TETRA'S MATH

数学と数学教育

論理学と数学の関係

 野矢茂樹『論理学』です。「第3章 パラドクス・形式主義・メタ論理」を読み始めていましたが、メインをがーっととばして、いきなり最後の“付論 論理主義”をのぞいてみます。

 フレーゲは「論理主義」と呼ばれる立場に立ち、その上で述語論理を構築しましたが、ラッセルのパラドクスによって挫折しました。

だが,いったいフレーゲが具体的に何をめざし,それがどのようにして挫折を余儀なくされたのかについては,これまで説明を省略してきた.理由は,論理主義の問題はむしろ数学の哲学に関わると判断したからである.

(p.155)

というわけで、野矢茂樹さんはこの付論において、「論理主義とはどのような立場であるのか、その立場からするとラッセルのパラドクスはどのように問題になるのか、そしてどのようにその解決が図られたのか」について、“玄関口から屋敷内を窺う程度に”説明を試みておられます。

 論理主義とは一言で言えば、数学を述語論理に還元しようとする立場、すなわち

(1) 数学的諸概念を述語論理の表現のみを用いて定義し、
(2) 数学の諸定理を述語論理の規則のみを用いて導こう

とする立場です。そして、論理学から数学へと踏み出る第一歩は、数と四則計算を扱う分野、すなわち自然数論(算術)であるというわけです。

 では、自然数論と論理学の違いはどこにあるのか?
 

例えば,述語論理では同一性「x=y」が扱われていなかった.他方、数学では同一性が扱われる。それは確かに違う点である。だが、論理主義の問題はそこにはない

 (p.156/斜体部分は本の中では傍点付き)

 そして、同一性はしかるべき論理的性質を満足する二項関係として述語論理の範囲内で定義できるとして、等号の公理が示されています。

 公理1 x=x(反射性)
 公理2 ((x=y)∧Ax)⊃Ay/x」(代入可能性)
    ただし,Ay/xはAxにおける変項xの任意のもの(すべ
    てでなくともよい)をyに置き換えた論理式を意味する。

 そのあと定理として、対称性(x=y)⊃(y=x)と推移性((x=y)∧(y=z))⊃(x=z)の証明。そして、等号のみならず四則演算もある種の関係として定義できるという話になり…

 じゃあ、数はどうなのか?

 数という対象を論理学に還元することはできるのか?

 論理主義の問題はここに集約される、と野矢茂樹さんは書いておられます。

 なんだかこの時点で、フレーゲがプラトニストであったことが腑に落ちるような気がしてきます。

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フレーゲとラッセル、そしてブラウワー

 野矢茂樹『論理学』の「第3章 パラドクス・形式主義・メタ論理」を少しのぞいてみたいと思います。

 野矢茂樹さんは、メタ論理について、理論的に語るか歴史的に語るか多少ためらった後、歴史的に語ることを選択しています。そしてまずは、1902年、ラッセルがフレーゲに宛てた手紙(いわゆるラッセルのパラドクス)の話から始まります。(以前のエントリでラッセルのパラドクスは1904年と書いてしまったけれど、1902年なんですね)

 この手紙により、フレーゲが為そうとしていたこと ―― 述語論理という新たな武器を用いて数学を論理学に基礎づけること ―― すなわち「論理主義」という構想は座礁することになりました。(……なんてさらっと私が書いていいのかよ〜と『算術の基礎』を手にしたあととなっては思う)

 で、カントールの名前がちょっとだけ出てきたあと、命題関数と集合の同等性の話になり、ラッセルのパラドクスの中身の説明を経て、ラッセルのパラドクスに対する反応の主だったものとして、(1)論理主義、(2)直観主義、(3)形式主義があげられています。

 そうしてブラウワーやヒルベルトが出てくるわけですが。

 以前、別の本でほぼ同じような流れでこの話をきいたときに、私はブラウワーに対して、(無限の扱いについて)構成主義的見方に立ち、排中律を拒否した人というような印象を抱いた覚えがあります。なので、直観主義ってなんだろう?において、“もともとは、ラッセルのパラドックスに対して「こういうパラドックスが生じるのは“無限”の扱い方に問題があるからだ」としたところから始まった主張であり、”と書いています。

