TETRA'S MATH

数学と数学教育

「担体」という言葉/郡司さん&松野さんのあとがきから

 郡司ペギオ−幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』のあとがきは、次の3行で締められています。

 時間から時計を発想する。そうすることで、本書で見出したようなデジャブや因果関係の逆転知覚の構造が、分子レベルの現象にさえ見出せるだろう。それは、物質現象の中に或る種の時間を知覚する主体、変化を認識する観測担体を見出すことに他ならない。

 いつもならば「主体」という言葉に反応しそうな自分ですが(実際、したけれど)、この場合はどちらかというと「担体」という言葉に反応してしまったのでした。

 「担体」というと、松野孝一郎『内部観測とは何か』のあとがきを思い出します。本自体は2000年に発行されているのですが、松野孝一郎さんは1971年のメモ書きを転記してあとがきに替えておられます。このあとがきは切ないです。切実です。切ないですが、松野孝一郎さんの文体が硬質なので、変に情緒的ではありません。まず、書き始めはこんな感じです。

 ものを言うことを志すことは「私」にとって否定し得ない一つの事実であり、現象である。この意志の表明を行う「私」を当の主観自らが観想するとき、完結しない不全さがあることに気づく。ものを言う、との行為は意志を担う基体があって初めて可能となることがらである。だが、その意志の担体としての「私」はどうしてその担体になりうるのか? しかもこの問いかけは、子供がないものねだりをしているのと、どこが違うのか?

 そして、書き終わりはこんな感じです。 
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ズッキーニ/ラタトゥイユ/内部観測/数学

 お店で野菜たっぷりのパスタを食べていて、その中に緑の縁のある薄色の半月切り状のものを見つけて、それがなんであるのか認識できなかったとします。食べてみても、味がするんだかしないんだかよくわからない。食感もなんと表現していいのかわからない。どう考えてもきゅうりじゃないし、ナスでもない。野菜ではあると思うけど、何かしら、これ・・・ 

 過去の記憶をたどりながら考えこんでいても結局わからないので、向かいの席で同じ料理を何も気にせずパクパク食べている友達に、「これ、なんだろう?」ときいてみます。友達は「ん?」と彼女がフォークにさした半月切りの野菜を見て、こともなく答えます。「ズッキーニじゃん」と。しかし、きいた彼女は反応がいまひとつ。「ラタトゥイユとかによく入ってるやつだよ」 悲しいかな、質問した彼女はラタトゥイユがすでにわからない・・・

 それが彼女のはじめてのズッキーニ体験、ラタトゥイユ体験でした(ちなみに、この彼女は私でもなくモデルとなる知人がいるわけでもなく架空の人物です、はい^^;)。

 彼女は数日後、スーパーの野菜売り場で、キュウリより少し太い緑色の細長い野菜を見つけ、そこに「ズッキーニ」と書かれてあるのを見つけます。これまでとおりすぎていた売り場でした。「ああ、これがズッキーニなのね。切る前はこんなんなんだ」 それが彼女の2度目のズッキーニ体験でした。

 ちょっと買ってみたくなった彼女はズッキー二を購入してCOOKPADを見ながらラタトゥイユを作りました。これが彼女の2度目のラタトゥイユ体験でした。はじめてにしてはなかなかおいしくできました。そして、同じレシピで、いろいろな人がいろいろなラタトゥイユ体験をしていることを知ります。

 それからしばらくズッキーニと縁がなかった彼女ですが、約1年後に、知り合いから自宅で作ったというズッキーニを数本もらいました。そのズッキー二は黄色でした。彼女は首を傾げます。「ズッキーニって緑色じゃなかったっけ・・・?」  知人は答えます。「黄色いのもあるのよ。うちではよくカポナータにして食べている」と。彼女はさっそく、「カポナータ」を検索します。そしてまた首を傾げるのでした。「ラタトゥイユとカポナータって、どうちがうんだろう・・・」

