TETRA'S MATH

数学と数学教育

客観的な出来事系列と主観的時間系列の調停

 下図(1)のような出来事系列があります。

 黒丸は出来事を示しており、それぞれの出来事が因果関係によって結ばれています。

   

 この系列において、下図(2)の紫の点を現在と指定すると、赤枠が過去となります。この過去をもとにして出来事をグルーピングすることを考えます。  

    

 (2)のグルーピングからもとの要素を消すと、下図(3)のような構造になっています。

  

 (1)は、出来事の因果関係を示した客観的な出来事系列ですが、(3)は、出来事系列において「現在」を指定し、過去から誘導する形のグルーピングを行った結果の構造です。つまりこれは、出来事系列の主観的な分節・粗視化です。

 さて、(3)は要素3つからなる出来事系列にも見えますが、この要素にみえる灰色円の中に、新たに集合を見出すことを考えます。全体の形が束になることにだけ気をつけて、集合の中に要素を作ると、下のようにいろいろな集合の見出し方が考えられます。なお、(1)と比べやすくするために、ここでは要素数を6にもどすような形で集合の中に要素を見出しています。

  

 そのなかから、次の(4)のような見出し方について考えます。

  

 (4)は、構造としては(3)と同じですが、(2)とは矛盾するところがあります。

  

 どういうことかというと、(2)のいちばん上のグループに含まれているaと、まんなかのグループに含まれているbの下限は、いちばん下のグループに含まれているcなのに、(4)では、いちばん上のグループに含まれている要素と、まんなかのグループに含まれている要素の下限は、まんなかのグループに含まれている要素になってしまい、もとの出来事系列の中にあったaとbとcのような関係を見出すことができません。

 そこで、この矛盾を調停するために、(4)のいちばん上のグループに要素dを追加し、(2)のaとbとcの関係にあたるものを復元してやります。この作業において、グループの中にグループができ、グループの二重構造が出現します。

  

 この調停の後、グルーピングを忘れて出来事系列だけに注目すると、下の(6)の図のような形になっています。これは(1)の図を少し変形した(要素を1つ加えた)ものです。

  

 これまでのプロセスを図にまとめると、次のようになります。



 上の図は、郡司ペギオ−幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』p.167図5−16を、私なりの理解で別の例で書き直し、説明を加えたものです。

 郡司さんいわく、この調停の本質は、「主観的な出来事系列の分節・粗視化が、出来事系列それ自体とすら区別できないという状況にある」と。そしてこの相互作用のモデルを使ってデジャブを説明しており、これが現在に帰属しない過去の話へとつながっていきます。

 上記のような2つの系列の相互作用は、ブール代数に対応した整ったハッセ図を出来事系列とした場合にも考えられますが、そこでは矛盾が生じず、実質的に意味ある調停が行われません。

 これまで、「整った」とか、「整いすぎていない」といった曖昧な表現ですませてきましたが、その意味を数学の言葉でいえば、「分配束であるか否か」ということになります。整っている=分配束である、整っていない=分配束ではない、ということです。分配束については、続く第6章でも検討されていきます。

 私は、郡司さんのこのモデル自体に対してはまだ十分に理解・納得していないというか、「こんなことよく思いついたなぁ〜!」という印象を持ったままなのですが、第5章の締めの部分にはそれなりに腑に落ちるものを感じました。「そういうことってあるかもしれないなぁ」と。
 実際、脳において客観的時間、主観的時間がコードされ、絶えず調停されるなら、そこには順序構造によって抽象化される構造が認められるだろう。さらにその構造が、脳の他の領域からモニタリングされ、全体として見通しやすくなるには、全体性を有した束であることが望ましいだろう。さらにB系列とA系列の絶えざる調停は、できるだけ両者の間に齟齬をつくりださない仕組みをもたらすかもしれぬ。我々の観点で言うなら、それはB系列が分配律の成り立つ束(分配束)へ近似されるかのように修正・維持されることを意味する。もし人間が発達の過程でそのような時間構造を持つように成長するなら、ある年齢を過ぎると主観的時間と客観的時間の齟齬が減ることになる。そのことは、デジャブ体験が成人を過ぎると極端に減ることを理解するものとなるかもしれない。
(p.174)

