TETRA'S MATH

数学と数学教育

近代医学と免疫系

 多田富雄『免疫の意味論』には、このほかにも、老化、エイズ、アレルギーとアナフィラキシーショック、管(チューブ)としての人間、自己免疫疾患の話など、興味深い話がいろいろと綴られていました。途中でカルダノが出てきてちょとびっくり。3次方程式の解法でめぐってひと悶着あったあの方ですよね()。そうか、お医者さんだったんだ。

 河本英夫『オートポイエーシス』にも書いてありましたが、免疫学は学説の骨子がめまぐるしく変わっているそうです。本を書いても、あるいは教科書でさえも、数年のうちに「ひとむかし前」のものになってしまうのかもしれません。それゆえ、専門家にしかわからない世界になってしまっている。だから、免疫系のことをなんとか一般の言葉で書き表せないだろうか・・・というのが、『免疫の意味論』の根本の動機だったようです。そうはいってもなかなか大変な作業。その背中をおしたのが、「脳死」の問題だった・・・ということのようです。なお、免疫系は特定の臓器に由来していないので、近代医学は目を向けなかった、というようなことも書いてあり、面白かったです。

 さて、そんなこんなで、河本英夫『オートポイエーシス』>供ー己組織化 第二世代システム>2 動的非平衡システム>免疫システムと「自己」(p90〜93)が読めるようになりました。この勢いで他の部分も…と思ったけれど、やっぱり難しい(__;。もしかしてこの本は、4ページにつき別の1冊を読まないと、読み進められないのではなかろうか・・・
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そして出てくるよ!「自己言及」@免疫系

 造血幹細胞からT細胞になるのかB細胞になるのかは、細胞が分化する際の環境によって決定すると考えられているのだそうです。幹細胞自身に選択権があるのではなく、ほとんどすべてが偶然によって決定される。

 そんなふうにして、免疫系は単一の細胞が分化する際、場に応じて多様化し、まずひとつの流動的なシステムを構成することから始まり、さらに多様化が起こり、機能を獲得していくのだそうです。その決定因子はなんであるかというと、“「自己」という場への適応”らしいのです。「自己」に適応し、「自己」に言及(リファー)しながら、新たな「自己」というシステムを作り出す。

 「自己」は、成立の過程で次々に変容します。T細胞レセプターも抗体分子もランダムな遺伝子の組み換えと再構成によって作り出されるし、外部から異物が侵入するたびに特定のクローンが増殖するし、インターロイキンなどによって内部世界の騒乱が起こるし、抗体の遺伝子には高い頻度で突然変異が起こるわけであり。

 こうした「自己」の変容に言及しながら、終生自己組織化を続けるのが免疫系のシステムである・・・ということらしいのです。なお、多田富雄さんは、このような動的システムを超(スーパー)システムと呼んでおられます。「マスタープランによって決定された固定したシステムではない」という意味で。

 というところまでを勉強すると、河本英夫『オートポイエーシス』の第二世代システムのところがだいぶ読みやすくなってきます。
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幻の細胞と、臍帯血バンクのこと

 免疫系を構成している細胞は、T細胞、B細胞、マクロファージなどであり、それぞれの細胞は異なった機能を分担しています。

〔マクロファージ〕
 異物である抗原を細胞内に取り込み、細胞内の小器官の中で消化し、その断片をMHC分子と結合させ、細胞の表面に提示する(抗原提示)。

〔T細胞〕
 提示された抗原の断片を、抗原レセプター(TcR)で認識することによって活性化され、インターロイキンなどを作り出し、B細胞やさまざまな炎症性細胞に働きかける。ヘルパー、キラー、サプレッサーなどさまざまな役割分担がある。

〔B細胞〕
 抗体分子のアンテナで抗原分子をキャッチし、刺激を受ける。キャッチされた分子はB細胞の中に取り込まれて消化され、MHC分子と結合して細胞表面に提示される。

 これら別々の免疫細胞は、実は、1種類の造血幹細胞と呼ばれる原始的な細胞に由来するそうです。免疫系のみならず、赤血球、血小板、多型核白血球、血液や組織の中に分布する単核球など、あらゆる造血系細胞を作り出すおおもとの細胞らしいです。

