TETRA'S MATH

数学と数学教育

玄侑宗久が使う科学概念と、柳澤桂子との往復書簡について

  このブログで玄侑宗久さんのお名前を何度出しただろう?とサイト内検索をしてみたら、3回でした。

南直哉・玄侑宗久『<問い>の問答』
山口昌哉 『数学がわかるということ』・4/微分方程式のこと
あいかわらずシンクロ

 玄侑宗久さんというのは臨済宗の僧侶で、小説家でもある方です。なお、私は小説は1冊も読んだことがありません(そろそろ読んでみたいと思っているところ)。玄侑さんのことを知ったのは、福島関連のことではなく、別の人の本を買ったときに、それについて調べていたらお名前が出てきて、興味をもって、読むようになったのでした。

 玄侑宗久さんの本には、宗教関係の人名や概念はもちろんのこと、デカルトとかフッサールとかフロイトとかスピノザとかベルクソンとか哲学者たちの名前も出てくるし、さらには自然科学者の名前や概念もよく出てきます。と書くと、小難しい本に聞こえるかもしれませんが、そんなことはなくて、やわらかい口調でわかりやすく書かれてあります(そしてどきどきお茶目です^^)。

 手元にある『禅的生活』(2003年)、『まわりみち極楽論』(2006年)でいえば、アインシュタイン、現代物理学の「相補性」、プリゴジン、スチュアート・カウフマン『自己組織化と進化の論理』、オートポイエーシス、デヴィッド・ボームなどが出てきます。

 言葉だけの場合もあるし、大抵さらっと出てきていて、比較的行数を割いて扱われる場合もそんなに突っ込んだことは書かれていません(だけどそれは、本質を、わかりやすくシンプルにまとめてあるともいえる)。だとしても、僧侶が書いた本に自然科学の概念がこんなに出てくると、またぞろ批判されちゃったりするのかしらん?と思って、ためしに検索してみましたら、こんなページがひっかかってきました。↓
http://gpss-japan.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_b67a.html
浅学菲才の評者には、こうした著者の科学的思考が科学的に正しいかどうかを判断することができない。しかし単純に考えても、本書以外でも繰り返しこの話題を取り上げる玄侑は、自らの属する宗門(それは不立文字を謳う禅宗である臨済宗)はもとより、宗教界、思想界、科学界からうんざりするほどの批判と無視を受けていることは容易に推察できる。以前より知の越境には不寛容な風土でありつつ、さらにわれわれは「ソーカル事件」以後を生きているからである。玄侑自身もそうした逆風を感じていないわけはないだろう。では、なぜ彼は書き続けるのか。禅坊主にありがちな「はったり」か。最後は呵呵大笑で一件落着というわけだろうか。
 しかし、そうではないだろう。著者はやはり現代日本人が受容可能な死への手引きを切に要望しているのであろう。本書の「解説」において中沢新一が、玄侑は誰でも苦労しないで読むことのできる小説という形態を使って「日本人の死者の書」を書かねばならないと考えたのではないかと推測しているが、その通りだと思う。
 なるほど。同じ文章が含まれている研究報告も発見。↓
http://nirc.nanzan-u.ac.jp/nfile/3782

 「宗教界、思想界、科学界からうんざりするほどの批判と無視を受けていることは容易に推察できる」とのこと、あくまでも推察なので、実際どうなのかはまた別問題ですね。とりあえず私は、直接的な批判はきいたことがありません。無視、あるいは批判するような人から気がつかれていない、問題とされていない、というのはない話じゃないとは思いますが。それにしても、「ソーカル事件」以後という言葉をきくと、逆に、「いやーそれほどのもんでもないっしょ〜」と言って、(ソーカル事件を)それほどのもんじゃないようにしないといけない気分になってしまいます^^;。

 玄侑宗久さん単独の本についてはひとまずおいといて、柳澤桂子さんの往復書簡について考えてみたいと思います。『文藝春秋』2006年12月号に掲載されたようなのですが、私自身はその内容を読んでいません。読んでいませんが、こんな感想を見つけて、興味をもちました。↓
http://aquarian.cocolog-nifty.com/masaqua/2006/12/post_2ced.html

 この感想の前半では、
生命科学者であるだけに、すべてが科学の言葉で説明がつくはずという科学主義にこだわっている。科学でそんなにがんばらなくていい、もっと解放されたらいいのに、と願う。
と書いてありますが、柳澤桂子さんの言い分と、玄侑宗久さんとの間でどういうやりとりが行われたかについて、もっと詳しく後半で抽出してあります。まず、柳澤桂子さんが、
科学と宗教は、ものごとの両極端にあるようにいわれるが、私はそうではないと思っている。けっして別のものではない。宗教も科学と同じように、人間の脳の中の営みである。いずれ科学がすべてをあきらかにするであろう。
と言っているのに対し、玄侑宗久さんは、「宗教も科学と同じように、人間の脳の中の営みである」について「全く賛同いたします」としたうえで、「『いずれ科学がすべてをあきらかにするであろう』という一文に、私は些か疑問を感じるのです」と問いを発しているとのこと。

 玄侑宗久さんは、科学の方法は分析的で、「いのち」の全体性は、科学の対象になりえない、という。これに対して柳澤桂子さんは、一元的なものの見方に戻ることによってリアリティーを取り戻せるということを説いているのが宗教だということを認めていながら、最後は科学がすべてを明らかにする、という見方にこだわってしまう。というふうに、この感想を書いた方はとらえておられるようです。
 玄侑の問いかけに、柳澤は、科学がまだ到達すべき地点に至っていないからで、いずれ科学は分析から統合へと向かい、「全体性(wholeness)」に行き着く、といいきっている。
(なお、柳澤桂子さんはこのあと急に考えを変えているもよう)

