TETRA'S MATH

数学と数学教育

吉本隆明が受けた遠山啓の講義

 遠山啓『文化としての数学』の巻末に収められている、吉本隆明「遠山啓-----西日のあたる教場の記憶」(初出『海』/1979年/原題「遠山啓さんのこと」)によると、戦後まもない時期に吉本隆明が受けた遠山啓の講義は、「量子論の数学的基礎」というものだったそうです。その内容は「量子化された物質粒子の挙動を描写するために必要な数学的な背景と概念をはっきり与えようとするもの」だったとのこと。
わたしははじめて集合・群・環・体・イデヤアル・ヒルベルト空間・演算子などの概念に接して、びっくりしていた。そしてむさぼるように講義を聴きつづけた。敗戦にうちのめされた怠惰で虚無的な学生のわたしが、一度も欠かさずに最後まで聴講したたったひとつの講義であった。
 吉本隆明は遠山啓に講義をしてくれと依頼にいった学生ではなく、「そんな殊勝な心がけなどすでにひとかけらも持ちあわせていないどん底の落ちこぼれ」だったそうですが、だからこそこの講義に衝撃をうけたのだともいえる、と書いています。
遠山さんには敗戦の打撃からおきあがれない若い学生たちの荒廃をどこかで支えなければという使命感が秘められていて、その情感と世相への批判が潜熱のように伝わってきた。それを理解することが数学上の概念を理解することと同一であった。

 なお、吉本隆明が数学者としての遠山啓に接したのは、「拡張された因子および因子群」の発表を聴きにいったのが最後だったのだそうです。

 私が吉本隆明と遠山啓の関係を意識しはじめたのは、先日も書いたように、さつきのブログ「科学と認識」遠山啓は「かけ算の順序」についてどう考えたか(その1:問題の所在)を読んでからなのですが、あのとき、「どうしてここでフッサールが出てくるんだろう?」と素朴な疑問をもちました。で、吉本隆明の文章にフッサールが出てくるのを知り、そうか出所は吉本隆明だったのかと納得したしだいです。ただし、実際の事情はわかりませんし、話の内容は異なっているようなので、別の文献を参考にされてのことかもしれません。ちなみにあのあとの考察を経て、私はさつきさんとは違う見解に達しました・・・というか、同じ見解には達しませんでした()。

 フッサールが出てくるくだりを中途半端に引用・要約することはためらわれるので、<構造>、<理念>、意識学というキーワードのみを抽出しておきますが、もうひとつ文章も終わりにさしかかったころにeinklammernという単語が出てきます。検索してみると「括弧に入れる」という日本語があてられており、「括弧に入れる」はエポケーにも対応しているようで、エポケーには「判断中止」という日本語も対応してます(西條剛央『構造構成主義とは何か』の関連エントリでちょっと触れました)。

 吉本隆明のイメージの中では、晩年の遠山啓は「新たな視点から数学基礎論の建設に向おうとしているようにおもわれた」とのことで、著書『代数的構造』を引きながらその萌芽について語ったあと、次のように書いています。
数学者たちはつぎつぎに<構造>を融解して新たな構造をつくりだしてゆくにちがいない。だがかれらはじぶんたちが何をしているのかを内省し基礎づけることはありえない。ここで内省とか基礎づけとかいうのは、数学者たちがひとりでにやっているフッサールのいわゆる(einklammern)を解除してみせることに該当している。その内省を介して数や図形の集合の意識学ともいうべきものが<構造>の無限の上昇と、事実や自然の世界とを結びなおさなければならない。
 遠山さんのもっていた哲学と文学の素地は、おのずからその方向をさしているようにおもわれた。

 そしてこう続けます。

あの徒労にも似た強靭な数学教育の方式の創設と実行の背後にあって、遠山さんをささえたのは基礎論の研鑽と整序された構想であったろう。


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栞:http://www.toyo.ac.jp/gs/kiyo/pdf/46/A-01.pdf(p15に「エポケー」あり)
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吉本隆明、遠山啓、量子論、滝山コミューン。

