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ライプニッツ/「胡蝶の夢」/輪廻転生

 三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学』の第13節から触発されて書きたくなったことを、今回は書いてみたい。

 前々回、可能主義をルイス型と呼んだが、実は可能主義には2種類あるらしく、もうひとつはライプニッツ型と言われるものらしい。相対主義と絶対主義と呼んでもいいだろうとのこと。

 ライプニッツは、現代の分析哲学者のようには必ずしも可能世界の本性や意義や効用について明確なことを語っていないそうなのだけれども、「神は最善の世界を実現させたもうた」という意味の言葉などから推測するに、ライプニッツにとっては、この唯一の現実世界は特別なものだ、と。

 しかし、もしライプニッツの言うとおりだとして、自分が「現実世界」に住んでいるということをどうして確信できるだろうか……と話は続き、このあとちょっと面白い記述がある。
私たちは実は虚構ではないかとか、夢の中の存在ではないかとかいう思弁が、老荘思想や大乗仏教など東洋思想の底流にありますね。
(第13節)

 折しも、様相論理への興味とは別の流れで久しぶりに玄侑宗久さんの本が気になっていて、対談本を1冊読んだあと、『荘子と遊ぶ――禅的思考の源流』を読んだのだ。「胡蝶の夢」の話も少し出てくる。

 『改訂版 可能世界の哲学』に直接触発されて『荘子と遊ぶ』を手にしたわけではないと思うが、もともと興味を持っている老荘思想に少し焦点が当たってきたということはあるかもしれない。

 ちなみに、玄侑宗久さんについては、ずいぶん前にブログの記事をいくつか書いた覚えがあるのだけれど(柳澤桂子さんとの往復書簡や南直哉さんとの対談本について)、非公開記事の中にも残っておらず、何を書いたのか、書いたのかどうかも確認できずにいる。

 さらに、最近、南直哉さんの『仏教入門』も読みかけていた。読みかけていたというのは、途中で読むのをやめてしまったということであり、そのわけは「輪廻」にある。

 直哉さんは、この本のなかで「輪廻は要らない」と書いている。そのこと自体は、購入前にAmazonのレビュー欄で知っていたと記憶している。あの直哉さんがそう書いているのだから、何か理由があるのだろうと思いつつこの読むことにしたのだと思うが、その理由は私にとっては落胆するものだった。いつものような膝を打つ感じ・面白さ・納得感がない。キッパリ感があるのみで。

 輪廻の件について、Amazonのレビュー欄で詳しく指摘されている方に対し、多くの「役に立った!」ボタンが押されているけれども、その気持ちはわかる。

 輪廻転生については、このブログでも「経験我」と輪廻のリアル、不定自然変換へという文章を書いている。参考文献は魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』。やはり、輪廻転生については、大乗仏教の徒よりも、初期仏教の立場に近い人の話のほうが説得力があるのかもしれないなぁ……と思ってみたり。

 で。

 なんと。

 三浦俊彦さんが、2007年に『多宇宙と輪廻転生 人間原理のパラドクス』という本を書かれているようなのだ。読んでみたいのだけれど、いま現在、Amazonで4,000円を超えており、そこまではちょっと出せないなぁという感じで見送っている段階。近所の図書館にも置いてないもよう。

 2007年といえば、三浦俊彦さんが石飛道子さんを批判した翌年であり、直接関係ないのだとしても、ますます読んでみたくなる。読んでみたいというか、どんな雰囲気なのかちょっとのぞいてみたいというか。

 なお、玄侑宗久『荘子と遊ぶ』では、「胡蝶の夢」の話のあと大宗師篇の死生観の話になり、輪廻について次のように語られている。
……、万事を忘れてその生を生ききったらそれをお返しするだけだ。
 お返ししたあとは、また「以て其の知らざる所の化を待つのみ」なのだとすれば、それを 輪廻と呼ぶことも可能だろう。しかし大切なのは、 荘周がおそらくインドの伝統的輪廻観は知らずにこれを述べていること。そしてブッダにとっては解脱すべき桎梏であった輪廻が、荘周にはむしろどう転んでも楽しむべきものであったことである。
(「第三章 夢みぬ人の夢」より/ルビ省略)

 このあたりの違い(インドと中国の物事への対し方の違い)については、飲茶さんの『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』の「老子」の中にある説明がわかりやすくて面白い。「老子」の思想が出てくる前の段階の、中国人のロジック、人生観の話として出てくる。

 「西洋」と「東洋」の違いは、「西洋」のなかでの違いや「東洋」のなかでの違いに比べれば、もちろんとても大きなものだと思うけれども、東洋は東洋のなかでも違いがあるわけであり、その違いのなかで、いろいろな思想が生まれたり伝わったり変わっていったり、変わっていくなかで変わらないものがあったりしたのだろうなぁ……と、あらためて思う。

 で、先の三浦俊彦さんの本については、一応Amazonのページでなんとなくの雰囲気はつかむことはできて、「厳密なロジックで誤謬を暴き」というようなフレーズに「4,000円を投じるほどではないかもなぁ」という印象をもってしまうワタシ。

 「論理にいろいろあるとしたら、それらに共通していること、つまり論理であるということはどういうことなのか」

 「論理的であることにはどのような価値があるのか」

 「論理的であるとはいったいどういうことかということを、論理的に考えることはできるのか」

 という、いくつかの問いが生じてくることを感じつつも、それらの問いをつきつめるより、私も荘子と遊んでおきたいなぁと思う、今日このごろなのだった。

 と言いながら、別の論理学の本が、すでに1冊届いている。
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「このもの性」からの連想(その3)/「紅茶が冷めている」

 三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学』の第10節を読みながら連想したことを書いている。

 最初に前回の補足をすると、郡司ペギオ幸夫『時間の正体』にも、クリプキのプラス・クワスの議論は出てくる。

 また、前回はこの本から「小学生だった信夫が中学生になる」の話を抜き出したのだった。

 そして今回考えたいのは、第5章の「紅茶の図」のこと。


   
   (p.130)


 思えば、様相論理を知ろうとする前、龍樹について考えているときにも、この紅茶の図をぼんやり思い出していたような気がする。

 『時間の正体』の第5章では、最初にマクタガートの時間についての議論が概観される。マクタガートは、まず、時間に関してA系列、B系列という2つの描像をとりあげているらしく、郡司さんはB系列を第一の描像として説明したあと、第二の描像としてA系列を説明している。マクタガートもこの順序で取り上げているのかどうかわからないが、個人的には途中で頭がごちゃごちゃしてしまうので、A、Bの順で考えていくことにする。

 A系列というのは、ある出来事に対して現在か、過去か、未来を規定するものであり、B系列は、以前・以後によって規定される系列のこと。A系列のほうは、ある出来事がいま現在であれば、それは未来であったし、いずれ過去になるわけであり、様相が恒久不変であるということはない。B系列は出来事を要素とする順序系列なので、出来事それ自体はこの系列の中で不変となる。

 マクタガートは、時間の本質は変化であり、「A系列なしで、B系列は時間を構成できない」と主張しているらしい。

 このあと、郡司さんによるマクタガートの議論の説明が続くのだが、そのなかに可能世界という言葉があることにこのたび初めて気づき、びっくりしてしまった。

 可能世界という言葉を知らなかったので、一般名詞のような雰囲気でさらっと読んでしまっていたのかもしれないし、そもそも読んでいなかったのかもしれない。

 可能世界に基づく議論はマクタガートではなく、ブラドリーという人物によるものらしい。この人名はまったく覚えていないので、やはり読み流していたか、読んでいなかったのだろう。

