TETRA'S MATH

数学と数学教育

量の次元

 前回、同じ量のお米を、いろいろな数値と単位の組み合わせで示せることについてみていきました。体積と重さ、尺貫法とメートル法、SI単位とそうでないものをごちゃまぜにして考えましたが、あらためて考えてみれば、体積と重さの違いと、尺貫法とメートル法の違いとは、同じ「違う」でもその違いかたが違いますね。

 どれがいちばん"違うっぽい"かは一概にはいえませんが、やはり体積と重さの違いは、とーっても違うという感じがします。他のことは、取り決めは大変だとしても、ストレートな換算のイメージがあるのに対し、「体積←→重さ」の場合、「お米ならば…」という前提が必要になってくるので。

 同じ1合でも、水だったりお酒だったりすると、数字が違ってくることでしょう。お酒の種類によっても違ってきそうです。つまり比重や密度の問題がかかわってくるのであり、g/^3 という新しい単位が必要になるわけであり。

 「長さと重さ」のような質の違いが、どうやら量の次元と関わるらしいのです(ここで「質」という言葉を使うのは、銀林浩『量の世界・構造主義的分析』の影響を受けてのこと…かもです)。

 個人的には、次元ときくと、1次元、2次元、3次元、…が浮かびますが、「量の次元」はちょっと趣が異なるみたい。というわけで、国際単位系(SI)をのぞいてみることにします。
https://www.nmij.jp/library/units/si/R8/SI8J.pdf

 SIで使用される基本量7つ(長さ、質量、時間、電流、熱力学温度、物質量、光度)と、そのそれぞれの次元の記号が載っています。他の量はこれらの基本量によって組み立てられ、組立量の次元は基本量の次元のべき乗の積で表されるとのこと。

 無次元もしくは次元1の話も出てきています。これがいわゆる「ディメンジョンがない」というやつですね、きっと。数教協いうところの「率」。速さや密度のような異種の量がつくる内包量(こちらは「度」)ではなく、2つの物体に属する1種類の量からつくられる内包量。

 遠山啓は、ディメンジョンがない量を区別するため、「度」と「率」を分けたのでした。>濃度は純粋な「数」

 考えてみれば、秒速8m も 8秒 も 8 も 8g も 8^3 も 8g/cm^3 も、みんな「8」という数を使っているのに、どういう単位がつくかで量の質がまったく違ってくるのが面白いです。

 式でいえば、4×6=24 は、4m×6m=24m^2 かもしれないし、4m^2 × 6m = 24m^3 かもしれないし、4m/秒 × 6秒 = 24m かもしれない。

 24÷4=6 は、24m^2÷4m=6m かもしれないし、24g ÷ 4cm^3 =6g/cm^3 かもしれないし、24m ÷ 4m/秒 = 6秒 かもしれない。

 ということを、『数理科学』の谷村省吾さんの連載を読みながら考えています。もちろん、上記のようなことが書かれているわけではありません。この連載で「ベクトル空間の枠」なるものと初めて出会い、最初は「何それ!?きいてないよー!」となったのですが、どうやらこの枠が量の単位と関わってくるらしいのです。

 「枠」とは何かというと、雰囲気は「基底」に近いのですが、基底よりもしばりがあるもののようです。そのしばりというのは、並び順のこと。気づいてみれば、基底って順序は関係なかったのね。


[栞がわりにリンク]

日本分析化学会>量の表しかた
http://www.jsac.or.jp/bunseki/pdf/bunseki2011/
201102nyuumon.pdf
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単位の森/180000と2.5をつなぐお米の事情

 前回、かけ算で新しい量をつくることを考えるにあたり、お米の量を題材として取り上げました。まずは「1合」で、そして「150g」で。150gという数値は実測から導いたわけではなく、検索してだいたいそのあたりらしいと知りました。ふだんは計量カップではかるだけで、重さを意識したことがなかったので。

 「とりあえず」150gで設定することになったのは、米1合はジャスト150gではないという意識があったからなのですが、mLなら180ジャストかというと、そうでもないらしいのです。検索したら180.39という、これまた中途半端な数値が出てきました。

 1人1泊1合にしたのは、「人数×宿泊数」にそのまま「合」をつければよいため簡単なのと、それなりにリアルな量だからということがありました。そして条件は同じのまま150gという量に変えることもできます。比例定数としては1より150のほうがわかりやすいかと思います。

 そういう意味では、150gじゃなくて180mLにすることもできるし、180佞砲癲180cm^3にもできます。「合」が尺貫法の体積の単位であることを考えると、同じ「体積」という量に換算したほうが自然といえば自然かもしれません。でも、はかりやすいのは重さかな。

 大量になったときにはどうすればいいかというと、kg や L という単位がいてくれます。あるいはこの際、どーんと「俵」で考えてみる!?

