TETRA'S MATH

数学と数学教育

解析学の言葉と、解析学蔑視の傾向

 少し脇道にそれます。

 辻下徹さんは「数学的」ということに関して、「少数の言葉を専門用語として選び出してていねいに扱う」ということを示されました()が、それに対して山口昌哉先生があとがきでコメントを書いておられます。「解析出身の数学者として、日頃考えていることを少し付言したい」というふうに。

 辻下さんの意見に異論があるわけではなく、「ていねいに」の内容を問題にされています。山口昌哉先生は、恩師である岡村博氏の『微分方程式序説』を読みながら、ハタと気がついたことがあるそうなのです。代数と解析の違いについて。

 代数学では1つの言葉には、ただ一つの定義しかないけれど、解析学では、1つの言葉に2つの定義があることがあり、このことが解析学における推論に微妙な方法を許す、という話です。

 たとえば、日本語の「面積」、フランス語では aire、英語では area であって、フランス語ではもともと麦打ち場を意味するし、英語では地面を意味する。いずれも、ある場所(領域)を意味するとともにその広さという量を表す。これこそは解析学の言葉であり、2つの意味を混えて推論する便利さがある、と。なお、この時代(おそらく『微分方程式序説』が刊行された1922年頃を指しているのだと思われます)、日本では公理主義の数学もポピュラーではなかったし、ブルバキはいまだ出現していなかった、と補足説明をつけられています。

 現代にいたるまでの日本における、解析学蔑視の傾向も、先ほど述べた二義性が、ブゥルバァキィ風にくらべて、取扱いにくかったことが非論理的に見えたにすぎない。
 偶然だったろうか、ブゥルバァキィが「アクチュアリテ・シアンティフィック」シリーズ(エルマン社)を“集合”から始めて、巻を重ねて“積分”にかかったところで、この刊行は中止された。

 確か、ブルバキの最初の目的は解析学の現代的な教科書を書くことだったと記憶しています。もしそうだとしたら、結局、積分にかかったところで中止になったというのが、面白い(興味深い)です。

 これを遠山啓の「量の理論」とあわせて考えると、さらに面白そうですね。なお、(同姓同名ではないのであれば)山口昌哉先生も数教協の関係者で、遠山啓の『量とはなにか−供戮料島高敬先生の解説で、山口昌哉先生の話が少しだけ出てきます。

 遠山啓は微分方程式のイメージとして“方向の場”を提示しており、微分法則(局所法則)を集めて(積分して)積分法則(大域法則)を知るという視点をつらぬいています。この視点を時間的にいいなおしたもの---“現在こうで”(初期条件)、“このままいくと”(微分方程式)、“やがてこうなる”(解)---という公開授業を山口昌哉先生は高校生を対象に行ったことがあるそうです。

 山口昌哉先生は、解析学の言葉の話を次のようにまとめておられます。

 つまり、私のいいたいのは、言葉の意味の不定性を許したまま、「ていねい」な取り扱いをすることは、20世紀以前の数学が大いに活用したことなのであって、「複雑系の数学」の数学は当然このようなものを無視しては成り立たないということである。


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「数学的」という言葉の規範性と不定性

 辻下徹「生命と複雑系」に出てくるクリプキのプラス・クワスの懐疑論を読んでいます。

 さて、68+57=5 と計算する人がいて、その計算の意味は納得できるものだとしても、「ぶっちゃけ、フツーそうは計算しないでしょ?」と言いたくなるというもの。プラスの意味が確定しなくても、私たちはフツーにプラスの計算をしているし、実生活で困ることはありません。

 しかし、上記の懐疑論者のような計算方法が出てくる可能性が払拭できないのも確かです。そして、そのつどプラスが不定性を残していたことが判明することになります。

 これはプラスだけではなく言語一般の様相でもある、と話は続いていきます。それぞれの言葉はある状況で明確に決まったふうに使えるのが理想であると普通は考えるけれども、プラス・クワスの議論からわかるように、言葉の確定した「意味」はありえない。つまり、言語は局所性と規範性をもっている。

