TETRA'S MATH

数学と数学教育

ボンカレーで思い出した食べ物と時間のこと

 郡司ペギオ幸夫『いきものとなまものの哲学』の「はじめに」は、「カレーにみる世界制作の方法」というタイトルになっており、郡司さんの子供時代の情景やボンカレーとの遭遇について豊かな描写がなされたあと、ボンカレーはいったい何を意味しているかについての面白い考察がなされていきます。

 全体的に文章が味わい深く、内容に言及することに抵抗があるところなので、直接関わることは書かずにいて、ここを読んで自分が思い出したことについて書いてみたいと思います。

 それは、食べ物の保存のこと。

 たとえばかつて、このようなエントリを書いたことがあります↓

 冷蔵庫・乾物・保存食と時間
 http://math.artet.net/?eid=1382178

 このなかで、新型インフルエンザ対策についての別エントリをリンクしていますが、当時、「娘も自分も感染していなくて元気だけれど、学校が休校になりできるだけ外出を控えたほうがいい状況」をふまえ、買い物に行かなくても数日間は食べ物に困らないにはどうしたらいいかを考えたりしていたのでした。

 一方、生活ブログではこんなエントリを書いたことがあります↓

 食品品質保持剤の場合はどうなるのか
 http://sukkiri.artet.net/?eid=1407427
 
 お店で買ってきた加工食品に、食べ物ではない「小袋」が入っていることがありますが、その小袋がごみとなったときの分別について考えていたとき、その小袋の役割について考えることになり、なにゆえこのような小袋が必要なのか…ということに思いを馳せることになったのでした。

 という話が書けるということは、つまり今回の本は「時間」の本ではありません。

 ひとことでいうなら「他者」の本であろうと、現段階では予感しています。
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郡司ペギオ幸夫『いきものとなまものの哲学』の第一印象

 ここのところ、郡司ペギオ幸夫『いきものとなまものの哲学』を読んでいます。2014年の発行なので、過去にも書名を見た記憶がうっすらあることはあるのですが、これまで手がのびませんでした。

 それがなぜいま手にすることになったのかというと、とある動機があったからなのですが(気がつけば例のポスト複雑系の文章も入っています)、私がいま考えたかったこととはちょっと方向が違いました。

 が、結局、面白いです。なんというのか、郡司さんのもののとらえかた、現象のとらえかたが面白く、その現象というのがボンカレーだったり、テレビ番組だったり、プーさんだったりするのが面白いのです。よく見てるなぁ、よく覚えているなぁ、と感心する一方で、なのに研究会に行くときそういうことになっちゃったりするんだなーと思ってみたり。

 特に1−1で出てくる「ケーキちゃん」は、事実そのものが衝撃的でした。テレビ番組のとある企画についての話題なのですが、同系列と思われる企画の別バージョンは私も見たことがあるものの、この「ケーキちゃん」は知りませんでした。自分としては前半のけっこう大きなトピックのひとつなので、ネタばれをふせぐため内容は書かずにいます。

 この本は、郡司さんの本にしては、とっつきやすい(部分が多い)と感じています。読み始めてからすぐに「あらま、郡司さんエッセイストになったの!?」と思ったほど。初出を見てみれば、「はじめに」の文章は『広告』とのことで、なるほどと納得しました。

 その他、『ユリイカ』や『現代思想』に掲載された文章が、大幅に加筆修正されてまとめられているようです。

 もちろん、読み込むのに時間がかかりそうなところもあります。前提になっているもの(たとえばニーチェ)を知らないと読むのが難しい章があったり、1つ1つ確かめながら読み進めていかないと内容がつかめない章があったり。

 だけど、なんというのか、もはや郡司ペギオ幸夫さんの考えを理解したいという気持ちより、こういうふうにいろんなこと「見出せたら=創れたら」楽しいだろうなぁ…という気持ちのほうが強くなってまいりました。

 というわけで、今後この本についてエントリを書き続けていくかは未定ですが、ひとまず第一印象をお伝えしてみました。

 なお、中村恭子さんの作品によるカバー絵が、なにげにゴージャスでよい感じです。吸盤が一瞬真珠にも見えたりするからでしょうか。
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『圏論の歩き方』第12章/見える矢印、見えない矢印

 『圏論の歩き方』第12章を読んでいます。

 次のセクションのタイトルは「見える矢印,見えない矢印」となっています。Q&Aの前の締めくくりであり、冒頭の問い「なぜ数学を教えるか」に向かって思い切り冒険的なことを考えてみたところです。

 著者が接しているのはバイオ系の学生さんなわけですが、その問題意識に肉薄したいと思い、著者はよく生物学の本や論文を眺めることがあるそう。そのとき非常に印象深いことは、「矢印のシステム」がいたるところに書いてあることなのだそうです。たとえば代謝のネットワーク、あるいは遺伝子発現の機構など。

 これらは、いってみれば「見えない矢印」を、「見える矢印」によって表現し、理解しようとしているわけであり、細かいことを除けば、まさに関手をつくりだそうとしているのだといってよいでしょう、と著者は語っています。(その最後のところに欄外注がついていて、哲学者田口茂氏のお名前が出てきます)

