TETRA'S MATH

数学と数学教育

ボンカレーで思い出した食べ物と時間のこと

 郡司ペギオ幸夫『いきものとなまものの哲学』の「はじめに」は、「カレーにみる世界制作の方法」というタイトルになっており、郡司さんの子供時代の情景やボンカレーとの遭遇について豊かな描写がなされたあと、ボンカレーはいったい何を意味しているかについての面白い考察がなされていきます。

 全体的に文章が味わい深く、内容に言及することに抵抗があるところなので、直接関わることは書かずにいて、ここを読んで自分が思い出したことについて書いてみたいと思います。

 それは、食べ物の保存のこと。

 たとえばかつて、このようなエントリを書いたことがあります↓

 冷蔵庫・乾物・保存食と時間
 http://math.artet.net/?eid=1382178

 このなかで、新型インフルエンザ対策についての別エントリをリンクしていますが、当時、「娘も自分も感染していなくて元気だけれど、学校が休校になりできるだけ外出を控えたほうがいい状況」をふまえ、買い物に行かなくても数日間は食べ物に困らないにはどうしたらいいかを考えたりしていたのでした。

 一方、生活ブログではこんなエントリを書いたことがあります↓

 食品品質保持剤の場合はどうなるのか
 http://sukkiri.artet.net/?eid=1407427
 
 お店で買ってきた加工食品に、食べ物ではない「小袋」が入っていることがありますが、その小袋がごみとなったときの分別について考えていたとき、その小袋の役割について考えることになり、なにゆえこのような小袋が必要なのか…ということに思いを馳せることになったのでした。

 という話が書けるということは、つまり今回の本は「時間」の本ではありません。

 ひとことでいうなら「他者」の本であろうと、現段階では予感しています。
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郡司ペギオ幸夫『いきものとなまものの哲学』の第一印象

 ここのところ、郡司ペギオ幸夫『いきものとなまものの哲学』を読んでいます。2014年の発行なので、過去にも書名を見た記憶がうっすらあることはあるのですが、これまで手がのびませんでした。

 それがなぜいま手にすることになったのかというと、とある動機があったからなのですが(気がつけば例のポスト複雑系の文章も入っています)、私がいま考えたかったこととはちょっと方向が違いました。

 が、結局、面白いです。なんというのか、郡司さんのもののとらえかた、現象のとらえかたが面白く、その現象というのがボンカレーだったり、テレビ番組だったり、プーさんだったりするのが面白いのです。よく見てるなぁ、よく覚えているなぁ、と感心する一方で、なのに研究会に行くときそういうことになっちゃったりするんだなーと思ってみたり。

 特に1−1で出てくる「ケーキちゃん」は、事実そのものが衝撃的でした。テレビ番組のとある企画についての話題なのですが、同系列と思われる企画の別バージョンは私も見たことがあるものの、この「ケーキちゃん」は知りませんでした。自分としては前半のけっこう大きなトピックのひとつなので、ネタばれをふせぐため内容は書かずにいます。

 この本は、郡司さんの本にしては、とっつきやすい(部分が多い)と感じています。読み始めてからすぐに「あらま、郡司さんエッセイストになったの!?」と思ったほど。初出を見てみれば、「はじめに」の文章は『広告』とのことで、なるほどと納得しました。

 その他、『ユリイカ』や『現代思想』に掲載された文章が、大幅に加筆修正されてまとめられているようです。

 もちろん、読み込むのに時間がかかりそうなところもあります。前提になっているもの(たとえばニーチェ)を知らないと読むのが難しい章があったり、1つ1つ確かめながら読み進めていかないと内容がつかめない章があったり。

 だけど、なんというのか、もはや郡司ペギオ幸夫さんの考えを理解したいという気持ちより、こういうふうにいろんなこと「見出せたら=創れたら」楽しいだろうなぁ…という気持ちのほうが強くなってまいりました。