 本日、常体にて。

 このエントリを書こうと思ったのは、遠山啓『文化としての数学』を読み始めた頃だった()。否、話は逆で、このエントリを書きたいがために、『文化としての数学』を手にしたのかもしれない。吉本隆明と遠山啓の関係を意識しはじめたのは、さつきのブログ「科学と認識」遠山啓は「かけ算の順序」についてどう考えたか(その1:問題の所在)を読んでからだと思う()。あのときには「かけ算の順序」問題を考えるために読んだのだが、最後の「注1」のことが心に残っていた。吉本隆明と遠山啓の関係性のみならず、私の中では、そのときの講義が量子論に関わるものだったことが関心ごとだった。

 遠山啓『文化としての数学』の巻末に、吉本隆明の「遠山啓-----西日のあたる教場の記憶」という文章がおさめられている。『追悼私記』(ちくま文庫/2000年)からの転載で、初出は1979年の「海」、原題は「遠山啓さんのこと」となっている。 私はさつきさんの上記のエントリ「注1」の中で「遠山は、何も見失っていなかった」という言葉が心に残っていたこともあり、遠山啓が、自らの意志で、あたりまえのように講義の貼り紙を出したような印象をもっていた。

 しかし、その講義は遠山啓が自らの意志ではじめたものではなく、学生たちに頼まれてのものだと知った。吉本隆明の文中に、遠山啓の回想が引用されている。敗戦後、工場動員にでていた学生たちがぼつぼつ大学にもどってきた頃、大学は荒涼としていてなにもなかった。そんななか数人の学生が、なんでもいいから講義をしてくれと遠山啓に頼みにきたのだ。自分たちは大学に入ったが工場動員の連続でロクな教育を受けていない、だから、講義というものに飢えているのだ、と。遠山啓は、「運よく戦災にもあわず、比較的に余裕もあったので、学生の希望におうじて講義をはじめることにした」という。単位などというものはいっさいなかったが、それでも毎日200名ちかくの学生がききにきて、遠山啓もしぜんと熱がこもって、3時間か4時間くらいぶっつづけに講義したらしい。

講義をきくほうも、するほうもなにかに利用しようという目的もなく、まったく無償の行為だったからであろう。

と遠山啓は回想している。

       *       *       *
 
 結局、私が松丸本舗から(本無しで)連れて帰ってきたのは、岡潔だったと、2日後くらいに気づいた。ブログにエントリを書いたことで、そういうことになってしまったのかもしれない。しかし、まだ岡潔は1冊も何も読んでいない。岡潔不在のまま、また遠山啓を考えることになった。そして、吉本隆明の文章についてのこのエントリの書き方が変わってしまったと思う。

 岡潔を手にするかわりに、なぜか原武史『滝山コミューン一九七四』を手にしている。まだ前半部分の数十ページしか読んでいない。これから読み進めるかどうかわからない。

 1964年生まれ、自称・数教協の落とし子、小5のときの担任は班活動を中心とする独特の学級づくりをする先生だったこと、一時期中学受験に関わる仕事をしていたこと、現在リアルタイムで小学生の保護者である(しかも今年はPTA“実行委員会”のメンバーで議決権をもつ)わが身としては、いくらでも感情移入ができそうな本だけれど、肝心の「場所」が違い、この本に関しては場所の違いは決定的なので、自分自身の回顧録としてこの本を読むことはなさそうだと感じている。

 また、この本に出てくる「水道方式」の説明は的確だと感じるにも関わらず、なぜか距離がある。私にとっての「水道方式」は学校の外にあったことと、原少年と私とは水道方式に対して異なる想いを抱いていたことが関係しているのかもしれない。しかし、やはり「場所」の違いが大きいのだろう。

 それにしても、後半ぱらぱらとめくってみて、最近「自己批判」がマイブームだった自分としては---堤清二とからんだ話原発とからんだ話で---苦笑してしまった。これについてはいずれ、外部をもたない言説の空間とからめて、いずれまたゆっくり考えたいと思う。

 さて、『滝山コミューン一九七四』においては、いくつかの資料や文献に基づいて当時の遠山啓の活動(あるいは人となり)や水道方式の説明がなされているのだが、そのひとつとして、先の吉本隆明の文章から次のような引用がある(p55)。