 いまここで新たな2数のプラスを計算する場合、プラスのどんな明示的規則を持ってきても不定さが残っています。しかし、それにも関わらず、その不定さをなんなく飛び越えて私たちは計算をしてしまいます。計算結果の正誤に意味はないけれど、ふつうは「正しい答え」と判断されます。

しかし、その計算自身が行った不定性の解消自身はその後は同じ計算に対しては規範的な効果を持つ。

(p.156)

 なお、計算結果に正誤はないけれど、勝手な結果を出してよいのではなく、「唐突で無い」という点は重要で、前からその規則に従っていたとさえ思えるような新しさが必要であり、予想外ではなかったと思えてしまうようなものしか問題にならない、と辻下さんは書いておられます。なるほど、それは確かに。(ちなみに、この点を度外視するのが「規約主義」とのこと)

 で、ここからが面白いのですが、不定性をもつ言葉の有効性を考えるのに、「数学的」という言葉が取り上げられています。プラス・クワスの議論で考えたように、「数学的」の意味を確定することはできず、この言葉も不定性をもっている。そこを考えてみようというわけです。

 数学者以外の人が考える「数学的」なやり方は、計算したり論理的に議論したり作図したりすることで、「数式」を使うことが「数学的」ということと同一視されることもあるでしょう。

 しかし、数学者が留意することの一つは、(個人的な研究生活は行為の世界であり比較することは不可能なものなので触れようがないが)言葉や図形や記号などを使うときはそれをどのように使うかということを明確にする、という点にある。数学的議論も日常的な言語の中で行われるのであるから、すべての言葉の意味を確定しようというようなことはしない。少数の言葉を専門用語として選び出してていねいに扱うのである。用語をていねいに扱うことを強調したいときは公理主義的な表現をとる。

(p.158)

 語り口が数学的かどうかということは明確に決められないものの、唐突に万葉集を持ってきてこれが数学的議論だといってもそれは無意味なことになってしまう。

不定性はあるがほとんど確定しているかのように感じるということ、それが「数学的」に関する規範性であり、ほとんど確定しているかのように感じるが予想外の不定性が残っていること、それが「数学的」の局所性=不定性であり、それが新しい「数学的」の創発を可能にするのである。

(p.158〜159) 

 「それが」が続いていて、最後の「それが」の「それ」がどれなのかはっきりとわからないのですが、たぶん、「数学的」に関する規範性と不定性が、新しい「数学的」の創発を可能にする、ということだと思います。おお、なんとなく積極的になってきたぞ。

 そして、新しい「数学的」の創発の大きな例として、カントールの集合論があげられています。ちなみに、小さな例としては、ヒルベルトによる一般の群に対する基本不変式の存在証明があげられています。

 「生命を数学的に語る」ということが何を意味するか確定はできないけれど、「生命を詩的に語る」ということとは明らかに違う何かがある。予想外な「数学的」は、毎日それぞれの数学者の研究行為の中で生じていて、あるときには大きな創発として表面に現れてくる。プラス・クワスの懐疑論はこういう描像を明示しており、そこに明るさを感じるということらしいのです。

(つづく)

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辻下徹「生命と複雑系」に出てくるクリプキの懐疑論

 クリプキのプラス・クワスの懐疑論とは、次のようなものです。

 68+57 に対して、私が「125」と答えると、ある懐疑論者が来て、なぜ「5」ではなく「125」なのか、と問いました。その人は、x,yのいずれもが57より小さければ x(+)y=x+y そうでないときは x(+)y=5 となる演算クワス(+)をいままでプラスといながらやっていたらしいのです。これに対して私は反論できません。

 つまり、68+57 のような問題に対し、ある特定の答えを出すとき、私は、その答えを正当化することはできない、という話です。なお、本文中でクワスは丸付プラスで表記されています。

 初めからプラスの明確なアルゴリズムを周到に注意深く指定しておけば、「68+57=125」を正当化できそうなものです。しかし、どんなに周到に準備しても正当化できないというのがプラス・クワスの議論の骨子らしいのです。今度はアルゴリズムの適用というところで、懐疑論者は意地悪を言うことができるとして、次のような例が出されています。