       *       *       *

 なんでこんなことを考えているかというと、そろそろ・・・というかものすごく久しぶりに郡司ペギオ−幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』の続きを読もうとしていて、「第4章 内部観測からA系列・B系列へ」を読み始めたら、やっぱり「内部観測」という概念自体がなかなかつかめずに中身が頭に入ってこなくて、うーんうーんとうなっているときに、まさにその「内部観測という概念」という対象Xに対して、私が経験を積んでいないからこういうことになるのではなかろうか?と思ったしだいなのです。しかも、内部観測という言葉がさすところは、私はもう十分に体験ずみというか、日々やっていることなのだろう、というところまでは察しがつく・・・にも関わらず、です。

 内部観測をできるだけ正しく理解したい。松野孝一郎さんは、この概念で何を伝えようとしているのか。郡司ペギオ−幸夫さんは、この概念を使って何をしようとしているのか。ということを理解するために。というときの、正しい内部観測とはなんであるか。ズッキー二がズッキー二であることがわかるように、私は内部観測を自分の中に取り入れる日がくるのか。正しいズッキー二の正しさとは何か・・・

 で、ついでにこんなことも思いました。「数学」だって、同じかもしれないなぁ、と。
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外延量の総和と現在完了形

 松野孝一郎『内部観測とは何か』>「強度を経験する」においては、(私の読み落としでなければ)次の一行(p82)ではじめて外延量という言葉が出てきます。
 測度世界に固有な事態とは完了した経験がそこにあり、それが対象として外延量化されているということであって、時間、空間の無限分割性とは無縁である。それだからこそ、時間、空間を計測するのにこれより小さい単位はないという量子最小単位を想定することすら可能になる。この想定が可能であるのは現在完了形を不用意に現在形に接続することをしないからである。
 そうしてこのあと、エネルギー保存則の話になっていきます。エネルギー保存の法則かぁ、懐かしいです。…というほど覚えてもいないのだけれど。

 エネルギー保存則とは、ウィキペディアの言葉でいえば「ある閉じた系の中のエネルギーの総量は変化しない」という法則であり、松野孝一郎さんの言葉でいえば「経験が完了した各時点において、測度世界内でエネルギーと呼ばれる外延量の総和は不変に留まること」を言い表す法則ということになります。このブログでこれまでとりあげてきた外延量は遠山啓の教育論においての外延量であり、それは、「量の背景にある物体を合併したとき加法が結果する」という意味での“加法性”がある量のことでしたが、エネルギー保存則には総量とか総和という概念が出てくるので、確かにそれは加法性が前提になっているのでしょう。

 ところで。エネルギー保存則ってどんなんだったっけ?
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「現在」はどちらの世界に属するのか

 測度世界は刺激強度の感受、観測が完了してから初めて現われるので、それを表現する言語形式は現在完了形になります。一方、強度世界の場合は、ある質料がその外界からの刺激を強度として感受しつつあるという事態が基本になるので、それを表現する言語形式は現在進行形になります。しかも、強度世界での刺激の感受は常に時間、空間に関して局所的となる、というわけです。なるほど、内部観測のイメージがだいぶつかめてきました。

 では、「現在」はどちらの世界に属しているのか?

ゼノンが明かしたのは、今現在が測度世界に属しているとすると時間、空間は無限に分割されることになり、そのことによって逆に測度世界に取り返しのつかない不都合をもたらす、とするものであった。

 測度世界が成り立つのはあくまでも完了という事態があっての上なので、今現在が帰属するのは測度世界ではなく強度世界の方だ、と話は続きます(確かに、完了していたらそれは現在ではないような気がするな…)。となると、今現在の表現を行う言語形式は現在形なので、現在形と現在完了形との関係はどうなるのか?という疑問が出てくるというわけです。
そこに強度世界由来の現在進行形がからんで来る。
 で、「外延量」が登場。
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強度世界と内部観測、ゼノンの告発

