TETRA'S MATH

数学と数学教育

ブログの記事を整理しながら思うこと

 ここのところ、比較的大胆に、ブログの記事を整理しています。「これはもういいかな」と思うものを削除したり、非公開にしたり。思えばずいぶん長い間、いろいろなことを書いてきました。

 記事数はもちろんのこと、カテゴリー数も多いので、整理するのをなかばあきらめていたのですが、始めてしまえばそんなに無茶苦茶な数でもないと思えてきました。ちなみにいまの段階で公開しているものが1100ほど、非公開のものをふくめると1450くらいになります。

 整理の作業のなかでしみじみ思うのですが、自分は基本的に、ブログの記事を「つながるもの」として書いてきたようです。そのこと自体はよいのですが、いざ整理するとなると困ることが。

 まず、自分の記事をリンクしているものが多いので、1つの記事を削除すると、そこにリンクを張っている記事も削除するか書き換えなくてはいけなくなってしまい、「こっちは削除したいけどこっちは残したい」というときに迷うこと。

 また、1つの記事や1つのシリーズものを削除すると、前後の流れを断ち切るので、やはり他の記事に影響を与えてしまい、削除か一部書き換えが必要となってくること。

 その結果、すべての記事をチェックする必要が生じているのですが、それを全部やるにはまだまだ時間がかかりそうです。

 さらに、自分の思考のプロセスを記録するのがブログを書く大きな目的だったので、あまり書き換えてしまうのもどうかと思うわけであり。それだったら、そのままの形で非公開にして資料にしたほうがいいのかなぁ、とも思ってみたり。

 などなど、逡巡しながらゆるゆると作業を続けています。

 
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森田真生『数学する身体』の中身について少し

 まず、前回のささやかな補足をさせてくださいませ。「ちょうどいいデビュー作かも」の話のなかで、「森田さんの活動の場が広がってきて、森田さんを知っている人たちが増えてきて」と書きましたが、私は森田ファンを自称しながら実は森田さんの活動についてはほとんど認識していないので(そもそもファンの定義ってなんだ!?)、これはあくまでも私の勝手な推測・感覚でございます。

 以上、補足でした。

 さて、今回は中身に触れますので、若干のネタばれを含みます。が、読んでも支障のないレベルのネタばれです。(引用部分以外は、私が言葉や書き方を微妙に変えてまとめています)
 
*     *     *

 この本のなかで私が最初に「お!」と思ったのは(そして結局いちばん面白かったのは)、第一章のなかの「脳から漏れ出す」という一節に書かれてある、人工進化研究のとあるエピソードでした。

 「脳から漏れ出す」というタイトル自体には特にびっくりすることはなく、まあ、そういうことってあるだろうねぇと、何が「そういうこと」なのかわからないままに読む前は思っていたのですが、実際に読んでみると、予想していなかった話が書いてありました。

 イギリスのエイドリアン・トンプソンとサセックス大学の研究グループによる「進化電子工学」の研究について。

 人工進化というのは、自然界の進化の仕組みに着想を得たアルゴリズムで人工的にコンピュータの中の仮想的なエージェントを進化させる方法のことのようです。多くの場合はそうであるということで、いつでもかつでもそうということではなさそう。

 何かしらの最適化問題を解く必要があるとき、普通であれば、まず人間が知恵を絞って、計算や試行錯誤を繰り返しながら解を探すところ、人工進化の場合は、はじめにランダムな解の候補を大量にコンピュータの中で生成し、その上で、それらの中から目標に照らして、相対的に優秀な解の候補をいくつか選び出すのだとか。

 そうして、それらの比較的優秀な解の候補を元にして、さらに「次世代」の解を生成していくとのこと。

 そんなふうに、通常はコンピュータの中の(ビット列として表現された)仮想的なエージェントを進化させるのに対し、トンプソンたちは、物理世界の中で動くハードウェアそのものを進化させることを試みたそうなのです。

 課題は、異なる音程の2つのブザーを聞き分けるチップを作ること。結果として、およそ4000世代の「進化」の後に、無事タスクをこなすチップが得られたそうですが、最終的に生き残ったチップを調べてみると、奇妙な点があったのだとか。

 そのチップは、100ある論理ブロックのうち、37個しか使っていなかったらしいのです。これは人間が設計した場合に最低限必要とされる論理ブロックの数を下回る数で、普通に考えると機能するはずがないとのこと。さらに不思議なことに、たった37個しか使われていない論理ブロックのうち、5つは他の論理ブロックと繋がっていないことがわかったのだとか。

 繋がっていない孤立した論理ブロックは、機械的にはどんな役割も果たしていないはずなのに、驚くべきことに、これら5つの論理ブロックのどれ1つを取り除いても、回路は働かなくなってしまったのだそう。

 それはなぜなのか?

