TETRA'S MATH

数学と数学教育

数学者としての遠山啓/亀井哲治郎さんの文章から

 結城浩『数学ガール/ガロア理論』の「あとがき」で、結城さんに「ぜひガロア理論を」と推したのは、亀井哲治郎さんだということを知りました()。亀書房の亀井哲治郎さん、もと『数学セミナー』の編集長です。

 亀井哲治郎さんというと、小冊子『いま,遠山啓とは』に掲載されていた「『数学セミナー』と遠山啓」を思い出します(『数学教室』2010年12月号から転載されたもの)。この文章のなかで、数学者としての遠山啓の顔と、『数学セミナー』の編集会議に出席する遠山啓の顔を見られるのですが、きょうは「数学者としての遠山啓の顔」に注目したいと思います。

 その前に、このたび意外な発見があったので、ちょいと自分の話をば。亀書房のサイトを見つけたとき、数学教育の本のページを開いたら、そこに(数教協関係者ではないはずの)ある先生の本を発見して、びっくりしました。あわててわが家にある同じ本を確認すると、確かに「企画・制作 亀書房[代表:亀井哲治郎]」とあります。そうだったんだ〜!

 その先生というのは、大学時代の数学の思い出・03で少し話題に出した、代数の先生です。まさかこのタイミングで先生との思い出話を書くことになろうとは! 「深い思い出」だなんて、なんだか意味深なこと書いてますね〜私(^m^)。いやいや何か特別なことがあったわけではなく、レポートでほめられてうれしかったというそれだけの思い出なのですが、卒業して27年たってもそのレポートを保管しているのだから、よっぽどうれしかったのでしょうねぇ。「行列論供廚世修Δ任后「いつもながらに、自分の力で考えて書いた力作です」だって(*^^*)。ほめられてうれしかったのと同時に、実はその意味がいまだによくわかっていない私…フツウトチガウノカナ?(^^; それにしても、亀井哲治郎さんとはどういうつながりだったんだろう!?

 さて、思い出話はこのくらいにして、いよいよ「『数学セミナー』と遠山啓」を読んでいきたいと思います。まずは1979年に遠山啓が逝去して、『数学セミナー』誌の追悼特集の企画があったときのこと。亀井さんは遠山啓の数学的業績についての記事をぜひ入れたいと考えていて、編集顧問のひとりである清水達雄さんのアドバイスで木下素夫さんに相談したところ、「それは岩澤(健吉)さんにお願いしなさい」と言われたのだとか。

 なお、亀井哲治郎さんは、遠山啓の学位論文『代数函数の非アーベル的理論』(1950年)が大変すぐれた仕事であり、それをさらに深化・展開させることをその分野の研究者から期待されていただろうし、本人もそのように期していただろうけれど、ゆえあって踏み込んだ数学教育との二足のわらじを履くことの困難さを前に悩み抜いて、数学教育の道を選択した…という話を人から聞く機会があり、自分の経験とも重ねて、大いに感動したことがあったようなのです。

 しかし、岩澤健吉さんの高名はきいていたものの、『数学セミナー』ではまだ一度も原稿をお願いしたことがなく、一介の数学雑誌にこのような原稿を書いてくださるものだろうか…という思いもあったようです。そして勇を鼓してプリンストンに手紙を出したところ、すぐに「快諾」の返事が届いたのだとか。

 その岩澤健吉さんの文章も、小冊子のなかで、亀井哲治郎さんの文章の直前に掲載されています(『数学セミナー』1980年3月号からの転載)。

 亀井哲治郎さんにとって岩澤健吉さんのこの原稿は、40年間の数学編集者の自分にとって記念碑的な出来事の一つである、と書いておられます。きっとそうなんだろうな〜!と思います。

 岩澤健吉さんの文章は(岩澤さんの希望で)2号あとの1980年3月号に掲載されたようですが、「遠山啓追悼特集」である1月号では、銀林浩・齋藤利弥・清水達雄・宮崎浩の4名による座談会「遠山啓先生の数学観」が収録されていたらしく、そのなかから次のような話が抜き出されています。アンドレ・ヴェイユと遠山啓に直接接点があったことを、私はこの小冊子を手にするまで知りませんでした。

 1955年の「代数的整数論国際シンポジウム」のときに、遠山啓の論文をよく知っていたヴェイユが遠山啓に「おい、お前はいま何をやってる?」と聞き、遠山啓が「いま教育の問題を一生懸命やってる」と答えたら、ヴェイユが「教育は大事だから」といった、というエピソードです。

 しかし清水達雄さんが言われるには、やっぱり本当は数学をやりたいのだ…と、アーベル関数の話をきいたことがあったようで、遠山先生はそのときずいぶん迷われたらしい、と書いてあります。国際的な評価を受けている仕事でもあるし、やっぱりそれをやりたいんじゃないか、と。だけど、どちらを選ぶかというときに、遠山啓は教育のほうに没入していった。

 さらに齋藤利弥さんが、論文に関するヴェイユと遠山啓のやりとりについても触れておられて面白いです。そもそも遠山啓の先の学位論文は、1938年に発表されたヴェイユの論文を出発点としていて、どちらも「非アーベル的とは何か」という点に主眼があるらしいのですが(←岩澤健吉さんによる解説)、ヴェイユはその続きをやる気はなかったらしいのです。ヴェイユ自身はもうあれ以上、テクニカル・ディテールまで入って面倒なことをやる気はなかった、と。

 そんななか遠山啓が別刷をヴェイユに送り、ヴェイユから返事が来て、自分の仕事に対してお前が “so much time and lobor” を費やしたということは “It's quite flattering to me” だと書いていたんだとか。flatteringというニュアンスがよくわからないのだけれど、自分の心をくすぐるようなことだったという意味ですかね、と齋藤さん。

