TETRA'S MATH

数学と数学教育

素数指数表現と約数構造図

 亀井図式を見ながら、いくつかの素数を1つずつかけあわせてできる自然数と、そうではない自然数との違いを考えていたら、結城浩『数学ガール/フェルマーの最終定理』の「第3章 互いに素」に出てくる「素数指数表現」のことを思い出しました。

 「素数指数表現」というのは、自然数を素因数分解して、素因数の指数に注目し、その指数だけを並べて表記する方法です。

(例)


 この表記方法でいくと、210は



となり、素数を2、3、5、7の4種に限れば、<1,1,1,1>と表していいことになります。ついでに、かっことコンマをはずして1111としてもいいことにします。同じ方法で210の約数を表現すると、4ケタの1と0の組み合わせで表せるので、4次元のハッセ図の要素につけた記号と一致します。



 このハッセ図は、もともとは要素が4つの集合{a,b,c,d}のベキ集合の順序関係を表したもので、各要素が含まれることを1、含まれないことを0と表しているので、自然数の整除関係を素数指数表現で表したときと同じになるのが(あたりまえだけど)面白いです。

 直観主義論理のハッセ図においても、素数指数表現を取り入れると、次のようになります。



 古典論理に付け加えた青い部分の1ケタめに「2」が現れて、特徴がよりはっきりします。

 亀井先生の「999999」の約数構造図も、素数指数表現で表すと、その構造がさらによく見えると思いました。素数を3、7、11、13、37の5種に限って、

 00000から始まって、01111で終わる4次元の図
 10000から始まって、11111で終わる4次元の図
 20000から始まって、21111で終わる4次元の図
 30000から始まって、31111で終わる4次元の図

が平行線でつながっています(きのう「平行移動」と書いてしまいましたが、2次元の図としては平行移動だけれど、考え方としては「垂直に」移動したものになります)。数値が5桁なので5次元の図なのですが、左端の数値をそれぞれ0、1、2、3で固定しており、5次元の中にある4次元の図と考えるとわかりやすいかな、と思いました。
  
 一方、6次元の図は、00000から始まって11111で終わる5次元の図(立方体4つ分)を2つかいて、下方の図には末尾に0をつけ、上方の図には末尾に1をつけて、000000から始まって111111で終わる図を作ったつもりです。↓



 1と0しか使ってはいけない世界では、数字がnケタのときn次元の立方体になるわけですが、亀井先生は数字を5桁に固定して、そのかわり、うち1ケタを2でも3でもOKということにして、5次元の“直方体”を表現されたのだと思います。

 なお、『数学ガール/フェルマーの最終定理』では、「互いに素」であるということはどういうことかを考えるために素数指数表現を取り入れており、「ベクトルで表現したときに直交する」というところに帰着します。亀井先生の約数構造図でも「互いに素」→「直交」は保たれているのでした。
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平方剰余の相互法則

 平方剰余の相互法則とは

   qが奇素数のとき
   

というものらしいです。pとqがお互いに相手の法になったときの関係という意味での「相互法則」なのかな?

 はじめてこの式を見たときには、見た目がシンプルなのにちんぷんかんぷんでした。「なにを言っているの?」という感じで…。でも、ルジャンドル記号()の意味がわかったら、なんとなくわかってきました。すなわち、pとqが決まれば右辺が決まるので、(p/q)と(q/p)の関係も決まるということですよね。右辺が1ならば、左辺はともに1かともに−1のどちらかだし、右辺が−1にならば、左辺のうちのどちらかが1、もう一方が−1ということになる。なお、この法則ってとても重要なものらしいです。

 さて、フィボナッチ数列を奇素数pでわったときの循環節は、p≡1、9(mod 10)のときとp≡3、7(mod 10)のときで場合分けできる()理由が知りたくてここまできました。

 なぜこのような場合分けになるかというと、p≡1、9(mod 10)のときはx^2=5となるようなxが存在し、p≡3、7(mod 10)のときはx^2=5となるようなxが存在しないからなのですが、つまりは(5/p)が1となるときと−1となるときの場合分けを考えればいいのだな、と認識しました。

 いまは奇素数pを法とする場合で、q=5として考えているので、相互法則にそのまま代入すると、



となります。右辺に注目すると



となり、pは奇数なのでp−1は偶数、つまりいつでも右辺は1になりそうです。ということは、左辺の(5/p)が1になるのは(p/5)が1になるときで、(5/p)が−1になるのは(p/5)が−1になるときなんだな。