 でも、金子洋之『ダメットにたどりつくまで』で垣間見るブラウワーの直観主義は、その域を超えているような気がするのです。ラッセルのパラドクスのような困ったことが起こったから「数学ってそうじゃない!」と主張するにしては、あまりにも言っていることがブっ飛んでいるというか。野家啓一さんが言うように、構成主義は確かにアンチテーゼだったのかもしれないけれど、そのアンチするテーゼって、もっと深いものがあったのではなかろうか(下記に補足あり)。いや、ラッセルのパラドクスが深くないということではもちろんなくて、なんというのだろう、ブラウワーにとって“譲れないところ”がもっと深く根強くあったというか。しかもその想いは一時的なものではなかったようだし、ブっ飛んではいないやり方でちゃんと成果も残している(らしい)のです。

 どっちかというとヒルベルトがイヤだったのかなぁと思うけれど、それぞれの主張の年数と影響の関係がイマイチよくわからないので、このへんはもっと調べてみないとなんともいえません。そう言えばヒルベルトって、よく見かける写真の印象もあって、おじさ〜んというイメージがあるのですが(だれだってずっとおじさんやおばさんじゃないんだけど)、1900年の講演の段階でまだ38才だったんですねぇ。ラッセルが28才。そっか、ブラウワーが物申した(1907年)のが26才で驚いている場合じゃないんだな。ちなみに1900年の時点でフレーゲは52才、カントールは55才。そしてクロネッカーはもういない。なんかこのへんまだよくわかっていないので、年表にまとめながらそれぞれの主張を整理していかないともやもやしています。

 ちなみに野矢茂樹さんは、「第4章 直観主義論理」の最初のところで、

 直観主義は数学における観念論であると言える.「存在するとは知覚されることである」というバークリーの有名なテーゼを数学の場面にあてはめて言うならば,直観主義にとって,「存在するとは構成されること」なのである.

(p.163)

と書いておられます。


〔補足〕 もちろん野家啓一さんはアンチテーゼのことをアンチ「論理主義」という意味で書いておられるわけではまったくなく(そういう話の流れではないので)、常識的世界観や常識的科学像に対するアンチテーゼという意味で書いておられます。

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直観主義論理では成り立たない定理

 直観主義論理が出てくる前の従来の命題論理、つまり古典論理の公理系で「二重否定」がなくなったことで、なぜ、「排中律」の証明ができなくなるのか。それを考えるために、まず、古典論理での排中律の証明を勉強することにしました。

 これがね、なんかね、スゴイのよ。

 野矢茂樹さんも「初心者には難しいかも、ここでくじけないでね〜」とおっしゃっています。

 何はともあれ、見てみます。



 閉塞しているんだか大胆なんだかよくわからない世界です。ゆっくり見ていくと、なるほどねぇと感心することしきり。でも、1行間違いが入っていてもだまされそう(!?)な気分ではあります。

 [1]も[2]も否定の形をした背理法の仮定なので、(5)と(8)は否定除去型の背理法()となり、直観主義論理ではアウトになるのだと思います。

 次に、直観主義論理ではド・モルガンの法則のうちの1つ

        ¬(A∧B)⊃(¬A∨¬B)

が成り立たないわけを考えます。古典論理では次のような証明になっています。



 (3)で使っている定理は証明済みのド・モルガンの法則の1つです。途中で二重否定を2回使っているし、否定除去型の背理法もあるし、どう考えてもアウトかな。じゃあ、他のド・モルガンの法則はどうなのかというと、あとの3つはみんな二重否定も否定除去型背理法も使っていないのです。不思議なことに。ちなみに、(¬A∨¬B)⊃¬(A∧B)は二重否定導入A⊃¬¬Aは使ってあります。上のド・モルガンの法則も二重否定なしで証明できないのか?と気になりますが、トライする気力はなく……。

 こうやって証明をながめてみると、背理法って便利だなぁとしみじみ思います。背理法なしじゃなんにもできないな。

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直観主義論理の公理系

 というわけで、野矢茂樹『論理学』から、直観主義の公理系をみてみたいと思います。命題論理の完全な公理系の「二重否定」が「否定除去」に変わります。

直観主義命題論理の公理系LIP----------------------

規則1[演繹規則DR]
 Aを仮定してBが導出されるとき,Aという仮定なしにA⊃Bを導出してよい

規則2[前件肯定式MP]
 A,A⊃BからBを導出してよい

規則3[背理法]
 A⊃(D∧¬D)から¬Aを導出してよい

規則4[否定除去]
 D∧¬Dからは任意のAを導出してよい

規則5[結合]
 A,BからA∧Bを導出してよい

規則6[分離]
 (1)A∧BからAを導出してよい
 (2)A∧BからBを導出してよい

規則7[∨入れ]
 (1)AからA∨Bを導出してよい
 (2)BからA∨Bを導出してよい

規則8[∨取り]
 A∨B、A⊃B、B⊃CからCを導出してよい

--------------------------------------------------

 「二重否定」というのは「¬¬AからAを導出してよい」というものであり、「¬¬Aが証明されたとすると、¬Aは証明されえないので、Aとしてよい」という考え方ですが、直観主義では後半の「¬Aは証明されえないので、Aとしてよい」の部分を認めません。¬AとAのどちらかであるとは考えないので。