 このたび調べてみたら、アンドレ・ヴェイユと遠山啓は3歳違いなのですね。遠山啓の生まれた年を確かめるために久しぶりにウィキペディアをのぞきにいったのですが、説明のなかの「数学教育の分野でよく知られる」の一文を、今回は複雑な心持ちで読みました。あと実は私も、岩澤さんの文章のなかにWeilとあったとき、「ん?ワイル?」と思ってしまったのだった。

 ちなみに、遠山啓『代数的構造』[新版](日本評論社/1996年)は6章仕立てになっていて、第5章がガロア理論、第6章が構造主義です。構造主義については、先日、クラインの4元群のところでちょろっと触れました。この第6章はたった5ページで、セクションタイトルは2つ、「空間的と時間的」「開いた体系,閉じた体系」となっています。その内容の一部についてはこれまで折に触れ書いてきましたが、近いうちにもう一度まとめようと思っています。

 『代数的構造』が筑摩書房から出たのは1972年でしょうか。ヴェイユと言葉を交わしてから17年たっていますね。そのころヴェイユはプリンストン高等研究所にいたようです。岩澤健吉さんはそのころはもうプリンストン大学にいらしたのかな。

 それぞれの時間が流れていったのですね。

(つづく)
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小島寛之をきっかけとして考える、遠山啓と3つの“‐ism”

 小島寛之が語る、ラッセル&フレーゲと遠山啓の最後で、「時には大きく---ラベルを手がかりに---考えてもいいかもな」と書きましたが、その点をもっとつっこんで考えてみたいと思います。

 まず思うことは、あのとき、金子洋之『ダメットにたどりつくまで』に対して「これだ!」と思ったのは、やはりそう思うべくして思う流れだったのかもなぁ、ということ。もともとあの本を手にしたのは、遠山啓に対して批判的な意見を出しておられる、北海道教育大学の宮下英明先生の「構成主義」という言葉の使い方が気になったから()でしたが、そこから話が始まっているというのも、自分のことながらなかなかオツです。

 しかし、いかんせん、『ダメットにたどりつくまで』を読むには、あまりにも自分に素地がないことを痛感していて、その後、読み進めることができていません。第一章、第二章まではそれなりに食いつこうとすることができたけれど、第三章にくると「さっぱり・・・」という感じです。前にも書きましたが、少なくともクワイン関連の文献を1冊は読まないと無理だし、できればデヴィドソンも読んでおいたほうがいいと感じました。というか、論理学をもう少しは知っておかないと、どうにもこうにも歯が立たない。

 そんな私が、いま考えたい大きな“ラベル”は、プラトニズム、ホーリズム、プラグマティズムです。最初に思いついたのはフレーゲを通してのプラトニズムだけだったのですが、突っ込んで考えていくうちにこうなりました。 

 で、先にちょっと脇道にそれておきますと、ウィキペディアにおけるクワイン(いまはホーリズムの人というラベルを貼っています)の説明の中に、教え子として鶴見俊輔の名前が出てきます。実はこの鶴見俊輔の文章も、小冊子『いま,遠山啓とは』に収められているのです。『ひと』(100号/1981年5月号)からの転載で、タイトルは「遠山啓の思い出」。

 逆に、ウィキペディアで鶴見俊輔の説明を読んでみると、ホワイトヘッドやラッセル、クワイン、カルナップに師事とあります。なんちゅー師匠の面々でしょうか。そんな鶴見俊輔が、上記の文章の中で「私の苦手とする数学」とか「『数学入門』のような,私によくわからなかった本については,この場所でも,ふれないことにする」なんてことを書いていたりして、「えーー」っと思ってしまった私。

 で、そんな鶴見俊輔は何をしたかといえば、アメリカのプラグマティズムを日本に紹介した人であるらしいのです。なお、4年ほど前に、プラグマティズムを再考する本も出されているもよう()。鶴見俊輔と遠山啓が出会ったのは1954年で、東京工大の教師同士という仲だったようですが、そのうち、本をおくられたりおくったりするようになったそう。面白いなぁと思うのは、遠山啓から鶴見俊輔におくられるのは数学の本なので、感想など書きおくれるようなものではなかったが、鶴見俊輔から遠山啓に本をおくると、長い感想をのべた手紙が来たのだとか。なんか想像できる(笑)。

 となると、「遠山啓は鶴見俊輔の書いたアメリカのプラグマティズムの紹介の本を読んでいるのだろうか? だとしたら、鶴見俊輔はいったいどんなふうにプラグマティズムについて説明しているのだろう?」という疑問がわきます。なぜならば、遠山啓はプラグマティズムからくる経験主義に対して批判的だったからです(>遠山啓のプラグマティズム批判)。手紙をやりとりする時期の争点は弁証法だったようなので、案外読んでいないかもなぁ、と思ってみたり、当然読んでいるだろう、と思ってみたり。

 で、プラトニズムにしろホーリズムにしろプラグマティズムにしろ、1つ1つについて、歴史的背景も含めながら、「―とは何か?」と考えていこうとすると、ものすごい作業になりそう・・・というかそもそも無理だと思うので、できるだけ遠山啓に引き寄せながら、なおかつ遠山啓の枠に閉じこもらないようにしながら、考えていけたらなぁと思っているところです。
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小島寛之が語る、「外世界」と「私」をつなぐ数学と障害