 私も、「すべてが」科学の言葉で説明がつくということはないだろうと思いますが、柳澤桂子さんが言いたいことはわかるような気がします(あたっているかどうかはわからないけれど)。「すべての説明がつく」ことはないけれど、これまで説明がつかなかったことの説明がつくようになる、と。そのときの科学はたぶんこれまでの科学じゃないし、いまの科学でもない。だけど、科学ではある。そのときに全体性というものがキーワードになるというのも頷けるし、何か現実的なものを感じます。

 科学で答えが出せないものは絶対あると思うけれど、科学で絶対に問えないものはない・・・というふうにまとめたくもなりますが、こうなるとワインバーグのトランス・サイエンス的な意味合いにもきこえてしまうでしょうか。(詳しくは知らない↓)
http://www.jnes.go.jp/tokushu/taiwa2/2-1-3.html

 このあたり、つながる話のようにも思えるし、ニュアンスが違うようにも思います。まだ考え中。

 そういえば多田富雄さんが、脳死の問題に免疫学は何を提供できるか・・・といったようなことをどこかで書いていらした覚えがあります。これかな?→命の細分化、トータルな死 

 “玄侑は誰でも苦労しないで読むことのできる小説という形態を使って「日本人の死者の書」を書かねばならないと考えたのではないか”という中沢新一さんの解説は、きっと的確なのでしょう。しかし私は小説さえも(小説だとなおさら?)苦労してしまうので(^^;、とりあえずエッセイ的なものや対談などで、死者の書に限らず、生きるということについて、その片鱗に触れさせてもらっているのでした。
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あいかわらずシンクロ

 シンクロっちゅうかなんちゅうか、結局私が、基本姿勢が同じである概念を、いろんなジャンルからそのつもりもなく選びとっているってことなんでしょうねぇ・・・まあ、ジャンルというか、この場合は玄侑宗久さんだから、科学談義に近いのかもしれませんが。

 きょう読んでた別の本↓
 玄侑宗久『しあわせる力 禅的幸福論』(角川SSC新書/2010年)より
 明治以降、いや実際には第二次大戦以降、因果律だけでモノを考える「科学」という習慣が急速に日本人全体にも広がったことで、我々日本人はしあわせを感じづらくなりました。因果律といったって、知らない要素が一つ入っただけで、未来に対するロジックなんて、まったく無効になると私は思うのすが、どうも「科学」への思いはすでに信仰に近い。因果律のみの「科学教」がしあわせの邪魔をしている気がして仕方ないのです。
 では、日本人がしあわせを感じるのはどんなときか。
 少なくとも、予定どおりに物事が進んでいるときではないと、私は思います。思ってみないことが起こって、その中で自分が揺らぎながら、なんとかやりくりしつつそれを楽しんでいる状況、たぶんそれがしあわせなのだと思います。
 日本語の本来の意味での「しあわせ」もそうです。他者と仕合うことがうまくいった、そういうことでしあわせを感じる。他者の振る舞いと合わさって、思ってもみないことが起こり、その巡り合わせを楽しいと思った。本来の日本人が感じる「しあわせ」というのは、そういうことだったのではないでしょうか。
 ですから、因果律で考え、あらかじめ確実な近未来というのが想定されている現代社会では、予定どおりかどうかがいちばんの焦点になりますから、まず予定外のこと自体が受け止められません。だから、「しあわせ」は起こりにくいのです。
 (p.110〜111)
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ポスト複雑系(3)/非同期時間

 『現代思想』2013年1月号所収の郡司ペギオ幸夫「ポスト複雑系―因果律と準因果作用子の邂逅」を読んでいます。

 郡司さんは、マニュエル・デランダが導入する準因果作用子の最も強力なモデルは、非同期時間だと考えているようです。

 その意味を、私の理解で、私の言葉で書いてみます(郡司さんが言おうとしていることとはずれてしまっているかもしれませんが、私はこう理解した、ということで)。

 ポスト複雑系(2)/マニュエル・デランダの準因果作用子において、左右にのびる直線を考えました。これは因果律の軸です。この1本の軸だけだったら、1つの時間発展を示したものであり、それは言い方をかえれば、あるひとりの登場人物の時間発展です。このことを、郡司ペギオ幸夫さんは「ある因果律に従うエージェント」と呼んでいます。エージェントという言葉は完了形と現在形、超越と局所(サイエンス・ウォーズのひとつの見方)で出てきました。代理人という意味のある言葉のようですが、この言葉に慣れている人にとっては、エージェントというカタカナのままのほうがむしろしっくりくるのかもしれません。

 たとえば、かつて郡司ペギオ幸夫『時間の正体』を読んでいたときに、私は次のような因果集合を考えました()。

 

 ここには、Aさん、Bさん、Cさん、スズメというエージェントがいます。このうち、左端のAさんにからむ5つの項目だけを抜き出して、それを一直線に表せば、この直線で表される因果律に従うエージェントはAさんということになります。

 同様に、Bさんだけの直線、Cさんだけの直線、スズメだけの直線も考えることができ、それぞれの1直線はそれぞれの因果律を表していて、その因果律にしたがうエージェントが1本につき1人(または1羽)いることになります。

 で、上の図では、複数のエージェントの因果律の軸が並んでおり、しかも平行に並んでいるわけではなく、項目を共有することで直線が交錯していきます。つまり、様々な時間軸がある図、様々なエージェントがいる図になっています。そこでは当然、相互作用というものが起こってきます。

 このように、AさんならAさんだけの1本の直線で考えるのではなく、複数のエージェントが時間を非同期的に進めていく様子を捉えられるものというのが、郡司さんが準因果作用子に与えたモデルなのだろうと私は理解しました。

