TETRA'S MATH

数学と数学教育

「数学教育の現代化」という言葉は何を指しているか

 きのうのエントリにおいて

「汐見先生は遠山啓のとった「現代化」の立場を、小倉金之助との対立点の中に見出し、公理主義の積極的な評価と、数学教育における抽象性、論理性の重視をその特徴とされていました。」

と書きましたが、こう書くとこう書いたでちょっと違うなぁ〜と自分で気になっています。なので、ちょっと長いですが、もう少し広い範囲を引用させていただきます。(『時代は動く!どうする算数・数学教育』p.73〜74より)

 3 数教協,遠山啓と数学教育の現代化

 数教協は,1950年代のはじめに結成された後,まず先に触れたように生活単元学習の批判を展開した。その後,1950年代の末からはいわゆる教育内容の現代化を主張しはじめた。その中心にいて運動を方向づけたのは,言うまでもなく遠山啓である。
 遠山は,1963年の論文で,数教協発足から1958年頃までの時期をペリー運動と融合していた第1期,それ以降をペリー運動を乗り越えはじめた第2期と区別し,第1期は生活主義の批判を課題としていた時期,第2期は水道方式と量の体系の提唱を始めた現代化の時期と整理している。「現代化」とは,わかりやすく言えば,ヒルベルト以降の公理主義を積極的に評価し,数学教育において抽象性,論理性を重視しようとする立場である。小倉らが公理主義を抽象性ゆえに数学教育に取り入れることに反対していたことを逆に批判し,むしろこれを積極的に取り入れ,現代数学にも接近させようというのが現代化である。ヨーロッパにはすでに,ユークリッドなど数学の古典を教材としていたことを批判して関数や微分積分などの近代数学を取り入れることを主張したイギリスのペリーらの数学教育改革運動があった。20世紀はじめであるが,この近代化運動をさらに批判して現代数学まで取り入れようというのが遠山の提唱した現代化である。

 最後の一節では「…のが遠山の提唱した現代化である」とまとめてありますが、その前までは「遠山啓がいうところの現代化は…」という書き方はしてないのですよね。

 「現代化」という言葉が何をさすのかは、そのときどきの文脈において微妙に異なるのだと思います。たとえば「数学教育の現代化」と有限集合・無限集合で書いた「現代化」は、指導要領の動きとしての現代化であり、遠山啓に言わせると「アメリカ流の現代化の直輸入」なので、そういう意味では遠山啓が主張した現代化とは別物なのかもしれません。しかし、一般的に「現代化の時代」といえば、この指導要領にもとづいた教科書を使っていた時期をさすのだと思います。

 また、私はかつて、ブラックボックスとはなんであったのかというエントリにおいて

「1960年代の遠山啓の主張(微分積分の位置づけ)と、1970年代の遠山啓の主張(微分積分の位置づけ)は、微妙に変化しているように思います。時がたてば変化するのはあたりまえだけれど、日本における数学教育の現代化が1970年頃に始まったとするならば、その結果 ―― 失敗 ―― をふまえての変化と思いたくなるというもの。」

と書きました。これを書いた時点では、日本における数学教育の現代化の失敗を、数教協および遠山啓と完全に切り離して考えてはいなかったと思います。しかし遠山啓からすれば、この失敗は自分たちがいうところの現代化の失敗ではない、ということになるのかもしれません。

 

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汐見稔幸分析の「遠山啓の数学教育の現代化」

 以前、『時代は動く!どうする算数・数学教育』汐見稔幸/井上正允/小寺隆幸【編】(国土社/1999年)のことを書いたときに、遠山啓の数学教育の現代化の後半については保留にしてありました。というのも、汐見先生の分析がここだけしっくりこなかったからです。私のこだわりが強い部分だからでしょう。それに、小倉金之助と遠山啓のつながりがよくわからないので。

 汐見先生は

「現代化」とは,わかりやすく言えば,ヒルベルト以降の公理主義を積極的に評価し、数学教育において抽象性,論理性を重視しようとする立場である。小倉らが公理主義を抽象性ゆえに数学教育に取り入れることに反対していたことを逆に批判し,むしろこれを積極的に取り入れ,現代数学にも接近させようというのが現代化である。

(p.74)

と書いておられるのですが、確かに遠山啓は「現代化」を推進しようとしたとは思うのですが、上記のように書いてしまうとちょっとちがう気がするのです。ちがうというか足りないというか、核心ではないというか。とにもかくにも、遠山啓のことを考えるときには、遠山啓のケンカ相手は小倉金之助ではなく藤沢利喜太郎であったことを、つねに頭に入れておいたほうがいいと思うのです。そして、藤沢利喜太郎の師がクロネッカーであったことも。もちろん、クロネッカーがカントール嫌いであったことも。

 考えたいことが2つあります。

 1つは、クロネッカー−藤沢の系譜は、集合ではなく順序にもとづいて整数の理論を構築しようとしていたことと、アメリカの現代化をふまえた日本の数学教育の現代化も、現代化=集合という安易な発想で行ってしまったため、失敗してしまったことについて。この点については後日考えます。

 もう1点は、現代化と産業主義の関わりについて。

 汐見先生は、1966年の『数学セミナー』に掲載された遠山啓の論文「私の数学教育改造案---現代化の方向」をもとにして、遠山啓がなぜ現代化にこだわったのかを次の2点で示しておられます。遠山啓がはじめて「現代化」という言葉を使ったときに、どういう意味をこめたつもりであったのかを整理した箇所です。