 たとえば力学においては、
その経験判断を器機観測、すなわち対象の外部から物理学者が行う外部観測に委ねる。器機観測は周りからの影響(強度)を測度(可測な量、すなわち計器盤上での目盛り読み取り針の振れの大きさ)に変換することから成り立つ
わけですが、言ってみれば「強度」というのは、周りからの影響、外界からの刺激の度合いのようなものだと考えればいいのだと思います。

 たとえば感覚受容器を持つ生物個体は外界からの刺激とその刺激の強度を感受することによって生存し続ける。
(きのうもリンクした「数のまえに量がある」by遠山啓が思い出されます)

 バクテリアといえども、自分の好物であるグルコースを見分けることが出来、その濃度の高い所に向かって進んでいく。
銀林先生がユクスキュルを引用していたことが思い出されます)

 その刺激の感受は生物だけに限られない。電荷を持った粒子、たとえば陽子は外から印加された電界を感受し、そのことによって陽子の運動が加速されるし、磁気モーメントを持つ鉄原子は外から印加された磁界を感受して、その磁界モーメントを加えられた磁界の向きに揃えることを行う。

 ゼノンも陽子も、外界からの刺激を強度として感受する。
違いは何を刺激と見なしているのかに関わる質に関してのみである。
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強度世界と測度世界

 松野孝一郎『内部観測』のなかに、「強度を経験する」という一章があります。タイトルには特に興味を惹かれなかったのですが、とりあえず読んでみようと思って読んでいたら、「ああ…私はこの文章を読むべくして読んでいるんだなぁ…」という感覚におそわれました。そして、この文章には10年前に出会うチャンスがあったのに、読めるようになるまでには10年という年月が必要だったのだなぁ、とも思いました。

 アキレスはカメを追い越せないわけで、「量」「質」という言葉が出てきたときに、なんとなく予感めいたものがあったような気もしないでもないですが、果たして「強度を経験する」では「外延量」「内包量」という言葉が出てきます。

 まずは、「強度世界」と「測度世界」について。
むしろ、ゼノンがあばいたのは測度世界の不都合さ、グロテスクさであって、それから間接的な仕方で図らずも強度世界にわれわれの注意をうながすこととなった。
という話。以下はp78〜79の一段落の要約です。
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唯名論は同時共在を強要する・・・のか?

 AさんとBさんが対話をしているとき、AさんとBさんは相互作用を起こしていることになるわけですが、はてさてアンドロメダ星雲や銀河系星雲の場合はどうかというと、たとえば地球に設置された望遠鏡が感受する光は、約200万光年前に発せられたものであり、それは約200万光年前のアンドロメダ星雲の姿なので、対話のときとは相互作用の在り方が違うように感じられます。

 しかし、経験世界に出現したある対象に「銀河系星雲」と名を与え、別の対象に「アンドロメダ星雲」という名を与えて、2つの間に相互作用を認めると、「銀河系星雲」と「アンドロメダ星雲」という2つの対象の同時共在までも保証する…と松野さんは語ります。
複数の対象にそれぞれ名を与えたとき、名づけ親は名づけられた対象の外側に立ち、それらを同時に一望のもとにおさめることが出来るとする特権、あるいは錯覚を正当にも獲得する。
なるほど。

 で、ここで登場するのがライプニッツの単子論、モナドです。
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言語を介在させない内部観測

 内部観測の事例2つめは、「(その2) 銀河系星雲がアンドロメダ星雲を見る」です。これも面白い話です(と言えるくらい、10年前よりはこの本が読めるようになったらしい)。

