TETRA'S MATH

数学と数学教育

ブログの記事を整理しながら思うこと

 ここのところ、比較的大胆に、ブログの記事を整理しています。「これはもういいかな」と思うものを削除したり、非公開にしたり。思えばずいぶん長い間、いろいろなことを書いてきました。

 記事数はもちろんのこと、カテゴリー数も多いので、整理するのをなかばあきらめていたのですが、始めてしまえばそんなに無茶苦茶な数でもないと思えてきました。ちなみにいまの段階で公開しているものが1100ほど、非公開のものをふくめると1450くらいになります。

 整理の作業のなかでしみじみ思うのですが、自分は基本的に、ブログの記事を「つながるもの」として書いてきたようです。そのこと自体はよいのですが、いざ整理するとなると困ることが。

 まず、自分の記事をリンクしているものが多いので、1つの記事を削除すると、そこにリンクを張っている記事も削除するか書き換えなくてはいけなくなってしまい、「こっちは削除したいけどこっちは残したい」というときに迷うこと。

 また、1つの記事や1つのシリーズものを削除すると、前後の流れを断ち切るので、やはり他の記事に影響を与えてしまい、削除か一部書き換えが必要となってくること。

 その結果、すべての記事をチェックする必要が生じているのですが、それを全部やるにはまだまだ時間がかかりそうです。

 さらに、自分の思考のプロセスを記録するのがブログを書く大きな目的だったので、あまり書き換えてしまうのもどうかと思うわけであり。それだったら、そのままの形で非公開にして資料にしたほうがいいのかなぁ、とも思ってみたり。

 などなど、逡巡しながらゆるゆると作業を続けています。

 
その他 | permalink

森田真生『数学する身体』の中身について少し

 まず、前回のささやかな補足をさせてくださいませ。「ちょうどいいデビュー作かも」の話のなかで、「森田さんの活動の場が広がってきて、森田さんを知っている人たちが増えてきて」と書きましたが、私は森田ファンを自称しながら実は森田さんの活動についてはほとんど認識していないので(そもそもファンの定義ってなんだ!?)、これはあくまでも私の勝手な推測・感覚でございます。

 以上、補足でした。

 さて、今回は中身に触れますので、若干のネタばれを含みます。が、読んでも支障のないレベルのネタばれです。(引用部分以外は、私が言葉や書き方を微妙に変えてまとめています)
 

*     *     *

 この本のなかで私が最初に「お!」と思ったのは(そして結局いちばん面白かったのは)、第一章のなかの「脳から漏れ出す」という一節に書かれてある、人工進化研究のとあるエピソードでした。

 「脳から漏れ出す」というタイトル自体には特にびっくりすることはなく、まあ、そういうことってあるだろうねぇと、何が「そういうこと」なのかわからないままに読む前は思っていたのですが、実際に読んでみると、予想していなかった話が書いてありました。

 イギリスのエイドリアン・トンプソンとサセックス大学の研究グループによる「進化電子工学」の研究について。

 人工進化というのは、自然界の進化の仕組みに着想を得たアルゴリズムで人工的にコンピュータの中の仮想的なエージェントを進化させる方法のことのようです。多くの場合はそうであるということで、いつでもかつでもそうということではなさそう。

 何かしらの最適化問題を解く必要があるとき、普通であれば、まず人間が知恵を絞って、計算や試行錯誤を繰り返しながら解を探すところ、人工進化の場合は、はじめにランダムな解の候補を大量にコンピュータの中で生成し、その上で、それらの中から目標に照らして、相対的に優秀な解の候補をいくつか選び出すのだとか。

 そうして、それらの比較的優秀な解の候補を元にして、さらに「次世代」の解を生成していくとのこと。

 そんなふうに、通常はコンピュータの中の(ビット列として表現された)仮想的なエージェントを進化させるのに対し、トンプソンたちは、物理世界の中で動くハードウェアそのものを進化させることを試みたそうなのです。

 課題は、異なる音程の2つのブザーを聞き分けるチップを作ること。結果として、およそ4000世代の「進化」の後に、無事タスクをこなすチップが得られたそうですが、最終的に生き残ったチップを調べてみると、奇妙な点があったのだとか。

 そのチップは、100ある論理ブロックのうち、37個しか使っていなかったらしいのです。これは人間が設計した場合に最低限必要とされる論理ブロックの数を下回る数で、普通に考えると機能するはずがないとのこと。さらに不思議なことに、たった37個しか使われていない論理ブロックのうち、5つは他の論理ブロックと繋がっていないことがわかったのだとか。

 繋がっていない孤立した論理ブロックは、機械的にはどんな役割も果たしていないはずなのに、驚くべきことに、これら5つの論理ブロックのどれ1つを取り除いても、回路は働かなくなってしまったのだそう。

 それはなぜなのか?