 これらの「見えない矢印」は実にさまざまの意味をもっていて、中でも重要なのは、矢印A→Bが、

    AがあるからBがある/AがなければBがない

を意味する場合ではないでしょうか、と話は続きます。これは、一見数学における「AならばB」と似ているようでありながら、異なるものであり、“むしろ「反対向き」であり,かつ,「順序」や「時間」といったことを捨象しない立場”というかっこ書きが添えられています。

 たとえば、AがあるからといってBが「必ず」あるとは限らない。むしろ、「蒔かぬ種は生えぬ」といったような関係をあらわす矢印と見るのが適切とのこと。

 そしてなんと、ゴーダマ・ブッダの「縁起」の話が出てくるのです。

 つい先日、別のことがきっかけとなり、noteで「無」がない話というテキストを書いたばかりなのです。考えてみれば『圏論の歩き方』第12章で縁起が出てくるのはすでに知っていたので、頭のどこかで意識していたのかもしれません。ちなみに私がnoteに書いたテキストは、中村元『龍樹』を参考にして中観派の考え方を少し取り上げたものであり、論敵であった説一切有部と何が違ったかについて「縁起」の話を出しています。

 『圏論の歩き方』第12章の著者である西郷さんは、ブッダの縁起を出す前に、先ほどの矢印のA、Bについて、

決定論とは注意深く切り離したうえで,これを「因果関係」と呼ぶことはさほど的外れではないでしょう.

(p.207)

と書いておられます。そして、丸で囲んだ「因」から、丸で囲んだ「果」へ矢印が出ている図が示されていて、その上に「因があるから,果がある」、下に「因がなければ,果がない」と示されています。

 ゴーダマ・ブッダが「縁起」を説いた際、「因果関係」をこの定式でとらえ、それに基づいた論理を駆使していたという話には欄外注があり、哲学者石飛道子氏のお名前が出てきます。

 縁起に触れられているのはほんの少しで、このあとは因果関係についての矢印の重要性のこと、まったく異なる分野である仏教と医学の共通点のほか、震災、原発事故といった言葉も出され、わたしたちはこれからますます、いままで見過ごしていた「見えない矢印」を「見える矢印」にしていく必要があることと、消し去るべき矢印を消し去る必要もあることについて語られています。さらに、アメリカ・インディアンの「自分の矢は自分でつくるしかない」という諺も示されています。

 著者は、数学は(圏論に限らず)その矢印を引いていくヒントを与えると信じるとのこと。というわけで、なせ数学を教えるのかという問いに対する著者の現在の答えは、「すべての人に矢印を引いて欲しいから」というものになっています。

 さて。

 さきほどお名前を出したおふたりの哲学者についてです。

 田口茂さんについては、西郷さんとの接点について検索してみたところ、神経科学者の土谷尚嗣さんとの共著である論文を見つけました。がしかし英文でございまして、いまは読み解く気力がなく…。もっとも、日本語でもわからなかったような気がします。ちなみにタイトルからしてすでに「Using category theory …」になっています。

田口研究室>2016年 01月 06日 Paper accepted
http://taghoku.exblog.jp/25242984/

 石飛道子さんについては、検索しても西郷甲矢人さんとの接点は見つけられませんでした。そのかわり余計なものを見つけてしまいました(と一瞬思ってしまった)。三浦俊彦さんと何か論争になっているのでしょうか? 三浦俊彦さんのお名前ってどこかで見たぞ、どこだっけ……とこのブログを検索して解明。クワインに興味をもったときに参照させていただいた方でしたか。こちらも、これ以上のことを調べる&読む気力がいまはなく…。

 ただ、西郷さんが哲学者の方々と議論をしながらご自分の考えを進めていっておられるということに対しては、興味津々です。いずれ機会があったら、さらにその先の話を読んでみたいです。

 それはそうとして、因果関係の矢印と聞いて思い出すのは、郡司ペギオ幸夫『時間の正体』を読んだときに出てきた因果集合のこと。あのとき本を参考にして自分で作った図がこちら↓(因果集合は、順序集合より)

   

 なんか当時それなりにがんばってましたね私〜。マルコポーロさんの論文も参照しようと努力したし。でも、がんばったわりに、結局、なんにもわからなかったというか、なんにも残っていないというか、少し何かつかめたかもしれないけれど、すっかり消えてしまっております。いま読んでもわかる気がしない…(涙)

 私にも「矢印プリーズ!」と言いたいけれど、自分の矢印は自分で作るしかないし、矢印はどうしたら作れるのかも自分で習得していくしかないのでしょう。

 以上、『圏論の歩き方』第12章を読んでいきました。このあとのQ&Aは割愛させていただくことにして、第12章についてはこれで一区切りにしたいと思います。


※ 読み落としや間違いに気づいたときには、そのつど訂正させていただきます。
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『圏論の歩き方』第12章/間奏:ホモロジー理論(に苦戦する)