 というわけで、今後この本についてエントリを書き続けていくかは未定ですが、ひとまず第一印象をお伝えしてみました。

 なお、中村恭子さんの作品によるカバー絵が、なにげにゴージャスでよい感じです。吸盤が一瞬真珠にも見えたりするからでしょうか。
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1つ前のエントリにリンクを追加しました

 森田真生『数学する身体』の中身について少しの後半で、学校で教わる数学の大部分は近代の西欧数学だという話に関連して、過去のエントリを1つリンクしましたが、リンクするならこっちだったかもしれません。というわけで、追加しました↓

「量」の理論と“構造”
http://math.artet.net/?eid=173053

 古いエントリなので、何か自分でひっかかるものがあるのですが、ひとまず。
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森田真生『数学する身体』の中身について少し

 まず、前回のささやかな補足をさせてくださいませ。「ちょうどいいデビュー作かも」の話のなかで、「森田さんの活動の場が広がってきて、森田さんを知っている人たちが増えてきて」と書きましたが、私は森田ファンを自称しながら実は森田さんの活動についてはほとんど認識していないので(そもそもファンの定義ってなんだ!?)、これはあくまでも私の勝手な推測・感覚でございます。

 以上、補足でした。

 さて、今回は中身に触れますので、若干のネタばれを含みます。が、読んでも支障のないレベルのネタばれです。(引用部分以外は、私が言葉や書き方を微妙に変えてまとめています)
 
*     *     *

 この本のなかで私が最初に「お!」と思ったのは(そして結局いちばん面白かったのは)、第一章のなかの「脳から漏れ出す」という一節に書かれてある、人工進化研究のとあるエピソードでした。

 「脳から漏れ出す」というタイトル自体には特にびっくりすることはなく、まあ、そういうことってあるだろうねぇと、何が「そういうこと」なのかわからないままに読む前は思っていたのですが、実際に読んでみると、予想していなかった話が書いてありました。

 イギリスのエイドリアン・トンプソンとサセックス大学の研究グループによる「進化電子工学」の研究について。

 人工進化というのは、自然界の進化の仕組みに着想を得たアルゴリズムで人工的にコンピュータの中の仮想的なエージェントを進化させる方法のことのようです。多くの場合はそうであるということで、いつでもかつでもそうということではなさそう。

 何かしらの最適化問題を解く必要があるとき、普通であれば、まず人間が知恵を絞って、計算や試行錯誤を繰り返しながら解を探すところ、人工進化の場合は、はじめにランダムな解の候補を大量にコンピュータの中で生成し、その上で、それらの中から目標に照らして、相対的に優秀な解の候補をいくつか選び出すのだとか。

 そうして、それらの比較的優秀な解の候補を元にして、さらに「次世代」の解を生成していくとのこと。

 そんなふうに、通常はコンピュータの中の(ビット列として表現された)仮想的なエージェントを進化させるのに対し、トンプソンたちは、物理世界の中で動くハードウェアそのものを進化させることを試みたそうなのです。

 課題は、異なる音程の2つのブザーを聞き分けるチップを作ること。結果として、およそ4000世代の「進化」の後に、無事タスクをこなすチップが得られたそうですが、最終的に生き残ったチップを調べてみると、奇妙な点があったのだとか。

 そのチップは、100ある論理ブロックのうち、37個しか使っていなかったらしいのです。これは人間が設計した場合に最低限必要とされる論理ブロックの数を下回る数で、普通に考えると機能するはずがないとのこと。さらに不思議なことに、たった37個しか使われていない論理ブロックのうち、5つは他の論理ブロックと繋がっていないことがわかったのだとか。

 繋がっていない孤立した論理ブロックは、機械的にはどんな役割も果たしていないはずなのに、驚くべきことに、これら5つの論理ブロックのどれ1つを取り除いても、回路は働かなくなってしまったのだそう。

 それはなぜなのか?