 法5についての原始根()の累乗を調べてみると、



原始根の偶数乗は1と4、原始根の奇数乗は2と3になっています。したがって、

  p≡1、4(mod 5)のとき、(p/5)=1
  p≡2、3(mod 5)のとき、(p/5)=−1

ということがいえそうです。これは、

  p≡±1(mod 5)のとき、(p/5)=1
  P≡±2(mod 5)のとき、(p/5)=−1

と書き換えてもよさそう。ここでとめてもいいけれど、さらに書き換えてみます。

  p=5a±1のとき、(p/5)=1
  p=5b±2のとき、(p/5)=−1   (a、bは整数)

 pは奇数なので、aは偶数、bは奇数。よって、a=2α、b=2β+1(α、βは整数)を代入してみると

  p=5(2α)±1=10α±1≡1、9(mod 10)

  p=5(2β+1)±2=10β+5±2≡3、7(mod 10)

 最後はちょっとこじつけっぽいですが、これでどうだろうか?
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「オイラーの規準」の証明につっこみたくなる

 原始根から有限体の√5を考えていたとき()、ある原始根の偶数乗が5となっていれば、その法における√5が存在するのではないか?ということがわかってきました。

  たとえば、法11においては、
  原始根の1つが2であり、
  2^4≡5と表せるので、
  4が偶数であることから、
  法11における√5が存在する。
   →5は法11に関して平方剰余

  一方、法7においては、
  原始根の1つが3であり、
  3^5≡5と表せるので、
  5が奇数であることから、
  法7における√5は存在しない。
   →5は法7に関して平方非剰余

 そして、ルジャンドル記号()では平方剰余であることを1、平方非剰余であることを−1と表すのだから、原始根についている指数kが偶数なら1、奇数なら−1となることを (−1)^k の形で表せそうです。

pを奇素数、rを法pに関する原始根とする.


 なんて便利なんでしょう〜〜


 便利なのはいいのですけれど・・・


 この事実を使ったとある証明(by岩波講座現代数学への入門「数論入門1」)に私はちょっと驚いてしまいました。なんの証明かというと、オイラーの規準と呼ばれる命題の証明です。

     〔オイラーの規準〕
      pを奇素数とするとき
     (mod p)

っていうか、証明の前にこの命題ですでにびっくりなんですけど! 左辺はついこの間知ったルジャンドル記号。aとpが互いに素なら1か−1。そして右辺はいわば各元の累乗のまんなかへんの値()。きのう確かに1か−1になっていることを確認して、それなりに感動したところ。右辺が1か−1になるはずだから、=で結ばれるのは納得しよう。ええ、納得しますとも。でも、なんでそんなことがいえてしまうのだ!?

 そして、aとpが素である場合の証明の式変形はこんな感じです。↓

 

 後半は計算してあるだけだからいいとしても、−1のところにポコンと緑の部分を入れてしまっても、そんなことをしてしまっても、いいのでしょうか!? 確かにきのうこれも確認してそれなりに感動はしました()。感動はしたけれど、だからといって、こんなことをしてもいいのでしょうかぁぁ

 ってことは・・・・・・




 なるほど〜〜 うーむ、なるほど〜〜〜 ウーム・・・
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原始根の累乗は2度揃う

 原始根を調べていたとき()、数字の並びが左右対称になっているペアがあるのだなぁ、これにはどういう意味があるのかなぁ、ということは気になっていたのですが、それよりもなにもりももっと大きな一目瞭然の特徴があることをすっかり見落としていました。



 原始根って、いちばん最後の1だけではなく、途中(水色部分)でいったん数字が揃うのですね〜! 法pにおける、(p−1)/2乗部分で、みんな p−1 になっています。あるいはそのまま「−1」と考えてもいいのかもしれない。

 原始根rは(p−1)乗ではじめて1になるわけですが、(p−1)/2 乗は、その√をとるようなものなので、1か−1になってほしい、でも1にはなれないので、−1。ゆえに−1と結論づけるのはまだ納得がいかないけれど、少なくとも辻褄はあうなぁ〜とそれなりの感動があります。

 考えてみれば、原始根でなくても、(p−1)乗で1になるのだから、(p−1)/2 乗では1か−1になっているはず。たとえば法13の場合だと、こんな感じです。↓



 そうなってないとおかしいのだけれど、なっていればなっていたでなんか不思議だー。

 この、「1か−1になる」「1になる」「−1になる」ということが、平方剰余と関わってくるというのがとても面白いです。
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ルジャンドル記号ってなんだ?