 そして、否定除去型の背理法の場合、「¬Aと仮定したら矛盾が出たから¬(¬A)、だからA」という流れになり、最後で二重否定の考え方を使っているので、直観主義では認められないのだと思います。たぶん。

 なお、二重否定除去「¬¬A⊃A」は認められませんが、二重否定導入「A⊃¬¬A」の定理は成り立つそうです。

 また、直観主義論理の「否定除去」は「矛盾からは何を導出してもよい」といっているような規則で、ここで矛盾を拒否しているわけですが、従来の命題論理においては定理になっています。(でも古典論理の定理の証明で二重否定が使われているんですよぉ。なんか不思議。ひょっとすると二重否定なしの証明も可能なのかな? あるいは公理にしちゃったもんがち?)

 というわけで、公理としては「二重否定」よりも弱い「否定除去則」を取り入れているので、直観主義論理は古典論理の部分系ということになるようです。その結果、排中律を含むいくつかの定理が定理ではなくなります。

 そんなこんなで、排中律を認めないという立場から公理系の規則4が変わったのか、公理系の規則4を変えた結果、排中律が証明できなくなったのか、そこんところがいまひとつのみこめないのでした。

 でも、排中律を認めない態度も、二重否定を認めない態度も、否定除去型背理法を認めない態度も、根は同じであり、それが直観主義ということなのかもしれません。そういう態度のうちいちばんわかりやすく明確な争点となったのが「排中律」ということなのかもしれません。

(つづく)

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直観主義論理が認めないもの

 これからしばらくは、野矢茂樹の『論理学』を参考文献にします。

 さて、直観主義者が拒否したものは「排中律」だと考えるのが一般的というか、私もぼんやりそう覚えていたし、野矢茂樹『論理学』にもそう書いてあるのですが、いざ直観主義による命題論理の公理系をながめようとすると、「排中律」を拒否したという発想ではなかなか理解が進みません。

 というのも、従来の命題論理において「排中律」は“定理”であり、公理系の規則の中には含まれていないからです。むしろ、直観主義者は「否定除去形の背理法を拒否した」と考えたほうが、話がわかりやすいです。正しい認識であるかどうかはおいといて。

 背理法には、次の2つのタイプがありますが、

 1.〔否定導入型の背理法〕
  Aを仮定して矛盾が出る,それゆえ¬A
 
 2.〔否定除去型の背理法〕
  ¬Aを仮定して矛盾が出る,それゆえA

 直観主義は1は認めるけれど、2は認めないということらしいのです。

 たとえば、「存在することは構成されること」だとして、「では存在しないことをどう証明すればいいんだ? 存在しないものを構成することはできないぞ……」という疑問がわいたとき、直観主義論理は〃燭稜慷法で「構成できないこと」を証明します。「存在すると仮定したら矛盾が出た、よって存在しない」というふうに。だけど、「存在しないと仮定したら矛盾が出た、よって存在する」とは考えないらしいのです。

 構成主義的見方としての直観主義論理を考えると、なんかそれっておかしくない?と言いたくなるときがあるけれど、直観主義論理の公理系をもとに「そういう世界なのだ」と考えれば、それはそれで全然オッケーだという気がしてきます。

(つづく)

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直観主義ってなんだろう?

 山下正男『論理学史』は、次のような構成になっています。

第吃
 第1章 名辞論理学の発生
 第2章 近代における名辞論理学の完成
 第3章 命題論理学の成立
 第4章 限量論理学の成立

第局
 第1章 古代論理学の性格
 第2章 中世論理学の性格
 第3章 近世論理学の性格
 第4章 近代論理学の性格

 TETRA'S MATH においてこれまで話題に出してきたのは、第吃瑤梁茖云蓮第2章のほんの一部です。結局、私の興味は「ハッセ図」にあったのだと、しみじみ思うことであります。なお、第3章の命題論理学も(使う記号は違いますが)名辞論理学と同じハッセ図が示されたあと、話が進んでいきます。

 さて、今度は第3章の後半をちょっとのぞいてみたいと思います。命題論理学の成立を全部すっとばし、ハイティングの直観論理の話題に入ることになります。なぜここに興味をもったかというと、新しい---これまでのシンメトリーがくずれた---ハッセ図が出てくるからなのです。