 「あれ?そういえば"俵"って…」と調べかけて、こういうことしてるとまた単位の深い森に迷い込みそうだと感じたので引き返すことにして、同じ量を示すいろいろな数値と単位についてもう少し考えることにします。

 たとえば、50人が20泊する合宿で必要なお米の量1000合は、1合を150g、180mLと考え、1俵=4斗=40升=400合とすると、150000gでもあり、150kgでもあり、0.15tでもあり、180000mLであり、180000佞任△蝓180000cm^3であり、0.18m^3であり、180Lであり、100升であり、10斗であり、2.5俵でもあることになります。

 重さだったり、体積だったり、単位系が違ったり…と状況は様々ですが、とにかくこれらのどれでオーダーしても、同じ「量」といっていいであろうお米が用意されるというのがなんだかおもしろいです。「1000」と「150」と「150000」と「0.18」と「2.5」はまったく違う数値なのに。もっとも、体積と重さを「同じ」というのはちょっと反則っぽい気がしないでもありません。

 単位のことを考えると、いつも頭がくらくらしてきます。と同時に、「単位って社会的なものなんだなぁ」としみじみ感じます。

 過去のくらくらのリンクです↓

水1リットルの重さは1kgであるか?(1) 
水1リットルの重さは1kgであるか?(2)
水1リットルの重さは1kgであるか?(3) 
「比的率」は外延量という考え方(4)/国際単位系SIと「単位1」
「比的率」は外延量という考え方(5)/「単位」の深みにはまる

 あっ、先日「木と森」についてのエントリを書きましたが、今回の表題の「森」という言葉はそのことは意識せずに書きました。俯瞰するのではなく、迷い込んだら自分がどこにいるのかよくわからなくなる場所というイメージで。

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かけ算で新しい量をつくる/テンソル積の手前にある複比例

 「これまで出会ったなかでいちばんわかりやすい圏論の説明」でも書いたように、谷村省吾さんは現在、3か月に2回のペースで、月刊誌『数理科学』に連載記事を書いておられます。
http://www.saiensu.co.jp/?page=magazine&magazine_id=1

 「幾何学から物理学へ 物理を圏論・微分幾何の言葉で語ろう」というタイトルで続けられているその記事の第5回、「テンソル積の普遍性」のオープニングをはじめて読んだとき、「助かるなぁ〜」という印象をもちました。

 そして、「物理学者のための圏論入門」に触発されて思い出したことを書いたいま、この数行があらためてじわじわときています。谷村さんが、「異種の物理量を組み合わせて新種の物理量を生み出す」という言葉を使われていることについて。

 つなぐものの存在感/比例定数とアクリルたわし圏のラストで書いたように、数教協がいうところの内包量は、外延量のわり算でつくることができます。

 ならば、かけ算でも新しい量をつくれるのではないか?

 …って、そんなに気負わなくてもすぐに思いつくのは、面積のこと。たての長さ、よこの長さという2つの量のかけ算でつくられる「面積」という量は、これはこれでかけ算によってつくられる新しい量なのでしょう。

 あるいは、秒速8mで3秒間進んだときに進む道のり 8×3=24(m)も、「かけ算によってつくられた量」といっていいのかもしれません。しかし、このなかの「8」が「2つの量のわり算でつくられた量」なのだとしたら、8×3=24は「もとになっている量(のなかまの量)を出してくるかけ算」という雰囲気があり、このままの状況では"新しくつくった感"がありません。

 秒速8mが「使える量」であるように、かけ算でも「使える量」がつくれないだろうか? その使い方の意味は違うとしても。

 ということを考えるにあたり、複比例を学ぶことにします。森毅『線型代数 生態と意味』と銀林浩『量の世界・構造主義的分析』を参考文献にして。

 まずは比例についておさらいしておきます。比例とは、小学校風にいえば、xの値を2倍、3倍、…したときに、それに対応するyの値も2倍、3倍、…になるような関係のことでした。また、中学校風にいえば、比例定数をaとして、y=axの形で表される関数のことです。

 複比例になるとどういうことになるかというと、2つの数量と、そのそれぞれに比例するもう1つの量との関係なので、変量が3つになり、文字が3つ必要になります。

 3つの文字を x、y、z とすると、数教協風にいえば、ブラックボックスの入力側から x と y を入れたとき、出力側から z が出てきて、x が一定なら z が y に比例し、y が一定なら、z が x に比例するような、そんな関数のことです。

 森毅『線型代数』でも銀林浩『量の世界・構造主義的分析』でも、「荷物を運ぶときにかかる料金」を例にとって複比例を説明しています。荷物の重量 x t、輸送距離 y 劼函運送料 z 円の関係。もっとも、世の中の運送料は、こんなにぱっきり比例関係で決められてはいないことでしょう。銀林先生も次のような注釈をつけておられます。
 もちろん,現実の社会においては,遠距離逓減性とか,重さが何tから何tまではいくらといった階段規定が設けられていて,今述べたことが厳密に成り立つとは限らないが,それでも,基本は上述のようであって,これらのさまざまの規定がそれからの変則であることは,常識的にもわかることである。
(銀林浩『量の世界・構造主義的分析』p.184)

 荷物の重量が一定で輸送距離が2倍になれば、運送料も2倍になる。輸送距離が一定で荷物の重量が3倍になれば、運送料も3倍になる。このとき、xy をひとまとめで考えることができれば、z=a(xy)という、比例のような式がつくれそうです。