(1) 科学技術が急激な発展を示しつつある現代社会にふさわしいように数学教育を改造する。
(2) その改造を実行するに当っては現代数学の内容と方法を積極的にとり入れる

 こう述べたうえで、遠山啓は「産業化や科学化が急速に進みつつある現代社会では、生物学や社会科学にまで数学が必要になってきている,それゆえに数学教育はますます社会的に必要になり,そのレベルも専門的な内容すなわち現代数学を含んで獲得されなければならなくなる」と、かなり強い思いをもって数学教育の高度化と改造を主張した、と書いてあります。

 さらに遠山啓は、数学教育の高度化と大衆化との統一的実現という困難な課題への挑戦は「すべての工業国にとっては避けることのできないものであって,このことを忘れた国は工業国としては落伍するよりほかはないように運命づけられている」とまで述べていたらしいのです。

 そして汐見先生は、このような遠山啓の考えは、当時一般的であった産業主義的発想そのものだと解釈しておられます。その産業主義を教育とつなげたとき、「現代化」という発想が生まれる、と。

 ここでいうところの「現代化」を、「古いものを新しくする」「時代にあったものにする」「今風にする」という意味での「現代化」として考えると、このような「現代化」はどのような時代でも、どのような教科でも起こりえます。

 しかし、一般的な意味での「現代化」ではなく、1950年代、1960年代に遠山啓および数教協が主張したあの時代の「数学教育の現代化」とはなんであったのかを、具体的中身の考察を含めて考えたいというのが私の望みです。

汐見先生は、

一般的に言えば、教育の実際は,産業社会と深く結びついてしか現実化しない。産業の内容や水準が変われば,学ぶ内容や方法もそれに応じて変化していかざるをえない。その意味で教育はいつも「現代化」を義務づけられている。しかし,その「現代化」が,その時代時代の学問の水準にできるだけ近づくという原理だけで構想されるのであれば,多様に発展する諸学問すべてについてその原理が当てはめられたとき,教育の現場には困難とニヒリズムが覆うようになることは目に見えている。

(p.75〜76)

と書かれていますが、遠山啓の眼中にあったのは「産業」だけではなく、「その時代時代の学問の水準にできるだけ近づく」ということでもなかったのではないでしょうか。むしろ遠山啓は「現代数学のその先」を見ていたような気がするのです。

 遠山啓はあのとき「科学技術」や「工業国」という言葉を使っていたので、遠山啓がいうところの「数学教育の現代化」には確かに産業主義的な発想があったと思いますし、時代背景を考えると納得できる話です。しかし、あのとき遠山啓は「○○や○○にまで数学が必要になってきている」のところに、生物学と社会科学を入れています。そこをどう考えるか。

 また、学問の発展についていえば、汐見先生が「学問の最先端の発展といっても,その渦中にいるときにはそれが最新の学問成果として感じられても,後で考えると一つの流行に過ぎなかったというようなことがしばしばある」と書かれているのと同じようなことを遠山啓も語っているのです。→構造は大切な概念であるが、全能ではない。数学史の一時期に創りだされたものであり、時代の刻印をおよびている以上、限界をもっている。 


〔2018年3月30日〕
 分けて書いていた記事をひとつにまとめ、整理しました。

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科学への信頼の中身

 戦後の教育運動の社会的、思想的背景において、「戦後の日本でなぜ系統主義が支配的になっていったか」(汐見先生分析)の3点め“普遍主義”の話を書きましたが、この次の4点め“科学主義”の話をのぞいておきたいと思います。

 1950年代の末あたりから、科学や技術は、生活改善・合理化のシンボルとして、日常生活のレベルまで浸透していきました。またスプートニク・ショックの影響もあって、各国はこぞって科学技術大国を目指しはじめ、並行して進んだテレビや冷蔵庫など生活製品の電化の進展もあり、1960年代には「科学」という語は、生活の向上や豊かさをもっとも明確に象徴する位置にまで上っていきました。

 「科学的」であることは「迷信ではない」という意味合いを超えて、「真理」や「しあわせ」を代弁するまでにいたったわけですが、このような科学に対する過剰なまでの信頼は、「正しいものは合理的であって真理は一つである」という考え方につながり、教えの「正しい」系統は一つであるという信念を受け入れる土壌となった、と汐見先生は分析しておられます。

 そして、1970年以降、公害の広がりや環境問題の深刻化を通じて、科学や技術への素朴な信頼性が減少していく…というきのうの話へとつながります。

 さて、藤垣裕子准教授が分析するように、昨今の温暖化懐疑論ブームが「ほんとうの科学と“一般市民”が抱く科学のイメージとのズレ」を背景にもつのであれば、先の汐見先生の分析とどう考え合わせればいいのでしょうか?

