TETRA'S MATH

数学と数学教育

栞がわりにリンク(温室効果ガス排出量「原単位方式」)

asahi.com
排出量取引、総量規制軸に原単位方式も併記 温暖化法案
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柳澤桂子『母なる大地』

 柳澤桂子さんの『母なる大地』を読みました。柳澤桂子さんの本を読むのはこれが初めて。『二重らせんの私』や『卵が私になるまで』など、機会があったら読みたいと思っているのですが、なかなか手がのびないのでした。『生きて死ぬ智慧』も図書館で一応手にしたことがあるのだけれど、いつか読む時がくるだろうと思って、いったん戻し、そして借りてきたのが『母なる大地』。

 “柳澤桂子”さんが書いた“環境問題”の本ということを知っていないければ、まず手にしないだろう本のタイトル。誤解をおそれずに言えば、柳澤桂子さんの本のタイトルおよび文体は、とても女性的だと思います。

 柳澤桂子さんは、多田富雄さんとの往復書簡『露の身ながら』の中で、自分は母親から男尊女卑の教育を受けてきた、というようなことを書かれています。(『柳澤桂子 いのちのことば』でも書いておられるようで、なもんだから、上野千鶴子『おひとりさまの老後』でも引用されたりする)。しかし、学問的環境においてはどうだったのだろうか?という疑問がふつふつとわく私でした(こちらはおとうさんの影響が大きいのかもしれません)。他の本を読めば経緯がわかるかな。

 それはともかく、『母なる大地』の何がすごいって、158ページでこれだけのことが書けるってこと。柔らかい文章で淡々と、まるで歩く速さで、ものすごいスケールを行き来するのです。しかも無理なく。地球がうまれてから何十億年という時の流れ、土壌で何が起こり、大気で何が起こっているのか、食料危機、化学物質、エネルギーの問題。すっきりとしているのに、なんだろうこの豊穣感。しかし主張は曖昧ではなく、はっきりしています。

 なるほど、柳澤桂子という生命科学者(生物学者、遺伝学者)が環境問題の本を書くと、こうなるのかぁ…としみじみ思うことであります。CO2がどうの京都議定書がどうのIPCCがどうのというまえに、こういう本をもっと読まないかんな。(大地つながりで、久しぶりにいただきものの犬養道子『人間の大地』をひっぱりだしてきたりなんかして。)
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<気象学者>江守正多さんの文章

 江守正多『地球温暖化の予測は「正しい」か?』(化学同人/2008年)を読みました。いや、読んだのは第3章までで、もういいかな・・・と思って第4章以降はぱらぱらとページをめくっただけです。それにしても“正しさが多い”という名前は印象的だ。

 読みやすく、誠意も感じられ、気象学の不確かさへの謙虚さもあり、そのときどきで最大限の努力をして結果を出そう(研究者として仕事をしよう)という真摯さもあり、クセのない“正統派ハンサム”の文章で好感が持てるのですが、いまいちパンチに欠けるのはなぜだろう?と思いながら読み進んでいました。

 やはりどうしたって本としては「懐疑論」のほうが面白いのかもしれないなぁ・・・と思ってみたり、IPCCに関わった人としての責任感が遠慮がちな文章を生んでいるのかなぁ・・・と思ってみたり、たぶん若い方だろうから、赤祖父俊一さんのような厚みというか熟成された熱さというか、骨太さのようなものを求めるのは酷かもしれないなぁ・・・とも思ってみたり。

 しかし。

 あとがきを読んで、あちゃーと思いました。
・・・、僕たちは人類が文明の選択をする瞬間を目の当たりにしているのではないでしょうか。
 じつはこう考えると僕はとても元気が出ます。自分が生きているうえでの役割を与えられた感じがしてきます。世界を変革するべき充分な理由があって、自分は自分の立場からその変革にコミットしているという感覚。そういうと旧来の左翼に似ている感じもしますが、その感覚自体が悪いことだとは思いません。誤解を恐れずにいえば、地球温暖化という物語は、閉塞した現代社会の中に久々に出現した、マルクス主義以来の「大きな物語」なのかもしれません。
 どこから突っ込みを入れたらいいのかわからないこの文章を書けてしまう若さに、ある意味驚き、ある意味納得しました。未だ研究対象に対してよりも、自分自身(研究者としてのアイデンティティ)に対する興味が勝っているのだ、この人。

