TETRA'S MATH

数学と数学教育

7年越しの「時間の正体」

 郡司ペギオ幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』をはじめて手にしたのはいつだったのか確認したら、2010年でした。時の過ぎるのはなんとはやいこと…というよくある言い回しも、この本を手にしているときには口にするのを一瞬ためらいます。

 いまあらためてページをめくってみると、郡司さんが何をしようとしているのか、そのおおまかな骨子がようやく見えてきたと感じます。見えてしまえばやるべきことはシンプルでした。そのシンプルなことがとても難しい。

 まず難しいのは第3章、マルコポーロさんの議論の理解です。マルコポーロといっても13世紀に旅をしたあのマルコポーロではなく、現代の物理学者のマルコポーロさん。『時間の正体』第3章の組み立ては、次のようになっています。

 3−1.マルコポーロとマクタガート
 3−2.因果集合と因果的歴史
 3−3.時間を評価するジ―ブ
 3−4.因果的歴史の時間モデル
 3−5.因果的歴史モデルとしての束
 3−6.排中律の破れ

 いまとなっては、この組み立てを見ただけで、何かわかったような気になります。

 第3章の結論は、私の目からみるとあっけないものでした(郡司さんも「突飛な結論でもあるまい」と書かれています)。これを言うためにそんなに大がかりなことをしなくてはいけなかったの!?と感じた私。その大がかりさがけして不快ではないとはいえ。

 マルコポーロさんが出した結論(郡司さんの解釈経由、私の理解)とは、「過去でも未来でもない時間というものが、内的限定観測者にとっては実在する」というものです。上記3−6のタイトルでそのいわんとすることのおおまかなイメージがつかめるのではないでしょうか…と、いまなら言えます。

 郡司さんはこの本で圏論を前面に出していませんが(用語をそのまま使っていない)、マルコポーロさんは実際に圏論を使っていると私は認識しています。たとえば subobject classifier を思わせる図なども示されています。

 また、郡司さんが最初に{内側,外側}というモデルをつくったのは、マルコポーロさんの論文での{1,0}にあたるもので、これは最初に話をわかりやすくするためにブール代数を採用したのだろうと理解しています。

 それが『時間の正体』第3章では途中からジーブなるものにかわり、このジ―ブがなんなのかかつて悶々としました。そして sieve なることばに行きつきました。いまだ定義はわからぬまま。

 どうやらこの sieve という言葉には「ふるい」という意味があるようで、実は遠山啓の著作集にも出てきます。

 一方、それはそれとして、「やっぱり随伴関係を少し勉強しておいたほうがいいのかな…」と思うにいたり、清水義夫『圏論による論理学』でヒーヒー言いながら勉強するうち、それを具体的に感じるために、これまでスルーしていた「巾」とその1つの定理の理解が必要になり、それをまたヒーヒー言いながら勉強しようとしていたら、相対擬補元なる概念に遭遇したのです。

 補元については、『時間の正体』を読んでいたこともあり、テーマのひとつとえいばひとつになっていたものの、そこに相対と擬がつくのはどういうことなんだ…? と本をはなれて検索してみると、どうやら直観主義のハイティング代数関連の概念らしいと判明。

 もちろん、直観主義はマルコポーロさんの議論と直結している話なので、別に不思議もなんでもないことだし、相対と擬がつくことから検索前に気づいてよさそうなものなのに、気がつかなかったのです。そして気づいてしまうと、自分のなかで「ははーん、そういうことね」という声がきこえました。

 結局私は、大きな旅はしていないようです。近所の半径15mくらいの散策を続けているみたい。だから、てくてく歩いていくだけ。だけど、指先1僂寮こΔ鬚里召ために虫めがねが必要なこともあるし、それより小さい世界は顕微鏡がないと見えない。そのツールをときどきちょっと変えているだけなんだなぁと、このたび思いました。

 そういえば久しぶりに、金子洋之『ダメットにたどりつくまで』もひっぱりだしてきていました。下記のエントリを書いたのも2010年。郡司さんの本にダメットの名が出てきているところがあったので、その関係で手にしたのでしょうか。

 数学はメンタルな「行為」だと主張した人:ブラウワー
 http://math.artet.net/?eid=1402034

 半径15mを散策するのに、一生かかりそうです。

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「a」を翻訳するとえらいことになる

 清水義夫『圏論による論理学 高階論理とトポス』のなかの、略式モンターギュ文法による自然言語の断片の形式化のところを読んでいます。ちなみに検索するとモンタギュー文法と出てきます。こちらの言い方のほうが近いのかな?

 前回は John でしたが、次は a fish です。"a fish walks." !