 第5章に取り組んだあと、第6章、第7章をざっとながめてみて、ようやくこの本の全体像が見えてきた気がします。第3章と第4章はまだ理解できていないし、量子論の第6章も認知的時間の第7章もそれなりに骨がありそうなのですが、郡司さんが何を見つめ、何を考え、何を語ろうとしているかが、以前よりも少しつかめてきたように思うのです。

 なお、第5章では実は、「アジャンクション」という概念が大変重要になっています。でも、TETRA’S MATHではアジャンクションに一切触れずに話をすすめてみました。アジャンクションというのは圏論でいうところの「随伴関係」をさすのだろうと推測しています。気が向いたらそのうち勉強しようと思っています。
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ブール束のハッセ図の時空ではきれいすぎるから

 ここのところ、出来事系列を4次元のハッセ図で表して、グルーピングのことを考えていました。これは立方体を2つ組み合わせたような図なので、「難しいこと考えずに図形的にスライドしていく」方法をとることもできましたが、いつでもこの方法がとれるとは限らず、むしろ、とれない場合のほうが一般的と考えたほうがよさそうです。この図はあまりにも整いすぎていて、できすぎているだろう。

 というわけで今度は、整いすぎていないハッセ図でのグルーピングを考えてみます。採用するのは、次のようなハッセ図。(郡司さんが使っていない図を使って、私なりの言葉で書きますので、もはや要約というより私の解釈による“別物”になっているかもしれません。)

  

 aを現在として指定した場合、過去を表す集合はaとbを含む赤枠となり、未来はcとdになります。つまり、これから先、現在となりうるのはcとdだけです。出来事系列の要素としてはe、f、gも存在しているのだから、ほうっておくわけにもいきません。そして、これらはどれかの未来(=今後の現在)と関わるはずです。なので、未来である青点c、dに、黒点e、f、gを回収してもらうことを考えます。

 まず、現在である点aの1つ上である点cについていえば、点cはa、b、eを過去にもっています。でも、aとbはすでにグルーピングされているので、点cには点eだけを回収してもらうことにします。

  

 次に点dに目をうつすと、点dはすべての点を過去としてもっているわけですが、aとb、cとeはすでにグルーピングされているので、fとgを回収してもらいます。

   
(この図は不適切だったかもしれません 下記に補足あり。)

 同じような考え方で、整ったハッセ図についてのグルーピングも考えることができます。

  

 つまり、aが現在、赤枠が過去の集合になるとき、未来になるのはc、d、eなので、黒点として残されたf、g、hを未来の点に回収してもらいます。そのとき、現在に近い未来の点から順に考えていくことにして(上図ではcとdは同じ近さだけれど)、その未来の点がもっている過去の点のうち、まだグルーピングされていないものを順に回収していってもらうことにすると、例のスライドによるグルーピングが完成するというわけです。

  


〔補足〕

 この図では、あとの話が続けにくいことがわかりました。たぶん、グルーピングした中身も束になっていたほうがいいのだろうと推測していますが、本当にそうなのかどうかはまだ理解できず・・・です。

 というわけで、図をかえます。これに↓

  

 「現在」を紫の点に指定して、例の方法でグルーピングすると次のようになります。

  
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要素の中に集合を見出す(A系列構成)

 ハッセ図上での「現在」の移動と、粗視化した時空においては、要素で構成された出来事系列を、グルーピングによって粗視化するプロセスを眺めました。この作業では、要素と要素がどんどんくっついていき、全体の形としてはシンプルになっていきます。

 ということは、逆に考えると、集合で構成されたシンプルな構造の中をよぉくのぞきこんでみることで、そのなかの構造が見えてきて、くっついている要素と要素の関係も見えてくるかもしれません。

 たとえば、

  

というグルーピングの中をよぉくのぞいてみると、

  

みたいなことになっているのかもしれない。

 あるいは、粗視化ではスタート地点だった4次元のハッセ図を、要素で構成された出来事系列(B系列)としてではなく、グループピングされたものだったとしてとらえると……

  

 もしかしたら、こんな出来事系列↓において「現在」を指定したときのグルーピングだったかもしれない。

  
亀井図式について考えたときの“6次元”のハッセ図を、色を変えて使用)

 要素をグルーピングして、粗視化した時空をつくる。そのとき、グルーピングされたものは要素に見える。その要素の中に、集合を見出す。そして、集合の中にも集合を見出すことができる。どちらの方向の作業にも、際限がない。

