TETRA’s MATH

Python「if文のネスト」、“二十の扉”風に果物をあてる

 『スッキリわかるPython入門 (スッキリシリーズ)』を参考にして、Python入門を試みている。

 基礎を扱ったI部の内容のなかで、「ここは自分でやってみたほうがいいかもな」と思ったのが、「if文のネスト」なるもの。考え方が難しいというよりも、これまでより少し行数が多くなって構造が出てくるので、そういう意味での難しさがあるように感じた。

 「if文」というのは、「もし〇〇〇だったらこうしてね」という条件をもとに分岐させるものだけど、「ネスト」というのはいわゆる入れ子のことであるらしく、つまりif文のなかにif文があるということらしい。「ネスト」自体は、これよりも前のコレクションのところで出てくる。

 「if文のネスト」の例として、「晩ご飯をレコメンドするチャットボット」のプログラムが示されている。

 最初は、YES・NOチャートみたいだなと思ったのだけれど、あれは途中で合流することもあるから違うかなぁと考えていたら、昔懐かし「二十の扉」ゲームのことを思い出した。ちょっと調べたところ、もともとはラジオのクイズ番組だったらしい。私が生まれる前に放送は終了しているので、ゲームとして残ったものをやっていたのだろう。

 「二十の扉」というのは、決められたカテゴリーの中から何か答えを決めて、20以内の問いからそれがなんなのかをあてるゲーム。

 「if文のネスト」を使って「二十の扉」風の遊びができないかな、と考えてみた。果物あたりをカテゴリーにして。選択肢の中から選ぶ方式だったらプログラムにできるかな?と最初は思ったのだけれど、それじゃ面白くないので、自分がすぐに思いつく果物だったらあてられるようなものをなんとかがんばって作ることにした。20個の質問は多すぎるので、それよりは少ない数で。(※末尾に表示してあります)

 この時点で elif の存在は知っていたのだけれど、「果物あて」で使えるのかどうか、どう使っていいのかがわからなかったので、if と else の組み合わせだけで進めていった。

 候補の果物を紙に書き出して、共通点と相違点を考えながら「うーん、うーん」とうなりつつ、「いま私はプログラミングの勉強をしているのだろうか??」という素朴な疑問が浮かぶことは浮かんだけれど、まあ、楽しかったのでよしとする。

 とにかく愚直に組み立てるだけだったので、プログラムを作ること自体は難しくなかった。

 予定外の答えへの対応も考えて、ウキウキしながら娘にやってみてもらった。「マニアックな答えでも大丈夫だよ!」と余裕を見せつつ。

 が。

 娘が用意した答えはといえば。

 「ドラゴンフル―ツ」

 そうなると、

  外から見て赤いですか? Y
  → 切らずに一口で食べられますか? N
  → りんごですね!

という、あの労力はなんだったのだという最短コースを経て、しかも「あてられない」という事態がいきなり発生。

 そういえば、候補に入れていなかったマンゴーだってあてはまる。「外から見てすべすべしていますか?」を加えてドラゴンフルーツをふるいにかけても、りんごとマンゴーの区別化はできない。

 嗚呼。

 世の中にはなんとたくさんの果物の種類があることよ……

 もっといろんな果物に対応できるプログラムにしたいという気持ちがないこともないけれど、いや、その気持ちはやっぱりないので、ドラゴンフルーツとマンゴーだけ加えて、それで満足することにした。

 どんな質問をどんな順序ですれば、もっとすっきりしたプログラムになるかを考えることにはそれなりに意味があるかもしれないが、そのためにはプログラムの前に果物の研究が必要になりそうなので、今回は見送ることにする。

 では、〔果物あて〕のプログラムを表示します。「バナナ vs ぶどう、みかん」を分ける質問が少し微妙です。あと、半角スペース4つ分を全角スペース2つ分に変えてあります。

(※ ifとelse で分岐させると、「Y」以外で入力したり、ただエンターキーを押しても先に進んでしまうことに途中で気づいた。そこはどうするんだろう?という疑問はわいたけれども、とりあえず保留の課題とした)

〔果物あて〕
print('果物をひとつ思い浮かべて、これから出す質問にYかNで答えてください。その果物をあててみせます!')
soto_aka = input('外から見て赤いですか?')
if soto_aka == 'Y':
  hitokuchi = input('切らずに一口で食べられますか?')
  if hitokuchi == 'Y':
    kandume = input('その果物の缶詰はありますか?')
    if kandume == 'Y':
      print('さくらんぼですね!')
    else:
      print('いちごですね!')
  else:
    subesube = input('皮の表面がすべすべしていますか?')
    if subesube == 'Y':
      tane = input('種が大きいですか?')
      if tane == 'Y':
        print('マンゴーですね!')
      else:
        print('りんごですね!')
    else:
    print('ドラゴンフルーツですね!')
else:
  kawa = input('手で簡単に皮が剥けますか?')
  if kawa == 'Y':
    sanmi = input('酸味がほとんどありませんか?')
    if sanmi == 'Y':
      print('バナナですね!')
    else:
      kandume = input('その果物の缶詰はありますか?')
      if kandume == 'Y':
        print('みかんですね!')
      else:
        print('ぶどうですね!')
  else:
    kandume = input('その果物の缶詰はありますか?')
    if kandume == 'Y':
      kanji = input('漢字1字で書けますか?')
      if kanji == 'Y':
        print('桃ですね!')
      else:
        print('パイナップルですね!')
    else:
      iro = input('皮と切り口の色がほぼ同じですか?')
      if iro == 'Y':
        print('柿ですね!')
      else:
        kisetsu = input('季節感がありますか?')
        if kisetsu == 'Y':
          print('すいかですね!')
        else:
          kiwi = input('キウイフルーツかな?')
          if kiwi == 'Y':
            print('あたってよかったです!')
          else:
            kotae = input('降参です、答えを教えてください。')