 もし、汐見先生の分析も藤垣さんの分析もあたっているとしたら、“一般市民”にとって、「科学」に対するイメージはあいかわらず「厳密で客観的で常に正しく、確実な答えを出せる」ものであることにかわりはないけれど(という信頼は消えていないけれど)、「科学技術ってすばらしい! 万能だ!」という態度であったものが、「科学技術が生み出すのはいいことばかりではないらしい」ということに気づきはじめ、「科学技術は私をしあわせにしてくる」ということに対する期待感が薄まっていった、と考えれば辻褄があいそうです。

 というふうに考えるとき、前提として、“一般市民”にとっては昔もいまも「科学(ほぼイコール科学技術)」は中身を知りえないブラックボックスである、ということがいえそうな気がします。“科学する”のは専門家であり、われわれはその恩恵を被る立場、ときに被害を被る立場である。“科学”は私たちの外にある。信頼するときも、期待が薄まるときも。

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人権概念の相対化という出来事

 1950年代・60年代の時代背景をふまえて、教育の中に系統主義がどう取り入れられていったかについて、汐見先生の分析を読んできました。しかし、系統主義でうまくいくと思っていたら、どうもそうではないらしい…少なくとも、系統“主義”(だけ)ではうまくいかない…と感じられるようになって久しいのではないかと思います。系統主義以外の原理や方法を求める社会的要因があるとしたら、それはいったいなんなのか。

 ということを考えるとき、実際に80年代、90年代にかけて生じた動き、たとえば新学力観やゆとり教育、総合学習、指導要領の厳選化などの背景を考えていくのもひとつの方法でしょうが、それよりも、というかその前に、「系統主義を支えていたものに対する信頼がなくなってきた」という視点にたって考えてみたほうが、実はわかりやすいのかもしれない…と、汐見先生の文章を読みながら思いました。

 系統主義を支えていた普遍主義、啓蒙主義、科学主義、産業主義などへの信頼がさまざまな社会変化によって揺らいでいる。汐見先生は、その中のひとつ「普遍的と考えられていた概念への疑いの広がり」の例として、人権概念の相対化という出来事を取り上げておられます。

 人権概念は近代になって生み出されたものであるが,当初,女性や障害者,子ども,マイノリティーなどを除外して表象されたもので,今日から考えると必ずしも「普遍的」な概念とは言えないものであった。それが普遍的価値を持ちうるように思えたのは,封建思想や絶対主義など前近代思想との戦いの武器としてきわめて有効だったからである。その後,政治的,経済的制限からの人々の解放が進むと,この概念がそれまで曖昧にしてきた部分がほころびを見せはじめ,女性やマイノリティー,障害者,子どもなどがこの思想の厳密な適用対象から除外されていることが問題になるようになったとき,「普遍的」であるという抽象的な装いそのものが支配・非支配関係を正当化している面があるということに人々が気づきはじめたということである。

 1960年代以降、このとらえなおしを促してきたのが、アメリカでの黒人などの公民権運動、各国での少数民族の権利拡大の運動、アイヌやインディアンなど世界の先住・少数民族の権利拡大と自決権を求める運動、そしてなによりもフェミニズムの運動などであった、と汐見先生は書かれています。
 
 汐見先生いわく、「むろん,近代の人権概念そのものが一般的に誤っているというのではなく,この概念が抽象的であればあるほど,その適応対象が権力に近い人間に限定されてしまい,ときに支配を正当化する武器となってしまうという政治性をこの概念は当初から持っていたということが問題になっているのである。」

 もう一歩つっこんだ説明求む!と言いたい気分ですが、ここは自分で勉強しなくちゃですね。

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考えを対象化する、相対化すること

 昨年末、亀井喜久男先生の「約数集合構造」の論稿が読みたくて、明治図書の雑誌『数学教育』(2008年 12月号)を買いました。

 この号の特集が“グループ学習で「学び合う」力を育てる”というもので、巻頭で小寺隆幸先生が提言を書かれており、中学校でのいくつかの実践例が示されています。

 小寺先生いわく、「今ここで提起したいのは、子ども自身の内的思考を外に開くために、身近な他者の存在が重要だということである」。

 頭の中の考えをたどたどしくても言葉にすることで、対象化できる。様々な考えがもやもと漂っているときに、誰かに話すことで脈絡が見えてくることがある。また逆に、すっかりわかったつもりでいたのに言葉にしようとしたらわかっていなかったことに気づくこともある。何がわかっていて、何がわからないのかが、子ども自身にとらえ返されていく。

 学校の面白さって、結局、ここにあるんじゃないでしょうか? 塾や家庭ではなかなかできないこと。

 たとえば、教科書の内容の理解に苦しむ子どもが、小2にして『数学ガール』をさらっと読んでしまう子どもをハッとさせることは十分に考えられると思うし、教科書の内容のはるか先までやっている子どもが、自分の考えを説明しようとしたときに、いかにわかっていなかったに気づくこともあると思います。さらに、小2にして『数学ガール』をさらっと読んでしまう子どもの考え方をきいて、教科書の内容をはるか先までやっている子どもが「習ったのと違う」とカルチャーショックを受けることもあるだろうし、逆に、それはおかしいと反論したときに、傍観していた教科書の内容の理解に苦しむ子どもがそれまでわからなかったことをストンと理解する、ということだってあると思います。

 まず、伝えようとすること。そして、人の考えをきくこと。そのことによって、自分の考えが対象化され、相対化される。教師は、そのための「安心して議論をできる場」をつくってあげるのが何よりの仕事ではないかと勝手に考えているのでした。まあ、私は教師ではないので何でも言えちゃうのですが。(たとえ「言うは易しだよ」と切り替えされても返す言葉はないのです、はい)
 
 なお、雑誌『数学教育』の実践報告の中で、とある中学生が、「色々な考え方が出てきて、なるほどなあ……と思った。結局、私がやっていたことと同じことなのですね」という感想を書いていて、なるほどなぁと思いました。