 ということについては本に書かれてあるのでここでは触れずにいますが、「すごいなぁ!なるほどねぇ!」と私は思いましたです。ひとことでいえば、物理世界の中を必死で生き残ろうとするシステムにとっては、「うまくいくなら何でもあり」なのでございます。

 あと、やっぱりというかなんというか、ユクスキュルも出てきていました(第三章)。環世界の話。このブログではいろんな話題で6エントリ、生活ブログのほうでは國分功一郎『暇と退屈の倫理学』に関連して6エントリでその名を出しています。

 ちなみに、森田さんと國分さんは、少し変わった対談をされたことがあるようですよ〜↓
 
CHOREOGRAPH LIFE―自然の思想、思想の自然
http://suiohsha.jp/report/cl131013.html

 それからもう1箇所印象的だったのは、第二章のオープニングの次のくだり。
 私たちが学校で教わる数学の大部分は、古代の数学でもなければ現代の数学でもなく、近代の西欧数学なのである。
(p.49/太字は傍点付き)

 「そ、そ、それにはちょっと事情がありましてぇ〜」と、文脈をはなれて言い訳したくなってしまった私(なんで私が!?と思いつつ…^_^;)。ひとまずこれをリンクさせていただきます↓(1つめのリンクを追加しました。古いエントリなので、ちょっと自分で何かひっかかるものはありますが…)

「量」の理論と“構造” 
http://math.artet.net/?eid=173053

私が思う遠山啓の「量の理論」と「現代化」の関係

 もちろん、森田さんがここで言いたかったことは、それはけしからんというような話ではまったくなく、学校で教わる数学の影響もあってか、「数学=数式と計算」というイメージを持っている人は少なくないけど、数式と計算をことさら重視する傾向自体が必ずしも普遍的な考え方ではなく、数学は時代や場所ごとにその姿を変えながら、徐々にいまの形に変容してきたのだよ、ということなんだと思います。

 また、アンドレ・ヴェイユと岡潔の邂逅のエピソードも面白かったです。ヴェイユが「数学は零から」と言うのに対して、岡潔は「零までが大切」と切り返した場面があったらしいという話(p.164)。

 いま抜き出したいのはだいたいそのくらいです。読み直しまとではいかないまでも、再度ざっとページをみくってみたところ、第一印象から特に大きな変化はありませんでした。これからまた変わってくるかもしれませんが。

 というわけで森田さーん。2作めか3作めあたりで、がっつりいっちゃってくださーい。濃いやつを!(いちファンより)
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森田真生『数学する身体』の第一印象/まだまだこんなものじゃないと思ってる

 森田真生さんの(本としての)デビュー作が出版されましたね。

 森田真生『数学する身体』(新潮社/2015年)

 『考える人』『新潮』『みちくさ』に掲載されたものを大幅に加筆修正してまとめた1冊のようです。私は森田真生ファンなので、逆に、あまり浮き足立たないようにして感想を書いてみたいと思います。森田ファンがべたぼめしたら、読んでいるほうは鼻白むと思うので。というか、森田さんがこのくらいじゃベタぼめできないくらいは欲深いです私。

 「ちょうどよいデビュー作かもなぁ」と思いながら読みました。森田さんの活動の場が広がってきて、森田さんを知っている人たちが増えてきて(←私の勝手な推測)、そんななか多くの人に読んでもらうために、ちょうどよいのではないか、と 。数学の歴史もわかりやすくまとめてあるし。

 ただ、数学に興味をもっている人たちや、森田真生って何をやってくれるんだ?と気になりつつもやや斜に構えている人(がいるかどうかはわからないけれど)に対しては、まだ弱いと感じました。私はいつか、数学にある程度興味をもっている人をハッとさせる文章、ぐわーんとさせる文章、読んでいる途中か読んだあとで、しばらく考え込ませる本を、森田さんに書いてほしいです。

 私は一度だけ森田さんのナマの語りを聞いたことがあります。web上だけでその人となりに接していたときにはさわやかな若者だと思っていたのですが、ナマの森田さんは、思っていたよりはギトーッ!っとしたエネルギーを身体に湛えている人だと感じました。あの濃さがもっと絡んだ、さらさらと読めはしない森田さんの文章を、いつか読みたいな。何しろ私はこの本を読んで、特にショックは受けなかったので。