 造血幹細胞は、胎児が発生していく過程でまず肝臓内に出現し、胎児の血液細胞のもとになり、出生後は骨髄中にひそんでいて、必要に応じてさまざまな血液細胞を作り出すと同時に、自分も自己複製しながら出番を待っているんだとか。

 骨髄細胞中に計算上10万個に1個の割合で存在するそうですが、形態のうえでも、糖タンパク質の組成からも、完全に区別することはいまだに不可能で、幻の細胞であるということです(1993年現在)。

 話は少し変わりますが、私が出産した病院では、希望者は臍帯血を臍帯血バンクに提供できるようになっていました。臍帯血というのはへその緒に含まれている血液のことで、これに造血幹細胞が多量に含まれているらしいのです。当時はなんのことかよくわからず検討しませんでしたが、そんな“幻の細胞”がつまったものならば、提供すればよかったなぁと思ってみたり。「自分の子どものためにとっておくんじゃないんだよ〜」というような説明をどこかで読んだ記憶がありますが、「臍帯血バンク」のほかに自分の子どものために臍帯血を保存するビジネスというのもあるようです。ちなみに、秋篠宮妃も臍帯血提供したのだそう()。皇室の造血細胞か〜!とかいろいろ考えそうになりますが(^^;、とにもかくにも、免疫系の話を少し読み、造血幹細胞のすごさはわかってきました。

 この1種類の細胞の分化によって、多様な細胞のセットが一定の比率で過不足なく作り出されるのだそうです(多田富雄さんは「驚愕の念をもって眺める」と書いておられます)。しかも、分化した細胞の相互作用による反応体系は、環境に応じて刻々と経験を蓄積し、変容していくらしいのです。それを決定しているマスタープランは、遺伝子の中に記入されているのだろうか?
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インターロイキン「つたえもん」

 さて、そんなインターロイキン王国ですが、キッチリとした役割分担のもと、無駄なく合理的に確実にパキパキと任務を遂行する体制というわけではないようなのです。

 インターロイキン(interleukin)というのは、その綴りからして、最初は白血球(leukocyte)間の伝達情報を媒介する分子と規定されていたのだろうと想像していますが、実際には、白血球だけではなく、免疫とは関係のない細胞からも作られるし、白血球以外の細胞にも働くのだそうです。免疫の王国をはるかに超えた支配体制であるらしい。

 なお、『免疫の意味論』の段階では11種類が認識されていたインターロイキンも、その後、概念が整理されたうえで、新たに20種類近く(以上?)、命名・解明されているようです。

 多田富雄さんいわく、インターロイキンの働きは「不安になるほど多目的的である。」
矢原一郎氏によれば、インターロイキンの本性は、まずさまざまな異なった細胞が同一のインターロイキンを作り出すところの冗長性(redundancy)と、ひとつのインターロイキンがさまざまな標的細胞に働き得るという不確実性(ambiguity)である。
 また、複数個のインターロイキンが同時に働くと、全く違った作用が現れることもわかってきたらしいのです。
 
 抗原の刺激により起こるインターロイキンの生産・その受容・増殖と分化・第2第3のインターロイキンの生産と受容・・・・・・という、オートマチックな動的プロセス、カスケード(分かれ滝)の原理。『免疫の意味論』では「オプチミストの王国」という見出しがついた段落もあり、面白いです。

 で、ふと思ったのですが。もやしもんの菌のように、インターロイキン(あるいは細胞)をキャラクター化したら、どんな感じになるのでしょうね?(^^) いままでは、マクロファージ出動!みたいなCGの宇宙戦争のようなイメージをもっていたのだけれど、案外ほんわかした漫画のほうが向いていたりして。IL1「なんか来たよ〜 とりあえず熱出しとくー ロク起きて〜」、IL6「イチ呼んだ〜? じゃあ、おれもやっとくー、あと二にも電話しとくわー」、IL2「留守電きいたよ〜 サン、ヨン、ゴにもメールしとくわー」みたいなノリだったりして!? 