 直観主義といえば、ブラウワーという人の名前が思い出されます(なお、山下正男『論理学史』にブラウワーは出てきません)。たぶんこの方が、直観主義の創始者というか、源流をつくった人なのだと思います。もともとは、ラッセルのパラドックスに対して「こういうパラドックスが生じるのは“無限”の扱い方に問題があるからだ」としたところから始まった主張であり、その流れをくんで直観主義論理の公理を初めて整えたのがハイティングということのようです。

[補足:2010年8月29日] 「無限の扱い方の問題から直観主義が始まった」わけではなさそうです。>数学はメンタルな「行為」だと主張した人:ブラウワー

 直観主義論理とは何かを知るために、久しぶりに野矢茂樹『論理学』を開くことにしました。

 直観主義は「存在するとは構成されること」という構成主義的見方に立っており、人間が構成していないものは何ひとつ存在しない、という態度をとります。たとえば無限についていえば、「無限の総体がすでに存在してる」というのは実在論的見方であり、直観主義者はこのような無限観を認めません。「無限とはすでに存在する総体ではなく、際限なき作業の軌跡として可能的に開かれているものにすぎない」と考えます。

 そして、実在論的見方と構成主義的見方のもっとも明確な争点となったのが「排中律」だったのだそうです。

 排中律とは、「A∨¬A」・・・「<A>が真であるか、または<Aではない>が真である」という意味であり、実在論者は、Aが真かどうかは知らなくても、「<A>が真であるか、または<Aではない>が真である」ことまでは確定していると考えます。しかし、直観主義者は<A>が真であることも、<Aではない>が真であることも証明できていないのに、そのどちらかであると確定していいわけがない、と考えます。

 面白いのは、野矢茂樹『論理学』では「排中律が使えないと不便でしょうねぇ」という会話がなされているのに対し、山下正男『論理学史』では、「排中律を要求しないので(古典論理より)自由になった」と書かれてあることです。野矢茂樹『論理学』でのぞき見る直観主義と、山下正男『論理学史』でのぞき見る直観主義は、ずいぶん趣きが違います。前者はそれなりにわかりやすいのですが、後者は「なんだか面白そうな話をしている」ということだけは感じられるものの、どうしてああいうハッセ図になるのか、いまひとつわかりません。ここをなんとか理解したい。

(つづく)

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4次元のハッセ図

 論理学の幾何学的表現・2の図はとてもきれいでした。このような点対称の図に表すことで、双対原理も感じられたし、群論的構造も感じることができました。

 一方、『情報の論理数学入門』のハッセ図は、直方体(立方体)の見取図のような形をしています。たとえば、元が3個である集合{a,b,c}のベキ集合を考え、含む含まれるの関係を立方体見取図的ハッセ図に表すと、次のようになります。

  

 位相的には点対称の図と同じだと思いますが、このかき方ならではの面白さ、便利さが最近ようやくわかってきました。

 ついでといってはなんですが、それぞれの点に添える記号を変えることにします。含まれていないことを0、含まれていることを1と表すことにして、abcの順で、たとえば{b}はbだけが含まれているので010、{a,c}はaとcが含まれているので101、Φは000、{a,b,c}は111というふうに0と1の組み合わせ3文字で表すことにします。

  

 同じ考え方で、元が4個の場合のハッセ図をかきたいわけですが、このとき最初からかきなおすのではなく、上記の直方体図をコピー&ペーストして、斜め上方にかき加え、対応する頂点どうし線分で結んだあと、もとの直方体の各頂点の数字には末尾に0を加え、新しく重ねた直方体の各頂点の数字には末尾に1を加えます。テキストにそう書いてあるわけではないのですが、私は以上のように理解しました。というか、そういうふうにかくとラクなのです。(なーんて言いながら、線が重ならないようにかくのが意外と難しくて、かきなおしちゃったのですが)

  

 同じ考え方で、元が1個の集合(ベキ集合2個)、元が2個の集合(ベキ集合4個)、元が3個の集合(ベキ集合8個)の場合を順々に考えていくと、次のようになり、それぞれブール代数のB2、B2^2、B2^3のハッセ図に対応しています。

  

 テキストに載っているわけではなく、私の勝手な解釈なので、あまり信用しないでください。

 本当にこんな考え方をしていいのかな? どうなんだろう?