 もうそれは、要素なんだか、集合なんだか……

 A系列なんだか、B系列なんだか……
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ハッセ図上での「現在」の移動と、粗視化した時空

 出来事系列をグルーピングして、「粗視化」した時空をつくる をふまえたうえで、4次元のハッセ図上を「現在」が移動することにより、時空の粗視化がどのように変化していくのかを眺めてみます。

 ここでは、下図の紫の道順で「現在」を移動させていきます。

  

 スタート地点は、下図の紫の点です。この段階では、ハッセ図上の他の点はすべて未来を示す青い点であり、グルーピングは要素1つの集合になっています。

  

 次に、現在が1つ動くと、過去は下図赤枠で囲んだ部分になるので、この赤枠をもとにグループピングすると、下のようになります。

  

 以下、1つずつ動かして、グループ化していきます。

  

  

  

 以上の5つのプロセスを、グループピングによって粗視化した構造で示すと、次のようになります。

  

 4次元のハッセ図について、ブール代数との対応で考えたときの(次元をふやしていく)作業と逆になっているのが面白いです。もちろん、このハッセ図の下にはさらに過去があり、このハッセ図の上にはさらに未来があるので、このプロセスは、出来事系列の一部をとりだした中で考えた粗視化ということになるかと思います。
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出来事系列をグルーピングして、「粗視化」した時空をつくる

 郡司ペギオ-幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』の第5章を読んでいます。第3章に苦労したのは去年の春でした。桜の季節にまたここにもどってきたわけなのね〜

 第3章を読んだときに、「因果的歴史」を考える意味がわからずに苦労しましたが、第5章でこの「因果的歴史」がまた出てきます。去年の春よりはわかるかな?

 これから、B系列を因果集合によって考え、A系列を因果的歴史によって考えていきます。因果集合というのは、出来事系列全体のことであり、因果的歴史というのは、そのなかの部分集合だと考えればよさそうです。あのとき、「内的限定観測者にとっての時間を構成するため」因果的歴史を定義した意味が、ようやくわかってきそうな気がするきょうこのごろ。

 さて、下図のような4次元のハッセ図を出来事系列と考えると、この中から1つの点(1つの出来事)を選び、それを「現在」(紫の点)として指定したとき、赤い枠が過去となり、青の点たちが未来となります。



 このあと、過去でくくられた赤い枠をもとにして、他のすべての点をある規則にしたがってグルーピングしていくことを考えます。

 で、『時間の正体』はそんなこと書かれてありませんが(結果的にそういう図になっているだけで)、まず、難しいこと考えずに、単純に幾何学的に、赤枠をスライドさせたグルーピングを考えると、次のようになります。



 どの4点も、お互いが線分でつながっている(=順序関係がある)ので、こういうふうにグルーピングすることは突飛なことではないのではなかろうか。

 で、『時間の正体』にもどりますれば、このようなグルーピングにはどういう規則があるかというと(本当は規則が先なんだけれど)、「出来事xとyは、その各々と「過去」に属している出来事との上限をとって一致することが可能な場合、同じグループとする」という規則です。



 上図のように出来事に記号をつけると、eとaの上限はe、fとaの上限もeなので、eとfは同じグループに属します。同様に、gもhも同じグループになります。

 一方、eとa〜dの上限と、iとa〜dの上限には一致するものがないので、eとiは同じグループに属していません。eとkしかり。そして、jとa、iとaの上限はiで一致するのでjとiは同じグループに属し、kとa、lとaの上限もkで一致するので、kとlは同じグループに属します。

 同じ規則で、「現在」の位置によってグルーピングは次のように変化し、どれも、最初に考えたようなスライドして得られるグルーピングになっています。そして、各グループの上限が、「現在」の未来になっていることがわかります。

 そもそも、なにゆえ、出来事系列をグループ化して考えるのか? 郡司さんはこれを「現在に立った観測者からみた粗視化された内的時空」とよんでいます。“粗視化”は全体を知っていないとできないことなので、この「内的」という言葉は欺瞞を有しており、それがこのあとの節以降の課題になっているようです。

 さて、粗視化した時空の構造は、粗視化される前の構造を反映していなくてはなりません。つまり、粗視化した時空は、もとの束の構造を反映した束でなくてはならない。構造を反映しているとはどういうことか? というわけで、まずは合同関係の説明がなされています。