 検索してみるとブラッドリーという表記が多く、おそらく、フランシス・ハーバート・ブラッドリーのことだろうと現段階では判断している。
 第二にマクタガートは、ブラドリーによって述べられた可能世界に基づく議論をとりあげ、A系列の担う全一性を炙り出す。ブラドリーによれば、時間の系列には複数の可能な系列があり、その各々に現在・過去・未来がある。時間とは、可能世界として並列的に実在するのであり、そのうちのどれかが現実にあるのではない、というわけだ。
(p.127〜128)

 なお、念のためここで書き添えておくと、三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学』によれば、それぞれの可能世界は時空的に断絶しているとのこと(可能世界の独立性)。ただし、可能世界は時間論にも使われているそうなので、上記のような議論もあるのだろうと思う。何がどういうふうに使われているのかは、まだまったく知らないけれど。

 マクタガートやブラドリーと可能世界のつながりについては、ちょろっと検索しただけではわからなかったので、郡司さんの説明をもとにざっとのぞいてみることにする。

 ブラドリーの議論の場合、「時間の非実在性は世界の複数性、多次元性にあるのであって、現在・過去・未来、すなわちA系列自体に誤謬はない」ということになるもよう。

 マクタガートは逆に、多数の時間系列からなる可能世界は論理的に可能であるものの、その複数性によって、マクタガート自身が指摘するA系列の誤謬が解消されることはないと言っているらしい。

 しかし同時に、可能世界が論理的に可能ではあっても、可能な現在の集合的全体である現在は、我々が知る現在とは違う、と主張しているとのことで、郡司さんはこの点が重要だと考えている。

 まだまだ話は続くのだが、少し端折って「紅茶の図」について見ていくことにする。もう一度↓


   


 全体的な流れは「紅茶を買う→紅茶を入れる→紅茶が熱い→紅茶が冷めている」となっている。

 このなかで、「「紅茶が熱い」は現在だった」というふうに過去形の言明ができるのは、たとえば「紅茶が冷めている」を現在とする時点となる。つまり、「紅茶が冷めている」を現在とする時点が、「紅茶が熱い」の未来であることで、「「紅茶は熱い」は現在“だった”」と言明される。
果たして、「紅茶が冷めている」は、現在であり、未来である。
(p.130)

 同様に「「紅茶が熱い」は現在と“なるだろう”」といった未来形を使える時点は、ここでは「紅茶を入れる」を現在とする時点であるが、それは「紅茶が熱い」に対して過去である。つまり「紅茶を入れる」は現在であり、過去であるということになる。
 マクタガートにおけるA系列の誤謬、その本質は何か。私の意見を述べよう。矛盾の原因は、出来事系列、すなわちB系列において指定される現在とA系列における現在とが、まったく別な概念であるにも拘らず、混同が不可避となる点に求められる。
(p.131)

 まだまだ話は続くのだが、いまは「このもの性」からの連想を考えているので、このあたりで切り上げることにする。

 過去・現在・未来の話でいえば、時間を抽象的に俯瞰した自分の記憶として、小学校4年生のときの掃除の時間のことが思い出される。音楽室の担当で、当時は音楽室にオルガンがたくさん並んでいて、オルガンとオルガンの間の床を拭きながら、「いまのこの時間も、過去になるのだよなぁ」と思った瞬間が、私の記憶に刻みこまれている。

 なぜ、そのときにそう思ったかはわからない。日常の中の平凡な一場面だったからこそ、逆に時間を俯瞰したのかもしれない。あのとき、私は自分の未来を具体的に想像してはいなかっただろうし、実際、知りようはなかったわけだけれども、いまこの現在が未来にはやがて過去になるということを、感慨深く意識したのだろうと思う。そういうことを意識した初めての経験として、記憶に残っているのかもしれない。

 実際、未来のどの時点でも、あの「現在」は「過去」であり、こうして私は思い出している。あのときの「未来」が「現在」となっている私にとって、あの「現在」は鮮烈な「過去」の一場面になっている。

 話を本にもどすと、『時間の正体』を手にしたばかりのころ、
わたしには現在しか許されない。
という一文に感動したものだった。なんてポジティブな否定形だろう、と。なお、その前には「わたしはこの現在に立ち尽くす」という一文があり、ここから始まる一段落が、“わたし”にかぎかっこをつけたうえで、本の裏表紙に抜き出されている。

 当時描いたあの図は残っているかなぁ……と思って探してみたら、残っていた(いまは非公開にしている『時間の正体』についてのひとつの記事のなかで使ったもの)。





 今回、なぜ「このもの性」から「紅茶の図」を連想したのか、自分でもよくわかっていないのだけれど、基体や、場と変化とのつながりから想起したのだろうと思われる。

 上記の図の「わたし」は、基体ではないか。あるいは、上記の「わたし」を基体と捉える考え方があるのではないか。さらには、時間について考えるときに、ついつい、上記の「わたし」を基体にしてしまうのではないか。そんなことをぼんやり考えている。
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「このもの性」からの連想(その2)/場と変化

 三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学』の第10節を読みながら思い出したことを書いている。

 前回、インド思想の「基体(ダルミン)」のことに関連して、属性をすべて取り除いたときに何も残らないとするのが仏教の立場だということに触れた。

 そのことに関連してさらに思い出すのが、魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』p.89にある、「流動し続ける場」という言葉のこと。>「経験我」と輪廻のリアル、不定自然変換へ

 「無常の経験我は否定されない」という項目の中の言葉で、以下のような文章の流れで出てくる。
……、それは縁起の法則にしたがって生成消滅を繰り返す諸要素の一時的な(仮の)和合によって形成され、そこで感官からの情報が認知されることによって経験が成立する、ある流動し続ける場のことである。
 つまり、「基体」はなくても「場」はあるのだ。あるというか、できてしまっているというか、なんらかの形で表現しようとするとそういう言葉を使うことになるというか。

 そうなると、西郷甲矢人・田口茂『〈現実〉とは何か』の「第一章 実体から不定元へ――「量子場」概念の根本的再考」を思い出す。思い出すもなにも、そもそも上記リンク先の文章はこの本に触発されて書いたのだった。

 章のサブタイルからもわかるように量子場の話なのだけれども、何しろメインのタイトルは「実体から不定元へ」であり、この先で仏教の話も出てくるので、つなげて考えても的外れではないように思う。

 さらに、郡司ペギオ幸夫『時間の正体』のことも思い出していた。

 何かが変化するとき、何が変化するのかで書いたようなこと。「小学生が中学生になる」だと、小学生が消えて中学生が出現するように思えるけれども、「小学生だった信夫が中学生になる」であれば、信夫の変化としてこの事態を捉えることができる。この信夫も「裸の個体」や「基体」に近い話ではなかろうか。

 先に書いておくと、三浦俊彦さんの本では、この先クリプキが出てくる。「当然のことながら」を添えていいくらいのことかもしれない。なので、郡司ペギオ幸夫さんのことは時折頭にちらついていたように思う。なぜなら、私は郡司さんを通してクリプキのことを知ったから。

 より正確にいうと、青土社から1998年に発行されている『数学』(複雑系の科学と現代思想シリーズ)の辻下徹「生命と複雑系」を通して、郡司さんがとりあげるクリプキのことを知った。

 発行されてからそれほど年数がたたずにこの本を手にしたと思うので、クリプキを知ってからずいぶん時間がたっているのだけれど、どうにも食指が動かず、これまでクリプキの本を手にすることはなかった。様相論理をのぞいているいまも、気になりつつまだ手にする気持ちになっていない。

 なお、クリプキの邦訳は現在2冊出ているもよう。『名指しと必然性──様相の形而上学と心身問題』と、『ウィトゲンシュタインのパラドックス──規則・私的言語・他人の心』。