 『圏論の歩き方』第12章を読んでいます。

 いやー、なまじ理解しようとすると大変。きょうはとんちんかんなこといっぱい書くと思いますが、とりあえず投稿して、「そういうことだったのか〜」とわかったら、また訂正・追加したいと思います。(いろいろ疲れたので、記号の斜体指定は今回はナシということで)

 次は何の話かというと、数学内部における「比喩=関手」の効き目を見る一例としての、ホモロジー理論の話です。

 ホモロジー理論とは、「位相空間を対象とし,連続写像を射とする圏」(あるいはそれに類する圏)から,「加群を対象とし,その間の準同型写像を射とする圏」(あるいはそれに類する圏)への関手を用いる理論だというふうに、ここでは説明されています。

 さらに大雑把に言うなら、「図形の世界」の話を「量の世界」の話に翻訳するような「比喩=関手」を活用する理論だ、と。

 1ページ半強を使っての“間奏”なので、詳細なことは書かれておらず、ある命題の証明とブラウアーの不動点定理について触れられているのですが、私は「???」がとびまくり、その半分くらいしか回収できずに現在にいたります。

 話は、ある関手H があるとして、次のようになることのみを認めるところから始まります。

  H(円板)=0 (0のみからなる加群)
  H(円周)=Z (整数全体からなる加群)

  ※ イコールは本当は同型と言うほうが
    適切である旨コメントあり

 最初に別の本で加群について確認しておきます。参考にさせていただくのは、またまた谷村省吾『理工系のためのトポロジー・圏論・微分幾何 双対性の視点から』です。(p.82〜83)

 Mが群であるとは、任意の2つの元 x,y∈M の積 xy∈M が定まり、結合律、単位元の存在、逆元の存在という条件が満たされていることでした。

 そして加群(module)とは可換な積を持つ群であり、つまり任意の x,y∈M に対して交換律 xy=yx が成立するような群Mのことで、このような場合は積 xy の代わりに x+y と書くことにし、x+0=x なる元0のことを単位元と呼ぶ代わりに零元と呼び、x+ x´=0 となる逆元x´のことをーxと書く、ということのようです。

 あらま、では加群というのは、可換群、アーベル群のことなんでしょうか。英語表記も別々だし、加群は「○○ group」の形でもないし、なんかそういうイメージがないのですが。そもそもなぜ違う名前がついているんだろう? と思いきや、定義は同じだけど、文脈や付与された性質の違いによって使い分けられるということか。ふむ。

 加群について、もやもやしつつもとりあえずの確かめたところで、先の2式にもどると、H(円板)が0のみからなる加群でH(円周)が整数全体からなる加群というのは、単純に考えると不思議な感じがしました。逆のほうがイメージとしてはしっくりくるので。と感じる私は、たぶん根本的なことがわかっていないのでしょう。

 では、命題です。

=====
 
命題 円周から円板への埋め込み(つまり,円周上の点を円板上の点として見直す連続写像)を i とおく.円板から円周への連続写像 r であって、r i =id円周 となるものは存在しない. 
 
=====

 言い換えれば「円周上の点を動かさずに,円板内の点をすべて円周上にもってくるような連続写像」は存在しない(※)という命題のようです。直感的に言えば、円周のかたちをした枠に柔らかい膜を固定して張ったとき、膜を「破ることなしに」枠へ寄せてしまうことはできない、ということで、「それはそうだろう」と思うけれど、それをキッチリ示すのは結構難しい、と。

 最後の「それはそうだろう」というのは物体の感覚でそう思えますが、私にとっては命題そのものとそれの言い換え(上記※)と直感的いいなおしの間に、それぞれの断絶があるように感じられて、なかなか理解できませんでした。というかいまも理解できていません。

 とりあえず先に進むと、関手Hという「比喩」によって、「連続写像の話」を「準同型写像の話」に翻訳してみるということで、証明に入っていきます。

=====

証明

そのような r が存在すると仮定して矛盾を示す。H( r  i )に着
目する.
 まず,
  H( r i )=H( r )H( i )
となるが,これは「すべてをゼロにつぶす」準同型写像となる.
というのも,H( i )はZから0への準同型写像ゆえ「すべてを
ゼロにつぶす」し,H(r)も準同型写像ゆえ「ゼロをゼロにうつ
す」からである.
 一方,
  H( r i )=H( id円周)=idz
でもある.これは矛盾である.        (証明終わり)

=====

 上の証明に含まれている式は、関手の関手たるところだなぁと私でも感じられるので、「合成は合成に,恒等射は恒等射にうつす」という定義はさりげないようでありながら、比喩の効き目を保証しているという話には、なるほどと思えます。

 しかし、証明の中身がなんだかキツネにつままれたような気分なのでございます。前提が大胆なわりに、キッチリに感じられないというか。

 H( i )は「円周上の点から円板上の点への連続写像」が"関手によってうつされた”「射」、つまり写像であり、これはZから0への準同型写像ということになりますが、0のみからなる加群の元は0しかないので、とにもかくにも全部0にうつされると考えればいいのでしょうか。だから、「すべてをゼロにつぶす」と。ここで自分は加群の準同型写像がわかっていないことが発覚。

 というわけで、準同型写像について「物理のかぎしっぽ」さんのページで確認させていただきます。

物理のかぎしっぽ>準同型写像
http://hooktail.sub.jp/algebra/Homomorphic/

 ああ、自分が何にこんがらがっているのか少しわかった気がします。「射」と「関手」と「位相空間の連続写像」と「準同型写像」がごちゃごちゃになっているんだ。いまは、円板、円周に対する「連続写像」が「関手」によって「加群どうしの準同型写像」にうつされているのですよね?