 そして、エージェントが動物や人間などの個体であれば、社会の原生的モデルとなるし、エージェントは分子であっても構わない、と話は続きます。その場合は分子の社会性ということになります。
ここにあるのは、個の多様性を担保しながら、一個の明確な単位として現前する社会性である。社会を個の統一と理解するとき、社会と個の多様性は共立し得ない。これに対し、現実化と脱現実化の交わりは、社会と個の多様性を矛盾なく共立させる。
 因果律と準因果作用子の接合は、あらゆる現象を社会として描き出すことになる。それは統一原理に落とせない、徹底した複数性、社会性を描き出す転回だ。それは、同時に、明確な塊、明確な単位として現前し得る全体の生成を描き出す。単独のアジャンクションの果てにあるものは、部分と全体なる双対性の全体を見通し、相対化することで現れる自己言及に過ぎない。その向こう側への明確なビジョンこそ、準因果作用子とアジャンクションの接合による、潜在性を構成する装置となる。それは自らにとって都合のいい外部のみを取り込むシステム論的展開と異なり、真の外部、底のない外部を常に携えた、現象=社会の次元を切り拓く。ポスト複雑系は、真の外部に対する覚悟をもって開始される。
 (p.79)

 上記引用部は、この小論の最後の部分です。今回あらためて思ったんですけど、郡司ペギオ幸夫さんって、どこかコピーライターっぽいところがありますよね(^^)。「わたしには現在しか許されない」とか「生命とは時間の別称である」とか。そして今回は、「ポスト複雑系は、真の外部に対する覚悟をもって開始される」と。ここで“覚悟”という言葉を使うあたりが郡司さんっぽい。でも、ほんとにそうだと思う。

 上記のような現象は、考えてみれば、ごくあたりまえの、ごく日常に行われていることだと思います。というか、私たちは日々そのなかで生きている。その、ごくあたりまえのことを、どうしたらこれまでよりも“ありのまま”の形で、自然科学で扱えるようにするか・・・というところがミソなのだろうと個人的には思っています。そのときに数学は強力な道具となるはずであり、それこそが、遠山啓の予見した、「生命や社会などの動的構造に対応できる数学」なのでしょう。
私が思う遠山啓の「量の理論」と「現代化」の関係
遠山啓には、何が見えていたのだろう
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ポスト複雑系(2)/マニュエル・デランダの準因果作用子

 『現代思想』2013年1月号所収の郡司ペギオ幸夫「ポスト複雑系―因果律と準因果作用子の邂逅」を読んでいます。

 郡司さんは、ドゥルーズやポストモダン、脱構築を、システム論と隔絶した生命の理論として再生するにあたり、マニュエル・デランダという研究者の名をあげています。私は初めて聞く名前だったので検索してみたところ、Amazonの『オープン・ネイチャー―情報としての自然が開くもの』がひっかかってきました。「あれ? ICCのオープン・ネイチャーのシンポジウムに、郡司ペギオ幸夫と大澤真幸ともうひとりいたのはマニュエル・デランダだったの!?」と思って確認したところ、こちらはマルコ・ぺリハンでした。マニュエル・デランダは『ドゥルーズの存在論』という本を書いている方のようですね。

 なお、あれこれ検索中に、以前、見つけたものとは別の森村修さんの論文も発見↓
G・ドゥルーズの「多様体の哲学」(1)
http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/
10114/6331/1/ibunka12_morimura.pdf


 郡司さんは、マニュエル・デランダの『強度の科学と潜在性の哲学』をとりあげ、これは水と油であるようなポストモダンと分析哲学をつなぎ、分析哲学者や自然科学者が、ドゥルーズを使えるように理解させるといったような意図をもつ著作だと紹介しています。なお、前半はほとんど2000年ごろまでの複雑系科学のレビューで古びた感は免れないそうですが、途中(時間の議論以降)で別な次元へと議論が転回されるもよう。そこで鍵となるのが、準因果作用子(クェーサイ・コーザル・オペレーター)というもののようです。

 デランダさんは第一に、可能性-必然性(結果)の軸が、現実化・脱現実化という2つの変換によって構成される双対空間であると説き、双対性のモデルとして、方程式を立てること・解くことの双対性を示すガロア理論を取り上げるのだそう。そして、この双対空間が、数学者によって一般にアジャンクションと呼ばれるもので、自然科学者の方法論とは、たかだかアジャンクションを見出すことである、と述べているらしいです。

 出ましたね、アジャンクション。
http://math.artet.net/?eid=1421552
http://math.artet.net/?eid=1421869

 可能性-必然性の軸というのは、いわゆる因果律の軸です。たとえば水が氷へ変化していく時間発展は、水分子配置の自由な様々の可能性を結晶化し、構造化、現実化する過程であり、構造化された結果から、可能性を事後的に解釈することが、脱現実化の変換ということのようです。

 なので、因果律の軸をたとえば左右にのびる線分だと考え、左の向きを可能性、右の向きを必然性(結果)とすれば、左から右に向かうのが現実化、右から左に向かうのが脱現実化ということになるのでしょう。ふつーに考えると、左向きは過去、右向きは未来、と言ってもよさそうな気がします。ちなみに左向きに「方程式を立てる」が対応し、右向きに「方程式を解く」が対応します。この軸がアジャンクションであり、可能性-必然性の双対空間です。

 可能性から1つが選択される過程とは、未来だったものを過去とすることなので、先のように可能性(カオス)と必然的結果(オーダー)の対を時間という枠組みで考えることができるわけですが、デランダさんはここに双対空間最大の問題点を見出すらしいのです。それは、未来だったものを過去とする変換が現実化という時間なら、現在はどう擁護できるか、という問題。
未来と過去の間に位置する現在は、いま・こことして、或る広がりを有しながら唯一性を持つ必然だ。このような現在は、カオスとオーダーの双対空間における相転移点、氷と水の両者の性格を持った相転移点と位置づけられることになる。それは、両者の臨界状態にして、双対空間の中でほぼ実現不可能な、際どいバランスの上に成り立つものと構想される。
 (p.78)