 そういう人の文章を読むと、書かれてある内容よりも、著者自身にへんな興味が向いてしまいます。宮台真司『日本の難点』しかり。年齢を見てみたら、江守正多さんは1970年生まれとのこと。赤祖父さんよりも40歳下。やはり比べるのは酷すぎるか。

 そういえば小飼弾さん人文科学者がダメな理由がわかる−書評−日本を変える「知」において、「研究対象に対する畏敬の念の有無」について書いておられましたっけ。これを読んで、なるほど私が感じていた一部の社会学者の“イタさ”()はそういう言葉で言えばいいのかと納得したのですが-----宮台真司が畏敬の念をもっているのは社会学の研究対象ではなく、ルーマンやパーソンズなど自分が影響を受けた「社会学者」と、東大や霞が関の「利他的なスゴイ奴」なのだと思う---、江守正多さんには自然科学者らしく「気象学の研究対象に対する畏敬の念」はあると感じられるものの、それだけではだめなのだということを、しみじみ感じさせられる1冊でした。(いや、半分しか読んでいないのだが・・・)

* ちなみに、小飼弾さんの「人が自然の一部である以上」という前提は、もっと慎重に考えたいと私は思いました。“人文学的な仮説”だとしても。「自然」という言葉はそんなに簡単に扱えないと思うし、人文学者はそこから出発していないかもしれない。
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形而上学的な免疫論、免疫学を援用する社会学

 「現在の分子生物学が、あらゆる還元主義的方法を駆使して作り上げるインターロイキンとそのレセプターによって成立する王国の前では、ネットワーク説はあまりにも形而上学的であった。」(多田富雄『免疫の意味論』p72)

 一方、宮台真司『日本の難点』のp231では、こんなことが書いてあります。
 つまり、生体内に侵入した蛋白質が異物なのではなく、それが異物だとする内部イメージを作り出して維持する、精妙な履歴的メカニズムがあるだけなのです。環境問題が政治問題を超えるのではなく、そうした主張も含めて政治問題の内部にあるというルーマンの主張の意味をいま一度噛み締めましょう。
 ルーマンの『エコロジカル・コミュニケーション』の最重要論点は、「地球環境が社会より大きいのではなく、社会システムが『地球環境が社会より大きい』という内部イメージを抱くだけだ」ということだった。

 また、宮台真司は、『終わりなき日常を生きろ』において、「社会よりも大きいと観念される宗教が---<社会>よりも<世界>が大きいという観念が---まさに社会システムの内部イメージであることを示した。

 ・・・・・ 

 上記の2冊は読んでいませんが、社会学者の使う「内部イメージ」という言葉は、あまりにも“イメージ”で語られてはいないだろうか?という印象をもちました。わざわざ免疫学の難しい概念を援用しなくても、他の言葉で言えそうな話だし、そっちのほうがわかりやすいんじゃないのかな?

 一方、「あまりにも形而上学的な」免疫のネットワーク説に対しては「単なるイメージ」と思わない私です(ちなみにワトソンは「臭い」と言ったのだとか。それもわかる)。なお、「いまはそれに言及するのはタブーである」イェルネのネットワーク説だとしても、「いつかはそこに戻らなければならないと免疫学者の一部は考えている」とのこと。
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パラメーターのチューニング

 赤祖父俊一『正しく知る地球温暖化』では、コンピュータ・シミュレーションの限界の話もわかりやすく書いてありました。

(p66〜67より要約)
 コンピュータのプログラムでは自然現象1つ1つの物理過程を方程式にして、連立方程式を解くのだけれど、1つ1つの方程式の項が全部充分にわからない場合、パラメーターと呼ぶ量(例えば、雲の成因がわからなくても湿度が75%になると雲ができるというように仮定する量)を使う。地球温暖化研究は非常に多くの連立方程式からなり、数多くのパラメーターがある。プログラムの結果が観測(答え)に合わないと、この多くのパラメーターを調整する(例えば、雲のパラメーターの75%を80%にしてみる)。これをチューニングと呼ぶ。多くのパラメーターをチューニングする場合、はたしてその調整が正しいかどうか、すなわちそのチューニングの正当性の問題がある。//