 とはいえ、もちろん面白かったです。岡潔はともかく、これまで「森田さんにとってどうしてチューリングなんだろう?」という思いが無きにしもあらずだったのが、最後のところで「なるほどねぇ〜」と思いました。あともうひとつ思ったことは、私は「自分の心」にまみれているということ。「情緒」ってそういうことだったのか、ということ。あの日、おじちゃんは、そこまで話してくれていたのだろうか?(←このエントリ、少し書き換えております)

 ちなみに、twitterだったかどこでだったか、この本には身体を感じさせる(?)仕掛けがある的な話を読んだ記憶があって、届いたときには「あんまり好きな色合いの装丁じゃないな…」としか思わなかったのですが、右手の指先が少し荒れてたせいか、後半を読んでいたら表紙の紙のざらざらを「ふっ」と感じて、そういうことあまりないので、ちょっとだけ「あれ?」っと思いました。帯がしっかりしていて、はずす必要がないのはいい感じです。あと、「少し重いかな?」とは思いました。実際にどのようなねらいの仕掛けだったかはわかりませんが、この内容でそのような「仕掛け」はまだ早いというか、もったいないようにも思いました。でも、デビュー作だから、こだわるところはこだわりたかったでしょうか。

 何かにつけえらそうな書き方になってしまうのは、森田ファンだからです。まだ辛口の感想を見つけていませんが、「みんな、このくらいでいいのー!?」と私は思ってます。でも、辛すぎる意見を見つけたらとたんに擁護すると思う。

 なにしろこれは第一印象ですから、読み直すうちにガラッと印象が変わるかもしれません。そうなるとこのエントリは投稿しなくなると思うので、はやく投稿しちゃいます。もし勘違いや私がぜんぜんわかっていなかったことに気づいたら、あとで「ごめんなさい!」と補足することにして。・・・って、斜に構えているのは、他ならぬ私だったりしてー!?!?

(つづく)
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前回のつづきのようなテキストをnoteに書いています。

 先日、論理は人間を守ってくれるかというテキストを書きましたが、これに関連したテキストをnoteで書いています↓
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論理は人間を守ってくれるか

 先日、『考える人』2015年春号(新潮社)を購入しました。

 「数学の言葉」という特集が組まれていて、森田真生さんの文章(ヨーロッパ数学紀行)が掲載されていたからなのですが、意外にも、まず立ち止まったのは新井紀子さんの文章でした。ちなみに私はこれまで新井紀子さんの書籍を読んだことは一度もなく、今回はじめて新井さんのお考えに触れたわけですが、カラーの前編とモノクロの後編に分かれている前編のほうで、新井さんはこんなことを語っておられるのです。
 結局人間を守ってくれるのは、力でもお金でも友達の数でもなくて、「論理」なんだと。
(p.17)

 つまりはこういう話です。(以下、要約)

***

 数学アレルギーの人は多いが、自分も少女時代は数学が大の苦手だった。こんな人工的な問題を解く意味があるのか、と。

 「数学は言葉だ」と気がついたのは法学部時代の経験がきっかけ。具体的な話から始まる民法や商法は自分にはなじめなかったが、憲法と刑法は、公理のような大前提から演繹で筋道を通せるから、性に合った。

 大学では他に数学と経済をパラレルに習い始め、演繹的に考える方法論を、法律、数学、経済の三分野で経験した。

 ちょうどそのころ刑法の授業で、講演活動をされている冤罪被害者の女性に話を聞く機会があった。その方は終始、理路整然とお話しになり、どうしてこんな聡明な人が誤認逮捕されたのだろうと不思議だった。もしかしたら誤認逮捕されたときには、ここまでの論理の言葉を身に着けていなかったのかもしれない。刑法という公理と論理で闘う法廷で、真実を伝えるために論理を身に着けざるを得なかったのではないかと気づいた。

***

 というような話のあと、上の一文に続くのでした。

 いろんな考えの人がいて様々な言葉や価値観があるときに、対立が生じたり何が正しいのかわからなくなったりしても、検証する方法が確実にある。原理から検証できる方法こそ自分を守ってくれる。そういう感覚を新井さんは持たれたようです。