 で、どうするか。

 ということを、p.79で示されている図をもとに考えていきたいのですが、この図をそのまま描き起こしてブログに表示するのもなんなので、なんとか言葉で表現できないか頑張ってみます。

 先に示した左右の線分(可能性-必然性の双対空間、因果律の軸、アジャンクション)は、掲載されている図では左右ではなく左下から右上にのびる実線の線分になっています(両端が矢印)。そして、この直線に直交(左上〜右下の向きなので斜交という言葉が使われていますが)するように、やはり両端が矢印になっている点線の線分が重ねられています。

 この重ねられた点線が、「準因果作用子」の軸ということになります。左上の向きは「普遍」、右下の向きは「個物」を表しています。実線のほう、つまり因果律の軸だけだったら、結局、特定の双対空間を指定して、そのなかに留まっていることになるので、相転移に過ぎない現在は擁護できないことになる。これに準因果作用子の軸を重ねることで、双対空間自体の内側とその適用されない徹底した外部、すなわち様々な双対空間スペクトラムを横切る多様性の軸を導入しよう、ということなのだろうと私は理解しました。そうして2つの両端矢印の線分が重なることで、その交点に「潜在性」が開設され、潜在性-現実性の対が現れる、と。

 こんなふうにして重ねられた準因果作用子は、アジャンクションの多様性であり、アジャンクションをダイナミックに変質させる、特定の双対空間外部となる、ということのようです。なお、準因果作用子はアジャンクションをどう規定するかに依存して具体的に決まっていくものであるらしいです。

 しかしデランダさんは、準因果作用子、双対空間の多様性とは何か、については具体的に何も語っていないのだそう。科学はアジャンクションに留まり、準因果作用子の展開こそがドゥルーズの業績だったと説くだけだ、と。なんとなくわかる気がします。だからドゥルーズは、ソーカル的立場の科学者から「科学を濫用している」と批判されるに留まったのではなかろうか。科学あるいは数学の仕事はアジャンクションの軸だけだから。それに斜交する多様性の軸など科学、数学の仕事とは受け入れられなかったのでしょう。なまじ「多様」という言葉を含む数学用語がすでにあるもんだから、なおさら話はややこしいし。

 ドゥルーズ本人はこの多様性を言葉で表現したのでしょうが、それに対してデランダさんは、「準因果作用子」という概念・用語を与えることで(これも言葉ではありますが)、水と油をつなごうとしたのだろうと現時点の私は理解しています。だから、デランダさんが考えた、因果律に斜交する新たな軸を、別の概念や用語やモデルで語ることも可能なのだと思います。

 で、郡司さんはといえば、準因子作用子の最も強力なモデルは、非同期時間だと考えているようです。

(つづく)
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ポスト複雑系(1)/『現代思想』2013年1月号

 先日、図書館で『現代思想』をのぞいていたら、2013年1月号に 「現代思想の総展望2013」という特集があり、郡司ペギオ幸夫さんが「ポスト複雑系」というタイトルで短めの文章を載せておられることを知りました。

 私は十数年前に複雑系にはまったことがあるのですが、いまとなってはきっかけや経緯が思い出せません…と書こうとして過去のエントリを検索して読んでみたら、あらま!箱庭療法の本だったんだ〜〜知らんかった・・・いや、自分のことだから知らんかったんじゃなくてすっかり忘れていたわけなのですが(^^;>複雑系の思い出・01複雑系の思い出・02

 とにかく、「ここには何かある!」「私はこういうことを求めていた!」)と感じて、しばらくテンションが上がっていたのでした。

 山口昌哉先生の複雑系のレクチャーをきいたのは、たぶん1997年のことだと思います。山口昌哉先生が遠山啓著作集の解説で、「私たちは,まさに先生のいっておられる,10年前に予見しておられた方向に数学を発展させており,たとえば,この本の第珪呂僕集されている数学の未来像,つまり,構造的で,かつダイナミズムを描く数学がようやく開拓できた。遠山先生はそれを私から聞くことなく亡くなられたのは,まことに残念である」と書かれたのは()1970年代の後半だと思うので、まだ複雑系という用語は生まれていない頃ですね。でも、『非線型現象の数学』を1972年に出しておられるし、上記の文章を書かれたころは、カオスとフラクタルの研究もされていたのでしょう。

 『現代思想』2013年1月号に掲載されている郡司ペギオ幸夫さんの文章は、「複雑系という概念を目にしなくなって久しい」という一文から始まります。そして複雑系は、現実的な生物や脳を理解する方法論と目され、システムバイオロジーやシンセティックバイオロジーに呑み込まれたといっても過言ではない、それはシステム論への回帰である、と。

 折りしも、先日リンクした永井俊哉さんの文章は「システム論アーカイブ」のなかの記事でしたが、永井俊哉さんはルーマンの研究を経て、システム論へと入っていたようです。
【参照】『縦横無尽の知的冒険』のインタービュー記事↓
http://blog.goo.ne.jp/press_kim/e/
73a870b875a704ef0fa0d8bc53282673

 郡司ペギオ幸夫さんは、システム論を、「部分の総和(モノ)と、それを越えた強度的全体(コト)との両義性を認め、両者の配分に関するスペクトラムをパラメーターの違いで判断すること」としたうえで、「ここに、生命や意識を理解する知の革新があるだろうか」と問いかけます。というわけで、この小論は、システム論への誘惑を断ち切って、ポスト複雑系の道を探っていこうとするもののようです。

 システム、あるいはルーマンときけばオートポイエーシスのことを思い出しますが、それまでオートポイエーシスのことがなんだかよくわからなかった私がはじめてこの概念を少し理解できたような気がしたのは、皮肉にも、郡司さんがオートポイエーシスを批判的に検討するなかで「痛み=傷み」という言葉を使ったときでした。>郡司ぺギオ-幸夫さんのプレゼン映像を見て思ったこと