 ということについては本に書かれてあるのでここでは触れずにいますが、「すごいなぁ!なるほどねぇ!」と私は思いましたです。ひとことでいえば、物理世界の中を必死で生き残ろうとするシステムにとっては、「うまくいくなら何でもあり」なのでございます。

 あと、やっぱりというかなんというか、ユクスキュルも出てきていました(第三章)。環世界の話。このブログでも何度か話題に出しています。

 それからもう1箇所印象的だったのは、第二章のオープニングの次のくだり。
 私たちが学校で教わる数学の大部分は、古代の数学でもなければ現代の数学でもなく、近代の西欧数学なのである。
(p.49/太字は傍点付き)

 「そ、そ、それにはちょっと事情がありましてぇ」と、文脈をはなれて言い訳したくなってしまった私(なんで私が?と思いつつ)。ひとまずこれをリンクさせていただきます↓(1つめのリンクを追加しました。古いエントリなので、ちょっと自分で何かひっかかるものはありますが…)

私が思う遠山啓の「量の理論」と「現代化」の関係
 もちろん、森田さんがここで言いたかったことは、それはけしからんというような話ではまったくなく、学校で教わる数学の影響もあってか、「数学=数式と計算」というイメージを持っている人は少なくないけど、数式と計算をことさら重視する傾向自体が必ずしも普遍的な考え方ではなく、数学は時代や場所ごとにその姿を変えながら、徐々にいまの形に変容してきたのだよ、ということなんだと思います。

 また、アンドレ・ヴェイユと岡潔の邂逅のエピソードも面白かったです。ヴェイユが「数学は零から」と言うのに対して、岡潔は「零までが大切」と切り返した場面があったらしいという話(p.164)。

 いま抜き出したいのはだいたいそのくらいです。読み直しまとではいかないまでも、再度ざっとページをみくってみたところ、第一印象から特に大きな変化はありませんでした。これからまた変わってくるかもしれませんが。

 というわけで森田さーん。2作めか3作めあたりで、がっつりいっちゃってくださーい。濃いやつを!(いちファンより)
その他 | permalink

森田真生『数学する身体』の第一印象/まだまだこんなものじゃないと思ってる

 森田真生さんの(本としての)デビュー作が出版されましたね。

 森田真生『数学する身体』(新潮社/2015年)

 『考える人』『新潮』『みちくさ』に掲載されたものを大幅に加筆修正してまとめた1冊のようです。私は森田真生ファンなので、逆に、あまり浮き足立たないようにして感想を書いてみたいと思います。森田ファンがべたぼめしたら、読んでいるほうは鼻白むと思うので。というか、森田さんがこのくらいじゃベタぼめできないくらいは欲深いです私。

 「ちょうどよいデビュー作かもなぁ」と思いながら読みました。森田さんの活動の場が広がってきて、森田さんを知っている人たちが増えてきて(←私の勝手な推測)、そんななか多くの人に読んでもらうために、ちょうどよいのではないか、と 。数学の歴史もわかりやすくまとめてあるし。

 ただ、数学に興味をもっている人たちや、森田真生って何をやってくれるんだ?と気になりつつもやや斜に構えている人(がいるかどうかはわからないけれど)に対しては、まだ弱いと感じました。私はいつか、数学にある程度興味をもっている人をハッとさせる文章、ぐわーんとさせる文章、読んでいる途中か読んだあとで、しばらく考え込ませる本を、森田さんに書いてほしいです。

 私は一度だけ森田さんのナマの語りを聞いたことがあります。web上だけでその人となりに接していたときにはさわやかな若者だと思っていたのですが、ナマの森田さんは、思っていたよりはギトーッ!っとしたエネルギーを身体に湛えている人だと感じました。あの濃さがもっと絡んだ、さらさらと読めはしない森田さんの文章を、いつか読みたいな。何しろ私はこの本を読んで、特にショックは受けなかったので。

 とはいえ、もちろん面白かったです。岡潔はともかく、これまで「森田さんにとってどうしてチューリングなんだろう?」という思いが無きにしもあらずだったのが、最後のところで「なるほどねぇ〜」と思いました。あともうひとつ思ったことは、私は「自分の心」にまみれているということ。「情緒」ってそういうことだったのか、ということ。あの日、おじちゃんは、そこまで話してくれていたのだろうか?(←このエントリ、少し書き換えております)

 ちなみに、twitterだったかどこでだったか、この本には身体を感じさせる(?)仕掛けがある的な話を読んだ記憶があって、届いたときには「あんまり好きな色合いの装丁じゃないな…」としか思わなかったのですが、右手の指先が少し荒れてたせいか、後半を読んでいたら表紙の紙のざらざらを「ふっ」と感じて、そういうことあまりないので、ちょっとだけ「あれ?」っと思いました。帯がしっかりしていて、はずす必要がないのはいい感じです。あと、「少し重いかな?」とは思いました。実際にどのようなねらいの仕掛けだったかはわかりませんが、この内容でそのような「仕掛け」はまだ早いというか、もったいないようにも思いました。でも、デビュー作だから、こだわるところはこだわりたかったでしょうか。

 何かにつけえらそうな書き方になってしまうのは、森田ファンだからです。まだ辛口の感想を見つけていませんが、「みんな、このくらいでいいのー!?」と私は思ってます。でも、辛すぎる意見を見つけたらとたんに擁護すると思う。

 なにしろこれは第一印象ですから、読み直すうちにガラッと印象が変わるかもしれません。そうなるとこのエントリは投稿しなくなると思うので、はやく投稿しちゃいます。もし勘違いや私がぜんぜんわかっていなかったことに気づいたら、あとで「ごめんなさい!」と補足することにして。・・・って、斜に構えているのは、他ならぬ私だったりしてー!?!?