 さらには、誰もが論理を身に着けることができる、という前提で民主主義社会というものは成り立っているんだと思うに至ったとのこと。

 この話を読んだとき、共感するとかしないとかの前に、何かを思い出しそうになって立ち止まった私。

 で、その″何か”はすぐに思い出せました。こういうときブログを書いておくとメモになって便利です〜。これです〜。>スピノザ、三数法、わかるということ、合理主義者


 違った…。論理じゃなくて真理だったわ……。


 國分功一郎『スピノザの方法』に示されていた、デカルトとスピノザの真理の違いのことを思い出していたのです。

 デカルトにとって真理は論駁する力、説得する力をもつ強い真理でなければならない。これはデカルトが徹頭徹尾他者に向かっていたことを意味する。デカルトの考える真理には、他者がつねに陰を落としている。
 それに対し、スピノザは、自分がデカルトのように問い詰められるかもしれないことなど気にもとめず、「いや、何事かを知っている者は、自分が何事かを知っていることを知っている」と述べているわけである。

(國分功一郎『スピノザの方法』p.47/斜体は傍点付き)

 そんなスピノザが、神を示すにあたりユークリッドをお手本にしたというのは、面白い話だなぁ!とあらためて思います。>スピノザの『エチカ』、その幾何学的秩序

 もしスピノザが冤罪でつかまりそうになったら、神を示したのと同じ方法で自分の無実を示せたでしょうか!?笑

 新井さんは、民主主義社会では、論理で戦う枠組みだけは少なくとも備えられているので、そういった論理を持つ構えをすべての子どもたちに身に着けさせてあげたいと思うようになり、子ども向けに算数や数学に関する本を書くようになったのだとか。

 なお、『生き抜くための数学入門』という本では、中学や高校で、嫌なことがあったり先生の言うことが納得できなかったりするときに闘う方法としての論理をまとめたのだそう。戦うための、闘うための、論理なのですね。(だから私はこれまで新井さんの本に出会う機会がなかったのかしらん!?)

 ここでのお話はお話として(取材と文は編集部)、新井さんのお考えをもっとちゃんと知りたいのなら、著書を読んだほうがよいようにも感じました。

 いずれにせよ、論理で戦って、そして勝つためには、その論理を共有していることが何よりの前提となるのでしょうね。そして論理を共有できたとき、それは戦いではなくなっているようにも思います。

 あ、あとひとつ思い出したぞ。>構造構成主義に対する第一印象

 あらま、こちらは「論理」ではなく「信念対立」でした。

 新井さんは、数学は今でもそれほど好きじゃないそうですが、数学の言葉を身に着ける前に比べて圧倒的にチャンスが広がったそうです。そのことを、特に女の子たちに伝えたかったというのが、数学の啓蒙書を書くようになった動機なんだとか。

 「論理は私を守ってくれる」ということを、新井さんは自分の人生のデータから帰納したような、そんな印象も受けました。

 ちなみに前編では、新井さんが書いたと思われるホワイトボードの写真も掲載されており、そのなかに「ヴィゴツキー」と読める赤い文字があるのが気になっています。

 いったい新井さんは、どんな話をされていたのでしょうか。なお、示されている式は、下記リンク先のホワイトボードの内容と似ているようです。 http://dot.asahi.com/aera/2015012100106.html
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わかるということ/岡潔『春宵十話』ふたたび

 前回に引き続き、過去のエントリをふりかえっての補足です。

 2011年8月に、一応、岡潔『春宵十話』というエントリを書きました。

 で、昨年12月下旬、このなかの次の話をnoteのテキストに書こうとしたのですが……
この夏、「おじさん」からきいた話でいちばん印象に残ったのは、「わかる」ということについてでした。「おじさん」がどういう言葉を使ってどう説明したかはもはや覚えていませんが、わかるときには、自分ではっきりわかる、○とか×とかつけられる前に、それが正しいのか間違っているのか、自分でわかる。おじさんはそんなことを語っていましたっけ。だれかに正しいかどうかみてもらわないと、正しいのか間違っているかわからないのであれば、それはまだわかっていない。
 いざ書こうとすると、「あれ、岡潔、そんなこと言ってたっけ?どこで言ってたっけ?」と疑問に思えてきたのです。なので、確認しておこうと思い久しぶりに『春宵十話』をめくってみたのですが、該当箇所が見つけられず…。最初から最後まで読んでみても、結局見つけられず。