 ということについては本に書かれてあるのでここでは触れずにいますが、「すごいなぁ!なるほどねぇ!」と私は思いましたです。ひとことでいえば、物理世界の中を必死で生き残ろうとするシステムにとっては、「うまくいくなら何でもあり」なのでございます。

 あと、やっぱりというかなんというか、ユクスキュルも出てきていました(第三章)。環世界の話。このブログでも何度か話題に出しています。

 それからもう1箇所印象的だったのは、第二章のオープニングの次のくだり。
 私たちが学校で教わる数学の大部分は、古代の数学でもなければ現代の数学でもなく、近代の西欧数学なのである。
(p.49/太字は傍点付き)

 「そ、そ、それにはちょっと事情がありましてぇ」と、文脈をはなれて言い訳したくなってしまった私(なんで私が?と思いつつ)。ひとまずこれをリンクさせていただきます↓(1つめのリンクを追加しました。古いエントリなので、ちょっと自分で何かひっかかるものはありますが…)

「量」の理論と“構造” 
http://math.artet.net/?eid=173053

私が思う遠山啓の「量の理論」と「現代化」の関係

 もちろん、森田さんがここで言いたかったことは、それはけしからんというような話ではまったくなく、学校で教わる数学の影響もあってか、「数学=数式と計算」というイメージを持っている人は少なくないけど、数式と計算をことさら重視する傾向自体が必ずしも普遍的な考え方ではなく、数学は時代や場所ごとにその姿を変えながら、徐々にいまの形に変容してきたのだよ、ということなんだと思います。

 また、アンドレ・ヴェイユと岡潔の邂逅のエピソードも面白かったです。ヴェイユが「数学は零から」と言うのに対して、岡潔は「零までが大切」と切り返した場面があったらしいという話(p.164)。

 いま抜き出したいのはだいたいそのくらいです。読み直しまとではいかないまでも、再度ざっとページをみくってみたところ、第一印象から特に大きな変化はありませんでした。これからまた変わってくるかもしれませんが。

 というわけで森田さーん。2作めか3作めあたりで、がっつりいっちゃってくださーい。濃いやつを!(いちファンより)
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森田真生『数学する身体』の第一印象/まだまだこんなものじゃないと思ってる

 森田真生さんの(本としての)デビュー作が出版されましたね。

 森田真生『数学する身体』(新潮社/2015年)

 『考える人』『新潮』『みちくさ』に掲載されたものを大幅に加筆修正してまとめた1冊のようです。私は森田真生ファンなので、逆に、あまり浮き足立たないようにして感想を書いてみたいと思います。森田ファンがべたぼめしたら、読んでいるほうは鼻白むと思うので。というか、森田さんがこのくらいじゃベタぼめできないくらいは欲深いです私。

 「ちょうどよいデビュー作かもなぁ」と思いながら読みました。森田さんの活動の場が広がってきて、森田さんを知っている人たちが増えてきて(←私の勝手な推測)、そんななか多くの人に読んでもらうために、ちょうどよいのではないか、と 。数学の歴史もわかりやすくまとめてあるし。

 ただ、数学に興味をもっている人たちや、森田真生って何をやってくれるんだ?と気になりつつもやや斜に構えている人(がいるかどうかはわからないけれど)に対しては、まだ弱いと感じました。私はいつか、数学にある程度興味をもっている人をハッとさせる文章、ぐわーんとさせる文章、読んでいる途中か読んだあとで、しばらく考え込ませる本を、森田さんに書いてほしいです。