 小冊子『いま,遠山啓とは』所収の、小島寛之「遠山啓氏の思想から見えるもの」(『数学セミナー』2009年10月号から転載)を読んで感じたことを書いています。

 最後は、小島寛之が現在、再び遠山啓と向かい合っている課題であるところの、「障害」の問題についてです。

 遠山啓は、晩年には「障害児教育」に取り組みました(なお、小冊子『いま,遠山啓とは』においては、小島靖子さんの「遠山先生と障害児教育」という文章が載せられています)。小島氏いわく、なぜ遠山啓がこの問題に向かったのか、なんとなく現在の筆者には推測できる、なぜなら筆者も現在、同じ問題に行き着いたからだ、と。
果たして「障害」とは何だろうか.たしかに,簡単な数概念や数の計算,文字式や図形の性質の理解が困難な学習障害(LD)の人を見かける.しかし,数学というものが,「現実を抽象化したもの」であり,外世界からの信号と自己との関係から生まれるとするなら,「障害」が自己の「内部」にあるとは断定できまい.ひょっとすると,「障害」は「外世界」のほうにあるのかもしれない.あるいは,外世界と自己とをつなぐ「関係性」にあるのかもしれない.
 そして、これらの問題を考えるときに、クロネッカー&ペアノやラッセル&フレーゲやフォン・ノイマンが構築してきた「自然数の理論」は非常に良いアナロジーを与える、と小島氏は続けます。「自然数」といういわば当たり前の概念を数学的に規定しようとすると、それは簡単なことではなく、「集合」「写像」「帰納的」といった高度な概念が必要になり、そうしてさえまだ、本当に「自然数」を捉えきったのかどうかは定かではない。
だから,数概念を巧く受けとることのできない人を軽々しく「障害」と呼んではならないだろう.それは本人の責任ではなく,「自然数」に認知が届かない何か大きな秘密が「外世界」と「私」をつなぐ「数学」の側にあるかもしれないからだ.

 このあとは、ゲーム理論家の松井彰彦が指摘している、「障害」の規定が自家撞着的であることの話がエレベーターの例で示されています。たとえば、ふつうは二階建ての家にはエレベーターをつけないから、二階に自力で昇れない人は障害者と呼ばれる。ということは、もしも10階建てのマンションにもエレベーターがついていないならば、自力で10階まで昇れない人は障害者と呼ばれることになり、たくさんの人が障害者となってしまう。しかし、10階建てのマンションには必ずエレベーターがついている。つまり、エレベーターを二階建てにはつけず10階建てにはつけるというある種の「慣習」が「障害」を規定してしまっている、というような話です。
この慣習は,二階建てに昇れない人は障害で,10階建てに昇れないのはそうではない,という先入観から来るものである.だとすれば,「障害」という概念は相互定義的であり,自家撞着的であろう.

 そしてこれと同じことが、学習障害にも適用できるだろう、と小島氏は続けます。「水道方式」 が普及する前には、数計算が覚束なかった児童は多かったと聞いているが、これは「水道方式」という道具によって、障害が障害でなくなる可能性を示唆している、と。
このように,学習障害は自家撞着的な概念であり,外世界と自己との接続,その道具としての「数学教育」と相互定義的の関係を持っている.算数・数学教育方法の改革の問題は,「いったい障害とは何なのか」という問題と,表裏一体の関係にあると言っていい.
 
 小島氏はいまは経済学者として、この問題に立ち向かっているようです。なお、ご本人のブログhiroyukikojimaの日記にも、障害を問い直すといったようなエントリがあります。
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小島寛之が語る、遠山啓の「量の理論」

 小冊子『いま,遠山啓とは』所収の、小島寛之「遠山啓氏の思想から見えるもの」(『数学セミナー』2009年10月号から転載)を読んで感じたことを書いています。

 前回は数教育の理論についてみていきましたが、きょうは量の理論です。とてもわかりやすくすっきりさっぱりまとめてあり、なんだかんだいいながら、遠山啓および数教協の「量の理論」ってこれ以上でもこれ以下でもないのかもなぁ、なんてことを思ってしまいました。

 まずは、量こそが「世界」と「私」をつなぐカスガイであり、量を積極的に取り入れることは、まさに「数学は現実を抽象化したもの」という思想の体現だと言っていい、という話から始まります。

 そして、遠山啓が量を扱う中で最も注目したのが「内包量」の概念であり、その代表的なものが「1あたり量」だ、と続きます。

つまり,外世界を掛け算で掌握するには,「1あたり量」を避けては通れないのである.第三に「1あたり量」の極限として微分が定義されることである.「1あたり量」は無限小算術と切っても切れない関係にあるのだ.そして最後に,1次関数y=ax+bの傾きaは,「xが1大きくなるとyはいくつ大きくなるか」という形で「1あたり量」そのものである.1次関数は,微分を経由することですべての関数の基礎となり,また,線形代数(多次元代数)の出発点でもあるから,「1あたり量」はあらゆる数学の基礎になっている,ということなのである.

 小島氏はこのあともう一歩話を進めます。遠山啓の算数・数学教育はこういうふうに広く深いバックボーンを持っているが、そういった補助線をすべて消し去った「ハウツー」部分しか観測しない人々には、遠山啓がなぜそういう方法を取ったかを理解することはできないに違いない。しかし、そういうことがあまり問題ではないこと自身が貴重だ、と。つまり、「タイルによる数教育」や「水道方式」や「量の教育」は、「ハウツー」だけで子どもたちに目覚ましい効果を発現させ、バックボーンなしでも「実践」を通じて広がっていく生命力を持っており、それこそまさに「数学の自律性」がそのまま体現されたことの自己証明と言ってもいいだろう、と。

 さすがにそれは言いすぎだろう、と私は思いました。やや驚きをもって。それは数学の自律性というようなものではなく、単なる「ひとり歩き」といったようなものではないかと。また、それ以前に、量の教育は「ハウツー」だけで子どもたちに目覚しい効果を発現させるようなものには完成されていません。また、遠山啓のバックボーンを持ち出すのならば、もっともっと深くて複雑なものがあることは、森毅の文章で再確認したばかりです。せめて、小島氏がこの文章ですっきりさっぱりまとめているくらいのこと(もちろん小島氏もこれをバックボーンを呼んでいるわけではないのですが)は、遠山啓の「ハウツー」を採用する人は、知っておいたほうがいいように思います。知った上で「安心して」採用するためではなく、知っているからこそ問い直しながら採用していくために。

(つづく)