(つづく)
その他 | permalink

わかるということ/岡潔『春宵十話』ふたたび

 前回に引き続き、過去のエントリをふりかえっての補足です。

 2011年8月に、一応、岡潔『春宵十話』というエントリを書きました。

 で、昨年12月下旬、このなかの次の話をnoteのテキストに書こうとしたのですが……
この夏、「おじさん」からきいた話でいちばん印象に残ったのは、「わかる」ということについてでした。「おじさん」がどういう言葉を使ってどう説明したかはもはや覚えていませんが、わかるときには、自分ではっきりわかる、○とか×とかつけられる前に、それが正しいのか間違っているのか、自分でわかる。おじさんはそんなことを語っていましたっけ。だれかに正しいかどうかみてもらわないと、正しいのか間違っているかわからないのであれば、それはまだわかっていない。
 いざ書こうとすると、「あれ、岡潔、そんなこと言ってたっけ?どこで言ってたっけ?」と疑問に思えてきたのです。なので、確認しておこうと思い久しぶりに『春宵十話』をめくってみたのですが、該当箇所が見つけられず…。最初から最後まで読んでみても、結局見つけられず。

 たしかに、「わかる」ということについて岡潔は語っていますし、上記のことはまったくの勘違いというわけではなさそうです。でも、ニュアンスがちがう。話の深みが違う。

 というわけで、「わかる」ということについて岡潔がどんなことを語っているのか、本文から抜き出してみることにしました。岡潔『春宵十話』(光文社文庫/2006年)


「春宵十話−情操と智力の光」より
 私は数学教育にいくらかたずさわっている者として、高校までの教育の担当者に一つだけ注文したい。それは、数学の属性の第一はいつの時代になっても「確かさ」なのだから、君の出した結果は確かかと聞かれた時、確かなら確か、そうでなければそうでないとはっきり答えられるようにしておいてほしいということである。
(p.49)
 室内で本を読むとき、電燈の光があまり暗いと、どの本を読んでもはっきりわからないが、その光に相当するものを智力と呼ぶ。この智力の光がどうも最近の学生は暗いように思う。わかったかわからないかもはっきりしないような暗さで、ともかく光がひどくうすくなった。
(p.49〜50)
 これはただちにわかるはずの自家撞着が、人に指摘されなくてはわからないという程度の暗さである。
(p.50)


「無差別智」より
 無差別智は純粋直観といってもいいし、また平等性智といってもいいが、一言でいえば自明のことを自明とみる力である。これがあるから知能に意味があるので、これを無視した知能の強さというのは正しくいえば「物まね指数」にすぎない。だからこの力が弱いと何をいわせてもオウムのようなことしかいえないし、自分自身の自明の上に立てないから独自の見解など全く持てないことになる。そうなると限りなく心細くて、必死に他の自明にすがりつき、ただ追随し雷同するばかりである。
  陽炎や墓より外に住むばかり(蕉門)
  浮草や湯の沸く岸により茂る(虚子)
「みなが違うというのだから違うのかなあ」というふうである。これに対してこの智力があればいつでも自説が立つわけで、ガリレオが時代に先んじて真実を主張できたのもこの力があったためである。
(p.84〜85)


「三河島惨事と教育」より
 少なくとも機械をさわる人は、自分の判断によって、ここまでは確かで間違いないというところまでできるほどにしておかなければ、惨事はこれからもきっと起る。(中略)
 いま、たいていの中学、高校では答案が合っているかどうか生徒にはわからない。先生が合っているといえば合っているというだけで、できた場合もできなかった場合もぼうっとしている。本当は答が合うことよりも、自分で合っていると認めることのほうが大切なのに、それがわかっていない。(中略)
 答案などというものは、生徒に書かせるよりも本当は先生に書かせ、それが合っているかどうかを生徒が調べるほうがよいと思う。そうすれば自分で判断する訓練になるに違いない。答案は書けなくても意味はわかるという子供ができればそれでよいのだ。
(p.110〜111)


「義務教育私話」より
 黒板とか、鉛筆とか、紙とかいう外物に頼っていると、計算しなくては正しさがわからないとなる。これでは闇夜の中をちょうちんもなしに歩いているのと同じで、いつまでたっても闇夜から抜けられないだけでなく、闇は深くなる一方である。しかも昼というものを知らないから、それが闇夜であることに気づかない。
(p.135)


「数学を志す人に」より
 ところであなた方は、数学というものができ上がってゆくとき、そこに働く一番大切な智力はどういう種類のものであるかを知らなくてはなりません。それにはやはりポアンカレーの「科学と価値」が大いに参考になると思われます。この中でポアンカレーは数学上の発見が行なわれる瞬間をよく見る必要があると述べて、自分の体験からそれはきわめて短時間に行なわれること、疑いの念を伴わないことを特徴としてあげています。
(p.155〜156)
 また例をあげましょう。私が中学生のころ、数学の試験は答案を書き終ってからも間違ってないかどうか十分に確かめるだけの時間が与えられていました。それで十分に確かめた上に確かめて、これでよいと思って出すのですが、出して一歩教室を出たとたんに「しまった。あそこを間違えた」と気づくのです。そうして、しおしおと家路につくのです。たいていの人はそんな経験がおありでしょう。実は私などそうでない場合のほうが少ないくらいでした。教室を出て緊張がゆるんだときに働くこの智力こそ大自然の純粋直観とも呼ぶべきものであって、私たちが純一無雑に努力した結果、真情によく澄んだ一瞬ができ、時を同じくしてそこに智力の光が射したのです。そしてこの智力が数学上の発見に結びつくものなのです。しかし、間違いがないかどうかと確かめている間はこの智力は働きません。
(p.156〜157)
 別のいい方をすれば、絶えずきれぎれの意志が働き続けるのが大脳の過熱で、この意志が大脳前頭葉に働くのを抑止しなければ本当の智力は働かないということです。この本当の智力というのは、本当のものがあればおのずからわかるという智力で、いわば無差別智であります。自分が知るというのでなく、智力のほうから働きかけてくるといったものです。これにくらべれば、こちらから働きかけて知る分別智はたかの知れたものといえましょう。
(p.158〜159)