 構文解析は図で示されていて、いまとなってはこれがとてもわかりやすいのですが、とりあえず言葉で表現すると、

  fish に a が作用して a fish になり
  walk(s) に a fish が作用して a fish walk(s) になる

という具合です。

 普通名詞 fish は fish´et で いいのですが、限定詞 a(または any、some)はえらいことになります。こんな感じです↓

     λxet.λyet.∃ze(xet(ze)∧yet(ze))

 ブログのエディタ画面ではもっとえらいことになってます。aがよくここまで増殖したことだと思うことであります…って、そういう話じゃないけど。

 ちなみに限定詞 all(または every)の場合、上記の「∃」が「∀」に、「∧」が「⊃」になります。こういう論理記号についてはもちろんのこと、これより前の部分に説明があるのですが、そのあたりは割愛して結果的に a fish walk(s) がどう翻訳されるかを示すと、次のようになります。

  (λyet.∃ze(fish´et(ze)∧yet(ze)))walk´et

 これが論理規則によって ∃ze(fish´et(ze)∧walk´et(ze)) と整理されます…って、今回は整理された感じがあまりしませんが。

 そしていよいよ、

  John believes that a fish walks.

です。何がいよいよかというと、こういう「――であること」、つまり that 節はどう表現されるのかという意味でのいよいよです。結果だけ示すとこんな感じです↓

 (λxet.xet(je))(believe´t<et>(∃ze(fish´et(ze)∧walk´et(ze))))

 もはや完全に宇宙語です。これがλ-h.o.l.の論理規則とカリー化なるものによって、変形されていきます。

 見た目には記号の羅列で宇宙語だけれど、自然言語の断片がこんなふうにして形式化できるというのはありがたいことなんじゃないか…と、ほんのり感じます。

 で、段階的に考えてきたことをひとつにまとめて、図1.4と図1.5を合体させると次のようになるのだろうと私は理解しています。



 なお、be動詞を含む例文の翻訳も示されています。

 勘違い等に気づいたときには、そのつど訂正させていただきます。

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「ジョンは歩く」が (λxet.xet(je))walk’et に翻訳される世界

 いま手にしているテキストは、清水義夫『圏論による論理学 高階論理とトポス』です。自然言語の断片が略式モンターギュ文法で形式化される様子についてみていこうとしています。なお、斜体指定にしたほうがよいと思われるところがたくさんあるのですが、ここでは省略させていただいております。

 "John walks."を構文解析すると、自動詞 walk(s)に固有名 John が作用したことによって生成される文だとみなされること、John と walk にそれぞれ λ-h.o.l.の項を対応させると、John のほうは関数になることについて前回みていきました。実際にはこんな感じです↓

    自動詞 walk → walk´et
    固有名 John → λxet.xet(je

 自動詞 walk に対応している walk´et は、同じ walk という字母だけど、あくまでも λ-h.o.l.の記号なんだよということで ´がつけられています。ちなみに本では walk のフォントも変えてあるようです。小さい et は et タイプというものを示しているようです。

 タイプとは何かというと、内容的には「高階論理にかかわる意味世界の各領域の指標」とのこと。e タイプは個体 entity を要素とする個体領域の指標 e で、t タイプは真理値 truth value を要素とする真理値領域の指標 t です。

 タイプの定義から、α、βが各々タイプであるとき、<α、β>はタイプとなり、これはαβと略記してよいという省略法があるので、et は<e,t>の略記なのだと思います。

 <e,t>タイプの項についてはp.21に補足があり、これは一階の述語論理での述語に相当するものらしいです。 たとえば「人間」という述語は、個体を要素とする集合の部分集合{x|xは人間である}(=Hとする)に対応しているけれど、一方で真、偽を要素とする集合が存在する場合、この部分集合Hには、x∈H のとき h(x)=真、そうじゃないとき(記号が出せないので言葉で…)h(x)=偽であるような関数hであり、つまりは<e,t>タイプの項だ、と。walk には一階の述語論理のいわゆる述語が対応するから、et タイプということになるらしいです。

 次に John ですが、何しろ一個体なので e タイプの領域の項 je が対応しそうなものですが、構文解析でみたように、John は walk(s)に文を対応させる作用としての機能をもっていて、文が t タイプなので、et タイプの項を入力とし、t タイプの項を出力とする関数になる…ということのようです。

 以上のことをふまえて文全体の翻訳を考えると、自然言語がAB(BがAに作用してABとなる)だとしたら、λ-h.o.l. の項結合は対応している項をそのまま写して A´B´とすればいいらしいので、John walks は

     (λxet.xet(je))walk´et

となります。なんだか宇宙語みたいです。ブログのタイトルでは小文字指定ができないのでそのまま示しました。あと、考えてみれば「ジョンは歩く」は日本語なので、もう一段階、別の翻訳があることになるでしょうか。

 こんなふうに λ-h.o.l.の項に翻訳されると、λ-h.o.l.の論理としての諸規則が適用できるので、walk´et(je)と整理されます。

 本を参考にしていますが、自分の理解のもとに書いているので、勘違い等に気づいたときは、その都度、訂正させていただきます。
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John が walk(s)に作用する/略式モンターギュ文法