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小島寛之が語る、ラッセル&フレーゲと遠山啓

 小冊子『いま,遠山啓とは』所収の、小島寛之「遠山啓氏の思想から見えるもの」(『数学セミナー』2009年10月号から転載)を読んで感じたことを書いています。

 前回のエントリでは、小島寛之が遠山啓からどういうふうに影響を受けてきたかについてみていきましたが、そんなふうに小島寛之が「遠山の残した棋譜」を追った中で最も有益だったのは、「数教育の理論」だったのだそうです。「数教育の理論」とは、「自然数とその計算とはいったい何か」ということを子どもにどう理解させるかという方法論のことだとして、ご自身の著書2冊を参考文献として巻末に示しています(小島寛之『数学につまづくのはなぜか』講談社現代新書、小島寛之『無限を読みとく数学入門―世界と「私」をつなぐ数の物語』角川ソフィア文庫)。

 まずは藤沢利喜太郎の「数え主義」に対する批判の話から始まり、その流れでクロネッカーや「ペアノの自然数理論」が出てきます(なお、このブログでは、クロネッカー−藤沢「順序数主義」批判と、「構造」などのエントリで触れています)。
 このような「数え主義」がさまざまな難点を抱えることを,遠山は鋭く見抜いた.まず,簡単な足し算さえ困難となる.なぜなら,いつも「次」の個数に関する「植木算」に直面するからである.また,累加がいったい何を意味しているのか子供には分からない.さらには交換法則「2+3=3+2」さえどうして成立するのかも説明できない.実際,当たり前ではなく,それは証明されるべき事実である.「ペアノの自然数論」でも,ペアノの指示した5個の公理から加法の交換法則を証明するのはかなり面倒な作業なのだ.
 また、「数え主義」は10進法の構造の会得にもとても都合が悪く、筆算を教えることができないので、原理的に暗算に頼る以外になくなってしまうと指摘して、銀林浩・榊忠男・小沢健一編『遠山啓エッセンス◆戞米本評論社)を参考文献にあげています。

 このような「数え主義」の持つ不具合を明確に解析した上で、遠山は他の数教育の方法論を模索し、そしてたどりついたのが「ラッセル&フレーゲの自然数理論」だ、と続くのです。なお、このことは遠山啓の著作で確認したわけではなく、単なる筆者の憶測にすぎないが、銀林の教科教育法の講義の参考文献にラッセルの『数理哲学序説』があったことからみても、またラッセルの本の内容と遠山の方法の酷似から見ても、ほぼ確信に近い、と書いています。

 私の記憶では、遠山啓の数学教育方法論にまつわる記述で直接的にラッセル&フレーゲが出されているのを読んだのは初めてなので、最初びっくりしました。ペアノやカントールは話の流れで出てきますが。

 小島寛之は、まずフレーゲについて、自然数を「集合の集合」として規定することを試みた(カントールとデデキントの方法を援用して自然数を規定しようと試みた)人物だと紹介します。そして、集合Aと集合Bの1対1対応(全単射)と「同類」の話が出され、ラッセルはこのフレーゲの発想を基点にしてそれにいくつかの公理を加え自然数の公理系を作った、しかし矛盾がおき、それが逆に現代的な数学基礎論や数理論理学の出発点となり、フォン・ノイマンによって改修され、再構築された、というのが大まかな流れです。

 で、遠山啓はこのラッセル&フレーゲの自然数論を、児童への数教育の基礎理論に仕立てた、と話は続きます。先ほどの集合AやBを「タイル」3つから成る集合と1対1対応させて、それによって自然数「3」を理解させる、つまり、任意の集合に対し「タイル」の集合への1対1対応を作ることで、その集合の持つ属性としての「要素数」を抽出するのである、と。このような遠山啓の数教育から、「数学は現実を抽象化したもの」という思想が結晶していることを明白に見てとることができる、というふうに小島寛之はこの一節を締めくくっています。

 なるほど確かに、遠山啓は1対1対応から数を理解させるという方法をとっており、これが(カントールの方法を援用した)ラッセル&フレーゲからきているといわれれば、確かにそうなのかもしれません。

 で、ラッセル&フレーゲからきているとして、だからどうなのだ、ということについては、読者が大いに思考&想いを広げる・広げられる領域なのでしょう。私がまず思ったのは、「そうか、ラッセル&フレーゲが根本にあるのね。だったら遠山啓は基本的に○○主義者なのね」というような短絡的な考え方をしてはいけないな(ラッセル&フレーゲに詳しくない私はそう思いがちだな)ということと、もう1つは、時には大きく---ラベルを手がかりに---考えてもいいかもな、ということでした。なお、TETRA’S MATHでは、フレーゲとラッセル、そしてブラウワーといったエントリを書いています。

 後者(ラッセル&フレーゲを手がかりに“大きく”考えること)については、小島寛之の文章をひととおりみたあと、さらに突っ込んで考えたいと思っています。

(つづく)
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遠山啓を考える新しい視点を、小島寛之から与えられる。

 小冊子『いま,遠山啓とは』にはいろいろな方々の文章が収められていますが、その中からもう1つだけ、とても印象に残った文章についての感想を書かせていただきたいと思います。それは、2009年10月号の『数学セミナー』から転載された、小島寛之の「遠山啓氏の思想から見えるもの」という文章です。2009年といえばほんの2年前。つまりは21世紀の遠山啓論。

 先日感想を書いた森毅の書評は、自分の遠山啓の読み方が基本的に間違っていないということを感じさせてくれる文章でしたが、小島寛之の文章は、自分の遠山啓の読み方に新しい視点を与えてくれるものでした。松丸本舗に行ったときの例の感覚でいえば、「そうそう、そうなのよ!」が森毅、「そうきたか〜!」が小島寛之。

 この新しい視点---小島寛之と私の違いは---どこからくるのだろう?ということについて、とりあえずつらつら考えてみました。まず、私が出会った遠山啓は(数協教会員の母を通しての)運動家・遠山啓であったのに対し、小島寛之が出会った遠山啓は(刊行物を通しての)数学者・遠山啓であったことがあげられるように思いました。なお、当時の小島寛之は、数学好きの、しかし教科書や参考書を地道に読み進むのは嫌いな中学生だったようです。また、小島氏の数学への目覚めが数論から始まっていることも大きそうです。さらに小島氏は、遠山啓の著作物はあまりひもとかず、むしろ、遠山啓が自分の方法論を構築した際に参考にしたと思われる元本にあたったらしいのです。なお、東大数学科の講義で銀林浩の指導を受けていた関係で、遠山啓(および銀林浩)の思想のバックボーンも熟知していたもよう。その結果、森毅がデカルトを出してきたのに対し、小島寛之はラッセル&フレーゲを引き合いに出してきています。