 上記リンク先の映像は2007年のものですが、先日見つけたオープン・ネイチャーのシンポジウムはその2年前であり、ここにも「痛み」というキーワードが出てくるようです。

 郡司さんいわく、システム論においてモノとコトの両義性は予定調和的である、と。しかし、本来、自己組織化や創発という概念は両刃の剣であり、局所的相互作用の様式を既知とし、そこから決して想定できなかった大域的相関がみつかったという(これが創発の定義)ためには、局所的相互作用を確定すると共に、文脈が確定できないこと、局所的相互作用が規定できる境界条件の確定が恣意的であることを受け入れざるを得ない、と。
想定外の大域的相関、パターンや機能的振る舞いといった、肯定的結果だけを受け入れ、解体の可能性に不断に開かれているという否定的性格については目をつぶる------そういったご都合主義は、採用し得ないはずだ。
 (p.76)

 上記引用部分の「解体の可能性に不断に開かれているという否定的性格」という言葉が、私にとっては面白いし、わかりやすいです。「解体の可能性」という言葉が、「解体の(ネガティブ)+可能性(ポジティブ)」という組み合わせになっていて、さらにそれが「不断に開かれている(ポジティブ)という+否定的性格(ネガティブ)」という組み合わせの言葉に続くということが。

 システムの時間的発展に関する因果律がいつなんどき覆されるかわからないという事態は、生命にとってはある意味で「危機」であり、ある意味では「可能性」なのだろうと思います。すんごく平たくいうと、いつ何が起こるかわからない、こうなったらこうなるはずだという目論見がはずれるかもしれないということは、不安定だし怖いことだけれど、同時に、何がどうなるかわからない、こうなったのにこうならなかった、ということは、希望・期待・面白さでもあるような気がします。あまりにも楽観的な言い回しではありますが。なお、私なりに平たく言ってみた言い回しであり、郡司さんが言わんとされていることとはちょっとずれているかもしれません。

 そんなふうに、存在が絶えず解体・起源する生成として捉えられる(脱構築として捉えられる)ことが核心となるような描像を、郡司さんは描像Aと名づけ、これはプリゴージンの散逸構造を徹底させ、システム論が内側との対でしか理解しない外とは異なる、本当の外部を、現象の基礎に据えるものであるとしています。この描像Aこそポスト複雑系の最右翼となるとも書いていますが、いま左/右が出てくると個人的にややこしいよ〜〜(^^;

 果たして、ジル・ドゥルーズの生命哲学は、描像Aを指し示すものだった。しかし、それは自然科学の文脈で、十分理解されているだろうか。
 (p.77)

(つづく)
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追加

 初等数学教育をとりまく、私が感じる“ねじれ”を整理してみるの途中で永井俊哉さんの文章の話をちょろっと出させていただきましたが、URLを示していなかったので、追加しました。ちなみにこちら↓
http://www.systemicsarchive.com/ja/b/anglophilosophy.html
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訂正

 初等数学教育をとりまく、私が感じる“ねじれ”を整理してみるの最後で、
マイナス×マイナス=マイナスというのは、けして「真理」ではないのですよね。 
と書きましたが(こう書いても別にいいのだけれど)、
マイナス×マイナス=プラスというのは、けして「真理」ではないのですよね。
のほうが自然でした。あるいは、
マイナス×マイナス=プラスも、マイナス×マイナス=マイナスも、けして「真理」ではないのですよね。
だともっといいのかな。
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初等数学教育をとりまく、私が感じる“ねじれ”を整理してみる

 私はこのブログで「ねじれ」という言葉をたびたび使っていますが、何がどうねじれていると思うのか自分でもぼんやりとしたままなので、ここらでちょいと整理してみることにします。

 まず、私のなかの実在論と反実在論のねじれがありましたが、この件についてはその後変遷があり、フレーゲにとって「客観性」とはどういうことかで、自分が何に拒否反応を起こしているかを少し整理することができました。私が拒絶しているのはある種の客観主義であり、それは、「正解は1つでもうそれは決まっていて動かない。あとは(それを知らない)あなたがそれを知るか、(それを理解していない)あなたが理解するか、(それを認めていない)あなたが認めるかどうかの問題だ」というようなスタンスだ、と。このようなスタンスをAとします。

 同時に、「正解は決まっていないのだ、決まらないのだ、決めようがないのだ、人によって異なるのだ、考え方しだいなのだ」と完全に開きなおってしまうと、面白くないというか、先がない、とも考えています。この、「正解はひとつじゃないと開き直る」立場をBとします。

 すごく極端な言い方をすれば、Aは「サイエンス・ウォーズを開く」松野孝一郎/佐々木正人(聞き手)で出てきたスタンダードに近く、Bはメタフォリックの最左派に近いのではないでしょうか。つまり、Aは、すでに形式化されているものだけを数学の対象としようとする立場、Bは形式化されていないものも数学の対象としようとするが共有の努力を怠る立場です。学習理論でいうところの構成主義は、ウィキペディアを参照するにつけ(構成主義(教育))、どうやらこのBの立場で解釈されてしまっているようです。

 で、左派・右派の区別はいろいろあろうかと思うのですが、とりあえず、スタンダードのほうを伝統的な立場ということで右派と呼び、それに対立する立場としてのBを左派と呼ぶことにします。

 おそらく2000年前後に、学習指導要領側、つまり国側、別の言い方で言えば体制側が、その少し前では左派とよばれていたものに近づいたのだろうと思います。[2015年12月21日追記:この後に続く部分は私の記憶を根拠に書いていましたので、削除しました]