 谷村省吾さんの「物理学者のための圏論入門」()p.5では、圏論の融通無碍さが語られており、aからbへ向かう射fの正体・解釈は固定されていないことについて述べられています。

 それは「aからbへの変化」とも考えられるし、「aからbへの通信・連絡」とも考えられるし、「aからbへのプレゼント」かもしれないし、「aはbの祖先である」「aはbよりも小さい」「aならばbである」という関係かもしれない。

 aとbを結ぶ矢印はいろいろな関係を表すことができる…というわけです。矢印といえば思い出す、『圏論の歩き方』第12章。

 『圏論の歩き方』第12章/見える矢印、見えない矢印
 http://math.artet.net/?eid=1422228

 あらためて読み返すと、次のことが気になってきます。(p.207)
 これらの「見えない矢印」は,実にさまざまの意味をもっています.中でも重要なのは,矢印ABが,
  AがあるからBがある/AがなければBがない
を意味する場合ではないでしょうか.実際,先ほど述べた「代謝のネットワーク」や「遺伝子発現の機構」にはこの種の矢印がふんだんに存在しています.
 これは,一見数学における「AならばB」と似ているようでありながら,異なるものです(むしろ「反対向き」であり,かつ,「順序」や「時間」といったことを捨象しない立場).
 たとえば,AがあるからといってBが「必ず」あるとは限らない.むしろ,「蒔かぬ種は生えぬ」といったような関係をあらわす矢印と見るのが適切です.決定論とは注意深く切り離したうえで,これを「因果関係」と呼ぶことはさほど的外れではないでしょう.
 こういう話になるとまた、宿題にしたまま進展のない仏教の縁起のことを考えたくなるのですが、今回は少し方向を変えてみることにしました。というわけで久しぶりに手にする、清水義夫『圏論による論理学 高階論理とトポス』。

 圏の定義や各種用語の確認でお世話になってきたものの、それ以外の部分はまっっったく理解できないままでした。それがようやくほんの少しだけ面白くなってきました。第1章は関数型高階論理を扱っており、その1ページめで、一階の述語論理が万全なものではないことが述べられています。

 たとえば、「ジョンがメアリーを殴ったことが原因で、メアリーは失明した」を、一階の述語論理で

  P(a,b)⊃Q(b)

  a:ジョン、b:メアリー
  P(x,y):xがyを殴った、Q(y):yは失明した

と形式化して捉えることは、明らかに的確さを欠いているし、そうかといって、事象と事象との因果関係を表わす述語(R(x,y):xはyの原因である)を導入して、

  R(P(a,b),Q(b))

と形式化した場合、この形式化は明らかに一階の述語論理を逸脱している、と。一階の述語論理は強力な論理ではあるけれど、表現力には限界があり、より豊かな表現力をもった論理を用意することが是非必要となってくる…ということで、その一例としての関数型古典高階論理λ-h.o.l.なるものの説明に入っていきます。

 少し先に進んだ§1.4では、λ-h.o.l.の応用例として、略式モンターギュ文法なるものが出てきます。最初に出されている例文は

     John walks.

で、これを構文解析すると「自動詞walk(s)に固有名Johnが作用したことによって生成される文である」とみなされるらしいのです。

 自動詞に固有名が作用して生成される文だなんて、なんだか面白いです。自然言語の表現である自動詞walk、固有名Johnに、それぞれλ-h.o.l.の項を対応させる翻訳規則があり、Johnのほうは関数になっています。なので対応する項にはλが入っています。

 なお、λについては、以前、数教協のブラックボックス風に考えたことがあります↓

 ちょっとだけλ記号に慣れておく
 http://math.artet.net/?eid=1419159

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量の次元

 前回、同じ量のお米を、いろいろな数値と単位の組み合わせで示せることについてみていきました。体積と重さ、尺貫法とメートル法、SI単位とそうでないものをごちゃまぜにして考えましたが、あらためて考えてみれば、体積と重さの違いと、尺貫法とメートル法の違いとは、同じ「違う」でもその違いかたが違いますね。

 どれがいちばん"違うっぽい"かは一概にはいえませんが、やはり体積と重さの違いは、とーっても違うという感じがします。他のことは、取り決めは大変だとしても、ストレートな換算のイメージがあるのに対し、「体積←→重さ」の場合、「お米ならば…」という前提が必要になってくるので。

 同じ1合でも、水だったりお酒だったりすると、数字が違ってくることでしょう。お酒の種類によっても違ってきそうです。つまり比重や密度の問題がかかわってくるのであり、g/^3 という新しい単位が必要になるわけであり。

 「長さと重さ」のような質の違いが、どうやら量の次元と関わるらしいのです(ここで「質」という言葉を使うのは、銀林浩『量の世界・構造主義的分析』の影響を受けてのこと…かもです)。