 そんなふうにして、インターロイキン王国の体制は、「自己」も「非自己」もない複雑な指令と受容、シグナルの転換と変容の世界で運営されているらしいのです。多様で冗長で曖昧な分子の働きが、神経系、内分泌系、造血系、さらに皮膚や血管などすべてを巻き込んでいる。インターロイキン王国は、いつ崩壊するともわからぬ巨大な王国であり、「自己」は本質的にこの曖昧さの上に成立している。崩壊の危険性を回避すべくカスケード反応を微調整しているのはいったいだれなのか?

 というとカッコイイけど、意外と「つたえもん」たちの楽観主義でうまくまわっていたりしてー(^^;
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すべての細胞が平等であるネットワークから、インターロイキン王国へ

 社会学者が免疫学の概念を援用したくなる()気持ちが少しわかってきました。多田富雄『免疫の意味論』、面白いです。SFと推理小説の要素を少し含んだ歴史小説を読んでいる気分(小説を読まない私がこんな比喩をするのもなんですが^^;)。多田富雄さんの書き方がうまいというのもあると思います。

 イェルネがネットワークを提出してから10年後、一つの時代を風靡したこの説は、廃墟のようになってしまったそうです。抗体とは異なる認識分子、T細胞抗原レセプター(TcR)が発見され、このレセプターの認識構造は“ほとんど失望するくらい”抗体のそれに似ていたそうです。(ちなみにこのレセプターは、抗原そのものではなく、抗原で修飾された「自己」のHLA抗原を認識するということが前の章に書いてあります。)

 そうして、素人の私でもきいたことのある用語が飛び交う世界に入っていきます。ヘルパーT細胞、サプレッサーT細胞、キラーT細胞。インターロイキン、サイトカイン。

 イェルネのネットワーク説では、すべての細胞を平等に扱っていました。そこでは、細胞間の連結性は、イディオタイプという「多様性構造」にのみ依存していました。しかし、インターロイキンやサイトカインのような分子群の働きが浮かび上がってくると、機能や由来や細胞のタイプに言及を始めることになり、この言及を始めたところから、ネットワーク説は崩壊していきます。

 インターロイキン王国は、“エスタブリッシュメント(体制)”をもつ巨大なシステムなのだ。 
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イェルネの「ネットワーク説」と「内部イメージ」 (2)

 イェルネは、イディオタイプの上にある、抗体と反応できる最小単位をイディオトープと呼びました。ひとつの抗体は多数のイディオトープを持ち、複数個の抗体と反応し得ます。

 また、イディオトープのうち、認識に直接関与する部分になるものをパラトープと呼びました。

 さらに、パラトープによって認識される抗原の構造を、エピトープと呼びました。

 抗体の模式図としては、H鎖、L鎖、可変部、定常部などを示したY型の図が用いられることが多く、多田富雄『免疫の意味論』でもY型の図になっているのですが、ここはひとつ、思いきりデフォルメして考えてみることにしました。(複数のイディオトープをもつ図にはなっていません)

    

 抗体2のパラトープ2は、抗体1のイディオトープ1を認識しますが、たまたま、抗原のエピトープとも反応します。したがって、イディオトープ1は、エピトープの「内部イメージ」です。

 そうして、イディオトープパラトープが相互の刺激になり、抗体を表面に持つB細胞はお互いに刺激しあって、いかなる「非自己」とでも反応できるレパートリーを保持していると考えることができます。

 ここに「非自己」である抗原が侵入するとどうなるか?