 また、仮定と観測結果について、次の4通りの場合が考えられるとしています。(p99)

 (1) 正しい仮定で観測結果が再現される。
 (2) 誤った仮定で観測結果が再現される。
 (3) 正しい仮定で誤った結果が得られる。
     (コンピュータのプログラム・エラー)
 (4) 誤った仮定で誤った結果が得られる。(当然である)

 赤祖父さんいわく、どんな科学分野でも、コンピュータがある観測結果の再現に成功したとしても、(2)の可能性が一番高いのではないか、とのこと。

 コンピュータは、ある物理現象の過程が方程式で表されるまで理解できたとき、定量的にその現象を調べるために使うものであり、物理過程がわからず方程式にできないものに対しては使うことができない。しかし、「コンピュータ・モデルで証明されなければ根拠にならない」とする研究者がいて、こういう考えは学問的に非常に困った傾向だと書いておられます。また、IPCCはこの点について基本的な誤りを犯している、と。

 ふむふむ、なるほど。誤りという見方もあるのだろうし、「わざと操作している」という見方をする人もいるもかもしれませんね。

 そういえば、メタメタさん>CO2と温暖化と百万円が1円増えることに対してのコメントで、スパイラルドラゴンさんという方が、温暖化についてのデータのトリックについてのページをリンクされていましたっけ。まだ拝見していないので、しおりがわりにリンクさせていただきます。途中で出てくるt0m0_tomoさんという方の動画も興味深いです。検索してみたら、ともともさんの 【超高倍率】マンデルブロー集合【10の100乗倍】発見。わぉ。
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光合成とエネルギー

 光合成というのはどういうプロセスなのか、素人が化学反応式や構造で追えるかしらん?と一応検索してみたところ、科学のつまみぐい光合成ではどうやって二酸化炭素を酸素に変えているのですか? というページを見つけました。おお。

 なるほど、たとえばブドウ糖でいえば、

          光のエネルギー
               ↓
     6CO2+6H2O → C6(H2O)6+6O2

という1行の化学式で書けるとしても、その中身をのぞいてみると、かなり複雑なことが起こっているんですねぇ。複雑なことが起こっているというか、起こっていることの仕組みを物質名やはたらきで理解しようとすると複雑なことになる、ということか。

 で、「そもそも、エネルギーってなんだろう?」という素朴な疑問がわきました。上記リンク先では光エネルギーはhνと示されています。あら、これって、量子力学のお勉強のところで出てきたエイチニューかしらん。E=hν=(プランク定数)×(振動数)だったような。光合成に関わる光のエネルギーも、このエネルギーの考え方で語られるものなのですか。

 で、最初の明反応のほうでは、「葉緑素が光エネルギーを吸収し、電子の流れを作って、ADPとP(リン酸)から、ATPを合成し、NADP+を還元して助酵素NADPHを作ります」と書いてあります。逆に、ウィキペディアのADPの説明によると、「ATP から ADP とリン酸基に分かれる際に放出されるエネルギーは生体内での主要なエネルギー源となっている」とのこと。ということは、単純に式で考えると、

    ADP + Pi → ATP 

ではエネルギーを取り込み、

    ATP → ADP + Pi

ではエネルギーを放出する、ということなのか。  
(Piを勝手に「リン酸」と解釈しましたが、このiってなんだろう?)