 個人的には、次元ときくと、1次元、2次元、3次元、…が浮かびますが、「量の次元」はちょっと趣が異なるみたい。というわけで、国際単位系(SI)をのぞいてみることにします。
https://www.nmij.jp/library/units/si/R8/SI8J.pdf

 SIで使用される基本量7つ(長さ、質量、時間、電流、熱力学温度、物質量、光度)と、そのそれぞれの次元の記号が載っています。他の量はこれらの基本量によって組み立てられ、組立量の次元は基本量の次元のべき乗の積で表されるとのこと。

 無次元もしくは次元1の話も出てきています。これがいわゆる「ディメンジョンがない」というやつですね、きっと。数教協いうところの「率」。速さや密度のような異種の量がつくる内包量(こちらは「度」)ではなく、2つの物体に属する1種類の量からつくられる内包量。

 遠山啓は、ディメンジョンがない量を区別するため、「度」と「率」を分けたのでした。>濃度は純粋な「数」

 考えてみれば、秒速8m も 8秒 も 8 も 8g も 8^3 も 8g/cm^3 も、みんな「8」という数を使っているのに、どういう単位がつくかで量の質がまったく違ってくるのが面白いです。

 式でいえば、4×6=24 は、4m×6m=24m^2 かもしれないし、4m^2 × 6m = 24m^3 かもしれないし、4m/秒 × 6秒 = 24m かもしれない。

 24÷4=6 は、24m^2÷4m=6m かもしれないし、24g ÷ 4cm^3 =6g/cm^3 かもしれないし、24m ÷ 4m/秒 = 6秒 かもしれない。

 ということを、『数理科学』の谷村省吾さんの連載を読みながら考えています。もちろん、上記のようなことが書かれているわけではありません。この連載で「ベクトル空間の枠」なるものと初めて出会い、最初は「何それ!?きいてないよー!」となったのですが、どうやらこの枠が量の単位と関わってくるらしいのです。

 「枠」とは何かというと、雰囲気は「基底」に近いのですが、基底よりもしばりがあるもののようです。そのしばりというのは、並び順のこと。気づいてみれば、基底って順序は関係なかったのね。


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単位の森/180000と2.5をつなぐお米の事情

 前回、かけ算で新しい量をつくることを考えるにあたり、お米の量を題材として取り上げました。まずは「1合」で、そして「150g」で。150gという数値は実測から導いたわけではなく、検索してだいたいそのあたりらしいと知りました。ふだんは計量カップではかるだけで、重さを意識したことがなかったので。

 「とりあえず」150gで設定することになったのは、米1合はジャスト150gではないという意識があったからなのですが、mLなら180ジャストかというと、そうでもないらしいのです。検索したら180.39という、これまた中途半端な数値が出てきました。

 1人1泊1合にしたのは、「人数×宿泊数」にそのまま「合」をつければよいため簡単なのと、それなりにリアルな量だからということがありました。そして条件は同じのまま150gという量に変えることもできます。比例定数としては1より150のほうがわかりやすいかと思います。

 そういう意味では、150gじゃなくて180mLにすることもできるし、180佞砲癲180cm^3にもできます。「合」が尺貫法の体積の単位であることを考えると、同じ「体積」という量に換算したほうが自然といえば自然かもしれません。でも、はかりやすいのは重さかな。

 大量になったときにはどうすればいいかというと、kg や L という単位がいてくれます。あるいはこの際、どーんと「俵」で考えてみる!?

 「あれ?そういえば"俵"って…」と調べかけて、こういうことしてるとまた単位の深い森に迷い込みそうだと感じたので引き返すことにして、同じ量を示すいろいろな数値と単位についてもう少し考えることにします。

 たとえば、50人が20泊する合宿で必要なお米の量1000合は、1合を150g、180mLと考え、1俵=4斗=40升=400合とすると、150000gでもあり、150kgでもあり、0.15tでもあり、180000mLであり、180000佞任△蝓180000cm^3であり、0.18m^3であり、180Lであり、100升であり、10斗であり、2.5俵でもあることになります。

 重さだったり、体積だったり、単位系が違ったり…と状況は様々ですが、とにかくこれらのどれでオーダーしても、同じ「量」といっていいであろうお米が用意されるというのがなんだかおもしろいです。「1000」と「150」と「150000」と「0.18」と「2.5」はまったく違う数値なのに。もっとも、体積と重さを「同じ」というのはちょっと反則っぽい気がしないでもありません。

 単位のことを考えると、いつも頭がくらくらしてきます。と同時に、「単位って社会的なものなんだなぁ」としみじみ感じます。

 あっ、先日「木と森」についてのエントリを書きましたが、今回の表題の「森」という言葉はそのことは意識せずに書きました。俯瞰するのではなく、迷い込んだら自分がどこにいるのかよくわからなくなる場所というイメージで。