 辻下さんの論考経由でクリプキを知ったため、私のなかではクリプキは「プラス・クワスの懐疑論の人」ということになっている。この議論はウィトゲンシュタインのパラドックスのほうの本に出てくるらしい。

 様相論理とウィトゲンシュタインがどうつながるのかまったくわかっていないので、様相論理の文脈でクリプキが出てくると「これってプラス・クワスのクリプキ? それとも別のクリプキ?」と、不安になることもあった。

 本が違うとしても、つまり取り扱っている主題やアプローチが違うとしても、それこそクリプキという「一個体」のなかで、つながりがあるのではなかろうか。順接にせよ逆接にせよ、断絶があるにせよ。

 いずれにせよ、プラス・クワスはクリプキつながりで思い出しただけなので、「このもの性」との関係は感じていない。

 というわけで、次回、『時間の正体』のほうについて、もう少し書いてみたい。
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「このもの性」からの連想(その1)/インド思想の「基体(ダルミン)」

 三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学 「存在」と「自己」を考える』を読んでいる途中だが、「第10節 諸世界を貫く個体」を読みながら思い出したことを、今回は書いてみたい。

 前回、ほんの少しずつ性質が入れ替わり、そうこうするうちすっかり入れ替わってしまうという一卵性双生児の思考実験の話が出てきた。

 目の形だけを交換してそれ以外の性質は同じ、歩幅だけを交換してそれ以外の性質は同じ……というふう少しずつ交換し、ついに世界wnでは@での2人がそっくり入れ替わってしまうという話。

 wnが@と異なっているのは、太郎君の心身をまとっているのが裸の個体・次郎であり、次郎君の心身をまとっているのが裸の個体・太郎であるというだけ。

 という話のあとで、「このもの性」という用語が出てくるのだった。

 様相論理特有の言葉ではなく、中世哲学に端を発する(広く使われる)用語だと私は理解しているのだが、「あらゆる性質から独立している裸の個体」という言葉に触れ、立川武蔵『空の思想史』に出てくるインド思想の「基体」のことを思い出していた。

 インドの人々が世界の構造について考える場合、属性とその基体という対概念によって考察する傾向が強いらしいのだ。この基体というのが先の「裸の個体」に近いのではないかと感じたのだ。

 インド思想の場合、「この本は重要だ」という命題は「この本には重要性が載っている(重要性がある)」と解釈される。本は実体であり、重要性は属性となる。

 「この紙は白い」の場合も、「この紙は白いものの集合(クラス)の一つのメンバーである」というより、「この紙には白色という属性がある」と読む方が好まれるという。

 ある基体(y)にあるもの(x)が存すると考えられる場合、xをダルマ(dharma 法)とよび、その基体yをダルミン(dharmin 有法)と呼ぶとのこと。

 ダルマ、あるいは法という言葉は、仏教やインド思想の話の中で本当によく出てくる言葉だけれども、とにかくいろいろな意味があるらしいということを何かにつけ感じる。

 なお、『空の思想史』p.38では、
一方、哲学的な議論においてダルミン(有法)と対になった場合には、ダルマがそこで存在する基体を意味する。
と書いてあり、「ん? ダルマは属性では?」と思ったのだが、単純なミスなのか、ダルマのさらなる意味の広がりを示しているのかわからなかった。

 それはそうと、なぜ、ダルミンに「有法」という漢字表記があてられているのだろう? 直訳するとそういうことになるのだろうか。「法が(そこに)有るもの」とか、そんな感じの意味なのかなぁと想像してみたり。

 ダルマ/ダルミンというふうに「ダル」が重なっているので、何かしら同じ漢字を使って対にできる表現なのかもしれない。なお、検索してみると、dharmin に対しては「基体」という言葉があてられることが多い印象がある。

 先ほどの「白い紙」の場合、この紙には無色透明ではあるが基体として一つの場があり、その場には白色という属性があり、さらに大きさ、形、匂い、重さといった属性も存すると考えることになる。

 これらの属性を取り除くことができると仮定して、すべての属性を取り除くことができたとしたら、最後に何か残るのか、残らないのか。

 残る“何か”があれば、それは、太郎・次郎の「裸の個体」と同じものではなかろうか?

 イメージとしては、[太郎@][次郎@]とラベルのついた、透明でからっぽで柔らかい(中に何が入るかで形が変わる)入れ物のような感じ。

 [太郎@][次郎@]には、最初、太郎や次郎のいろいろな性質が入っている。そして、少しずつ性質を入れ替えていくと、入れ物はそのまま変わらず、[太郎@]」に次郎の性質がすべて入り、[次郎@]に太郎の性質がすべて入っている状態になる。前回の思考実験が表している状況はそういうことだと思う。

 なお、インドの思想においては、属性をすべて取り除いたときに何も残らないとするのが仏教の立場であり、無色透明ではあるけれど基体と呼ぶべき何ものかが存在するというのがバラモン正統派の考え方であるもよう。

 ただし、バラモン正統派の中でも、ヴェーダ―ンダ派は属性とその基体とには明確な区別がないと考える唯名論の立場にたっているらしい。>ひまになって余計なことを考えた人たちは東にもいた

 さらに、飲茶『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』に出てくるヤージュニャヴァルキアの説明も思い出していた。>ウパニシャッド哲学とクオリアの意外な関係

 飲茶さんは、ヤージュニャヴァルキアの(「アートマン(私)は捉えることができない」)を説明するにあたり、インド思想の枠を超えた話題を交えながら考察を深めているのだけれど、その導入として「私が存在する」ために絶対必要な条件とは何かを考えている。

 「職業」「肩書き」などの「社会的地位」は違うし、「性格」や「個性」も違う。私が存在したままそれらが消滅しうるのは可能だから。では、「肉体」はどうか、「脳」はどうか? というふうに問いが重ねられ、「意識現象」の話へと入っていくのだった。

 この「私が存在する条件」も、いわゆる「属性」、太郎や次郎の「性質」に近いものではないかと感じた。私を私たらしめているもの、太郎を太郎たらしめているもの、次郎を次郎たらしめているもの。

 可能世界論はこういうことを直接的に議論するものではないだろうが、思い出したのと、考えていてちょっと面白かったので、書いてみたしだい。
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『文芸教育』97号(2012年)を購入した理由/西郷甲矢人→石飛道子の矢印を追う

 このたび、新読書社から出ている『文芸教育』97号(2012年)を購入した。

 西郷甲矢人さんが石飛道子『ブッダの優しい論理学』を紹介しているのを知ったから。知ったからというか、自分で調べていきついた。

 『文芸教育』は文芸教育研究協議会の本であり、この会の会長を西郷甲矢人さんのお父様が務めていらした。2012年当時はご存命だったので、97号は「編集責任 西郷竹彦」となっている。2017年に他界されている。

 教師にならなかったとはいえ、割と教育に近い人生を送ってきたはずなのに、はずかしながら私は西郷竹彦さんのことを存じ上げていなかった。

 西郷甲矢人さん経由で西郷竹彦さんのことを知った時期に、教育全般に詳しい立場にある人に「最近、こういう本を読んでいてね、この西郷甲矢人さんって方のお父様は有名な方らしくてね……」という内容のことを話したら、「西郷文芸の?」と少し驚いたように答えていたので、なるほどやはり有名な方なのだとあらためて思ったしだい。

 なお、私が西郷甲矢人さんの文章に初めて接触したのは、『圏論の歩き方』においてだったと記憶している。そこに仏教の因果関係の話が出てくるのを読んだとき、「こんなところで仏教の話を出して大丈夫かな……」と思ったものだった。しかしその後、『圏論の道案内』にて、西郷さんの仏教に対する関わり方は半端なものじゃないと知った。