            print(f'{kotae}でしたか!それは思いつきませんでした。')


 そういえば、選択肢にメロンも入れていなかった。
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Python基礎の勉強、「できる・できない」

 『スッキリわかるPython入門 (スッキリシリーズ)』を読みながら、少しずつPythonに慣れていこうとしているきょうこのごろ。

 このテキストは、導入部分のあと二部構成になっており、I部で基礎を学んで、II部はPythonの部品を組み立てる練習になっている。

 基礎では、変数とデータ型、コレクション、条件分岐、繰り返しが扱われていて、超初心者本よりはだいぶ難しいけれど、それでも基本的な雰囲気は、超初心者本の延長上にあると感じられる。

 なんというのか、「まだできない」けど「わかる」感じというか。できるようになりたいのなら、ある程度の努力をすればできるようになるだろうと思えるというか。この感覚は久しぶりだなぁと思った。たとえば圏論の勉強では、こういう感覚はない。何しろ、「できる・できない」が判定されるような作業をしていなかったので。

 さらに、プログラミングの練習では、「できる・できない」がすぐにはっきりするのでありがたい。そして、「できない」ときにもエラーが親切に教えてくれる。

 過去のファイルを保存しているので、エラーをひとつ取り出してみる。(この記事を投稿をする前に確認しようとしたら、もうなかった。ちゃんと保存していなかったので、一時的に保存されていたのだろうか?)

 なお、「=」や「+」の前後をあけたほうがいいということについて、本のどこかに書いてあるのかもしれないし、実際、本のなかのプログラムはそうなっているのだけれど、私は別のところで知って、以下の時点ではまだそのことに気づいていなかったので、そのまま示すことにする。また、半角スペース4つ分を全角スペース2つ分に変えている。
name=input('あなたの名前を入れてください')
print('{}さん、こんにちは!'.foamrt(name))
food=inport('{}さんの好きな食べ物を入れてください')
if food=='チーズケーキ':
  print('私も{}が好きですよ!'.format(food))
else:
  print('{}がお好きなのですね!.format(food)')
 まずは、2行目が違うよ、'str' object has no attribute 'foamrt'だよという内容のことをエラーが教えてくれた。よく見れば format が foamrt になってしまっている。

 なるほどと思って修正すると、やっぱりエラーで今度は3行め。input が inport になってしまっている。ここを修正してもへんな表示になるのは、format で {} に入れるものを指定していないから。

 やれやれと思って修正すると、まだミスがある。最後の「‘」の位置が違う。これを修正すると、うまく出力されるようになった。

 ちなみにこの「if文」は第3章で出てくるので、基礎編のだいぶ先なのだけれど、日付から察するに、はじめの“ざっと読み”の途中で面白そうだと思って自分でやってみたのかもしれない。

 こういうミスをするうちにやることでもないのかもしれないが、面白そうと思えるところからやって、ついでにその前の基本的なところを確認するというのもわるくないかもしれない。

 というわけで、少なくともI部については、エラーが出ても、なんとか自分で解決しながら読み進めることができている。

 ただ、あいかわらすべてはやっていないし、ひとりで全部はできないのだった。
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Python勉強スタート、言われた通りにやるということ

 超初心者が初心者になるためのPython入門本の最初の1冊だけを端折り読みして「勉強スタート」とするのもおこがましい気がしたので、前回は事始めとして、こちらを第一歩とすることにした。

 購入したのは次のテキスト。

 『スッキリわかるPython入門 (スッキリシリーズ)』

 レビューから察するに、Pythonを使ってプログラミング入門を果たそうとする私向きであると判断して選んだ。

 ところが。

 超初心者のまま第一歩を踏み出そうとして、さっそく「えー」となる。新たな何かをインストールしなければいけないもよう。

 Anaconda? JupyterLab? なんでしょうかそれは。

 そういえば前回は、それがなんなのかよくわからないままIDLEというものを使ったのだった。そもそもこのIDLEというのはなんだったのだ?と思って、確かこの段階でIDLEを検索したのだったと思う。少しわかったような、やっぱりわからないような。

 よくわからないまま、とりあえず Anaconda も JupyterLabも 言われる通りにやってみた。なお、このスッキリシリーズのサイトには「インストール手順集」というものがあり、大変わかりやすい。

 Haskell関係ないかしら?と思ってさがしたけれどなかった。本も出ていないらしい。Haskellはスッキリわかることはないのだろうか? というか、需要がそれほどないのかな?