 抗原のエピトープは、用意されていた「内部イメージ」と照合され、それと反応できる抗体を持ったB細胞を選択します。「内部イメージ」としてのイディオトープを見ていたB細胞は、これを模倣するエピトープによって、改めて刺激を受けることになります。

 そして、たとえば、B2細胞が刺激を受けると、

 B2細胞が分裂 
 → 抗体2を生産
 → イディオタイプ2が増大
  → パラトープ3をもつB3細胞を刺激
   → イディオトープ3がB4細胞群を刺激
    → ・・・

ということが起こり、それに加えて、

 → 抗体2を生産
 → パラトープ2が増大
  → イディオトープ1の増大

ということも起こっていきます。こんなふうにして、ひとつの抗原の侵入によってネットワーク全体の平衡状態が変化することになり、システム全体の混乱が起こります。

 で、このあとがまだよく理解できていないのですが、
平衡状態がどちらかに移行し終ると、混乱は収拾し、反応は終る。しかも、あとにはB2細胞の増大、すなわちI2を中心としたネットワークのシフトという傷跡が残り、それが免疫学的な「記憶」である。一度ハシカにかかると、一生二度とハシカにかからないという「記憶」は、このようにして成立していると考えるのである。
ということらしいのです。
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イェルネの「ネットワーク説」と「内部イメージ」 (1)

 多田富雄『免疫の意味論』の中で引用してある、ニールス・K・イェルネのネットワーク説と「内部イメージ」について、少し勉強しておくことにしました。

 まず、用語のざっくりとした復習をば。これから出てくる主な登場人物は「抗体」と「抗原」です。抗体にしろ抗原にしろ、anti- という接頭語に、直接 -body や -gen という接尾語がそのままつながっており、実体を表す言葉にはなっていません。免疫学はこのナンセンスな定義の上で物を考えてきた、と多田富雄さんは書かれています。

 抗原は、いわゆる「自分にとっての異物」であるタンパク質をさします。ウィルスや細菌といった病原体のみならず、非自己であれば抗原になります。アレルギーでいうところのアレルゲンにあたるかと思います。抗原と抗体の循環論法でも書いたように、抗体に認識されるのが抗原なのだけれど、抗体は抗原を認識するものなので、どっちが先なの?となるわけです。

 抗体は骨髄由来のリンパ球である「B細胞」によって作られるタンパク分子です。免疫グロブリンというタンパク質に属するそうです。人間ひとりの中に10^20分子存在するのだとか。漢数字でいえば一垓分子か。

 抗体が認識できる抗原の数は、少なく見積もっても一千万種類以上あるとされていて、この天文学的多様性をもつ分子が、お互いにその多様性を認識しあってネットワークを作っているというのが、イェルネのネットワーク説です。

 イェルネは、抗体の立体構造は認識する抗原ごとに異なっていることを強調し、抗体分子それぞれが持つ立体構造上の「独自の型」を、イディオタイプと呼びました。このイディオタイプは、ランダムな遺伝子の再構成によって作り出されます。

 で、たとえば、抗体1という新しい独自の型が作り出されたとすると、これはもう異物にほかならず、異物に対してはそれと反応する抗体が作られてもよいのだから、抗体1は抗体2によって認識され得ます。しかし、この抗体2も独自のイディオタイプを持っているわけなので、そのイディオタイプと反応する抗体3と反応することになります。そんなふうにしてすべての抗体は反応しあい、連鎖し、閉じ込められた環を作っていくことになる・・・というわけです。

(つづく)
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臓器移植法改正A案、衆院で可決

YOMIURI ONLINE
15歳未満認める「A案」衆院で可決…臓器移植改正案

採決は記名投票。投票結果は賛成263、反対167。
共産党は時期尚早との理由で採決を棄権。
そのほかの政党は党議拘束をかけず、
議員個人の判断に委ねた。
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抗体という「鍵穴」

 抗体が抗原を認識して反応する部分の立体構造は、結晶解析とコンピュータ画像を組み合わせた分析でわかったのだそうです。異なった抗原と反応するそれぞれの抗体分子は、異なった立体構造を持っており、抗体による抗原の認識は「三次元的なパタン認識」である、とのこと。

 抗原を「鍵」、抗体を「鍵穴」だと考えたとき、その「鍵穴」はどうやって作られるのか?(そういえば、マスターキーというのはききますが、マスター鍵穴というのはきいたことがないですね・・・っていうか、マスター鍵穴じゃ鍵の意味がないか^^;)