 学び合いは一斉授業でもできるのだと思いますが、グループ学習にするとワンクッション入ってまた別の展開が期待されるのでしょうね。グループ学習にしたほうが一斉授業で発言できない子どもが発言できる可能性は高まるし、グループでの話し合いをまとめて発表するという作業が新たな面白さを生むこともあるのかもしれません。でも、必ずしも全員に発言させなくちゃいけない(全員が発言することに意義がある)と考えなくてもいいのだと思います。発言を促すことはしても。黙ってきいている子どもの中で、実はすごいことが起きているかもしれない。

 10年以上前、家庭教師をフリーでやり始めた頃、一応アピールのための文章を作ったのですが(全然役に立たなかったけど)、その中に「集団学習には限界がある」というフレーズを入れていました。半分本気、半分営業トークだったと思います。確かに家庭教師は面白かった。何かをなしえたと思える。でも、家庭教師を始めた頃の自分は、学校だからできることはなんなのかをあまり考えていませんでした。結局勉強というものを「教える−教わる」という構図の中だけでとらえていたように思います。

 さて、この対象化・相対化については、汐見先生の普遍主義の分析とあわせて読むと、面白そうですよ。

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民間教育団体の啓蒙主義的発想(60年代)

『時代は動く!どうする算数・数学教育』
 汐見稔幸/井上正允/小寺隆幸【編】
 (国土社、1999年)
  機/学教育とその理念

   5 「科学主義」「系統主義」の時代背景と
            それが見落としてきたもの
   ―― 数教協の1950年代、1960年代を手がかりに ――
                    (汐見稔幸)

を読んでいますが、「遠山啓の現代化」に対する汐見先生の分析は、別のことを勉強したあとにまたゆっくりと考えることにしました。

 それはそうとして、次の話はなるほどと思いました。

 

当時は,普遍性や真理・真実のほうが個人の選択に対してプライオリティーが与えられていて、真理・真実だから国民(子ども・青年)がそれを学ぶのは当然,という形で,国民は啓蒙される対象とでも言うべく位置づけられていた。国民自身は,教育内容や方法を選ぶ主体として十分には位置づいていなかったわけである。
 当時のこうした発想を,国民はすべからく「正しいこと」や「真理・真実」あるいは「普遍的」なことを学ぶべきである,それが自らを解放していくもっとも正しい方法である,という発想,と言い換えられるであろう。

 
 汐見先生は、「日本生活教育連盟」の川合章が「郷土教育全国協議会」の桑原正男を批判している論稿の次の一文を取り上げています。(桑原氏に対する矢川氏の批判を紹介した後のまとめ)

「矢川氏の意図は,桑原氏の主張が,教育の名において科学の真実を教えることを否定する危険をはらんでいることにたいする警告であった」

 この短い文章の中に、科学が真理や真実とダイレクトに等値されていることと、正しいことを「教える」ことこそが教育の正義だとする発想がにじみ出ている、と汐見先生は分析しておられます。

 なんだか「かけ算の順序」問題が思い出されますね。かけ算の順序にこだわることは、教育的意義の名のもと、数学の真理を曲げることであるのか。(こだわるべきだと言いたいのではありません)

 真理は1つで、それは決まっていることなのだろうか。教師は、もう決まっている「正しいこと」を教えるのが仕事なのだろうか。

 

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小倉金之助と遠山啓

『時代は動く!どうする算数・数学教育』
 汐見稔幸/井上正允/小寺隆幸【編】
 (国土社、1999年)
  機/学教育とその理念

   5 「科学主義」「系統主義」の時代背景と
               それが見落としてきたもの
    ―― 数教協の1950年代、1960年代を手がかりに ――
                     (汐見稔幸)

にもどります。この中の「3 数教協,遠山啓と数学教育の現代化」によると、遠山啓は1963年の論文で、数教協発足から1958年頃までの時期をペリー運動と融合していた第1期、それ以降をペリー運動を乗り越えはじめた第2期と区別し、第1期は生活主義の批判を課題としていた時期、第2期は水道方式と量の体系の提唱を始めた現代化の時期と整理しているそうです。

 たぶん、遠山啓と小倉金之助につながりがあったとしたら、この第1期においてであり、第2期ではなれていったのではなかろうかと勝手に想像しています(小倉金之助は1962年死去)。1951年の数学教育協議会の設立趣旨書の筆頭に小倉金之助の名前があるので、つながっていたのは確かでしょうし、小倉金之助の思想と遠山啓の思想が近かったであろう(小倉金之助の影響を遠山啓が受けた)ことも想像に難くないのですが、自称数教協の落とし子の私の記憶&認識では小倉金之助が数教協の内側にいないのです。単に時代の問題なのだろうか? あるいは、名前を借りたとか、そういうレベルの話だったのだろうか。

 なお、ウィキペディアによると、遠山啓は東京帝国大学を退学して東北帝国大学に再入学、1938年卒業とのことで、小倉金之助が東北帝国大学の助手をしていたのは1911〜1916年頃なので、東北帝国大学での直接の接点はなさそうです。ちなみに小倉金之助が会長を務めた民主主義科学者協会は1946年に設立とのことで、その5年後に数学教育協議会ができています。

 話をもとにもどすと、ペリー運動と融合していた段階は生活主義を批判していた段階ということになり、第1期を単純にまとめると、「関数や微分積分などの近代数学を教育のなかに取り入れるべきだが、それを生活主義的・経験主義的に教えるのはよろしくない」という話になりそうです。ってことは、微分積分を系統的に教えるということか。おお、符合するな。

 しかし、第2期はペリー運動を乗り越え始める ―― 近代数学で終わらせずに現代数学まで視野に入れる ―― 時期であり、水道方式と量の体系の提唱を始めた時期とのこと。やはり、小倉金之助にも塩野直道にもなかった遠山啓の視点が「現代化」ということになるのかな。

 汐見先生は、

「現代化」とは,わかりやすく言えば,ヒルベルト以降の公理主義を積極的に評価し、数学教育において抽象性,論理性を重視しようとする立場である。小倉らが公理主義を抽象性ゆえに数学教育に取り入れることに反対していたことを逆に批判し,むしろこれを積極的に取り入れ,現代数学にも接近させようというのが現代化である。

と書かれています(こうまとめるとちょっと違うような)。

 小倉金之助と遠山啓はどこかではっきりと決別したのかな?