 ということらしいのです。智力、純粋直観、本当のものがあればおのずからわかるという"わかりかた”。

 山口昌哉先生が『数学がわかるということ』で数学者のエピソードを紹介しておられるのは、岡潔の話だったのではないかと私は推測しています。あくまでも推測です。そういう人は他にもけっこうたくさんいるかもしれず、なのでそういうエピソードを紹介している数学者は他にもいるのかもしれないのですが…。
その他 | permalink

遠山啓の「数学の未来像」と、山口昌哉のコメント

 以前、森毅が語る、遠山啓にとっての80年代というエントリで、

山口昌哉がどこかで「自分がいまやっている研究を遠山啓に見てほしかった」というようなことをちょろっと書いていたことが頭に浮かんだのですが、どこに書いてあったかが思い出せず、心あたりのある本をかたっぱしからのぞいてみたものの、いまだ見つけられず、です。

と書きましたが、その後、見つけることができました。遠山啓著作集<数学論シリーズ6>『数学と文化』の解説です。24冊もっている著作集のなかにこれは含まれておらず、行方不明だったのです。たぶん、過去に図書館で読んでいたのでしょう。

私はこのような遠山先生の発言を,このようなかたちでまとめて読ませてもらったのははじめてである。先生の意見に同感することが多い。そして,私や私のグループの研究についても遠山先生に知っていてほしかった。私たちは,まさに先生のいっておられる,10年前に予見しておられた方向に数学を発展させており,たとえば,この本の第珪呂僕集されている数学の未来像,つまり,構造的で,かつダイナミズムを描く数学がようやく開拓できた。遠山先生はそれを私から聞くことなく亡くなられたのは,まことに残念である。

(p.288)

 その第III章に書いてある遠山啓の「数学の未来像」は、このブログで書いてきたこととほぼ同じ内容(構造的であってしかも動的であるもの、空間的であって時間的なもの)なのですが、このたびはじめて、そこに Category と Functor という言葉があることを知りました。そして、確率過程という言葉もありました。一時ほんのちょっとかじったマルコフ連鎖も、このあたりにかかわる話なんだろうか? 圏論にもう少し近づきたいのですが、なんかもうひとつ、間にたってもらうと助かるものが必要みたいです。

その他 | permalink

岡潔『春宵十話』を少しだけ

 最後のほうはまだ読んでおらず、途中もざっと目を通した程度なのですが。今度、春の宵にまた読み直そうかな、と。

 岡潔が話したものを毎日新聞社(当時)の松村洋氏が書き綴った文章であり、しかも帰省中に読み始めたからでしょう、「親戚のおじさんに、面白い話をきいている」という感覚でページをめくりました。昔ながらの日本家屋の八畳間に、重厚な黒塗りの座卓があり、私は庭に向かう障子を背にして座っていて、右前におじさんがいる。おばさんが丁寧に入れてくれたお茶をときどきすすりながら、おじさんの話をサシできく私。うんうんそうだね、とか、うーん、それはどうかな、とか、ああ、おじちゃんはやっぱりすごいねぇ、と相槌を打ちながら耳を傾ける。こんな青二才に、おじさんは本気で話をしてくれる。日本を憂いながら、静かな口調で。でも、どこか元気で、ほんの少しうれしそうでもある。本当であればこれは春の夜なのでしょうが、なぜか背後の庭から秋の虫の声が聞こえる気がしました。

 こういう言い方も大変おこがましいのですが、私は岡潔のことは何も知らないのにも関わらず、岡潔がいちばん言いたいことの根っこはもう了解しているといったような感覚があり、「うーん、それはどうかな」という場面があっても、それは批判や次の思考につながる感情ではないのです。「まだまだ話を聞きたいから、もう少し元気でいてよおじちゃん。私も考えてくるから。じゃあね、また来るからね。」という感じで、本を閉じました。

 この夏、「おじさん」からきいた話でいちばん印象に残ったのは、「わかる」ということについてでした。「おじさん」がどういう言葉を使ってどう説明したかはもはや覚えていませんが、わかるときには、自分ではっきりわかる、○とか×とかつけられる前に、それが正しいのか間違っているのか、自分でわかる。おじさんはそんなことを語っていましたっけ。だれかに正しいかどうかみてもらわないと、正しいのか間違っているかわからないのであれば、それはまだわかっていない。
〔2015年1月11日追記〕この点について補足エントリを書きました。>わかるということ/岡潔『春宵十話』ふたたび

 あと、ケアレス・ミスと本質的なミスの話もしていましたっけ。本当の数学は黒板に書かれた文字を普通の目玉で見てやるのではなく、自分の心の中にあるものを心の目でみてやる。計算などしなくても直観でわかる。ただ、計算の利点はあとで間違いをみつけられることにある。心の中のものを心の目で見ていると、不注意による間違い、いわゆるケアレス・ミスがわからない、それを調べるには計算が役立ついえる、と。