 「円板」「円周」は、いまは「対象」。これらは、同じ「圏」の対象なんですよね?

 ということを確認したうえでわからないのは、やはり加群どうしの準同型写像。H( r )の場合は先ほどの逆で、0からZへの写像ということになるから、「0のみからなる加群」の対象である0から、Zのなかの対象である0へうつすという意味での「ゼロをゼロにうつす」ということなんでしょうか…って、なんかとんちんかんなこと書いている不安でいっぱい。
 
 円板、円周という「位相空間」と、円板上、円周上の「点」の区別、それぞれの「加群」と「元」の区別もついていないようですワタクシ。

 それから、最初の段階で、紙数の関係もあるから関手の構成法については一切述べないよ〜と書いてあるのはわかっているけれど、あの2つの式がなにゆえ認められるのかが納得できていないのも「???」の要因かもしれません。

 いろいろわかりませんが、先に進みますれば、いま証明した命題を用いるとブラウワーの不動点定理が証明できると書いてあるのです。
 
=====

ブラウワーの不動点定理) 

 円板から円板への連続写像 f は必ず不動点(f(x)=xとなる点)をもつ.

=====

 もし不動点がなければ、「f(x)からxへと引いたベクトルを延長して円周と交わった点をr(x)とする」ことによって、たった今存在を否定されたような r を作りだせることになるから…ということのようです。

 ただでさえよくわからない状態なんだからよせばいいものを、「ブラウワーはこの証明を認めるのだろうか?」と余計な疑問をもってしまいました。>直観主義論理が認めないもの (っていうか、このブラウワーってあのブラウワー?人違い?勘違い?)

 先ほどの証明って背理法ですよね? r については否定導入型(Aを仮定して矛盾が出る、それゆえ¬A)の背理法とみなしてOKと考えていいのでしょうか。でも、不動点が「ある」こと自体は、不動点を構成してみせないとあるとはいえない立場をとるのが直観主義論理だったのではなかったか。不動点がなければ、先ほど証明されたことと矛盾する。だから、不動点はある。これをブラウワーは認めるのか?っていうか、そもそも本人はどう証明しているのでしょうか。ウィキペディア>ブラウワーの不動点定理をのぞいてみるものの、さっぱりわからず。

 ・・・って、いやいやいまはそんなことを考えている状況ではないのですーっ。

 いろいろわかりませんが、この本が与えてくれるのは情報の洪水とトライアンドエラーの機会なので、立ちどまらずに先に進みたいと思います〜。

(つづく)

※ 間違いに気づいたときには(いっぱいありそう)そのつど訂正させていただきます。
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『圏論の歩き方』第12章/比喩とは何か?

 『圏論の歩き方』第12章を読んでいます。

 3つ前のエントリで書いた「molと米原駅」の比喩の話は、先生と学生の会話調で進んでいくのですが、間をはさんでまた同じ学生さんが出てきます。どうやらその学生さんはmolのことがわかったようです。つまり、その学生さんの問題意識に対して、米原駅の比喩は効き目があった、と。

 molと米原駅の間に共通する本質なんてまったくないと言っていいにも関わらず、なぜ比喩として(一応は)成立したのか。

 それは,molおよびそれを取り囲む量の体系=「圏」と,米原およびそれを取り囲む旧国鉄の路線体系=「圏」の構造とが,似ているからです.
 つまり,わたしが苦し紛れに考え出した「比喩」は,「関手」だった,ということです.思い切って言うと,molと米原駅の例は,「比喩」を単に「対象レベルの関係」としてみることの不十分さを示しているのではないでしょうか.