 

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戦後の教育運動の社会的、思想的背景

『時代は動く!どうする算数・数学教育』
 汐見稔幸/井上正允/小寺隆幸【編】
 (国土社、1999年)

  機/学教育とその理念

   5 「科学主義」「系統主義」の時代背景と
            それが見落としてきたもの
   ―― 数教協の1950年代、1960年代を手がかりに ――
                    (汐見稔幸)

を読んでいます。順番でいくとこのあと「遠山啓の現代化」の話になるのですが、いったんとばして、「4 産業主義・普遍主義・啓蒙主義・科学主義・系統主義」をみてみたいと思います。ここがね、とってもわかりやすく整理されていて、面白かったのです。

 なぜ、1950年代から1960年代にかけて、日本の数学教育において系統主義が支配的になっていったか? ということを、汐見先生は5つの視点からまとめられています。

 まず1つめ。「これは,外堀的な問題であるが,」という書き出しで始まるのですが、戦後の日本の教育運動がアメリカの日本およびアジア支配との緊張関係のもとで展開されたということが、結果として系統学習を推し進めたのではないかという話です。

 1950年代の教育実践は反戦平和を基調としていました。しかし、第二次教育使節段の報告後、アメリカの単独講和の強要や池田・ロバートソン会談のあたりからアメリカの路線転換が明確になり、反戦平和路線と厳しく対立するようになりました。

 当然、アメリカの教育政策の押しつけに対する厳しい反発が始まります。そして、アメリカが日本に持ち込もうとしたのがプラグマティズムであり、教育的には経験主義であったため、とくに左翼革新陣営がこの哲学と教育路線に激しく反発した、という流れです。

 そんなこんなで、イデオロギー的な立場から、経験主義やプラグマティズムが忌避され、それに対置する哲学、教育哲学が称揚されたというのが、系統主義が急速に支配的になっていった背後にある重要な社会的・思想的事情と言ってよい、と汐見先生は書かれています。

1960年代に教育の現代化を提唱し,経験主義をあらためて批判し続けた中心にいたのも,この時期にプラグマティズム批判を展開した正統派のマルクス主義者たちであった。

 以上が1点めの要約です。

 ここでわく自分の素朴な疑問。「対置する教育哲学が称揚された」というのはとても自然なことに思えるし、経験主義と系統主義が一応は対置するものであることも納得ですが、路線転換したアメリカが持ち込んだのがプラグマティズムであったことにどういう必然性があったのか、どういう歴史的な意味があったのかをもっと知りたいと思いました。

 もしアメリカが持ち込んだのが別の思想であったのなら、それに対置する別の思想が日本では支配的になっていったのだろうか?

 すごく極端なことをいうと、アメリカが系統主義を持ち込むことがあり得た場合、日本では経験主義が支配的になっていくということがあり得ただろうか?(ちょっと考えにくいけど)

 左翼革新陣営は、極端な場合は「経験主義はわが国の民を愚民化するものであり植民地主義である」との批判さえ展開したそうですが、それを裏返した「系統主義はわが国の民を賢くする」という思想がもともとあったのか。もし、アメリカが経験主義を持ち込んでこなくても、“系統主義がわが国の民を賢くする”という発想は起こり得たろうか?

 あるいは、経験主義と対置する教育哲学は他にもあって、その中で系統主義が特に力をもったということなのだろうか。

 とにもかくにもまだ1点めだし、これは一応“外堀的”な問題なので、先を読み進んでみたいと思います。2点めは、「戦後、民間の教育運動に、教科の内容と関連する専門家、研究者、知識人が多く参加していた」ということがあげられています。


 研究者たちは戦後の日本の再建そのものに関心を持ち、教育の分野からそれを進めようとして、学問を国民のものにするとことに強い情熱を持っていました。

 そして、各学問分野の専門家が教育内容研究に参加するということは、その専門家が専門とする学問によって学校での教育内容も基礎づけられていくということになり、学校教育のなかで教科をどう定めるかと考えるときに、学問枠をモデルとすることが自明視されることになります。

 また、必然的に、それぞれの学問をどう系統立てて教えるかということが各民間教育団体の研究関心の中心になっていきます。数教協もまさにその1つだと思います。

 その結果、経験主義的な教科枠、たとえば総合教科などは十分な議論対象にはならなかった、と汐見先生は分析しています。そんなことはない、遠山先生は総合学習の重要性を謳っていたと反論したくなる方もおられることでしょうが、それはとりあえずおいておきます。

 ちなみに、汐見先生のこの話の中には、教育科学研究会、歴史教育者協議会、数学教育協議会、科学教育協議会、「鎌倉アカデミア」などが出てきます。

 実は先日初めて国土社の『教育』を購入したのですが(2008年10月号)、これって教育科学研究会の雑誌だったんですね。なお、このブログでは紹介しませんでしたが、汐見先生は系統主義が抱える問題点を、無着成恭の『続やまびこ学校』の中の作文をとりあげて示しておられます。