 たしかに、「わかる」ということについて岡潔は語っていますし、上記のことはまったくの勘違いというわけではなさそうです。でも、ニュアンスがちがう。話の深みが違う。

 というわけで、「わかる」ということについて岡潔がどんなことを語っているのか、本文から抜き出してみることにしました。岡潔『春宵十話』(光文社文庫/2006年)


「春宵十話−情操と智力の光」より
 私は数学教育にいくらかたずさわっている者として、高校までの教育の担当者に一つだけ注文したい。それは、数学の属性の第一はいつの時代になっても「確かさ」なのだから、君の出した結果は確かかと聞かれた時、確かなら確か、そうでなければそうでないとはっきり答えられるようにしておいてほしいということである。
(p.49)
 室内で本を読むとき、電燈の光があまり暗いと、どの本を読んでもはっきりわからないが、その光に相当するものを智力と呼ぶ。この智力の光がどうも最近の学生は暗いように思う。わかったかわからないかもはっきりしないような暗さで、ともかく光がひどくうすくなった。
(p.49〜50)
 これはただちにわかるはずの自家撞着が、人に指摘されなくてはわからないという程度の暗さである。
(p.50)


「無差別智」より
 無差別智は純粋直観といってもいいし、また平等性智といってもいいが、一言でいえば自明のことを自明とみる力である。これがあるから知能に意味があるので、これを無視した知能の強さというのは正しくいえば「物まね指数」にすぎない。だからこの力が弱いと何をいわせてもオウムのようなことしかいえないし、自分自身の自明の上に立てないから独自の見解など全く持てないことになる。そうなると限りなく心細くて、必死に他の自明にすがりつき、ただ追随し雷同するばかりである。
  陽炎や墓より外に住むばかり(蕉門)
  浮草や湯の沸く岸により茂る(虚子)
「みなが違うというのだから違うのかなあ」というふうである。これに対してこの智力があればいつでも自説が立つわけで、ガリレオが時代に先んじて真実を主張できたのもこの力があったためである。
(p.84〜85)


「三河島惨事と教育」より
 少なくとも機械をさわる人は、自分の判断によって、ここまでは確かで間違いないというところまでできるほどにしておかなければ、惨事はこれからもきっと起る。(中略)
 いま、たいていの中学、高校では答案が合っているかどうか生徒にはわからない。先生が合っているといえば合っているというだけで、できた場合もできなかった場合もぼうっとしている。本当は答が合うことよりも、自分で合っていると認めることのほうが大切なのに、それがわかっていない。(中略)
 答案などというものは、生徒に書かせるよりも本当は先生に書かせ、それが合っているかどうかを生徒が調べるほうがよいと思う。そうすれば自分で判断する訓練になるに違いない。答案は書けなくても意味はわかるという子供ができればそれでよいのだ。
(p.110〜111)


「義務教育私話」より
 黒板とか、鉛筆とか、紙とかいう外物に頼っていると、計算しなくては正しさがわからないとなる。これでは闇夜の中をちょうちんもなしに歩いているのと同じで、いつまでたっても闇夜から抜けられないだけでなく、闇は深くなる一方である。しかも昼というものを知らないから、それが闇夜であることに気づかない。
(p.135)