 ラッセル&フレーゲについてはあとでゆっくり考えていくことにして、まずは、小島寛之がどんなふうに遠山啓から影響を受けてきたのかみていきます。



 中学生時代の小島寛之にとって、遠山啓は『数学セミナー』の創刊者であり、『数学入門』の著者でしたが、最も大きな影響を受けたのは、塾で中学数学の主任を任されてからだ、と書いています。中学数学全部のテキストを自分一人で書きあげるときに、遠山啓が構築した数学教育の思想と方法論が最も頼りになった、と。
 とは言っても,それは,遠山の仕事を「受け売り」する,ということでも,「体得しつくす」ということでもなかった.喩えて言えば,棋士が過去の名人の棋譜を並べて勉強する,というのに近いと思う.(中略)つまり,棋譜を並べる,というのは過去の名人と対話し議論することなのである.同じように,筆者にとって遠山の仕事を追うことは,遠山がなぜそう考えたか,なぜこの方向を選択しなかったか,それを「過去の遠山」から聞き出す営為にほかならなかった.
 そんな小島寛之は、遠山啓の発想の本質を、「大胆にまとめるならば」という注釈付で、次の2点に集約させています。

 第一は、「数学は現実を抽象化したもの」という見方。

 第二は「数学の自律性の利用」。

 第一については、このブログでも少し違う言葉で書き続けてきたと思いますが、小島寛之はそれが「数教育の理論」と「量の理論」に如実に表れている、と語ります。ここで「数教育の理論」という言葉が出てくることがまず新鮮でした。私の感覚でいえば、「水道方式」と「量の理論」という言い方をするところであるように思うからです。でも、あらためて考えると、「水道方式」と「量の理論」というように、方式と理論を併記するのもヘンな話です。なお、水道方式という言葉はその少しあとに出てきます。
我々は,常に世界からある種の「信号」を受けとっている.それは「世界がどんな風であるか」といういわば「秘密のささやき」のようなものである.しかし,我々はそれをありのまま受け入れるわけではない.なぜなら,そうしようとすると情報量が無限大になり容量を超えるし,またノイズが混入しているから丸々受け取るのは非効率だからである.したがって,我々は何らかの方法で情報を整理し圧縮し変形し,「記号化」して受け入れているはずであろう.それこそがまさに「数学そのものだ」と遠山は考えていたのだと思う.
 さらに、数学の特有性は、そうやって現実から抽出し記号化された「世界の本性」が「自律性」を備えるに至る、ということにある、と小島寛之は続けます。

いったん,外世界が数学概念として人間の内面に構築されてしまうと,今度はそれがオートマチックに機能し始める.遠山は,数学をそのような「自動機械」のように捉えていたに違いない.
 遠山啓の数学観をそんなふうにとらえたことがなかったので、ちょっと驚きました。さらにはこの話が「筆算」へと結びついていくのです。

 どういうことかというと、子どもたちは、いったん外世界から自然数とその加法の概念を内面的に受容でき、その「意味」を理解しさえすれば、あとは「筆算」によって加法を「意味」から切り離して自在に実行できるようになる、と。このような「意味から独立して自己発展できる」という性質こそが数学の「自律性」なのであり、この発想が「一般から特殊へ」という問題配列の方法論「水道方式」として結実することになった、というのが小島寛之の見方です。

 「意味」から切り離されることについては、このブログにおいてもタイル図は具体的な操作に対応していないなどで書いてきましたが、小島寛之のように「自律性」という言葉を使って考えると、なんだかポジティブに思えてくるから面白いです。ただし、ゼロの認識にも、1あたり量の認識にも、「容器」がいるで書いたように、遠山啓は「具体にもどる」ということも言っており、それは「意味」にもどる、と言い換えることができると私は感じていて、切り離して終わりではない、数学の自律性に委ねて終わり、ではない、とも感じています。もしかすると、そこの複雑さが、水道方式と量の理論の違いなのかもしれません。

(つづく)
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森毅が語る、遠山啓にとっての80年代

 小冊子『いま,遠山啓とは』所収の、森毅による『遠山啓著作集』書評を読んで感じたことを書いています。

 「遠山啓の時代」、「思想の構図」ときて、最後は「遠山啓にとっての80年代」です。なお、遠山啓は1979年に亡くなっていて、森毅のこの文章は1982年に掲載されているので、「遠山啓にとっての80年代」というのは、「遠山啓なきあとの遠山啓のこれからの10年」ということになろうかと思います。

 1980年代初めに、森毅はこう言っていました。「・・・,今のところはまだ,こうしてあちらこちらから光をあてながらの「遠山啓論」はなされていないようだ.」と。

 晩年に遠山が主張していたこと,または主張しかけていたことが,十分に展開されきっていたわけではない.そのあるものは,現時点でこそ論じられるべきことでもある.その意味では,現在の教育状況は,遠山の教育論を過去のものにしてはいない.

 そして、途中をとばして最後のページに目をうつすと、こんなことも書いています。

 じつは,雑誌『ひと』で「遠山啓論」を公募しようかという案のあったとき,ぼくは時期尚早という説だった.予想としては,「チャチな遠山批判」と「フツウの遠山賛美」が来て,相対的にマシな「賛美」のほうをとりあげる結果になっては,あまりにも品がないからだ.しかし,これから本格的な「遠山啓論」の出てくることを,期待している.

