TETRA'S MATH

数学と数学教育

takehikomさんのブログの記事のご紹介・3

 前々回takehikomさんから次のブログの記事のご紹介をいただいた経緯と、自分の立場について書き、前回、1つめの記事についての感想を書きました。


[OoM] かけ算の順序は,ネットde真実? (2014.09)
http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20140927/1411770003

[OoM] かけ算の順序を授業にすると〜イランとアメリカ
http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20141002/1412193761

[OoM] Re: ツイートするよりパブコメ出そう
http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20141030/1414618764


 2番目の記事は、それこそ今年5月の私の質問に対する資料提供をいただいたわけですが、すみません、もはやその気力がありません…(涙)。今回、感想は控えさせていただいます。

 というわけで、最後に3番目の記事について。私のブログの記事へのご意見、感想ですね。

 まず、「かけ算の順序」の明確な定義についてですが、現段階で私が示す定義が入り用な方は、むしろ、この件に関してパブリックコメントを出す必要はないと考えます。私がパブコメを促したいのは、すでにこの問題について関心をもっておられる方、なんらかの形で問題視をされている方です。それぞれの方が、それぞれの視点で意見を出してくださるとうれしいな、と思っています。「かけ算の順序問題」と言われてピンとこない方に対してまで、「お願いですからパブコメ出してください」とは申しません。

 で、そのあと結合法則の文脈の話が出てきていて、自分の問題意識にない話なので「?」となってしまったのですが、要は、用語の定義についての話の続きだったのですね。

 「かけ算の順序」という用語はおかしいということは、以前からtakehikomさんが主張されていたことだとうっすら記憶していますが、私がいう「かけ算の順序」は、かけ算の文章問題を解くときの式を、「1つ分の大きさ×いくつ分=全体の大きさ」と書くこと(「いくつ分×1つ分の大きさ=全体の大きさ」とは書かないこと)という、ただそれだけの意味です。そして、この問題に様々な事例を通して関心をもっている方々とは、「かけ算の順序」で話が通じると思っています。

 そして、「行き過ぎ」についてのご意見ですが、歴史的考察をすることや、日常見られる多様な用法と照合してこの問題を考えることはとても有効だと思うので、そのようなアプローチで算数教育の諸問題に取り組みたいという方には、是非そうしていただきたいです。

 大谷実さんの論文については、私は「比例について、算数と数学の接続を考えたい」という自分の目的意識にそって、必要なものをいただきました。Twitterのリプライによると、「協働」は今後takehikomさんが取り組みたいテーマのひとつであるようなので、特にそちらに意識が向かったということなのでしょう。
https://twitter.com/takehikom/status/537728398819201027

 で、そのあとのドン・キホーテですが、「照合が足りない」「資料収集が足りない」とtakehikomさんに言われてしまうと、もう返す言葉がありません。余計なことを書いてしまったと後悔しています。「こういうことをちゃんと考えて学習指導要領や教科書を作っているんだろうか?」と書かずに、できあがった学習指導要領そのものと教科書そのものについて考えればいいだけの話でした。ちゃんと考えたうえで学校図書の教科書のような比例の扱いになってしまったかもしれないわけですものね。

 たとえば、私が文部科学省に出した意見について、以下のような感想をいただいておりますが、後半に出てくる「別モデル」の話を読んで、(takehikomさんのお考えとはいえ)「すっごい!教科書ってそこまで考えているかもしれないの!?」と驚きました。つまり、順列のかけ算を「1つ分の大きさ×いくつ分」とは“別の”乗法と考えれば、矛盾はないという解釈なのですね。

[OoM] 「起こり得る場合」とかけ算
http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20141126

 最後は2chのお話。すごい、2chもリサーチしておられるんだ。というか、検索でひっかかってきたという感じでしょうか。文献のみならず、こういう市井の声(?)も大事ですよね。

 思うに、何か考えごとをしようとしたときに、偏りのない十分な情報を得て、読み、考察し、つなぎあわせていくのはとても大事なことだなぁ、とあらためて感じています。と同時に思うことは、どこまでやっても「これで十分」とはいえないんだろうな、ということ。

 また、情報って多ければいいってもんでもないなぁということも感じています(takehikomさんへの皮肉ではありません、念のため)。特にネットでいくらでも情報が仕入れられる今日、自分の情報処理能力をふまえ、そのときの目的意識をもって情報を選び(偏らせてという意味ではない)、仕入れたらいったん閉じた状態を作って、醸成させる時間をもつことも大事なのかもしれません。

 そのためには、良質な資料を得る努力と見極める能力(あるいは“勘”)も必要ですね。機会はたくさんあったほうがいいのでしょう。いろんな人からいろんなことを教えてもらい、そこから自分が選んでいく。

 また、ひとりの人間ができることは限られているので、それぞれが、それぞれの関心や目的意識で自分の問題に取り組み、つき合わせたり、受け継いでいったりして、みんなで考えていくことの意味も忘れずにいたいです。

 なお、この場を借りて付記させていただくと、教科書会社への意見提出(というか文部科学省へ意見を出したことの報告)はひとまず先送りしております。

 私は中教審の算数・数学専門部会で「式の意味」や「算数・数学教育における表現力育成とは何か」について議論していただきたい(「中央」の方々の意見がききたい」)のですが、そのためにいまできることは、文部科学省の通常窓口から意見を出すことしかありませんでした。お門違いといわれようとも、それしか思いつきません。なので、学習指導要領本文と検定教科書をもとにして意見を出しました(その他、文献1冊、横浜市教育委員会のサイト、学習指導要領解説の一部の内容も引き合いに出させていただきました)。

 あと、前回、takehikomさんは、判断に踏み込むことはあまりされないのかもしれないと書きましたが、きのうの記事では、はっきりと判断を記載されています。締めくくりの部分で「かけ算の順序問題」との共通点にも触れられています。

[OoM] 正方形は長方形・俺流まとめ
http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20141127

 以上、takehikomさんのブログの記事についての感想を書かせていただきました。今回、いちばんうれしかったのは、Twitterでブログの記事をご紹介いただいたことと、「機会があれば取り上げていただけると幸いです」と言っていただいたことでした。
「かけ算の順序」論争 | permalink

takehikomさんのブログの記事のご紹介・2

 前回、takehikomさん(http://d.hatena.ne.jp/takehikom/)から次のブログの記事のご紹介をいただいた経緯と、自分の立場について書きました。


[OoM] かけ算の順序は,ネットde真実? (2014.09)
http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20140927/1411770003

[OoM] かけ算の順序を授業にすると〜イランとアメリカ
http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20141002/1412193761

[OoM] Re: ツイートするよりパブコメ出そう
http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20141030/1414618764


 今回は、1番目の記事の感想を書かせていただきます。おそらくtakehikomさんは、おもにまんなかあたりの話題を私に伝えてくださろうとしたと思いますが、せっかくなので全般的に。

 まず、すごいなぁと思うのは、来年度から使用される教科書をすでにひととおりチェックされていること。こういうこともやらずして文部科学省に意見を出している私は「出直してこい!」状態ですよね。教育学がご専門ではなく、いまの算数教育に異を唱えたいお立場でもない(と私は認識しています)のに、これだけのエネルギーを「かけ算の順序問題」投じておられることに頭が下がります。

