ライプニッツ/「胡蝶の夢」/輪廻転生
三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学』の第13節から触発されて書きたくなったことを、今回は書いてみたい。
前々回、可能主義をルイス型と呼んだが、実は可能主義には2種類あるらしく、もうひとつはライプニッツ型と言われるものらしい。相対主義と絶対主義と呼んでもいいだろうとのこと。
ライプニッツは、現代の分析哲学者のようには必ずしも可能世界の本性や意義や効用について明確なことを語っていないそうなのだけれども、「神は最善の世界を実現させたもうた」という意味の言葉などから推測するに、ライプニッツにとっては、この唯一の現実世界は特別なものだ、と。
しかし、もしライプニッツの言うとおりだとして、自分が「現実世界」に住んでいるということをどうして確信できるだろうか……と話は続き、このあとちょっと面白い記述がある。
折しも、様相論理への興味とは別の流れで久しぶりに玄侑宗久さんの本が気になっていて、対談本を1冊読んだあと、『荘子と遊ぶ――禅的思考の源流』を読んだのだ。「胡蝶の夢」の話も少し出てくる。
『改訂版 可能世界の哲学』に直接触発されて『荘子と遊ぶ』を手にしたわけではないと思うが、もともと興味を持っている老荘思想に少し焦点が当たってきたということはあるかもしれない。
ちなみに、玄侑宗久さんについては、ずいぶん前にブログの記事をいくつか書いた覚えがあるのだけれど(柳澤桂子さんとの往復書簡や南直哉さんとの対談本について)、非公開記事の中にも残っておらず、何を書いたのか、書いたのかどうかも確認できずにいる。
さらに、最近、南直哉さんの『仏教入門』も読みかけていた。読みかけていたというのは、途中で読むのをやめてしまったということであり、そのわけは「輪廻」にある。
直哉さんは、この本のなかで「輪廻は要らない」と書いている。そのこと自体は、購入前にAmazonのレビュー欄で知っていたと記憶している。あの直哉さんがそう書いているのだから、何か理由があるのだろうと思いつつこの読むことにしたのだと思うが、その理由は私にとっては落胆するものだった。いつものような膝を打つ感じ・面白さ・納得感がない。キッパリ感があるのみで。
輪廻の件について、Amazonのレビュー欄で詳しく指摘されている方に対し、多くの「役に立った!」ボタンが押されているけれども、その気持ちはわかる。
輪廻転生については、このブログでも「経験我」と輪廻のリアル、不定自然変換へという文章を書いている。参考文献は魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』。やはり、輪廻転生については、大乗仏教の徒よりも、初期仏教の立場に近い人の話のほうが説得力があるのかもしれないなぁ……と思ってみたり。
で。
なんと。
三浦俊彦さんが、2007年に『多宇宙と輪廻転生 人間原理のパラドクス』という本を書かれているようなのだ。読んでみたいのだけれど、いま現在、Amazonで4,000円を超えており、そこまではちょっと出せないなぁという感じで見送っている段階。近所の図書館にも置いてないもよう。
2007年といえば、三浦俊彦さんが石飛道子さんを批判した翌年であり、直接関係ないのだとしても、ますます読んでみたくなる。読んでみたいというか、どんな雰囲気なのかちょっとのぞいてみたいというか。
なお、玄侑宗久『荘子と遊ぶ』では、「胡蝶の夢」の話のあと大宗師篇の死生観の話になり、輪廻について次のように語られている。
このあたりの違い(インドと中国の物事への対し方の違い)については、飲茶さんの『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』の「老子」の中にある説明がわかりやすくて面白い。「老子」の思想が出てくる前の段階の、中国人のロジック、人生観の話として出てくる。
「西洋」と「東洋」の違いは、「西洋」のなかでの違いや「東洋」のなかでの違いに比べれば、もちろんとても大きなものだと思うけれども、東洋は東洋のなかでも違いがあるわけであり、その違いのなかで、いろいろな思想が生まれたり伝わったり変わっていったり、変わっていくなかで変わらないものがあったりしたのだろうなぁ……と、あらためて思う。
で、先の三浦俊彦さんの本については、一応Amazonのページでなんとなくの雰囲気はつかむことはできて、「厳密なロジックで誤謬を暴き」というようなフレーズに「4,000円を投じるほどではないかもなぁ」という印象をもってしまうワタシ。
「論理にいろいろあるとしたら、それらに共通していること、つまり論理であるということはどういうことなのか」
「論理的であることにはどのような価値があるのか」
「論理的であるとはいったいどういうことかということを、論理的に考えることはできるのか」
という、いくつかの問いが生じてくることを感じつつも、それらの問いをつきつめるより、私も荘子と遊んでおきたいなぁと思う、今日このごろなのだった。
と言いながら、別の論理学の本が、すでに1冊届いている。
前々回、可能主義をルイス型と呼んだが、実は可能主義には2種類あるらしく、もうひとつはライプニッツ型と言われるものらしい。相対主義と絶対主義と呼んでもいいだろうとのこと。