 何をやればいいかはわかったのだけれど、Anacondaのインストールがあともうほんの少しというところで止まってしまって、キャンセルすることもできない事態となり、どうしたものかと対応策を検索しようとしていたら、無事に終了して、JupyterLabも起動することができた。よかったよかった。

 前の本でもそうだったけれど、出てくる単語の意味がよくわからなくても、とりあえず書かれてあることを素直に実行すればその通りになるのだな、と何かにつけ思うことであった。

 というわけで、無事に環境を用意することができて、第一章を進めていった。前回と違って文字列の加工ではなく計算から始まるけれども、第一章の全体的な雰囲気というか難易度としては、超初心者本の(1)とだいたい同じか、ほんの少しだけ上だという感じがした。

 どこがほんの少し上かというと、input や format が出てくるところ。

 何しろ動機が動機なので(Python習得が目的ではないので)、すべてを真面目にやることはせず、前回同様、何かしたいときに何をすればいいかを確認して言われた通りにやればよさそうだな、という感触を持ちながらとりあえずページをめくっていった。

 途中でフローチャートが出てきて、おお、なんとなくプログラミングっぽくなってきたぞと思いながら。

 ところが。

 条件分岐の前のinputの練習をしようとしていたら、どうにもうまくいかない。言われたことを言われた通りにしようとしているはずなのに、なんだかんだエラーが出る。

 言われた通りにやってもできないという事態を初体験。

 しかし、「またあとで落ち着いてやってみよう」と思っていったん作業を終了し、時間をおいたらすんなりできた。もしかすると自分のパソコンの問題だったのかもしれない。

 そのあとも「ふむふむ」と思いつつページをめくっていったのだが、なんというのか「何かをやりたいときに、それができる方法を見つけて、言われた通りにやればいいのだな」と「思う」ことと、実際にできるかどうかは別問題だな、と感じるようになった。

 そもそも「言われた通りにやる」というのは、ほんの最初の一歩だけの話、丸写しするかほんの少しだけアレンジすればいい段階の話なので、結局のところ何をどう組み合わせるかを自分で考えて自分で実践できないうちは、やっているとは言えないと思うようになった。いまさらといえばいまさらだし、ある意味では一歩成長したとも言える。

 というわけで、かなりざっくりひととおり眺めたあと、また前にもどって、今度は1回めよりは少し丁寧に読み進めている。
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Python勉強、事始め

 以下のようなプロセスを経て、Pythonを勉強することになった。

=====================

圏論をもっと感じたい
→ Haskellはどんなものかのぞいてみたい
→ Haskell入門本がプログラミング経験を前提としている
 (特に命令型というものらしいが意味はさっぱりわからず)
→ その候補のなかでやってみてもいいかなと思えたのがPythonだった

=====================

 まず参考にさせていただいたのは、次のKindle本。

 『プログラミング超初心者が初心者になるためのPython入門(1)
  セットアップ・文字列・数値編』 たっく、ちょっぷ (著)


 安いうえにアプローチがすばらしい。そうだ、まずは初心者になリたい。

 プログラミングに手が出せなかったのは、その環境を入手する方法からしてさっぱりわからなかったからだ。もちろん検索すれば教えもらえるのだけれど、例によって自分の心配性と強迫観念が持ち上がってしまう。

 さすがに、書店に走るとか電気屋さんに走るとかはしなかったし、Amazonで「プログラミング言語売ってないかなー」とさがすこともなかったが(たぶん)、「へんなところからへんなものをもってきて、大変なことにならないか?」とか、「ちゃんとしたらところから、すごくちゃんとしたものをもってきて、えらいことにならないか?」という不安がぬぐえず第一歩が踏み出せずにいた。

 Haskellに関しては、心配性と強迫とは別問題で、この部分でつまずいた(つまりやろうとしたことはある)。Pythonにほんの少し慣れてきたころ、Haskellもいけるんじゃね?というおおいなる勘違いのもと、1冊買った入門本の最初の一歩を参考にやろうとしたのだが、何をどこからどうダウンロードすればいいのかさっぱりわからない。というか、しようとしても先に進めない。

 その点、Pythonは勇気さえ出せば、最初の一歩はスムーズに踏み出せた。それもこれも上記の本がとても親切だからだと思う。

 まずはIDLEなるものを使ってみる。IDLEの名の由来がモンティ・パイソンの一員だということはわかったが、IDLEなるものがなんなのかはさっぱりわからないまま、始めてみた。

 ところが。

 さっそくつまずく。「print」の段階で。つまり超最初の段階でうまくいかない。しばらくあれこれ試してみたが解決しないので、あわてずさわがずあきらめず検索してみたところ、()でくくらなくてはいけないことがわかった。くくってみたらうまくいった。

 その後はまあまあ好調で、本の通りにしばらくまじめにやっていった。ときどき「ん?」となるところはあったけれど、「何かをするためには何かをすればよく、その“何”が変わっていくのだな」ということがわかってきた。

 文字列を加工したり、変数を使って同じようなことをやったり、変数に変数を入れたり。

 そんなこんなで慣れてきて端折るようになっていったのだけれど、typeのところはやっておいたほうがいいと思ったのでやってみた。データ型が整数であることの出力を見たくて

x=99
print(type(x))

を入力画面に入れたら、「class」として出てくる。あれ? typeではないの?