 戦後の日本においてなぜ系統主義が支配的になっていったか(汐見先生分析)の3点めは、「普遍主義 ―― 歴史は普遍に向かって動くという信念 ―― 」の話です。私がいちばん興味があるところです。

 西欧の「人権」思想の浸潤、スプートニク・ショック、そしてマルクス主義によって、「人権や科学(的真理)は、歴史的・地域的制約を超えた普遍的な価値であり、歴史は一定の法則性をもって動く流れである」というのが戦後思想の共通感覚であったと汐見先生は書いておられます。

社会主義に対する期待もあって,歴史はある方向に動くべきであるし,そのことは「科学」によって実証されるという感覚が、現在とは比較にならないほど強かった。

 そして、この普遍主義的な科学観が教育に翻訳されるときに系統主義が生まれやすくなるのは道理であった、と分析しておられます。(ここは、いずれまた丁寧に考えたいところです)

 さて、汐見先生分析の時代から少しあとのことを考えてみます。上記のような“戦後思想の共通感覚”は、後にポストモダンの思想などによって相対化されていくわけですが、1960年代に登場した構造主義の背景(というかルーツ)に数学ががっぷり関わっているというのは本当に興味深いです。遠山啓は微分積分の位置づけに近代数学と現代数学の対立点を見ていましたが、数学教育の方法論の思想的背景としてはマルクス主義と構造主義のハザマにいたのではなかろうかと勝手に推測しています。そして、遠山啓の「量の理論」は、ヘーゲルの思想に直結しているのだろうととこれまた勝手に想像しているのでした。

 山下正男『思想の中の数学的構造』(ちくま学芸文庫)によると、ヘーゲルの歴史哲学は、ライプニッツの微分積分をモデルにしたものではあるけれど、比喩的な意味で解析学を使ったにすぎず、それはヘーゲルが数学にあまり強くなかったという個人的事情によるもの(+α)だろうとしています。

 思えば、古代ギリシアはもちろん、近世初頭のデカルトやライプニッツの頃までは、哲学と自然科学は一体でした。しかし、近世の科学革命以後、自然科学が独走し始め、哲学は自然科学から独立して、近代になると文科と理科の分離が起こります。

 レヴィ=ストロースの何がえらかったって、ものすごーく久しぶりに数学の言語が人文系の学問にも十分適用可能だということを示したことであり、ヨーロッパの正統的な流れにたちかえったことだったのですが、そんなレヴィ=ストロースやピアジェといった優れた人たちが、いったんは人文科学や社会科学の中に数学的構造の存在を発見しながら、そうした方法を推し進めないでむしろ後退するようになったのも、近代になって生じた文科と理科の分離が要因ではないかといったことを山下正男さんは書いておられます。 

 という話をきいて、私は半分納得、半分反省でした。というのも、以前、ラカンの精神分析に違和感を感じたことがあり、それは問題設定が恣意的だということを見抜けたのかもしれないという思いが半分、精神分析に数学をとりこむのは比喩にすぎないという先入観が半分だったと感じたからです。また、ソーカル事件に対する見方も少し変わりました。

 マルクス主義(的方法)は、日本資本主義の発達の分析や古代社会、封建社会、近代社会の分析に生かされ、数々の優れた業績を生みだしました。全盛期を知らない私でも、マルクス主義が人を動かし、社会を動かし、時代を動かしたことは感じられます。しかし、構造主義はどうであったか。山下正男さんのこの本は1980年に書かれたものですが、構造主義がマルクス主義に劣っていると言いたいのではなく、構造主義的分析の前進に少しでも役立てば……という思いでこの本を書かれたようです。(ただし、2006年の文庫版あとがきでは、「本書は構造主義の意味を認めながらもその不徹底さを厳しく批判したもの」と書いておられます。)

 ヘーゲルは数学にあまり強くなかったかもしれないけれど、遠山啓は数学に強い。近代数学のみならず、現代数学もよく知っている。だから、近代化がやるべくしてやらなかったことを現代化の立場から補填するものとして「量の体系」を作った。そして、現代数学における“構造”がいかに重要なものであるかをよくわかったうえで、その限界にも目を向けていた。だからこそ、微分積分をとびこえて抽象数学に結びつくような初等数学教育の流れをとめたかったのだと、ようやくわかってきました。

 戦後の日本においてなぜ系統主義が支配的になっていったか(汐見先生分析)の5つの視点のうちの3つをみてきました。なお、4点めは「科学主義」の話、5点めは「産業主義」の話になっています。

 この科学主義、産業主義の話は、前節の「遠山啓の現代化」の話と関わるのですが、汐見先生は、小倉金之助と遠山啓を対比させるような書き方をしておられて、どういう流れなのかよくわからないので、現在、探索中&考え中です。

 ついでに、緑表紙を作った塩野直道の考えも知っておいたほうがよさそうだと思い、『伝説の算数教科書<緑表紙> ―― 塩野直道の考えたこと――』(松宮哲夫著/岩波書店/2007年)を読み始めたところです。私、このあいだまで知らなかったのですが、塩野直道って啓林館の取締役だったのですね。啓林館と数教協の確執はなんとなく肌で感じていたけれど……いろいろあるのねぇ。

 とにもかくにも、小倉金之助と遠山啓の関係が謎です。数学教育協議会の歴史の中に名前があるところをみると、関係者だったのは確かのようですが。初代委員長だったという話も(出典未確認)。私の頭の中で小倉金之助と遠山啓がつながらない。