 「チャチな遠山批判」と「フツウの遠山賛美」というフレーズに、いたく納得してしまいました。あれから30年たち、もはや、チャチな批判やフツウの賛美さえきかれることもなくなってきたかもしれませんが、逆に言えば、遠山啓と同じ時代を生きていない21世紀の人たちは、80年代にはできなかった遠山啓論というものが展開できるのかもしれません。幸いにも遠山啓は夥しい数の著作物を残しているので、手がかりはたくさんあるように思います。また、もはや夜中におしゃべりをすることはできませんから、書かれたものだけ、そしてその余白から読むしかありません。

 森毅の文章にもどると、遠山啓は制度というものに違和感を感じ続けながらも、つねに制度に深くかかわり、「評論家」ではなく「運動家」だった、と語ります。そして、遠山啓の制度へのかかわりは、死によって中断されている、と。このあと明星学園の話を出しているので、ここでいうところの制度とは、おもに学校における教育制度を指しているのでしょう。

 50年代末の量の体系や水道方式が60年代に開花したように、70年代の遠山の発言は80年代にとっても有効ではあるだろうけれど、遠山啓がもし生きていたなら、新しい時代の新しい発言をしただろう、と森毅は続け、

・・・,遠山の著作集を読むわれわれとしては,80年代における遠山の声を聴くことが必要となる.
 それは,70年代の遠山をそのまま外押しすることではあるまい.遠山は時代とともに,その主調音を変調してきた.80年代には,80年代のサウンズがあるはずだ.
 もちろん,遠山は死んでいるから,その音をだれもかわりに出すわけにはいかない.それは遠山という人間に固有のものだ.
 それでも,著作集を通じて,80年代での声を聴くことはできると思う.それは第三期の残響としてではない.三十年間にわたって,各時代ごとに適切であった単純明解さからではなく,矛盾し葛藤した時代とともに,屈折した複雑な人間としての遠山に依拠することによって,著作集の余白から聴くのだ.

と語ります。「矛盾し葛藤した時代とともに,屈折した複雑な人間としての遠山に依拠することによって,著作集の余白から聴くのだ」なんてことを言ってくれる森毅からも、私たちはもう「その後の声」を聞くことができません。しかしやはり、手がかりは残されています。実際、いまこうして私は森毅の言葉に触れているのであり、森毅を通した遠山啓、あるいは遠山啓自身にも触れることができます。ただ、この小冊子を通さずに私が森毅のこの書評に出会うということはまずなかったと思うので、今回、このような機会を与えてくださった小冊子編集委員のみなさまに、この場を借りてあらためて深く御礼を申し上げたいです。

 森毅の書評についての感想はこれで終わりです。で、遠山啓の80年代、90年代、21世紀を考えるにあたり、山口昌哉がどこかで「自分がいまやっている研究を遠山啓に見てほしかった」というようなことをちょろっと書いていたことが頭に浮かんだのですが、どこに書いてあったかが思い出せず、心あたりのある本をかたっぱしからのぞいてみたものの、いまだ見つけられず、です。しかし予想外の収穫があって、遠山啓著作集「数学論シリーズ4 現代数学への道」の巻末解説で、倉田令二朗が圏論の説明をしているのを見つけました。まだ読んでいませんが、他の解説も含め、少しずつ読んでいきたいと思っています。なお、実家からもらってきたのは24冊で、著作集のうち3冊は行方不明だと気づきました。図書館で読めることでしょう。
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森毅が語る、遠山啓の思想の構図

 小冊子『いま,遠山啓とは』所収の、森毅による『遠山啓著作集』(全27巻,太郎次郎社)書評を読んで感じたことを書いています。

 「遠山啓の時代」のあとは、「思想の構図」の話です。ここが特に面白いです。森毅は、「遠山がなにより数学者であったことから,その思想の構図を見るには,数学論がよいかもしれない.」というふうに話を始めます。
 ここでの遠山のスタイルは,普通は表面に出されない,数学の了解の構図を語ることにあった.そして,数学者によっては,記号の処理でことをすますところを,イメージにこだわった.それは,数学教育と同じく,数学を特定の人間層だけのものにしないことを意味していた.しかし,その個別の解説以上に,遠山はそこで数学の姿を語ろうとしていた.
 そしてこのあと、ここでの遠山啓はデカルト主義者であったことを汲んで、話が進んでいきます。

 森毅が「当節」といっているのは、この書評が出された1980年前後の時期をさしているのだと思いますが、「当節では,部分を組み合わせて全体を構築する分析的理性は批判にさらされている」として、還元主義(リダクショニズム)より総体主義(ホーリズム)的接近が問題となっている、と書いています。「しかしここでの遠山は、還元主義的分析的理性のデカルト主義者として語っている」と。

 なお、遠山啓とデカルトの関係および、遠山啓が全体性を重んじる考え方に対して拒絶が強かったことについては、このブログでも、「分析・総合」&「一般から特殊へ」今後のためのメモ3/遠山啓とデカルト遠山啓がピアジェに注目した理由などのエントリで触れています。
 
 そして、二分法を好まない森毅が、ここでの論点から、実体か機能か、外延か内包か、還元主義か総体主義か、といったように論をたて、遠山啓の方法論は、実体中心の外延的還元主義ということになろう、と分析しています。遠山の論理の知性的硬質さは、そうした性格に支えられている、と。

 ところが、
ここでも遠山はそれほど単純ではなくて,実際上の遠山の感性的資質はというと,いまの調子でいうなら,機能中心の内包的総体主義なのだ.そうしたことは,夜中におしゃべりをした経験があるとはっきりするのだが,活字の上だけで眺めても,陰画としてのそうした感性が,文章にふくらみを与えているのがわかる.
 このところは,数学としての明解さと,じつはその背景には,感性の屈折を持っていることとの,二重性としてある.
 以前、今後のためのメモ2/近代数学と現代数学というエントリにおいて、「遠山啓の提唱した量の理論には二面性?二重構造?のようなものがあるとよく感じます。」と書きましたが、理論の前に,当の遠山啓が深い二重性を有していたのだなぁと、夜中におしゃべりをした経験のない私は森毅の言葉を通して納得したのでした。