 ここもまた、いったん本を離れて、合同関係という言葉も忘れて、幾何学的に考えてみます。きょうは4次元のハッセ図ではなくて、下図のような出来事系列を考えます。

  

 この出来事系列の点(出来事)をグルーピングすることで、「粗視化」を試みます。まず、次のようなグルーピングを考えます。

  

 このとき、グルーピングされた1つの枠の中にある出来事のうち、いちばん上にある出来事に注目して、それよりも下にある出来事を、上の出来事に重ねるようにイメージしてみます(これは私の表現であり、郡司さんはそのような説明はしていません)。そして、いちばん上にある出来事と関わらない線分も、消していきます。そうすると、このグルーピングは、最終的には下図右図のような構造になることがわかります。

  

 上記右端の構造は、最初の構造を維持しているとはいえません。下の2つの要素に下限がないので、束になっていない。もとの構造が束で、できあがった構造が束ではないのだとしたら、これは「粗視化」というよりも、別のものにしてしまったことになるのだと思います。

 では、別のグルーピングを考えてみます。

  

 この場合も同じように考えると……

     
  
 束にはなるのですが、やはり前の構造を維持した粗視化にはなっていません。なぜかというと、もとの構造では、cとdの上限はcなのに、グルーピングしたあとの構造では、cとbの上限がaということしか構造の中に残っていないので、bといっしょにされちゃったdは、もともとのcとの関係をたもてません。いってみれば、もとの構造でcとdを結んでいた線分が消えてしまったということになるのでしょう。

 では、どうやったらもとの構造を維持しつつグルーピングできるのか。というわけで、次のようなグルーピングを考えてみます。

  

 この場合は、いちばん最初の系列内にある要素間の関係が、消されることなく、矛盾することなく、最終的な系列内に残っているので、 構造を維持したまま「粗視化」したものだといえます。要は、線分を意味なく断ち切らないようなグルーピングを考えればいいのだと思います。

〔2018年4月3日〕  分けて書いていた記事をひとつにまとめ、整理しました。
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紫陽花の花の色と「内包」「外延」

 私は紫陽花が好きです。 

 特に好きなのは、薄紫色のガクアジサイ。
    
   

 (昨年、園芸店でひとめぼれして買った鉢植えの紫陽花↑)

       *       *       *

 紫陽花の花(ガク)の色は、条件によって変わることがよく知られているかと思いますが、その色合いを作るものとして、アントシアニン・助色素・アルミニウムイオン・土壌の酸性度などがあげられるそうです。

 で、検索をしていたら、次のようなとても興味深いページを見つけました。

   YOSHIDA LABORATORY
   >4. アジサイが七変化する仕組みとは?

 上記のページによると、赤いアジサイも青いアジサイも、含まれている成分はまったく同じで、アントシアニンとしてデルフィニジン3-グルコシド(Dp-3G)なるものが含まれており、そのほかにキナ酸エステル類というものが数種類含まれているのだそうです。

 アントシアニンの量は同じでも、キナ酸エステル類の含有量とアルミニウムイオンの量が異なることで、青になったり赤になったりするし、さらに青のほうのphを変えると紫になるらしいのです(実験ではphをどのように変えたのだろう? 何か物質を加えたのかな?)。
 

細胞内のアントシアニン濃度は青色でも赤色でも1x10-2 M 程度であったが、助色素類の量には明白な差が認められた。 青色細胞には、キナ酸の5位エステル類が10当量以上含まれていたのに対し、赤色細胞では5位エステル類は3当量しか含まれないかわりに3位エステルが16当量と大量に存在した。 さらに、細胞内のアルミニウム含量も定量した。アルミニウム の0.1 ppbレベルの微量分析は、環境からの汚染をいかに抑えるかが成否を決める。クリーンルームでの試料調製を含め、 様々な工夫の末、100個以下のアジサイ細胞で分析可能なシステムを構築した。その結果、青色細胞ではアントシアニンに対して約1当量のアルミニウムイオンが含まれていたが、赤色細胞では0.01当量以下であることが明らかになった。

 ここで出てくる“○当量”という単位の意味はわかりませんが、10当量、3当量、16当量というように、数値で表されるものであることはわかります。言ってみれば、これは量化できるもの、つまりは「量」なのだと思います。

 しかし、私たちが紫陽花の花の色を愛でたり、その色を言葉で表現しようとするとき、赤紫にしろ水色にしろ薄紫にしろ、その色は「量」ではなく「質」です。

 外側にどのような「質」があらわれるのかを、紫陽花の内側のとある「量」が支えている。あるいは、外側の「質」は、内側の「量」に対応していると言うこともできる。だからこそ、上記のページに書いてあるように、実験をもとにして、試験管内で紫陽花の赤色や青色を再現できたのだと思います。

 ところで、いちばん上の写真の紫陽花の色を、人は何色と称するでしょうか?