 ADPもPも葉の中にあるのですね。っていうか、そもそもADPの中にもPはありそう。ちなみに、ADPとかATPとかってなんだろう?と調べてみると、ヌクレオチドというものだそうです。ヌクレオチドというのは、ヌクレオシドにリン酸基が結合した物質で、ヌクレオシドは「五単糖の1位にプリン塩基またはピリミジン塩基がグリコシド結合したもの」とか。うう、苦しくなってきた。数式を読むように化学式や分子構造が読めるようになると、言葉で考えるよりかえってわかりやすいんだろうな…。
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「C」と「H」と「O」の組み合わせ

 赤祖父俊一『正しく知る地球温暖化』の第二章では北極圏の炭素循環の話が書いてあり、最初の「炭酸同化作用」のところが面白くてわかりやすかったです。

 木の葉にある葉緑素は大気中の炭酸ガス(CO2)と根から吸収した水(H2O)から、炭水化物(C、H、Oの化合物)を作り、この三原子を結ぶ炭素の腕に太陽エネルギーが蓄えられる。炭素が使われているのは、炭素は地球上に豊かに存在し、4つの腕を持ち、水素や酸素と腕をつなぐことによって、そこに太陽エネルギーを蓄えるのに効率が良いから。

 人間はその炭水化物を食べ、呼吸によって得られた酸素を使って炭水化物を分解し、炭素の腕に貯えられていた太陽エネルギーを取り出して活動する。余った炭水化物は脂肪(たとえばC5H10O2)として体内に貯えられる。

 また、植物が枯れ、一部が分解されないで地中に残って石炭となる。石炭は炭水化物より濃縮されているため、太陽エネルギーが密に貯えられている。人類はそれを掘り起こし、空気中の酸素を使って石炭を燃焼し、「化石」となって閉じ込められた太陽エネルギーを取り出して水蒸気を作り、発電機の動力に使っている。

 海中の微植物も同様に太陽エネルギーを取り込むが、それが石油(例えばベンジン、C6H6)となるとき、太陽エネルギーが濃縮されている。人類は原油をガソリンに精製し、大気中の酸素で燃焼(分解)し、その太陽エネルギーを取り出している。

 太陽エネルギーというのは、「C」と「H」と「O」の組み合わせに乗って、生き物を生かしつつめぐっていくストーリーなのだなぁ…と思いました。

 そして、その数と組み合わせが変わると、アフラトキシンのように地上最強の発ガン物質になりうるというのも不思議です。不思議なような、納得できるような。カビも生き物なんだよな…。ちなみにアフラトキシンB1はC17H12O6だそう。HとOの比は2:1だけど、Cは17だって。参考ページとして、以前もリンクさせていただいた鈴柩さん日々の戯れアフラトキシンB1(分子模型)をリンクさせていただきま〜す。「重曹」は自然界に存在するのかでも書きましたが、人工的につくられた化学物質が危険で自然物は安全ということではないんですよね。
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「反体制」じゃなくなったエコ

 むかし、エコは、もっとヒッピーだったのだと思う。エコロジー(生態学)という本来の意味より少し進んでいたとしても、リサイクルや省エネ家電と結びつく前の頃。現代文明を否定する態度といえるのかもしれないし、自然を愛する態度といえるのかもしれない。

 むかし、エコは、反戦運動や反核運動や反原発運動にどこか通じるものがあったのだと思う。エコがそうだったというより、反(   )運動に関わる人の根底にいつもエコがあったのかもしれない。

 しかし、エコは、反戦運動や反核運動のように、反(  )運動という言い方ができない。ピンポイントでいけば反(農薬汚染)、反(捕鯨)など、少し広げると反(自然破壊)、反(過剰消費)になるのかもしれないが、そうやってどんどん広げていくと、反(現代文明)を経て、反(現代人の活動全般)となってしまう。

 エコは難しい。戦う相手がわからない。守ろうとする相手が大きすぎる。1992年のテレビドラマ『地球をダメにする50のかんたんな方法』の中で、原ひさ子演じる寡黙なおばあさんが、嵐の中で「地球を守ろうなんて傲慢だ」とつぶやく場面がある。そして、(ネタばれになるので白文字→)「動物として、鳥葬にしてください」というメモを残して他界する。

 エコは、反(人間の自然に対するエゴイズム)ではあっても、反(ヒューマニズム)ではないはず。となると、エコロジーとヒューマニズムの関係は一体どういうものになるのだろう。ヒューマンは、自然の中で一体どんな位置づけになるのか。地球温暖化を防止したいのは、地球にやさしくしたり地球を守るためではなく、人間の生活を守るためだ。大切にしたいのは自然そのものではなく、人間の役に立つ自然、人間を心地よくさせる自然だ。そもそも環境問題の「環境」とは、人間をとりまく場としての外的状況という意味ではないのだろうか。

