めた私は、これは絶対に読まなければいけないものだとようやくわかった。父が亡くなってから8年もの間に読もうとしなかった自分にあきれもした。しかし、まさにいまが読むタイミングだったのだろうと思う。

 戦争のこと。引き揚げのこと。生活のこと。学校のこと。家族のこと。仲間のこと。仕事のこと。教育のこと。子育てのこと。

 いろんなことが、リアルにせまってくる。そして、それはそのまま、現在の私の生活のヒントとなり、力となる。

 まず聞こえてきたメッセージは、「遠山啓だけが教育について考えることじゃないよ〜」という声だった。

 そして、なんだかんだいいながら、父が亡くなったあと、反面教師としての母にこだわることで、結局私は母にとらわれていはいないか?ということに気がつかせてもらえた。いや、うすうす気がついてはいたのだが、あらためて意識させてもらったというか。というより、もっと単純に、「おとうさんもいるんだよ〜」という声が聞こえたのだろう。

 また、戦中戦後の生活について、父の幼少時代の状況が具体的に綴られる描写から、生きていくということ(子育て含む)のシビアさも伝わってくる。シビアさのみならず、温かさや可笑しさ、のどかさのようなものも。

 なお、この『思い出の記』は、次のように始まるのだった。(第一章に組み込まれている文章の一部を表紙裏に転載したもの)  

    せめて君達だけは

 この自分記は、家族の者、とりわけ、二人の娘のために、遺産代わりとして譲与する積もりではある。幸い譲与税も、相続税も着かないから、迷惑な物品ではないであろう。
 我が愛する娘達よ、君達は、読まなければならない。一人前の社会人として育てて来た親の恩に報いるために、そして、今までの親不幸に対する罰として。
 2人の娘のうちの1人(姉)はとっくの昔に読んでいるのに、残りの1人は本棚にしまいっぱなしでページを開こうともせずに、他の本ばかりそばに置いている。「さすがにそろそろ読め」と父は言いにきたのだろう。

 現在、自分も一応、親であるわけだが、私は娘に自分史のようなものを残すという発想はない。以前、「毎日子どものなかにダイレクトにメッセージを伝える」という金子由紀子さんの考えに感銘を受けた話を別ブログに書いたが(>)、いまでも基本的にはそのスタンスでいるし、むしろ、どちらかというと残したくないとさえ思っているような気がする。しかしそれは、私と娘の関係が、父と私の関係とは違っているからなのだろう。父は私に、(母ほど)ダイレクトに、リアルタイムでメッセージを残せなかったのだ。

 なるほど、こういう残し方もアリだね、おとうさん。私は基本的に親の恩という言葉は嫌いだし()、読み始めたときは、「確かに親孝行ではなかったけれど、親不孝でもなかったと思うんだよなぁ、なんの親不孝したかなぁ?」なんて思っちゃったりしたけれど、読み始めたいまとなっては、「本当にありがとう。いままでいろいろごめんなさい。おまけに、読まずにいてごめんなさい!!」と素直に言える。やっぱり、発信されたものは、受信されないと成就しないね()。


 というわけで、今年中に読み終わるべく、現在、第3部のページをめくっているところ。


 なお、『思い出の記』を読み始めて、父は夢に出てこなくなった。
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