TETRA'S MATH

数学と数学教育

神の知識状態

 野矢茂樹『論理学』の「第4章 直観主義論理」を読んでいます。本の中では、クリプキ・モデルに基づいた直観主義命題論理の意味論の、それぞれの項目を確認していったあと、登場人物の1人である無門が、「真理表のときのような感銘深さに欠けるなあ.」と口にします。で、野矢さんが、「そうでしょうねえ」と受けながら、いまのを真理表で表わすことはできないが、真理表で与えた古典命題論理の意味論をいまのような形で与えることはできるとして、古典命題論理の意味論を記号「||―」(実際にはもっとくっついていて、〒を左に倒したような記号)を使って示しています。

古典命題論理の意味論
 
論理式Aに対して,<||―>を次を満足するように定義する.
(1) ||―P∧Q ⇔ ||―P かつ ||―Q
(2) ||―P∨Q ⇔ ||―P または ||―Q
(3) ||―P⊃Q ⇔ ||―P ならば ||―Q
(4) ||―¬P ⇔ (||―の否定記号)P

 つまり、知識状態の話を全部はしょった形になっており、<||―P>は「Pは真」と読めるというわけです。そして野矢さんは、「あるいは,ちょっと茶目っ気をだしてこうかいてもよかったんですけどね.」として、次のような表記を示しています。
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「クリプキ・モデルに基づいた直観主義論理の意味論」をながめながらあれこれ考える

 クリプキ・モデルに基づいた直観主義論理の意味論をつらつら見ていくことにします。

 まず、機2)の推移性「αRβ,βRγならば,αRγ」を考えると、α、β、γというのは関係Rにおいて順に並んでいるようなイメージがあります。わかりやすいところでいけば数の大小がありますし、連絡網の前後関係なども思い浮かびます(なにしろ連絡網というものと関わりの深い生活なので…)。

 そして、「α||―P」というのが「知識状態αで論理式Pが証明されている」に相当するのならば、αは知識状態のことだから、βもγも知識状態のことであり、それをふまえて関係Rを考えれば、大小関係というより前後関係、言ってしまえば時間的な前後と考えていいのかもしれません。

 で、私はこれをもとにあれこれ思いをめぐらせました。どんどん脱線しながら。
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クリプキ・モデルに基づいた直観主義論理の意味論

 野矢茂樹『論理学』の「第4章 直観主義論理」を読んでいます。

 この本のp170に、クリプキ・モデルに基づいた直観主義論理の意味論がまとめられているのですが、野矢茂樹さんは、その具体的な内容をみていく前に、「認識史」「知識状態」という言葉を使って漠然としたイメージを示されています。

 「認識史」というのは、証明によって知識がだんだと増えてくる人間の知の歩みのこと、「知識状態」というのは、無知と全知のはざまにあって、いろいろな状態を示す人間の知識の状態のことです。

 証明は知識状態を変え、また、ある命題が証明されているか否かは知識状態に依存している、というわけです。

 (古典的な)命題論理や述語論理においては、「真理」が意味論の中心概念でしたが、直観主義命題論理においては「証明可能性」が意味論の中心概念であり、それはつまり「知識状態aのもとで証明可能」という概念ということになります。

 こうした動的な見方の中で、論理的真理はどのように位置づけられるのか?
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いつか読む本のメモ

ソール・A.クリプキ
名指しと必然性―様相の形而上学と心身問題

(関連ページ)
三浦俊彦の時空間
三浦俊彦「(知の先端の18人)ソール・クリプキ」『大航海』1999年6月号 pp.132-137.
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直観主義論理の意味論(証明可能性)

 そろそろ金子洋之『ダメットにたどりつくまで』にもどろうと思っていたのですが、第2章の途中から読み進むのに苦労するようになってきました。ので、もう少し野矢茂樹『論理学』をおもな拠り所にして、直観主義について考えていきたいと思います。

 直観主義は、無限に対して構成主義的見方に立つので、排中律の無制限な使用を拒否します。排中律というのは「A∨¬A」すなわち「<A>が真であるか、または<Aではない>が真である」ということであり、たとえば、Aを「宇宙人はいる」とすると、「宇宙人はいるかいないかのどちらかだ」という考えを示していることになります。宇宙人がいるかどうかは知らなくても、宇宙人はいるかいないかのどちらかであることは確定している、と。

 こんなふうに考えられるのも、「世界はわれわれの認識とは独立に在る」という態度があればこそであり、それはつまり実在論的態度ということになります。これに対して直観主義は数学に対して反実在論的態度をとり、人間が構成していないものは何ひとつ存在しない、と考えます。
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タイプ理論ってなんだろう?