 私は一度だけ森田さんのナマの語りを聞いたことがあります。web上だけでその人となりに接していたときにはさわやかな若者だと思っていたのですが、ナマの森田さんは、思っていたよりはギトーッ!っとしたエネルギーを身体に湛えている人だと感じました。あの濃さがもっと絡んだ、さらさらと読めはしない森田さんの文章を、いつか読みたいな。何しろ私はこの本を読んで、特にショックは受けなかったので。

 とはいえ、もちろん面白かったです。岡潔はともかく、これまで「森田さんにとってどうしてチューリングなんだろう?」という思いが無きにしもあらずだったのが、最後のところで「なるほどねぇ〜」と思いました。あともうひとつ思ったことは、私は「自分の心」にまみれているということ。「情緒」ってそういうことだったのか、ということ。あの日、おじちゃんは、そこまで話してくれていたのだろうか?(←このエントリ、少し書き換えております)

 ちなみに、twitterだったかどこでだったか、この本には身体を感じさせる(?)仕掛けがある的な話を読んだ記憶があって、届いたときには「あんまり好きな色合いの装丁じゃないな…」としか思わなかったのですが、右手の指先が少し荒れてたせいか、後半を読んでいたら表紙の紙のざらざらを「ふっ」と感じて、そういうことあまりないので、ちょっとだけ「あれ?」っと思いました。帯がしっかりしていて、はずす必要がないのはいい感じです。あと、「少し重いかな?」とは思いました。実際にどのようなねらいの仕掛けだったかはわかりませんが、この内容でそのような「仕掛け」はまだ早いというか、もったいないようにも思いました。でも、デビュー作だから、こだわるところはこだわりたかったでしょうか。

 何かにつけえらそうな書き方になってしまうのは、森田ファンだからです。まだ辛口の感想を見つけていませんが、「みんな、このくらいでいいのー!?」と私は思ってます。でも、辛すぎる意見を見つけたらとたんに擁護すると思う。

 なにしろこれは第一印象ですから、読み直すうちにガラッと印象が変わるかもしれません。そうなるとこのエントリは投稿しなくなると思うので、はやく投稿しちゃいます。もし勘違いや私がぜんぜんわかっていなかったことに気づいたら、あとで「ごめんなさい!」と補足することにして。・・・って、斜に構えているのは、他ならぬ私だったりしてー!?!?

(つづく)
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わかるということ/岡潔『春宵十話』ふたたび

 前回に引き続き、過去のエントリをふりかえっての補足です。

 2011年8月に、一応、岡潔『春宵十話』というエントリを書きました。

 で、昨年12月下旬、このなかの次の話をnoteのテキストに書こうとしたのですが……
この夏、「おじさん」からきいた話でいちばん印象に残ったのは、「わかる」ということについてでした。「おじさん」がどういう言葉を使ってどう説明したかはもはや覚えていませんが、わかるときには、自分ではっきりわかる、○とか×とかつけられる前に、それが正しいのか間違っているのか、自分でわかる。おじさんはそんなことを語っていましたっけ。だれかに正しいかどうかみてもらわないと、正しいのか間違っているかわからないのであれば、それはまだわかっていない。
 いざ書こうとすると、「あれ、岡潔、そんなこと言ってたっけ?どこで言ってたっけ?」と疑問に思えてきたのです。なので、確認しておこうと思い久しぶりに『春宵十話』をめくってみたのですが、該当箇所が見つけられず…。最初から最後まで読んでみても、結局見つけられず。

 たしかに、「わかる」ということについて岡潔は語っていますし、上記のことはまったくの勘違いというわけではなさそうです。でも、ニュアンスがちがう。話の深みが違う。

 というわけで、「わかる」ということについて岡潔がどんなことを語っているのか、本文から抜き出してみることにしました。岡潔『春宵十話』(光文社文庫/2006年)


「春宵十話−情操と智力の光」より
 私は数学教育にいくらかたずさわっている者として、高校までの教育の担当者に一つだけ注文したい。それは、数学の属性の第一はいつの時代になっても「確かさ」なのだから、君の出した結果は確かかと聞かれた時、確かなら確か、そうでなければそうでないとはっきり答えられるようにしておいてほしいということである。
(p.49)
 室内で本を読むとき、電燈の光があまり暗いと、どの本を読んでもはっきりわからないが、その光に相当するものを智力と呼ぶ。この智力の光がどうも最近の学生は暗いように思う。わかったかわからないかもはっきりしないような暗さで、ともかく光がひどくうすくなった。
(p.49〜50)
 これはただちにわかるはずの自家撞着が、人に指摘されなくてはわからないという程度の暗さである。
(p.50)