〔2018年3月27日〕複数に分けて書いていた記事をひとつにまとめ、整理しました。

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経験主義と系統主義双方に潜む困難

『時代は動く!どうする算数・数学教育』
 汐見稔幸/井上正允/小寺隆幸【編】
 (国土社、1999年)
  機/学教育とその理念


を読んでいます。次は、汐見稔幸先生の 「「科学主義」「系統主義」の時代背景とそれが見落としてきたもの ―― 数教協の1950年代、1960年代を手がかりに ―― 」 について考えていきたいと思います。この文章、わかりやすくて、かつ、なんだかとっても“お得”な感じがします。

 実はつい先日、汐見先生の講演をきいてきたばかり。おもに小学生の保護者を対象にした子育てのための講演だったのですが、とても面白かったです(というか、すべてが身にしみた・・・)。ちなみに、私が知る限り、井上先生、銀林先生、上垣先生は数教協の先生ですが、汐見先生は数教協の方ではありません。

 さて、とにかくあちこち面白いのですが、まずは「2 経験主義・系統主義双方に潜む困難」を見ていきたいと思います。

 日本において戦後しばらくは、経験主義の教育が一世を風靡していました。戦前の詰め込み型教育への反省と、占領軍当局による経験主義教育の推奨などの条件が重なったことより、こうした志向が生まれやすかったのだろうと思われます。しかし、当時の経験主義は、子どもの主体を徹底して重視し、その内面性、自発性に定位した学習を成り立たせようとするあまり、

子どもの集団を擬制的に社会そのものと見なし,結果として子どもという主体と社会という客体の間に存在する,容易には埋めがたい溝や矛盾を「解消」してしまおうとする傾向があった。

と汐見先生は書いておられます。それは実践的にはどういうことになるかというと、

子どもたちの内面の持つ限界を社会や自然の論理で克服・充実していくよりは,子どもたちの内面の限界内に彼らを押しとどめてしまうことになりがちである

としています。

 系統主義の提唱者は、こうした学習論、教授論を批判しました。そして、1950年代には経験主義か系統主義かをめぐる激しい論争が開始されました。そのなかでとくに大きな影響を与えたのが遠山啓の「生活単元学習」批判だったわけです。

 一方、系統主義の根底には、教える側が、知識を、たとえば易から難へ、基礎から応用へ、必然から偶然へなどと「系統的に」教えていけば、子どもの頭のなかにはそれと相似形の知識や認識能力が獲得される、という考え方が前提となっていました。

つまり,外から持ち込む学習材に関するかぎり,「順次性」や「系統性」が保障されれば客体の論理と主体の論理の間に矛盾や溝はさして存在しないで同型性を保ちながら学習は進む,ということを系統主義は前提としたのである。

 だからこそ、民間教育団体の多くは、1960年代に、教えの系統を明らかにする研究に没頭したのであり、学びの系統を明らかにしようとする研究はそれに比して圧倒的に少なかった、と汐見先生は分析しておられます。

 こういう話をきくと、数教協の(ベテランの)先生たちの中には、そんなことはない、ほかがどうであったかは知らないが、数教協はつねに「子どもから始める」という姿勢を守ってきた、と反論したくなる方もいらっしゃることでしょう。実際、私自身も子どものころ“実験台”になっていたと思いますし、サークル活動においても、前半は子ども相手の授業、後半は教師の(保護者もいたかも)話し合いの場というふうに、実際の子どもの授業をふまえての勉強会がなされていました(会場は協力者の自宅、子どもは関係者の子どもおよび近所の希望者)。また、全国研究大会や地域の大会においても、模擬授業が行われていたと思います。

 しかし、「子どもの中で何が起こっているか」というのを知るためには、かなり感度の高い受信機が必要だと思うのです。そして、受信したものを分析するための知識・技術・経験もいると思う。同じ場面を見ていても、「子どもってすごいな」にもなるし、「タイルってすごいな」にもなり得る。

 子どもたちに対してつねに感覚を開き、感度の高いアンテナを立てていた先生もきっといることでしょう。しかし、子どもの中で何が起こっているかということよりも、数教協の方法論に対しての興味が強く、そちらを大事にしている(数教協への帰属意識が強い)先生も確かに存在していたと思うのです。

 話をもとにもどします。
 
 前半部分で書いたように、経験主義は主体と客体の溝を不在と見なそうとしがちでしたが、それに対して系統主義は別の角度から、やはり主体(子どもの認識の論理)と客体(教材の論理)の溝を不在と見なしがちであった、と汐見先生は書かれています。

 ああ・・・  そうか…

 (できる)教育学者って、やっぱりこういうところがすごいね。

 汐見先生はおっしゃいます。

 諸々の概念を用いて行う概念的でかつ柔軟な思考活動は,それらの要素となる概念を一つひとつ丁寧に順序立てて教えていけば必然的にできるようになるというほど,人間の思考のメカニズムはコンピューター的なのではない。このことは人工知能研究のなかですぐに明らかになったことであった。とりわけ想像的な思考の力は,なにかを順序教えていけば最後に子どもに身につくようになるというような平板でリニアな形成物ではない。かりに概念を系統的に教えていって、それらの概念を用いた思考が教えられたとおりにできるようになったとしても、その思考力は教えられた文脈や枠を超えることが容易ではないことは,この間,受験教育の弊害として何度も指摘されてきたことであった。