ライプニッツは、現代の分析哲学者のようには必ずしも可能世界の本性や意義や効用について明確なことを語っていないそうなのだけれども、「神は最善の世界を実現させたもうた」という意味の言葉などから推測するに、ライプニッツにとっては、この唯一の現実世界は特別なものだ、と。
しかし、もしライプニッツの言うとおりだとして、自分が「現実世界」に住んでいるということをどうして確信できるだろうか……と話は続き、このあとちょっと面白い記述がある。
私たちは実は虚構ではないかとか、夢の中の存在ではないかとかいう思弁が、老荘思想や大乗仏教など東洋思想の底流にありますね。(第13節)
折しも、様相論理への興味とは別の流れで久しぶりに玄侑宗久さんの本が気になっていて、対談本を1冊読んだあと、『荘子と遊ぶ――禅的思考の源流』を読んだのだ。「胡蝶の夢」の話も少し出てくる。
『改訂版 可能世界の哲学』に直接触発されて『荘子と遊ぶ』を手にしたわけではないと思うが、もともと興味を持っている老荘思想に少し焦点が当たってきたということはあるかもしれない。
ちなみに、玄侑宗久さんについては、ずいぶん前にブログの記事をいくつか書いた覚えがあるのだけれど(柳澤桂子さんとの往復書簡や南直哉さんとの対談本について)、非公開記事の中にも残っておらず、何を書いたのか、書いたのかどうかも確認できずにいる。
さらに、最近、南直哉さんの『仏教入門』も読みかけていた。読みかけていたというのは、途中で読むのをやめてしまったということであり、そのわけは「輪廻」にある。
直哉さんは、この本のなかで「輪廻は要らない」と書いている。そのこと自体は、購入前にAmazonのレビュー欄で知っていたと記憶している。あの直哉さんがそう書いているのだから、何か理由があるのだろうと思いつつこの読むことにしたのだと思うが、その理由は私にとっては落胆するものだった。いつものような膝を打つ感じ・面白さ・納得感がない。キッパリ感があるのみで。
輪廻の件について、Amazonのレビュー欄で詳しく指摘されている方に対し、多くの「役に立った!」ボタンが押されているけれども、その気持ちはわかる。
輪廻転生については、このブログでも「経験我」と輪廻のリアル、不定自然変換へという文章を書いている。参考文献は魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』。やはり、輪廻転生については、大乗仏教の徒よりも、初期仏教の立場に近い人の話のほうが説得力があるのかもしれないなぁ……と思ってみたり。
で。
なんと。
三浦俊彦さんが、2007年に『多宇宙と輪廻転生 人間原理のパラドクス』という本を書かれているようなのだ。読んでみたいのだけれど、いま現在、Amazonで4,000円を超えており、そこまではちょっと出せないなぁという感じで見送っている段階。近所の図書館にも置いてないもよう。
2007年といえば、三浦俊彦さんが石飛道子さんを批判した翌年であり、直接関係ないのだとしても、ますます読んでみたくなる。読んでみたいというか、どんな雰囲気なのかちょっとのぞいてみたいというか。
なお、玄侑宗久『荘子と遊ぶ』では、「胡蝶の夢」の話のあと大宗師篇の死生観の話になり、輪廻について次のように語られている。
……、万事を忘れてその生を生ききったらそれをお返しするだけだ。(「第三章 夢みぬ人の夢」より/ルビ省略)
お返ししたあとは、また「以て其の知らざる所の化を待つのみ」なのだとすれば、それを 輪廻と呼ぶことも可能だろう。しかし大切なのは、 荘周がおそらくインドの伝統的輪廻観は知らずにこれを述べていること。そしてブッダにとっては解脱すべき桎梏であった輪廻が、荘周にはむしろどう転んでも楽しむべきものであったことである。
このあたりの違い(インドと中国の物事への対し方の違い)については、飲茶さんの『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』の「老子」の中にある説明がわかりやすくて面白い。「老子」の思想が出てくる前の段階の、中国人のロジック、人生観の話として出てくる。
「西洋」と「東洋」の違いは、「西洋」のなかでの違いや「東洋」のなかでの違いに比べれば、もちろんとても大きなものだと思うけれども、東洋は東洋のなかでも違いがあるわけであり、その違いのなかで、いろいろな思想が生まれたり伝わったり変わっていったり、変わっていくなかで変わらないものがあったりしたのだろうなぁ……と、あらためて思う。
で、先の三浦俊彦さんの本については、一応Amazonのページでなんとなくの雰囲気はつかむことはできて、「厳密なロジックで誤謬を暴き」というようなフレーズに「4,000円を投じるほどではないかもなぁ」という印象をもってしまうワタシ。
「論理にいろいろあるとしたら、それらに共通していること、つまり論理であるということはどういうことなのか」
「論理的であることにはどのような価値があるのか」
「論理的であるとはいったいどういうことかということを、論理的に考えることはできるのか」
という、いくつかの問いが生じてくることを感じつつも、それらの問いをつきつめるより、私も荘子と遊んでおきたいなぁと思う、今日このごろなのだった。
と言いながら、別の論理学の本が、すでに1冊届いている。