TETRA’s MATH

龍樹の双方向、因果集合の一方向

 以前は、本のなかの図をスキャンしてブログに載せることに抵抗があったのだけれど、最近では、文章の引用と同じように考えることにしている。特に、自分で描き起こすより本にある図をそのまま載せたほうがいいと思われる場合は、そうすることにした。

 というわけで、私にとってワクワクする要素と矢印の図を以下に2種類示してみる。(図12の番号はこちらでつけたもの)。


図1

『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』より
(飲茶、2016年、河出書房新社、Kidle版 位置No.1525)


図2

『時間の正体 ―― デジャブ・因果論・量子論』より
(郡司ペギオ-幸夫、2008年、講談社、p.57)


 図1は「龍樹」について述べられているところに出てくる図で、矢印は双方向になっている。

 図2は物理学者マルコポーロさんの時間の意味論を郡司さんが解説するなかで使われた因果集合の例の図で、矢印は一方向になっている。

 まずは図1について。これは仏教の「縁起」が関わってくることであり、縁起については今年の4月に関連記事を10記事ほど書いた。「縁起」を「縁りて起こる」という語義通りに捉えれば、矢印は一方向として考えるほうが自然に思えるが、龍樹の矢印は双方向なのだ。

 飲茶さんの本では、物事や現象は単独の存在ではなく、たくさんの間接的原因の絡み合いによって起こり、浮かんでは消えていく実体のないものだ、という意味として「縁起」が説明してある。そして、あらゆる現象は相互の関係性によって成り立っており、確固たる実体としてそこに存在しているわけではない「空の哲学」を龍樹は作り出した、と。

 この記述の前半は、一方向の矢印として考えることができるというか、むしろそちらほうが自然だと思うのだ。どんなに複雑に絡み合っていても、前後関係ははっきりしていると考えられるから。しかし、後半では「相互の関係性」となっている。

 また、話はここにとどまらず、物はたくさんの部品が組み合わさってできたものを「そう呼んでいる」だけのことで「独立した何か」 がそこに存在しているわけではないことや、あらゆる物理現象は「相互作用」だということ、あるものが別のものに一方的に影響を与えるという事象は決して起こりえないということ、「原因と結果」の関係は逆転させて考えることができることなどが示されている。

 飲茶さんの本だけを根拠にするのもなんなので、中村元『龍樹』をのぞいていみる。ナーガールジュナ(龍樹)の書いたもので最も有名で最も特徴的な『中論』について、それが主張する縁起は相依性(相互依存)と考えられていると書いてある。しかし、その中身は上記とは雰囲気が違っていて、行為と行為主体とが互いに離れて独立に存在することは不可能であるとか、短があるときに長があるがごとくとか、そういう話になっていく。

 とにもかくにも、『中論』のいう縁起は時間的生起関係ではない。

 一方、上記図2では、出来事の連鎖を表しているので矢印は一方向だし、どこかで循環することもない。つまり、図2は順序集合として扱うことができる。

 結局、郡司さんが Past や Future で示している「変換」というのは、「関手」のことだったのだ(ろう)と、「いまごろかい」と自分にツッコミながらしみじみ感じている。Past や Future は当時もなんとなくわかったのだが、p.61の図3−3の F の意味が何をしているのかよくわからなかった覚えがある。これはつまり、Past や Future ではない関手の作り方の例が示されていたのだ、きっと。たぶんそう書いてあるんだけれど、意味がわからなかった。

 図1のほうは、図そのものよりも、なぜ龍樹はこのような考え方をしたのかに興味があるし、図2のほうは、この図そのものから思考を発展させていくことができて楽しい。もっとも、救急車が来る事態になっているのでそのことは楽しくないから、過去には自分で例を作って考えたのだった。
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ひまになって余計なことを考えた人たちは東にもいた

 schoolの語源は、古代ギリシャ語のスコレーつまり「ひま」を意味する言葉からきているというのはよく聞く話かと思う。他国を征服しまくって集めた奴隷たちに「労働」をやらせてひまになった古代ギリシャ人。

 それは西洋のことだけではなかった。カスピ海沿岸に住んでいたアーリア人は東へ進み、ガンジス川流域に住んでいたドラヴィダ人を武力で制圧し、自分たちの国を作り上げることに成功する。最初は素朴な民族宗教を信仰していて、やがてヴェーダという聖典が出来上がっていく。

 そういう状況にあって祭司は特に重要な存在で、アーリア人たちは身分制度(ヴァルナ)を作り出し、自分たちが最高位の「祭司(バラモン)」の階級であることを宣言する。さらに、自分たちに都合の良い物語をヴェーダに後付けで勝手に追加して宗教的権威を手に入れ、特権階級となったバラモンたちは、たいして働かなくても裕福な生活ができるようになる。そういう「働かない人間」たちというものは、 決まって生活に関係ない「余計なこと」を好んで考えるようになる。
端的に言えば、「哲学者」になるのだ。
(飲茶『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』
  Kindle の位置No.279のあたり)

 そんなふうにしてヴェーダに哲学的内容が含まれるようになり、他と区別して「ウパニシャッド(奥義書)」と呼ばれるようになったという流れらしい。以上は、飲茶『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』より。

 ウパニシャッドは長期間にわたって多数成立した書物の総称のようで、体裁ふくめそんなに統一感があるわけでもないもよう。ただ、そのココロを一語で言うのだとしたら、「梵我一如」になるということなのだろうと現時点では理解している。

