TETRA'S MATH

数学と数学教育

マクタガートのもうひとつの再反論と、いちばん言いたいこと

 「未来・現在・過去」は両立不可能なのに、A系列では1つの出来事がこれらの排他的な性質をすべてもっていなくてはならない。なので、「未来・現在・過去」で時間を把握しようとするA系列は矛盾している、というのがマクタガートの主張でした。

 これに対して、「未来・現在・過去は、1つの出来事が同時に一挙にもつ性質ではなく、継起的にあらわれるのであり、出来事は、未来・現在・過去という3つの性質をもっているのだ」という反論が考えられます。

(1) 出来事Mは、(今は)未来であり、(これから)現在となり、過去となる。
(2) 出来事Mは、(かつては)未来だったが、(今は)現在であり、(これから)過去となる。
(3) 出来事Mは、(かつては)未来だったし、現在だったが、(今は)過去である。

 マクタガートは上記のような書き換えをとりあえず受け入れて、さらにこれを次のように言い換えます。(なお、本では番号は丸付になっており、「´」はありませんが、ここでは私の判断でつけ加えてみました。)

(1)´ 出来事Mは、現在の時点では、未来であり、未来の時点では、現在となり、もっと未来の時点では、過去となる。
(2)´ 出来事Mは、過去の時点では、未来であり、現在の時点では、現在であり、未来の時点では、過去である。
(3)´ 出来事Mは、もっと過去の時点では、未来であり、過去の時点では、現在であり、現在の時点では、過去である。

 つまり、(1)´(2)´(3)´は、(1)(2)(3)の「これから」「今は」「かつては」を、「未来の時点では」「現在の時点では」「過去の時点では」に言い換えたものになっているというわけです。

 このあと、図を駆使して、「回避しようとしてもしようとしても、この論法は繰り返しA系列を導入するものでしかない」ことの説明(無限後退に追い込む再反論)が丁寧になされていますが、その丁寧な説明をきくまでもなく、上記の(1)´(2)´(3)´の言い換えを読んだ段階で私は納得してしまいました。

 循環と無限後退に分けなくても、要は、「どのような反論も、時間の成立そのものを根拠あるいは前提にしているということを、いろいろな形で再反論できる」ということなのではなかろうか。

 というわけで、マクタガートの時間の非実在性の証明ステップ

ステップ1: 時間の捉え方には、A系列とB系列の2種類ある。
ステップ2: B系列だけでは、時間を捉えるのに不十分である。
ステップ3: A系列が、時間にとって本質的である。
ステップ4: A系列は、矛盾している。
ゴール: 時間は実在しない。

のうちの、ステップ4まできました。ステップ4からなぜゴールにいけるか(実在の「無矛盾性」)、あるいは実在の「現実性」についてはまだきちんとおさえていませんが、とりあえずおいといて、マクタガードの『存在の本性』からの引用の一部を読んでみたいと思います。
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「過去・現在・未来」の矛盾

 入不二基義『時間は実在するか』 (講談社現代新書)を読んでいます。第二章がだいたい終わったので、きょうから第三章に入ります。そのまえに、もう一度、マクタガートの「時間の非実在性」の証明のステップを確認しておきます。

ステップ1: 時間の捉え方には、A系列とB系列の2種類ある。
ステップ2: B系列だけでは、時間を捉えるのに不十分である。
ステップ3: A系列が、時間にとって本質的である。
ステップ4: A系列は、矛盾している。
ゴール: 時間は実在しない。

 これまで、ステップ1、2、3をざっと眺めてきました。いよいよステップ4です。これがね、なかなか大変(^^;。最後まで話を聞く前に突っ込みたくなってしまう。しかし、マクタガートも予想される反論は予想しており、それへの再反論も用意しています。

 なぜ、A系列は矛盾するとマクタガートは考えたのか。

 出来事が特性としてもつ「過去である」「現在である」「未来である」は、同時に2つ成り立つことはできない。なのに、出来事それ自体は、「過去である」「現在である」「未来である」の3つの性質をすべてもっていなくてはならない。出来事は、両立不可能である3つの性質をすべてもっていなくてはならない。だから矛盾だ。簡単に言えばそういうことのようです。

 「・・・・・・え?」

 と思いますよね、普通。

 出来事は何も同時に一挙に、「未来である」「現在である」「過去である」という特性をもっているわけじゃない。未来のときは未来だし、現在のときは現在だし、過去のときは過去だし。だから変化を捉えられるってマクタガート、あなたが言ったんじゃなかったっけ?