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かけ算で新しい量をつくる/テンソル積の手前にある複比例

 「これまで出会ったなかでいちばんわかりやすい圏論の説明」でも書いたように、谷村省吾さんは現在、3か月に2回のペースで、月刊誌『数理科学』に連載記事を書いておられます。
http://www.saiensu.co.jp/?page=magazine&magazine_id=1

 「幾何学から物理学へ 物理を圏論・微分幾何の言葉で語ろう」というタイトルで続けられているその記事の第5回、「テンソル積の普遍性」のオープニングをはじめて読んだとき、「助かるなぁ〜」という印象をもちました。

 そして、「物理学者のための圏論入門」に触発されて思い出したことを書いたいま、この数行があらためてじわじわときています。谷村さんが、「異種の物理量を組み合わせて新種の物理量を生み出す」という言葉を使われていることについて。

 つなぐものの存在感/比例定数とアクリルたわし圏のラストで書いたように、数教協がいうところの内包量は、外延量のわり算でつくることができます。

 ならば、かけ算でも新しい量をつくれるのではないか?

 …って、そんなに気負わなくてもすぐに思いつくのは、面積のこと。たての長さ、よこの長さという2つの量のかけ算でつくられる「面積」という量は、これはこれでかけ算によってつくられる新しい量なのでしょう。

 あるいは、秒速8mで3秒間進んだときに進む道のり 8×3=24(m)も、「かけ算によってつくられた量」といっていいのかもしれません。しかし、このなかの「8」が「2つの量のわり算でつくられた量」なのだとしたら、8×3=24は「もとになっている量(のなかまの量)を出してくるかけ算」という雰囲気があり、このままの状況では"新しくつくった感"がありません。

 秒速8mが「使える量」であるように、かけ算でも「使える量」がつくれないだろうか? その使い方の意味は違うとしても。

 ということを考えるにあたり、複比例を学ぶことにします。森毅『線型代数 生態と意味』と銀林浩『量の世界・構造主義的分析』を参考文献にして。

 まずは比例についておさらいしておきます。比例とは、小学校風にいえば、xの値を2倍、3倍、…したときに、それに対応するyの値も2倍、3倍、…になるような関係のことでした。また、中学校風にいえば、比例定数をaとして、y=axの形で表される関数のことです。

 複比例になるとどういうことになるかというと、2つの数量と、そのそれぞれに比例するもう1つの量との関係なので、変量が3つになり、文字が3つ必要になります。

 3つの文字を x、y、z とすると、数教協風にいえば、ブラックボックスの入力側から x と y を入れたとき、出力側から z が出てきて、x が一定なら z が y に比例し、y が一定なら、z が x に比例するような、そんな関数のことです。

 森毅『線型代数』でも銀林浩『量の世界・構造主義的分析』でも、「荷物を運ぶときにかかる料金」を例にとって複比例を説明しています。荷物の重量 x t、輸送距離 y 劼函運送料 z 円の関係。もっとも、世の中の運送料は、こんなにぱっきり比例関係で決められてはいないことでしょう。銀林先生も次のような注釈をつけておられます。

 もちろん,現実の社会においては,遠距離逓減性とか,重さが何tから何tまではいくらといった階段規定が設けられていて,今述べたことが厳密に成り立つとは限らないが,それでも,基本は上述のようであって,これらのさまざまの規定がそれからの変則であることは,常識的にもわかることである。

(銀林浩『量の世界・構造主義的分析』p.184)

 荷物の重量が一定で輸送距離が2倍になれば、運送料も2倍になる。輸送距離が一定で荷物の重量が3倍になれば、運送料も3倍になる。このとき、xy をひとまとめで考えることができれば、z=a(xy)という、比例のような式がつくれそうです。

 ということを考えていきたいのですが、やはりどうにもこの例はしっくりこないので、別の場面で考えることにしました。それは、「合宿のために用意するお米の量」です。もっとも、これはこれでフィクションになってしまうかもしれません。なお、この例を思いついた背景についてはのちほど書きます。

 とある合宿では、1人が1泊するとき、米1合を用意しなければならないとします。1人が3泊するときには3合必要だし、5人が1泊するときには5合必要です。なので、10人が2泊する場合は、20合のお米を用意する必要があります。

 この場合、x 人が y 泊するときに準備するお米の量 z 合は、z=xy という式で表せます。

 なので、2人が6泊しても、3人が4泊しても、12人が1泊しても、必要なお米の量は12合で同じです。お米を用意する側からみれば、何合必要かだけがわかればいいので、「3人が4泊」から「4人が3泊」に変更になったとしても、特に困ることはありません。

 では、お米の量を「合」ではなく「g」で考えるとどうなるでしょうか。お米1合の重さをとりあえず150gで設定すると、z=150xy という式ができます。単位は、xが「人」、yが「泊」、zが「g」。150gというのは、1人、1泊分のお米の重さです。