 東京工業大学で遠山の講義を受けた吉本隆明は、一九七九年に遠山が死去した直後、「数学のような純粋理念の学を研究するにも、なお怠惰のデカダンスや迂回路や落ちこぼれの純粋体験が有効であることを身をもって立証しえている唯一の数学者だったろう」(「遠山啓さんのこと」、『海』 一九七九年十一月号所収)と回想している。


 最初に読んだとき、「なぜここでこれを引用するのだろう?」と素朴な疑問がわいた。

 ここは、“「落ちこぼれ」を大量に生み出していった戦後の公教育に対する激しい反発”としての遠山啓の活動に触れているところで、引用のあとは『わかるさんすう』の編集意図の話へと続く。前からの流れで単純に読めば、“落ちこぼれ”つながりなのだろう。

 その気持ちはわからないでもないが、吉本隆明のこの濃密な文章を、こういう場面でこんなふうに引用するのは、もったいなさすぎないかい?という気持ちを抱いた。

 でも、そのもったいなさすぎることを、私はこれからやろうとしているのだな・・・と思いつつ、エントリを書き始めているのだった。

(つづく)

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遠山啓『文化としての数学』からの抜粋・04

「数学は自然や社会を反映する客観的知識」
   1956年、「数学教育の目標」より
   『講座 学校教育┿賛堯拿蠎、明治図書

 数学について一つの見方が流布されている。それはつぎのようなものである。「数学はいくつかの公理系から導きだされる演繹的で自律的な知識体系であって、帰納をもとにする他の自然科学とは決定的にことなった学問である」と。このような数学観から二つの相反する数学教育観が生まれてくる。一つは数学無用論であり、一つは「数学のための数学」主義である。
 数学が自律的でないことの確かな証拠を与えるのは数学史である。数学史は、数学が他の姉妹科学との複雑な相互影響のもとに発達してきたことを、われわれに教えてくれる。その影響のしかたは、あるときは受動的であり、あるときは能動的だった。


 遠山啓に言わせると、1950年代の生活単元主義は、おおむね上記のような数学観に基づく数学無用論のうえに立ってた、ということらしいのです。たぶん、そうだったのでしょう。1951年の中学校の学習指導要領には「数学を教えるのではない」とのべられているそうですし。その裏には数学にたいする侮蔑がひそんでいる、とも書いています。

 一方、数学至上主義に対しても遠山啓は反対意見を述べており、思考力を練るためだったらなにも数学でなければならないということはないし、論理的に取り扱う力を養うためだったら形式論理学を直接学ばせたほうがよいだろう、としています。

 数学無用論と数学至上主義は正反対の形で現れているけれど、根底にある数学観は同じだ。

 という話に、なるほど納得の私でした。

 私はかつて、遠山啓の主張に2面性、2重構造のようなものを感じることがある()と書きましたが、その最初の部分、「ある人からみれば、遠山啓は学校教育を学問としての数学に近づけようとしたと見えるし、ある人からみれば、遠山啓のせいで学校教育は学問としての数学からかけはなれたものになってしまったと見える」ということも、上記の遠山啓の数学観をふまえて考えるとわかりやすくなります。

 遠山啓は、どのように整然とした公理系がうち立てられたにしても、その公理系は自然を深く反映するようにえらばれている、数学は決して形式だけの学問ではなく、形式と内容を兼ね備えた学問なのである、と語っています。

 という遠山啓の数学観が、「量の理論」につながっていったのでしょう。

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遠山啓『文化としての数学』からの抜粋・03

「数学も時代の支配的イデオロギーに規定される」
   1969年、「数学の社会的役割」より
   『数学と社会と教育』所収、国土社

たとえば幾何学でいう「点」の概念をとりあげてみよう。「点」は高度の抽象の抽象を経て創りだされたものであって、それは感性によってとらえられるような実在ではない。だから目の前にある机が実在するように実在するものだとはいえない。そのようなものを出発点とする幾何学は、ある意味では一つのフィクションであるし、架空の絵空事ともいえよう。しかし、ある意味ではこの絵空事が客観的な世界を解明していくのに欠くことのできない武器ともなるのである。
 このように抽象という人間の精神活動そのものが、強い方向性をもっており、それがその時代の社会の支配的な思考方法に深く影響されるであろうことはむしろ当然すぎることであろう。
 