 また、『〈現実〉とは何か』の感想を書いた頃は、西郷さんの仏教話の出典が石飛道子さんの本に偏っていることが気になっていたが、その後、逆にそちらのほうがいいと思うようになった。仏教の専門家として言論活動をしているわけではない西郷さんにとって、仏教本の複数の出典は、むしろ読者の混乱のもとになると思ったので。

 とはいえ、ちょっとしつこいくらい石飛さんの名前が出てくるなぁとも感じていた。

 西郷甲矢人さんが関係している本を何冊か読むと、「石飛道子を読まなくちゃならんのだろうか?」という気になってきますよね?
>諸氏

 私の場合は特に、西郷甲矢人さんに出会うまえに仏教に興味をもっていたので、石飛道子さんのことは気になっていた。

 しかも、『圏論の歩き方』や『圏論の道案内』の場合は、石飛さんの名前が出されている理由もわかるけれども、『圏論の地平線』にいたっては、第14章の「圏論生活者」という言葉は石飛さんの「仏教生活者」からもってきたという、(重要といえば重要だが)ただそれだけの情報として石飛さんの名前が出されていると私は感じた(何か読み落としている可能性もあるけれど)。表現をいただいているので、発想元として書いておかなければならないことはわかるけれども。

 なお、石飛さんが語る「仏教生活者」がなんなのか、私はまだ把握していない。「とにかく僕は推してるんだ!!」というメッセージが、そのメッセ―ジだけが、西郷さんが関わる本を読むたびに伝わってくる。

 という状況のなか、他のきっかけ(Twitterでのやりとり)も重なって、今回、桂紹隆さんの本でインド論理学を少しのぞいたのち、石飛道子さんの「ブッダ論理学」に取り組むことになったのだった。

 ちなみに、石飛道子さんの本を読もうとしたのは今回が初めてではない。2020年6月に、『「空」の発見 ブッダと龍樹の仏教対話術を支える論理』(2017年)を購入している。が、読めなかった。タイミングがあわなかったからかもしれないし、もしかすると私は、基本的に石飛さんの文章と相性がよくないのかもしれない。

 次は、2023年1月に、『構築された仏教思想 龍樹 あるように見えても「空」という』(2010年)を購入した。こちらはわりと読めた(全部読んだかどうかは覚えておらず)。「龍樹って面白いなぁ」という感想をもった覚えがある。

 そしてこのたびようやく、「ブッダ論理学」に言及している石飛さんの本を読むことになったのだった。“ようやく”といまなら言えるわけだけれども、こうなってみてあらためて『圏論の歩き方』p.208の脚注をのぞいてみると、「え、こんなことが書いてあったっけ!?」と、ちゃんと読んでいなかった自分を思い知るような記述があることに気づく。
[14]この定式化を「ブッダの公式」とよび,その論理の解明に尽力されているのが哲学者石飛道子氏です.数え切れないほどの議論におつきあいくださった石飛氏に感謝します
 時期から考えても、西郷甲矢人さんが石飛道子“推し”になったことと「ブッダ論理学」は関係していると思われる。また、「数え切れないほどの議論」を経たうえで、ことあるごとに石飛道子さんの名を本に出しているのだから、きっと実のある議論だったはず。

 そんなこんなで、西郷さんが推しているので、私は石飛道子さんの本を読もうとしたわけだが、それはとりもなおさず、私が西郷さんのことを信用していればこそだと言える。

 西郷甲矢人さんが書くことはなんでもかんでも信じるという意味ではなく、「西郷さんが見えているもの、見ようとしているものが、私が見たいものに近いのではないか?」という意味で、道しるべ、トンネルのような存在に勝手にしている。

 ところがその西郷甲矢人さんが推している石飛道子さんの言葉が、どうにも私には沁み込んでこない。もちろん、いただけるものはあるのだが、首を傾げることも少なくない。

 逆にいえば、自分が信頼している西郷甲矢人さんがものすごく推している方の本でも、依怙贔屓せずに読めるらしいということを、このたび確認する機会となった。「期待していたぶん、厳しめになったのでは?」という見方もあるかもしれないが、それはない気がしている。

 とにもかくにも、石飛道子さんの本にある程度触れたいま、西郷さんは石飛さんの議論のどこに感動したのかということを知ることが、自分にとってのヒントになるかもしれないと思い立ち、『文芸教育』97号を購入したのだった。

 で、無事に到着し、該当の文章を読んだ。

 感想をひとことで言うと、「ああ、もう、『〈現実〉とは何か』を読んでしまっているしなぁ……」となる。違うタイミングで読んでいたら違う感想を持っていたことだろうと思う。

 というわけで、次につながるヒントはつかめなかったのだけれど(何が書いてあるかを確認できたことはよかった)、思っていたこととは別の何かを少し拾ったようにも感じている。

 それは、「縁起」理解についての、ごくうっすらとした違和感のようなもの。西郷さんの文章に対してではなく、あらためて部分的に読んだ『ブッダの優しい論理学』に対して。縁起の宿題に取り組む前の感覚を思い出すような感じ。

 もしかするとこれは「相性」の問題ではなく、実は仏教について、私は石飛さんと(ひょっとすると西郷さんとも)何かが違っているのかもしれない。

 サンスクリット語もパーリ語もまったくわからず、経典を読んだこともなく、仏教本も現代のものをちょろちょろっと読んだだけの自分なので、私のほうが仏教を理解できていないというのは明白だと言える。

 しかし問題は、正しいとか正しくないとか、理解が深いとか浅いとか、そういうことではなく、まさに、仏教に何を問うのか、という、そこだと思う。

 あともうひとつ。

 『圏論の歩き方』の西郷さんの参考文献の欄に、「念頭に置いていた本は,……」として、 Lawvere and Schanuel(1997)が出されていることにあらためて気づき、心の中で「あっ」と声が出てしまった。2009年に第2版が出たことも書いてある。

 まさに、取り組みたかった論文と講演原稿/インド論理学と圏論で「必読だと思うが手が出ない」と書いた、あの文献。

 やはり必読だということを再確認した。が、引き続き手が出ない。
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「そう思っている人が多い」ということの捉え方

 Twitter経由で知った辺野古の「座り込み」に関する騒動に受けている刺激から、どうにも自分の思考・感情・時間が開放できないので、いっそがっつり考えてみることにした。

 なお、今回の話の着地点はどこか先に示しておくと、鈴木健『なめらかな社会とその敵』の分人民主主義となった。

 話のおおもとは、ひろゆきさんが辺野古の「座り込み」の現場に行ってみたらだれもいなかったので、その様子を写真に撮り、揶揄するようなツイートをしたのが発端になったと私は認識している。

 確か、せやろがいおじさんのツイート経由でこのできごとを知ったのだったと思うけれど、その後もTwitter上で繰り返し接触があり、私自身、どうにも学びに結びつけにくい刺激を受けてしまう状況が続いていた。

 大きく分ければ、ひろゆきさんに対して批判的か肯定的かという視点で二分できるが、もちろん捉え方には幅があり、一部、予想外の角度からの意見も目にして少し驚くこともあった。

[2022年10月10日追記] ひろゆきさんに対して肯定的な意見を本当に見かけたのかどうか自分でもよくわからなくなってきて不安になったので、そういうツイートがどのくらいあるか探してみたのだけれど、探そうとすると実はそんなに見つからない。あるのは、「ひろゆきさんに対する批判的態度への否定的視点」。ただし、少し時間がたっているので、もっとさかのぼればあるのかもしれない。