 ということを考えていきたいのですが、やはりどうにもこの例はしっくりこないので、別の場面で考えることにしました。それは、「合宿のために用意するお米の量」です。もっとも、これはこれでフィクションになってしまうかもしれません。なお、この例を思いついた背景についてはのちほど書きます。

 とある合宿では、1人が1泊するとき、米1合を用意しなければならないとします。1人が3泊するときには3合必要だし、5人が1泊するときには5合必要です。なので、10人が2泊する場合は、20合のお米を用意する必要があります。

 この場合、x 人が y 泊するときに準備するお米の量 z 合は、z=xy という式で表せます。

 なので、2人が6泊しても、3人が4泊しても、12人が1泊しても、必要なお米の量は12合で同じです。お米を用意する側からみれば、何合必要かだけがわかればいいので、「3人が4泊」から「4人が3泊」に変更になったとしても、特に困ることはありません。

 では、お米の量を「合」ではなく「g」で考えるとどうなるでしょうか。お米1合の重さをとりあえず150gで設定すると、z=150xy という式ができます。単位は、xが「人」、yが「泊」、zが「g」。150gというのは、1人、1泊分のお米の重さです。

 もし、xyをひとまとめに考えてもいいのだとしたら、その単位は「人泊」としたいところです。実際、この単位は世の中で使われているらしいのです。 http://www.mlit.go.jp/kankocho/news02_000287.html
https://www.pref.chiba.lg.jp/kankou/toukeidata/kankoukyaku/
documents/h16irikomi-2.pdf

http://www.cs-t.jp/ppBlog/moby.php?mode=show&UID=1245352995

 合宿の夕食で毎晩、新鮮なお刺身を用意しなくてはならず、そのためのお魚を考えるのならば、1人が15泊するのと15人が1泊するのとではだいぶ状況が違ってきますが、お米だったらどちらも15合用意すればいいわけで、先ほども書いたように状況の違いは問題ではなく、「15人泊」という事実がわかればいいわけです。(もっともお米の場合も、期間がもっと長くなると話は別ですが)

 では、y=150xyの「150」は何かというと、1人が1泊するときに必要なお米の重さなので、単位をつけるとすれば「g/人泊」ということになりそうです。このような量のことを、銀林先生の本では「複内包量」とよんでいます。1つの外延量を、2つの外延量でわって得られる内包量です。

 y=8xの「8」を「使える量」というならば、z=150xyの場合は「150」がそのなかまになるのかもしれません。しかし、「150」が「8」と同じ立場になれるのも、xyをひとまとめとして変数のように扱えればこそだと思うのです。

 なんてったって、「数教協いうところの外延量」どうしのかけ算です。

 この「人泊」を使おうと思ったおおもとのきっかけは、谷村さんがテンソル積を説明されるなかで、人が働く仕事量の例を出されていたことでした。『理工系のためのトポロジー・圏論・微分幾何〜双対性の視点から〜』にもその話が出てきていて、「人月」という単位が登場します(p.152)。

 この発想は、複比例で2つの量の積を考えることにそっくりです。実際、森毅の本でも、複比例のあとにテンソルを配置する組み立てになっています(銀林先生も複比例の欄外注でテンソル積に触れておられます)。

 ということは、複比例の一歩先にはきっと、テンソル積があるのでしょう。

 今回はテンソル積を理解するところまではいけませんでしたが、「かけ算によって新しく量をつくる」ということを実感できたことが、大きな収穫となりました。
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木が先か、森が先か/そして往復運動のイメージ

 これまで出会ったなかでいちばんわかりやすい圏論の説明に触発されて思い出したことを書いています。

 上記リンク先において、「木を気にせず森を見る」という表現に対し、最初はなるほどと読むだけだったのに、読み返すうちにかすかな緊張感をともなう考え込みの時間をもつことになったという話を書きました。圏論というよりは、「木と森」という言葉のイメージからくる考え事ではありました。

 なぜ考え込んだのかというと、自分はずっと、木に定位することをよしとしてきたように思うからです。

 たとえば俯瞰する教育が嫌いだと言ってきたこと。そんな自分が「三種の矢」をわかりやすいと感じた、その事実をどうとらえるか。

 私が言う「俯瞰する教育」とは、「全体を知っている人が、その部分として行う教育」のことです。もちろん、学校教育はカリキュラムなしでいきあたりばったりで行うべきだと言いたいわけではないのですが、「ここをわかっておかないとあとで困る」という言い回しに、どうにも抵抗があるのです。

 たとえば娘が小6のときの保護者会で、あれこれいい話が聞けたなか、「中学校で困るから確実に」という話が比例・反比例に対してなされたときの違和感といったらありませんでした。

 また、遠山啓がかけ算をたし算のくりかえしと定義することに反対して、“1あたり”から”いくつ分”を求める計算と定義するべきだとした背景には、「×0」「×1」「×小数」「×分数」の困難を消すというねらいがあったと私は理解しています。これに対しても、「最初はたし算のくりかえしのイメージでいいんじゃない? 小数が出てきたときに、あらためてかけ算の意味を考えればいいんじゃない?」と思ってきました。