 波多野誼余夫さんが指摘したように、あのころ、教員のほうが「保守的」で文部省のほうが「革新的」という逆転現象が起こっていたのかもしれません()。

 ほんでもって私は、茂木健一郎さんも・・・というエントリで、「かけ算の順序」固定反対派を左派と呼びました。それは、「小学校ではかけ算の順序が固定して教えられている」というのが現状としてスタンダードであり、こちらの立場に指導要領や教科書や指導書が含まれているので、そういう意味でも左派というのはとりあえずあてはまると思ったからです。(私は、「小数×整数」と「整数×小数」を別の学年で教えると解釈できる指導要領にも、かけ算の順序固定の発想が含まれていると認識しています>

 ところが、私の勝手な印象でいえば、「かけ算の順序」固定反対派は、数学的には右派(スタンダード)気質だと思うのです。スタンダード気質だからこそ、小学校で「間違い」が教えられていることを強く批判し得るというか。だから、(統計をとったわけではなく単なる感触ですが)「かけ算の順序」固定に強く反対する人は、「ニセ科学」や「トンデモ」にも敏感に反応する人たちがけっこうな割合で含まれているのではないかと勝手に推測しています。

 以前も書いたように、私は「ニセ科学」や「トンデモ」という言葉が苦手です。なぜならば、“ニセ”という言葉が使えるということは、だれにも疑いようがない“ホント”が確定しているということであり、“トンデモ”という言葉が使えるということは、確固たる“正常”なものがあるということを前提にしていると思うので。

 しかしここで気をつけなければいけないのは、かといって「かけ算の順序」固定派がけして左派ではないということ。

 だから私が困ってしまうのは、「かけ算の順序」論争が「右派」と「右派」の戦いに見えてしまい、“共有の努力を怠らないメタフォリック”でいたい自分としては、どうふるまっていいのかわからないのです。

 さらに、「現代」の数学は、遠山啓の言葉を借りれば、ヒルベルトに始まる「構成的」な数学が主流で(という認識でいいですか? その後変わりましたか?)の時代であり、この数学はややもすると(浅薄な解釈で)形式主義と捉えられたり()、数学は「約束事」の体系に過ぎないというふうに誤解されたりしがちなもののようです()が、そのような「形式」と「約束事」にからめとられているのは、教育現場なのか、それとも数学界なのか、という疑問もあります。そして、「子どもの学習」という“現実”と、「大人の実社会」という“現実”は、どうリンクするのか。

 さらには、先のウィキペディア:構成主義(教育)の「批判」をもう一度読んでみると、
構成主義における科学観は、いわゆる「科学的真理」が絶対的なものではないことを強調し、たとえ自然科学者が長年にわたって築き上げてきた「真理」であれ、子供の思いつきと同様に個人にとっての意味付けや検証が必要であると見なすものである。これは実際に科学に携わっている科学者の科学観とは大きく乖離している。日本においては、1998年小学校学習指導要領で構成主義に基づく理科教育を行うよう定められたことに対し、科学系の学会等は理科離れ科学リテラシーの低下につながるとしてたびたび懸念を示してきた。先行例としては、1990年代にカリフォルニア州で科学者らの反対を押し切って構成主義に基づく科学教育が行われたところ、子供たちの学力が著しく低下し、その後構成主義者らの反対を押し切って新たな科学教育が行われるようになると、学力は顕著に回復していったという。[1]
と書いてあり、「科学的真理」を教えるべきだから構成主義はよろしくないということではなく、「実際の科学に携わっている科学者の科学観と大きく乖離している」から批判されているようなのです。ここで出てくる「実際に科学に携わっている科学者」や「科学系の学会」もスタンダード側でしょう。このことは、野家啓一さんいうところの()、理科教育は「常識的な世界観や科学像をきちんと学習する」ことが目的であり、既存のパラダイムを受け入れさせることである、という考え方と一致していると思います。

 では、実際の科学者、あるいは数学者はどういう営みをしているかというと、真理の発掘と、空からの俯瞰の間にある運動を生け捕りにするにあったように、地面の下にもぐって日々真理を発掘しようとしていると思うのです。以前、クワイン関連の本を手にしたときに、日本においては哲学の仕事は哲学史の仕事とあまり区別されていなくて、「誰々の何々について」というタイトルの論文が普通のスタイルだという話を読みましたが()、数学と数学論の区別はしっかりなされているのではないでしょうか。永井俊哉さんが「英米系哲学の魅力」で書いていることにもつながりますが(下記※1のURL)、数学者は大抵、新しいものを見出そう、作ろうとしているのですよね。たぶん、数学者って、数学の仕事をしているときには「局所」にいると思うのです。最先端ではあっても、局所。
[※1]http://www.systemicsarchive.com/ja/b/anglophilosophy.html

 だけど、その数学者が初等数学教育を考えようとするとき、おうおうにして「超越者」になってしまうのではないか。私はそんなふうに感じています。日々、子どもたちが教室で行うこと、学ぶことは、数学的俯瞰者から見ればすでに決着がついていて、何がスタンダードなのかが確立していることかもしれませんが、子どもたちは常に局所にいる。ということを見据えた算数・数学教育を私は望んでいます。だって、そうじゃなきゃ、つまらないもの。「なんで、そんなこと(結論が出ていること)を私がやらなきゃならないの?」という気にもなるというもの。これは、教室の数だけ、子どもの数だけ真理があるということではないのです。

 また、以上のことは、遠山啓がピアジェに注目した理由で書いたことにもつながる話だと思っています。

 そういえば遠山啓『量とは何か−供戞p.65)でこんなことも言っていました。
ここで,新しい数-----今のばあいはマイナス-----に対する新しい算法の定義はどのような意味をもっているかをしっかりとつかんでおく必要がある。まず第1に,それは古い数の演算規則からは無条件に導き出されるものではけっしてない,ということである。つまり,新しい数の演算を古い数の演算から“演繹”しようとしても,それはできない相談だということである。そのことを納得したかったら,たとえば
      マイナス×マイナス=マイナス
と定義しても.論理的には矛盾ではないということを知っておく必要がある。しかし,そのような定義をすると量の間の法則を反映しなくなるし,数学的には結合・交換・分配等の法則は成立しなくなる。それらを犠牲にする気であったら,
     マイナス×マイナス=マイナス
と定義してもいっこうに差し支えない。