 一方、インドには六派哲学というものがある。ヴェーダの権威を認める有力な正統派のことで、何かが変わるとき、何が変わるのかでも話題に出した。

 上記リンク先で、バラモン正統派でありながらインド型の唯名論の立場にたつヴェーダーンタ学派のことを書いた。そのヴェーダーンタ学派の大成者である八世紀のシャンカラの説について、面白いたとえが立川武蔵『空の思想史』に出てくる。シャンカラの思想モデルはフルーツゼリーだという話。

 ヴェーダーンタ学派は基体のみの実在を認めるわけだけれども、ゼリーが実在するブラフマン、ゼリーの中に閉じ込められている小さく切られたオレンジ、ピーチ、サクランボなどの「具」が属性ということになる。フルーツの色や形などの現象はゼリーを通して見ることはできるが、ゼリーという基体の外では存在しない。

 サクランボだってゼリーからほじくりだせるだろうに……と思いそうになるが、そうなるともはやフルーツでフルーツゼリーではなくなり、どっちにしろだれがどうやってほじくるのかという話はある(たぶんそういう話ではない)。

 これだけだったら「うーん」と思えるけれど、ショートケーキが出てくると、なるほど感が出てくる。11〜12世紀の同じくヴェーダーンタ学派の思想家であるラーマーヌジャの思想モデル。ヴェーダーンタ学派ではあるがシャンカラの思想とは異なっていて、基体としての神の上に、世界と個我とが載っていると考えたらしい。ショートケーキのスポンジが神で、イチゴと生クリームは神の身体としての世界と個我ということになる。と書いてみて、やっぱり「うーん」だった。

 ついでに言うと、このあとバウムクーヘンも出てくる。9世紀以降のヒンドゥー教のタントリズム(密教)の思想モデル。男性原理と女性原理が等価値である、あるいはひとつであることの表現として。

 TINTでこれらを表現すると、「シャンカラ→フルーツゼリー」「ラーマ―ヌジャ→ショートケーキ」「ヒンドゥー教のタントリズム→バウムクーヘン」という射が出現すると思うとなかなか楽しい。

 『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』では、アーリア人が自分たちの権力を確実なものにするためいかに賢かったか、というふうにして身分制度などの話などが出されている。一方、辻直四郎『ウパニシャッド』(1990年、手元にあるのは2019年版)に、ウパニシャッド哲学の完成について次のようなことが書いてあって、なるほどと思った。

 ヤージュニャヴァルキヤのような大哲学者が出たり、哲学を愛好・保護したジャナカのような賢王の寵を得たりしたこともあったけれど、
しかし自己の利益のためには、一見互に矛盾する思想をも摂取するを辞せぬ一般婆羅門階級は、この新興の哲学をも自家薬籠中のものと化し、ついにヴェーダの極致とさえ称して婆羅門教化することを忘れなかった。
(p.119)

 もともとウパニシャッドの中心思想はヴェーダ文献中に胚胎していたとはいえ、バラモン階級の思想・利益とは著しく隔たっていたらしいのだが、上記のような背景もあったのだとしみじみ思うことであった。

 ちなみに、辻直四郎『ウパニシャッド』は格調高くて味わい深いのだけれど、格調が高すぎてやはり少し読みづらいのだった。
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圏論「トポス」、ちら見の既視感

 圏論を勉強しようとすると、視野のなかに「トポス」という文字が何かと入ってくる。忘れていたわけでもないのだが、思えば「場所」を意味する言葉だった。どう考えても難しそうだし、いくら圏論に興味をもったからといって自分がそれに関わることがあるようには思えなかった。

 しかし、もしかしてもしかすると自分の探し物のヒントがそこにあるのかもしれず、少しのぞいたら何かいいことがあるかもしれない。

 というわけで、ひとまず『圏論による論理学』(清水義夫)を開いてみる。トポスの定義を理解するには、「終対象」「積またはp.b.(プルバック)」「冪」「subobject classifire」の4つを理解しなくてはいけないもよう(なお、「冪」は本では「巾」の表記)。

 開いてみての既視感。といってもいわゆるデジャヴではなく実際に開いたことがある記憶のある既視感。これらの概念に果敢にも……というか無謀にも挑もうとした過去があったような気がする。

 とにもかくにも、トポスというのは「ある条件を満たす圏」であるらしい。それらの条件に上記の4つが関わってくる(「または」とあるのは、清水さんの本では定義が2通り示してあるから)。

 次に、『圏論の道案内』(西郷甲矢人・能美十三)のトポスのところをのぞいてみる。「第7章 圏論的集合論」で出てくる。こちらでは、トポスを理解するには「CCC」と「部分対象分類子」の理解が必要になってくる。

 「CCC」は「カルテジアン閉圏」のことで、「終対象」「積」「冪」をもっている圏であり、「部分対象分類子」は「subobject classifire」のことなので、定義は一致した。なお、「特性射(characteristic morphism)」も出ていていて、これまた既視感。

 ブログの該当記事を削除してしまったらしく足跡がたどれないのだが、おそらく『時間の正体』(郡司ペギオ幸夫)になんとかついていこうとしている途中かその派生での接触なのだろうということが7年越しの『時間の正体』から推測される。