 で、先を読む前にちょっと脇道にそれると、私はこの部分を読んだときに、数教協の「量の理論」における正比例から関数に進むときの飛躍のことを思い出しました。数教協の先生方が大好きなブラックボックス、あれはいったいなんだったのだろう?ということについてこれまでいろいろな方向から考えてきた結果、ブラックボックスは関数を実体概念としてではなく関係概念()(あるいは機能概念)として考えるための装置であり、しかも、その装置のある種の内包的表現であるらしい()というのが、とりあえずの現段階の私の結論だからです。しかもそのブラックボックスがモノとして実体化している。

 話をもとにもどすと、遠山啓のデカルト主義的理性は第一期から第三期にいたるまで変わっていないのだけれど、第一期にはそれが「科学主義」の相を与えていたとしても、第三期につながらずにとられかねない、と森毅は続けます。

 第三期は、遠山啓が教育運動家や教師ではなく「市民」を対象において活動した時期ですが、この時期の遠山啓の教育論は人間の根源の楽しさに依拠しており、「もともとが,遠山が数学を愛した人生の姿からは,この人間の楽しみへの傾倒のほうが,本来のものだったろう.」と森毅は書いています。また、数学の楽しさだけを主張する遠山啓に対して、かつて遠山啓だけの分析的理性を示しえなかった者どもが、それを「感性主義」と呼ぼうとも彼は歯牙にもかけまい、とも。

 しかし、森毅本人が「理性か感性か論ずることは,すでに破綻を約束されている.」と書いているように、理性・感性という二分法で遠山啓の複雑さを考えても、面白いところにつながらないと私は思います。デカルト主義的理性というのはわかるけれど、非デカルト主義的感性という言い回しはピンとこない。

 で、とにもかくにも、どういうことになるかというと、

遠山はデカルト主義者である式の早トチリをするわけにいかない
わけであり、
してみると,たとえば「分析と総合」を遠山亜流としてかついでまわるわけにもいかないことになる.こうしたことは,遠山のそこの論調が歯切れよく,単純明解であるだけに,少し厄介なことになる.
 そして森毅は「思想の構図」の一節を、次のように締めくくります。
 その時代に適切に選ばれた単純明解な表現に,ふくらみを与えている複雑で屈折した遠山の心を読みとらず,別の時代に機械的に適用することは,ときには危険でもある.
 その点で,この著作集を読む人間は,表面上の矛盾と内面の一貫性を同時に感ずるはずだ.第一期の文章と第二期の文章とを,一つの文脈のなかで読むこと,それが著作集の読者に課せられている.
 森毅がこの文章を書いてからまもなく30年というこの時代に、もはや遠山啓の数学教育論を機械的に適用するということはないでしょうが、過去のものとして忘れ去ったり、懐かしむだけではあまりにももったいないと私は思うのでした。もったいないもなにも、遠山啓が本当にやりたかった核の部分、あるいはやりたかったことの半分は、まだ実現されていないのではないか?ということを、“実現”の意味も含めて、考え続けています。

(つづく)
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森毅が語る、「遠山啓の時代」

 小冊子『いま,遠山啓とは』所収の、森毅による『遠山啓著作集』(全27巻,太郎次郎社)書評を読んで感じたことを書いています。

 1つ前のエントリでは、「遠山啓著作集を読むときには読者の歴史感覚が必要となる」話について書きましたが、このあと実際に時代の話になっていきます。

「この著作集に現れるのは,遠山の後半生であって,ちょうど十年くぎりくらいの三期に分かれよう.」ということで、森毅はその三期を次のようにまとめています(引用ではなく、私が箇条書きとして書きなおしました)。


第一期/50年代、「逆コース」の戦後「日本再建」の時代。遠山啓は四十歳代で、教育問題にかかわりだしたころ。

第二期/60年代、「高度成長」の時代。遠山啓は五十歳代で、東京工大理学部長を含めて、もっとも忙しかった時期。

第三期/70年代、遠山啓は六十歳代。東京工大を定年になって、教育市民運動に傾倒した時代。


 森毅が言うように、時代の節目と遠山啓自身の生涯の節目がうまく同調しています。

「もっとも,遠山の全生涯を問題にするなら,自伝的エッセーから想像される,この著作集以前の時代がある.」として、森毅は著作集以前の遠山啓についても語ります。

 遠山啓二十歳代、日本がファシズムに傾斜していった30年代に、遠山啓は東大をドロップアウトして東北大を卒業するまでの長い学生時代を持っていたわけですが、
当時のこととして,左翼的な交友関係もあるが,それよりも主として,文学青年ないしは哲学青年としてドロップアウトした遠山の青春,それが彼の人間の底流としてあったろう.

と森毅は書いています。私もそのことを、まさにこの小冊子を手にすることで強く感じました。

 そして遠山啓の三十歳代、戦中から戦後へかけての40年代は、遠山啓はなによりも「数学者」としてありました。不本意な海軍の数学教官の体験のなかでの数学研究への孤独な熱中、そして東京工大での数学研究者としての生活。その「孤独な数学者」が「戦闘的な教育運動家」になったのが上記の第一期です。

 以前、このブログにおいて、遠山啓の数学教育運動は親心から始まったというエントリを書いたことがありますが、森毅の解釈は少し違っています。もともと「学校嫌いの数学少年」だった遠山啓に、「教育愛」めいた使命感は皆無だった、あるとすれば、生涯愛した数学が、「教育」のなかで泥まみれになり、多くの人に嫌われているのが耐えられなかったのだろう、というのが森毅の見方です。数学が「教育」のなかで泥まみれになっていることを知るきっかけが、わが子が実際に受けている教育の中身を知ることだったのだと思うのですが、それを親心とよぶかどうかは微妙なところではあります。また、「戦闘的な教育運動家」になったのは、時代状況からくるものもあったことと思います。

それゆえ,しめった「教育界」と異質な,硬質な思考が,貴重な役割を果たしていた.