 自分の論文などいつもケアレス・ミスが多く、わざわざ訂正文を送らねばならぬくらいだと「おじさん」は語っていました。しかし、ケアレス・ミスが多いことと、本質的なミスがないこととは対応し合うものらしく、これに反して、ケアレス・ミスの全くない論文にたまにミスがあれば、それは致命的なものであって、全体が思い違いだとさえいえるくらいである、と。

 ここを読んで思い出したのは、青土社『数学―複雑系の科学と現代思想』に書いてあった話です。ポアンカレの論文は、現代数学の目から見れば論理的なまちがいが多いけれど、それでいて、全体で正しく、重要な仕事である、というようなことを斉藤利彌さんが言っていた、という話です。

 以下、『春宵十話』所収、「義務教育私話」より。(p.136)

だが、計算能力だけのお先まっくらな目では、起ったことを批判できるだけであって、未知に向かって見ることはできないのである。
 数学教育の目的は決して計算にあるのではない。かたく閉じた心の窓を力強く押し開いて清涼の気がよく入るようにするのにあるのだ。数学教育は大自然の純粋直観が人の子の情緒の中心によく射すかどうかに深くかかわっているのであって、計算が早い、遅いなどというのは問題ではない。私たちは計算の機械を作っているのではないのである。
 数学の教え方としては「よく見きわめて迷う所なく行ない、十分よく調べて結果が正しいことを信じて疑わぬ」ようにさせるのがよい。

 あらためて部分的に読み直すと、やっぱり「おじさん」はすごいです。ただ、現実に、小学校や中学校や高校で、そんな算数や数学を実現するにはどうしたらいいんだろう。みんなが、かたく閉じた心の窓を開いて清涼の気を入れるには、どうしたらいいんだろう。

 また来るね、おじちゃん。今度、遠山先生のことについてじっくり話そう。水道方式のこととか。あと、量の理論のことも。あれ、量の理論って知ってたっけ? それから、子育ての相談もさせてくださいな。じゃあね。きょうはありがとうございました。



〔2015年10月28日追記〕「ケアレス・ミスと本質的な間違いのちがい」を中心に、いくつか書き直しました。
〔2018年3月21日追記〕さらに記事を整理しました。

その他 | permalink

ズッキーニ/ラタトゥイユ/内部観測/数学

 お店で野菜たっぷりのパスタを食べていて、その中に緑の縁のある薄色の半月切り状のものを見つけて、それがなんであるのか認識できなかったとします。食べてみても、味がするんだかしないんだかよくわからない。食感もなんと表現していいのかわからない。どう考えてもきゅうりじゃないし、ナスでもない。野菜ではあると思うけど、何かしら、これ。 

 過去の記憶をたどりながら考えこんでいても結局わからないので、向かいの席で同じ料理を何も気にせずパクパク食べている友達に、「これ、なんだろう?」ときいてみます。友達は「ん?」と彼女がフォークにさした半月切りの野菜を見て、こともなく答えます。「ズッキーニじゃん」と。しかし、きいた彼女は反応がいまひとつ。「ラタトゥイユとかによく入ってるやつだよ」 悲しいかな、質問した彼女はラタトゥイユがすでにわからない。

 それが彼女のはじめてのズッキーニ体験、ラタトゥイユ体験でした(ちなみに、この彼女は私でもなくモデルとなる知人がいるわけでもなく架空の人物です、はい)。

 彼女は数日後、スーパーの野菜売り場で、キュウリより少し太い緑色の細長い野菜を見つけ、そこに「ズッキーニ」と書かれてあるのを見つけます。これまでとおりすぎていた売り場でした。「ああ、これがズッキーニなのね。切る前はこんなんなんだ」 それが彼女の2度目のズッキーニ体験でした。

 ちょっと買ってみたくなった彼女はズッキー二を購入してCOOKPADを見ながらラタトゥイユを作りました。これが彼女の2度目のラタトゥイユ体験でした。はじめてにしてはなかなかおいしくできました。そして、同じレシピで、いろいろな人がいろいろなラタトゥイユ体験をしていることを知ります。

 それからしばらくズッキーニと縁がなかった彼女ですが、約1年後に、知り合いから自宅で作ったというズッキーニを数本もらいました。そのズッキー二は黄色でした。彼女は首を傾げます。「ズッキーニって緑色じゃなかったっけ?」  知人は答えます。「黄色いのもあるのよ。うちではよくカポナータにして食べている」と。彼女はさっそく、「カポナータ」を検索します。そしてまた首を傾げるのでした。「ラタトゥイユとカポナータって、どうちがうんだろう……」

       *       *       *

 なんでこんなことを考えているかというと、そろそろ……というかものすごく久しぶりに郡司ペギオ−幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』の続きを読もうとしていて、「第4章 内部観測からA系列・B系列へ」を読み始めたら、やっぱり「内部観測」という概念自体がなかなかつかめずに中身が頭に入ってこなくて、うーんうーんとうなっているときに、まさにその「内部観測という概念」という対象Xに対して、私が経験を積んでいないからこういうことになるのではなかろうか?と思ったしだいなのです。しかも、内部観測という言葉がさすところは、私はもう十分に体験ずみというか、日々やっていることなのだろう、というところまでは察しがつく……にも関わらず、です。