 以前は物理学者マルコポーロさんの論稿がWeb上から読めた記憶があり、無謀にも読もうとして、そしてさっぱりわからなかった思い出があるのだが、いまは有料になっているのかどうか、とにかくアクセスできなかった。

 今思えば、郡司さんはよくこの本を一般向け(と言っていいのだろうか?)に書いたなぁと思うし、私もよく読みこもうとしたなぁと自分で思う。専門用語をあまり使わないようにされたのだと思うけれども、かといってまったく使わないわけにもいかず、やっぱりこれを一般人が理解するのはそうとうに厳しいと思う。かといって、専門的な知識がある人が喜んで読むようにも思えないし。

 ただ、それなりの冊数がある郡司さんの本から、自分にとってこの1冊がヒットしたというのは、何か意味があったのかもしれない。

 subobject classifire の図は、『圏論の歩き方』「第17章 圏論のつまづき方」にもちょろっと出てきていた。「筆順」がわかりくい例として。

 アップロードした手描きの図がブログ内の画像として残っていたので、そのころ私は書き順について考えようとしていたのだろう。特性射のところが点線になっていなくて、いまはそれが気になるので、あらためて『圏論の道案内』と『圏論による論理学』を参考に図を描いてみた。ついでに説明も入れてみた。「p.b.」も加えておいた。monoは単射と示した。



 なお、『圏論による論理学』では subobject classifire は真理値対象とも呼べるといったようなことが書いてあるが、『圏論の道案内』ではΩを真理値対象として、subobject classifire は「1→Ω」という射のことを指しているように読める。

 結局、「トポスってなんなんだ?」「どういうときに使うんだ?」「なんのいいことがあるんだ?」ということについてはいまだによくわかっていないのだけれど、とりあえず「論理」方面の話であるらしいということと、直観主義論理と関わりがありそうだということだけはなんとなく感じている。

 圏論の学び始めで『圏論による論理学 ―― 高階論理とトポス』にお世話になっておきながら、いまだにこんなことしか書けない。
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何かが変化するとき、何が変化するのか

 『〈現実〉とは何か』(西郷甲矢人・田口茂)には「数学・哲学から始まる世界像の転換」という副題がついている。この「転換」という言葉が、中身を知ったいまとなっては味わい深い。

 一方、『現代思想2020年7月号 特集=圏論の世界』の郡司ペギオ幸夫さんの論稿のタイトルは、「圏論の展開〜脱圏論への転回」となっている。テンカイの音を重ねるという遊び以上に、展開を転回につなげるのは郡司さんらしいな、と思う(という私の感じ方にも、後述の同一性が関わってくる)。

 さて、私が『〈現実〉とは何か』の「私」の記述に「そうきたかーーー」と思ったのは、自然変換とからめて語ってあるからだった。たとえそれはイメージにすぎないとしても、思考を発展させるのに十分な威力を発揮するイメージだと感じる。

 転換でも展開でも転回でも、そして「変化」でもなく、「変換」。そうなると途端に「私」が重層的なものになる。

 いま、私は「私」というものを、時間による変化の上でとらえようとしているのだが、それを考えるとき、アイデンティティという言葉が思い浮かぶ。直接の意味は「同一性」だとしても、会話や文章のなかでこの言葉が出てくる場面があるとしたら、「私が私であること」「私が何者かであること」あるいは「存在意義」のようなニュアンスになることが多いのではなかろうか。私に限らず、だれかにとって。「私が何者かである」「だれかが何者かである」ためには、確かに自己同一性の保持が必要になる。

 しかし、自己がたとえ同一性を保つものであっても、まったく同じではいられない。そこには大なり小なり変化というものがある。だいたい同じでも、少しは違う。ときには大きく変化する。そんなとき、いったい何が変化しているのだろう?

 このことについて、郡司さんが『時間の正体』で、あるひとつのわかりやすいたとえを示しておられる(p.110〜111)。「小学生が中学生になる」という表現を素朴に眺めると、小学生という実体が消え、突如中学生が出現することを表しているように思えるが、「小学生だった信夫が中学生になる」と考えれば不連続性は解消され、小学生、中学生は様相となり、「信夫」という具体的な個体、実体によって同一性は保持される、というような話(私の表現でまとめている)。

 郡司さんの議論はベルクソン、ドゥルーズの時間論とのからめたものだが、私は上記の「実体と様相」の話から、インド思想の「基体と属性」に気持ちが向かった。

 『空の思想史』(立川武蔵、2003年)によると、インドの人々が世界の構造について考える場合、属性とその基体という対概念によって考察する傾向が強いのだそう。たとえば、「この本は重要だ」という命題は「この本には重要性が載っている(重要性がある)」と解釈される。本は実体で、重要性は属性ということになる(p.37より)。

 バラモン正統派と仏教(非正統派)の違いとして、基体が存在すると考えるか否か、ということがまずあり、バラモン正統派は存在すると考え、仏教は存在しないと考える。

 しかし、ここを境目にぱっきりとわかれるのではなく、もうひとつの視点からくる、もうひとつの境目がある。それは、属性とその基体とには明確な区別があると考えるか否かという視点。区別があると考える立場をインド型の実在論、ないと考える立場をインド型の唯名論と呼ぶようで、バラモン正統派のうちの三派は実在論の立場をとり、仏教は唯名論の立場をとるらしい。