 青と黄色と赤は排他的なものだけれど、「信号は青である/信号は黄色である/信号は赤である」はどれも成り立つわけであり。

 という反論に対して、マクタガートは次の2つの方法で再反論してきます。1つは「循環」に追い込む方法、もう1つは「無限後退」に追い込む方法(らしい)。
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「前後関係」の中にすでに時間が含まれている

 考えてみれば、「出来事の前後関係」のなかの前後というのは、時間的な前後のことなのだから、すでにここで時間の概念を使っていることになりますね。

 で、C系列登場。C系列というのは、時間的な方向性をもたない秩序のことで、「1、2、3、4、5」と「5、4、3、2、1」を同じ順序とみなすような系列の考え方なんだとか。なんだかこれって数学で扱えそう。「3、2、1、5、4」はどうなるんだろう?と考えたのですが、のちのちB系列にからむことを思うと、出来事を限定して考えることはできないのでしょうね。「・・・,1,2,3,4,5,・・・」と「・・・,5,4,3,2,1,・・・」で考えなければいけないのだろう(とは書いていないけれど)。そうなると、方向性は2通りしかないので、大した違いを感じないのだが・・・ 大きな違いといえば違いだが・・・

 マクタガートがいうには、こちらのC系列こそが実在であり、その実在の秩序が時間というスクリーンに投影されることによって歪んだ姿で映し出されたのがB系列ということらしいのです。そして、C系列とA系列は何かから導き出されるものではないという意味で究極的であり、それに対してB系列は派生的なものである、と。C系列とA系列が接触することで、B系列が派生するというわけです。

 「M、N、O、P」にしろ、「P、O、N、M」にしろ、このなかの項目のどれか(たとえばN)が「まさに今現在である」というふうに特権化され、その移動方向も与えられて、「かつて現在であった」側と「これから現在になる」側の2つができると、無時間的な秩序に方向性をもった時間的な変化が組み込まれ、時間的な順序が成立する・・・という話のようです。

 思えば郡司さんが「前後」ではなく「因果」という概念を使っていたのが、いまとなってはよくわかる気がします。
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時間と変化についてラッセルはどう考えたのか

 入不二基義『時間は実在するか』の第二章を読んでいます。

 1つの出来事も、出来事どうしの関係も、固定的で永続的なものである。しかし、出来事に1つだけ変わる特性があり、それがA特性(未来である/現在である/過去である)である。つまり、A特性のみが出来事に「変化」を与える。したがって、時間にとって本質的なのはA系列(過去・現在・未来)だ。というふうに、マクタガートは考えたようです。

 これに対して、A系列は時間にとって必ずしも不可欠ではないという反論もあり、その反論が3種類に分けて示されています。

  A系列の消去を考える議論
 ◆_誘の話における時間を考える議論
  複数の実在する時間を考える議論 

 ◆↓は今回は割愛して、,世韻里召い討澆泙后ここでは、時間と変化についてのラッセルの見解が示されています。ラッセルのことよく知っているわけじゃないんだけど、それでもなんとなく、ラッセルらしいなぁ〜なんて思っちゃいました。

 ラッセルは、A特性(未来である/現在である/過去である)を、B特性(より前である/より後である)に置き換えようとしたらしいのです。


 ある出来事Eが「未来である」。
  →そのように意識したり発話するという出来事「より後」に、
     出来事Eがある。

 ある出来事Eが「現在である」。
  →そのように意識したり発話するという出来事「と同時」に、
     出来事Eがある。

 ある出来事Eが「過去である」。
  →そのように意識したり発話するという出来事「より前」に、
     出来事Eがある。


 たとえば「源義経の死」で言えば、次のようになります。
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なぜ、出来事の系列だけで時間は語れないのか?

 マクタガートが言うところの「時間の非実在性」について考えています。A系列、B系列をざっとおさえたところで、次なるステップ、「B系列だけでは、時間を捉えるのに不十分である」ということについて考えます。

 B系列というのは出来事の前後関係をもとにした系列でした。「財布と桜」もB系列の図だといっていいのだと思います。ここには、過去・現在・未来はありません。で、なにゆえこのB系列だけで時間の核心を捉えることができないとかというと、時間にとっては「変化」が本質的なものであり、その「変化」をB系列では説明できないからだ、とマクタガートは考えたようです。

 B系列というのは出来事の前後関係であり、その前後関係は固定されていて変わりようがないので、系列も固定されたもの、つまりは静的なものである。だから、B系列で変化は語れない。