 コンピューター的ではないという比喩と、受験教育の弊害が例として出されていることに若干のひっかかりはありますが(せっかくの面白い話がトーンダウンしてしまう気がする)、とにもかくにも 「思考の力は平板でリニアな形成物ではないこと」 や、 「思考力は教えられた文脈や枠を超えることが容易ではないこと」 は、子どもに何かを教える仕事をしている人ならば、身にしみて感じていることではないかと思います。感じようとしなければ話は始まらないけれど。というか、自分で何かを勉強しようとするときにもしみじみ感じることであり。

 かといってスパイラルでもないような気がします。スパイラルは、リニアなものをぐるぐる巻いたものではなかろうか。新指導要領の“スパイラル”はよろしくないとか、そういう話ではなく。

 それにしてもあれです、

相似形の知識や認識能力が獲得される,という考え方が
同型性を保ちながら学習は進む,ということを
平板でリニアな形成物ではない


 いまさらですが、数学そのものが大きな“シェーマ”ですね。
(という言い方はヘンかな?)

 

 

〔2018年3月27日〕 分けて書いていた記事をひとつにまとめ、整理しました。

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ペリー、ムーア、クラインの教育改革運動

『時代は動く!どうする算数・数学教育』
(汐見稔幸/井上正允/小寺隆幸【編】)(1999年/国土社)
 機/学教育とその理念

にもどります。4番目は

「数学教育改革の方向を求めて
     ---数学教育史の視点から---」(上垣 渉)

です。これについては感想というよりも、(自分が勉強するために)要点のまとめの形で紹介したいと思います。

 20世紀初頭のペリー、ムーア、クラインの教育改革運動は、各国の事情と提唱者の立場の違いから少しずつ重点の置き方が違っていましたが、数学教育の「厳密性と系統性」および「有用性と経験性」が重要な論点になっていたことについては共通していました。前者を捨て、後者を取り入れよという主張です。

 ジョン・ぺリーはイギリスの工学者で、イギリスはユークリッドの伝統が強固なため、そこから抜け出すことと、数学の実用的方面を重視すべきと主張しました(1901年)。また、工学者ということもあり、数学を「道具」と見る傾向が強く見られます。

 エリアキム・ムーアは米国数学協会の会長を辞任する際に、ペリーの主張に呼応した講演を行いました(1902年)。アメリカがもともとユークリッドを改造したルジャンドル(フランス)の幾何学の影響を受けていたこともあり、ユークリッド批判は影が薄く、各科の融合や「実験室法」の提唱に力点が置かれています。

 フェリックス・クラインはドイツの数学者であり、解析学が飛躍的に発展した19世紀を代表する純粋数学者であるという背景から、各科の融合を関数概念によってなし遂げようとする点が前面に押し出されています。

 これらの数学教育改造運動は、数学の厳密性・形式性を捨て、直観や作業・実験から出発することを主張したわけですが、同時に、数学の持つ系統性も排除の対象にしたと上垣先生は分析しています。つまり、改造運動の特徴として「数学教育における『厳密性』と『系統性』を同一視している」ことをあげています。

 そのような同一視が起こる背景のひとつとして、19世紀末までの数学教育の厳格な分科主義があげられています。イギリスではギリシアから17世紀はじめまでの「古い型の数学」をそのまま中等学校に持ち込むという状況があり、代数、幾何、物理等は完全に仕切られて教えられていました。各分野にはそれぞれ固有の内容と方法があって、これらを混合すると各分科それぞれにとって害があるという考え方にもとづいたものです。たとえば、命題の証明はユークリッドの『原論』に忠実でなければならないとされ、19世紀後半の幾何教育改良を目指した教科書においてさえも、「ユークリッド以外の公理を許したり、ある命題の証明においてユークリッドの順序に従えば先行しないはずの命題を使用したりしてはならない」と書かれていたそうです。したがって、数学教育における分科主義は、各分科の厳密性を重んじるとともに、その系統性を必然的に要求することになりました。というような当時の状況もあり、
 数学の厳密性と系統性は密接不可分ではなく,相互独立の関係にあるにもかかわらず,当時の改造運動にあってはほぼ同義語として扱われ,批判の対象とされた(p59)
のでした。上垣先生は、厳密性は系統性であることを要求するが、系統性は厳密であることを要求するわけではなく、程度の差こそあれ、数学に限らず系統的でない学科があるとは思えないとしています。とくに数学の持つ系統性は尊重されなければならず、これからの数学教育は、数学の厳密性に固執せず、柔軟で多様な系統性の上に打ち立てられる必要がある、と主張されています。

 しかし、日本の数学教育の歴史を振り返ってみると、生活単元学習に対する批判から系統学習が取り入れられた結果、今日の数学教育が閉鎖的で硬直化したものになってしまっていることにも目を向けなければなりません。

 なお、ペリー、ムーア、クラインの教育改造運動がいうところの数学の有用性・経験性と、日本の生活単元学習がいうところの数学の有用性・経験性は性質が異なっており、前者は「数学の世界」に軸足を置いたうえでの有用性・経験性だったのに対して、後者は「現実の世界(生活)」に軸足を置いたうえでの有用性・経験性でした。いずれにしろ、「数学の世界」と「現実の世界(生活)」を分離させているという思想は同じです。

 上垣先生は、このような分離の思想を廃棄し、「柔軟で多様な系統性」を土台として、現実世界との豊かな交流を持った数学の内容と方法を「子どもの論理」に即していかに構成するか、という問題が問われている、としめくくっておられます。
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