 一方、バラモン正統派のなかのヴェーダーンタ学派は、基体は存在すると考えるが、属性と基体とには明確な区別がないという意味では唯名論の立場に立っている(六派あるうちの残りの二派は実在論と唯名論の中間で、時期によって異なる学派もあるもよう)。

 別の言い方をすれば、唯名論の立場に立つヴェーダーンタ学派と仏教との違いは、基体が存在すると考えるか否か、ということになる。
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ウパニシャッドとクオリアの意外な関係

 『〈現実〉とは何か』(西郷甲矢人・田口茂)の第四章の巻末注で、「ウパニシャッド哲学」の話が少しだけ出てくる。
「私」を普遍的実体と捉える見方を真面目に展開したのがウパニシャッド哲学(アートマン=ブラフマンという考え)であると言ってよいと思われるが、この実体論を解体しようとしたのが仏教である。
 「真面目に」の文字がなにげに印象的だけれど、この一文からけっこう考え込むことになっている。いくつか考えたいことがあるのだが、ひとまず楽しい(というのもヘンだけど)話から書いてみたい。

 『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』(飲茶)は、歴史の流れを汲みながら、哲学者たちをざっくりわかりやすく紹介してくれて面白い。インド哲学、中国哲学、日本哲学という章立てで、インドからはヤージュニャヴァルキヤ、釈迦、龍樹が取り上げられている。

 つまり、東洋編はウパニシャッド最大の哲学者と呼ばれるヤージュニャヴァルキヤから始まるのだ。

 最初に出てくる人物ということもあってか、かなり気合を入れて描写してある印象があり、なんだったら釈迦、龍樹よりも心に残る。いや、もちろん釈迦や龍樹だって気合を入れて描写してあるので、知らなかった分、読む自分にとっての印象が大きかったのだろうと思う。

 ヤージュニャバルキヤの“得意技”は「梵我一如」。簡単にいえば、世界を成り立たせている原理(梵=ブラフマン)と個人を成り立たせている原理(我=アートマン)が実は同一のもの(一如)という理論。ちなみに梵我一如はヤージュニャヴァルキヤのオリジナルの理論ではない。

 では、そのヤージュニャヴァルキヤのアートマンの捉え方とはどのようなものであったのか。

 ということへの理解を深めるために、「私」が存在するのに絶対必要な条件を考えていく作業が始まる(このあたりからたぶん、飲茶さんの考察なのだと思う)。

 まずは明らかに違うものから排除していく。「職業」「肩書き」といった社会的地位は違う。「性質」や「個性」も違う。これらは消滅しうる。「肉体」はどうだろうか? 「腕」や「足」を切り離したとしても「私」が存在している状況は容易に想像できる。では、「脳」は? というわけで脳の話になっていく。

 このあと、けっこうなページ数(Kindle版の印象だけど)を割いて脳の話が展開されていくのだけれど、名称こそ出てこないものの、「クオリア」についての議論が含まれていると私は感じた。「赤」という独特の質感の話や、デイヴィッド・チャーマーズの名が出てきたりするので。なお、この記事のタイトルの「意外な関係」というのは、「こんなところでクオリアが出てくるのかー」という意味での私にとっての意外。

 水槽の脳の話なども出てくる。ちなみに水槽の脳の話は西洋編のフッサールのところでも出てくる。

 で、結局、「私」が存在するための条件は何かといえば、「痛み」を感じたり「色」を見たりするような意識現象があること、というところに話は落ち着いていくのだ(※)。

 これがどうヤージュニャヴァルキヤとつながるかというと、彼は「アートマン(私)とは認識するものである」としており、「ああ、どうやって認識するものを認識できるであろうか?」というようなことを言っているから。

 なお、途中でサルトルの『存在と無』も引き合いに出されている。

 とにもかくにもヤージュニャヴァルキヤは、「私」について「に非ず、に非ず」としか言えない、と述べているらしい。「私」というものは、捉えることができないし、破壊することができないし、執着することができない。束縛されることもなく、動揺することもなく、害されることもない。

 もちろん、以上のことは飲茶さんの解釈によるものだし、ひとりだけ取り上げてあるので、これをヤージュニャヴァルキヤやウパニシャッドの全体あるいは真髄と言うことはできないが、ウパニシャッド哲学のひとつの現れとして面白い話だと思ったので、書いてみたしだい。なお、今回は取り上げなかったけれども、釈迦や龍樹のところでもヤージュニャヴァルキヤの話は出てくる。

 ところで、以前、西洋哲学と東洋哲学の違いについて、西洋哲学は階段であり、東洋哲学はピラミッドだということを書いた。これも『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』(飲茶)を参考にしての話だったが、この本では別の違いについても書いてある。

 西洋の場合は、最初の哲学として「世界の根源とは何か」「絶対的に正しいことは何か」という「人間の外側」にある「何か」について考えたといえるのに対し、東洋の場合は、哲学者たちはみな、「自己」という「人間の内側」にある「何か」について考えた、ということ。すなわち、関心の方向性がちょうど逆だった、と。

 いずれにせよ、上記のようなウパニシャッド哲学の流れを汲んで、仏教が生まれたということは言えるのだろう。


※ もし、意識現象があることが「私」なのだとしたら、「圏論による意識の理解」(土谷尚嗣・西郷甲矢人、2019)は「私」の探求になるのかもしれず、「私」をとらえるのは不定自然変換ではなく米田の補題であったかー!?なんてことを思ったりした。
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TINTにおける射の生まれ方・消え方のルール