(p.204)

 この最後の部分に欄外注があり、「比喩を関手としてとらえる」という考えは、本質的には、文芸学者西郷竹彦氏の文芸理論に基づいていることについて書いてあります。(「虚構の方法としての比喩」という言葉も出てきます)

 上記の指摘を読んで、私は2つのことを思い出しました。

 まず、遠山啓のこと。遠山啓がこの "比喩” に近いことを語っていたような気がして、それをブログに書いた記憶がうっすらとあり、検索してさがしてみました。が、どんぴしゃりなものは見つからず、このあたりのことかなぁ…と思ったのが次のエントリです。

現代数学は、本来は素人にわかりやすいはずのもの
http://math.artet.net/?eid=1421661

 さらに検索して見つけたのは、先日リンクしたばかりのこちら。

近代の「関数」から、現代の「群」へ
http://math.artet.net/?eid=1421656

 このなかの引用部分、
 しかし,ここで注意しておきたいのは,<もの―はたらき>の対立はけっして固定的なものではない,ということである。数学者はそこを自由自在に考えて,すこぶる融通のきくつかみ方をするのである。
のなかの、「数学者はそこを自由自在に考えて,すこぶる融通のきくつかみ方をする」というフレーズを思い出したかったかもしれません。ここは「比喩」についてではなく「ものとはたらき」の対立の話ですが、「molと米原駅って全然関係ないじゃーん!ただの比喩じゃーん!」と取り付くしまもないほど頑固に拒絶するような態度を数学(者)はとらないというイメージが、共通しているように思います。

 もうひとつは、思い出したというより、『圏論の歩き方』第12章の上記のフレーズを読んだあと読み直して、逆に上記のフレーズを思い出した記憶がある、銀林浩『量の世界・構造主義的分析』の第4章です。たとえば次のようなことが書いてあります。
 これまでの章を通じて,量と正比例関係とで1つのまとまった全体をなしていることがくどいほどわかったが,このことは純数学的にも保証されたわけである。
(p.161)

 私が現在理解している関手は、対象間の写像だけではなく、射たちの集まりの写像でもあり、そのことが『圏論の歩き方』第12章の先の引用部分や、『量の世界・構造主義的分析』の上記の引用部分につながるのかな?と感じています。その感じ方が的を射ているのかどうか、いまはわかりません。

 さらに上記引用部分に続けて、次のようなことも書いてあります。
 このことから得られる結論は何か? それは,正比例は量の体系と切り離しては考えられないということである。いいかえると,正比例関数はこの量圏の型射として扱われるべきものなのである。したがって,教育的にも,正比例関係は量の体系を構築してゆく手段として取り扱われるべきであるし,そうしてこそ初めて正比例というものの意義も理解されるということになる。
 ところが,これまで,正比例関係は y=ax というただの数学的パターンとしてのみ扱われていたし,量の世界の構築とは関係がなかった。一方,理科や社会科における諸量は,正比例を利用できないために,まったく非系統的にバラバラに,経験的にか天くだりにか与えられていた。これは,量にとっても正比例にとっても不幸な事態であったといわなければならない。
(p.161〜162)
 
 一方、『圏論の歩き方』第12章の先の引用部分に続く部分も、話の内容は異なりますが、教育について言及しています。
 教育においては適切な比喩というものが不可欠です.「比喩=関手」という理解は,したがって,教育においても重要になってくるのではないでしょうか.
(p.205)

 そして、数学内部における「比喩=関手」の効き目の一例として、ホモロジー理論の話が少しだけ出てくるのでした。

(つづく)

※ 読み落としや勘違いがあったときには、そのつど訂正させていただきます。
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『圏論の歩き方』第12章/(くらくらくら〜の中身)

 『圏論の歩き方』第12章を読んでいます。

 というわけで、「ここならついていける!」と開いた第12章に「ケイリーの表現定理」と「米田埋め込み」という語句が出てきて、くらくらくら〜へなへなへな〜になったしだい。それぞれ欄外注はついていますが、私の救いの手にはならず。

 「米田埋め込み」のほうは、圏論のことを調べているとよく出てくる「米田(さん…?お名前でしょうか?)」関連のことだろうと推測してみるものの、ケイリーのほうは、どのケイリーかがまずわからず。ケイリー・ハミルトンのケイリーなのか、ケーリーグラフのケーリーなのか、その両方なのか。「ケイリーの表現定理」で検索しても、関連した話題がひっかかってきません。(というか、現段階ではGoogleで1ページめにこのブログが表示されて、なんとも複雑な気分)

 「ケイリーの表現定理」の欄外注にはこう書いてあります。

すべての群はある変換群と同型である.第8章(中締め座談会)で取り上げました.

(p.203)

 ならば第8章を読んでみるかということでのぞきにいくと、確かにオプショナル・ツアーとしてケイリーの表現定理が出てくるのですが…

=====

  ケイリーの表現定理

  任意の群Gは,台集合|G|上の対称群
    Sym|G|:={σ:|G|→|G||σは全単射}
  の,部分群のうちのあるものに同型.