 事象を「どう捉えるか」には、普段のその人の意識が強く反映されるということを、自分のことを含め、あらためて感じている。

 この騒動に関するアベプラでの議論も一応のぞいておこうかと思って観始めたものの、さっそく辛くてほどなく画面を閉じた。つまり、最後まで観ていないので、その後、どういう展開になったかわからないのだけれど、あの雰囲気では、辺野古の問題を掘り下げる方向には行かなかった可能性が高いだろうと、個人的には推測している(あくまでも推測)。

 では、私はこの出来事から、何を学べばいいのか、何が学べるのか、何か学べるのか。

 と考えたとき、言葉の意味を辞書が定義するかどうかということから派生して、「そう思っている人が多い」ということの是非に思いを馳せることにした。

 「座り込み」は「土日も休まず24時間座り続けることなのか」という、定義の話をいったんわきにおいといて、実際に「そう思っている人が多い」という状況があり、そこ(多くの人が誤解する言葉を使って抗議活動が行われていること)を問題と考えて行動を起こすことにどのような意味があるか。

 「沖縄がどのような状況を強いられているかを知らない人、あるいは他人事と考えている人が多すぎる」ということも、「そう思っている人が多い」のうちに入る。これを憂えて発信活動をするということにどのような意味があるか。

 この考え方の延長に、私は「多数決」という物事の決め方を想起した。実際、この問題に関連して、選挙についても少し話題になっていたように思う。世の中には「民意」という、なんともつかみがたい言葉があり、そして「言葉があるものは存在している」と「思っている人は多い」と私は考えている。

 そもそも、国政をつかさどる人たちは、「国民」が「選挙」で選んでいる。各自治体にも同じことが言える。しかも、投票に行かない人も、多数、存在している。この事態をどう捉えるか。

 自分にとって、意味のある「数の多さ」。意味のある「数の少なさ」。そのときの「意味」の意味。


*     *     *


 ここでいったん、話を変える。

 少し前に、数学者の加藤文元さんと、哲学者の千葉雅也さんの対談が行なわれたということを知り、対談動画を観る前から「加藤さんと千葉さんがつながってよかったなぁ」と思った。

 拝聴した直後は、特に終盤の印象が強かった。しかし、時間がたつにつれて、別の場面が浮上している。ネタばれを避けるため時間帯だけ示すと、8時間10分50秒後〜8時間15分40秒後のあたり。そこに出てくる2つの単語が心に残っていて、それが浮上してきたのだ。いってみれば、哲学と数学の違いの話、あるいは数学の大きな特徴の話。

 数学の祭典 MATH POWER 2022 (8時間10分50秒後〜)
 https://live.nicovideo.jp/watch/lv338206772#8:10:50
 (※ 対談は7時間30分後から)

 一方で、少し前にこのブログで書いた、共にあること、ひとりでいることと、学問という文章のことも思い出していた。あのとき、身近な小さな話を2つと、世界規模の話を1つ書き、それはどれも「“その場の話し合い”や“多数決”では決められない事例」であり、最初の一例(三角形の名称)は微妙だけれど、あとの2つは自然科学の特徴を含む話題だといえる。

 しかし、サリドマイド薬害に関するフランシス・ケルシーの功績は、「ある一人の審査官が、その権限をもとに、当人が判断した事例」だということもできる。「権限」は、イコール「責任」でもある。ここにはおそらく、社会科学が関わってくるだろうと私は考えている。

 で、これがどう「なめ敵」に着地していくかというと、つまりはこういうことなのだ。「千葉雅也さんが加藤文元さんとつながってよかったな」と思った少し前に、私は「千葉雅也さんが坂口恭平さんとつながってよかったな」と思った。

 その坂口恭平さんのことを、私はphaさんの書籍で知り、そのphaさんのことは、佐々木俊尚さんが進行役を務めるノマド的生き方に関するテーマの座談会の動画で知ったのだったと記憶している。

 おのずと多様性や多層性というものと関わってくるわけだけれども、私がphaさんや坂口恭平さんに興味をもったのは、「局所から始められることを、軽やかにやっている」人たちだったから。つまり、全体のシステムを変える必要がない。

 一方、鈴木健さんの「なめ敵」にはとても興味があるものの、実装するには、ある程度の規模の枠でシステムを整える必要があり、そこが難しいと個人的には感じていた。

 しかし逆にいえば、枠を設定すれば、その枠の中でやることができる。

 ここで、「区切り」の活かし方が発動できる。実際、伝播投資貨幣PICSYに関しては、きわめて小規模ではあったろうが、小学生を含む実際の「人間たち」でシミュレーションが行なわれていたと思う。

 これを、伝播投票委任システムでやってみたらどういうことになるのか、小規模の枠の、まずは実験でやってみたものを見てみたい。もしかして、もうどこかでやっていらっしゃるのだろうか?

 その場合、「普通の」選挙との結果の違いを知りたいので、普通の選挙も行う必要がある。

 なお、『なめらかな社会とその敵』については、カテゴリーを作って27記事ほど公開しているが(読書記録(な))、1票を分割するシステムについては、以下の3記事を書いている(私の思考の流れです)。


 1票そのものを分割する投票システム(1)/投票行列
 1票そのものを分割する投票システム(2)/累積得票ベクトル
 1票そのものを分割する投票システム(3)/累積得票来歴行列


 「1票の格差」も大きな問題だが、それを問題にできるのは、「1票」の意味を固定していればこそ。

 そして、「そう思っている人が多い」という「多い」という概念は、人数をもとにしている。それは「1人=1」であって、「1人>1」や「1人<1」ではないことを大前提としている。

 そのためには「1人」を括らなければいけない。1が確固たる1であるように、足元を固めなくてはならない。その圧倒的な閉塞感・孤独感が、ときとして「1人」を苦しめるように私は思う。そうなると、「共に」いることができない。

 「1人>1」や「1人<1」に思いを馳せること。

 1と1の「間」に思いを馳せること。

 それがときに、「1人(仮)」の救いになることがあるように思う。
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摂理と理不尽/「残念」なのはだれなのか

 この文章には、途中でテレビアニメ『ぼくらの』の話がほんの少しだけ出てきます。ネタバレをさけるためほとんど内容には触れていませんが、アニメ作品等の一切のネタバレを好まない方は、当該のアニメを観る前にこの文章は読まないほうがいいかもしれません。私は、石川智晶さんの「アンインストール」のライブ映像がきっかけとなり、この歌が主題歌になっているということで、昨年の夏頃、動画配信サイトで全話観ることになりました。

石川智晶 LIVE 2015年1月「アンインストール」
https://www.youtube.com/watch?v=uSARpjKsyZM


*     *     *


 大学改革についての本を読んでいる最中だけれど、先日まで読んでいた論考その他から刺激を受けてちょっと書きたいことが生じたので、メモがわりに書いておくことにした。

 直近の刺激は、先日知った「「成功者に学ぶ」が危うい理由」という日経ビジネスの記事。

日経ビジネス>「成功者に学ぶ」が危うい理由
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00406/010500003/?n_cid=nbponb_twbn

 『理不尽な進化 増補新版──遺伝子と運のあいだ』の著者である吉川浩満さんと、『世界「失敗」製品図鑑』の著者である荒木博行さんの対談記事。2冊とも読んではいないけれど、書名の組み合わせだけでしばらく思考が発展させられそうな企画だと思った(もちろん、対談記事は読んだ)。