 内部観測をできるだけ正しく理解したい。松野孝一郎さんは、この概念で何を伝えようとしているのか。郡司ペギオ−幸夫さんは、この概念を使って何をしようとしているのか。ということを理解するために。というときの、正しい内部観測とはなんであるか。ズッキー二がズッキー二であることがわかるように、私は内部観測を自分の中に取り入れる日がくるのか。正しいズッキー二の正しさとは何か……。

 で、ついでにこんなことも思いました。「数学」だって、同じかもしれないなぁ、と。

 「数学」がなんであるかは、その人のこれまでの「数学」体験に拠ってたっているのかもしれない。しかし、その人が「それは数学だ」と信じ込むことだけでは成立し得ず、「数学」という概念をある程度、人と共有していなければならないし、共有していると感じられなければならない。という話になると、辻下徹さんの言葉を思い出します。

 数学の中で出てくる概念は、大抵、「定義」から始まるのに、数学という教科・学問そのものの意味は、厳格な「定義」からは始められないのが(と私は思っているのですが、どうでしょうか?)、面白いなぁと思います。

 しかし、たとえ、「数学とはなんですか?」という問いに対して、過不足なく明確に答えることができないとしても、 「そんなものは数学じゃない」という感覚をもつことはできるでしょう。そのときに、なぜその人が、「そんなものは数学じゃない」という感覚をもちえたかといえば、やはりその数学は、その人のこれまでの数学体験にそぐわないからだと思うのです。そして、なにゆえ数学ではないのかと問われたときに出てくる答えが、その人にとっての数学ということにもなる。たとえば「厳密ではないから」という答えが出てきたとき、その人にとっての数学の必要条件、あるいはメインの条件は、「厳密であること」になるのだろう。「科学」しかり、「学問」しかり、なのかもしれない。

 ズッキー二がズッキー二であることを知るということは、その色や形や大きさ、味や食感、料理方法を情報として知ることだったり、実物を見ることであったり、栽培したり、料理したり、料理したものを食べたりするということなのでしょう。しかし、体験するだけでは、知ることはできないのでしょう。それがズッキー二であることを認識しないと。

 そして、ひとたびその人なりの経験と定義(のようなもの)でズッキー二が認識されると、それが半月切りにされて加熱されていようと、丸ごとスーパーで売られていようと、黄色であろうと、ラタトゥイユに入っててもカポナータに入っていても、それはズッキー二であると認識できるのでしょう。もしかすると、細長くなくても、黄色と緑のまだらでも。ズッキー二はズッキー二なのだから。

 しかし、「ズッキー二」は野菜の名前であり、「ラタトゥイユ」は料理の名前であり、「内部観測」は概念の名前であり、「数学」は教科・学問の名前です。これらを全部同じ土俵で考えていいのだろうか。

 内部観測という概念についてズッキー二に思いをめぐらせていたら、なんとなくフレーゲのことも思い出しました()。いまの私のこのもやもやは、きっと実在論・反実在論にもつながっていくと思うのですが、何がどうつながっていくのか、いまはさっぱりわかりません。いつかつながる日がくるだろうか?

その他 | permalink

野矢茂樹『無限論の教室』のあとがきと内部観測

 最近は図書館に行っても、目的がないときは「数学コーナー」に立ち寄らないようになっていたのですが、先月、借りていた本を返しにいったときになんだか気がむいて、久しぶりに数学コーナーをのぞいてみたのです。で、背表紙を眺めていたら、ふと、野矢茂樹『無限論の教室』(1998年) が目にとまったしだい。「あらま、こんなところで野矢茂樹」なんて思いながらとりあえず手にとり、図書館内の椅子に座ってぱらぱらとページをめくってみました。

 もとより読み込む予定はなく、オープニングや途中の何ページかをパラパラとめくっただけで、内容はほとんど読まないまま、タジマ先生のキャラに「くくくっ」と心の中で笑いました。なるほどあとがきにあるように、著者はこの本を書くのが楽しくてしかたなかったことと思います。たぶん、書いた本人がいちばん楽しかったんじゃないかしらん!?

 で、あとがきを続けて読んでいたら、野矢茂樹と池田くんという学生の文通めいたやりとりの話が出てきて、それに妙に心を惹かれたのです。そのときは、借りるほどではないかな……と思って本棚にもどし、野矢茂樹と池田くんの“「答え」が入れ子になったやりとり”のことだけ頭に入れて帰ってきたのですが、このたびエントリを書くにあたり、図書館から借りてきました。

 そのやりとりとは、次のようなものです。
 本書の内容は、私が大学で一九九六年度と一九九七年度の冬学期に行った講義に基づいている。そして、一部の学生がこの講義をとても楽しんでくれていたことが、励みになっている。とくに、池田くんには感謝したい。池田くんを含む数名の学生は、講義が終わると必ず私に論戦を挑んできた。そして池田くんと私との間には何回かの文通めいたやりとりさえ行われた。彼から長い質問状が手渡され、私が「池田くんに答える」という返事をしたためると、次には「「池田くんに答える」に答える」が提出され、私はさらに「「「池田くんに答える」に答える」に答える」を書く、といった状態だった。本書の中に、彼からの質問がいくつか反映されている。
 本文の内容との関わりはともかく、上記のやりとりそのものを読んで面白いなぁと思うのは、最初の長い質問状をのぞいて「問い」がないことです。「問い」がないのに、ひたすら「答え」が続けられていく。