 たとえば十進法による計算を (a) 2つの数を右端にそろえて上下にならべて書く。 (b) 右端から順に上下の1桁の数を加える。ただし、前の桁に繰り上がりがあれば、次の桁の計算結果に1を加える。 として与えたとします。

 しかし懐疑論者は (a) 2つの数を右端にそろえて上下にらべて書く。 (b) 右端から順に上下の1桁の数を加える。ただし、前の桁に繰り上がりがあれば、次の桁の計算結果に1を加える。 というびゅっ進法による加算で計算していたらしいのです。「らべて書く」の定義は、2数が57以下のときは普通に並べて書くが、そうでないときは上に5を書き、下に0を書くというものです(なお、本文そのものの引用ではなく我流で書き直しています)。

 他にもいくらでも揚げ足をとられてしまうことになります。

 そんなこんなで、自分が今までやってきたやりかたを適用しただけと思った自分の計算「68+57=125」には何の根拠もないこと、つまり「これまで従ってきた規則を適用した」が意味をなさないこと、さらに「なんらかの規則に従って何かをする」にも意味がまったくないことに気づかされるというわけです(と言われてこの段階で素直に納得する人はそれほどいないかもしれない)。  こうしてクリプキは

何らかの語で何らかの事を意味している、といった事はあり得ないのである。語について我々が行う新しい状況での適用は、全て、正当化とか根拠があっての事ではなく、暗黒の中における跳躍なのである。いかなる現在の意図も、我々がしようとするいかなる事とも適合するように、解釈され得るのであり、したがってここには、適合も不適合も存在しない。

(p.149/引用部分)

という異様な主張に到達するわけですが、何がびっくりって、辻下徹さんによると、「一見するとネガティヴなこの主張の中に驚くような積極的なものがある」らしいのです。

 懐疑論者のクワスの発案は、どうにも気持ちがわるいものです。なぜ気持ちがわるいのかを考えてみます。

 懐疑論者がクワスを持ち出す以前には、自分のプラスの計算は正当としか思えませんでした。このプラスの計算だけでなくあらゆる2数のプラスの計算には「正しい答え」があり、自分はそれを計算できると考えていました。これはプラスの実在論と言えます。

 そして、クワスを出されたときに、確かにそういう計算でも文句は言えないけれど、そんなクワスは不自然で、そういう計算ではないことは暗黙の了解・常識だと言いたくなるわけです。つまり、暗黙の了解・常識といった概念が実在論を守る働きをしているということになります。

 とはいえ、数学の議論の中ではプラスの意味は確定しているように思える、それはなぜなのか。

 数学の議論の中でプラスの意味が確定しているように思えるのは、「以下同様」という言葉で意味が確定するという約束(数学的帰納法が使えるという約束)の上に数学的議論が成立しているからにすぎず、数学的にプラスが確定できることは数学的議論の約束から来るものだと辻下さんは書かれておられます。

 つまり、形式世界は、「以下同様に」で何かが確定する世界にほかならない。これはまた見渡せるということの別の意味でもある、と。

 どの数も次の数があることから自然数を産み出し、
 どの「ここ」の近くにも他の場所があることから
 宇宙空間を産み出し、
 いつも自分には知らない人がいることから社会を産み出す。

 今よりちょっと先があるだけしか確かでないが、以下同様に続くと考えると人生全体が生成され、こうして生成される「人生」は形式世界に属する。

 プラス・クワスの議論は「以下同様に」がいつも不定性を残していて、それによって「すべての」場合に何かが確定できるような性格のものではないということを示すのに成功しており、この点を考慮に入れると、世界そのものと見えていた形式世界がすべてではないことが明らかになる、ということらしいのです。