「無差別智」より
 無差別智は純粋直観といってもいいし、また平等性智といってもいいが、一言でいえば自明のことを自明とみる力である。これがあるから知能に意味があるので、これを無視した知能の強さというのは正しくいえば「物まね指数」にすぎない。だからこの力が弱いと何をいわせてもオウムのようなことしかいえないし、自分自身の自明の上に立てないから独自の見解など全く持てないことになる。そうなると限りなく心細くて、必死に他の自明にすがりつき、ただ追随し雷同するばかりである。
  陽炎や墓より外に住むばかり(蕉門)
  浮草や湯の沸く岸により茂る(虚子)
「みなが違うというのだから違うのかなあ」というふうである。これに対してこの智力があればいつでも自説が立つわけで、ガリレオが時代に先んじて真実を主張できたのもこの力があったためである。
(p.84〜85)


「三河島惨事と教育」より
 少なくとも機械をさわる人は、自分の判断によって、ここまでは確かで間違いないというところまでできるほどにしておかなければ、惨事はこれからもきっと起る。(中略)
 いま、たいていの中学、高校では答案が合っているかどうか生徒にはわからない。先生が合っているといえば合っているというだけで、できた場合もできなかった場合もぼうっとしている。本当は答が合うことよりも、自分で合っていると認めることのほうが大切なのに、それがわかっていない。(中略)
 答案などというものは、生徒に書かせるよりも本当は先生に書かせ、それが合っているかどうかを生徒が調べるほうがよいと思う。そうすれば自分で判断する訓練になるに違いない。答案は書けなくても意味はわかるという子供ができればそれでよいのだ。
(p.110〜111)


「義務教育私話」より
 黒板とか、鉛筆とか、紙とかいう外物に頼っていると、計算しなくては正しさがわからないとなる。これでは闇夜の中をちょうちんもなしに歩いているのと同じで、いつまでたっても闇夜から抜けられないだけでなく、闇は深くなる一方である。しかも昼というものを知らないから、それが闇夜であることに気づかない。
(p.135)


「数学を志す人に」より
 ところであなた方は、数学というものができ上がってゆくとき、そこに働く一番大切な智力はどういう種類のものであるかを知らなくてはなりません。それにはやはりポアンカレーの「科学と価値」が大いに参考になると思われます。この中でポアンカレーは数学上の発見が行なわれる瞬間をよく見る必要があると述べて、自分の体験からそれはきわめて短時間に行なわれること、疑いの念を伴わないことを特徴としてあげています。
(p.155〜156)
 また例をあげましょう。私が中学生のころ、数学の試験は答案を書き終ってからも間違ってないかどうか十分に確かめるだけの時間が与えられていました。それで十分に確かめた上に確かめて、これでよいと思って出すのですが、出して一歩教室を出たとたんに「しまった。あそこを間違えた」と気づくのです。そうして、しおしおと家路につくのです。たいていの人はそんな経験がおありでしょう。実は私などそうでない場合のほうが少ないくらいでした。教室を出て緊張がゆるんだときに働くこの智力こそ大自然の純粋直観とも呼ぶべきものであって、私たちが純一無雑に努力した結果、真情によく澄んだ一瞬ができ、時を同じくしてそこに智力の光が射したのです。そしてこの智力が数学上の発見に結びつくものなのです。しかし、間違いがないかどうかと確かめている間はこの智力は働きません。
(p.156〜157)
 別のいい方をすれば、絶えずきれぎれの意志が働き続けるのが大脳の過熱で、この意志が大脳前頭葉に働くのを抑止しなければ本当の智力は働かないということです。この本当の智力というのは、本当のものがあればおのずからわかるという智力で、いわば無差別智であります。自分が知るというのでなく、智力のほうから働きかけてくるといったものです。これにくらべれば、こちらから働きかけて知る分別智はたかの知れたものといえましょう。
(p.158〜159)