 このことに関連する話題として、カヴァイエスが挙げている「乗法の反復としての指数」の例というエントリも書いています。

 そう、谷村さんの文章を読みながら、どういうわけかカヴァイエスが頭にちらつくのです。

 たとえば、真理の発掘と、空からの俯瞰の間にある運動を生け捕りにするというエントリにおいては、「空から俯瞰することと地面のしたを潜ること、あるいは超越と内在とのあいだに生じる弁証論的な生成そのもののメカニズムを把握すること」について述べられた部分を引用しました。

 それをいえば、当の谷村さんの本からも、外延と内包の絶えざる往復と問いかけの部分を抜き出したことがあります。

 さらにこの往復運動のイメージは、郡司ペギオ幸夫『時間の正体』で出会った、膨張・収縮、反復のイメージともつながっていくのです。その話ではもろに「木と森」が出てきていました。
「現在」の膨張・収縮
 ウイスキーが半分入っている瓶と「わたし」の関係

 先日もリンクした倉田令二朗関連のエントリ()のなかのリンク先()で触れているように、森毅は遠山啓に対して、方法論は実体中心の外延的還元主義だが、感性としては機能中心の内包的全体主義でもあるというようなことを語っています。遠山啓を恩返しの意味をこめて批判的に検討してきた自分も、結局、同じなのではないか…ということをこのたび感じています。

 それはまるで、あのときのようです。反実在論者だと思っていた自分が、バリバリの実在論者――反実在論者に憧れていて、できればいつか寝返りたいと思っている実在論者――だと気づいたとき。
科学的実在論の中での、自分の立ち位置
 哲学は、数学を、どのように分析してきたか 

 「物理学者のための圏論入門」のp.2では、「聞くところによると」という書き出しで、圏論の創始者のひとりであるマックレーンの話が出てきます。マックレーンはもともと自然変換という概念を定義しようと考えたようで、自然変換を定めるために関手という概念が必要になり、関手を規定するために射・対象という概念を定めたのだとか。

 だとしたら、「三種の矢」がわかりやすいと感じたことも不思議ではないかもしれない…と思うことで、なんだかよくわからないショックをやわらげようとしています。
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ハッセ図の思い出アルバム

 これまで出会ったなかでいちばんわかりやすい圏論の説明に触発されて思い出したことを書いています。

 p.10に「圏は有向グラフ(directed graph)に毛の生えたようなものです」という言い回しがあって、思わずくすっとなってしまいました。

 「そういえば射には向きがあるんだよなぁ」ということをあらためて感じています。対象と対象がただつながれているわけではなく、向きのある線、すなわち矢印で結ばれているということ。

 自分のブログではハッセ図をよく描いてきたのですが、そもそも有向グラフとハッセ図では何が違うのだろう?という素朴な疑問を今さらのように抱いたしだい。

 有向グラフにおいて矢印で結ばれている関係を上下の位置関係で示し、とある条件を満たす線分を省略して示してよいのがハッセ図らしいというふうに現段階では理解しています。

http://www.f.waseda.jp/moriya/books/DM/sec3.4.2.pdf
http://www.hongo.wide.ad.jp/~jo2lxq/dm/lecture/03.pdf
http://www.sw.it.aoyama.ac.jp/2007/Math1/lecture9.html

 そんなことも知らないまま、これまでたくさんのハッセ図や矢印の図にお世話になってきたわけですが、ここらで一堂に会させて眺めて楽しみたいと思います。図を集めて楽しむのが目的なので、詳しい説明は抜きにして、もと記事のリンクだけします。

***

メルアド交換の市松な人間模様

  

   

 

電話連絡網の階段な人間模様

   

   

論理学の幾何学的表現と双対原理

     

 

4次元のハッセ図

     

直観主義論理を表すハッセ図・1

     

直観主義論理とド・モルガンの法則(1)

     

亀井図式を見ながら考えたこと

     

素数指数表現と約数構造図

     

因果集合は、順序集合

 

ハッセ図上での「現在」の移動と、粗視化した時空

      

客観的な出来事系列と主観的時間系列の調停 (2)

 

生活ブログ>もうひとつの「網」のイメージ

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自己と外界の境い目で起こること

 これまで出会ったなかでいちばんわかりやすい圏論の説明に触発されて思い出したことを書いています。関連エントリを最後にまとめてリンクしてあります。

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 自分が「境い目」にこだわり始めたのがいつだったのか、なぜそういうことになったのか、スタート地点はもはや思い出せませんが、オートポイエーシスの本の次の記述は大きなきっかけになったように思います。

河本英夫『オートポイエーシス――第三世代システム』p.11より
 オートポイエーシスが議論の焦点の一つとしているものに、「境界」がある。自己の境界はどこにあるのかと問うさいの境界である。口の中に雑居する六十億個の細菌は、自己の内なのか外なのか。腸の中に住む百億個の雑菌は自己の内なのか外なのか。酸素を吸着する肺細胞の一歩手前は、内なのか外なのか。いったいどのようにして自己の境界を考えたらよいのか。

 そうして境い目への興味はやがて、「1」はなにゆえ「1」になれるのかというところにつながっていきました。1、2、3、…というふうにものを数えていけるのは「1」が「1」になれればこその話であり、「1」を「1」たらしめる境界があればこそのこと。