 「平方剰余の相互法則」のことを知りたくて、いつものごとく検索を続けていました。だいたいどこでも同じような書き方がしてあるのですが、どうにもよくわからない。

 何がわからないかというと、最初のほうで「ルジャンドル記号」というのが出てくるのですが、分数のようなものをかっこでくくってイコール +1 または −1 と書いてあるこの表記のどこがどう“記号”なのかがわからなかったのです。

 インターネットだけで勉強をするのは無理そうだという感触を得、テキスト(図書館で借りた「岩波講座 現代数学への入門 数論入門1」)を読むことにしました。

 そしたらあっという間にわかりました。

 要は、平方剰余のときは1と書き、平方非剰余のときは−1と書くのですね。そういうふうに1と−1の場合を別々に日本語で書いてくれればすぐにわかるのにな・・・(^^;

 たとえば、法11で2乗して5となる数をさがしていたとき()、4、7という答えが見つかりました(4^2≡5、7^2≡5 mod 11)。つまり、n^2≡5(mod 11)となる整数nが存在するので、こんなとき、5は法11に関して平方剰余であるといい、記号で

     

と書くらしいのです。

 また、法7においては、2乗して5となる数を見つけることができませんでした。なので、5は法7に対して平方非剰余であるといい、記号で

     

と書くらしいのです。

 一般的な形でまとめると、次のようになります。

 n^2≡a(mod p)となる整数nが存在するとき、aは法pに関して平方剰余であるといい、記号で

     

と表す。また、平方剰余でないとき、aは法pに関して平方非剰余であるといい、記号で

     

と表す。この記号が「ルジャンドル記号」(または平方剰余記号)というものらしいのです。平方剰余と平方非剰余の区別だけなら何も数字をあてはめなくても○と×でいいやん、と思うわけですが、先を読み進めるにつけだんだんとその便利さがわかってきました。
 
 たとえば、1、−1に加え、aとpが互いに素でないとき(aがpの倍数となるとき)

     

と定義すると、次の命題が成り立ちます。

 pを奇素数とするとき、整数aについて合同式

     

の解の個数をNとすると、

     

 なるほど、平方剰余の場合はN=1+1=2(個)、平方非剰余の場合はN=1−1=0(個)、aがpの倍数となるときはN=1+0=1(個)となるわけですね〜〜(aがpの倍数となるときは X≡0 の1個)
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「数の拡張」を想う

 ヒルベルトの第10問題について参考にさせていただいているこちらのページによると、不定方程式が実数の範囲で解けるか否かを判定するアルゴリズムは知られているけれど、有理数解を持つか否かを判定できるかどうかは、いまもわかっていないのだそうです(1999年現在。その後、解決したのでしょうか?)。そして、ヒルベルトの第10問題が否定的に解決された→整数解を持つか否かを有限的に判定する方法はない、ということなので、実数だとアリ、整数ではナシ、その間(?)の有理数がまだわからない、ということなのでしょう。

 整数というのは普段の問題であればとても扱いやすくて、自然数であればなお扱いやすいはずなのですが、その扱いやすさは制限からくるもので、制限があるからこそ成り立つ問題があり、果てしなく広がる未知の世界があるのかもしれないなぁ、なんてことを思いました。

 人間の歴史、数学の歴史、・・・を持ち出すと話が複雑になるので、とりあえず小学校、中学校、高校の流れで考えると、小学校では最初、0と自然数だけの世界にいたのが、やがて小数や分数を知り、中1で負の数を知り、中3で有理数・無理数という区別を知り、高校生で実数・虚数、複素数を知り、そうして数の幅を広げることで、いままで表せなかった“数”が表せるようになり、解けなかった方程式が解けるようになっていった・・・・・・のに、私はまた整数や自然数だけの世界にもどろうとしている・・・。トシをとって子どもに返りつつあるということか?(ちがうちがう)

 あらためて考えてみれば、油分け算は整数の問題なのに、油にしろ水にしろ葡萄酒にしろ牛乳にしろ砂時計にしろ、連続量の題材を使っているところが面白いです。このように油や水などが整数の問題に使えるのは単位があるからで、連続量が単位によって離散的な数になり得るということを、油分け算を通して実感したような気がします。
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小数文化圏

 これまで数論方面にはまったく興味がなくて、『フェルマーの最終定理』の本を手にするなんて数ヶ月まで考えられない私だったのに、どうして最近、数論や初等代数学に興味をもつようになったかというと、『やわらか頭「江戸脳」をつくる和算ドリル』という本がきっかけでした。(この本の前に、「剰余グラフ」をベースとして。)

 著者のおふたりとは知り合いです。10年ほど前に、Niftyの「塾と予備校の教育情報フォーラム」で出会いました。和算に特に興味があるわけではなかったし、タイトルと表紙からして普段であればまず手にしない本なのですが、このおふたりが書いていて面白くないはずがないという確信があったので、買いました。で、やっぱり面白かったです。