 最初に出てくる「基準量」については、「×」から学んだこと@wikiに用語説明があります。  http://www49.atwiki.jp/learnfromx/pages/31.html

 takehikomさんは用語の定義および使い方その他もろもろ細かいことに厳しい方なので(大事なことですよね)、中途半端なことを書くとまたダウトと言われてしまうかもしれませんが、わかりやすさを先行させると、はやい話、文章問題のなかで「いくつ分」にあたる数が先に書かれてある文章問題は、教科書をはじめ教育現場にたくさん出てくるよ、という話だと私は理解しました。

 この話題は、高橋誠『かけ算には順序があるのか』を読んでいない方とも、共有できることでしょう。

 例に出されている「アメを配る」問題で言えば、1人あたりのアメの個数4個よりも、人数である7人が問題文の中で先に出てきています。こういう問題で児童が「問題に出てきた数値の順に並べてかけ算の式を書く」と「7×4」となり、「いくつ分×1つ分の大きさ」となっているので、“普通は”バツになります。

 ちょうどよい機会なので、現行の啓林館の教科書に触れておくと、2年下p.17は「いくつ分」を先に書いた問題“ばかり”が集められたページになっています。

「おかしのはこが4つあります。1つのはこには、おかしが5こずつはいっています。みんなで何こになりますか。」

「テープを4本つなぎます。テープ1本の長さは3cmです。ぜんぶで何cmになりますか。」

「あめを3こ買います。1こ5円のあめを買うと、何円になりますか。」

 最初の問題に対して、「しきは,4×5かな,5×4かな・・・・・・」というイラストの吹き出しがあり、その下に「1つ分の数は5で,その4つ分だから,しきは5×4になります。」という文章が示されています。ちなみにこのページのタイトルは、「かけられる数と かける数」。このページを学習したうえで問題を解く場合、当然のことながら「いくつ分×1つ分の大きさ」という式はバツにしなくては意味がありません。このバツは教師の考えではなく、教師用指導書の指示レベルでもなく、検定教科書が示している学習目標に添った評価です。

 takehikomさんは次のように述べられています。
かけられる数・かける数の意味を大事にする授業や教育評価に対し,数学や日常の使われ方を持ち出したり,「掛算順序強制」といったラベリングのもとであれこれ言ったりしても,算数教育に取り入れられることはなさそうで,その種の批判は「ネットde真実」と呼ぶのがよさそうに思っています.

 数学や日常の使われ方を持ち出して批判することは(そうしたい人にとっては)やってみる価値はあると私は思いますが、私自身はそのようなアプローチはとっていません。>「かけ算の順序」問題を解決するために、いま自分がやるべきこと(2)

 「算数教育に取り入れられることはなさそう」というのはまさにその通りで、だからこうしてtakehikomさんからドン・キホーテと呼ばれながら虚しくがんばっているのでした(笑)。あ、そうそう、余談ですが、以前、この比喩の真意がわからなかったので念のために検索したことがあり、そのときにこんなページも見つけていました(↓)。
http://howardhoax.blog.fc2.com/blog-entry-63.html

 これはこれで勉強になりました。が、「ドン・キホーテと比喩する場合はだいたいこんな感じの意味」という共通理解があれば比喩としては成り立つし、比喩というのはたいていそういうものなんでしょう。

 「ネットde真実」についてはリンク先の説明を読んだものの、かけ算の順序固定批判にこの言葉があてられている意味がいまひとつよくわからず…(「教育現場でかけ算を強制している」ということが妄想なのか、「かけ算に順序はない」ことが妄想なのか)。

 で、以上のこと(文献・資料でわかる現在の算数教育の状況)についてのtakehikomさんの意見(是か非か)は、この記事だけではわかりませんが、過去のあれこれを総合して考えると、たぶん「是」なんだろうな、と私は思っています。なお、Twitterで次のリプライをいただくことができました。「情報の理解」を根底に置かれているということなので、ゼロではないとはいえ、判断に踏み込むことはあまりされないのかもしれませんね。→https://twitter.com/takehikom/status/537728152726806528

 なお、私自身は、「いくつ分」にあたる数値が先に書かれている問題が教科書に掲載されるのは「ものすごくあたりまえのこと」と思っています。逆に、「1つ分の大きさ」にあたる数値が先に書かれている問題しか掲載されていなかったら、そちらのほうが“問題”だと思います。そして、啓林館のように、「いくつ分」にあたる数値が先に書かれてある問題ばかり集めてわざわざ1ページ割いているのは、「行き過ぎ」だと思っています。

 次に、まんなかあたりの話題について。「かけ算」関連でtakehikomさんのブログに予期せぬアクセスがあった話で、「かけ算の式」の各国比較の話題が出てきています。今年の5月ならとびついた話題ですが、もはやその気力はなく…。Tad Watabane さんのお名前が出てきていますね。以前、私のブログで話題に出させていただいた Tad Watanabe さんと同じ方かな?>二重数直線は、もはや Double Number Line (動画のリンクあり)

 そしてラストは、takehikomさんのブログの記事にまとまったアクセスがあったことを受けて、ベネッセのチャレンジ2年生についてのツイート取り上げられています。実物の画像は初めて見た気がするのですが、なるほどベネッセもここまでやっているのですね。

 ベネッセの画像についてのtakehikomさんの「補足」にある「ナンセンスではない」というのは、「ベネッセ独自の解釈ではなく、いまに始まった話でもない(その歴史は長い)」という意味だと私は捉えました。ということは、「かけ算の順序」問題の“初心者”に向けての解説でしょうか。「かけ算の順序」固定に強く異反対される方々は、ベネッセの画像にあるような考え方がいまは算数教育の主流であることをよくわかっていると思うし、それをわかったうえで「ナンセンス」と言っていると思うので。

 最後の6行については、特に後半3行について考え込みました。まずトランプ方式について。これは、「7人の子どもにあめを4個ずつ配る」とき、「Aさんに4個、Bさんに4個、…」と配るのではなく、まずひとりに1個ずつ配っていくと1回目に7個、さらに1個ずつ配っていくと2回目に7個、・・・4回配り終わったら1人4個ずつとなるので、「1回あたり7個×4回分」という意味で「7×4」と書けば、これも立派に「1つ分の大きさ×いくつ分」の式になる、という話です。

 つまり、答案に「7×4」と書かれてあっても、それを書いた児童は「1つ分の大きさ×いくつ分」の発想で式を書けているのかもしれないという解釈もできるわけですが、実際にどう考えてその式を書いたのかは直接きいてみないことにはわからないわけであり、「そう思って書いたかもしれないと解釈してマル」というのは確かにへんな話かもしれません。というか、そもそもそんなふうに考えて書かれたテストでの「7×4」がどのくらい実在しているのか。逆にいえば、この段階での式の意味って、そのくらいのものですよね。
 
 小学校低学年では、たし算・ひき算・かけ算・わり算といった基本演算を、ケタ数を増やしながら段階的に学んでいくようになっていて、各演算の学び始めで出てくるのは2つの数値と1つの演算記号だけです。そういう状況で「式の“意味”」を重んじたり「表現力」を育成させようとすると、出てくる数値の順番にこだわるくらいしかできないのではないでしょうか。となると、たし算やかけ算に順序があるという話になっていってもおかしくはないし、各種演算の中での分類に注意が向いてしまうのもしかたがないことだと思います。