(※ 上記の話を書くために〈〉に入れた状態で出力の文字を書いたら表示されず、あ、そうか、いま使っているブログのエディターではそれはタグになってしまうのだということをいまさらのように認識した。)

 ここもあわてずさわがずネットで検索してみたところ、classと出力されてよいらしいとわかった。今参考にしている本は2015年発行なのだが、printの()のこともそうだけど、どこかの段階でPythonの仕様(という言い方でいいのかな?)が変わったのだろうか。

 練習問題で、10.0の型を確認しましょう的なことが書いてあったので、おお、この場合はどうなるのだろうと思いつつやってみて、なるほどと思った(ちなみにこの少しあとのページでその答えが出てくる)。

 そのあとは、ごく簡単な計算。ここも大丈夫そう。

 なんとなく雰囲気はわかってきた。たとえば、テキストを見てはいけない理解度テストを出されたとしても点数はとれないが、つまり覚えてはいないが、テキストを見てもいいのなら、何かをするときにテキストで確認して、言われたことを言われた通りにやればいいのだな、ということはわかってきた。

 というわけで、全部はやっていないけれど十分にもとはとったし、これ以上勉強するのであればもう少し新しい本を参考にしたほうがいいような気がしたので、ひとまず先に進むことにした。

 なお、今回、参考にさせていただいた初心者になるシリーズ本は続いており、まだ(1)しかやっていないので、いまだ超初心者のままではある。
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プログラミングに接触しなかった過去をふりかえる

 プログラミングのことは気になることは気になっていた。勉強したいというより、どういうものかをある程度わかっておいたほうがいいのではないか、わかっていないといけないのではないかという、ある種うっすらとした強迫観念で気になっていた。

 しかし、少しのぞいてみたくてもどこから何を始めていいのかさっぱりわからない。入門本はあれこれありそうだけれど、何をどう選べばいいかわからないし、惹かれる本が見つからない。

 たとえば、ゲームというものにとんと興味がないので、「ゲームを作ろう!」的なアプローチの入門本には意欲がわかない。

 毎日こんなに麻雀ゲームをやっておきながらなんだけど、麻雀ゲームは麻雀というものをすでにある程度知っていて、ゲームでひとりでも気軽にやれるのでやっているわけであって、パソコンでやるゲームそのものが好きというわけではないのだ。

 それから、ブログをこんなに長くやっておきながらなんだけど、サイト構築やWebデザインというものにもとんと興味がない。必要にせまられてHTMLやCSSをほんの少しいじることはあるけれど、それ以上のことを知りたいという希望がない。あとで話題に出てくるJavaにも興味がわかない。

 一方で、「Excelでマクロを組めばいいのではないか」という話もあるが、これまた興味がない。

 つまり、プログラミング、あるいはそれっぽいことでやってみたいことがないから、なかなか始められない、ということがひとつにはあったと思う。

 ならばやらなくてもいいんじゃないか?

 というわけで、やっていなかった。

 が。

 先日までの圏論の勉強でモナドをのぞいたりHaskellの話を読んだりすると、やっぱりやってみたくなる。

 プログラミングができるようになりたいというよりも、プログラミングのことを少しでも知っていれば、もっとわかること、感じられることがあるようになるのではないか、という期待のもとに。

 というか、ぶっちゃけ、Haskellだけに興味がある。

 恐れずに付け加えれば、C言語なるものにも昔は少し興味があった。なぜかは自分でもわからないのだけれど、もしかすると他のことよりもイメージがわかないからかもしれないし、逆に、プログラミングっぽいというイメージを勝手に抱いているのかもしれない。しかし、少し調べてみたところ、私なんぞが手を出せるものではないということを感じたので近づかずにいる。

 で、Haskellについてなのだけれど、入門本を買おうとしても、ある程度のプログラミング経験を前提としていることが多いように思う。はなっからの素人向けのHaskell本を見つけられていない。そもそも、はなっからの未経験者にHaskellは無理なのだろうか?