 そして思い出したのは、『おもしろい! 進化のふしぎ ざんねんないきもの事典』のこと。わが家にも、続編とあわせて2冊ある。“ざんねん”の内容のコピー風表現がうまいわけなのだけれど、企画自体がなんて絶妙なんだろう!と、この本を知ったばかりのころ思ったものだった。ちなみに「ざんねんないきもの」は株式会社高橋書店の登録商標であるらしい。

 “ざんねん”の種類にいろいろあるので一概には言えないが、私の印象としては、「自然は思うほど合理的ではない」というところに焦点をあててもらったことが何より画期的だった。

 これまで動物といえば、あるいは自然といえば、「うまくできている」というふうに語られるのが常だったのではなかろうか? 自然は合理的である、と。

 たとえば、少し前にYoutubeで観たハキリアリの動画では、まだ生きているけれど与えられた役割を果たせなくなったアリがゴミ捨て場(=墓場)に捨てられる映像に対して、「なんとも非情に思いますが(中略)この合理的ゆえに冷酷なシステムを守っていくしかないのです」というナレーションがついている。

どうぶつ奇想天外・WakuWaku【TBS公式】>
【密林の残酷】働けなくなったアリが容赦なく捨てられる「アリたちの墓場」を発見…!ハキリアリ、ホエザル…悠久のジャングルをめぐる生命の循環
https://youtu.be/Pg1E5HbZ_ek

 タイトルに「残酷」の文字があるが、「自然はよくできている」とともに、「自然は残酷だ」というフレーズもよく耳にするかと思う。

 そもそも最初に書いた日経ビジネスの記事に反応したのは、『反「大学改革」論 若手からの問題提起』の第四章でベルクソンの議論に接していたからだと思う。論考を理解するうえでは逆に混乱のもとになってしまったけれど、「可能な限り働こうとする生命の効率性と、最小の骨折りで済むほうへ向かう個別種の効率性の話」はとても面白く、印象に残っていたのだ。

 興味深い話を読むといろいろとイメージが派生するもので、あのとき確かテレビアニメ『ぼくらの』のことを思い出していた。

 ネタばれをさけるため詳しいことは書かないが、きっといまなら放映できないだろうし、いつの時代でも全国ネットのゴールデンタイムでの放映は無理なアニメではないかと個人的には思う(放映は2007年とのことで、時間帯はわからない)。なお、どぎついシーンがあるわけではない。

 ウィキペディアにあるように「地球を守るために戦う少年少女たち」の話であるのは確かなのだけれど、この文言から想像される戦い方ではない。プリキュアともエヴァンゲリオンともエレメントハンターとも違う。「なんて理不尽な話なんだ!」と観るたびに思った。しかし、背景には物語化された「超合理性」がある。それゆえ、理不尽ではあっても不条理ではない。

 で。

 この思考の最終的にいきつくさきは、やはり新型コロナウィルスの感染対策のこと。

 昨年9月、生活ブログで「自然と不自然とバランスと欲」という文章を書いたのだけれど、重いテーマゆえ文章の着地点が見つからず、生活ブログっぽくそれなりに無難にまとめて終わらせた形になった。

 あちらにも書いたように、私は「ウィルスを異常に敵視する考え方や、人間の免疫能力を尊重しない態度に強い抵抗感を示す人」を“自然派”と呼んでいる。

 “自然派”の方の意見を目にするのが辛くて、Twitterのフォローをはずした方もいる。その意見に反対だから辛いのではなく、「一理ある」と思うから。一理あるけれど、私はそうできないから。

(なお、上記はオミクロン株が出てくる前の話で、現在の状況についてはタイムリーな記事があったので、末尾でリンクしたい。)

 “自然派”の人の意見とそんなに多く接触したわけではないし、どういう立場かが分からない方もいるのであくまで想像だけれど、おそらく年配の方が多いのではないかと推測している。そのことを自覚したうえで意見を出している方もいた。高齢者のリスクが高い(当時は特に)ことと、無関係ではないだろう。

 生活ブログに書いたように、“自然派”の意見に接すると辛いのは、「自然は「個」を前提にしていないのではないか」という考えが自分にあるから。私はバリバリ「個」にこだわって生きているし、これからも生きていくと思うから。

 あのとき書けなかったことを今回は書いてしまうと、 “自然派”でいるためには、「弱った個体を切り捨てる」「運がわるかった個体を切り捨てる」ことを「合理的」であるとして受け入れる覚悟がいるのではなかろうか。

 働けなくなって捨てられるハキリアリは、老体または傷ついた成体だと思われるが、同じ動画のホエザルのシーンでは、子ザルの映像があった。子どものころは弱いこと、生まれつき他より弱い個体があること、老いると弱くなることなどは、「自然」のことだ。

 それに対して、敵から逃げられず食べられてしまった、どこかから落ちるなどの事故にあってしまったということは、それこそ「能力」や「運」などが関係するけれど、それはそれで「自然」のうちにあると思う。

 そういうふうに考えていくと、人が「神様」やそれにあたる存在を必要とするのもわかるような気がしてくる。「摂理」という言葉には、自然の法則という意味もあれば、神の意志という意味もあるようだが、「なぜ」を理解することや問うことができないとしても、せめて「視点」は欲しい。

 「ざんねんないきもの」がざんねんなのは、やはり読んでいる私が「ざんねん」に思うからだろう。読者が「ざんねん」と思うことを前提として書かれてある。当の動物たちにとっては、それがあたりまえで、それこそ「自然」なことなのではなかろうか。聞けないからわからないけど。

 ちなみに、『ざんねんないきもの事典』には、ざんねんじゃないいきものもけっこういるし、何かに特化したから結果的にざんねん(と表現することが可能)な部分が生じた場合もある。

 個人的には「意味がない」系に心打たれる。バイオリンムシの羽の膜や、ソレノドン(モグラの仲間)の毒など。ソレノドンの毒には「あまり意味がない」そうだが、バイオリンムシの羽の膜には「なんの意味もない」そう。

 続編のほうの「プロングホーンはものすごい速さで走るが、そもそも追いかけてくる敵がいない」も、なかなか切ないものがある。大昔には生息地にチーターがいたらしいが、1万年前に絶滅しているらしい。

 「ほんとに意味がないのかな? これから研究していったら、実はこれこれこういう機能があった、ということがわかったりしないのかな?」というレベルの疑問の前に、やはりこれも意味の有無を判定する視点・解釈があってのことだと言える。

 「残念」という文字は「念が残る」と書くが、神様にはきっと念は残らない。すべてのことが織り込み済みになるはず。でないと、神様じゃない。と、私は思う。

 というような文章を書いていたら、現状をふまえたイワケン先生のタイムリーな記事が出ていた。


iZa(産経デジタル)>
【コロナ直言(18)】犠牲どう許容、今こそ「痛み」議論を 神戸大教授・岩田健太郎氏

https://www.iza.ne.jp/article/20220122-4BRB2B66ZZNMLINWFO63XASBNY/


 哲学からの反「大学改革」論で触れた「リスクを引き受ける」という言葉が、別の意味をもって響いてくるのだった。
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大学改革についての本から一瞬はなれて、今年考えたことを

 大学改革についての話を当分書き続ける予定だが、ここでいったん本をはなれて、この2年間(特に今年)の自分の想いを書いてみることにした。いろんな話が微妙に錯綜しそうなので目次をつくったら、次のような感じになった。

 1.「頭がいい」とは
 2.国政をつくるのはだれか
 3.私とわが家は変わってるらしい
 4.実際の大学生活のこと

 まずは、1について。

 大学改革のことを考えていると、「官僚にしろ大学関係者にしろ“頭がいい”人の集団なのに、なぜこういうことになるのか?」という疑問がわくことについてはすでに触れたけれど、考えてみればあのとき、大学改革に関してその「上位」にあたるかもしれない役職は含ませなかった。国会議員とか大臣とか首相とか。