 そんなことはないだろう、B系列だけでも変化は説明できるだろう、と思って試そうとすると、いつのまにかA系列を取り入れてしまっていることに気づきます。

 たとえば、TETRA'S MATH のエントリを出来事と考え、SELECTED ENTRIES をB系列としてとらえると、そこには日々エントリが増えていくのだから変化するじゃないか、しかも一定数しかエントリは示されないので、1つ増えては1つ消えていて、変化しているじゃないか、と私は考えてみました。しかしそれは言ってみれば「SELECTED ENTRIES を部分的にスライドして見ている」ということであり、現在トップページに示されている10個のエントリを「現在」と考えているようなものなのだと思います。B系列というのは SELECTED ENTRIES の並びそのものなのであり、出来事の前後関係が固定されている以上、その並びそのものは変化しないし、永続的なものである。

 ちなみに『時間は実在するか』では別の例を使って、別の方法で説明がなされているのですが、私は上記のように考えてみました。

 B系列だけで「変化」は捉えられない、ということには納得です。というか、ハナから納得しています。

 ここの段階で、マクタガートが「実在」に関してはアウグスティヌスの系譜に属するという意味がわかったような気がします。また、郡司ペギオ−幸夫『時間の正体』が前より読みやすくなるだろうということも感じています。

 B系列って、出来事の順序関係すべてなのですよね。SELECTED ENTRIES でいえば、まだ書かれていないエントリも含めての系列なのだろう。それをだれかが-----  神様? 超越者? -----遠くから見ている図。B系列にはそういうイメージがあります。そこには、生起も消滅も変容もない。
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クオリア日記にリンクがあった

 もう10日も前ですが、茂木健一郎さんのクオリア日記「月並会」第一回テーマに 

   McTaggartのThe Unreality of Time
   http://www.ditext.com/mctaggart/time.html

のリンクが貼ってあることにさっき気づきました。わーい。

 郡司ペギオ幸夫からのメール。は検索で見つけて読んでいたのに、あのときトップページに行くこと思いつかなかった。九鬼って、九鬼周造かな? 全然ちがう?

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マクタガートのA系列・B系列をブログのエントリで考える

 入不二基義『時間は実在するか』を読んでいます。第一章をざっとながめて、次は第二章、いよいよマクタガートによる時間の非実在性の証明に入っていきます。

 第一章では、「実在」とは何かについて3つの項目で示されていました()。単語でまとめると、「本物性」「独立性」「全体性」となります。そして、マクタガートの「時間の非実在性」の証明を考えるときには、これに新たな2つの項目が加わります。「無矛盾性」と「現実性」です。

 マクタガートの証明がどのように進められるのか、4つのステップに分けて示されているので、まずはそれを頭に入れておきます。

ステップ1: 時間の捉え方には、A系列とB系列の2種類ある。
ステップ2: B系列だけでは、時間を捉えるのに不十分である。
ステップ3: A系列が、時間にとって本質的である。
ステップ4: A系列は、矛盾している。
ゴール: 時間は実在しない。

 となると、最初にすることは、A系列、B系列とはなんぞや、ということをおさることなのですが、それはいいのだけれど、郡司さん(『時間の正体』第5章)も入不二さんもBから説明しているのです。A、Bときたら普通はAから始めるものなんじゃなかろうか。でも、実際、Bからのほうが説明しやすいのだと思います。そもそもマクタガートが、AとBを逆に記号づけしてくれればよかったのになぁ・・・なんてことも思ってみたり。ステップ2で先にBを出しているのだし。でも、ステップ3によるとAのほうが本質的ということらしいので、そういう意味でこっちにAをつけたのかな? いっそのことA、Bじゃなくて他の名前にしてくれればよかったのになぁ・・・と思ってみたり。ちなみにあとでCも出てきます。

 とまあ、記号の話はとりあえずおいといて、A系列、B系列がどのようなものであるかを、私なりの理解で示してみたいと思います。私もB系列から始めます。←おまえもかいっ^^;

 B系列というのは、2つの出来事の前後関係(より前・より後・同時)をもとにした出来事の系列です。たとえば、 TETRA’S MATH の1つ1つのエントリを出来事と考えると、

「入不二基義 『時間は実在するか』」(2/26)は、
「ヘテラルキーってなんだろう?」(2/25)より後だし、
「アリストテレスとアウグスティヌスの「実在」の違い」(2/27)よりも前です。

 つまりは、右サイドにある「SELECTED ENTRIES」の並びそのものがB系列になっています。 
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アリストテレスとアウグスティヌスの「実在」の違い