 と言いつつ白状すると、実はHaskell入門本を1冊買ってしまっている。命令型プログラミング言語(C ++ やJava、Pythonなど)でのプログラミング経験者を対象として書かれてある本。ただし、大げさなプログラミングの経験がなくてもこの本をとったあなたならきっと大丈夫的なことも書いてくれている。

 C++は、さっき書いたC言語の仲間だと認識しているので手を出さない。先ほど書いたようにJavaにも興味がわかない。

 そうなるとPythonということになる。

 「思い返せばそういう流れだった気がする」という記憶で書いているのだけれど、Pythonはその名は知っていたように思う。ただし、心のなかで「フォトン」と呼んでいた。いまも気をしっかりしておかないとそう呼んでしまう。フォトンってなんだったっけ?と思いきや、光子のことだった。

 ちなみにHaskellは、心のなかでずっと「ハスクル」と呼んでいた。たぶん、10年以上そう呼んでいたと思う。

 ついでに言えば、TeXが出たばかりのころは「テックス」と呼んでいた。その話を友人たちとクヌース先生来日の話題といっしょにおしゃべりした記憶があり、あれはいつだったのだろうかと調べてみたら京都賞受賞が1996年だったから、つまりはそれよリ少しあとの話だったのだと思う。

 ちなみに、TeXも勉強しようとしたことがない。

 LaTeXもない。

 なんにもない。

 なお、どれがプログラム言語でどれが違うのかよくわかっていないまま、私のなかでの「プログラミングっぽいもの」というカテゴリーの中に入っている固有名詞を出している。

 プログラミング言語にしろ、その他のことにしろ、中身を知らないのに、興味を持ったり持たなかったりするのはなぜなんだろう?と自分でも不思議に思うのだが、中身を知らなくても接触はあるわけで、その間になんらかのイメージがついてしまっているのかもしれない。

 そういえば思い出したのだけれど、20年くらい前だったか、ちょっと趣味的用事があって、きわめて基本的なプログラムと接触した覚えがある。あれはなんだったのか記憶をたどってみたところ、N88-BASICという名称が浮きあがってきた。やりたいことがあったので(手作業だと大変な作図作業だったので)ちょっとだけ接触したのだった。

 そんなこんなで、気になりつつも、ずっと接触せずにいたプログラミング。なんだかんだで、なかば消去法でPythonに落ち着き、ゆるゆると勉強を始めている。
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『感じて、ゆるす仏教』(藤田一照・魚川祐司)と出会うタイミング

 8月半ばに『感じて、ゆるす仏教』(藤田一照・魚川祐司)のKindle版を購入し、比較的ゆっくりめに読んでいた。対談本だということもあり、基本は前から順番に。

 前半の雰囲気から「ああ、こんな感じの本なんだな」と自分で勝手にイメージをつくり、おだやかな気持ちで読み進めていた。「いいお話を聞かせてもらったな」というような感じで読み終わるんだろうな、なんてことも思っていたかもしれない。

 ところが。中盤をすぎたあたりから、少し様子が変わってくる。まず、藤田一照さんと独立研究者の森田真生さんのトークの話が出てきた。

 え! そんなことになっていたの!? 知らなかった。

 ドキッとはしたけれど、「そういうことってあるよね」と平静をよそおいつつ、不要に動揺しないようにしながら先へと読み進めていった。

 ちなみにシンクロニシティとは別に、こういうことも以前はよく起こっていた。あえて名付けるなら「なんでもつながっちゃう」感。こちらはシンクロとは違ってそれなりの因果性があるというか、ある意味で自分の興味のもとにつながっているのだろうし、その範囲が限られているということの証だとも言える。とにかく、自分の興味のもとで本や情報を選んでいるのだから、あたりまえの展開といえばあたりまえかもしれない。たとえジャンルが違っていても。

 とにかくその段階では、余計な興奮をしないよう努めた。一照さんは岡潔が大好きだという話が出たときも。

 が。

 森田さんの発言も岡潔の話も、思ったよりもウェイトが高いことがだんだんわかってきて、とうとう自分がごまかせなくなってきた。不覚。どうしてこれまで気づかなかったのだ。対談のことに、この本のことに、このつながりに。本の発行は2018年5月。本に出てくる対談は、ネットで調べたところ、時期的に2017年1月のものである可能性が高い。というか、その後もつながりの機会はあったようなのだ。

 対談に行きたかったのに行けなくて落ち込んだわけではない。長いことそれに気づかなかったことが不可解であり、何かの不調を表しているかのように感じたのだ(その後、記録や記憶をたどってみて、少なくとも対談のころは、外に気持ちを向ける余裕のない時期だったとわかり、ある程度納得した)。

 そんなこんなで、おだやかならぬ気持ちで後半を読むことになり、しかも話はそれで終わらなかった。後半で示されている図3にハッとしたから。確かにそうだ。気づいてしまえばあたりまえのこと。しかし、私はこれまで、その図をえがくことをしなかった。

 さらに終盤で、また別のことで考え込むことになる。『仏教思想のゼロポイント』を読んだときとは逆の方向で。180度ならいざしらず、107度くらいの微妙な角度で。

 前半のあのおだやかな読書の時間は別の本の話の話だったように、かすかにショックを帯びた重みのある初回の読後感となった。なお、「いい話」は確かに聞けたし「感じて、ゆるす」ことそれ自体がよい話だった。ただ、それだけでは終わらなかった、ということだ。