 特に面白かったのが、「分数文化圏と小数文化圏」の話、2進法を利用した文字当てパズルの「目付桜」、そしてグラフで解く「油分け算」です。前者2つは数の話であり、「油分け算」は1次不定方程式の面白さにつながっていきます(ということに気づいたのは、油分け算についてあれこれ考えたあとであり、本では1次不定方程式には触れられていません)。へぇ、自分はこういうジャンルに興味があったのか、と新鮮な驚きがありましたが、「目付桜」は絵だし、「油分け算」はグラフで解いてあったから面白かったし、結局のところビジュアルなものを介在させないと興味がもてない体質に変わりはないようです。

 「分数文化圏と小数文化圏」の話については、参考文献として巻末で森毅著『数の現象学』があげられていたので、こちらも少しずつ読んでいます。

 『やわらか頭「江戸脳」をつくる和算ドリル』では、エジプト、ギリシャ、ローマ、ヨーロッパを「分数文化圏」と呼ぶとしたら、バビロニア、インド、イスラム(アラビア)、中国、日本は「小数文化圏」であり、特に日本の場合、江戸時代には「割合」としての分数しかなかった(足したり引いたりする「独立した数」としての分数はなかった)ので、日本こそが「完全な小数文化圏の国」である、と書いてありました。江戸時代の計算は算盤が主だったので、分数の計算が算盤になじまなかったことも理由のひとつだろうとのこと。なるほど。

 考えてみれば、那由多、不可思議、無量大数など大きいほうのみならず、チリ(塵:ジン)だのホコリ(埃:アイ)だの刹那だの、小さいほうもけっこうな位までいちいち名前がついているのはなんだかスゴイです。そもそも「塵劫記」も、「塵、劫、記」なわけで。中国、日本が小数文化圏であったという話もしっくりきます。

 この、分数文化圏・小数文化圏---半端な数を分数で表すか、小数で表すか---の違い、長きにわたって培われてきた数の感覚、文化というのは、根強いものがあるのではないかと思ったりなんかもするのです。発生したか、浸透したか、発展したか、の土壌の問題もあるし。すごくへんな話なんだけれど、私は日本が「完全な小数文化圏」であると読んだとき、どういうわけだかほっとしました。ほっとしたというか、やっぱりそうか、というか。たぶん、分数ということばから有理数という言葉を連想して、理性という言葉を連想して、日本の根っこに理性はない、という妄想につながって、なんだかほっとしたのでしょう。なんでここでほっとするのか自分でもよくわからないままに。しかも、自分の名前に「理」という文字が入っているのに。
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数論と日本人

 サイモン・シン著、青木薫訳『フェルマーの最終定理』(新潮文庫)は「訳者あとがき」も面白かったです。

 青木薫さんは理論物理学を専門としている方で、『フェルマーの最終定理』のほかにもサイモン・シン著『ビッグバン宇宙論』やジェームズ・ワトソン著『DNA』など、いろいろな本を翻訳されているようです。
(ご本人のサイトはこちらです。>DELPHICAの散歩道

 どういうことが書いてあるかというと・・・・・・

 京都大学の理学部に入学が決まったとき、かわいがってもらった高校の数学の先生から「きみは数学をやる気かもしれないが、少なくとも数論はやめておいたほうがいい」と言われた話、サイモン・シンの『フェルマーの最終定理』(英国版)を読みはじめたときに自然科学出身の者としてむっとした話、読み進むにつれて対抗意識が消えていき数学と数学者の世界に引き込まれていった話、サイモン・シンのマイノリティへの視線(日本人研究者と女性研究者の取り扱い方)に好感をもった話、ラングランズ・プログラムについての補足として示された『ゼータの世界』(ゼータの統一と物理学における力の統一の対応関係)の図など、「訳者あとがき」がまたひとつの面白い読み物になっていて、つくづくお得な本だと感じました。ちなみに最後の『ゼータの世界』はなんのことやらさっぱり、なのですが、それなのにどういうわけだか面白いと思えるのです。
 ワイルズが証明のギャップを埋めることに成功したシーンは、何度読んでもそのたびに目頭が熱くなり、その部分の推敲は、ティッシュボックスをそばに置いて洟をかみながらの作業となった。

というような情緒的(?)な記述にも親近感をおぼえて暖かい気持ちになりました。(私は洟をかまずに読みましたが) ちなみにここを読むまでは青木薫さんを男性だと決めつけていて(と、女性だとわかったときに気づいた)、へぇ、涙もろい人なんだなぁ、なんて思ってしまった私。この直後にマイノリティの話が出てきたりなんかして。