 「頭がいい」というのもずいぶんざっくりした言い方なので、自分はどういう人を「頭がいい」と感じるかを思い浮かべながら形容すると、「短時間で情報処理ができて、多角的な思考・判断ができて、的確にアウトプットできる人」となる。

 これまで私は、日本という国の政治をつかさどる人たちが折に触れ「頭がわるく」見えてしまう場合があるのは、私利私欲に走るあまりに結果的にそうなるのだろうと思っていた。しかし、新型コロナ対応のことで、「わるく見える」のではなくて「もしかするとほんとうにわるいのかもしれない」と思うにいたり、わりと絶望的な気持ちになったのだった。私利私欲に走られるのも困るが、しようとしないのではなく、できないという無力感もけっこうなものだ。

 なので、佐藤学さんの本を読んだりオードリー・タンさんに関する本を読んだりすることで、気持ちを明るくしていた。>「区切り」の活かし方/国家より小さく、国家の外へ

 ところが、大学改革の本を読んでいると、そうはいっても国家に属している以上、国政と国民の生活は切り離せないという現実にひきもどされる。

 そこで「2 国政をつくるのはだれか」について。

 1で書いたように、「頭がいい人の集団なのになぜ?」の対象は、官僚や大学関係者を指して書いたことだが、これらの人々はたとえ「頭がいい」としても、何かやだれかの「代表」ではない。数々の試験をクリアしてある種の選出を経たとしても、多くの人から何かを託されて「選ばれた」立場ではない。

 というわけで、選挙なのだ。

 が、あの選挙結果なのだ(2021年衆議院議員選挙)。

 まずは投票率の低さに驚いた。Twitterの雰囲気から高そうだという感触を得ていたにも関わらず。そのなかにあって、18歳の投票率が50%をこえているのは注目に値すると思う(19歳になるとがくんとさがるのには、いろいろ理由があるだろう)。地域差があるということも頭に入れておきたい。

 そして、先日ツイートしたように、どうやら若者の自民党支持率が高いという調査結果があるらしい。昔ながらの意味合いでの自民党支持者をイメージしていたのだけれど(もちろん、そういう人たちもいるかもしれないが)、それだけではなさそう。

 ちなみに、上記ツイートの直前で、藤崎剛人さんの文藝春秋digitalの記事をリツイートしている。タイトルはライフハック、やりがい搾取、個人主義…“NewsPicks系”な人々の「不自由な思考」というもの。そこには新自由主義という言葉がある。

 自民党を支持する若者の気持ちがわからないでもないだけに、大学改革とは別の意味で気持ちがしずんだのだが、それを50代の私が手放しで嘆くわけにはいかない。50代の私は、まず、謝らなくてはならない。内田樹編『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』のように。

 ただ、救いは身近なところにあった。はじめての衆院選を経験する娘が、選挙制度について自分でネットで調べていたこと。

 ちなみにどんな選挙でも(といっても娘が投票したのはまだ数回だが)、お互い誰に投票したかは投票前も投票後も言わない。選挙の種類によっては投票後のおしゃべりでだいたいわかってしまうこともあって、そのときには、自分とは別の人に投票したらしいことがわかって、逆にほっとしたりもする。

 というわけで、「3.私とわが家は変わっているらしい」ということについて。

 実は、まったく別のことで、今年は「自分とわが家は普通じゃないらしい」ということを自覚した年になった。ちなみに、だれかから何かを責められたわけでもなく、ほめられたわけでもない。

 別に変わっていたくもないし、変わっていることが嫌でもないけれど、自分が思っている以上に普通ではなかったらしいということを自覚したうえで、「変わっている」私は、たぶんそれとは別の意味で「変わっている」娘に、相当、影響を与えてきたことについては、ある程度認識しておいたほうがよさそうだと思ったしだい。

 影響を与えてきたといえば、このブログでは過去に算数教育についてずいぶん書いてきたのだが、書いたことそれ自体はいいとしても、私の意識が娘に対して予想以上に影響を与えていたらしく、学校文化とのはざまで娘はしんどかったらしい。申し訳ないことをしたと思う。

 いまも同じことをしているわけだけれど、なにしろ年齢が違う。

 選挙の話でいえば、何をどうしても思想的に多大な影響は与えてしまっているだろうけれど、「だれに投票するか」ではなく、まずは投票することと、どう投票するかについて、わるくない影響を与えていたのだったらいいな、と思っている。

 で、最後に「4.実際の大学生活のこと」について。

 先ほども書いたように、このブログや、かつて開設していた子育てブログにおいて、娘の小学校の授業の様子を、折に触れけっこう詳しく書いてきた。

 いまふりかえると、強迫持ちの私がよくあれだけ書いてきたなぁと思う。たとえ学校名を出さないとしても。いまなら書けない。

 そんな娘も大学生になり、同時期にパンデミックが本格化して、入学してから1年間は、キャンパスに足を踏み入れたのは2〜3回だった(いまはもう、対面授業の比率があがっている)。

 という状況にあって、広くはない部屋でほぼひきこもり生活をしている学生のハハとしての私は、期せずして“超もぐり生活”を送ることになっていたわけなのだ。

 中学校や高校と比べればもちろんのこと、あんなに足しげく学校公開に通った小学校よりも授業の様子がよくわかるという、とても不思議な状況だった。もちろん、オンラインなのでふだんの授業の様子とは異なるわけだが、参観日や学校公開とは違って保護者が目の前にいない授業でもあるわけであり。

 というわけでいろいろ観察できて面白かったのだけれど、仕方がないとはいえ学費を払っていないハハの「もぐり」から得られたことを公に書くのは憚られるし、それ以前に、小学校とは違って大学の特性を書かないとほぼ意味をなさない情報であるため、具体的には何も書くことができない。

 大学改革の影響があるかどうかもわからない。なにしろ私が通った大学とは、時代のみならず場所・特性・学部がまるで違っているので(つまりは大学ということ以外共通点がないので)、比べようがないのだ。ただ、シラバスやアクティブ・ラーニング、FDその他について、少し思うことはある。

 そういえば、『反「大学改革」論 若手からの問題提起』(2017年)の「はじめに」で、次のようなくだりがあった。
「僕たちはもうすぐ定年だからまだいいけど、君たちは本当に大変だよ」。上の世代から、そんな声をかけられることも少なくない。しかし、たしかにそのとおりなのである。大学はいま、その理念や存在意義そのものが根本的な問いなおしを迫られている。

 実際そうなのだろうけれど、娘の大学生活からは、別の印象を得ている。

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可逆性と「同型」

 オードリー・タンさんのインタビューで「同型」の話が少し出てきていたので、久しぶりに西郷甲矢人・田口茂『〈現実〉とは何か』をのぞいている。

 気になりつつもそのままになっていた「可逆性」のことについて、この機会に考えることにした。なお、『〈現実〉とは何か』で出てくる「可逆性」についてはあとで考えることにして、まずは別の可逆性のこと、もっといえば、不可逆性のことを考えたい。

 内田樹 編『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』所収、斎藤幸平「ポストコロナにやってくるのは気候危機」にて、「気候変動は不可逆的で、元の状態に戻す治療薬は存在しない」と書いてあるところがある。

 ここでいう「不可逆」は、書いてある通り「元の状態に戻せない」ということであり、物理的・化学的にもどせないと言ってもいいのかもしれない。

 新型コロナ・パンデミックがおさまったあと、厳密にいえばどんなことも元には戻らないのだけれど、それを言えばパンデミックが起こっていなかったとしてもなんらかの変化は起こるわけであり、何事もすべては元に戻らない。