 というわけで、「表現力の育成ってそういうことなの?」と問いかけをしたかったので、このたび文部科学省に意見を出しました(低学年の学習内容から「数量関係」の領域を削除することや、表現力の育成は高学年の課題にするべきだという意見を出しました)。

 takehikomさんは
「8×7」と書いたときに,先生から(黒板にその式を書いたときには他の子どもから),どう見られるだろうか,誤解されるのであれば「7×8」を選べるようになろう,というのが,個人的には2010年あたりの見解です.
と書いておられますが、これはおそらく、かけ算の意味がわかっている児童が、自分の考えのもとに「8×7」と書こうとしている場合を想定した話なんだろう、と解釈しました。期せずして、先ほどの共通理解(ドンキホーテの比喩はだいたいこんな感じの意味で使われる)につながる話だと感じられました。

 私は、こういうことを考える余裕のある児童のために「かけ算の式の順序固定」があるわけではないと考えていますが、かけ算の式の順序固定に強く反対される方々も、こういう「わかっている児童」の答案にバツがつけられたときのマイナス面を懸念しておられるのかもしれませんね。

 ちなみにきのう、現在中1の娘に、かけ算の式に順序についてきいてみました。娘いわく「“ずつ”のほうを先にすればいいから、どういう式を書けばいいかはわかったけれど、なぜ、それを先に書かなければいけないのかはわからない」とのことでした。

(つづく)
「かけ算の順序」論争 | permalink

takehikomさんのブログの記事のご紹介・1

 takehikomさん( http://d.hatena.ne.jp/takehikom/ )から、次のブログの記事をご紹介いただきました。


[OoM] かけ算の順序は,ネットde真実? (2014.09)
http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20140927/1411770003

[OoM] かけ算の順序を授業にすると〜イランとアメリカ
http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20141002/1412193761

[OoM] Re: ツイートするよりパブコメ出そう
http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20141030/1414618764


 今回これらの記事をご紹介いただいたのは、私があることのご報告とお礼をしたのがきっかけでした。今年の5月に私がtakehikomさんに、日本以外の国でかけ算がどういうふうに教えられているかを端的にまとめたページをご存知かどうかうかがったところ、次のページを教えていただいたのです。

[5×3][reprise] かけ算の式と言葉の順序 メモ
http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20130126/1359147548

(Twitterでのやりとり)↓
https://twitter.com/tamami_tata/status/465773447700701184

 当時の私は、かけ算の順序問題についての意見を文部科学省に出す際に、グローバル化社会云々の話を絡められないかと考えていました。なので、かけ算の順序問題の背景に言語や文化が関わっていればそれが「使える」と思ったのです。しかし、いろいろ考えていくうちに、そういうアプローチはやめようと思うにいたりました。

 ということのお礼とリンクのご報告をかねてツイートさせていただいたところ、takehikomさんは私のマガジンを購入してくださり、さっそく感想を書いてくださっています。↓

[OoM] 「起こり得る場合」とかけ算 http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20141126#20141126f1

 takehikomさんは資料のリサーチ力がすごくて、「かけ算の順序」問題にかけているエネルギーは私の比じゃないと感じています。(いや、さらっと見つけて、さらっと読んでおられるのかもしれませんが…)

 文献も資料もたくさん紹介しておられます。あまりにすごすぎてほとんどついていけていなくて、今回ご紹介いただいた記事もこのたび初めて読んだのですが(というかまだ読みきれていない)、やっぱりあまりにすごすぎて、「で、結局、どういうことなんだろう・・・takehikomさんは何がしたいのだろう・・・?」と、膨大な量のリサーチ物とそれについての所感を前に呆然としてしまう不甲斐ない私なのでした。

 なお私も、「何を考えているかよくわからない」と言われることがあるので(^_^;、この機会に自分の立場を書いておきます。

 私はもともと、現在の算数教育で「1つ分の大きさ×いくつ分」という形でかけ算の式を書くこと(「いくつ分×1つ分の大きさ」とは書かないこと)という指導が行われていることを、それほど大きな問題とは考えていませんでした。教材をつくる立場から統一感のことを考えていたし、どちらかに統一するなら「1つ分の大きさ×いくつ分」のほうが適切だと思っていたので。

 しかし、メタメタさんがこのことにやけに違和感を感じておられて(それを知ったのはずーっと前)、「どうしてだろう?」と意識するようになり、そのうちWeb上でもよく見かけるようになり、今度はそのやりとりに「どうしてだろう???」と疑問を抱くようになったしだいです。なので、このブログでもカテゴリーを作って記事を書いてきました。

 そして、Web上でいろんな人がいろんな資料をあげてくれて、テストでバツをされるところまではそんなに驚かなかったけれど、式をあたえて絵と対応づけさせる問題や、「y=x×きまった数」という式で表すこともありますといった内容の記述が検定教科書にあることがわかり、そのほかにもこの式の形を書かせることに妙に熱心な授業や教材の現状を知って、「確かにこれはよくないな…」と思うようになりました。

 一方、Web上でこの問題が延々と取り上げられているけれども、話が先に進んでいるように見えず、立場を異にするものどうしの不毛なやりとり(にさえいまはなっていない?)に終わっているように感じられ、そんななかで学校教育に対する不信感がばらまかれている状況が耐え難いものとなっていきました。

 もちろん、かけ算の順序に関わらず、延々と取り上げられて不毛なやりとりが続く議論は他にもたくさんありましょうが、こと算数教育についての話題の、特にこの問題に対しては、どうにも辛いものがあるのです。なので、この耐え難さをなんとかしたいと考え、文部科学省に意見を出して、中央教育審議会の算数・数学専門部会でこの問題を取り上げてもらえるようにできないかどうか働きかけてみる…ということを思いついたのでした。

 というのも、私の理解の根底には、「1つ分の大きさ×いくつ分」の形で書くことを、現在の算数教育から完全に排除するのは無理だし、その必要もないという考えがあり(多くの「順序固定反対意見保持者」のみなさまも、その考えは同じではないのでしょうか、違うのでしょうか。「掛算に順序はない」とシンプルに主張される方もおられるでしょうが…)、しかし実際に「行き過ぎ」があるのは確かで、そういう「行き過ぎ」がある状態では、「1つ分の大きさ×いくつ分」と書くことの意義を擁護することができないからです。

 実際私は何年か前まで、「高学年になると順序固定の発想ははずれていくと思うし、小学校の先生は高学年も教えることがあるんだから、そんなに心配しなくてだいじょうぶよ〜♪」と能天気に思ってました。でも、学校図書の教科書では比例の式まで2通りに示してあることを知り(っていうか娘の学校がその教科書を使っていた)、青ざめたしだい。

 また、すっかりおざなりになってしまっている(私にとってはかけ算の順序よりも違和感の大きかった)二重数直線のことも気になっています。何かが、おかしな方向に進んでいる。

 ところが・・・

 文部科学省に意見を出そうと思うようになって、文部科学省の資料に以前よりも目を通すようになり(といってもこれがまた膨大な量で、読んでいないに等しい状態)、文部科学省は文部科学省で考えているなぁと思うことが増えました。報道よりも、発表そのものを読んだほうがよいみたい。