 ということらしいのです。智力、純粋直観、本当のものがあればおのずからわかるという"わかりかた”。

 山口昌哉先生が『数学がわかるということ』で数学者のエピソードを紹介しておられるのは、岡潔の話だったのではないかと私は推測しています。あくまでも推測です。そういう人は他にもけっこうたくさんいるかもしれず、なのでそういうエピソードを紹介している数学者は他にもいるのかもしれないのですが…。
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編集と自由とブリコラージュ/亀井哲治郎さんの文章から派生して

 小冊子『いま,遠山啓とは』に掲載されている、亀井哲治郎さんの「『数学セミナー』と遠山啓」を読んでいます(『数学教室』2010年12月号からの転載)。前回は数学者としての遠山啓の顔をのぞいたので、今回は『数学セミナー』の編集会議に出席する遠山啓の顔をのぞいてみようと思います。

 『数学セミナー』というのは、日本評論社が出している数学雑誌で、創刊は1962年とのこと。亀井哲治郎さんは1970年に正式に日本評論社に入社し、数学セミナー編集部に配属となったそうですが、それよりも前の12月から、アルバイトとしてほとんど毎日“出社”していたのだとか。単行本の校正をしたり、編集部の人から誘われて、東京工業大学における遠山啓の最終講義を聴きにいったり。

 毎月開催される編集会議は、ある号の何かの特集や記事を議論して決めるというものではなく、“談論風発”さまざまな話題に広がっていく、そういう会議だったようです。編集部のみならず矢野健太郎さんが話題を提供されることも多く、政治や週刊誌ネタもあれば、数学をめぐる動向や数学教育に関する問題、時には好みの女性のタイプなど、笑い声が絶えることなくあっというまに3時間が過ぎていった、と書いてあります。

 そして編集部員たちは、さまざまに展開する話題を追って懸命にメモを取り、その中から多くの企画が生まれたそうです。当時の編集長の野田幸子さんが、編集会議のひとときを「編集者教育のサロンだった」と称されたこともあるようです。

 亀井哲治郎さんいわく、編集顧問の方々は、自分たち編集部の出す企画について決して“NO!”と言われたことがない、と。むしろ、自分たちの意を汲んで後押しをしつつ、さまざまな角度からさらにアイディアを出して膨らませてくださった、とのこと。それをもとに、また編集部で議論し、“自由に”企画を立てていく…という形で雑誌はつくられていったようです。

 創刊時に編集顧問を引き受けるにあたって、遠山啓は、「僕たちはいくらでもアイディアを出すから,その中から編集部が“面白い”と思うものを選んで,自由に雑誌をつくったらいい」と言ったそうで、この言葉が編集部の企画の“自由さ”の根底にあり、そして編集者がみずから育っていく基盤となっていた、と亀井さんは書いておられます。

 編集者といえば、このブログでも富岡勝さんや小林浩さんのお名前を出させていただいたことがありました()。編集者の仕事の大きさをしみじみと感じます。

 そしてやはり、松岡正剛さんのことを思い出すのですが、実は千夜千冊の317夜『悲しき熱帯』レヴィ=ストロースで、松岡正剛さんはレヴィ=ストロースのブリコラージュを自分の言葉で「編集」と言い換えているのです。

 先日も名前を出したレヴィ=ストロースは、構造主義の祖であり、平たくいえば人文科学に群論を応用した人です。そして、アンドレ・ヴェイユはレヴィ=ストロースの研究に協力しているもよう。

 そのレヴィ=ストロースが見出したブリコラージュという方法に、私はこのあいだまでほとんど意識が向かっていなかったのですが、それがひょんなことでとても気になってきたきょうこのごろ。なぜかというと、坂口恭平さんに出会ったから。

 この夏、「ニート道」(←私の勝手な造語)にハマったことは書きましたが()、pha著『ニートの歩き方』経由で坂口恭平さんのことを知り、今度は坂口さんにすっかりハマったしだい。生活ブログで『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』と『独立国家のつくりかた』の感想を書いています。↓
http://sukkiri.artet.net/?cid=43773