「数学を志す人に」より
 ところであなた方は、数学というものができ上がってゆくとき、そこに働く一番大切な智力はどういう種類のものであるかを知らなくてはなりません。それにはやはりポアンカレーの「科学と価値」が大いに参考になると思われます。この中でポアンカレーは数学上の発見が行なわれる瞬間をよく見る必要があると述べて、自分の体験からそれはきわめて短時間に行なわれること、疑いの念を伴わないことを特徴としてあげています。
(p.155〜156)
 また例をあげましょう。私が中学生のころ、数学の試験は答案を書き終ってからも間違ってないかどうか十分に確かめるだけの時間が与えられていました。それで十分に確かめた上に確かめて、これでよいと思って出すのですが、出して一歩教室を出たとたんに「しまった。あそこを間違えた」と気づくのです。そうして、しおしおと家路につくのです。たいていの人はそんな経験がおありでしょう。実は私などそうでない場合のほうが少ないくらいでした。教室を出て緊張がゆるんだときに働くこの智力こそ大自然の純粋直観とも呼ぶべきものであって、私たちが純一無雑に努力した結果、真情によく澄んだ一瞬ができ、時を同じくしてそこに智力の光が射したのです。そしてこの智力が数学上の発見に結びつくものなのです。しかし、間違いがないかどうかと確かめている間はこの智力は働きません。
(p.156〜157)
 別のいい方をすれば、絶えずきれぎれの意志が働き続けるのが大脳の過熱で、この意志が大脳前頭葉に働くのを抑止しなければ本当の智力は働かないということです。この本当の智力というのは、本当のものがあればおのずからわかるという智力で、いわば無差別智であります。自分が知るというのでなく、智力のほうから働きかけてくるといったものです。これにくらべれば、こちらから働きかけて知る分別智はたかの知れたものといえましょう。
(p.158〜159)

 ということらしいのです。智力、純粋直観、本当のものがあればおのずからわかるという"わかりかた”。

 山口昌哉先生が『数学がわかるということ』で数学者のエピソードを紹介しておられるのは、岡潔の話だったのではないかと私は推測しています。あくまでも推測です。そういう人は他にもけっこうたくさんいるかもしれず、なのでそういうエピソードを紹介している数学者は他にもいるのかもしれないのですが…>山口昌哉 『数学がわかるということ』・2/何かがわかる瞬間
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出版社名の訂正

 ついさっき投稿した親子ブログで「かけ算談義」、noteで「道徳」において、岡田斗司夫『僕らの新しい道徳』のことを書きましたが、出版社は「朝日新聞出版」です。お詫びして訂正いたします。(元記事もすでに訂正済)

 朝日出版社と書いてしまいました。実際にこの名の出版社はありますが、朝日新聞出版社とも朝日新聞社とも関係がないようです。ウィキペディアより>朝日出版社
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編集と自由とブリコラージュ/亀井哲治郎さんの文章から派生して

 小冊子『いま,遠山啓とは』に掲載されている、亀井哲治郎さんの「『数学セミナー』と遠山啓」を読んでいます(『数学教室』2010年12月号からの転載)。前回は数学者としての遠山啓の顔をのぞいたので、今回は『数学セミナー』の編集会議に出席する遠山啓の顔をのぞいてみようと思います。

 『数学セミナー』というのは、日本評論社が出している数学雑誌で、創刊は1962年とのこと。亀井哲治郎さんは1970年に正式に日本評論社に入社し、数学セミナー編集部に配属となったそうですが、それよりも前の12月から、アルバイトとしてほとんど毎日“出社”していたのだとか。単行本の校正をしたり、編集部の人から誘われて、東京工業大学における遠山啓の最終講義を聴きにいったり。

 毎月開催される編集会議は、ある号の何かの特集や記事を議論して決めるというものではなく、“談論風発”さまざまな話題に広がっていく、そういう会議だったようです。編集部のみならず矢野健太郎さんが話題を提供されることも多く、政治や週刊誌ネタもあれば、数学をめぐる動向や数学教育に関する問題、時には好みの女性のタイプなど、笑い声が絶えることなくあっというまに3時間が過ぎていった、と書いてあります。

 そして編集部員たちは、さまざまに展開する話題を追って懸命にメモを取り、その中から多くの企画が生まれたそうです。当時の編集長の野田幸子さんが、編集会議のひとときを「編集者教育のサロンだった」と称されたこともあるようです。