 また、先日読んだ筑波大附属小算数研究部の冊子でも、共感する部分が予想より多く、問題意識が近いと感じられてほっとしたわけなのです。

 なのに、なんでこういうことが起こっているのか・・・

 と思うわけなのですが、takehikomさんの記事について何も書いていないので、次のエントリで。

(つづく)
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いったん別の論文をはさみます/算数と数学の接続をはかる比例の学習

 筑波大学附属小学校算数研究部企画・編集の『算数授業研究 VOL.80(かけ算を究める)』(2012年)を読んでいる途中ですが、いったん別の論文をはさみます。



 少し前に、Twitterから得られた情報をもとにして、次の論文を知ることができました。

算数と数学の接続をはかる実践家と研究者の協働的デザイン研究
「文化-歴史的活動理論」に基づく比例の学習指導を例として
大谷 実/金沢大学

http://ks001.kj.utsunomiya-u.ac.jp/~math46/otani.pdf

 大谷実さんは「2.比例の指導内容の概観」の最初で、こう述べられています。

 比例は第 5 学年でその用語も含めて素地的な指導が,第 6 年で正式に指導されるが,その考えは,かけ算の学習から暗黙的に用いられ,小数・分数の乗・除法,単位量あたりの大きさ,割合,比,面積や体積の求積公式にも関連する.

 この「(比例の)考えは,かけ算の学習から暗黙的に用いられ」ということについて、これまでずっと考えてきました。さらに、大谷実さんが「内比・外比」という言葉を使って語っておられることについても、しつこく考え続けてきました。

 大谷さんが言うところの内比とは、「xの値が2倍、3倍、…になると、それにともなってyの値も2倍、3倍、…になる」というふうに、xの値どうしの比、yの値どうしの比のことで、小学校ではこれが比例の定義になっています。

 一方、外比というのはxの値とyの値の関係を式で表すときの比のことで、y=axという式を使って比例を定義する中学校は、まさにこの外比に注目していることになります。比例は、小学校と中学校では、定義が異なっています。

 xとyの関係を横長の表に表した場合、「横の関係」が内比、「縦の関係」が外比ということになります。そのことを、比例の対応表についてさらにつっこんで考えるなどで書いてきました。

 大谷さんは、

その際,数表,式,グラフの中で,児童は,外比を避け,数表を用いて内比で,横にみる傾向が強い

と書いておられますが、傾向が強いというより、そのように指導されてきているのだと思います。

 さらに読み進めると、

小学校の式 y=(決まった数)× x は,データを操作する一般的な規則(公式)である.中学校の式 y=ax は,すべての対(x, ax) からなる集合を表す静的な対象となる.対象であるがゆえに,「比例 y=ax は」という,主語としての表現が使用される

とあり、この話は遠山啓が関数の導入教材として「ブラックボックス」を提唱したこととつながると私は思いました。(なお、数教協的には“シェーマ”というべきところなのですが、もう「教材」と呼ばせていただきます)

 そして、

現行学習指導要領では,関数領域が新設され,第1学年で関数の概念を学ぶ.このことは,比例を関数として捉え直し,小学校で劣勢であった外比の見方を強調し,式で考えることへと誘う役割を果たす.

と述べておられます。

 まさにその通りで、小学校ではxとyの関係を示す式から比例をとらえることは「劣勢」です。前回の指導要領改訂で、比例の学習の一部が中学校から移行されていますが、あいかわらず「式」の意味するところは劣勢であり、しかもその段階で学校図書は「y=きまった数×」と「y=x×きまった数」の2通りの式を教科書に載せているのです。

 なお、「y=x×きまった数」が何を示しているかは、教科書だけではわかりません。その直前にある問題が「三角形の1辺の長さと周りの長さ」の比例関係なので、おそらく(1つ分の数)×(いくつ分)の「いくつ分」を3に固定すると、「y=x×3」になるということが言いたいのではないかと想像しています。つまり、最初から与えられている「3」を「外比」とする比例関係を考えていることになります。

 ちなみにこの外比と内比は、4マス関係表とも関わってきます。

 で、1あたり量や帰一法に重きをおく数教協の考え方でいくと、小学校の段階から中学校方式(大谷実さん言うところの外比)に焦点をあてて比例を学習するのが筋だということについて、そうなると話は比例の定義・導入に集約されていくで書きました。

 大谷実さんの論文の記述にいちいち頷いてしまうわけですが、果たして現在の算数教育のメインストリームをなしている方々は、こういうことをちゃんと考えて学習指導要領や教科書を作っているんだろうか?という疑問がわいてしまいます。

 なお、「文化-歴史的活動理論」以降の部分をとばして最後の部分を読むと、

教師は「今までのかけ算っていうのは,実は比例だった」とまとめた.

という記述があります。

 このまとめに Yes というのか No というのかを、算数教育を専門とされる方々にきいてみたい……ということを、『算数授業研究VOL.80』を読む前に書いていたのですが、少なくとも杉山吉茂さんはYesと言われることがわかりました。他の方もNoとは言わないでしょうが、意識の度合いは様々かもしれません。

 ただ、「ちゃんと考えているか?」というと、やっぱり、あまり考えてないんじゃないだろうか……と思ってしまうのです。教科書を作る人、そして学習指導要領にたずさわる人も。そして、ごく一部をのぞく現場の先生方も。

 「リアルタイムの授業」をのぞんでいる私は「俯瞰する系統的学習」に懐疑的ですが、そうはいっても、カリキュラムなしというわけにはいかないだろう、という分別はもっています。

 だったら、ちゃんと考えてほしい。ちゃんと考えたら、もうちょっと「算数教育、ここ苦しいな」「比例ってむずかしいな」「かけ算ってむずかしいな」と思うはずだし、謙虚さが生まれるはずなのに、その苦しさが伝わってこないまま、方法論だけ開発されていっているような気がします。

 低学年から高学年をつなげる"とじひも”が二重数直線だなんて、あまりにも能天気でお粗末だ。

 子どもたちに「意味」「意味」としつこく言うなら、自分たちも「意味」を考えないと。

(つづく)

 

 

〔2018年5月1日〕記事の一部を削除・修正しました。

「かけ算の順序」論争 | permalink

ちょっと比例の話を広げてみる>エレベーターとアクリルたわし圏もどき

 秒速8mで上昇するエレベーターで比例について考えています。

 小学校方式の比例の定義でいけば、このエレベーターは、動いた時間が2倍、3倍、・・・になると、高さも2倍、3倍、・・・、になるので、高さは時間に比例するということが言えます。しかし、具体的には「8m/秒」という数値が、このエレベータの動きの“質”を表していると言えるのではないか、というところまで見てきました。

 このことを考えていたら、アクリルたわし圏もどきのことを思い出しました。エレベーターの時間と高さの対応表では、たくさんの時間と高さの組み合わせがあるけれども、瞬間、瞬間の時間と高さは1組に決まっているので、その一瞬について、時間と高さを対象にすれば、「アクリルたわし圏」もどきと同じ発想で、時間から高さへの矢印(射)が考えられるなぁ、と。

   

 一瞬を表す1組の時間と高さを対象として考えて、それを1枚の紙の上に描くとすると、エレベーターが動く様子を表すには、無限枚の紙が必要ということになるかと思います。「0.5秒→4m」の紙、「1と3/8秒→11m」の紙、「2.03秒→16.24m」の紙、……というふうに。