 私だったら薄紫色と表現しますが、人によっては薄藍色かもしれないし、薄い青紫色という人もいるかもしれません、また、単に紫とよぶ人もいるかもしれないし、水色とよぶ人もいるかもしれません。青系か赤系かといったら、青系になるかな?

 キナ酸エステル類、アルミニウムイオンの量、そしてphの組み合わせで、おそらく紫陽花はいろいろな色を出すのでしょうが、大きく分けて「青」か「赤」だとすると、紫陽花の内部で起こっているいろいろな量の組み合わせも、結局のところ、「青を出す組み合わせ」と「赤を出す組み合わせ」の2通りとして考えることができるのかもしれません。また、逆に、紫陽花の中での「量」の組み合わせを5通りに分けて考えると、花の色も5通りになり、その色に対して、「青」「青紫」「紫」「赤紫」「赤」という名前をつけて区別することもできそうです。

 郡司ペギオ−幸夫『時間の正体』の第4章第2節で、集合で表された存在Xの要素数と、Xのベキ集合の要素数をそろえようとしていたことは、結局、そういうことなのではないか?と現時点での私は理解しているのですが、それが正しい理解かどうかはまったくわかりません。

 なお、ここでは「量」と「質」という言葉を使いましたが、これを「外延」と「内包」に置き換えることもできると思います。というか、私が「量」と「質」と勝手に言っただけで、そもそも外延と内包で語られているのですが。

 内部観測された対象Xは、「X」と「Xであること」の乖離と混同を担い、その混同こそ、階層差を乗り越えようとする同一性原理である。「X」と「Xであること」の階層差は、観測に由来する内包と外延とをその起源とする。対象Xにおいて、内包・外延はマテリアル化される。したがって、外延は、内包を個別化し操作対象とする形で現れる。だから、外延は、内包を集合として表すなら、そのべき集合として現れることになる。

 階層差を乗り越える運動は、秩序から乱雑さへと向かいやすい(内部の外延を“減らすバージョン”)が、場合によっては秩序化の流れさえ実現するかもしれない(外界の内包を“増やすバージョン”)。しかし、外界の内包が増えるということは、集合の要素数が増えることであり、べき集合の要素も増加するので、またグループ化が必要となる。

こうして、階層化間の同一性原理は、二つのレベルでの調整を実現することで、結果的に要素数を増やし続け、総じて運動を乱雑さへと導き続けることになるだろう。エントロピーの増大は、局所的で一時的なその減少を不可避的に伴いながら進行することになる。

 しかし、郡司さんはp103の図4−3で、{a,b}のベキ集合{{},{a},{b},{a,b}}をグループ化するときに、{<{},{a}>,<{b},{a,b}>という分け方をしており、これだと、{<00,10>,<01,11>}になるので、要素3つで考えた「秩序から乱雑さ」への話()があてはまらなくなります。むしろ、赤を0、青を1として、「000、001、010、100は赤とみなし、011、101、110、111は青とみなす対応づけ」や、「000は赤、100、010、001、011、101、110は紫、111は青とみなす対応づけ」のように考えたほうが、話としてはわかりやすくなるんだけどなぁ・・・なんてことを感じました。ただ、こうなると、べき集合とは無関係になってしまうし、乖離と混同、および同一性原理のモデルとしてどうなのよ?と自分でも思います。

 そもそも大事なのはわかりやすいことではなく、郡司さんが何を伝えようとしているのかを、できるだけ本人の意に添うように受け取ることだと思うのですが(そうじゃないとこのあとの話が楽しめない)、食いついたはいいけれど、噛みくだくのはなかなか難しい話ですねぇ……。