=====

 台集合ってなんなんでしょうか? ウィキペディア>台集合をのぞいてみるも、数学的構造#定義に転送されていて意味がわからず。ウィキペディア>台(数学)をのぞいてみても、やっぱり意味がわからず。ちなみに対称群の部分群については、以前、ラグランジュ・リゾルベントを勉強しようとしたときに出てきました。>群のなかに群がある

 すごく単純に考えていいのならば(第8章にも「あたりまえに思える人もいるかもしれませんが」と書いてあるし)、わからないでもないけれど、なんでこういう言い回しをするんだろう?と。

 とりあえず証明を追おうとしてみるものの、結局さっぱり意味がわからず。どうやらミソは、Gにおける「抽象的でよくわからない積」abが、置換σbを施した後に置換σaを施すという「具体的にイメージできる積」σaσbとして表現されているところにあるらしいのですが。

 では、米田埋め込みのほうの欄外注はといえば、「第7章を参照してください」とのこと。なにぃ、第7章ー!? 読む前からむずかしいと警告がついているあそこ? 他の章だってさっぱりわからないのに、そのなかの難しい章ならもう宇宙語みたいなものに違いない。そこを参照せよというのかっ。

 まあ、ためしに読んでみるか…ということでざっと目を通してみたのですが、案の定さっぱりわからない…どころかどこに米田埋め込みが書いてあるのかもわかりませんでしたよ私。

 気をとりなおして、話をさかのぼってみます。これらの概念は、群やモノイドの元を(互いにいつでも合成可能な)「矢印=射」として見るということ、さらには結合律を通じて、矢印=射を「その矢印=射を合成するという写像」として、つまり「はたらき」として読み替えることが可能になる、という話のなかで出てきたものでした。

 ケイリーの表現定理のほうと照らし合わせると、先ほどのミソの部分につながるイメージがなきにしもあらず。そういえば第7章の章タイトルは「表現を〈表現〉する話 ミクロ・マクロ双対性(1)」となっているのですが、つまりは「表現」ということが何か関わってくるのでしょうか?

 なんだかいろいろわからないけれど、ここで挫けるとまた止まってしまうので、そういう話があるらしいということだけ頭に入れて、先に進みたいと思います。

(つづく)

※ 読み落としや勘違いがあったときには、そのつど訂正させていただきます。
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『圏論の歩き方』第12章/算数から現代数学へ

 『圏論の歩き方』第12章を読んでいます。

 私はかつて、アクリル毛糸で編むたわしに関する量の圏を作ろうとしたとき、こんなことを書きました。↓

 で、恒等射が難しいのですが、とりあえず1つの量を分母と分子とする分数を考えると「1」という数とみなせ、これが実質的に何を意味するのかは自分でもさっぱりわからないけれど、とりあえずかけ算においては他に影響を与えないので、恒等射の条件は満たしそうです。


 『圏論の歩き方』第12章の「molの話」でも、やっぱり恒等射は「1という数」になっています。そして著者は、大学で同期で数学を学んだというある友人の次の言葉を紹介しています。

「自分は小学校時代から,数1とは何か,ということがずっと引っかかっていた.1Lや1kgはわかるが,何の単位ももたない1が不思議だったのだ.恥ずかしながら,大学で数学を勉強して何年か経って,はじめて1とは何かはっきり腑に落ちた.それは,『なにもしない』というはたらき,つまり恒等射なのだ」

(p.200 ※ リットルの単位の表記を「L」にかえています。)

 「もちろんこれは誇張でしょう」というコメントのあと、次のように続きます。

しかし、数(より一般には量)を「矢印=射」として,あるいはまた「はたらき」としてとらえるという考え方は、たしかに教育の中で見過ごされがちだと思います.

(同上) 

 そして、著者が講義でとりあげたという、2つの話題が示されていきます。1つは分数について。もう1つは、(−1)^2はπ回転を2回繰り返して何もしないはたらき(=1)になる、といったような内容の話題です。

 分数のほうを見ていくと、5/3(分数の3分の5)は「5の1/3倍」なのか、「1/3の5倍」なのかと、小さな弟妹に聞かれたらどう答えるか、「どっちも」であることをどんなふうに説明することができるかについて、学生たちに問いかけながら説明していく様子が会話調で綴られていきます。

 そのなかに出てくる羊羹の図を描き起こしてみました。↓



 左の図は、羊羹を並列にたばねた図の網かけ部分を5/3として、これは「5倍して1/3倍したもの」であると同時に「1/3倍して5倍したもの」でもあることを示したものです。

 ここまでは算数の話だけど、大学で学ぶ線形代数においては、もはや2つの「正比例関係」の掛ける順序を無制限に入れ替えることはできないとして、非可換性という言葉が出されています。そうすると逆に、矢印の合成がいつ等しくなるのか、という問題が本質的になってきて、上記の右側のようなタイプの図(可換図式)が大切な役割を果たすようになる、と。

 このあたりで学生たちは、未知の用語が出てきてぼんやりしはじめるので、先生は慌てて数の話にもどり、(ー1)^2=1の話に入っていくのでした。(こちらの話は割愛します)

 著者が言いたかったことは、算数から現代数学への道を、「もの」としてだけではなく「はたらき」として見る、という見方の深まりとして捉えてはどうだろうか、ということです。

 そういう話になると遠山啓を思い出しますが、話のニュアンス(というか段階)がちょっと違うかもしれません。なお、『圏論の歩き方』第12章の参考文献では、銀林浩先生の書籍が含まれている関係で、遠山啓および数学教育協議会の名も確かに出てくるのですが、著者が銀林先生の本を読んだのは執筆後とのことで、念頭にあったのは別の本のようです(英語の書名が示されています)。銀林先生の書籍のほか、小島順先生の『数学セミナー』所収の文章も示されています。