 前書きに触発されたものの、オートポイエーシスについてはさっぱり意味がわからないままでした。それがはじめてほんの少しわかったような気がしたのは、郡司ペギオ幸夫さんの話をネット経由で聞いたときです。皮肉にも、オートポイエーシスに対する共感しつつの批判的検討のなかでの言葉だったと私はとらえています。

 オートポイエーシスは、外部との接触面にできる亀裂を想定していないから時間と無関係であるという話。亀裂とは、インターフェイス、痛み=傷み、ダメージのこと。

 一方で「主体性」へのこだわりもありました。教育の面では「主体的に学ぶ」ことについて考えたかったし、生活の面では「主体的に暮らす」ということを考えたかったのでした。

 生活の面においては、「主体的ではない」ということと消費社会が結びついていき、意外なところで「境い目」に出会いました。堤清二経由で知ったマージナル産業という言葉です。「一番端っこにあって、商品の性格が変わる場所にある産業」ということのようです。堤清二は、一番端っこの、商品の性格が変わるマージナルな場所で、消費者が自分を回復しやすい、個性の過程に入りやすいものを考えて提供するのは、流通業者として立派な役割ではないか……と考えていたようです。

 というふうに主体性にこだわっていくうち、逆に、主体性というものの不確かさに意識が向かうようになりました。そこには近代というキーワードがあったし、構造主義もからんでいました。

 少し雰囲気は違いますが、森田療法も自己と外界を考えるうえでヒントになります。森田療法は神経症の治療法のひとつであり、簡単に言えば、不安を排除しようとせずそのままにして、やるべきことをやっていくうちに不安が消えていくといったような、そういう治療法だと私は理解しています。その根底に「自分自身の中身に自分はダイレクトに手を出せない」という発想があるように感じて、それがとても面白いのです。また、「外相整えば内相おのずから熟す」という考え方もします。

 谷村さんの「物理学者のための圏論入門」p.5では、「圏論では、関係性があって初めて個性が定まるという考え方をする」という話が出てきます。言い換えれば、まず個性があって、それが関係性を定めるというわけではない、ということだと思うのです。そんな圏論の性質が、上記のような「境い目」への意識をバリバリに思い起こさせてくれるのでした。

[関連エントリ]

オート(自己)ポイエーシス(制作)と「境界」
0と1にまつわるとりとめのない曖昧な思考
「1」は数えられる対象を表す記号ではない
「自己」にまつわるとりとめのない曖昧な思考
郡司ぺギオ-幸夫さんのプレゼン映像を見て思ったこと
マージナル/意外なところで「境い目」に出会う
姜尚中『悩む力』―私と他者の「相互承認」
〈学ぶ主体〉を〈学校教育〉以前に認めないということ/芦田宏直『努力する人間になってはいけない』第7章(1)
「外相整えば内相おのずから熟す」―――形から入る
おまけ:「経験主義の二つのドグマ」、ホーリズムの基本テーゼ、「ふち」
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つなぐものの存在感/比例定数とアクリルたわし圏

 これまで出会ったなかでいちばんわかりやすい圏論の説明に触発されて思い出したことを書いています。

 (図4.1)には、左側に3本、右側に3本の矢印が描かれていますが、左を見れば各bとaを結ぶ矢印があり、右を見ればaと各cを結ぶ矢印があります。つまり「●→●」の組み合わせの図です。そして全体を見ると、矢印にはさまれたaに焦点があてられているように見え、「→●→」が中心になった図に見えます。

 この場合、「●→●」に見えるか「→●→」に見えるかは、視点のおきかたしだいですが、「●→●」を転換させて「→●→」にすることもできるように思います。

 以下、再び過去の図を使いまわして、上記のことを比例関係につなげて考えてみたいと思います。

***

 下の対応表は、あるエレベーターが上昇しているときの時間とエレベーターの高さとの関係を表したものです。途中で止まることや微妙な速度の変化は想定しておらず、単純に比例関係としてとらえてあります。(48の欄の黄色は気にしないでください)



 たてに並んだ2つの数値について、(高さ)÷(時間)を計算してみると、どこも「8」になります。



 この8は、比例定数であり、時間をx秒、高さをymとすれば、y=8xという式が成り立ちます。8に単位をつけるとしたらm/秒となり、このエレベーターの上昇する速さを示しています。

 また、2秒後から5秒後までの3秒間では16mから40mまで24m上昇しており、このときにも24÷3=8(m/秒)は成り立っています。なので、このエレベーターの動きを時間と高さという2量の関係でとらえた場合、「8m/秒」という数値が、この動きの“質”を表していると考えてもいいように思います。

 そして、対応表でたてにならんだ2つの数値の組は、瞬間、瞬間のできごとをとらえた数値の組み合わせと言うことができます。実際には、1と2の間にも、6と7の間にも、秒数はたくさんあり、どの瞬間をとらえても、「8m/秒」という“動きの質”はたもたれています。

 つまり、「時間が2倍、3倍、・・・になると、それにともなって高さも2倍、3倍、・・・になる」ということは、このエレベーターの動きのタイプ(正比例)を表しているけれど、具体的には「8m/秒」というある種の量が、この動きの質を表していると言ってもいいのではないかという気がしてきます。