 そしてきのう、集英社文庫の『TOKYO一坪遺産』を読み終えました。赤瀬川原平さんの『宇宙の缶詰』の話なども出てきます。私は坂口恭平さんの使う「空間」という言葉が好きです。そして、実際に“コンパクト”でありながら“無限”でもある空間で暮らしている人、商売をやっている人たちの話をスケッチとともに具体的にたくさん聞かせてくれるのが、とても面白いです。

 なんだかずいぶん話が派生して散乱してしまいましたが、「こういうことが考えたい」というイメージは自分のなかで膨らんできていて(必然的につながっていく)、しかし言葉は追いついていかず、いまひとつそれが形になっていなくて、もう少しだけそれをクリアに(複雑なら複雑なままに)してみたい、人と共有できるように、表現できるように、解像度を上げたい、と思っているきょうこのごろなのでございます。

〔2017年11月29日:記事の一部を変更しました〕
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遠山啓の「数学の未来像」と、山口昌哉のコメント

 以前、森毅が語る、遠山啓にとっての80年代というエントリで、
山口昌哉がどこかで「自分がいまやっている研究を遠山啓に見てほしかった」というようなことをちょろっと書いていたことが頭に浮かんだのですが、どこに書いてあったかが思い出せず、心あたりのある本をかたっぱしからのぞいてみたものの、いまだ見つけられず、です。
と書きましたが、その後、見つけることができました。遠山啓著作集<数学論シリーズ6>『数学と文化』の解説です。24冊もっている著作集のなかにこれは含まれておらず、行方不明だったのです。たぶん、過去に図書館で読んでいたのでしょう。
私はこのような遠山先生の発言を,このようなかたちでまとめて読ませてもらったのははじめてである。先生の意見に同感することが多い。そして,私や私のグループの研究についても遠山先生に知っていてほしかった。私たちは,まさに先生のいっておられる,10年前に予見しておられた方向に数学を発展させており,たとえば,この本の第珪呂僕集されている数学の未来像,つまり,構造的で,かつダイナミズムを描く数学がようやく開拓できた。遠山先生はそれを私から聞くことなく亡くなられたのは,まことに残念である。
 (p.288)

 その第珪呂暴颪い討△覬鷸碍爾痢嵜学の未来像」は、このブログで書いてきたこととほぼ同じ内容(構造的であってしかも動的であるもの、空間的であって時間的なもの)なのですが、このたびはじめて、そこに Category と Functor という言葉があることを知りました。そして、確率過程という言葉もありました。一時ほんのちょっとかじったマルコフ連鎖も、このあたりにかかわる話なんだろうか? 圏論にもう少し近づきたいのですが…なんかもうひとつ、間にたってもらうと助かるものが必要みたいです。
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ICCシンポジウム2005年「オープン・ネイチャー」から

 久しぶりにICCのサイトに行って、HIVEをのぞいたら、2005年のシンポジウムの映像を発見。

オープン・ネイチャー
情報としての自然が開くもの
シンポジウム「オープン・ネイチャー」
出演者: 大澤真幸,郡司ペギオ-幸夫,マルコ・ぺリハン
司会: 四方幸子

【前半】http://hive.ntticc.or.jp/contents/symposia/20050501

 郡司ペギオ-幸夫のところだけ観ました。開始23分30秒後くらいの質疑応答の内容がちょっと面白いかも。
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岡潔『春宵十話』を少しだけ

 帰省前の連絡で言及した手前、読後感をば。読後感といっても、実は最後のほうはまだ読んでおらず、途中もざっと目を通した程度なのですが。今度、春の宵にまた読み直そうかな、と。

 岡潔が話したものを毎日新聞社(当時)の松村洋氏が書き綴った文章であり、しかも帰省中に読み始めたからでしょう、「親戚のおじさんに、面白い話をきいている」という感覚でページをめくりました。昔ながらの日本家屋の八畳間に、重厚な黒塗りの座卓があり、私は庭に向かう障子を背にして座っていて、右前におじさんがいる。おばさんが丁寧に入れてくれたお茶をときどきすすりながら、おじさんの話をサシできく私。うんうんそうだね、とか、うーん、それはどうかな、とか、ああ、おじちゃんはやっぱりすごいねぇ、と相槌を打ちながら耳を傾ける。こんな青二才に、おじさんは本気で話をしてくれる。日本を憂いながら、静かな口調で。でも、どこか元気で、ほんの少しうれしそうでもある。本当であればこれは春の夜なのでしょうが、なぜか背後の庭から秋の虫の声が聞こえる気がしました。