 「もの」と「働き」と言えば、まさに遠山啓『無限と連続』の第2章がこのタイトルになっています。おもに群(そのもの)の話になっていると私は思うのですが、このブログのエントリとしては、別の本を参照して書いた次のことがらが近いので、リンクしておきます。↓

 近代の「関数」から、現代の「群」へ
 http://math.artet.net/?eid=1421656

 ついでに書いておくと、先ほどの羊羹で出てくる「分数」は倍としての分数、つまり割合としての分数ですね。このあたりについてもいくらでも話が広げられそうですが、いまは深追いしないことにして、ひとまずこれだけリンクしておきます。↓

 手島勝朗さん、杉山吉茂さんを手がかりに、「1あたり量」の問題点について再考する。
 http://math.artet.net/?eid=1422167


 一方、『圏論の歩き方』ではこんなふうに書かれてあります。
 たとえば,先ほどの講義で展開した話は,ちょうどモノイドを「演算の定義された集合」として見るだけではなく,「ただ一つの対象をもつ圏」として見ることに対応しています.つまり,群やモノイドの元を,(互いにいつでも合成可能な)「矢印=射」として見る,ということです。
(p.203)

 そうして、ケイリーの表現定理と、米田埋め込みが(語句だけ/欄外注あり)出てきて、くらくらくら〜なのでございます。
 
(つづく)

※ 読み落としや勘違いがあったときには、そのつど訂正させていただきます。
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『圏論の歩き方』第12章/molは米原駅みたいなもの

 『圏論の歩き方』第12章を読んでいます。

 まずはじめに前回の補足ですが、長浜バイオ大学の入試のページや twitter でいただいた情報から考えると、微積分やベクトル・行列をほとんどやっていない新入生がいるというのは、不思議なことではなさそうだと思うにいたりました。

 で、「量の計算ができない」話です。掛けたらいいか、割ったらいいか、わからないまま適当にやる学生がしばしば見受けられるという状況があるらしいのです。「これはもちろん,恐るべきこと」だとも書いておられます。試薬の分量を間違えたら命にかかわることだってあるわけで。

 しかしなぜ「量の計算」ができないのか。職場の教員の方々と著者が至った共通認識は、「量には単位があるということの認識が薄いから」というもの(物理的ディメンションについての欄外注がついてます)。これは彼らのせいではないということも添えられています。
単位を意識するということはたしかに自然科学では重要とされていますが,それを「数学的構造」としておさえることは,よほど意識の高い先生に出会わない限りほとんどないのだろうと思います.その結果,頭が計算モードに入った途端,「量の計算」ということを忘れ,数値ばかりに目を奪われてしまう.
(p.197〜198)

 量の単位に着目すれば、「掛けたらいいか,割ったらいいか」は本来間違えようがないはずなのに、とのこと。

 そこで著者も次第に、こういうことを数学においてもきちんと位置付けるべきだと考えるようになったそうなのですが、ある日、「掛けたらいいか割ったらいいかわからない」学生と話をしていると、目の前に圏が舞い降りたのだとか。

 その学生は物質量の単位「mol」というものがなかなかスッキリわからなかったようなのです。いろいろ説明を試みたけれどなかなか伝わらない。で、思いついた喩えが、米原駅。

 何がどう比喩になるかというと、米原駅というのは京都・名古屋・長浜をつなぐ駅であり、一方、化学で物質を扱うときに出てくる基本単位「g」「L(本とは表記を変えています)」「個」は、「mol」という単位を持ち込むことでうまくつながるので、molは米原駅みたいなものだ、という話です。

 そのそれぞれについて図が示されています。「米原」を中央におき、「京都」「名古屋」「長浜」をまわりに配置して、それぞれ「米原」と2本(2方向)の矢印で結んだ図と、「mol」を中央におき、「g」「L」「個」をまわりに配置して、それぞれ「mol」と2本(2方向)の矢印で結んだ図。

 molのほうの矢印は、「根元1あたりの先端の量」を意味しており、

● 矢印の先端を根元で割れば,矢印がわかる.
● 根元に矢印を掛ければ,先端がわかる.
● 先端を矢印で割れば、根元がわかる.

という形で量の計算原理を表現している、と。

 ここでいったん自分の感想をはさみますれば、むかし懐かしアクリル毛糸圏(もどき)を思い出しましたです〜! もう、「もどき」をとっていいのかしらん!?