 そこで、一瞬、一瞬について、時間と高さの組み合わせのカードを作ることを考えてみました。

  

 左に「時間」、右に「高さ」を置き、まんなかには「高さ÷時間」の数値を置きます。いま、矢印を示す数値はすべて「8m/秒」となるので、これらのカードを重ねてぱらぱらマンガのようにめくると、時間と高さは刻々と変わるのに、矢印の部分は止まっているように見えると思います。

     

 そうなると、このエレベーターの動きの本質は、8m/秒にあるように思えてきます。ともなって変わる2つの量を、ともなって変えさせるための、留め具のようなもの。

 この発想のもとになったのが、「アクリルたわしの圏」でした。当時、アクリル毛糸でたわしを作っていたので、たわし1個をつくるときに出てくる様々な量-----「値段:220円」「重さ:45g」「長さ:67m」「面積:275^2」を取り出して、これらを圏の対象とし、分母を始域、分子を終域にした分数を圏の射として、圏が作れないかを考えたことがあるのです。

   

 それぞれの分数を小数第2位までの概数で表して単位を添えると、次のようになります。

   

 これらの値が何を表しているかというと、丸1は1円あたりの重さ、丸2は1gあたりの長さ、丸3は毛糸1mで編めるたわしの面積、丸4はたわし1cm^2を編むのにかかる毛糸の値段、丸5はたわし1cm^2を編むのに必要な毛糸の重さです。図には示していませんが、「220円」と「67m」も結ぶことができます。ちなみにそれぞれの矢印をひっくり返した矢印も考えられます。

 射の合成は「かけ算」で考えることにして、恒等射を「1」にすれば、圏の定義を満たすのではないか…と考えたしだいです。

 エレベーターの例にしろ、アクリルたわしの圏にしろ、2つのものの間にある量は、数教協でいうところの内包量と考えられます。そして、関係を考えられている2つのものは外延量です。

 なお、数教協がいうところの外延量とは、合併がそのまま加法につながる量だと私は理解しています。それに対して内包量は合併がそのまま加法につながらない量のことなのですが、「加法につながらない量」というと曖昧なので、外延量のわり算によってできる量と考えると私はすっきりします。

 ということは、内包量は外延量がないと成り立たない量ということになり、先に外延量ありきと思えてきますが、今回まとめたことは、内包量そのものの存在感を感じるためにやってみたことです。すなわち、「●→●」を「→●→」にする試みです。

関連エントリ>抽象的な関数より、具体的な内包量
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2つのものが作る1つのものと、1つのものが作る2つのもの

 今回は、これまで出会ったなかでいちばんわかりやすい圏論の説明に触発されて思い出したことのひとつを書きます。

 表題の件については、自分でも「またそれか…」と思うくらいしつこく考えてきました。2点があればそれを結ぶ線分がひけ、1本の線分があればその両端としての点が2つできるということ。2点の間に線分がひけるのは2点が別々の点であればこそであり、線分は2点をつなげるものであると同時に、2点の隔たりを確認するものでもあるということ。

 また、私が私であるためには、私と私以外のもののあいだに境い目がなければならず、その境い目が私と私以外を区別して私をつくるのと同時に、私を外界へとつなぐということ。についてもしつこくこだわってきました。なかなかその先に進めないまま。

 以下、生活ブログ>カテゴリー:鈴木健『なめらかな社会とその敵』を読みながら・・・に書いたことから、部分的に抜き出してあらためてまとめてみます。

***

 区切られた場所を2つに分けるには1本の線をひけばよい。

    

 しかし区切られていない場所の場合、1本の線では2つに分けることができない。

     

 ならば、線の端と端をつなぎあわせて、わっかにしてみようか。

     

 そうすると、「内側」と「外側」が生まれる。「1」が生まれる。「1」がたくさんあるとどうなるだろう?

     

 寄せてみると・・・

     

 細胞みたいだ。これをぎゅっと凝縮させると・・・



 網の目に見えてくる。しかし、このときの青い線は、「つなぐ線」ではなく「へだてる線」だ。ここまでが「私の領域」ですよ、となわばりを示す線。この状態から、膜を点に凝縮してみる(下図の黄色の点)。そして、それぞれの「へだてる線」を横切る赤い線を考えてみる。たとえば青い線が国境だとしたら、赤い線は出入国のルートのようなものなので、国が2つ接しているところに、ルートが1つできる。

     

 このときの赤い線は、「つなぐ線」となる。面を凝縮させた黄色の点は、膜内を制御していた「核」ではなく、青い膜を凝縮させたもの。

***

 長くなるのでひとまずここで区切ります。なお、鈴木健『なめらかな社会とその敵』については、このブログでもカテゴリーを作って、かなりの数のエントリを書いています。
http://math.artet.net/?cid=61004

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これまで出会ったなかでいちばんわかりやすい圏論の説明

 久しぶりの更新らしい更新です。表題の件、さっそくリンクします↓

谷村省吾「物理学者のための圏論入門」
https://drive.google.com/file/d/0B-wUHJlJ-mgXRnFpcXE5Q1lVLUk/view