 野矢茂樹『論理学』第3章の付論は、このあと「数の定義」の話に入っていき、数学と論理学を峻別した一人としてカントの言葉もあげられています。このあたりは割愛して先に進むと、「タイプ理論」の説明がごく簡単になされています。付論のここが読みたかったの。

 タイプ理論というのは、ラッセル自身が、論理主義の立場からラッセルのパラドクスに立ち向かって構築した体系なんだとか。パラドクス回避の手段としては現在では主流をはずれてしまったらしいのですが、タイプという考え方は生きているとこのと。

 ラッセルのパラドクスには、「自分自身に述語づけられない述語」という命題関数(述語)バージョンにしろ、「自分自身を要素にもたない集合」といった集合バージョンにしろ、自分自身について何ごとかを述べる表現、つまり「自己言及表現」の問題があるわけなのですが、ラッセルのアイデアのポイントは、このような自己言及表現の禁止にあったようなのです。
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論理学と数学の関係

 ブログでエントリを投稿するときには、カテゴリーを選択するわけですが、TETRA'S MATH では「論理学」と「論理数学」というカテゴリーを作ってしまっています。“しまっています”というのは、特に深い考えもなく、テキトーに作ってしまったので。で、ここにきて、カテゴリーをどうしたものか少し困っています(いや、困っているというほど困っているわけでもないのだけれど…)。いったいどういう感覚や発想でこの2つを分けたのか、ふりかえってみても自分でもよくわからず。でも、この2つを「論理学」で1つにすると、ブログ内でエントリ数最大のカテゴリーになってしまう。ええっ、わたしってそんなに論理学に興味があったのっ!?ってな感じで自分でびっくりな状況。

 さて、それはそうとして、野矢茂樹『論理学』です。「第3章 パラドクス・形式主義・メタ論理」を読み始めていましたが、メインをがーっととばして、いきなり最後の“付論 論理主義”をのぞいてみます。

 フレーゲは「論理主義」と呼ばれる立場に立ち、その上で述語論理を構築しましたが、ラッセルのパラドクスによって挫折しました。
だが,いったいフレーゲが具体的に何をめざし,それがどのようにして挫折を余儀なくされたのかについては,これまで説明を省略してきた.理由は,論理主義の問題はむしろ数学の哲学に関わると判断したからである.
というわけで、野矢茂樹さんはこの付論において、「論理主義とはどのような立場であるのか、その立場からするとラッセルのパラドクスはどのように問題になるのか、そしてどのようにその解決が図られたのか」について、“玄関口から屋敷内を窺う程度に”説明を試みておられます。
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きのうのエントリの補足

 きのうのエントリ、フレーゲとラッセル、そしてブラウワーを読み直していたら自分で気になったことがあったので、ちょっと補足をば。

 きのうのエントリで
野家啓一さんが言うように、構成主義は確かにアンチテーゼだったのかもしれない(*)けれど、そのアンチするテーゼって、もっと深いものがあったのではなかろうか。
と書きましたが、もちろん野家啓一さんはアンチテーゼのことをアンチ「論理主義」という意味で書いておられるわけではまったくなく(そういう話の流れではないので)、常識的世界観や常識的科学像に対するアンチテーゼという意味で書いておられます。(>『構成主義とは何だろうか : 科学哲学の視点から』)
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フレーゲとラッセル、そしてブラウワー

 野矢茂樹『論理学』で、述語論理の意味論と構文論をほんのちょっとだけかじりました。ちなみに述語論理の公理系を確認したあとは、定言三段論法の証明、述語論理のド・モルガンの法則、多重量化に関わる証明へと続きます。そのあたりはとばして、今度は「第3章 パラドクス・形式主義・メタ論理」を少しのぞいてみたいと思います。

 野矢茂樹さんは、メタ論理について、理論的に語るか歴史的に語るか多少ためらった後、歴史的に語ることを選択しています。そしてまずは、1902年、ラッセルがフレーゲに宛てた手紙(いわゆるラッセルのパラドクス)の話から始まります。(以前のエントリでラッセルのパラドクスは1904年と書いてしまったけれど、1902年なんですね)

 この手紙により、フレーゲが為そうとしていたこと---述語論理という新たな武器を用いて数学を論理学に基礎づけること---すなわち「論理主義」という構想は座礁することになりました。(…なんてさらっと私が書いていいのかよ〜〜と『算術の基礎』を手にしたあととなっては思う)

 で、カントールの名前がちょっとだけ出てきたあと、命題関数と集合の同等性の話になり、ラッセルのパラドクスの中身の説明を経て、ラッセルのパラドクスに対する反応の主だったものとして、(1)論理主義、(2)直観主義、(3)形式主義があげられています。

 そうしてブラウワーやヒルベルトが出てくるわけですが……
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「存在例化」について考える

 すっかり間があいてしまいましたが、述語論理の構文論の勉強を再開したいと思います。野矢茂樹『論理学』を読んでいます。

 述語論理の導出規則は、命題論理の公理系に、量化子の導入則と除去則を加えたものでした()。そのうち、∀を除去する「全称例化」と∃を導入する「存在汎化」はわかりやすいけれど、∀を導入する「全称汎化」と∃を除去する「存在例化」は納得しにくいので、少し丁寧に考えようということで、まず「全称汎化」について考えました。

 そこで今度は「存在例化」について考えていきたいのですが、これも基本的には「全称汎化」と雰囲気が似ていて(と私が感じるという話だけど)、証明の途中で不特定のあるものを代表する名前(不確定名)を考えて、議論を進めていった結果、その名前が含まれないような結論が得られた場合、その結論を導くには名前はどうでもよかったのだということになる、というわけです。
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