   
 「アクリル毛糸の量の圏」を作りながら思ったこと
 http://math.artet.net/?eid=1349680


 ほんでもって、先の計算原理の説明をし終えた瞬間、著者ははっとしたそうなのです。この小さなシステムは、

● 和が定義できる「量の集合」(線形空間,あるいはその一般化である加群)を「対象」として
● その間の「正比例関係」(線形写像,あるいはその一般化である準同型写像)を「矢印=射」として

定義されるような圏(の一部分)を書きだしたものだ、と気づいたから。そして合成としては、

● 「正比例関係」の合成=1あたりの量の掛け算

をとるので、結合律も満たしている、と。

となると、あとは「恒等射」です。

(つづく)

※ 引用部分以外は我流でまとめています。読み落としや勘違いに気づいたときには、そのつど訂正させていただきます。
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『圏論の歩き方』「第12章 すべての人に矢印を」―圏論と教育をめぐる冒険

 『圏論の歩き方』をどう読んだものか模索していましたが、やっぱり12章から読めばよかったんだと思うきょうこのごろ。

 著者は長浜バイオ大学の西郷甲矢人さん。「ほかに専任の数学者がいない大学で,数学者を目指さない学生に数学を教える」という仕事に取り組んだ新米教員が,圏論的な思考にどのように助けられ,どのようなことを考えたか」という正直な経験を書き連ねたものだそうです。

 組み立ては次の通り。

・読者に
・なぜ数学を教えるのか
・掛けたらいいか,割ったらいいか
・molは米原駅みたいなもの
・算数から現代数学へ
・比喩とは何か?
・間奏:ホモロジー理論
・見える矢印,見えない矢印
・Q&A

 (参考文献)

 『圏論の歩き方』にこの章があってよかったな〜!としみじみ思うのと同時に、いままで考えてきたことに対して、このような視点からのお話がきけて、本当によかったと思っています。

 まず驚いたのは、著者の働いている大学では、微積分やベクトル・行列についてほとんど「やったことがない」と言う新入生も多いという話。「やったことがある」の「やった」の程度もあることでしょうが、そんなことがあり得るんだろうか?と素朴に首を傾げました。

 長浜バイオ大学という名称からして理系っぽいし、少なくとも微積分をほとんどやってないってことはあり得ないのではないかと。なお、高校の現在の教育課程を詳しく知らないまま、印象として書いています。

 そんな状況のなか、これからの勉強をすすめていく上で、ある程度の数学の素養は必要になってくる一方で、数学の勉強にあまり時間をかけられるわけでもない。

 そこで、「数学はどのようなものか」というイメージをつかんでもらうことを最優先することにしたそうなのです(たとえばオイラーの『無限解析入門』にならって微積分の初歩を教えてみたりなど)。

 同時に、さらに基本的なところにも目を向けなければならないという危機感もあった(今でもある)そうで、学生が生物学を学ぶ「実地」で何につまずいているか、担当の教員の方々に聞いてみたり、質問に来た学生と話したりしてきた結果確信できたことは、

● すべての学生に教えるべき「数学的なものの見方・考え方」があり
● それは高校までの数学教育では見失われがちで
● なんと圏論的な発想と深くつながっている

ということだったのだそうです。

 1番目の●の部分を読んで、ふと遠山啓を思い出した私。

 私が思う「量の理論」の根本思想

 まさに、次の1行が、
「とにかく量の計算ができないのですよ.」
となっているのです。(p.197)


 ここから、「掛けたらいいか,割ったらいいか」の話に入っていくのでした。


(つづく)

※ 引用部分以外は我流でまとめています。読み落としや勘違いに気づいたときには、そのつど訂正させていただきます。
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『圏論の歩き方』についての読み方・書き方をかえることにした。

 『圏論の歩き方』の第3章を読みながら、続きのテキストを書いていたのですが、どうにも先に進みません。そしてイライラするのです〜〜と言っても著者の書き方がわるいわけではなく、読み方がわるい思うのです。

 完全に理解しようとは思っていないし理解できるとも思っていなかったけれど、表面の文字面を追っていてもつまらないので、できる限り食いついていくべく、わからない語句などについて検索をかけながらがんばっていました。第12章をのぞいて私がそれをするのにいちばん向いていると思われるのがこの第3章だったから。

 でも、ヤン-バクスター方程式を検索してもリボン圏を検索しても、そして理解しようとしても、どうにも身体に入ってこない。それどころか線形空間およびその双対空間、線形写像とタングルの圏との関係もさっぱりわからない。基本的な図式の意味も理解できない。

 話の流れはなんとなくわかるのです。これをこうおくことにすると、こうなるので、そうなるとこうなって、こうなりますという流れ。だけど、何ひとつ(というと大げさかな…「ほとんど」)リアルに感じられない。実体がつかめない。触っている感じがない。これは楽しくない。

 このままだと早々にこの本を読むことが苦痛になってしまう。そして読まなくなってしまうだろう。それでいいのか??

 どうしたものかと思って、その先をめくったり、「はじめに」や「第1章」にもどったりしていました。私はこれについてブログに書くことで、何がしたいのか?ということも問いなおしていました。

 そうしてとりあえず出た結論は、もう少し率直になろうということ。

 プロセスが綴りたいのだから、あまり1つのテキストに時間をかけすぎず(編集しすぎず)、そのときの思いをできるだけありのままに記録していこうと思うにいたりました。(という考えもまた変わるかもしれませんが)

 とりあえず、そんな感じでいます。
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