 TINT(不定自然変換理論)に興味をもったので、以下の4つの論文・資料を読みながら、理解しようとしている。なお、14の番号はこちらでつけたもの。


1.布山美慕、西郷甲矢人(2019)
 「不定自然変換理論の構築:圏論を用いた動的な比喩理解の記述」

2.池田駿介、高橋達二、布山美慕、西郷甲矢人(2019)
 「不定自然変換理論による比喩理解モデリングの
  計算論的実装へ向けて」

3.池田駿介、高橋達二、布山美慕、西郷甲矢人(2020)
 「不定自然変換理論に基づく比喩理解モデルの計算論的実装」

4.布山美慕、西郷甲矢人(2019)
 「自然変換の構築としての比喩理解」
  ※ 日本認知科学会第36回大会のオーガナイズドセッションの
    スライド資料なのではないかと推測している。



 不定自然変換は、イメージの圏に新しく射が生まれることや、自然変換が探索されるといった動的な過程を記述するためのものなので、「射の生まれ方」についてのルールが必要になる。

 なので、今度はそのルールを見ていく。今回も、論文2を中心に読んでいく。

 まずは潜在圏と顕在圏をおさえておく。すべてのイメージの体系とそれらの想起関係からなるイメージの圏Cを潜在圏と呼び、ここでは各射に想起確率が対応している。そして、ある時点で励起した射すべてを含む圏Cの部分圏Cexcを顕在圏と呼ぶ。

 ルールについては、論文に示してあることをもとに自分で図示して考えていたのだが、その後、資料4を見つけて、おおよそあっていたことがわかった。ただし、basic rule については、「域と余域の対象と同一視できる恒等射が励起している射はμにかかわらず励起する」の意味がひきつづきわからない。また、特別な場合に励起する逆射についてもまだよくわかっていない。

 せっかくなので、自分でも図を描いてみた。ついでに、ルールの名前も日本語で勝手につけた。

 0.(basic rule)    → 基本ルール
 1.(neighboring rule) → 隣接ルール
 2.(fork rule)    → 分岐ルール
 3.(anti-fork rulr)  → 緩和ルール

 ※ μは想起確率



 基本ルールは合成からそうなるし、隣接ルールは新しい射が生じたらその先に進む可能性が出てくるのはなるほどと思うし、分岐ルールも1つものに関係している2つのものの間に関係性が出てくる可能性があるのはしっくりくる。

 緩和ルールについては、最初はちょっと強いルールかなとも思ったけれど、時間をかけて行われるものらしいし、あんまり発展性のなさそうな射の励起を消すというのはそれはそれで納得がいく。

 自分でも何か例を作って考えようとあれこれやってみたのだけれど、たくさん図を描かねばならず、これはやっぱりアニメーションで表現するのがいいんだろうな……というか、アニメーションで見てみたいな、と思った。何しろこれは、時間変化・発展過程を記述するための理論なのだから。

 なお、論文3によると、いよいよ具体的なシミュレーションが始まっているもよう。

 ところで、TINTによる比喩理解は楽しいのだけれど、思い起こせば私は「不定自然変換としての私」に興味をもったのだった。さてこの議論が、どう「私」につながっていくのだろうか。

 TINTそのものやTINTによる比喩理解は、これから計算論として発展していってほしいと願っているけれども、「私」の問題がそのまま計量化できるとは考えにくいので、やはりそれはひとつの「イメージ」としての不定自然変換かな、と自分で感じている。それでまったくかまわないのだけれど、もう少しクリアな、あるいは深いイメージとなるよう、不定自然変換についての理解を深めたいと思うのだった。というか、自分でも考えていきたいと思うのだった。
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不定自然変換理論TINTの自分なりのラフスケッチ

 TINT(不定自然変換理論)に興味をもったので、以下の4つの論文・資料を読みながら、理解しようとしている。なお、14の番号はこちらでつけたもの。

 最初に12を見つけて参考にしていたのだが、その後、34を新たに見つけた。こういう資料が私のような一般人にも簡単に見られるって、やっぱりインターネットってありがたいなぁと感じている。


1.布山美慕、西郷甲矢人(2019)
 「不定自然変換理論の構築:圏論を用いた動的な比喩理解の記述」

2.池田駿介、高橋達二、布山美慕、西郷甲矢人(2019)
 「不定自然変換理論による比喩理解モデリングの
  計算論的実装へ向けて」

3.池田駿介、高橋達二、布山美慕、西郷甲矢人(2020)
 「不定自然変換理論に基づく比喩理解モデルの計算論的実装」

4.布山美慕、西郷甲矢人(2019)
 「自然変換の構築としての比喩理解」
  ※ 日本認知科学会第36回大会のオーガナイズドセッションの
    スライド資料なのではないかと推測している



 ところどころわからないことはあるのだけれど、「こういうことかな?」というラフスケッチは思い描けているので、現段階の理解の記録として書いてみようと思う。今回は、おもに論文2を参考にする。

 最初に、コスライス圏X/Cの定義を、論文とは少しだけ表現を変えてまとめておく。なお、上記資料ではコスライス圏の表示でバックスラッシュを使っているが、ここでは普通のスラッシュ「/」を使うことにする。スライス圏ではC/Xというふうに圏の記号を左に書いたが、コスライス圏ではX/CというようにCのほうを右側に書くことにする(大抵、そうなっているように思う)。