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存在モデルby郡司の話はこんなふうに始まる

 存在モデルby郡司を単純にベキ集合の話として考えるで示した存在モデルの話のオープニングを引用しておきます。
 

 まず、存在を、要素を指定する集合によってモデル化する。特にここでは、

  {a,b,c}

 という三要素からなる集合を考え、存在のモデルとしよう。すなわち、X={a,b,c}と考えるわけだ。各要素は、存在の何らかの構成要素と考えればよろしい。上位の階層である「存在を規定するもの」は、存在の定義から、集合を要素として指定する概念装置となる。規定操作を含んだこの装置も存在であるとするなら、存在を規定する存在は、集合を指定する集合、すなわち、集合を要素とする集合ということになる。いま存在は{a,b,c}と仮定されているから、存在の規定は、

  {{},{a},{b},{c},{a,b},{b,c},{c,a},{a,b,c}}

 というように、{a,b,c}のすべての部分集合を指定する集合(これをべき集合という)となる。

 「存在の構成要素って何?」「上位の階層って何?」「なぜここでベキ集合が出てくるの?」といろいろと疑問はつきませんが、とりあえずこういうふうに話は始まるということだけ頭に入れておいて、自分なりの方向からこの話に食いついていきたいと思います。(いけるかなぁ!?)

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存在モデルby郡司を単純にベキ集合の話として考える

 郡司ペギオ−幸夫『時間の正体』の第4章2節でベキ集合の話が出てきます。運動の流れと時間の流れを考えるための、存在のモデルなのですが、そういうことをいったん抜きにして、単純に集合の話として考えています。なお、『時間の正体』に書かれていないことも、私の理解と都合でかなり加えています。

       *       *       *

 X={a,b,c}という集合を考えます。

 そして、集合Xのベキ集合(部分集合をすべて集めた集合)をYとすると、

 Y={Φ,{a},{b},{c},{a,b},{a,c},{b,c},{a,b,c}}

となります。

 これから、とても大胆なことをしたいと思います。XとYを同じものにしたいのです。がしかし、XとYは違うものなのだから、同じものにはなり得ません。せめて同じようなものにできないか? と考えてみたとき、同じようなもの・・・という言い方もなんだか曖昧なので、1対1に対応させられるような関係にできないか?というふうに考えてみます。

 そのためには、要素の数をそろえなければなりません。そこで、集合Yの要素をなんとか3つにできないか考えてみます。集合Yの要素は8こあるわけなので、これを3つにするためには、要素を5つ減らさなくてはなりませんが、単純に減らしてしまうともはや違う集合になってしまうので、減らすというよりも、集合Yの見方を変えて、8つの要素を3つの要素に組み替えることを考えてみます。

 で、せっかくの(!?)ベキ集合なので、Yの要素を0と1の記号で表すことを考えます。どういうことかというと、ベキ集合の要素、つまりXの部分集合を考えるときには、Xの要素a、b、cのそれぞれを含むか含まないかで考えていくことができ、含まないときには0、含むときには1として、abcの順で表していくと、{a}=100,{b,c}=011,{a,b,c}=111というふうに表すことができます。全部の要素をこの方式で表すと、

 Y={000,100,010,001,110,101,011,111}

ということになります。こう表記した上で、要素を3つに減らすために,0と1が混じっているもの、つまり,100,010,001,110,101,011の6つの要素を、「0と1が混じっている」という観点で1つの仲間と考えれば、

 Z={0だけ,0と1が混じっている,1だけ}

というふうに、3つの要素にまとめた集合を作ることができます。

 さて、とりあえず要素数は3つに減らせましたが、要素の重みは違います。何しろ、0と1が混じっているものは、6つを1つにしたものだから、000と111より重いです。このことを、3枚のコインの動きで考えてみます。

 コインの裏を0,表を1として表した場合、3枚のコインを区別した状態では、Yと同じ8つの状態が考えられます。しかし、コインを区別せずに、表と裏の組み合わせだけで考え、しかも、1枚だけ表と1枚だけ裏の場合を表と裏が混じっている状態とみなして同じものと考えると、3枚のコインの状態はZの3通りとみなすことができます。

 しかし、3枚のコインを投げたときの表裏の出方の確率を考えるときには、Yの要素数で考えなければなりません。つまり、000,100,010,001,110,101,011,111のどのならびになるかはそれぞれ1/8なので、これをZの要素で考えると、「0だけ」になる確率が1/8、「0と1が混ざった状態」になる確率が6/8、「1だけ」になる確率が1/8なので、「0と1が混ざった状態」になりやすい、ということが確率的にはいえます。で、000や111を秩序ある状態と考えて、0と1が混ざった状態を乱雑な状態と考えれば、秩序から乱雑さへという運動の流れが出現するというわけです。