 遠山啓の1950年代については、このブログでも、汐見稔幸先生の分析や生活単元学習批判などについてのエントリで書いてきましたが、当時の遠山啓は「生活主義」や「政治主義」の潮流に対する「科学主義」の論客と見なされていました。しかし、10年あまりして「政治主義」の潮流が「科学主義」に転じたころには、もはや彼は新しい時代を見ていたし、当時の論敵だった「生活主義」の梅根悟とは70年代における盟友だった、と森毅は書いています。

 それぞれの時代についての説明は割愛しますが、遠山啓が第一期(50年代)、第二期(60年代)、第三期(70年代)でどう変わったかについては、次のような観点で見るとわかりやすくなることを、森毅の文章を通して知りました。なるほど、そういう見方があったか。

第一期の主題が進歩的な「教育運動家」のレベルにあったとするなら,第二期はふつうの「教師」,そして第三期ではただの「市民」が対象となる.この時代の遠山の眼は,「学校」から離れてラジカルになり,こども自身へと向かっていった.かつての「学校嫌いの少年」の魂がよみがえったかのように.

 私の小学生時代は1970年代であり、確かに私にとっての数教協は、「学校の外」にありました。ここが原武史さんと違うところかな?() 地域のサークル活動は地域の保護者の協力のもとに行われていて、校区内なので、そこに集うのは同じ小学校に通う児童と保護者ではありましたが、でもやはりそれは学校外の活動でした(ただし、学校の教室を借りての、数教協の授業というのも1度経験した記憶がうっすらとあります)。

 とにもかくにも、高度成長期の技術革新の声のもとで時代がうねっていた第二期(60年代)は、民間教育運動の時代でもあり、遠山啓の影響は大きかったのだと思います。このあたりについては、戦後の教育運動の社会的、思想的背景・2民間教育団体の啓蒙主義的発想(60年代)で少し書きました。

 そして60年代の革新は、その後半から70年代へとつながっていき、主要な流れとしては、政党や組合の力であったろう、と森毅は続けます。こうした反体制的な制度のなかにあって、遠山の威信は大きかった、と。

 しかし,遠山自身の心には,かつてのドロップアウト時代の魂があって,制度になじまぬところがあったろう.

 70年代は遠山啓が大学を定年になったあとであり、自身が大学という制度から解放された時期ともいえます。そうして、制度の中で行うのではない教育というものに眼が向いていったのかもしれません。なお、この時期に主軸となるのが「ひと塾」です。60年代末の養護学校とのかかわりが教育に開眼させた、と遠山啓は語っているようです。

(つづく)

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森毅が「遠山啓の深さ」を語る、その深さに圧倒される。

 小冊子『いま,遠山啓とは』を読み始めた私は、まず第1章のオープニング、森毅の『遠山啓著作集』の書評に圧倒されました。『思想の科学』1982年2月号から転載された文章だそうですが、この文章を読めただけでも、小冊子『いま,遠山啓とは』を手にした意味があると感じました。また、自分の遠山啓の読み方は基本的に間違っていなかった、という感触も得ました。基本的に方向は間違っていないが、まだまだ浅い、とも。

 遠山啓の著作集は、「教育論」「数学論」「数学教育論」の3つのシリーズに分かれており、それぞれの中でもテーマ別になっています。つまり、年代順には並んでいません。したがって、「テーマに照準を合わす便宜があると同時に、歴史の文脈を補完する必要」があり、各巻ごとの解説者にある程度頼ることができるが、なによりも読者の歴史感覚を必要とする、と森毅は語っています。

 ここまでは私も認識していました。認識するもなにも、遠山啓著作集を読んでいるとおのずとそうなります。

 がしかし、ここから先がさすがに森毅は違う。

 なぜ、遠山啓の著作集は、読者の歴史感覚を必要とするものになったのか。それは、遠山の生き方自体が、時代状況の問題性に誠実だったからだ、と森毅は分析します。

「見通しのよさ」とか,「問題意識の一貫性」などが,思想家にたいして賞賛されることは多いし,遠山にしてもそうした賞賛に値するかもしれないが,遠山の生き方がそれにふさわしかったとは思わない.
 それぞれの時代において,つぎの時代で問題になることを先どりしていることが,しばしばあったにしても,それはその時点での「未来の洞察」であるよりは,その時代そのものを深く見ることによって,結果的に,次の時代で問題となることが見えてしまったのだと思う.
 終世を変わらぬ硬骨の冷徹な知性の眼があったとしても,それは遠山自身の人間性に由来するだけのことであって,「意見を変えない」ことのイデオロギー的倫理性にこだわっていたとは思えない.何年か先にも通用しそうで,ツジツマの上での「無謬性」にこだわりたがる,文化官僚精神のようなものとは,遠山はむしろ無縁だった.
 森毅はここで「文化官僚精神」という言葉を持ち出してきていますが(というところにまた時代性を感じます)、私はむしろ、この話は、まさに数学および数学教育の問題として考えられるのではないか、と感じました。文化的官僚精神というようなものにつなげて終わらせてはもったいない。

 期せずして岡潔の言葉を思い出します。「計算能力だけのお先まっくらな目では、起ったことを批判できるだけであって、未知に向かって見ることはできないのである。」

 批判といえば、森毅はこうも語っています。
形式的に「誤謬」だの「矛盾」だのをあげつらう気になれば,ぼくなどはその身辺にいただけに,いくらでもできる。形式的な「遠山批判」をすることは,少なくともぼくにとっては,きわめて容易である.もちろんそのことは,それがまったく価値のない「批判」であることを知りつくしているからでもあるが.
 さらに続けます。
 この点で,遠山の発言の「明解さ」について,ぼくには留保がある.遠山自身が,「人間なんて複雑なものが,そう単純に見すかされてたまるものか」といった意味の発言をしたのを,ぼくは耳にしたことがある.ぼくはそれで,遠山啓という人間は,世評以上に,複雑な屈折を持った,心の底の深い人間だったと思っている.

(つづく)
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