 でも、どの瞬間でも時間から高さへ向かう矢印(射)は「8m/秒」という数値になっているので、無数の紙をぱらぱらマンガのようにめくっても、矢印(射)の部分は止まっているように見えるのだなぁ……と思ったのです。

     

 そうなると、いよいよもってこのエレベーターの動きの本質は、8m/秒にあるように思えてきます。ともなって変わる2つの量を、ともなって変えさせるための、変わらない量というか。



 もう1つ考えてみたいことがあるので、今度はそちらのほうを。それは何かというと、高橋誠『かけ算には順序があるのか』(岩波書店)を読んで考えたこと(4)/個人的にはここが要(かなめ)で示した、積分定数さんの単位のことです。

 あのとき私は、この単位を考えることで、ますます「1あたり量」で定義するかけ算の勉強は、比例の勉強だということがわかりやすくなったと書きましたが、その点について考えなおさなくては……という気になってきたきょうこのごろ。

 どういう単位かというと、時速4kmで3時間歩いたときの道のりの式は、「1あたり量×いくつ分」の順序でいけば、一般的には「4km/時×3時間」になりますが、「3km/(km/時)×4km/時」と考えれば、3も1あたりの量の数値となる、という話で出てくる「3km/(km/時)」という単位です。

 単位だけに注目して考えると、「○/△×△」の形になっていれば、つねに「1△あたりのいくつ分」の式になるわけなので、△が分数の形になっていたってその考えはたもたれているとあのとき思ったのですが、果たしてたもたれているのだろうか……と不安になってきました。

 量にもどって考えると、「3km/(km/時)」というのは、やっぱり道のりを速さでわっているので、包含除的な「1あたり量」(「度の第三用法」)であり、“ならす”ということを前提としている等分除的内包量としての「1あたり量」と同じとは考えられないのかもしれない、と思うわけであり。

 ただ、「速さ」をきわめて外延量に近いものにする発想を思いつけば、「3km/(km/時)」は等分除的内包量になれるのかもしれません。この点については、まだ保留というか、考え中です。

 でも、あのとき面白いなぁと思ったのは、単位の分母に分数の形の単位がきていることだったのです。

 たとえば、速度、加速度、加加速度の関係を思いおこすと、「単位時間あたりの位置の変化が速度(m/s)」、「単位時間あたりの速度の変化が加速度(m/s^2)」、「単位時間あたりの加速度の変化が加加速度(m/s^3)」というふうに、「1○あたり」の1○はつねに時間なので、結果的に単位の分母のsの次元が増えていく形になります(加加速度は、エレベーターの速度制御にも役立っているという話をネットで読みました。そうなんだ〜)。

 だけど、分母側に分数の形の単位がくる量ってなんだろう?と興味津々なのです。「アクリルたわし圏もどき」では、(金額も連続量的に扱って)アクリル毛糸玉1玉に付随する「外延量」を取り出し、対象にしましたが、ここに「内包量」も入れて、内包量から外延量に向かう矢印(射)を考えることができたとしたら、「3km/(km/時)」のような“新しい量(のとらえかた)”ができるのかな?なんて思ったわけなのです。このあたりのことは、また機会があれば考えてみたいと思っています。 

 あとエントリ2こで、算数のこの話題は終わりの予定〜

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比例の対応表についてさらにつっこんで考える

 引き続き、秒速8mのエレベーターを題材にして、比例の対応表について考えていきます。

 いま、エレベーターが上昇しはじめてからの時間と、エレベーターの高さが比例関係にあることがわかっていて、下の表の黄色の数値がわからない&知りたいとします。



 その場合、黄色に対応する水色の部分もわかっているはずです。↓



というか話は逆で、この人はそもそも、6秒後のエレベーターの高さが知りたいのだと思います。そして、黄色の数値を求めるためには、どれか1つ、表の中で上下に並んだ数値の組み合わせが必要となります。下のピンクのように、3秒と24mでもいいし、8秒と64mでもいいし、1秒と8mでもいいわけで。



 たとえば3秒と24mという数値の組がわかっているとすると、だいたいは次の2つの方法のどちらかで黄色の数値を求めることになろうかと思います(三数法は除外)。



 帰一法のほうは、24÷3=8、8×6=48という流れです。もし小5の段階でこのような作業をすることがあるとしたら、倍比例で解くか、地道にたし算で求めていくことになるのでしょう。もちろん、帰一法を使ってもいいわけですが。

 ほんでもって、帰一法の場合、必ず「1○あたり」の数値にもどることになり、そのときに出てくる「1○あたり」、上記の例では「1秒あたり8m」の数値を使って、いろいろな場合について考えていくことができます。時間がわかれば、「8m/秒×時間=高さ」で高さが求まるし、高さがわかれば「高さ÷8m/秒=時間」で時間が求まるというわけです。

 こんなことができるのも、どの時間と高さの組み合わせについても、「高さ÷時間=8m/秒」がなりたっていればこそ。

 

 また、2秒後から5秒後までの3秒間で、16mから40mまで24m上昇しており、このときにも24÷3=8(m/秒)は成り立っています。なので、このエレベーターの動きを時間と高さという2量の関係でとらえた場合、「8m/秒」という数値が、この動きの“質”を表していると考えてもいいように思います。

 そして、対応表でたてにならんだ2つの数値の組は、瞬間、瞬間のできごとをとらえた数値の組み合わせと言うことができます。実際には、1と2の間にも、6と7の間にも、秒数はたくさん……というか無数にあるのですが、どの瞬間をとらえても、「8m/秒」という“動きの質”はたもたれています。

 つまり、「時間が2倍、3倍、……になると、それにともなって高さも2倍、3倍、……になる」ということは、このエレベーターの動きのタイプ(正比例)を表しているわけですが、具体的には「8m/秒」というある種の量が、この動きの質を表していると言ってもいいのではないかという気がしてきます。

(つづく)

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東京スカイツリーのエレベーターを題材に、比例の対応表について考えてみる

……の予定だったのですが、諸般の事情により速度を落とし、「高速だけどスカイツリーのエレベーターほどではないエレベーター」を題材にすることになりました。


 もともとは、比例についてもう少し具体的に考えてみようと思い、何を題材にしようかなぁとあれこれ思いめぐらせていたら、学校図書のパラシュートタワーから垂直方向の等速運動を連想し、スカイツリーのエレベーターのことを思い出したのです。

 で、速さを調べてみたら、第一展望台までのエレベーターは分速600mとのこと。秒速10m!? ひえ〜私、乗れないわ〜(娘いわく「じゃないといつまでたっても着かないでしょ」……確かに)と思いきや、池袋のサンシャイン60も同じくらいの速さらしいという噂。ちなみにランドマークタワーは分速750mだそう。

 ほんでもって、秒速10mという数値はきれいすぎてイマイチなので、ちょっと速度落として秒速8mで考えることにしました。これは分速にすれば480mであり、高速は高速のようなのですが、どんぴしゃりの建物を国内に見つけられず。とあるサイトによると、東京都庁のエレベーターがこの速さだそう。ただし、展望台のエレベーターはもう少しおそいみたい。というわけで、いずれにしろ全然タイムリーな話題にならず、こうなると高速である必要も全然ないのですが、ひとまず分速480mのエレベーターで比例を考えてみることにします。