 1.対象は、Xを始域とするすべての射
 2.射は、f:X→aからg:X→bへの
   hf=gを満たすような圏Cの射h
 3.射の合成はCの合成で行う。
 4.恒等射はCの恒等射を引き継く。

 なお、『現代思想2020年7月号 特集=圏論の世界』の田口+西郷論稿では、スライス圏の射を、上記2でいうところのf、g、hの3つ組にあたるものと定義している。それでいえばコスライス圏の射も3つ組で定義したいところだし、実際、3つ組の三角構造についても論文のなかで触れられているのだが、ひとまずここでは射hをfからgへの射ということにしておく。

 また、コスライス圏をちゃんと理解していないので、3、4が「?」ではあるけれど、とりあえず先に進む。

 次に、TINTによる比喩理解のための圏の定義について。

 ・ イメージの圏Cの対象はイメージ、
   Cの射はそれらの間の想起関係とする。
 ・ Aがイメージの圏Cの対象であるとする。
   このときAの「意味」をコスライス圏A/Cで表現する。

 これで準備はできたので、以下、自分で考えたことを書いていく。

※ なお、今回はいつにもまして「自分の理解と表現で」書いています。興味がある方は、直接、上記の論文・資料を読んでください。例も含めて自分で考えています。図もまったく変わっています。

        *     *     *

 論文・資料では「被喩辞」と「喩辞」それぞれのコスライス圏を作るところから始まっているが、私は「喩辞」のみコスライス圏を考えるところから始めた。また、おそらくわかりやすくするためと思われるけれども、コスライス圏を元の圏Cに入れ込んで、もとの対象(イメージ)がはっきりする形でコスライス圏の中身が書かれてあることで、私にとってはコスライス圏の対象が元の圏の対象に見えてかえってわかりにくかったので、まずは以下のように考えることにした。

 イメージの圏Cのなかに、A、B、C、D、Eの5つの対象があり、射は次のようになっているとする。

     


 この圏Cをもとにしてコスライス圏B/Cをつくる。BからDへの射を「BD」とアルファベットを並べて書き、コスライス圏で射が対象になるときには丸で囲む。そうすると、コスライス圏B/Cは次のようになる。

     


 さて、ここで、「AはBのようだ」という比喩が行われたとする。そうすると圏C自体に変化が起こる。これを圏C’とする。

     


 ぽつねんとしていたAにもA→Bという射ができたので、「AB」だけを対象としたコスライス圏A/C’をつくりたくなるけれど、射の合成によりAC、AD、AEもできるので、あえてBを絡ませた状態で書くと、下のようなコスライス圏A/C’ができる。

     


     


 これは、「AはBのようだ」という比喩によって、圏B/C’から圏A/C’への関手が作られたと言える状況かと思う。

  


 以上の理解があっているかどうかはわからないけれど、論文ではこの関手のことを Base of Metaphor Functor(BMF)と呼んでいる。

 考えればあたりまえのことだと思う。だからこそ比喩が可能なわけであり。「AはBのようだ」という比喩は、Bの上にAを重ねるようなものではなかろうか。

 次は自然変換。現段階での理解を書いてみる。

 たとえば、「夏子さんはひまわりのようだ」という比喩がなされたとする。この比喩をした人は、「ひまわり」から想起されるなんらかのイメージ、たとえば「黄色で明るい」とか「大きな花で存在感がある」とか「1本ですくっと立っている」とか、そういったイメージをもとに夏子さんをひまわりにたとえたと思うわけなのだ。

 いま、あえて「人」にあうように言い方を整えたけれども、ひまわりからの想起でいえば、「黄色」「大きな花」「1本立ち」というイメージになる。なので、上記の関手によってうつしただけの場合、「夏子さん→ひまわり→黄色」ということから「夏子さん→黄色」という合成射になってしまう。

 なので、「ひまわり→黄色」から「夏子さん→明るい」にうつせるように新たな関手を考えるというのが、最初にできた関手からの自然変換ということなのかな?というふうにいまは理解している。

 この場合、「夏子さん→明るい」の射が新たに生まれたことになる。あるいは、もともとあったものが探索されたということになる。

 比喩する側からみれば、もともとあったものと考えるのが自然だろう。夏子さんの明るさ(あるいは別のイメージ)からひまわりを想起したことになるだろうから。一方、夏子さんを知らない人からすれば、「夏子さんってひまわりみたいな人よ」と言われたとき、ひまわりのイメージから(たとえば)「夏子さんって明るい人なんだろうな」と逆に思うことになるのだろう。「比喩理解」というのは、どちらかというと後者なのかな、と推測している。
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圏論を用いた動的な比喩理解TINT

 西郷甲矢人さんが布山美慕さんという方といっしょに、圏論を使った比喩理解の研究をされているらしいということについては、なんだかんだでこれまで接触はあった。『圏論の道案内』にもちらっと書いてあるし、あちらこちらの註でも見かけた記憶がある。