 アウグスティヌスについては、永遠の、いま私が思う遠山啓の「量の理論」と「現代化」の関係というエントリで少し触れました。遠山啓『量とはなにか−機戮らの引用・要約として。カントールが実無限のよりどころを哲学に見出そうとしてたどりついたのがアウグスティヌスの「永遠の、いま」だった。つまり、カントールの集合論は、アリストテレス流の“可能的無限”のかわりにアウグスチヌス流の“実無限”を導入したことから始まったものだ、という話です。

 入不二基義『時間は実在するか』第一章では「実在」の意味が3つに分けて書かれてあります。第一の意味は、「単なる見かけ(仮象)ではなくて、ほんとうに存在しているもの」という意味。第二の意味は、「心の働きに依存せず、心の働きから独立に存在するもの」という意味。そして第三の意味は、「一挙に成立している完全なる全体である」という意味。単語でまとめれば、本物性・独立性・全体的ということになります。ゼノンのパラドックスは、第一の意味においての時間の非実在性を示す試みとして出てきます。

 そして、アリストテレスもアウグスティヌスも、どちらも上記の第二の意味においては、時間の非実在性を主張していたようです。つまり、時間は心の働きに依存するものであり、心の働きから独立には存在しない、と。

 ただし、アリストテレスは、心の働きによって分節化されなくても、基体としての運動(動き・変化)は存在すると考え、一方、アウグスティヌスは、神の「永遠」こそが、ほんとうの姿(実在)であると考えたのだとか。つまり、アリストテレスは、心の働きから独立してそれ自体である「実在」を、運動という流動的なものと考え、アウグスティヌスは、時間という仮象の向こう側の「実在」を、神の永遠という無時間的なものと考えていた。

 というアウグスティヌスの実在観からは、上記の第三の意味での実在(全体性)を取り出すこともできます。
 
 入不二さんが言うには、マクタガートはこの点に関して、アリストテレスではなく、アウグスティヌスの系譜に属するのだそう。なぜならば、マクタガートは「実在」を流動的なものとしてではなく、無時間的で永遠的なものと考えているから。あらま、そうなんだ。
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入不二基義 『時間は実在するか』

 もしかしてわからないのは内部観測ではなく、マクタガートのA系列、B系列なのだろうか? (第5章に説明はあるようですが)

 そういえばマルコポーロさんも一応原典にあたったので、マクタガートの理論にも、郡司ペギオ−幸夫を経由せずに一度触れておきたいと思います。と言っても原典ではなく、入不二基義『時間は実在するか』(講談社現代新書/2002年)。

 オープニングを読んでまず思ったことは、入不二さんは、マクタガートが好きなんだろうか、嫌いなんだろうか!?ということでした。普通に考えると、嫌いだったらこういう本は書かないし、好きだからこそこだわっていると思うのですが、この本はマクタガート『時間の非実在性』の徹底的な批判の書と言ってもいいようなのです。もちろん、批判の前には検討があるわけですが。

 ・・・でもね、「内側から」の検討・批判なんですって。内側からの検討・批判と外側からの検討・批判って、どう違うのだろう? なんとなく雰囲気はわからないでもないけれど。

 さらには、マクタガートの証明の「失敗」に価値を見出すような書き方もしてあります。
しかし、その証明は、「失敗」を抱え込むことによって、少しも価値は下がらない。むしろ、その「失敗」こそが固有の価値であり、時間についての新たな思索へと通じる開口部に他ならない。
 それは、先人の失敗に学んで、私たちは同じ失敗を繰り返さないようにする、という話とはまったく違う。「失敗」を避けるのではなく、自ら「失敗」を反復し味わい凝視して、その意味をよく考えていると、その「失敗」そのものがちがった風に見えてくるというのに近いだろう。
 
 やっぱ好きなんだろうな。(^^)

 章構成をのぞいてみると、第一章はマクタガートの論文には出てこない人たち、つまりマクタガートから遠くはなれた人たちが、時間の非実在性をどのように考えてきたのかを参照してあり、ゼノン、アリストテレス、アウグスティヌス、ナーガールジュナ(龍樹)、山田孝雄が登場します。第二章はマクタガートの論文「時間の非実在性」の前半部分の解説、第三章は後半部分の解説。第四章はマクタガートの証明の徹底的な検討・批判、第五章は入不二基義さん自身の見解、「時間は実在するか」という問いに対する一定の解答を示す、という内容になっています。

 で、まずは、第一章のいちばん最初の部分、ゼノンのパラドックスとそれに対するアリストテレスの批判をごく大まかに読んでみることにします。
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