 もし、xyをひとまとめに考えてもいいのだとしたら、その単位は「人泊」としたいところです。実際、この単位は世の中で使われているらしいのです。

 合宿の夕食で毎晩、新鮮なお刺身を用意しなくてはならず、そのためのお魚を考えるのならば、1人が15泊するのと15人が1泊するのとではだいぶ状況が違ってきますが、お米だったらどちらも15合用意すればいいわけで、先ほども書いたように状況の違いは問題ではなく、「15人泊」という事実がわかればいいわけです。(もっともお米の場合も、期間がもっと長くなると話は別ですが)

 では、y=150xyの「150」は何かというと、1人が1泊するときに必要なお米の重さなので、単位をつけるとすれば「g/人泊」ということになりそうです。このような量のことを、銀林先生の本では「複内包量」とよんでいます。1つの外延量を、2つの外延量でわって得られる内包量です。

 y=8xの「8」を「使える量」というならば、z=150xyの場合は「150」がそのなかまになるのかもしれません。しかし、「150」が「8」と同じ立場になれるのも、xyをひとまとめとして変数のように扱えればこそだと思うのです。

 なんてったって、「数教協いうところの外延量」どうしのかけ算です。

 この「人泊」を使おうと思ったおおもとのきっかけは、谷村さんがテンソル積を説明されるなかで、人が働く仕事量の例を出されていたことでした。『理工系のためのトポロジー・圏論・微分幾何〜双対性の視点から〜』にもその話が出てきていて、「人月」という単位が登場します(p.152)。

 この発想は、複比例で2つの量の積を考えることにそっくりです。実際、森毅の本でも、複比例のあとにテンソルを配置する組み立てになっています(銀林先生も複比例の欄外注でテンソル積に触れておられます)。

 ということは、複比例の一歩先にはきっと、テンソル積があるのでしょう。

 今回はテンソル積を理解するところまではいけませんでしたが、「かけ算によって新しく量をつくる」ということを実感できたことが、大きな収穫となりました。

追記:補足エントリがあります。

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木が先か、森が先か/そして往復運動のイメージ

 これまで出会ったなかでいちばんわかりやすい圏論の説明に触発されて思い出したことを書いています。

 上記リンク先において、「木を気にせず森を見る」という表現に対し、最初はなるほどと読むだけだったのに、読み返すうちにかすかな緊張感をともなう考え込みの時間をもつことになったという話を書きました。圏論というよりは、「木と森」という言葉のイメージからくる考え事ではありました。

 なぜ考え込んだのかというと、自分はずっと、木に定位することをよしとしてきたように思うからです。

 たとえば俯瞰する教育が嫌いだと言ってきたこと。そんな自分が「三種の矢」をわかりやすいと感じた、その事実をどうとらえるか。

 私が言う「俯瞰する教育」とは、「全体を知っている人が、その部分として行う教育」のことです。もちろん、学校教育はカリキュラムなしでいきあたりばったりで行うべきだと言いたいわけではないのですが、「ここをわかっておかないとあとで困る」という言い回しに、どうにも抵抗があるのです。

 たとえば娘が小6のときの保護者会で、あれこれいい話が聞けたなか、「中学校で困るから確実に」という話が比例・反比例に対してなされたときの違和感といったらありませんでした。

 また、遠山啓がかけ算をたし算のくりかえしと定義することに反対して、“1あたり”から”いくつ分”を求める計算と定義するべきだとした背景には、「×0」「×1」「×小数」「×分数」の困難を消すというねらいがあったと私は理解しています。これに対しても、「最初はたし算のくりかえしのイメージでいいんじゃない? 小数が出てきたときに、あらためてかけ算の意味を考えればいいんじゃない?」と思ってきました。

 このことに関連する話題として、カヴァイエスが挙げている「乗法の反復としての指数」の例というエントリも書いています。

 そう、谷村さんの文章を読みながら、どういうわけかカヴァイエスが頭にちらつくのです。

 たとえば、真理の発掘と、空からの俯瞰の間にある運動を生け捕りにするというエントリにおいては、「空から俯瞰することと地面のしたを潜ること、あるいは超越と内在とのあいだに生じる弁証論的な生成そのもののメカニズムを把握すること」について述べられた部分を引用しました。

 それをいえば、当の谷村さんの本からも、外延と内包の絶えざる往復と問いかけの部分を抜き出したことがあります。

 さらにこの往復運動のイメージは、郡司ペギオ幸夫『時間の正体』で出会った、膨張・収縮、反復のイメージともつながっていくのです。その話ではもろに「木と森」が出てきていました。
「現在」の膨張・収縮
 ウイスキーが半分入っている瓶と「わたし」の関係

 先日もリンクした倉田令二朗関連のエントリ()のなかのリンク先()で触れているように、森毅は遠山啓に対して、方法論は実体中心の外延的還元主義だが、感性としては機能中心の内包的全体主義でもあるというようなことを語っています。遠山啓を恩返しの意味をこめて批判的に検討してきた自分も、結局、同じなのではないか…ということをこのたび感じています。