 あるいは、人間も自然の一部とみなす生き方であるか。

 エコは、反(   )のかっこの中に何を入れても、そこに自分が入ってしまう。完全にかっこの外に出るのはとても難しい。

 ならばいっそ、全員をかっこの中に入れてしまえばいいのかもしれない。それが、反(CO2)だったのかもしれない。CO2は、まず何よりも自分の呼気に含まれている。そして、生活するとなんらかの形で発生に関わってしまう。反(フロンガス)ならば、フロンガスを使っているスプレーを使うことをやめればよいような気がした。反(酸性雨)だと話が遠すぎて行動の起こしようがない。しかし、反(CO2)だと、いろいろな形に読み替えることができる。

 だから、いまのエコには思想がない。「私、反原発運動やっているの」という言葉をきいたときにひるむ感じがエコにはない。いや、実際に「私、エコにかかわる運動をやっているの」ときくと多少ひるむかもしれないが、ひるみの意味が違う。

 だから、公的機関の事業に「エコ」という言葉があっても、企業のテレビCMで「エコ」という言葉が連呼されても、もはや違和感を感じない。

 思いは2つ。

 エコは、「体制」にとりこまれてしまったということ。

 エコは、反(   )で表せる行動ではないのだろうということ。
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「温暖化問題」を学問にもどす

 メタメタさんから教えていただいた、赤祖父俊一『正しく知る地球温暖化』(誠文堂新光社/2008年)を読みました。おお! 面白い、わかりやすい、示唆深い。あっというまに“懐疑派”になりそうだ(笑)。

 とにかく赤祖父さんがいちばん言いたいことは、気候変動研究を本来の学問にもどそう、ということなのだと知りました。地球温暖化問題は若い学問であり、国際政治、政策に関与する段階ではない、と。

 学問であれば、複数の研究者が論文を査読し、多くの研究者が検証し、追試し、議論が重ねられていくことでしょう。しかし、現在の状況では「反論」が「懐疑論」となり、自分の結論の可能性をきいてもらうことさえ容易ではない。赤祖父さんは「温暖化はCO2が主原因ではなく温暖化は自然現象による可能性が高い」という説を出しておられるのですが、その説を通したいというよりは、その説に対して批判や反論も求めていて、議論によって話を先に進めたいのに、反論をするのが非常に難しい状況であること自体が何よりこわいことだ、と訴えたいのだと思います。

 赤祖父さんは気候学の専門家ではないそうです。したがって、気候学研究の全体「しか」見ることができないが、そのお陰で多くの専門家ができない総合的研究に注目できる、と書いておられます。北極圏研究の研究所所長という立場(各分野の進展を総合的に見る立場)とも関わる話のようです。学問の細分化が何をもたらしたかについては、いろいろな人が指摘しているところ。確か池内了さんも言っていたはず。なお、赤祖父さんが総合研究の必要性をケンブリッジで講演したとき、「西欧の科学は物体から分子、原子、素粒子と細分化するのが本質で、総合研究は東洋科学的傾向ではないか」と言われたのだとか。

 「予防原則」の視点でいえば、気候学の学問的成熟を待っていたら間に合わない、その前になんとかしないと地球が大変なことになる可能性がある、ということになのでしょうが、それがいつのまにか「大変なことになる」と決め付けられ(本当にそう思っているかどうかは別にしても)、IPCCが「科学者の仕事は終わった。これからは政治家による対策が緊急である。」というような発言をするから、ちょっとまった!となるのでしょう。

 また、冷戦との関わりも書いてあります。ソ連邦の崩壊によって冷戦の危機が退き、指導者的立場にある科学者は次の大型研究プロジェクト創出のため世界的問題を模索していたに違いないという話。科学者が研究費を得るために大型プロジェクトを必要とするのは常であり、その初期の動機に文句をつけるつもりはないが、気候学が一躍脚光を浴びるようになった結果、学問として歪んでしまったと赤祖父さんは書いておられます。