 内容としては、松岡正剛さんの千夜千冊>岡潔『春宵十話』の“案内”のほうが面白いです。逆に、この案内を先に読んでいた私としては、「え? こ、これですか正剛さん?」と確かめたくなりました。もともと、小林秀雄の講演会での登場のしかたとか、「如何ですか。」という言い回しに、ほんのりかすかな違和感、わるくはないんだけれどいつものようにのっていけない気分というか、そういうものを感じていたわけなのですが、松岡正剛さんが私より入りこんでいるので、逆にひいてしまった、という面もあるのかもしれません。

 というか、なんというのだろう、こういう言い方も大変おこがましいのですが、私は岡潔のことは何も知らないのにも関わらず、岡潔がいちばん言いたいことの根っこはもう了解しているといったような感覚があり、「うーん、それはどうかな」という場面があっても、それは批判や次の思考につながる感情ではないのです。「まだまだ話を聞きたいから、もう少し元気でいてよおじちゃん。私も考えてくるから。じゃあね、また来るからね。」という感じで、本を閉じました。

 この夏、「おじさん」からきいた話でいちばん印象に残ったのは、「わかる」ということについてでした。「おじさん」がどういう言葉を使ってどう説明したかはもはや覚えていませんが、わかるときには、自分ではっきりわかる、○とか×とかつけられる前に、それが正しいのか間違っているのか、自分でわかる。おじさんはそんなことを語っていましたっけ。だれかに正しいかどうかみてもらわないと、正しいのか間違っているかわからないのであれば、それはまだわかっていない。
〔2015年1月11日追記〕この点について補足エントリを書きました。>わかるということ/岡潔『春宵十話』ふたたび

 あと、ケアレス・ミスと本質的なミスの話もしていましたっけ。本当の数学は黒板に書かれた文字を普通の目玉で見てやるのではなく、自分の心の中にあるものを心の目でみてやる。計算などしなくても直観でわかる。ただ、計算の利点はあとで間違いをみつけられることにある。心の中のものを心の目で見ていると、不注意による間違い、いわゆるケアレス・ミスがわからない、それを調べるには計算が役立ついえる、と。

 自分の論文などいつもケアレス・ミスが多く、わざわざ訂正文を送らねばならぬくらいだと「おじさん」は語っていました。しかし、ケアレス・ミスが多いことと、本質的なミスがないこととは対応し合うものらしく、これに反して、ケアレス・ミスの全くない論文にたまにミスがあれば、それは致命的なものであって、全体が思い違いだとさえいえるくらいである、と。

 ここを読んで思い出したのは、ポアンカレの論文は、現代数学の目から見れば論理的なまちがいが多いけれど、それでいて、全体で正しく、重要な仕事である、というようなことを斉藤利彌さんが言っていた…という話です(>)。

 以下、『春宵十話』所収、「義務教育私話」より。(p.136)
 
だが、計算能力だけのお先まっくらな目では、起ったことを批判できるだけであって、未知に向かって見ることはできないのである。
 数学教育の目的は決して計算にあるのではない。かたく閉じた心の窓を力強く押し開いて清涼の気がよく入るようにするのにあるのだ。数学教育は大自然の純粋直観が人の子の情緒の中心によく射すかどうかに深くかかわっているのであって、計算が早い、遅いなどというのは問題ではない。私たちは計算の機械を作っているのではないのである。
 数学の教え方としては「よく見きわめて迷う所なく行ない、十分よく調べて結果が正しいことを信じて疑わぬ」ようにさせるのがよい。

                         
 あらためて部分的に読み直すと、やっぱり「おじさん」はすごいです。ただ、現実に、小学校や中学校や高校で、そんな算数や数学を実現するにはどうしたらいいんだろう。みんなが、かたく閉じた心の窓を開いて清涼の気を入れるには、どうしたらいいんだろう・・・

 また来るね、おじちゃん。今度、遠山先生のことについてじっくり話そう。水道方式のこととか。あと、量の理論のことも。あれ、量の理論って知ってたっけ? それから、子育ての相談もさせてくださいな。じゃあね。きょうはありがとうございました。