 その後は気持ちも落ち着いて、「この本と出会うタイミングは、いまだったんだろうな」と思っている。

*     *     *


 では、この下に、本からスキャンした図3を載せます。以上の話を聞いて興味をもたれた方は、先に本を読むことをおすすめします。

 図3はA、B、Cの3つで構成されています。




 『感じて、ゆるす仏教』
 (藤田一照・魚川祐司、2018年、KADOKAWA)
  Kindleの位置No.2943、第三章6節より




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一点から生まれる、一点に畳み込まれる

 先日、移りゆくことと多層性のイメージのことを書いたけれども、それとは別に、時々浮かぶイメージとして、「局所から生成される」というものがある。いわば、「一点から生まれる」ようなイメージ。少し前までは、ずっとメインのイメージだった。

 わかりやすくするためフラクタル図形を例にとると、内側へ入り込むようにスケールを変えていけば、結果的に内側から同じものが生まれてくるように見える、その感じに近い。

 生まれてくるのはフラクタル図形のように同じものではなくてもいいというか、同じものではないほうが自然だし、もっといえば、生まれるというよりは、その力、その「もと」のようなものが一点にあるという雰囲気といえばいいか。

 かつて内包量に興味をもったのも、田辺元に一時興味をもったのも、それからもしかすると内部観測に興味をもったのも、そのイメージと関連したことなのかもしれない。

 さらにそのイメージは、「見渡せない」ということともつながっている。

 振り返ってみれば、そこには「俯瞰する教育」に対する違和感も関係していた。ある程度の範囲を見渡せる位置にいる人が、あとあとのことを考えて(考えたつもりで)組み立てたプログラムや発想やそこに重きをおく姿勢で、見渡せない位置にいる人(子ども)が学ぶことの不自由さ、不自然さに対する違和感。

 また、自分の子どもの成長(特に身体的なもの)を感じるとき、「細胞分裂ってすごいなぁ」とよく思う。

 そんなふうに、「一点から生まれる」というイメージは自分にとってベースとなるものだったのだが、『トポスの知』といっても圏論ではなく箱庭療法で話題に出した老松克博『共時性の深層』において、それとは逆の表現に出会って、印象的だった。

 老松さんは、「発達系」「人格系」という分類をしており、発達系の特徴として「今ここ」に集中するということをあげている。なお、「発達系」「人格系」で人をきっぱり分けられるものではなく、人はみなそれぞれの配分で両方の特徴をもっているという、いわば特徴の分類だと思う。

 発達系は、行動が衝動的で、まとまりや一貫性が乏しいけれど、一芸に秀でた天才的な人物も多い、とのこと。極端であれば発達障害になる方向という意味での発達系と考えてよさそう。それに対して「人格系」は、極端であれば人格障害になる方向なのだけれど、ひとまず「普通の常識的な人」と考えてよいかと思う。

 老松さんは、共時性の発生の鍵を「今ここ」への集中に見ておられ、その「今ここ」のありかたには興味深いパラドックスが見られるとして次のように書いてある。

パラドックスとは、「今ここ」しかないがゆえに、過去も未来も、あちらもこちらも、こぞってその一点に流れ込んでくるということである。発達系には永遠と無辺を集めてしまう超越的な力がある、と言ってもよい。
(第四章 5節より)

共時的現象の生起するさまは、時空の痙攣発作にも譬えられる。「今ここ」 という一点に皺が寄るかのように永遠と無辺が集められて畳み込まれていく。そこでは、いっさいがっさいが一つのネットワークを成し、意味の網の目をかたちづくる。
(「おわりに」より)


 私の長年のイメージが「一点から生まれる」だとしたら、こちらは「一点に流れ込む、畳み込まれる」というイメージになる。

 共時性はユングが提唱した概念なので、この本には集合的無意識の話も出てきており、ユングがそれを根茎と譬えたことにも触れてある。竹藪の竹はそれぞれが別の個体であるかに見えるが、地中では相互につながっていて、竹藪全体が一つの個体だったりする、と。

私たち人類は、巨大なたった一つの集合的無意識から生い出て、複雑な網の目で相互につながっている存在かもしれない。
(第二章 2節より)


 根茎の網の目はいわば空間的なものだと感じるが、時間的なものについて「いっさいがっさいが一点に畳み込まれ、そこで意味の網の目をかたちづくる」という網の目の発想はこれまで自分になかったものなので、なるほどねぇと思ったのだった。
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『トポスの知』といっても圏論ではなく箱庭療法

 先日、シンクロニシティについての文章を書いているとき、「やはりユングが言うところのシンクロニシティをある程度知っておいたほうがいいな」と思えてきて、本を1冊購入した。

 訳本を買おうかどうしようか少し迷ったあと、Amazonのレビューなども参考にさせていただきつつ老松克博『共時性の深層』を選択。

 1回めにざっとページをめくってみたとき、なんだか少し怖い感じがした。「思っていたのと違う」というほど何かを思っていたわけではないのだけれど、「シンクロってこういうことなら、私は起こらなくていいかな」と思えるほどには重く感じた。

 ちなみに本のサブタイトルに「霊性」という言葉が入っていることは承知でこの本を購入したわけだが、そういう意味の怖さでもない(皆無ではないかもしれないが)。

 ここであげられているシンクロニシティの例は、わかりやすかったり典型的だったりするから出されているのかもしれず、「そんなことまで起こるの!?」と感じて、少し怖かったのかもしれない。