 が、「さすがに比喩はないよなー」と思って、のぞこうとしなかった。「意識」はまだギリギリありかもしれないけれど、「比喩」はないよな、と。

 それが一転して読む気になったのは、「不定自然変換」に大変興味を持ったからなのだ。例の事情によりリンクはしないけれど、「不定自然変換」で検索すれば、以下の文献が見つけられると思う。12の番号はこちらでつけたもの。


1.布山美慕、西郷甲矢人(2019)
「不定自然変換理論の構築:圏論を用いた動的な比喩理解の記述」

2.池田駿介、高橋達二、布山美慕、西郷甲矢人(2019)
「不定自然変換理論による比喩理解モデリングの計算論的実装へ向けて」


 このなかにTINTというものが出てくる。theory of indeterminate natural transformation の略称、つまり「不定自然変換理論」なるもの。心の中で、もうティントと呼んでしまっているのだが、そう呼んでいいのかどうかはわからない。

 比喩という言葉から、言語や文学方向の話なのかな?と漠然と思っていたのだけれど、どうやら認知科学方面の話であるらしい。

 1の「1.はじめに」で「潜在意味解析や Word embedding を用いて意味の創出をある種のベクトル演算に近似する方法に比べて」という記述があるのだけれど、そういう方法なんかもあるのだなぁと思ったりした。

 その1では三好達治の詩が取り上げられていたりして、楽しく読んだ(なお、『土』の紹介のところで蟻と蝶が入れ替わってしまっているように思うのだが)。この詩の題名は「土」なんだよなぁとしみじみと思った。

 2ではさらに研究が進んでいることがうかがえる。

 しかし、いずれにせよこれはまだ「入口」なのだと思う。この段階の話であれば、あえて圏論を使う必要は感じられない。むしろ言葉と想像力にまかせたほうが、事態をより深くつかめるように感じた。何かあるとしたらこの先なのだ、きっと。いまはまだ、「提案」なのだ。

 その提案を、少しのぞいてみようと思う。

 まず、イメージの圏Cを用意する。対象はイメージ(言語的なものに限らない)であり、それらの想起関係を射とする。イメージの意味はコスライス圏で表現する。コスライス圏は、固定した対象Aからの射を対象とするものなので、いわばひとつのイメージAから想起されるイメージへの想起関係を集めたものとなり、これをイメージの意味とするのはなるほどと思える。

 ただ、「想起関係」そのものを射とすると、すべての射が同じものと感じられないこともない。あるイメージからあるイメージへの射をひとつにしぼっているのは、いまはとりあえずそうしているわけであり、そういう意味でのひとつではなく、「想起関係」という意味で同じなのではないかということ。なので、「AからBが想起される」という文章そのものを射と考えるとしっくりくるかな、と思った。
(2020年8月6日追記:射についてのこの言い方は何かヘンだな……と自分で感じているのですが、記録としてそのまま残しておきます)

 そして、比喩について。比喩は「AはBのようだ」という形をしているものだけれど、このたび「喩辞」と「被喩辞」という用語をはじめて知った。たとえに使われたBが 喩辞、たとえられたAが 被喩辞 のことだと私は理解している。これらAとBのイメージの意味の対応づけは、関手で表現される。

 比喩理解の過程は自然変換の探索で表現され、どの動的な過程をモデル化するためにイメージの想起確率が導入されて圏が不定化されることになる。確率の導入はまだ研究段階にあるらしく、計算などについては具体的には触れられていない。

 面白いのは、設定されたルールをもとにして、射が残ったり、消えたりすること。これらは「励起」「緩和」と呼ばれており、4つのルールが設定されている。
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圏論「コスライス圏」、名前と記号のあれこれ

 圏論を学ぼうとすると、たくさんの「コ○○○」に出会う。

 コドメインから始まって、コイコライザーとかコプロダクトとかコユニットとかコリミットとかココーンとか。これらの「コ○○○」は、コを省いた「○○○」の言葉があるのでコをつけて新たな言葉にできるのだと私は理解している。

 それを言うなら、三角関数にだってcosine、cosecant、cotangentがある。つまり、「コ」は「余」なのだと思う。そういえば余事象という用語もある。

 日本語で考えれば「余」は「それ以外」という意味を表すと思うのだが、なぜ英語では「co-」(共に)になるものが「余」に対応するのだろう? ペアをなしている一方に対する他方と考えれば「余」、2つでペアをなすことができるという意味で「co-」なのか、と思ってみたり。それとも「余」や「co-」の意味が違うのか。

 先日、話題に出てきたスライス圏についても、コスライス圏という相棒がいる。このことに関して、圏論の学び始めで大変お世話になった檜山正幸さんのブログに、なんでもかんでも余をつけるのははイタダケナイナーということで、自分はオーバー圏、アンダー圏と呼ぶことにする、という主旨のことが書いてあるのを見つけた。

檜山正幸のキマイラ飼育記(はてなBlog)
オーバー圏、アンダー圏

 なお、檜山さんも『現代思想2020年7月号 特集=圏論の世界』に「ソフトウェアの数理モデルと圏論」というタイトルで寄稿されている。

 私も、オーバー圏、アンダー圏がいいな、とそのときには思った。

 がしかし、人間やはり慣れというものがあり、一度、スライス圏やコスライス圏で書かれた文献を読む経験をすると、この言葉に慣れてしまって、別の言葉に変換するのが逆に大変になってくる。

 オーバー圏、アンダー圏という呼び方は、何をもってしてオーバー、アンダーと言っているのか、もとの意味はわからないのだけれど、たぶん、上方の対象からなる圏、下方の対象からなる圏という意味なのではないかと推測している。