 亀井哲治郎さんいわく、編集顧問の方々は、自分たち編集部の出す企画について決して“NO!”と言われたことがない、と。むしろ、自分たちの意を汲んで後押しをしつつ、さまざまな角度からさらにアイディアを出して膨らませてくださった、とのこと。それをもとに、また編集部で議論し、“自由に”企画を立てていく…という形で雑誌はつくられていったようです。

 創刊時に編集顧問を引き受けるにあたって、遠山啓は、「僕たちはいくらでもアイディアを出すから,その中から編集部が“面白い”と思うものを選んで,自由に雑誌をつくったらいい」と言ったそうで、この言葉が編集部の企画の“自由さ”の根底にあり、そして編集者がみずから育っていく基盤となっていた、と亀井さんは書いておられます。

 「編集」ということについては、このブログでも時々触れてきましたが、過去には意味の編集というエントリなどを書いています。また、具体的な編集者として富岡勝さんや小林浩さんのお名前を出させていただいたこともあります()。編集者の仕事の大きさをしみじみと感じます。

 そして編集といえば、やはり松岡正剛さんのことを思い出すのですが、実は千夜千冊の317夜『悲しき熱帯』レヴィ=ストロースで、松岡正剛さんはレヴィ=ストロースのブリコラージュを自分の言葉で「編集」と言い換えているのです。

 先日も名前を出したレヴィ=ストロースは、構造主義の祖であり、平たくいえば人文科学に群論を応用した人です。そして、アンドレ・ヴェイユはレヴィ=ストロースの研究に協力しているもよう。

 そのレヴィ=ストロースが見出したブリコラージュという方法に、私はこのあいだまでほとんど意識が向かっていなかったのですが、それがひょんなことでとても気になってきたきょうこのごろ。なぜかというと、坂口恭平さんに出会ったから。

 この夏、「ニート道」(←私の勝手な造語)にハマったことは書きましたが()、pha著『ニートの歩き方』経由で坂口恭平さんのことを知り、今度は坂口さんにすっかりハマったしだい。生活ブログ:TATA−STYLEで2冊の本について感想を書いています↓
坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』
坂口恭平『独立国家のつくりかた』

 そしてきのう、集英社文庫の『TOKYO一坪遺産』を読み終えました。赤瀬川原平さんの『宇宙の缶詰』の話なども出てきます。私は坂口恭平さんの使う「空間」という言葉が好きです。そして、実際に“コンパクト”でありながら“無限”でもある空間で暮らしている人、商売をやっている人たちの話を具体的にたくさん聞かせてくれるのが、とても面白いです。スケッチもあるし!

 もちろん数学とはなんの関係もない話ですが、だとしても、だれか数学者か幾何学者が坂口恭平と仲良くならないかなぁ〜なんて贅沢なことを考えてしまう私。ちなみに坂口さんは、バックミンスター・フラー()の影響も受けているよう。↓
http://www.0yenhouse.com/profile.html(1999年の欄)

 なお、個人的には、著名人と波長があわないことが少なくないという印象をもっている坂口さんですが(^^;(内田樹さんや茂木健一郎さんとは出会いのタイミングがあわなかったようだし?)、中沢新一さんは高く評価しているようで、私はこのことで逆に中沢新一さんを見直したほど!?(^0^) 私がガロア理論を読むきっかけになったのが、中沢新一批判を含む論文のツイートだったというのも、因果です()。

 そしてどうやら坂口恭平さんも、國分功一郎さん経由でドゥルーズと(部分的に?)つながったもよう。↓
https://twitter.com/zhtsss/status/388378335056633856

 なんだかずいぶん話が派生して散乱してしまいましたが、「こういうことが考えたい」というイメージは自分のなかで膨らんできていて(必然的につながっていく)、しかし言葉は追いついていかず、いまひとつそれが形になっていなくて、もう少しだけそれをクリアに(複雑なら複雑なままに)してみたい、人と共有できるように、表現できるように、解像度を上げたい、と思っているきょうこのごろなのでございます。
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