 「鍵」が先にあって、それを鋳型として「鍵穴」が作られるという説がハロヴィッツとポーリングの指令説あるいは鋳型説。

 これに対し、もともとたくさんの「鍵穴」が用意されていて、「鍵」が、対応する「鍵穴」に反応するというのが「自然選択説」なのだそうです。

 イェルネはこの「選択説」を提唱していました。そして、この学説を発展させて、抗原は抗体分子をレセプターとして持つリンパ球(B細胞)を選択していて、それを増殖させると考えたのがバーネットの「クローン選択説」なのだそうです。今日では、「クローン選択説」が正しいことが証明されているのだとか。ただし、イェルネのネットワーク説自体は、とある発見により、崩壊した(何も説明できなくなった)のだそうです。

 ちなみにこのイェルネさんは、多田富雄『免疫の意味論』が書かれた時点(1993年)では「いまフランスの古城に閉じこもって私たちの前に姿を見せない」とのことでしたが、ウィキペディアによると、1994年に亡くなっているようです。
 
 抗体に関して、インフルエンザパンデミックのもう1つの治療法というページを見つけたので、リンク。
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命の細分化、トータルな死

 結局のところ自分の興味は、「主体的であること」と「自分の頭で考えること(自分の理解の道筋と感じられること)」という2点につきるのだな・・・と以前書きました()が、それに加えて「細分化と全一性」「分析と総合」というのもあると思い出したきょうこのごろ。この3つの興味をあわせると、「勉強(学問)ってなんだろう?」ということと「生きるってどういうことだろう?」がつながり、そのつながりにおいて「科学」がキーワードになるのだろうと自分で思いました。ルーツは遠山啓なのかな。そして、複雑系に興味をもったときが転換期だったのかな。

 多田富雄『免疫の意味論』(1993年)第一章で、次のようなことが書かれてあります。(p25)
 私たち科学者は、いま生命の細分化という問題に直面している。生命科学の進歩は、生命活動の基本となる分子や遺伝子の解析を可能にしたが、一方現実に扱っているものは、もはや生命の最小ユニットでさえない断片になっていることにも気づいている。生命を全体として考えることがいかに困難になりつつあるかは科学者自身がよく知っている。
 その裏返しとして、死をトータルなものとして受け取ることもまた困難になろうとしているらしい。脳死の議論は、科学的な死の細分化、断片化という方向をはからずも引き出してしまった。
 「脳死は人の死と思うか?」という質問を単問で出されたら、私は、現時点では「思わない」と答えます。しかし、この答えが即「移植をすれば助かる子どもの生きる道を阻む」ことにつながるような問いである場合、すぐに答えることができません(臓器提供される場合に限り人の死か?という問いはあまりに難しくて答えられません)。「脳死は人の死か?」という問いと、臓器移植の問題を切り離して考えたい衝動に駆られるのだけれど、臓器移植の問題があるから脳死を考えなくてはいけないのですよね。たとえば、人工心臓や人工小腸ができて、脳死後でしか移植できない臓器の問題がなくなったとすると、他に脳死に関わる法整備の必要が無い場合は、脳死の問題は考えなくて(決めなくて)いいことになるのですよね? となると、「法」っていったいなんだろう?という、これまたとてつもない問題につきあたるのでした。

 多田富雄さんは、上記引用部分に続く第一章のラストを、次のようにしめくくっておられます。
 脳死をトータルな死として受け入れるためには、もう一度科学者の生命観そのものを問い直すことが必要だろうし、また日本人固有の死生観に基づいた検証も必要なのではないだろうか。そのとき免疫学は、身体論的な「自己」の根拠を提供し、個体の生命について発言力を持つのではないだろうか。
 免疫系の視点でみれば、脳はどうやら「自己」を規定はしていないようなのです。で、ふと思ったこと。たとえば「脳の移植」というのは考えられるのだろうか? そもそも「臓器移植」ということそのものが、非自己であった臓器を(免疫系を強烈に抑制することで)自己の臓器にすることなので、部分的であれば自己は非自己化可能だし、非自己は自己化が可能だということになります。では、トータルとしては? トータルという言い方ができるとき、それはすでに部分を所有している。個体(individual)とは分割(divide)できないということでありながら。

 自己は難しい。いずれにしろ、とまっているものではないらしい。
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