 なお、この本を手にする前から、ユングと物理学者のパウリに関係があったことは知っていた(本をさがす段階で)。パウリってどこかで聞いたなと思いきや、確か『決してマネしないでください。』に「パウリ効果」の話が出てきていた。

 「パウリ効果って面白いなぁ」くらいな感じで気楽にとらえていたけれど、老松さんの本に出てくるパウリのエピソードの“半端なさ”には圧倒されてしまった。

 あとは、アクティヴ・イマジネーションも、私にとってはちょっと刺激が強すぎた。アクティヴ・イマジネーションというのは、ユング派の分析技法のひとつで、夢分析とは違い、覚醒時に行われるイマジネーションをもとに行われるものらしい。出されている事例が、夢の話ではなくイマジネーションでそんなふうになるんだ……と、少し意外な内容だった。

 1回めの接触はそんな感じだったので、ユングのシンクロについて、あるいはユングについてここで一区切りにしたものかどうか考えあぐねてしばらくぼんやりネットで検索したりしているとき、『トポスの知 ―― 箱庭療法の世界』という本のことを思い出した。思い出したというより焦点があってきたというべきか。

 河合隼雄さんと中村雄二郎さんによる、箱庭療法についての対話の書。手元にあるのはTBSブリタニカ発行の新装版で初版は1993年、1997年の初版第3刷の記載がある。つまりはそのころに買ったのだろう(あるいは、一度手放して、また買ったか)。

 1997年頃という時期はいろいろと符合する。私が初めてパソコンを買ったのは確か1995年の終わりごろで、それから少したったころネット生活が始まったのだった。そして、複雑系に興味をもった時期でもあった。

 いまふり返ると、あの時期は人生の大きな節目だったように思う。

 『トポスの知』は複雑系の本ではないし、手にしたきっかけは確か別のことだったけれど、本の後半では科学談義もなされており、自分の複雑系への興味の流れと矛盾はしない。

 実はドゥルーズも出てきていた。すっかり忘れていたか、当時は認識していなかったか。ただ、ツリー型とリゾーム型の話があったのはごくうっすら覚えていた気もする。

 圏論の勉強の途中で「トポス」という言葉が出てくると、記憶の遠くのほうで、この本のことが時折かすかにリンクしていたように思う。圏論のトポスがなぜトポスと名付けられたのかはいまだに意味がわからないのけれど、箱庭療法のほうは何しろ箱庭療法なので、「場」としてのトポスという言葉はしっくりくる。

 老松さんの本に出てくるアクティヴ・イマジネーションも、箱庭療法の文脈で考えると理解しやすくなる。箱庭療法はユングが発案したものではないが、その発展の背景にはユング心理学があるので、逆に箱庭療法からとらえなおせるように感じた。ただし、アクティブ・イマジネーションと箱庭療法には大きな違いがあるな、とも思う。

 『トポスの知』の発行は1984年、つまり36年前。複雑系という言葉を耳にしてからも20年あまり。あれから世の中の「科学観」はどうなったのだろう。そして私はこの20年間、何を考えてきたのだろう。よく思い出せない。

 いわゆるライフステージの変化としては、この20年間のほうが圧倒的に変化があったのだが。逆にいえば、ライフステージ的変化に伴ううねりを乗りこなすのに精いっぱいだったのだろうか。

 何かヒントがあるかもしれないと思って青土社の『現代思想』のページを見にいったら、今年11月の臨時増刊号は鈴木大拙の総特集だと知った。

 『トポスの知』に、箱庭療法を発展させたカルフさんは鈴木大拙と親しかった話が出てきていて、それについてブログに書こうかどうしようか少し迷って、まあいいかな、と書かずにいたのだった。

 私にとっては、このくらいのごくささやかなシンクロがちょうどいいらしい。

 なお、現在、老松克博『共時性の深層』のページを再びめくっているところ。だいぶ落ち着いてきた。実は自分の思考にリンクすることがらがたくさん出てくるのだ。
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移りゆくことと多層性

 『〈現実〉とは何か』(西郷甲矢人・田口茂)を読んでいたときからだったと思うけれど、とあるイメージが、時折ぼんやりと頭に浮かぶことがあった。ひとつではなく、複数のイメージ。

 読み始めで明滅するものとは少し違っていて、あちらは「キラン、キラン」なのだけれど、こちらは「ぼうっ」と浮かんで消えて、折りに触れまた浮かぶような感じ。

 複数あるそれらのイメージを書き出すことで、何か見えてくるものがあるかもしれないので、書いてみることにする。いま思いつく順で。

 1つは、『なめらかな社会とその敵』(鈴木健)を読みながら考えた行列のイメージ。マルコフ過程に関することかもしれない。イメージとしては「伝播投資貨幣PICSY」のほうが近いのだけれど、自分のブログの記事でリンクするなら「伝播投票委任システム」に関するこれになるだろうか。→(1)(2)(3)