 しかも、欄外補足によると、角田秀一郎は「実はクリプキのプラス・クワスの懐疑論自身の意義も不定さを残している」と指摘しているそうです。また、郡司ぺギオ-幸夫は「クリプキの懐疑論自身がクリプキの懐疑論に適用されて明確な意味を失うという点にクリプキの真意があり、それを通して懐疑論すら根拠をもたないほど無根拠性は根源的であることが体験される」という視点を示しているそうです。

 うわーなんかめんどくせーと思えてくるので、先にこの議論の意義と「解決」の内容を書いておくと、要は、言語は局所性と規範性をもつということを明確にしたのがプラス・クワス懐疑論の意義であり、この懐疑論がもたらした結論の異様さはわれわれの言語観の誤りに由来している、というのが「解決」です。言われてみるとあたりまえと思えてくるというか、もうずいぶん前から知っていることのように聞こえるので不思議です。あたりまえのことを思い出すには、思い出すための概念が必要なのだな。

 さて、この議論がどう「積極的」なのか。そこが知りたい。


〔2018年3月30日〕
 分けて書いていた記事をひとつにまとめ、整理しました。

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辻下徹「生命と複雑系」―― 形式世界とその外

 『複雑系の科学と現代思想−数学』(高橋陽一郎・辻下徹・山口昌哉著/青土社/1998)所収、辻下徹「生命と複雑系」から、[3 形式世界とその外]を読んでいきます。

 ここは郡司ぺギオ-幸夫の生命論を紹介する「第II部 生命」の導入部分になっています。生命の持つ「予想外」という様相に形式世界という概念を使ってアプローチしていくというこxxzとで、「予想外」が生命の不可欠な様相であるという立場をとった議論になっています。

 ちなみに、『複雑系の科学と現代思想−数学』では本文の下にけっこうなスペースをさいて、本文中に出てくる言葉の補足説明が書かれてあるのですが、「予想外」についての補足説明で、郡司ぺギオ-幸夫さんの次の一文が書いてあり、面白かったです。

生命とは時間の別称である。

(p.131)

 「予想外」はこの文に一つの明確な輪郭を与える、と辻下徹さんは書いておられます。

 さて、郡司ぺギオ-幸夫の生命論の要点の一つは実在論批判なのだそうです。という主張を考えやすくするために、形式世界という概念を使います。

 形式世界とは、語る者が自分と切り離せたと考える物事の総体を指したものであり、典型的なものが数学的理論、物理学の描く宇宙や教科書に載っている社会などです(つまり、ここでいう形式世界は数学的理論だけではなく物理的世界や社会などを含んでいる)。

 あらゆることを形式世界に納められるとする考え方が実在論であり、実在論批判は形式世界がすべてではないという主張だと考えることができます。

 また、自分から切り離されたものであることと、その全体を見渡せる(考察の対象とできる)ということとは同じことで、この「見渡せる」を「知的に見渡せる」に限定した場合、それは「整合的」と言い直すことができます。

 整合的であるというのは、ある主張とその否定とが同時に証明されるという事態はなく、ある主張の真偽はそれを誰がいつどういう順に検分しても同じだということです。きのうはPだったがきょうはPではないということはないし、A氏が調べたらPなのにB氏が調べたらPではないということもない。

 形式世界としての世界では、やりたいことがあればそれが可能かどうか、可能ならばどこで何をすればいいか、などが一目瞭然ですが、形式世界には「予想外」を入れる隙間がありません。「予想外」を形式的に把握することはできないので、「予想外」を生命の標とする立場に立つと、生命は形式的には把握できないということになります。

 「生命を見る」には形式世界の外に出なければなりませんが、形式世界は世界そのものと見える場合もあるので、そこから知的考察だけで出るのは簡単なことではありません。

 しかし、道がないわけではない。として、ラッセルのパラドクスとゲーデルの不完全性定理が出されています。「積極的内容には乏しいが、論理的な議論を通して納得できるものとしては」というコメント付きで。

 ラッセル、カントール、ゲーデルについては8ページほどさかれています。本文中で3人がどんなふうに語られているかの説明は割愛しますが、個人的に印象が強かったのは、ゲーデルが構成主義的立場を否定しているくだりでした。