 望遠鏡を使って、銀河系から約200万光年離れたアンドロメダ星雲を見るときの映像は、星雲から約200万年前に発せられた光子が地球の周りに設置された望遠鏡の受光素子を感光させることによって結像するものであり、ここに観測がなされる…というところから話は始まります。
観測にとっての基本は互いに作用し合う物体があって、そのうちの一方が他方に働きかけてたとえ僅かであってもそれを拘束、制約することにある。その拘束のされかたによって拘束された方が拘束した側を同定する。
 なるほど。先の「対話」の例でいえば、Aさんが何かの説明をしたときに、BさんはAさんの説明の中から問題となる案件を抽出するわけですが、それはつまり、BさんはAさん(の説明)に拘束されるということであり、BさんはAさん(の説明、あるいは抽出した案件?)を同定するということになるのでしょう。そうして、Bさんが抽出した案件について説明を始めると、それをきいているAさんはBさんの説明の中から問題を抽出し、AさんはBさんに拘束されて、Bさんを同定する……ということの、際限のない繰り返し。対話が続く限り。
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「対話」と「観測」

 松野孝一郎『内部観測とは何か』を読んでいます。書籍の章立てとしては6つめ、文章としては最初に書かれた「運動体としての生態系」の前半を読むうちに「同定」という言葉が気になりはじめ、「序章 内部観測とは何か」にもどってきました(移ってきたと言うべきか)。

 内部観測とは何であるか、についてはきのうのエントリに書きましたが、序章では、その内部観測が出現する現場として、5つの事例が示されています。

 その最初の事例である「(その1)一言、私の言い分もつけ加えたい」を読むと、内部観測というときの「観測」とはいったいどういうものかがなんとなくわかってきます。
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「同定する」という行為と、内部観測

 デカルトの運動論の難点は、延長体としての物質の各部の相互関係の同定の最中に相互関係が変化することを禁止していないことでした。そして、その難点を“見かけ上”克服したのがニュートンの対空間微分運動でした。克服はしたけれども、支払った代償が、質の変化を伴う運動の放棄だった、と。
 デカルトにとっての物質の相互関係運動をニュートンの対空間微分運動に翻訳、変換してしまうと、延長体としての物質の各部は絶対空間内で質を不変に保つ運動体に擬せられてしまう。延長体の各部が質点に置き換えられ、その質点の集合体として運動が記述されることになる。デカルトの相互関係運動をニュートンの対空間微分運動に翻案してしまうと、物質は点の集合に置き換えられ、かつこの集合はその質において恒存、不変と化す。
 ところで、「物質の各部の相互関係の同定」というところの「同定」とは、いったいどのような行為をさすのでしょうか。

 同定という用語は、生物の分類学や分析化学において使われるものらしく、生物の種名を調べたり、物質の種類を決定する行為を指すようです。「物質の同定」などで検索をかけると、興味深いページがひっかかってきます。

 私が「同定」ときいて思い出したのは、サリン事件のことでした。「サリン 同定」で検索をかけると、角田紀子さん(科学警察研究所法科学第三部)()の「サリン事件と質量分析」という論文などが読めます。

 また、アメリカのテレビドラマ「ER緊急救命室」の一場面も思い出しました。中毒症状を起こしている子どもを診察している小児科医が、おそらくその中毒物質をその子どもに飲ませた(?)であろう別の子どもに、何を飲ませたのかをきくために詰め寄るシーンです。記憶が曖昧なのとあまりにたくさんの場面を見たので話をごっちゃにしている可能性はありますが、とにかく中毒症状からだけでは物質が特定できないことと、命を救うための対応をするにはその物質を特定しないとどうにもならないということが、印象に残っています。

 同定という行為はおそらく、対象が何であるかを調べ、それの種別を決める(あるいはそれが何であるのかを表現する)行為をさすのでしょう。

 で、この「同定」という言葉は、内部観測とは何であるのかを簡単まとめた、この本の冒頭の数行にも出てきていて、本の表紙の文章にも書かれています。つまり、「同定」という言葉は、内部観測の定義…と言ってしまわないほうがいいと思いつつとりあえず言ってしまう…に直結する概念だと思います。
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