〔2015年10月28日追記〕「ケアレス・ミスと本質的な間違いのちがい」を中心に、いくつか書き直しました。

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いまいちど、野矢茂樹『無限論の教室』

 あとがきが引用したくて図書館から借りてきた野矢茂樹『無限論の教室』。読みやすいこともあって、けっこうぱらぱらと読んでしまいました。いや、読んで“しまった”ということもないし、ナナメ読みのとばし読みなのですが・・・(^^; 面白かったです。

 これを1998年ではなく、今読んでよかったと思います。あのとき図書館で背表紙に呼ばれた意味が少しわかったような気がしました。ひとことでいえば「(実無限派に対する)可能無限派」の話()。と言っていいでしょうか。しかし、私がいまさら言うまでもなく、当時はけっこう話題になったのでしょうね。Amazonのレビューも多いし。

 登場人物であるタジマ先生が可能無限派なわけですが、つまりは、野矢茂樹さんが可能無限派ということなのだろうと想像しています。ちなみに、タジマ先生についてはモデルがいらっしゃるようで、その方を教師にして話を書いてみよう、というところから始まり、あとはタジマ先生なるキャラクターがかってに書いてくれたようなもの、とあとがきに書いてありました。確かにそんな感じがします。

 野矢先生と文通めいたやりとりをした池田くんは、タジマ先生・・・というか、野矢先生が、「カントールの対角線論法はまちがっている」とか、「√2は数ではない」とか、「実数の集合などは存在しない」なんてことをいうので、つっかかってきたようです。そんな野矢先生は孤軍奮闘しているつもりはなく、精神的な背骨はウィトゲンシュタインなのだとか。

 それにしても、あの「“答え”が入れ子の文通」の話を読んだときに、ぐわ〜っと広がったイメージがなんだったのか、結局、自分でもよくわからないままです。中心に向かう螺旋と、「やぎさんゆうびん」のことは書けましたが。だいたいそんなとこだったのかな? 無限と無関係ではないでしょうが、2人のやりとりでしかも「答え」が入れ子状というのがなんだか面白かったのです。普通の(?)自己言及、入れ子構造と違って、2人(2つ)だから。

 Amazonのレビューもいくつか読んでみました。読み方って人によっていろいろなんだなぁ、としみじみ思うことであり。面白くても面白くなくても、感想を書きたい人は書きたいものであり、人に伝えたいものであり。

 私はこのテイスト、嫌いじゃないです。タジマ先生のキャラも。

 「くくっ」とか「ふふふ」となったところをいくつか拾い出してみようかと思ったのですが(ほとんど数学的内容とは無関係の話)、このエントリを読んでおられる方が、これから『無限論の教室』を読まれることがあるかもしれないので、ネタバレしないように、何も書かずにいることにしました。(^^)

 結局、私も可能無限派なのかな。(9:1くらいで)

 0.9999999・・・=1ではないということをきいたときのこのホッとする感じはなんだろう?

 0.9999999・・・=1ではないことにほっとするというか、0.9999999・・・は1であると考えることもできるし、1ではないと考えることもできる、ということにホッとするのかもなぁ〜 
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「野矢先生&池田くん」の対話のイメージ

 野矢先生と池田くんの対話の様子を次のような図で表してみます。


 

 △廊,紡个垢襪發里覆里如↓,瞭睛討魎泙鵑任い泙后

 は△紡个垢襪發里覆里猫△魎泙漾◆
 △廊,瞭睛討魎泙鵑任い襪里如
 は,鉢△瞭睛討魎泙鵑任い泙后

 同様に、い廊 銑の内容を含んでおり、
 イ廊 銑い瞭睛討魎泙鵑任り、
 Δ廊 銑イ瞭睛討魎泙鵑任い泙后 

 こうなると、郡司ペギオ-幸夫『時間の正体』に出てきた過去を指定する変換Pastを思い出しますね。 


 
 青い矢印は何を表しているかというと、「答え」の順序なので、時間的前後関係(前が矢印の根元、後が矢印の先)を表しているといっていいのでしょう。

 今度は、その「答え」が何に対してなされたのか、という矢印を赤で示してみます。
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