 それはまるで、あのときのようです。反実在論者だと思っていた自分が、バリバリの実在論者――反実在論者に憧れていて、できればいつか寝返りたいと思っている実在論者――だと気づいたとき。
科学的実在論の中での、自分の立ち位置
 哲学は、数学を、どのように分析してきたか 

 「物理学者のための圏論入門」のp.2では、「聞くところによると」という書き出しで、圏論の創始者のひとりであるマックレーンの話が出てきます。マックレーンはもともと自然変換という概念を定義しようと考えたようで、自然変換を定めるために関手という概念が必要になり、関手を規定するために射・対象という概念を定めたのだとか。

 だとしたら、「三種の矢」がわかりやすいと感じたことも不思議ではないかもしれない…と思うことで、なんだかよくわからないショックをやわらげようとしています。
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自己と外界の境い目で起こること

 これまで出会ったなかでいちばんわかりやすい圏論の説明に触発されて思い出したことを書いています。関連エントリを最後にまとめてリンクしてあります。

***

 自分が「境い目」にこだわり始めたのがいつだったのか、なぜそういうことになったのか、スタート地点はもはや思い出せませんが、オートポイエーシスの本の次の記述は大きなきっかけになったように思います。

河本英夫『オートポイエーシス――第三世代システム』p.11より

 オートポイエーシスが議論の焦点の一つとしているものに、「境界」がある。自己の境界はどこにあるのかと問うさいの境界である。口の中に雑居する六十億個の細菌は、自己の内なのか外なのか。腸の中に住む百億個の雑菌は自己の内なのか外なのか。酸素を吸着する肺細胞の一歩手前は、内なのか外なのか。いったいどのようにして自己の境界を考えたらよいのか。


 そうして境い目への興味はやがて、「1」はなにゆえ「1」になれるのかというところにつながっていきました。1、2、3、…というふうにものを数えていけるのは「1」が「1」になれればこその話であり、「1」を「1」たらしめる境界があればこそのこと。

 前書きに触発されたものの、オートポイエーシスについてはさっぱり意味がわからないままでした。それがはじめてほんの少しわかったような気がしたのは、郡司ペギオ幸夫さんの話をネット経由で聞いたときです。皮肉にも、オートポイエーシスに対する共感しつつの批判的検討のなかでの言葉だったと私はとらえています。

 オートポイエーシスは、外部との接触面にできる亀裂を想定していないから時間と無関係であるという話。亀裂とは、インターフェイス、痛み=傷み、ダメージのこと。

 一方で「主体性」へのこだわりもありました。教育の面では「主体的に学ぶ」ことについて考えたかったし、生活の面では「主体的に暮らす」ということを考えたかったのでした。

 生活の面においては、「主体的ではない」ということと消費社会が結びついていき、意外なところで「境い目」に出会いました。堤清二経由で知ったマージナル産業という言葉です。「一番端っこにあって、商品の性格が変わる場所にある産業」ということのようです。堤清二は、一番端っこの、商品の性格が変わるマージナルな場所で、消費者が自分を回復しやすい、個性の過程に入りやすいものを考えて提供するのは、流通業者として立派な役割ではないか……と考えていたようです。

 というふうに主体性にこだわっていくうち、逆に、主体性というものの不確かさに意識が向かうようになりました。そこには近代というキーワードがあったし、構造主義もからんでいました。

 少し雰囲気は違いますが、森田療法も自己と外界を考えるうえでヒントになります。森田療法は神経症の治療法のひとつであり、簡単に言えば、不安を排除しようとせずそのままにして、やるべきことをやっていくうちに不安が消えていくといったような、そういう治療法だと私は理解しています。その根底に「自分自身の中身に自分はダイレクトに手を出せない」という発想があるように感じて、それがとても面白いのです。また、「外相整えば内相おのずから熟す」という考え方もします。

 谷村さんの「物理学者のための圏論入門」p.5では、「圏論では、関係性があって初めて個性が定まるという考え方をする」という話が出てきます。言い換えれば、まず個性があって、それが関係性を定めるというわけではない、ということだと思うのです。そんな圏論の性質が、上記のような「境い目」への意識をバリバリに思い起こさせてくれるのでした。

[関連エントリ]

オート(自己)ポイエーシス(制作)と「境界」
0と1にまつわるとりとめのない曖昧な思考
「1」は数えられる対象を表す記号ではない
「自己」にまつわるとりとめのない曖昧な思考
郡司ぺギオ-幸夫さんのプレゼン映像を見て思ったこと
マージナル/意外なところで「境い目」に出会う
〈学ぶ主体〉を〈学校教育〉以前に認めないということ/芦田宏直『努力する人間になってはいけない』第7章(1)
「外相整えば内相おのずから熟す」―――形から入る
おまけ:「経験主義の二つのドグマ」、ホーリズムの基本テーゼ、「ふち」