 しかし、何か変化が起こったあと、「ほぼ元に戻ったように見えること」と「はっきりと目に見えて元に戻らないこと」があるのではなかろうか。

 たとえば、いま現在マスクを買うことに苦労はしないし、トイレットペーパーを買うのに苦労することもない。店頭にマスクやトイレットペーパーがあるという状況は、「ほぼ元に戻った」。なんだったら“ほぼ”をとってもいいかもしれない。

 ただし、マスクを買うのに苦労しなくなっても、手作り布マスクを使い続ける人がいて、当時は「しかたなく」だったのが、今は意志をもってそうしているかもしれない。その場合、店頭の状況は元に戻っても、生活は少し変化している。

 また、一時使っていた手作り布マスクをもう使わなくなった人にとっては、生活は「元に戻った」かもしれないが、「あのときマスクが買えなくて苦労した」という記憶は残る。「いざとなったら手作りできる」という経験も。そういう意味ではやはり、完全に元に戻ることはない。

 そのレベルで考えるのであれば、変化はすべて不可逆的だと言うしかなくなる。問題は、どの程度戻れば「戻った」としていいのか。あるいは、どの程度戻れば「以前と同じと考えてよいのか」ということだろう。そうでなければ「同じである」ものが何もなくなってしまうし、「戻る」という言葉の意味がなくなってしまう。

 たとえば、何かに2をたしたあと2をひけば、とりあえず元に戻せる。何かに5をかけたあと5でわれば、とりあえず5をかけたことをなかったことにできる。操作をした事実はなくならないけれど、数の大きさとしては「元に戻せる」。

 あるいは、サイコロの「1」の面が上になっている状態から右に倒して「3」の面が上になったとき、左に倒せばまた「1」になる。これも「元に戻せる」。

 その場合、最初にやったのと“ちょうど逆”の操作をしなくてはならない。2をたしたあと3をひいたり、5をかけたあと4でわったりしたら元に戻せないし、サイコロを右に倒したあと手前に倒すと、元には戻らない。

 もっといえば、サイコロを右に倒して左に倒したときに、元の目が出ないのであれば、なんだかおかしな状況になっているということになる。

 『〈現実〉とは何か』では、このあたりの話から徐々に入っていき、現象学と圏論のつながりについて述べられている(上記の書き方は、私の理解による私の表現だけれど)。

 圏論は「矢印」を中心にした理論だが、考えてみれば「矢印」には向きがあり、なるほど確かにある意味で不可逆性の象徴だと言える。そして、A→B であり、A←B でもあるとき、つまり「→」と「←」を上下に並べた記号をAとBの間においてもよいような関係を、「A=B」の特殊例と考える。
……、「同型」という考えは数学のなかに古来からある発想ともいえるが、あらゆる分野を横断するかたちで、これを「不可逆性を通じて現われる可逆性」として定式化したのが圏論なのである。
(第三章「現われること」の理論―現象学と圏論 「可逆性としての同型」より)


[関連記事]「何もしない」をシステムのなかに取り込んでおく
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オードリー・タンと「同型」「準同型」など

 オードリー・タンさんのインタビュー映像をいくつか観ているうちに、次の動画に出会った。

TBS NEWS「台湾'天才'大臣 オードリー・タン直撃、「日本の若者へ」 【あさチャン!】」
https://www.youtube.com/watch?v=AkBBKkRDULc

 テレビにおけるきわめて一般向けのインタビューだと思うのだが、開始2分48秒秒後くらいで「同型」「準同型」という字幕が出てきてびっくりした。実際、isomorphism、homomorphismという単語が聞こえる。

 「これは大事な言葉です」「数学では違って見えるものでも構造は基本的に同じであるということを意味します」とオードリー・タンさんは説明している(そういう字幕が出る)。その考え方に魅了されて数学者になることが夢になったのだそう。

 この答えを、「当時はどんな夢をもってらっしゃったんですか?」という質問に対して返しているところがなんだかすごい。「数学者になりたかったのです」で終わらせずに。ちなみに「当時」というのは、おおよそ小学生時代あたりととらえていいのではないかと思う。

 オードリー・タンさんが中学校をやめたときのことについては、『オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る』にも書いてあるが、上記の動画ではもう少しだけ突っ込んだ話を聞くことができた。

 コーネル大学が管理するarXivで査読前論文を読んでいたのだとか。そこで数理言語学やAIについて学んでいたのだそう。なお、AIのことを近頃はアシスティブ・インテリジェンスと呼ぶようにしているとのこと。

 本来であれば artificial intelligence となるところを、assistive intelligence、つまり「手助けする知能」と呼ぶようにしているということなのだろう。実際、どちらの単語も聞こえる。

 数理言語学ってなんだろう?と思って単語を聞き取ろうとしたら、computational linguistics という言葉が聞こえた。計算言語学というものだろうか?

 それ以外にも、締めくくり近くで印象的な2つの話があった。ひとつは、開始29分後くらいからの「自分自身が台湾総統になってもっと世界をよくしたい、そんな思いはありませんか?」という質問に対する答え。
 台湾のトップに立つためには4000メートルの山を登る必要があり、わざわざそこまで足を運ぶ必要はなくVRで見ることができるので、ヘッドセットさえつければ台湾のトップである山頂に立つ体験ができますが、これらの山や海にある精霊はどんな人類の世代よりも永く存在し、我々はこのような自然の精霊に仕える存在でしかありません。
 字幕をほぼそのままうつしているので、実際にどんなニュアンスで話されているのかはわからないが(英語表記もうまくいかなかった)、まず思ったのは台湾の「玉山」のことだった。実際、標高3,952mで「4000メートルの台湾のトップ」だと言える。どこかでこの山の話題に接触した記憶があるのだけれど、どこだったか忘れてしまった。

 後半部分の字面にダイレクトに反応すると、やはりアニミズム的発想を感じる。そういう話ではないとしても。

 アナウンサーの質問がどう訳されたのか気になるけれど、もちろん、質問者の意図を理解しての回答なのだとは思う。取りようによっては痛烈な皮肉にも解釈できるなぁなんて思ってしまうのは私が日本の中にいるからかもしれない。

 もちろん、本を読む限り、現在の総統である蔡英文氏に対して、上記の言葉が皮肉となるような感情は感じられない。

 なお、オードリー・タンさんのお父さんは、李登輝氏のライバルだった陳履安氏のスポークスマンだったとのこと。なので、陳履安氏の視点から李登輝氏を見ていたことになるそう。そのあたりのことも比較的詳しく本に書いてある。

 おそらく、「台湾のトップに立つつもりはない」ということを、卒なくかわした結果のアニミズム的返答(?)だったのだろう。

 そしてもうひとつ。「これまでにご両親から言われた大切な言葉、教えがあれば教えてください」ということに対する答えも興味深かった。30分9秒後くらいから。
 父は私に、彼を含めて誰から言われようとも「信条やドグマを受け入れてはならない」と言われ、「全てのことに対してクリエイティブに疑問を抱くこと」、そして私が自分の意見が正しいと確信していても、「それは特定の条件下でのみ正しい」と教えてくれました。従ってそこで一番学ぶべきは「ひとりで偽りのない真実を持つことはできない」、真実はみんなでピースをはめていきながら見つけていく必要があります。
 なるほど。

 なお、『オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る』によると、父親からクリティカルシンキングを、母親からクリエイティブシンキングを学んだということのよう。おふたりとも『中国時報』という台湾の新聞社で働いていたこともあり、知的かつ進歩的なところがある方だったらしい。
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