 そうしてこのあと、「形式不易の原理」を批判していくのです。形式不易(不変)の原理は理論的にダメになり、教育的にはなおさらだめだ、と。そうではなくて、演算規則を量のあいだの法則から導き出すというのが、「量の理論」の立場です。つまり、マイナス×マイナス=プラスも、マイナス×マイナス=マイナスも、けして(絶対不変の)「真理」ではないのですよね。 


 って・・・

 
 整理じゃなくて、疑問の耕しになってしまったし・・・(−−;
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間に合うかどうか

 『現代思想』1998年11月号<サイエンス・ウォーズ>特集について書いています。前回のエントリで、郡司ペギオ-幸夫さんもの話も掲載されていることに触れましたが、こちらのほうは「サイエンス・ウォーズのアリーナ」というタイトルになっており、聞き手は崎山政毅さんです。私はこの方のお名前をこのたび初めて知り、そして頭の中にインプットしたわけですが、『ドゥルーズ=ガタリの現在』でさっそく再会しました。ラテンアメリカ史を専門とされている方のようです。

 で、郡司さんの話で面白いと思った・・・というか、「へぇ」と思ったのが、わりと最初のほうで出てくる次のくだりです。
・・・、グロスとレヴィットの『高次の迷信』や『ソーシアル・テクスト』の論文などいろいろと読んでみると、確かに私がやっていることに関わりのある問題です。私がやっている仕事は、それが中途半端であれば、それこそ今回のような議論によって洗い流されてしまう恐れがある。自分としてもまだちゃんとした形になっていないという自覚があるだけに、こういう風潮が出てきた時に間に合うか間に合わないかという問題を非常に切実に感じています。と同時に、サイエンス・ウォーズから抜け落ちた問題は、ポストモダン側が言おうとしてうまく言えなかった、もしくは読者に伝わらなかった、自らの問題をより先鋭化させて考えることで形を現してくると思います。つまりサイエンス・ウォーズは、問題を先鋭化させざるを得ないまたとない機会でもある。
 (p.138〜139)

 以前、数学と権威/数学と自然というエントリで、郡司ペギオ-幸夫から茂木健一郎へあてたメールに、「科学としていけると思う。」と書いてあったことに「へぇ、郡司さんもそんなことを考えるんだ」と思ったことを書きましたが、上記引用部分でますます、そうかぁ、郡司さんって、意外と(私が思っていたよりも)自覚的に研究と発表をやっておられるのだなぁ、と思ったしだい。自覚的にというのは、外からの目も持って、というニュアンスです。つまり、自分がやりたいことをまわりの目など気にせず、やりたいようにやっているのではなく、「間に合うか間に合わないか」という問題意識をもちつつ、このままでは形になっていないし、受け入れてもらえないだろうということに対して自覚的に取り組んでおられるのだな、と。その後、ご本人の感触としては、間に合いつつあるのでしょうか、どうなんでしょうか。

 そして、サイエンス・ウォーズをきっかけとして、上記の問題は実際に先鋭化されたのでしょうか。それは、十数年たったいま、どのような展開を見せているのでしょうか・・・
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完了形と現在形、超越と局所(サイエンス・ウォーズのひとつの見方)

 『現代思想』1998年11月号<サイエンス・ウォーズ>特集から、「サイエンス・ウォーズを開く」松野孝一郎/佐々木正人(聞き手)を読んでいます。

 2つ前のエントリで書いたような物理学内部での右派(スタンダード)と左派(メタフォリック)は、サイエンス・ウォーズ以前にもあったようなのですが、これまでは表に出るのは大抵右派で、左派は出る幕がなかった、という状況であったようです。だから右派の人たちは、左派の人たちをうさんくさいとおもいながらも、自分たちに迷惑がかかりさえしなければさほど怒り出しはしなかった。

 ところが、サイエンス・ウォーズが起こった背景には、ハード・サイエンスをやっているほうがむしろ逆に危機感を抱くようになった、という事情があったようです。ひとつには、村上陽一郎さんと野家啓一さんの対談でも出てきたように、ポストモダニズムの人たちがアメリカの大学のポジションをどんどん食っていっているという状況があったのでしょう。しかし、科学者の側からより直接に気になるのは、サイエンス・スタディーズのほうだ、という話。つまり、科学をやっている人たちから見れば、科学論という立場から科学を相対化するなどけしからん、神聖なる探求なのに、科学の内部にいない連中が何を言うか、ということになる。で、素人が何を言うか、から始まって、科学者が考えつくありとあらゆる罵倒を浴びせることになるわけだけれど、それだけ真剣になってやっつけようとするほど、切羽詰まっている状況があった。

 だから、ソーカルが同僚の左派をやっつけるために、散逸系左派周辺、ソフトサイエンスを実らせている土壌であるカルチュラル・スタディーズや科学論のテリトリーに爆弾を仕掛けた、非常にうまく仕組んでいるわけですね、というふうに佐々木正人さんはまとめておられます。

 そして松野さんは、ドーキンスとブルハークの批判を示し、そこから「現在形」の問題と入っていきます。ドーキンスは、ガタリの文章を引用したうえで、これは文法的には正しいけれども何を言っているのか全然分からない、といったようなことを書いているそう。