 となると思い出すのは「やぎさんゆうびん」のこと。しろやぎさんもくろやぎさんも、「さっきの手紙のご用事なあに」という手紙(最初の1通をのぞく)を出し続けます。こちらには「答え」がなくて「問い」だけがあります。ひたすら「問い」が続けられていく。(歌では2番までかもしれないけれど)

 「問い」だけを続けていくということは可能だと思うのですが、「答え」だけを続けていくというのは、不可能だと思うのです。問いのあるところに答えがあるとは限らなくても、答えがあるところには必ず問いがある。問いがなかったら、それは答えとは言わないだろう。

 実際には、池田くんが受け取った「池田くんに答える」には、池田くんへの質問が含まれていたのかもしれません。また、池田くんは「池田くんに答える」を読んでも疑問が解決しなかったか、新たな疑問がわいたかで、「「池田くんに答える」に問う」形で、「「池田くんに答える」に答える」が提示されたのかもしれません。

 でも、字面では「答える」という行為だけが繰り返されているので、まるで、やりとりそのものに「問い=答えを生じさせる何か」がないように見えます。なのに答えが続けられるとしたら、それはいわゆる内部観測でいうところの「同定」なのではないだろうか。

 松野孝一郎『内部観測とは何か』(2000年)から、序章の冒頭部分を読んでみます。
 経験は間断のない観測から成り立つ。その観測は経験世界の内部のみから生じて来る。経験世界内に現れる個物は何であれ、他の個物と関係を持つとき、相手から受ける影響を特定できる限りにおいて、その相手を同定する。しかも相手を同定する、とする観測はこの経験世界の内で絶えることがない。何が何を観測しようとも、その観測は後続する、果てしのない観測を内臓する。これを内部観測と言う。

 野矢先生と池田くんのやりとりは、いわば「対話」なのであり、行き交う矢印のジグザグ模様としてとらえることもできるのですが、「答える」が入れ子になっていると、内側か外側かのどちらかに向かう運動にも思えてくるのです。木の年輪やバウムクーヘンであれば、内側である「現在→過去」に、外側である「未来→現在」がまきつけられていくイメージがあり、野矢先生と池田くんの会話も、かぎかっこでくくっていくと、同じように外にまきつけるイメージになります。

 しかし、内部観測という観点でこの会話をみると、まるで、未来は現在に内蔵され、過去は現在をとりかこみ、世界は「巻きつけられる」ものではなく、「内側から膨らんでいくもの」に感じられてくるのです。相手が膨らんでくるというより、視点が内側へずれこんでいくことで、結果的に膨らんでいくというようなイメージでしょうか。

 あのあとがきを初めて読んだ日のイメージに、いま現在の私のイメージと言葉をあてがっていくと、そういうことになりそうな気がします。

 そして、外側へ向かう動きと、内側へ向かう動きは、実は本質的には同じなのではなかろうか……というようなことを感じたのです。

 その対話の様子を次のような図で表してみました。

  

 数字を丸付きにしてしまったので、太字にかえて示すと、21に対するものなので、1の内容を含んでいます。

 32に対するものなので2を含み、 
 21の内容を含んでいるので、
 312の内容を含んでいます。

 同様に、413の内容を含んでおり、
 514の内容を含んでおり、
 615の内容を含んでいます。 

 こうなると、郡司ペギオ-幸夫『時間の正体』に出てきた「過去を指定する変換Past」を思い出します。 


 
 青い矢印は何を表しているかというと、「答え」の順序なので、時間的前後関係(前が矢印の根元、後が矢印の先)を表しているといっていいのでしょう。

 今度は、その「答え」が何に対してなされたのか、という矢印を赤で示してみます。

  

 65に対するものなので、56を引き出したことになります。また、45を引き出し、それはやがて6をも引き出します。同様に、346を引き出し、236を、126を引き出したと考えられます。

 となるとこちらは未来を指定する変換Futureになりますね。


  

 先ほどの話とからめていえば、青い矢印の図のほうが、外に巻きつけていく世界で、赤い矢印の図のほうが、内側から膨らんでいく世界のイメージにつながります。


〔2018年3月21日〕複数に分けて書いていた記事をひとつにまとめて整理しました。
その他 | permalink

自己批判

 私はこのブログで時々、遠山啓や数教協を批判するようなことを書いているかもしれませんが、根底にはいつも、深い感謝と応援の気持ちを抱いています。何しろ、自称「数教協の落とし子」。時代的にも家庭環境的にも、遠山啓および数教協の恩恵を一身にあびて育ってきた人間だと自覚して久しいです。だからこそ、私の中に相対化されないまま入り込んできている考えを、あらためて取り出し、問い直し、そして受けとめなおす作業をしなければいけないのだろうと思っています。

 そしてもうひとつ思うことは、遠山啓が本当にやりたかったことの核の部分、遠山啓があの時代の数学者として教育者として、私たちにどんなメッセージを送ろうとしてくれていたのか、それを知りたい、ということがあります。もしかするとその核の部分は、現・数教協の先生たちも気づいていないかもしれない。それを知って、抽出して、自分の言葉で表現したい。というのが、私のライフワークの1つです。