       *       *       *

 単純に集合の話だと考えれば、それなりに理解はできるのですが、これって、要素数3の場合にしか言えないことだよなぁと私は思いました。そう思うにいたるまでもかなり時間がかかったのですが。0のみ、0と1の混合、1のみというふうに集合をまとめると、どんな集合のベキ集合の場合も要素は3つに減ってしまうので、もとの集合と要素をそろえられるのは3だけです。もちろん、要素数が増えたら、01111と00011を区別するといったような方法で、“まとめかた”を変えることはできると思うのですが。そもそも、要素数をそろえることにどんな意味があるのか?という根本的な疑問もあります。

 そして、これより少しあとの部分で、今度はもとの集合の要素をベキ集合の要素数にあわせる“増やすバージョン”が出てくるのですが、こちらはスペースの関係で{a,b}という要素2の集合を使っており、「割れる」という方法で{a,a´,b,b´}という集合を作ってあるのです。しかし、同じ方法で{a,b,c}の要素を8こに増やすことはできません。

 ちなみに、“減らすバージョン”の話のあとで、{赤,青}という集合に関する話が、プランクトンを摂食して自らに色をつける動物と、画家が絵を描くときの例で語られています。最初の“減らすバージョン”も要素2の集合で説明してあったら、とりあえずの一貫性はあったのになぁ、と思ってしまう私です。ただしそうなると、要素数の「2」にとても大きな意味ができてしまうわけなのですが。

(つづく)
郡司ぺギオ-幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』 | permalink

私が理解するところの「同一性」と、内部観測by郡司

 ある日突然このブログのテンプレートを変更したとしても、TETRA'S MATH であることに変わりはありません。また、エントリのいくつかを削除しても TETRA'S MATH だろうし、日々エントリを書き続けていても、TETEA'S MATH のままだと思います。

 ブログタイトルを変えたらそれは TETRA'S MATH ではなくなるけれど、URLもエントリにも変化がないのであれば、もと TETRA'S MATH ということで、やはり同じブログをさすと考えていいような気がするし、URLが変わっても、このブログをまるごとどこかに引越しすれば、やはり同じブログと言っていいように思います。

 そのすべてが変わったら、もはや TETRA'S MATH ではないかもしれません。

(でも、上記の1つ1つを変えても同じブログであるといえるならば、それらを少しずつ徐々にかえていってもどこかの段階までは同じブログなのだろうか? どこかの段階で「もはや以前と同じブログではない」と言えるとすれば、その境目はどこにあるのか? それは、「もはやTETRA'S MATHではない」と思ったときであるか。)

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 ズッキー二が実って、茎から切り離されて、キッチンに持っていかれて、洗われて、切られて、加熱されて、味つけされて、お皿にもられて、食べられる。その刻々でズッキー二の置かれた状況は、ときにささやかに、ときに劇的に変化していますが、にも関わらずズッキー二はずーっとズッキー二のままです。そして、食べられたあたりでズッキー二はズッキー二でなくなるのでしょうか。

 また、野菜たっぷりパスタではじめてのズッキー二体験をした彼女は、数日後にスーパーの野菜売り場で2度目のズッキー二体験をするわけですが、彼女がパスタとともに食べたズッキーニと、スーパーで売られていたズッキーニは、違う個体です。にも関わらず、彼女はそれをこのあいだ食べたのと同じズッキー二と認識し、ズッキー二体験を重ねたことになります。そして1年後に知人から黄色いズッキー二をもらい、今度は個体のみならず色さえも違うわけですが、だとしても、さらにズッキー二体験を重ねることになるわけです。

 はじめて野菜たっぷりパスタでズッキー二を食べたとき、彼女は友達が教えてくれたズッキー二という野菜をまだわがものとはしていない状態で、友達のことは十分に信用しているにも関わらず、「?」が漂う状態でズッキー二を食していたことでしょう。しかし、その経験が、のちに彼女がズッキー二をズッキー二と認識する根拠となっていきます。そして、知人から黄色いズッキー二をもらうころには、彼女の記憶の中の「野菜たっぷりパスタのズッキー二」は、ズッキー二としてのアイデンティティを十分に確立しているのではないでしょうか。
  