 ″物理学者のための…”と銘打ってありますが、物理学者ではない人もまったく臆する必要のないものです。

 このブログでは以前、谷村省吾さんの著書についてご紹介させていただいたことがありました↓

谷村省吾『理工系のためのトポロジー・圏論・微分幾何〜双対性の視点から〜』のp.24〜25とp.200に感動するhttp://math.artet.net/?eid=1421783

 それがきっかけとなり、谷村さんから直接メールをいただくというしあわせなできごとがあったのが昨年11月。その後、何通ものメールをやりとりさせていただき、このたび上記リンク先の文章を知ることができたのです。

 今年の2月に行われた研究会の講演をまとめたもので、後半では手書きのノートも公開されています。なお、谷村さんは現在、3か月に2回のペースで月刊誌『数理科学』に連載記事を書いておられます。

 谷村さんの文章に出てくる比喩はとてもわかりやすく、谷村節とでも呼びたい語り口調があって楽しいです。

 このような種類の文章にネタバレもなにもないのかもしれませんが、興味のある方は、まず全文を通して読んでいただければと思います。

***

 では、私の感想を書いていきます。

 読み始めていきなり「三種の矢」に目から鱗でした。「圏論のテキストたち、最初からそう言ってくれよ〜」と思うことでありました。私の場合、最初に時間をかけて圏の定義を理解しようとして、なんとなく「射」のイメージがつかめてきたところで「関手」や「自然変換」という用語に出会い、すでに「射」のイメージが固定的になってしまっているうえスタミナ切れで、「関手」や「自然変換」まで理解する気力がわかなかったのです。

 最初から「三種の矢」があるよと言ってもらうと見通しが立つし、そのことで「射」の理解もかえって進むのではないかと感じました。というか、そういうびっくりすることは最初に言ってもらうと助かる…という感じでしょうか。なぜ3つなのかについても触れられていてありがたいです。

 そして「4 圏論の考え方」、″谷村節炸裂”という感じで楽しいところです。自分の意識がいろいろな方向へぐーんと広がっていくのを感じました。なんだったら圏論をはなれちゃってもいいくらいの気持ちになりました。そんなことでいいのでしょうか。いいのでしょう。

 特に、「関係性があって初めて個性が定まる」というお話は、これだけでしばらくご飯が食べられそうな魅惑的なフレーズです。さらにその先の「木を気にせず森を見る」という表現については、最初は「なるほどなるほど」と能天気に読むだけだったのですが、読み返すうち、かすかな緊張感をともなう考え込みの時間をもつこととなりました。

 考え込むうち思い出したエントリを1つリンクします↓

倉田令二朗が、「遠山啓の現代数学観は反圏論的」という、その意味 http://math.artet.net/?eid=1421664

 そうしてその先、ようやく圏の定義が出てきて、いくつかの用語や図式の説明へと入っていきます。自然数の「大小関係の圏」「約数の圏」の例がとてもわかりやすいです。

 後半の手書きのノートには「ひらがなしりとり圏」と「カタカタしりとり圏」の文字も見えます。なるほどわかりやすそうです。檜山正幸さんのしりとりの圏については、私も圏論の学びはじめのとき大変お世話になりました。

 さらに普遍射のところでは、「肩書のないaさんがF社と取引をする話」が出てきていて、なんだか楽しそうでわかりやすそうです・・・

 と、「わかりやすい」を連発しているので、ちょっとここで話を変えます。そもそも「わかりやすい」というときの「わかる」とはいったいどういうことなのでしょうか。筋道が追えるということでしょうか。正しく理解するということでしょうか。

 私はブログを始めて10年以上たちましたが、昨年度は、「自分はブログでわかったふうなことを書きすぎてきたなぁ…ほんとうは何もわかっちゃいないのに…」と思うことがありました。

 しかし、このたび久しぶりに更新をするにあたり、思い出したのです。自分は「何かをわかろうとするプロセス」を書き記すためにブログを書いてきたのではなかったか、ということを。

 ふりかえれば「わかる」ということ自体についてもこれまで何度も書いてきました↓

わかるということ/岡潔『春宵十話』ふたたび
あとで考えたいことの整理(合理主義と経験主義、ハイデッガーとスピノザ)

 もしかして「わかる」ということは、「自分のものとして感じられる」ということなのかもしれません。ということであればつまり、わかりやすいということは、「自分のものにできそうな予感がする」ということなのでしょう。

 もっとも、自分のブログの昔の記事を、まるで人が書いたもののように新鮮な気持ちで読むことがしょっちゅうあります。

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『圏論の歩き方』第12章/見える矢印、見えない矢印

 『圏論の歩き方』第12章を読んでいます。

 次のセクションのタイトルは「見える矢印,見えない矢印」となっています。Q&Aの前の締めくくりであり、冒頭の問い「なぜ数学を教えるか」に向かって思い切り冒険的なことを考えてみたところです。

 著者が接しているのはバイオ系の学生さんなわけですが、その問題意識に肉薄したいと思い、著者はよく生物学の本や論文を眺めることがあるそう。そのとき非常に印象深いことは、「矢印のシステム」がいたるところに書いてあることなのだそうです。たとえば代謝のネットワーク、あるいは遺伝子発現の機構など。