 で。

 最近よく話題に出す、堤清二著『消費社会批判』ですが。著者に対して、「おまえがそれを書くか?」と思う人も多いだろうと思います。ということについては本人もあとがきで触れており、「体験をふまえた産業社会批判の書であると同時に、その中で経営者として行動してきた自らへの自己批判の書でもある」と書いています。
 このように書くと「今更そう言われてもなぁ」と思う読者もいるかもしれない。あるいは強い叱責の声もでるかもしれないと思う。

 でも、逆に言えば、堤清二ほどこの本を書くのに適した人がほかにいないのかもしれません。

 私は堤清二が特に好きでも嫌いでもないのですが、そんなつもりはなくてもどうしたってセゾン文化の影響は受けているだろうし、とにもかくにも最近しみじみ思うことは、1979年の段階で無印良品を作ったってのはあらためて考えるとすごいな・・・ということなので、ちょっと興味をもったのでした。あとがきにはこんなことも書いてあります。
・・・、そのことと平行して、あるいはそれにもまして私は今なお現場にあって日夜苦労しているビジネスマンとその指導者にこの書がどう受け取られるかが大変気がかりである。私はビジネス社会とその中で働いている人たちに深い共感を持っていると自分では思うが、この本の叙述の方法と姿勢がその気持をうまく伝えていないとすれば、それは私の表現方法とそれを支えるべき思想の浅さゆえである。

 なお、自己批判、自己批評の話については、鷲田清一『死なないでいる理由』にもちょっと出てきていました。>収縮する「わたし」
その他 | permalink

マージナル/意外なところで「境い目」に出会う

 年末にAmazonで堤清二『消費社会批判』の中古を注文したら、すぐに届きました。で、ざーっとページをめくってみたところです。まだ読んではいないので面白いかどうかはわからないけれど、いろいろなジャンルの人名や概念が出てくることに、ちょっと驚いています。でも、たとえばヴィトゲンシュタインやサイバネティックスが出てきても、不思議でないといえば不思議でないのかもしれません。

 この本を読もうと思ったのは、堤清二・三浦展著『無印ニッポン』の中でマージナル産業という言葉を知ったことがきっかけでした。マージナル産業とは何かというと、『無印ニッポン』においては、「一番端っこにあって、商品の性格が変わる場所にある産業」という説明がなされています。マルクス『資本論』第一巻第一章と関わる話であるらしく、「無印良品は、どんな人に支持してもらい、広がっていってほしいと思いますか。」という三浦展の質問に対する堤清二の答えの中で出てきます。

(堤清二の発言より)
どんな人でも、ものを購入して消費するときは、一人の確たる人間です。言い換えれば、どんな人間にも主権感覚はあるんだ、と。さて、流通産業はどういう認識のもとに成立するのか。資本主義生産様式で作られたものが消費者に手渡されるときに、その商品は個人の生産過程に入る。
 この点についてマルクスは、本来個人的生活過程であった商品が、資本主義になってからは、単なる労働力の再生産過程でしかなくなったということを言っているらしいのです。堤清二はこれを、「商品は労働力一般になってしまって、個性がなくなった」と読み、だから消費過程そのものに個性を復活させることが必要だ、と考えます。

 マルクスの言葉については『消費社会批判』でもっとわかりやすい説明がなされています。労働者が賃金を受け取り、それでパンやバターを買うのは、労働力を再生産する必要から行われる行為であって、それ以外ではない、とマルクスは分析したのだと。

 そして堤清二は、一番端っこの、商品の性格が変わるマージナルな場所で、消費者が自分を回復しやすい、個性の過程に入りやすいものを考えて提供するのは、流通業者として立派な役割ではないか……と主張するわけです。でも『無印ニッポン』の中で(つまり2009年の段階で)本人いわく、この考え方は広まっていないというか、ほとんど無視されている、と。理論の展開に独断的なところがあるのだろうと“(笑)”つきで自己分析しているようです。

 さて、『消費社会批判』の中でマージナル産業に触れられている部分はそんなに多くありませんが、まずはp.21において、「資本の論理」と「人間の論理」の境界に位置する流通産業として出てきます。

 ちなみに、『無印ニッポン』は2009年発行なので最近の話ですが、『消費社会批判』は1996年発行なので、ひとむかし、ふたむかし前の話です。実際、そんな印象があります。そして『消費社会批判』においては、「流通産業の思想とマージナル産業論の限界」という見出しの一節でマージナル産業の話が出てきています。p.22で堤清二いわく、
ここでいう、「人間の論理」とはいったいどんな論理なのか。人間の論理というのは、その結果行動が起こされる動機や要求を科学的に数値化しうる論理なのか。それは合理的で倫理的なものなのか。人間の論理とは本質的に非合理的なもので、科学的考察の対象になり得ないのではないか---という従来からあった立論に、マージナル産業論は充分に答えているとは言い難い。
 さらに続けてこう語ります。
 バブルという現象は、この人間の論理の非合理性の一面を露呈した現象だったように思われる。つまり、バブルという経済の混乱状態も人間の論理から発生している。それを道徳的、倫理的に批判することは必要であるが、経済学として、また経営学としてバブル発生の原因をつきとめ、理論的に裁断しておかなければ、バブルは再び登場するに違いない。
 そして後半p.206、207においては、「ネットワーク関係がもたらすもの(二)」という見出しの一節で、今度は「マージナル社会」という言葉が出てくるのでした。
その他 | permalink
  

| 1/2PAGES | >>
サイト内検索