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 結局、郡司ペギオ-幸夫さんが『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』第4章の1節の前半で言おうとしていることは、ひらたくいうとそういうようなことなのかな(ただし、カッコ内はのぞく)……というのが現段階の私の精一杯の理解です。

 が、そういう書かれ方は一切してありません。どういうふうに書いてあるかというと、こんなふうに書いてあります。(以下、要約)

 対象Xに対する内部観測者の描像は、「Xは、Xであるところの保存則を満たす限りXである」、「XはXの同一性を維持する限りにおいてXである」といった、ある種、同義反復的言明、もしくは自己言及的形式を取ることになる。問題は、このような自己言及的言明に意味があるのか否かを詮議することではない。我々はつねに、「XであるところのX」を受け入れてしまっており、むしろ論理的には無意味な、もしくは矛盾でしかないような言明を、あたかも有意味のように運用することで、Xを指示し、Xに気づくのである(そして、そのことこそが、時間に関係している)。我々が当面考えねばならないことは、「X」と「Xであるところ」の二重性それ自体によって、「Xであるところの保存則」を、より普遍的な概念として理解できるか、ということになる。

 「Xであるところの保存則」を、「X」と「Xである」という二重性によって置き換えてみる。それは「X」=「Xである」のような形式で、閉じた一個の象徴を形成することを意味するものではない。両者の間には現実の溝、外に通じる空隙があり、外部からの関与が絶えずここに吹き込み、両者の乖離を維持するとともに交流させる。「X」と「Xである」ことの共立が、Xに気づくという一個の現象を成し、無意味な自己言及的形式すら、有意味のように引用できてしまう。

 この二重構造は、次のように図示できる。(黒い部分がもとの図で、青字は私が本文を参考に加えたコメントです)

 

郡司ぺギオ-幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』 | permalink

冷蔵庫・乾物・保存食と時間

 冷蔵庫や冷凍庫って、時間をとめる機械なんだなぁ、と思ったことがあります。常温なら保存できないものが冷蔵庫なら保存できるし、冷凍庫ならその保存期間をかなりのばせるので。でも、永遠に保存できるわけではないので、時間をとめるというより、時間をひきのばせるってことになるのでしょうね。時間の流れをゆっくりにできる、遅らせることができるってことか。

 というときの時間とはなんぞや?と考えた場合、それは食品の変質であり、変化ということになるのでしょう。

 冷凍食品を利用することがあまりない私ですが、昨年、新型インフルエンザが流行の兆しを見せたときには、食材の冷凍に励みました。また、自分が体調をくずしたときの経験を経て、保存食や乾物の意味についても考えるようになりました。そのほか非常食としては、缶詰やレトルト食品などの加工品もあります。つまり保存食というのは、食品が腐敗しにくい状況をつくったものであり、ということは、食品の変化には、温度と水分、空気あるいは外界との接触ということが関係していそうです。温度をさげ、水分をなくし、空気に触れさせないようにすると、食品は腐りにくくなる。それはつまり細菌を繁殖させにくくするということなのだろうと想像していますが、そう考えると発酵食品というのはつくづく面白いです。

 で、思うのです。保存食が保存食足りえるのは、それを食べる私が保存食化(!?)されていない状態だからなのかなって。私の時間は普通に流れていて、食品の時間だけが変わるからなのかなって。ミートソースと一緒に私も冷凍庫に入っていたら、ミートソースは保存食にならないだろう。って、その前に、生きてられないか。あ、そうか、私と時間を争っているのは食材ではなく細菌か。温度・水分・栄養。細菌の繁殖に必要なものは、私が生きるのに必要なもの。

 郡司ぺギオ-幸夫さんは、ある本で「生命とは時間の別称である。」と書いておられますが、『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』のあとがきでは、次のように書いておられます。

 時間とは変化である。それを表すには、運動体と、その運動を指定するための土台、空間が必要となる。これだけなら、道路を走る車を想像すればよい。(中略)大地を走る車の場合、わたしが車に乗るか、車の外に立つかは明確に分離できる。時間についてはどうだろう。現在の外に立つことは原理的にできない。そうであるにも拘らず、現在が享受する変化は、土台を必要とする。(中略)内と外を区別しながら、その区別が同時に覆されることを受け入れること。時間の問題は、こういった問題一般のミニマルな形態を与える。

 
 余談ですが、乾物ときくと干物を思い出し、落語の「てれすこ」を思い出します。

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