 何しろ鈴木さんがおっしゃるには、この本は仏教哲学のひとつの実装形態をねらいとしているといっても過言ではないらしいので、『〈現実〉とは何か』をきっかけとしてこのイメージがわくのも不思議な話ではないのかもしれない。

 『なめらかな社会とその敵』については、佐々木俊尚さんのネット上の書評を読んだ覚えがあり、それもあってか「レイヤー」という言葉とともに思い出される。ちなみに佐々木俊尚さんの『レイヤー化する世界』は読んでいない。

 もしかして……と思い、Amazonの購入履歴や生活ブログの非公開記事をたどったら、やはり同じく2013年に私は坂口恭平さんの本を何冊か手にしており、その少し前にphaさんの『ニートの歩き方』を買っている。

 多様化する生き方とか、多層化する社会とか、そういうことについて考えていた時期だったのではないかと思う。

 次のイメージは、リーマン面のこと。記事はもう公開していないのだが、2006年11月頃、『素数に惹かれた人たち』を手にした流れだったか何かで、複素数を2乗する関数を感じるために簡単な工作をして遊んでいたことがあった。工作といっても座標平面を切り開いてつなげてだけのことだったけれど。

 そして、オーサグラフ。いまも公開している関連記事からひとつ選ぶとしたら、これになるだろうか。>鳴川肇「オーサグラフ」/時系列と無限

 時間経過をともなう「地点A→地点B→地点A」という動きがあった場合、最初の地点Aと最後の地点Aは地点としては同じでも時刻が違うという意味で別物だから、「地点A→地点B→地点A´」となるのではないか、という発想からくるイメージであるように思う。

 と、書いてしまえば単純なことだった。

 「移りゆくこと」と「多層性」だ(今回の記事のタイトルは、それがわかったあとでつけた)。

 『〈現実〉とは何か』の第四章で私が「そうきたかーーー」と思ったのは、「私」を「不定自然変換」として考えるという記述があったからなのだけれど、そのことで、自分がこれまで網の目を平面的に考えていたことに気づき、なんのために圏論に興味をもったんだよ、と思ったのだった。

 時系列があって多層的というと、まるでパラレルワールドを語っている印象があるが、パラレルワールドは基本的に交わらないからパラレルなのであり、それぞれの世界においては単線で、パラレルであることがわかるのはそれを俯瞰できる場所にいる人だけだろう。

 そういうことではない、もっと別の意味の多層性が、移りゆくこととも関係して、何かイメージとしてわいてきているらしい。
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矢印がないからシンクロニシティ

 若いころは、いまよりも比較的よくシンクロが起こっていたような気がする。シンクロといってもユングのシンクロニシティについては知らないので、ひとまず「因果関係がない状況で、関連した出来事がほぼ同時期に起こる」ことをこう呼ぶことにする。(※)

 具体的にどんな出来事だったかは覚えていないし、「よく起こっていた」といってもおそらくそんなにしょっちゅうでもなかっただろうし、いずれにせよ偶然ですまされるようなささやかなことだったろうと思う。ただ、20代くらいの時期に、シンクロが起こってももうあまり驚かないな、という感覚になったことをうっすらと記憶している。

 その記憶が捏造である可能性はゼロではないけれども、とにもかくにも最近は……というか、もう長いことシンクロが起こっていなかった。というか、感じていなかった。

 なので、『〈現実〉とは何か』(西郷甲矢人・田口茂)―― 読み始めで明滅するもの)で書いたように、この夏の始まりでは久しぶりのシンクロに興奮したのだった。

 同時期といっても2か月もの幅があるし、考えようによっては、同時期に起こる複数の出来事のなかに、つながる要素を見出したというただそれだけのことかもしれない。少なくとも今回の場合。

 いずれにせよ、共時的に起こった関連する出来事は、因果関係をもとにした出来事系列ではお互いをつなぐ矢印がないので、そこに意味を見出す表現をしたいのならば、別の軸をセッティングして並列に配置する等のくふうが必要になってくる。別の軸というのは、年月日や時刻などに相当するもの。

 ところで、シンクロについて考えていると、郡司ペギオ‐幸夫『時間の正体』に出てくるデジャブ解釈ことを思い出す。デジャブ体験が成人を過ぎると極端に減ることについて、とある仮説のようなものを郡司さんが示しておられる。発達過程における時間構造の変化の話が「分配束」を使って説明されているのだけれど、「そういうことってあるかもしれないねぇ」と思った私だった。

 自分のデジャブ体験については、もう記憶がふるすぎてシンクロ以上に思い出せない。きっと何度かは経験しているのだろうけれど。何しろいまは「ただたんに忘れていた」という意味のデジャブばかりだから、もう本物のデジャブ体験は無理のような気がする。

 シンクロも、年齢を重ねると起こりにくくなっていくのだろうか?

 そんなこんなで、始まりと終わりがある網の目も面白いけれど、矢印がないからこそのシンクロニシティも面白いなぁと思うのだった。


(※ 結局、興味が膨らんできて、いま、ユングの共時性についての本を1冊読んでいるところ)
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