 これらは、いってみれば「見えない矢印」を、「見える矢印」によって表現し、理解しようとしているわけであり、細かいことを除けば、まさに関手をつくりだそうとしているのだといってよいでしょう、と著者は語っています。(その最後のところに欄外注がついていて、哲学者田口茂氏のお名前が出てきます)

 これらの「見えない矢印」は実にさまざまの意味をもっていて、中でも重要なのは、矢印A→Bが、

    AがあるからBがある/AがなければBがない

を意味する場合ではないでしょうか、と話は続きます。これは、一見数学における「AならばB」と似ているようでありながら、異なるものであり、“むしろ「反対向き」であり,かつ,「順序」や「時間」といったことを捨象しない立場”というかっこ書きが添えられています。

 たとえば、AがあるからといってBが「必ず」あるとは限らない。むしろ、「蒔かぬ種は生えぬ」といったような関係をあらわす矢印と見るのが適切とのこと。

 そしてなんと、ゴーダマ・ブッダの「縁起」の話が出てくるのです。

 つい先日、別のことがきっかけとなり、noteで「無」がない話というテキストを書いたばかりなのです。考えてみれば『圏論の歩き方』第12章で縁起が出てくるのはすでに知っていたので、頭のどこかで意識していたのかもしれません。ちなみに私がnoteに書いたテキストは、中村元『龍樹』を参考にして中観派の考え方を少し取り上げたものであり、論敵であった説一切有部と何が違ったかについて「縁起」の話を出しています。

 『圏論の歩き方』第12章の著者である西郷さんは、ブッダの縁起を出す前に、先ほどの矢印のA、Bについて、

決定論とは注意深く切り離したうえで,これを「因果関係」と呼ぶことはさほど的外れではないでしょう.

(p.207)

と書いておられます。そして、丸で囲んだ「因」から、丸で囲んだ「果」へ矢印が出ている図が示されていて、その上に「因があるから,果がある」、下に「因がなければ,果がない」と示されています。

 ゴーダマ・ブッダが「縁起」を説いた際、「因果関係」をこの定式でとらえ、それに基づいた論理を駆使していたという話には欄外注があり、哲学者石飛道子氏のお名前が出てきます。

 縁起に触れられているのはほんの少しで、このあとは因果関係についての矢印の重要性のこと、まったく異なる分野である仏教と医学の共通点のほか、震災、原発事故といった言葉も出され、わたしたちはこれからますます、いままで見過ごしていた「見えない矢印」を「見える矢印」にしていく必要があることと、消し去るべき矢印を消し去る必要もあることについて語られています。さらに、アメリカ・インディアンの「自分の矢は自分でつくるしかない」という諺も示されています。

 著者は、数学は(圏論に限らず)その矢印を引いていくヒントを与えると信じるとのこと。というわけで、なせ数学を教えるのかという問いに対する著者の現在の答えは、「すべての人に矢印を引いて欲しいから」というものになっています。

 さて。

 さきほどお名前を出したおふたりの哲学者についてです。

 田口茂さんについては、西郷さんとの接点について検索してみたところ、神経科学者の土谷尚嗣さんとの共著である論文を見つけました。がしかし英文でございまして、いまは読み解く気力がなく…。もっとも、日本語でもわからなかったような気がします。ちなみにタイトルからしてすでに「Using category theory …」になっています。

田口研究室>2016年 01月 06日 Paper accepted
http://taghoku.exblog.jp/25242984/

 石飛道子さんについては、検索しても西郷甲矢人さんとの接点は見つけられませんでした。そのかわり余計なものを見つけてしまいました(と一瞬思ってしまった)。三浦俊彦さんと何か論争になっているのでしょうか? 三浦俊彦さんのお名前ってどこかで見たぞ、どこだっけ……とこのブログを検索して解明。クワインに興味をもったときに参照させていただいた方でしたか。こちらも、これ以上のことを調べる&読む気力がいまはなく…。

 ただ、西郷さんが哲学者の方々と議論をしながらご自分の考えを進めていっておられるということに対しては、興味津々です。いずれ機会があったら、さらにその先の話を読んでみたいです。

 それはそうとして、因果関係の矢印と聞いて思い出すのは、郡司ペギオ幸夫『時間の正体』を読んだときに出てきた因果集合のこと。あのとき本を参考にして自分で作った図がこちら↓(因果集合は、順序集合より)

   

 なんか当時それなりにがんばってましたね私〜。マルコポーロさんの論文も参照しようと努力したし。でも、がんばったわりに、結局、なんにもわからなかったというか、なんにも残っていないというか、少し何かつかめたかもしれないけれど、すっかり消えてしまっております。いま読んでもわかる気がしない…(涙)

 私にも「矢印プリーズ!」と言いたいけれど、自分の矢印は自分で作るしかないし、矢印はどうしたら作れるのかも自分で習得していくしかないのでしょう。

 以上、『圏論の歩き方』第12章を読んでいきました。このあとのQ&Aは割愛させていただくことにして、第12章についてはこれで一区切りにしたいと思います。


※ 読み落としや間違いに気づいたときには、そのつど訂正させていただきます。
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