 分速480mは秒速8mなので、エレベーターが出発してからの時間(秒)と高さ(m)との関係は、次のようになるかと思います(最初と最後は加速と減速があるのでしょうが、そこは考えに入れないとして)。



 エレベーターは整数秒ごとにワープするわけではないので、実際には時間のところに「0.5秒」や「3と1/7秒」や「6.012秒」もふくまれていて、それに対応する高さもあるわけですが、ひとまず整数だけを時間としてとりだし、それに対応する高さを考えて、表にまとめていることになります。

 ちなみに、遠山啓が比例の「シェーマ」として水槽を使ったのは、連続して変化し、しかもその様子がよくわかる量を使いたかったからだと思います。針金の場合、長さは目に見えても重さは見た目では変化がわからないし。また、水を入れる時間と水面の高さを使わなかったのは、時間的なものよりは空間的なものがわかりやすいという認識があったからでしょう。その結果、xとyの関係が「倍あるいは比」になっており、この点を遠山啓はどう考えていたのだろう、という疑問があります。倍・比につなげるためあえてそうした考えることもできないこともないですが、帰一法との関連を考えると、最初から内包量として「倍または比」を採用することにはやはり無理があると感じています。

 それはそうとして、上記のような対応表をつくると、時間の変化にともなって高さがどう変わるのかがつかみやすくなり、まず、時間の数値がふえると高さの数値もふえることがわかります。さらによく見ると、高さの数値は8ずつ大きくなっていることがわかります。8の段の九九みたいだ。

 ほんでもって、時間の数値が2倍、3倍、……になると、高さの数値も2倍、3倍、……になることに注目して比例を定義していくのだと思います。ひとまず2倍、3倍、……の様子は、時間を1から2、1から3、……と変化させていくことでわかりますが、それだけではなく、2から6へ3倍したり、4から8へ2倍したり……というふうに、いろいろな場合について、2倍、3倍、……を確かめるのでしょう。

 まだ教科書を確認してはいませんが、小5ではだいたいここまでで、小6で「高さ÷時間」が一定であることと、時間をx秒、高さをymとしたとき、y=8×x という式で表せることを学ぶのだろうと思います。おそらく小6では、どの教科書も「1あたり量」にあたるものが比例定数になるように問題を設定しているだろうと推測しています。2量として異なる種類の量を使っているだろうし、「y=x×決まった数」になると気持ちがわるいでしょうから。

 なお、「新算数・数学教育実践講座」刊行会発行の『心に広がる楽しい授業 第11巻 比例の考え 正比例・1次関数』では、「倍」としての「割合」でも、ブラックボックスを使っています。このことの意味については、またのちほど考えます。

(つづく)

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かけ算の式を「外延量」「内包量」の視点で考えてみる

 かけ算の式について、外延量・内包量の視点で考えることをまだしていなかったので、ちょっと考えておくことにします。

 遠山啓&数教協の「量の体系」では、まず、量を分離量と連続量に分けるところから始まり、連続量は外延量と内包量に分けられます。なお、外延量・内包量という用語は遠山啓が使い始めたわけではないようなのですが、算数・数学教育のなかにがっちり取り入れようとしたのは遠山啓および数教協なのだろうと私は認識しています。

 というわけで、本来ならば連続量のなかで外延量と内包量の区別を考えるのがスジなのですが、、小2で出てくるかけ算との関わりを考えられるよう、いまは外延量的分離量、内包量的分離量も含めて、外延量と内包量の区別を考えたいと思います。

 外延量というのは物体の合併がそのまま加法を意味するような量で、長さや重さなどがあてはまります。内包量というのは、密度、速度、濃度など、2つの外延量の関係で決まる量で、外延量が“大きさ”もしくは“広がり”の量であるのに対し、内包量は、いわば“性質の強さ”を表す量と考えればよさそうです。

 既測量を「1」とおくことは困難か?/「倍」としてのかけ算というエントリで2つのかけ算の種類を示しましたが、青枠で示した「1あたり量」も、赤枠で示した「倍」も、どちらも内包量であり、2つの外延量のわり算で求めることができます。なので、「1あたり量」のかけ算のほうは「内包量×外延量」だし、「倍」のかけ算は、「外延量×内包量」の形をしています。



 そして今回、外延量と内包量の関係式をもう少し詳しく……というか、外延量だけで書くとどうなるんだろう?と思いつき、次のようなことを考えてみました。



 割合のほうがやや不安です。同種の量の割合だからこう書くしかないのだけれど、本来、分母も分子も「未測の外延量」のほうがいいのではなかろうかという疑問があり、その場合、Bという記号をつけることが、少し気持ちわるいからです。「1人あたり4こ」と「1mあたり4g」は違うものだけれど、4この「6倍」と、4gの「6倍」は、同じ「6倍」だから。消費税の10%も、食塩水の濃度10%も、生産量増加の10%も、同じ10%だから。

 ついでといってはなんですが、「1あたり量」のかけ算と関わりの深い「度の三用法」(ここでは「1あたり量」の三用法とよぶことにします)と、「倍」のかけ算と関わりの深い「割合の三用法」についても、外延量・内包量の区別でとらえてみることにりました。


 
 等分除・包含除の発展形は、ほんとうにそう考えてよいのかどうかまだもやもやしていますが、外延量と内包量の区別でかけば同じ形になる除法が、包含除・等分除という区別でいけば別物になるというのが、なんとも不思議です。ここではA、Bの区別をつけなかったのですが、やはり異なる種類の外延量であるか、同じ種類の外延量であるかで、商の意味はかわってくるのかもしれません。

 それにしてもやはり不安なのは割合のほうです。

 「割合」って、やっぱり量じゃなくて、数なのかな。

 ちなみに。

 遠山啓も、「倍」「比」を内包量に入れた系統図と、「倍」「比」は内包量からのぞいた系統図の両方を、同じ時期に書いています。著作集・数学教育シリーズ5のp.105(『算数教室』1960年11月号)では、内包量を度・率・倍・比の4つに分け、それをまた割合として1つに括っていますし、シリーズ6のp.23(『数学教室』1960年11月増刊号)では、内包量を度と率の2つに分け、これに倍と比を加えた4つを割合で括っています。

 その分類自体がどうよ?という話はありますが、あれこれあれこれ考えるにつけ、もしかすると、小2のかけ算自体を、「倍」で定義しちゃうという道が、現実的になっていくということがないともいえないなぁと感じるきょうこのごろです。歴史的にはあともどりになるでしょうか。

 そして、「単位量あたりの大きさ」も「割合」も「二重数直線」で、ほぼ同じもとして扱う。違いは、下の線に単位があるかないかだけの話。そうすれば、数教協が「単位あたり量」と称した量も、教科書で称しているように「単位量あたりの“大きさ”」となり、それは「数としての割合」と、ほぼ同義のものとなる。また、「単位量あたりの大きさ」は、比較としての平均や人口密度、すなわち除法の段階にとどめ、速さは単独で扱う。さらに関数は、いっそのこと変量を扱う関数ではなく、対応関係として扱う。なんなら思い切って算数教育から量を排除してしまう?……と、そんなところまで妄想はいってしまうのでした。それを望んでいるというわけではなく。