 さて、ラッセル、ゲーデルの議論は、「形式世界の外があるということを納得させはするが、いったいその外はなんなのかということについては何も知らせてくれない」と言う辻下徹さんが、もっとも本質的な方法として取り上げたのが、クリプキによるプラス・クワスの懐疑論です。

 まずはウィトゲンシュタイン。

 言語活動は形式世界とその外との関係を調べることができる場で、何も隠れてはいない。この場において、縫い目がないように見える宇宙がつぎはぎの形式世界でしかないありさまを執拗に照らし出そうとしたのがウィトゲンシュタインの探求であったように思える。

(p.145)

 しかし、探求自身は形式世界の外へ向かうものであったとしても「探求の軌跡」は思想として形式世界に納まってしまい形式世界の外は示しえない。

 そんなウィトゲンシュタインの言説の核心を一点に絞って明確にしようと試みたのがクリプキのプラス・クワスの懐疑論だというわけです。クリプキがしたことは、ウィトゲンシュタインの次の一節を徹底的に取り下げたものだと考えることができます。

 われわれのパラドクスは、ある規則がいかなる行動のしかたも決定できないであろうということ、なぜなら、どのような行動のしかたもその規則と一致させることができるから、ということであった。その答えは、どのような行動のしかたも規則と一致させることができるのなら、矛盾させることもできる、ということであった。それゆえ、ここには、一致も矛盾も存在しないのであろう。

(p.146引/引用部分)

 

(つづく)


〔2018年3月30日〕
 分けて書いていた記事をひとつにまとめ、整理しました。

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辻下徹「生命と複雑系」の組み立て

 『複雑系の科学と現代思想−数学』(高橋陽一郎・辻下徹・山口昌哉著/青土社/1998)の中から、辻下徹「生命と複雑系」をみていきたいと思います。

 辻下徹「生命と複雑系」は、次のような構成になっています。

第吃堯(雑系
  1 「複雑系とは/複雑系私的序説」
    1−1  間近い複雑系科学の誕生
    1−2  意味世界の多重秩序
    1−3  多重記述系を要する複雑系
    1−4  人間の一記述系としての脳
    1−5  複雑系認識の「適切さ」
    1−6  自然言語
    1−7  複雑系科学における数学の使命

  2 自己創出系としての複雑系記述
    2−1  複雑系記述の基底概念
    2−2  相互作用(プロセス)論の基本的様相
    2−3  相互作用に基づく複雑系論:自己創出系の吟味
    2−4  相互作用のきっかけ
    2−5  統一体
    2−6  演繹的有向ハイパーグラフ

第局堯\弧
  3 形式世界とその外
    3−1  形式世界とは
    3−2  形式世界の外への契機
    3−3  複雑系研究と生命理解
  4 内部観測:形式世界の外に立つ観測
    4−1  「内部観測」とは
    4−2  内部観測としての研究
    4−3  複雑と錯綜
    4−4  いまある創発性
    4−5  形式世界の利用:隠喩から契機へ
    4−6  郡司の数理モデルの要点
    4−7  チュー空間による内部観測の描写
    4−8  結び

 クリプキのプラス・クワスは、「3−2 形式世界の外への契機」で出てきます。

 「3−2 形式世界の外への契機」をさらに詳しくみていくと、次のような組み立てになっています。

   [3−2−1  形式世界のもつパラドクス]
    ラッセルのパラドクス
    カントールの無限
    ゲーデルの数学観
    実在論のパラドクス

   [3−2−2  プラス・クワスの懐疑論]
    「暗黙の了解」の崩壊 
    「以下同様」
    理論的可能性と実際的可能性
    二つの無限

   [3−2−3  プラス・クワス議論の意義]
    言語の局所性と規範性
    不定性をもつ言葉の有効性
    推移律としての「以下同様に」

   [3−2−4  ウィトゲンシュタインによる「解決」]

   [3−2−5  「複雑システム」と高次元圏論]

   [3−2−6  内的集合論] 


 久しぶりに読むと、以前よりだいぶ読みやすいです。そして面白いです。


(つづく)
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