 また、赤祖父さんは日本をはなれた日本人なので、「問題の本質がみえていない“日本”」も見えています。温暖化問題は政治問題になっている。炭酸ガス問題は道具にされている。実際、世界的大問題とされながら、国際的に防止策の具体的行動を起こしている団体の話をきいたことがない。G8サミットを含めた各国首脳会議でも何一つ合意されたことがない。彼らは温暖化は重大問題ではないとわかってる。なぜ日本はそれがわからないのか、と。(「重大問題ではないとわかっているから」に対しては「?」の付箋をつけておきたいと思います。「温暖化が重大問題ではない」というより、各国の首脳の仕事として別の先決問題があるということかもしれないし。)

 日本だけがわかっていないということは、宮台真司も指摘したところです。そして爆笑したところです。もし、宮台真司が赤祖父さんの主張を知ったうえで爆笑したのだとしたら(>宮台真司が「環境問題のウソ」に爆笑したワケ)、その態度は学者としてどうなのかなぁと思いました。専門分野は違っていても、研究者として感じるところはなかったのだろうか? 社会学は社会科学であり、社会科学は科学ではないのか。「問題の本質が見えていない“日本”」が見えたときに、日本人としてどのような意見を発信するか---「先行者の利得」を説くのか「学問の本来の意味」を説くのか---の違いは、学者個人の見識の違いというより、社会科学者と自然科学者の仕事の違いなのでしょうか。
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国からごほうび?

と言っても森光子さんではなく。(あれは“国”からじゃないか)


 ものすごく素朴な疑問なのですが、エコポイントにしろエコ・アクション・ポイントにしろ、動くのは国費(税金)なんですよね?

 で、とりあえず企業側からではなく、消費者側から考えると、温暖化&省エネ(&経済)対策に協力した国民に、「ごほうび」がもらえる(得をする)って制度なんですよね?

 私は何か大きな勘違いをしているのじゃなかろうかと不安になって、きのう、「エコ・アクション・ポイント ごほうび」で検索をかけてみたら、それなりのページがひっかかってきました(あえてリンクはせず)。

 そしてきょうは、「エコ・アクション・ポイント 税金」で検索をかけてみたら、OL主婦の小さな幸せ。さん>エコポイントより!?エコアクションポイント☆という記事に到着。なるほど、勉強になります。エコポイントの天下り臭さに関しては、きのうテレビでもやっていました。

 で、「エコポイント 予算委員会」で検索をかけたら、飯大蔵の言いたい放題エコポイントはエコなのか?に到着。「利己的に電気代を計算して考えたほうが、変にエコロジストになるよりは遥かにいいと私は思う。」 ポン!(膝を打つ音) そう、このへんも考えたい。

 宮台真司『日本の難点』にも、「利他的」「利己的」という言葉が出てきます。本当にスゴイ奴は軒並み「利他的」だって。東大でも霞ヶ関でも。だから楽観的でいられるって。(ちなみにスゴイ奴の具体例として、チェ・ゲバラことエルネスト・ゲバラが出されています。) 

 インセンティブって報酬のことなんでしょうか動機づけのことなんでしょうか。いや、その両方なのでしょうが。マージンやキックバックやリベート、あるいはモチベーションとどうちがうのだろう? いや、ちがうとは思うのだけれど。「温暖化対策につながる行動」に「経済的な還元」・・・か。

 環境省の、今なぜ、エコ・アクション・ポイントが必要か?によると、
1.特に温暖化対策を自らが行うことに関心のない大多数の一般消費者に温暖化対策のための行動を誘導するものです。

2. エコポイントが付与される行動は温暖化対策型商品・購入、省エネ行動等温室効果ガス削減に資するものに限定されています。

3. エコポイントを利用できるメニューは、大多数の一般消費者がメリットを感じる広範なメニューが設定されています。
だそう。

 なお、上記リンクのOL主婦さんにしろ、飯大蔵さんにしろ、最後の結論部分は同じのようです。
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