 遠山啓の21世紀のサウンズは、どのようなものなのでしょうね……>

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数教協が除法を「度の第一用法」で一本化しようとしていたとき

 過去にも話題に出している小豆の含有率の問題()は、遠山啓著作集・数学教育論シリーズ5『量とはなにか〈1〉』のなかに書かれてあるもので、初出は1960年です。どういう話かというと、小豆の含有率が3割の「米と小豆の混合物」4kgにふくまれている小豆の重さを、子どもたちが0.3×4=1.2という計算式をつくって求めたという話です。なお、実際にどういう形で問いを設定したのか、どういう数値だったかはわかりません。

 単純に割合の問題として考えれば、4×0.3のほうが一般的だと思いますが、子どもたちは実験から混合物1kgあたりに小豆が0.3kg含まれていると考えて、0.3×4という式をつくったようなのです。実は「割合×もとにする量」という形で書いていたというオチが絶対にないともいえませんが、おそらく「1あたり量×いくつ分」の発想だったのだろうと私も思います。

 遠山啓はこのことについて、p.133で次のようなことを語っています。

この考え方だと,率の第三用法もいままでとは考え方がちがってくる。含有量がPで,含有率がRであるとき,全体の量Sは,
   S=P/R
となる。いままでの考え方だと、
   P=S×R
の逆算と考えられ,拡張された等分除と考えられてきた。ところが,ここでのべているやり方によると,「1gあたりRgだけふくまれているから,Pgふくまれているためには,全体がP/Rgだけなくてはならない」という考え方になってくる。これは,等分除ではなく,包含除である。分数や小数で割るときには等分除より包含除のほうが考えやすいことを思い起こすと,この新しい方法のほうが考えやすいのではないかと思う。この点は現場の実践によって試してみるとおもしろい。

 しかしそれから数年後。数教協は2本立てになっている除法を「度の第一用法」で1本立てにすることを考えました。これについては遠山啓著作集・数学教育論シリーズ4『水道方式をめぐって』所収「除法の合理的なアルゴリズムとはなにか」に書かれてあります。初出は1964年。

 遠山啓は、最初の段落でこのように語っています。(丸付き数字はかっこ付き数字で示しています)

加法にしろ乗法にしろ,その背後には無数に多くの現実的な過程が存在していて,それらを代表する一つのパターンにすぎないのである。
このことを念頭におくなら,算法をどのように意味づけるかの問題は,おのずから解決の方向が見い出されるであろう。

(1)――算法が代表する現実的な過程のすべてに,たやすく一般化できるような実例をもってくる必要がある。
(2)――将来,算法の意味の拡張が行なわれるさいにも,障害なく拡張できるものでなければらならない。

(p.225)

 そして次の段落で「度の三用法」を出してきています。「度」というのは異種の2量の割合、つまり「単位量あたりの大きさ」のことです。たとえば密度を例にとると、次のようになります。

 第一用法  質量÷体積=密度
 第二用法  密度×体積=質量
 第三用法  質量÷密度=体積

 「割合の三用法」(遠山啓は「率の三用法」とよんでいる)と見比べる全体的に構造が異なっていますが、除法についてはひとまずおいといて、第二用法だけみると、「割合の三用法」とは式の順序が構造的に異なっていることがわかります。その違いを詳しく見るためには外延量と内包量の違いをおさえておかなければならないのですが、これがまた一仕事なのであとにまわすとして先を読んでいくと、「乗法の意味づけに第2用法が用いられることはいうまでもない。ほかに乗法は存在しないからである。ところが,除法になると,第1用法と段3用法のうち,どちらを選ぶかという問題がおこってくる」と遠山啓は語っています。

がんらい,第1用法は,その意味からすると等分除の拡張であるし,第3用法は包含除の拡張である。従来のように,等分除と包含除をたがいに氷炭相容れないような別物と考えるのは正しくない。少なくとも分離量の段階では同じ過程を別の角度から眺めたものと考える柔軟な見方のほうがよい。たとえば,12枚の紙を3人に分けるという問題は,意味の上からは明らかに等分除であるが,1人1枚ずつのトランプ配りの方法をとれば,包含除とみなすこともできる。

(p.226〜227)

 というわけで、遠山啓は「6×4,4×6論争にひそむ意味」()という文章を書くよりも10年前に、すでにトランプ方式に触れています。「6×4,4×6論争にひそむ意味」では、6人の子どもに4こずつみかんを配るとき、「4こ/人×6人」という式だけが「1あたり量×いくつ分」の式ではなく、1人に1こずつ6こ配ることを4回くりかえせば「6こ/回×4回」というふうに、「1あたり量」と「いくつ分」の数値を入れ替えることができるじゃないか、という意味でこの話を出していましたが、除法の側からみれば、24このみかんを4こずつ6人に配るという状況は、「24こ÷6人=4こ/人」という等分除でもあるし、「24こ÷6こ/回=4回」という包含除でもある、というわけです。

 しかし連続量になってくるとこの2つは明らかに別物だ、と話は続きます。13Lのショウユを3人にわければ答えを分数で出すことになるけれど、13Lのショウユを3Lずつに分けるとあまりが出る。「ましてや,第1用法と第3用法になると,その意味のちがいはますます明瞭になってくる」と。

 そんなこんなで、除法をどちらで意味づけするかという問題は軽くみることのできない重要な問題だけれども、量の体系が出てくるまではこういう問題意識さえなかったし、量の体系が現われてからも明確な方針がなく、あるときは第一用法、あるときは第三用法というような形になっていた、と遠山啓は書いています。それが1963年あたりから、一貫して第一用法で除法を意味づけることの具体的な導入法が探究されるようになったようなのです。
 

 というわけで、1963年頃の数教協は「量の体系」をつくるなかで、除法を「度の第一用法」で一貫して意味づけることの具体的な導入法を探究していたようです。「度」は異種の2量の割合で小学校の教科書でいえば「単位量あたりの大きさ」に対応し、「率」は同種の2量の割合なので、小学校の教科書の単元でいえば「割合」に対応します。なお、ややこしいのですが、数教協の「量の体系」では、内包量は「度」と「率」に区別され、これに量ではない「倍」と「比」を加えた「度・率・倍・比」が、「割合」とされています。

 現在、小2のかけ算は「1つ分の数×いくつ分=全部の数」で導入されているわけですが、ここで出てくる「1つ分の数」は、「単位量あたりの大きさ」に対応します。「6人の子どもに4こずつみかんを配る」というときの「4こ」は「1人あたり4こ」だし、「8こ入りのキャラメルが7箱ある」ときの「8こ入り」は「1箱あたり8こ」です。なので、単位をつけて「1あたり量」を書こうとすると、「4こ/人」「8こ/箱」のように、○/△の形になります。

 したがって、かけ算は「度の第二用法」で意味づけされている、ということができます。

 かけ算はそれでよかったとしても、わり算をどうしようかということで、1963年頃の数教協は、「度の第一用法」で一貫して意味づけることを考えたらしいのです。度の第一用法というのは「全体の量÷いくら分」という形の式で、つまりは「1あたり量」を求めるわり算です。それも当然な話で、そもそも「度の第二用法」は、第一用法に出てくる除法の結果としての「1あたり量」があればこそ成り立つ式であり、第一か第三かとなったら、できれば第一で……となるのが当然の成り行きでしょう。