ガウスもコーシーもおそらく、自由に考え自由に研究を進めていったと自分では信じていたにちがいない。しかし『西遊記』の孫悟空が自由に天地をかけめぐっていたと思ったのに、実はお釈迦様の掌のなかを動きまわっていたにすぎなかったというように、ガウスとコーシーが逃れることのできなかった掌こそ、われわれにとって興味のあるものなのである。

 「わたし」を知ろうとする作業の半分は、「わたしがのっている掌」を知ろうとする作業なのかもしれません。私は、私ではない数学者たちがのっていた掌のことも知りたいし、いま現在、私がのっている掌のことも知りたいです(たとえば日常生活レベルでこんなことを考えたり>時代と個人/シンプルライフ志向の考察は少しは進んだかな?)。掌にのったまま、その掌を知ることはできるだろうか? もしできなくても、掌にのっているということを忘れないでいたい。
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遠山啓『文化としての数学』からの抜粋・02

「数学は学問的に孤立する危険をもつ」
    1970年、「数学教育の位置づけ」より
    『数学と社会と教育』所収、国土社

(数学の普遍性と歴史性に関連して)
・・・。答えが同じであるということは決して超時間、超空間的であることを意味しないのである。
 数学が人間と社会とによる知的活動の歴史的産物であるとすれば、当然数学は孤立したものではなく、文化全体の有機的構成部分であって、文化の他の分野との緊密な連帯性をもつ。この連帯性は今日とくに強調しておく必要がある。なぜなら、数学は常に孤立する危険をそれ自身のなかに内包しているからである。とくにヒルベルトの『幾何学の基礎』(一八九九年)によって明確な形を与えられた現代数学にとってはとくに重要なことである。
数学は人間のためにあるのであるから、その逆ではない。
(中略)
 そうかといって近視眼的な実用主義をここで主張しているのではない。数学にかぎらず科学はたんに応用によって物質的な幸福を人間にもたらすために偉大なのではない。そのようなものはなくても、人間の視野を拡大し、不必要な恐怖心をとり除いてくれるという点でもまた偉大なのである。

 生活単元学習批判をしていた頃の遠山啓の目に移るプラグマティズムは、近視眼的で卑近な実用主義以外の何物でもなかったのかもしれませんね。実際、当時の日本の“経験主義”はそうだったのかもしれない。

 そして、1960年代の活動を経て、1970年頃の数学教育の現代化とも関連して、遠山啓は上記のような文章を書いたのだろうと思います。

 上記の遠山啓の言葉からもわかるように、汐見稔幸先生の「遠山啓の現代化」分析は、ちょっと違うのです。そして、宮下英明先生の遠山啓批判も、違うのです。

 汐見先生の分析の何が違うかについては、私が思う遠山啓の「量の理論」と「現代化」の関係に書きました。

 宮下先生については、数学そのものを固定されたものとして考えておられるところが、遠山啓の数学観および私の数学観と決定的に違います。

 以前、私が思う遠山啓の「量の理論」の根本思想を3つの項目にまとめましたが、遠山啓の著作を読めば読むほど、その思いを強くしています。ただ、「2」や「3」は、もう少し別の言い方があるのではないか、もっと適切な表現があるのではないか・・・と(もしかしたら「1」も)、その表現を模索している最中です。
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遠山啓『文化としての数学』からの抜粋・01

 遠山啓『文化としての数学』(2006年光文社文庫/1973年国民文庫・大月書店刊)を読んでいます。

 冒頭「文化としての数学」より

 数学が、さらに広くいって自然科学が人間の自由な想像力とは無縁である、という誤解を生みだしたものは、これまでの数学教育、自然科学教育であるといっても過言ではない。既成の知識をできるだけ多量につめこむことにのみ力を注ぎ、それらの真理が多くの誤謬を犯しながら獲得されたという過程を子どもたちに追体験、もしくは拡大的に再体験させるという不可欠な手続きを抜かしているからである。

 数学教育協議会が目指した系統学習において、上記のような、子どもたちが追体験する、もしくは拡大的に再体験する数学教育は可能だったろうか。

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