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つなぐものの存在感/比例定数とアクリルたわし圏

 これまで出会ったなかでいちばんわかりやすい圏論の説明に触発されて思い出したことを書いています。

 (図4.1)には、左側に3本、右側に3本の矢印が描かれていますが、左を見れば各bとaを結ぶ矢印があり、右を見ればaと各cを結ぶ矢印があります。つまり「●→●」の組み合わせの図です。そして全体を見ると、矢印にはさまれたaに焦点があてられているように見え、「→●→」が中心になった図に見えます。

 この場合、「●→●」に見えるか「→●→」に見えるかは、視点のおきかたしだいですが、「●→●」を転換させて「→●→」にすることもできるように思います。

 以下、再び過去の図を使いまわして、上記のことを比例関係につなげて考えてみたいと思います。

***

 下の対応表は、あるエレベーターが上昇しているときの時間とエレベーターの高さとの関係を表したものです。途中で止まることや微妙な速度の変化は想定しておらず、単純に比例関係としてとらえてあります。(48の欄の黄色は気にしないでください)



 たてに並んだ2つの数値について、(高さ)÷(時間)を計算してみると、どこも「8」になります。



 この8は、比例定数であり、時間をx秒、高さをymとすれば、y=8xという式が成り立ちます。8に単位をつけるとしたらm/秒となり、このエレベーターの上昇する速さを示しています。

 また、2秒後から5秒後までの3秒間では16mから40mまで24m上昇しており、このときにも24÷3=8(m/秒)は成り立っています。なので、このエレベーターの動きを時間と高さという2量の関係でとらえた場合、「8m/秒」という数値が、この動きの“質”を表していると考えてもいいように思います。

 そして、対応表でたてにならんだ2つの数値の組は、瞬間、瞬間のできごとをとらえた数値の組み合わせと言うことができます。実際には、1と2の間にも、6と7の間にも、秒数はたくさんあり、どの瞬間をとらえても、「8m/秒」という“動きの質”はたもたれています。

 つまり、「時間が2倍、3倍、・・・になると、それにともなって高さも2倍、3倍、・・・になる」ということは、このエレベーターの動きのタイプ(正比例)を表しているけれど、具体的には「8m/秒」というある種の量が、この動きの質を表していると言ってもいいのではないかという気がしてきます。

 そこで、一瞬、一瞬について、時間と高さの組み合わせのカードを作ることを考えてみました。

  

 左に「時間」、右に「高さ」を置き、まんなかには「高さ÷時間」の数値を置きます。いま、矢印を示す数値はすべて「8m/秒」となるので、これらのカードを重ねてぱらぱらマンガのようにめくると、時間と高さは刻々と変わるのに、矢印の部分は止まっているように見えると思います。

     

 そうなると、このエレベーターの動きの本質は、8m/秒にあるように思えてきます。ともなって変わる2つの量を、ともなって変えさせるための、留め具のようなもの。

 この発想のもとになったのが、「アクリルたわしの圏」でした。当時、アクリル毛糸でたわしを作っていたので、たわし1個をつくるときに出てくる様々な量-----「値段:220円」「重さ:45g」「長さ:67m」「面積:275^2」を取り出して、これらを圏の対象とし、分母を始域、分子を終域にした分数を圏の射として、圏が作れないかを考えたことがあるのです。

   

 それぞれの分数を小数第2位までの概数で表して単位を添えると、次のようになります。

   

 これらの値が何を表しているかというと、丸1は1円あたりの重さ、丸2は1gあたりの長さ、丸3は毛糸1mで編めるたわしの面積、丸4はたわし1cm^2を編むのにかかる毛糸の値段、丸5はたわし1cm^2を編むのに必要な毛糸の重さです。図には示していませんが、「220円」と「67m」も結ぶことができます。ちなみにそれぞれの矢印をひっくり返した矢印も考えられます。

 射の合成は「かけ算」で考えることにして、恒等射を「1」にすれば、圏の定義を満たすのではないか…と考えたしだいです。

 エレベーターの例にしろ、アクリルたわしの圏にしろ、2つのものの間にある量は、数教協でいうところの内包量と考えられます。そして、関係を考えられている2つのものは外延量です。

 なお、数教協がいうところの外延量とは、合併がそのまま加法につながる量だと私は理解しています。それに対して内包量は合併がそのまま加法につながらない量のことなのですが、「加法につながらない量」というと曖昧なので、外延量のわり算によってできる量と考えると私はすっきりします。

 ということは、内包量は外延量がないと成り立たない量ということになり、先に外延量ありきと思えてきますが、今回まとめたことは、内包量そのものの存在感を感じるためにやってみたことです。すなわち、「●→●」を「→●→」にする試みです。

関連エントリ>抽象的な関数より、具体的な内包量
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