 そしてこのとき数教協が利用したのが、水の体積と水槽でした。4.83L÷2.3は、4.83Lの水を次の図のように目盛った水槽に流し込んだときの“1当たり量”を求めることだとしたのです。

   

 「ああ、これが乗法&除法のためのタイル図の原型だったのか」と、ひとり勝手に納得&推測した私なのですが、歴史的な前後関係はよくわかりません(なお、数教協の“教具”として実際に「水槽」がありますが、こういう細かい目盛りのついたものを私は見た記憶がありません)。

 この水槽を前から見た様子をそのまま平面図として考えると、斜線部分の「1あたり量」(と、ここでは書いておきます)は横の長さが必ず1なので、結果的にはたての長さが「1あたり量」に相当し、数教協のタイル図のたての長さが内包量を表すことと一致します。

 なお、「÷2.3」に入る前に、「÷2」や「÷3」を同じ水槽でやってみせて“助走”を行なうことがのぞましい、とも書いてあります。そうすることで、「÷2.3」の答えが「÷2」と「÷3」の答えの中間にくることもすぐに納得できるだろうし、ここから「÷1.3」にうつり、さらに「÷0.3」に進むことも可能だろう、というわけです。

 思えば包含除というものはひき算とつながりやすい考え方なので(24このみかんを4こずつわける場面を具体的に考えるとき、24−4−4−4−4−4−4=0という計算をしているともみなせる)、加法・減法と乗法・除法を切り離して考える(遠山啓はこのことを主張していた)とき、減法につながりやすい包含除よりも、等分除的発想の度の第一用法で除法を一貫して意味づけるというのは、なるほどな流れです。

 が、しかし。

 上の図の「2.3」には単位がありません。包含除ではないので「2.3L」ではないのは確かです。では、「2.3」に単位をつけるとしたらなにになるのか? 「cm」と考えれば細長〜い水槽になり、「m」と考えれば幅広〜い水槽になるかもしれませんが、そうだとしても、1cmあたり○Lや、1mあたり○Lに、どんな意味があるのだろう?と首を傾げてしまいます。そう考えると、これは「度」の図ではなく、「倍」の図に見えてきます。というか、「倍」の図だと思うのです。

(つづく)


〔2018年4月9日〕
 分けて書いていた記事をひとつにまとめ、整理しました。
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「わられる数=わる数×商+あまり」においても教科書にぬかりはなかった

 かけ算を、「1つ分の数×いくつ分=全体の数」で導入すると、その逆算として、「1つ分の数」を求める等分除と、「いくつ分」の数を求める包含除が考えられるということをみてきました>。そして「あまりのあるわり算」というものもあるわけで、これも3年生で学びます。基本的には「あまりのあるわり算」は包含除で考えるのが自然かと思いますが、等分除も出てきます。

 たとえば、娘が使っていた学校図書(平成16年検定済、22年発行)の小3下の教科書では、導入は包含除(23このみかんを4こずつふくろに入れる)ですが、そのあと「42このくりを,5人の子どもに同じ数ずつ分けます。1人分は,何こになって何こあまるでしょうか」という等分除的な問題が出されています。当然のことながら42cmのリボンを5等分するような問題は出されていません。

 そして4年生。ここでは「小数×整数」に限定して小数のかけ算を学んでおり、「1つ分の数×いくつ分=全体の数」というかけ算の式に照らし合わせると、整数はかならず「いくつ分」であり、そうすると当然、「小数÷整数」は「いくつ分」でわるわり算、すなわち等分除になりそうなものですが、学校図書の小4下の教科書(平成22年検定済、23年発行)をみてみると、確かに導入は等分除(5.7mのリボンを3人で分ける)なのですが、ちゃんと包含除も出てくるのです。「あまりのあるわり算」で。

 どういう問題を使っているかというと、「テープが13.5mあります。2mのテープで花かざりを1こ作ります。花かざりは何こできて,テープは何mあまるでしょうか」という問題。そしてここで、「わられる数=わる数×商+あまり」を学ぶのです。

 私は以前、このあたりの段階で「1つ分の数×いくつ分=全体の数」の順序がくずれるんじゃないかと思っていたのですが、上記のテープの問題では「13.5÷2=6あまり1.5」→「13.5=2×6+1.5」となり、見事に「1つ分の数×いくつ分=全体の数」は守られています。

 「あまりがある計算」は包含除で考えるのが自然なので、ということは「1つ分の数」でわることになり、自然、「わる数×商」が「1つ分の数×いくつ分」になるという流れです。というか、だからこそこの言葉の式になっているのかもしれません。方程式風に考えれば、「わられる数÷わる数=商」の変形は、「わられる数=商×わる数」のほうがしっくりくるわけであり。

 等分除だってわりきれないことがあるだろうに……と思いきや、ちゃんと「2.3Lのジュースを6人に同じ量ずつ分ける」という問題があって、ここでは何を学ぶかというと、「わり切れなかったり、けた数が多くなったりしたときには、がい数で求める」ということを学ぶのです。もはや小数まで世界は広がっていてわられる数は連続量なので、等分除を整数でとめるのも不自然だし、がい数を学習済みなので、こういうことができるわけです。

 あまりのあるわり算って、整数の世界の話(がメイン)という印象があるのですが、そんなこんなで、整数のわり算の段階では、「わられる数=わる数×商+あまり」の式は出せないわけです(×、+の混じった式を既習か否かも関わってくるかも)。なぜならば、等分除「全体の数÷いくつ分=1つ分の数」に適用したときに、「全体の数=(制限のある)いくつ分×1つ分の数+あまり」となってしまうので。いっそ、「等分除であまりのあるわり算ってないんだ」とすれば話はスッキリするのですが、立派でリアルな「あまりのある等分除の問題」を作ってくださっているのです。
 
 一方、東京書籍(平成22年検定済)はどうなっているかというと、やはり「小数÷整数」を等分除(3.6Lの水を3人で等分する)で導入したあと、あまりのあるわり算を計算問題として考えさせて、「13.5mのリボンから4mのリボンは何本とれて、何mあまるか」という包含除的な文章問題を出しています。

 さらに東京書籍の小6上の教科書で「分数のわり算」をみてみると、そこにあるのも等分除の発展形(3/4dLのペンキで板を2/5m^2ぬれるとき、1dLのペンキでは板を何m^2ぬれるか)ですが、もはや“等分”の雰囲気はなく、「1dLのペンキでぬれる板の面積」や「ホース1mの重さ」を求める問題になっています。

 つまり、△dLで□m^2ぬれるとき、1dLで○m^2ぬれるとすると、□÷△=○という式ができることを分数にまで発展させたものですが、○と△と□を使って「1あたり量×いくつ分=全体の量」の形の式を作ると、○×△=□となります。これも「商×わる数」の形になっているのですが、いまは「あまり」が出ないので、例の公式は関係ないということになるのでしょう。「あまりが0」というのは考えないのだな。

 いやはや、教科書にぬかりはないようです。というか、実にうまいことやってます(表面的には)。とにもかくにも「1あたり量×いくつ分=全体の量」の順序は、徹底されているようです。

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