 自分としてはその逆で、Aに向かうということ、Aが矢印の先にあるという意味でオーバー、Aから向かうということ、Aが矢印の元にいるというイメージでアンダーを考えるとわかりやすいと思っていた。なんて書くと、混乱してしまうのだけれど。

 これに記号表記が加わると、自分としてはさらに混乱してしまう。

 同じく圏論を学び始めのころお世話になった清水義夫『圏論による論理学 ―― 高階論理とトポス』(2007年)では、スライス“圏”という言い方はされていないが、「スライス」という圏について述べてあるところはあり、「↓」という記号が使われている。CのBによるスライスは「C↓B」というふうに。そして、CのBによるスライスは、CのBによる「カンマ圏」とも呼ばれることがある、という内容の注意書きが添えられている。コスライスは見当たらない。

 この書き方だとスライス圏とコンマ圏がイコールになってしまうが、まんまイコールではないと私は理解している。「↓」がどこから来たのかわからないのだけれど、私としては、「↓」はアンダーのイメージがあってわかりにくい。もしかすると、先にアンダーの発想があったのだろうか?

 ちなみに、『圏論の道案内』(西郷+能美)では、コンマ圏は一般射圏という呼び名になっており、一般射圏に「コンマ」のルビがついている。そのことについては本でも注釈が少し書いてあるが、あえてそうしているらしいという話を以下で読んだ。なお、このページはソーシャルボタンがついているので、リンクOKと判断した。

gihyo.jp
『圏論の道案内』発売記念 西郷甲矢人先生講演会 レポート
 第3回 自由な発想で圏論という景色を眺めてみよう
https://gihyo.jp/science/serial/01/category_theory_report/0003

 なぜコンマ圏というかというと、昔、コンマを使って表していたからだ、という話はほかでも読んだことがあるのだが、『圏論の道案内』では、「いろいろな記号があるが、どれもイマイチのような感じがする」という話も書いてあった。

 とにかく、「ここではこういう表記をするよ」と最初にことわればいい話なのだろう。

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「経験我」と輪廻のリアル、不定自然変換へ

 『〈現実〉とは何か』(西郷甲矢人・田口茂)の第四章を読んでいるとき、『仏教思想のゼロポイント』(魚川祐司)p.93に示されている次の図式を思い出した。(「^n」は右肩につくn)

A−A’−A’’−A’’’−A^n…a^nB−B’−B’’−B’’’−B^n…b^nC−C'−C''−C'''−C^n…c^nD……d^nE…

 これは木村泰賢による図式で、「無我」であるところの衆生が輪廻する仕組みを表している。A、B、C、D、Eは木村泰賢の用語でいえば「五蘊所成の模型的生命」、魚川さんの言葉でいえば、「認知のまとまり」もしくは「経験我」に当たるものということになる。「A^n」はAが死を迎えた時点であり、「…」の部分が転生を示している。

 この図式が含まれている項目には「無我だからこそ輪廻する」というタイトルがついている。「無我」というのは仏教の基本教理と言われているが、何かと誤解されてしまったり、混乱のもとになったりするものかもしれない。仏教でいうところの「無我」の我は、「常一主宰」の「実体我」なのだ。

 ブッダは、場合によっては自己を積極的に肯定していたりもする。「自己を頼れ」というふうに。その、否定されていない経験我、「自己を頼れ」という場合の「自己」とは、いったいどのようなものであるのか。
 結論から言ってしまえば、それは縁起の法則にしたがって生成消滅を繰り返す諸要素の一時的な(仮の)和合によって形成され、そこで感官からの情報が認知されることによって経験が成立する、ある流動し続ける場のことである。本章の冒頭に使用した言葉でパラフレーズするならば、それを「個体性」だと言ってもよい。
(『仏教思想のゼロポイント』p.89)

 だいぶ端折るので唐突に聞こえるかもしれないが、はやい話、現象の継起のプロセスが輪廻なのだ(ウ・ジョーティカの理解をふまえての表現)。輪廻は、死ぬ時に起こる神秘現象ではないのだ。仏教の立場からすれば、いま、この瞬間の私にも、現象の継起のプロセスとして輪廻は生起し続けているということになる。転生というのは、そのことのわかりやすい表れに過ぎないと、魚川さんは書いておられる(『仏教思想のゼロポイント』p.97)。

 『〈現実〉とは何か』第四章にもどると、「私」という言葉で言い表されているものは、「個体的実体」としてあるわけでもなく、「普遍的実体」としてあるわけでもなく、そのように「実体」的なものとして取り押さえようとすると、見えなくなってしまう、ということについて書いてある。

 それだけだったら、「だよねー」で終わっていたかもしれない。私が「そうきたかーーー」と思ったのは、「私」を自然変換で捉えようとする記述があったから。「自然変換としての私」という考え方も、実体論からの脱却を意味している、と。

 自然変換は、数学の用語としては、すでにできあがった項と項の間に成り立つ関係をいうものだけれども、『〈現実〉とは何か』では「自然変換」という語をもっと一般化しようとしている。決まった項の間の決まった関係ではなく、絶えずそのつどの現場で生まれ出つつあるような変換として。あえていえば、「不定自然変換」とでも言うべきものなのである、と。
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