 それからもうひとつ、ハッとしたというか、ドキッとしたというか、ニヤッとしたのが次のくだりです。
それにしても、フェルマーの最終定理の証明に大きな役割を果たした日本人がこれほど多いのはどうしたわけだろう。(中略)ひょっとすると、日本人の頭は数論向きなのだろうか。 

 実は最近、というか数論に興味をもつようになって、同じようなことをぼんやりと考えていたのです。日本人の気質というか国民性というかものの考え方というか文化というか、そういうものに数論というのは意外とマッチするのではないか、と。数学者や数学愛好家というよりは、むしろ数学が好きだと自覚していない、あるいは数学嫌いの人の中に潜在的数論ファンが案外多いのではなかろうか、と。

 たとえば、『博士の愛した数式』が話題になりました。この本が成功したのは(斜め読みで言うのもなんですが・・・)登場人物の肌触りと全体を包む切なくて穏やかな雰囲気、それにストーリーと数学の話題の絶妙なバランスであり、数を扱った本だからということではないのでしょう。でも、数を扱ったことで“ひかれる”こともなかったわけで、やっぱり数・数式の話は重要な位置を占めていると思うのです。数学の話題の中でも、単体として扱いやすいエピソードを選んでいるからか、ビジュアル化するより言葉による詩的な表現が向いている話題が選ばれているからか、そしてその表現が成功したのか、あるいは文学としてよい作品だったものにたまたま数学が入っていただけのことなのか・・・。とにかく、この本がここまで話題になって映画化までされてしまうことが、個人的には少々驚きなのでした。ひょっとして、みんな実は数学(数の話題)好き?って感じで。(しかし、サイモン・シン著『フェルマーの最終定理』を『博士の愛した数式』の副読本とするのはあまりにもあまりなではなかろうか・・・新潮文庫だとしても)

 それから、藤原正彦さんの『国家の品格』という本も話題になりました。こちらは、読もうかどうしようか迷って、結局読んでいません。でも、数論を専門とする人がこういう本を出すというのが、いまはなんだかしっくりくるのです。もちろん、数論の専門家だからこういう本を書いたのではなく、藤原正彦さんだからこういう本を書いたのでしょう。数論との関わりをいうのはこじつけかな・・・。いや、こじつけだろうか。

 数論と日本人について考えるようになったのにはそれなりの経緯があるものの、あくまでも、勘、イメージ、妄想です。今後も、一生懸命考えて厳密に検証するというよりも、趣味のひとつ(?!?)としてぼんやり考えていきたいと思っています。

 ちなみに、最近自分が数論に興味をもつようになったのは、トシをとったからだ、と自分で分析しています。
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サイモン・シン著・青木薫訳『フェルマーの最終定理』

 サイモン・シン著・青木薫訳『フェルマーの最終定理』(新潮文庫)を読みました。フェルマーの最終定理についての本を読むのはこれが初めてなのですが、いい本を選んだのだろうなぁ、とほかの本を読んでいないのに思ってしまえるほどとても面白かったです。フェルマーの最終定理の証明をとりまくたくさんの人々(もちろんそのほとんどは数学者)の人間模様や生き様がとにかく面白いのです。興味深いのです。

 アンドリュー・ワイルズの証明は現代数学を粋を集めたというか総動員させたものであり、フェルマーが証明したというのはおそらく勘違いだったのだろう、というのが大方の見方なのだという話をきいたことがあります。ということは、フェルマーの最終定理の証明を追った本を読むと、現代数学の大方の“粋”に触れられることになります。実際の現代数学の粋がどうであるかは知らないのでどのくらい触れているのかはわかりませんが、確かに、専門的につっこんだ事柄は何も書いていないのに、現代数学に触れているという実感が味わえます。なんともお得な本です。何冊かの面白い本を一度に読んでいるような気分になります。たとえばガロアについてはそれ相応のページ数がさかれており、読んでいる途中で「あれ? 私、なんでガロアの本を読む気になったんだっけ・・・」なんて自分で首を傾げて、ああ、そうだった、フェルマーの最終定理を読んでいるんだったと思い出す、といった具合です。ガロアは後半部分で出てきますが、全編通してこの感覚を何度も味わいました。それぞれの数学者のエピソードにのめりこんでしまうのです。

 「あとがき」で訳者の方に興味をもったので、検索をして青木薫さんのサイトを見つけました。さすが訳者、何よりよくこの本を著している一文を見つけたので、引用させていただきます。

 決して難解ではないのに、これほどのリアリティをもって数学と数学者の世界を描き出す本が他にあるだろうか。

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