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アリストテレスの「A命題」をハッセ図にのせてみる

 山下正男『論理学史』では、論理学の幾何学的表現のような図が最初に示されたうえで、まずはプラトンの「イデアの分割」から話が始まります。そして、ネオ・プラトニズムの「ポルピリオスの樹」へと進み、インドの論理学にふれたあと、アリストテレスの名辞論理学へと移っていきます。ブールが出てくるのはそのあとです。

 ブールが出てくるよりも前の部分で面白かったのは、アリストテレスが扱う命題をハッセ図にのせるプロセスです。アリストテレスには次の4種がありますが、

 ■すべてのaはbである(A)
 ■あるaはbである(I)
 ■いかなるaもbではない(E)
 ■あるaはbでない(O)

このうちのI、Oは基本的には4つの領域をもつベン図で表せるけれど、AとEについては3つの領域からなるベン図になるので、もとのハッセ図と同じにはなりません。しかし、もとのハッセ図に細工をすることで、A命題、E命題に対応するハッセ図を作ることができます。

 その経過をみていきます。

 すべてのaはbであるということは、aの輪がすっぽりbの輪に含まれているということであり、aなのにbではないという部分がない、ということになります。

  

 その結果、下の点線でつないだ部分は同じになり、点線部分をなくして考えてよいことになります。

  

 実際に、点線を1本ずつなくしていくと……

  
  
  
  

 これを動画でみたら楽しいだろうなぁ。

 そうしてできあがった最後の図を整理すると次のようになります。

  

 山下正男『論理学史』の図19は上記のことを語っているのだと理解するまでに、けっこう時間がかかりました。実際に自分で図を変形してみて、やっとわかりました。
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論理学の中の群論的構造

 論理学の幾何学的表現・2で示したように、点対称の位置にある要素どうしは互いに否定になっているので、「否定する=180度回転させる」という操作が成り立ちます。そして、2回否定すると自分自身にもどります。この話ですぐに思い浮かぶのは、複素数平面でのi^2=−1です。

 さて、点対称の位置関係はわかったとして、では上下や左右に何か関係はないかということを、下のピンクで囲んだ4つの要素間の関係について考えてみます。

  

 上下の関係は論理学の幾何学的表現と双対原理で示したように∪と∩を入れ換えたものになっています。また、左右の関係は、a、bのそれぞれを否定したものになっているし、さらに、斜めの関係はa、bのそれぞれを否定して、かつ、∪と∩を入れ換えたものになっています(ド・モルガンの法則そのもの)。各操作を順に「左右」、「上下」、「斜め」とし、さらになんの変化も起こさない操作を「もと」とすると、この4つの操作は群()をなし、次のような乗積表がかけます。

       

 ちなみに、上と同じ変換操作が、下の4つのピンクの枠でも成り立ちます。

  

 もし、ab →  ̄a ̄b →  ̄a∪ ̄b → a∪b と移動できるような1種類の操作があったら、複素数平面上でiをかけていくように順に移動できて面白かったかもしれないけれど、さすがにそれは無理かな。さらに内側の正八角形をなす点どうしに関係があったら・・・・・・と欲望はつきませんが、とにもかくにも、「左右」「上下」「斜め」「もと」にはきれいな関係があることがわかりました。
 
 この「左右」「上下」「斜め」「もと」はいわゆるクラインの4元群になっています。テキストではl、m、n、eというアルファベットで示されているものを日本語で表してみましたが、かえってわかりにくくなったのではないかという懸念がなきにしもあらず・・・…。ま、いっか。 
(クラインの4元群といえばあれですね、レヴィ=ストロースのカリエラ型婚姻規則。)

 論理学のなかのこのような群論的構造を発見したのが、ピアジェなのだそうです。

 え、ほんと!?

(つづく)

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論理学の幾何学的表現と双対原理

 束の公理では、+と・が対称な形で現れます。したがって、この公理から得られる結果は、+と・を交換しても同じように成立します。このことを、束における双対原理というそうです。

 論理学の幾何学的表現において、この双対原理は上下の対称として現れています。(∪を+として考える)



 a∪bの∪を∩にかえるとabになるし、 ̄a∪bの∪を∩にかえると ̄abになる・・・という具合です。Iの真下にある点Pの部分とOの真上にある点Qの部分については、どう考えればいいのか最初わからなかったのですが、かっこつきの(∩を使った)式も示してあったので、ここから考えればよいのだと気づきました。点Pも点Qも、下の赤い点からきた矢印の先と考えると「∪」を使って表せるし、上の青い点に向かう矢印の元と考えれば「∩」を使って(  )∩(  )→(  )(  )の形表せるのですね。



 なので、それぞれの式において、∪と∩を入れ換えてあげれば、PとQが対応していることがわかるし、それに図をあわせると、互いに互いの否定であることも目で見てわかります。



 IとOも次のように考えれば、双対になっています。


 なるほど〜

 

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