 また、ブルハークという人が、ポストモダニストが好んで使う用語と、文法としては正しい文章を作成するという条件の2つをコンピュータに入力し、それに文章を作らせるという悪ふざけをしたそうなのですが(文章の一例が示されています)、ドーキンスが言うには、ガタリの文章とコンピュータが作った文章とは違わない、問題なのは何よりもこういうものを有難がる連中である、彼はそれに対して義憤にも似た怒りを持っている、と松野さんは書いておられます。こうなると檜山正幸さんの郡司ペギオ-幸夫批判を思い出します()。ちなみに郡司さんの文章も<サイエンス・ウォーズ>特集に載っています(あとでちょっと出します)。

 で、ガタリの文章にしても、コンピュータの文章にしても、どちらも現在形で書かれており、もし、まともなことを言おうとするならば、現在形で言う限り、意味の通じないことしか言えないのではないか、そこに核心があるのではないか、と松野さん。

 ドーキンスにしろブルハークにしろ、槍玉にあげた文章は文法的に正しいと言っているが、果たして正しいのか、というところに少々引っかかりがある。ドーキンスがガタリの文章に対して「文法的には正しいが、意味不明」と断定したときの「意味不明」はセマンティックスではなく、シンタックスに係わることだ、と。

 シンタックスというのは、いわゆる統語論、セマンティックスというのは意味論ということになろうかと思いますが、たとえば「三角は四角である」というのは、主語に述語を配しているので一見文法に従っているように見えるけれど、意味は通りません。ある文章がシンタックスで問題がないことが判明して、初めてそれの意味論の意義が問えることになるけれど、実は「三角は四角である」というのは意味の問題ではなく、それ以前のシンタックスに係わる問題なのだと。それと同じことが、サイエンス・ウォーズで攻撃されているポストモダン系の文章にも言えることではないか、という話なのだろうと私は理解しました。

 経験科学をやっている人たちは、まともなことを言うために、経験事実に基づいてものを言うのだけれど、それはつまり、完了形になったものを現在形で言うということを絶えずやっているということになる。また、もう一方で、現在進行形にある事柄をも現在形で言おうとしている。

 ガタリなどの立場は、現在進行形で言うべきことを現在形で言っているがために、図らずも意味の通らないことをいわざるを得なくしているのではないか、現在進行形にある事態を現在形で言い表わすとすると、時制に関する統語論の規制を破ってしまう。この時制に関するやむを得ないシンタックス規則破りがここで陽に現れてきているのではないか、というのが松野さんの見方です。
 現在進行形では多数のアクター、行為者が場面に登場しており、しかもその場面の全てを支配する唯一の絶対支配者など有り得ない、というのがそこでの基本です。複数の行為者の間では衝突、摩擦が避けられず、かつその衝突、摩擦を避けるべく妥協、協調がなされながら、相も変わらず衝突、摩擦が生み続けられるとする事態が延々と続いて行くことになります。ここでは、本当に何をやっているのかが分からないような、決着のつかないネゴシエーションのためのネゴシエーションというのが延々と続いていく。つまり場面に二つ以上のエージェンシーが出てくる事態にどう対処するかが問われているわけです。二つ以上のエージェンシーがいろいろとやりとりをやっていたその現場がひとたび、完了形で記述された記録に移行されたとするならば、そこでは一人の著者あるいはサイエンティストが全体の状況を完全に掌握、支配出来るとするのは確かにその通りです。それはそれで勿論、構わないのですけれども、完了形にある記録はその現場で起こり得ることの一部でしかありません。完了という行為を課さない限り、場面に登場するエージェンシーが唯一ということはありません。
 (p.125〜126)

 内部観測の松野孝一郎さんらしい視点だな〜と感じました。そしてまたあの「あとがき」を思い出す私。

 このあとまだまだ話は続くのですが(たとえば、サイエンスをやっている人も、サイエンスに対してもの申す時にはある種の相対化を行っているわけであり、その相対化を保障する根拠がどこかにあることを当然としている。しかし、科学者は科学そのものを相対化することは不得手であり、職業柄、やむを得ないこと、というような話も書いてあります)、ここでいったん切って、上記引用部分について考えてみます。

 上記引用部分に出てくるネゴシエーションという言葉は対話のことであるらしく、エージェンシーというのは代理人といった意味があるようですが、私が上記引用部分を読んで思い出したのは、郡司ペギオ-幸夫『時間の正体』を読んでいたときに考えた因果集合の図でした↓
出来事の因果関係の図/■因果集合は、順序集合

 実話を使ってでこんな図を描いたこともありました↓
因果集合「花子でコラボ」 (1)

 松野さんが言わんとされていることとどのくらいつながっているかはわかりませんが、私自身は、この図を眺めていると、完了形、現在進行形、現在形の話の意味が見えてくるように思います。 
 
 逆に、すでにできあがっている物語か何かを題材にして、それを上記のようなハッセ図に起こすと、話がわかりやすくなるかもしれません。

 そして、上記のことを別の方向からコンパクトに言っているのが、同じ<サイエンス・ウォーズ>特集におさめられている郡司ペギオ-幸夫さんの次の言葉なのではないか、と私は感じました。
超越論的な視点をどこまで局所者の立場で構成していくかということ、まさにそのことをやらないとどうしようもないところまできているのではないかと思うんです。そこに対する不徹底さこそが今、まさに叩かれている。
 (p.142)

 ちょっと話が飛躍するかもしれませんが、結局、「俯瞰する算数・数学教育」が嫌いな私が望んでいる「リアルタイムの算数・数学」って、こういうことなのかもしれないなぁ、と感じました。ここにもひとつねじれがあるのですが・・・ (だからこそ、近藤和敬『カヴァイエス研究』に刺激を受け、考えさせられ、勇気を与えられるのだと思います。>真理の発掘と、空からの俯瞰の間にある運動を生け捕りにする

 そうしてまたこのことは、ひとりの人間として生まれ、生き、やがて死んでいく私、空間的にも時間的にも世界のほんの一部にしか接触することができない自分の、生きる意味(ないならば、ないなりに)の見出しにもつながるように感じています。
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