TETRA'S MATH

数学と数学教育

カヴァイエスとブラウアーの直観主義をつなぐ、「真理観」

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第2章「ブラウアーの直観主義と操作概念」を読んでいます。

 前回のエントリで、カヴァイエスにおけるブラウアーの影響が軽視される傾向にあることについて書きましたが、第2章・第1節では、その理由が2つあげられています。ここ、とても面白いのですが、あえて、あとでみていくことにします。

 というわけで、まずはストレートに、「カヴァイエスの哲学と共鳴するブラウアーの直観主義の中心的なアイデア」を見ていきます。ここで「共鳴する」と書いてあるように、カヴァイエスはブラウアーから影響を受けて(受けたから)、これこれこういうことを考えるようになったわけではないようなのです。すでに考えていて、そして、ブラウアーに出会った、ということのようなのです。

 このブログで最初にブラウアーが出てきたのは、直観主義ってなんだろう?(2008.12.14)というエントリにおいてでした。ブローエルというかっこ書きをつけているのが懐かしいです(なお、その後はブラウ“ワ”ーと書いていることが多いですが、近藤さんはブラウ“ア”ーにしておられるので、これからしばらくはブラウアーで書いていきます)。

 で、次に出てきたのが数学のオルタナティブ (2009.11.29)において。そして、2010年の夏には、金子洋之『ダメットにたどりつくまで』を読むなかで、ブラウアーに関わるけっこうな数のエントリを書いています。 おもなところでは、

  数学はメンタルな「行為」だと主張した人:ブラウワー
  ブラウワー/ハイティンク/ダメットの関係
  ブラウワーがいうところの数学の無言語性
  フレーゲとラッセル、そしてブラウワー

などがあります。

 このとき垣間見たブラウアーと、近藤さんが示しておられるブラウアーは、もちろん大きく異なるものではないというか、私が思うブラウアーそのものなのですが、表現のしかたが違っていて、面白いし、ドキドキします。というのも、ここはブラウアーそのものを語るところではなく、カヴァイエスがブラウアーから何を受け継ぎ、何を受け継がなかったか、という視点で書かれてあるからだと思います。

 近藤さんは、カヴァイエスが「直観主義から受け継いでいるいくつかのアイデアをつなぐハブとなるアイデア」として、「ブラウワーの真理観」をあげておられます。

 ブラウアーの真理観は、ハイティンクのまとめにしたがえば、「認識の可能性が、認識をおこなう作用そのものによってしか、われわれにはあらわれない」ということになり、これがブラウワーの構成主義的立場とつながっていると私は理解しているのですが、カヴァイエスはブラウワーの真理観を、「問題は、それが解かれるかぎりにおいてのみ、可解である」と表現しているようなのです。この可解性を、私自身は「問うこと・解くこと」という対のフレーズでとらえており、このフレーズはカヴァイエスの真理観を理解するための重要なキーワードになるのだろうと思っていますし、私自身のサブテーマでもあります。たとえば、生活を綴るブログ:TATA-STYLEで、問いと、答え。というエントリを書いています(『禅』(鈴木大拙著/工藤澄子訳)からの引用あり)。
 
 で、このような直観主義の真理観は、伝統的な真理観と対立するということを、もう一度見ていきます。

(つづく)
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ブラウアーの直観主義と、カヴァイエスと、近藤和敬さん

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』を読んでいます。序章、第1章が終わって、いよいよ第2章。

 章タイトルは、「ブラウアーの直観主義と操作概念」です。私にとっては、とても自然な流れです。岡潔と同じ意味で、すでに了解している気分。だって、近藤さんが、そういう流れで序章と第1章を書いているから。

 何が面白いって、2章がブラウアーで、3章がヒルベルトだということ。この本、カヴァイエスのモノグラフィという形で書かれた、近藤和敬さん“の”本なんですよねぇ。

 私はあれを思い出しましたよ、デューイの二元論批判/河村望による訳者あとがきのことを。デューイの和訳は、訳者自身の二元論的認識論の枠組みのなかで勝手に解釈されることが多かったという話。

 また、クワインはウィーン学団から影響を受けたのか受けなかったのかということに対する、丹治信春さんとクリストファー・フックウェイの見解の違いのことも()。

 書かれたものから何をどう読みとるのかは、しみじみ、読み取る側に依存していると思うことであります。しかし論文の場合、物語の感想などとは違って、そう読む根拠を示さなくては意味がないし、示すことができる。

 早い話、カヴァイエスの一般的な解釈は、代数学と構造主義に傾倒して行われることが多かったようなのです、これまで。

 一般的なカヴァイエス解釈の例として、シナサールという人と、グランジェという人が出てきます。

 シナサールは、カヴァイエスが博士論文を書き終えたあと、ブラウワーとハイティングに論文を手渡すために直接アムステルダムに赴いているという事実に注意しながらも、その意味を軽視して、カヴァイエスの概念の哲学とブラウアーの直観主義との差異を確認するだけにとどまっているのだそう。
 
 また、グランジェは、いいところを突いているにも関わらず(←私の表現)、それをウィトゲンシュタインの数学の哲学と結びつけてしまうらしいのです。

 で、それぞれの気持ちや根拠もわかるんだけれど、近藤さんは、そうじゃないんじゃないかな、ここでもってくるべきはブラウアーの直観主義なんじゃないかな、ウィトゲンシュタインとカヴァイエスで一致する点があることについても、ブラウアーが一枚噛んでいるんじゃないかな?という見方をしておられます(←全体的に私の表現)。

 と、近藤さんが考えるのも、カヴァイエスの「操作」概念に注目したからこそのこと。

 というわけで、第2章は、「カヴァイエスは、カントの直観の理論を数学的に解釈しなおしたものとして、ブラウアーの直観主義を高く評価していた。」という1文で始まります。しかし、カヴァイエスとブラウアーの直観主義との関わりが、集中的に検討されたことはなかった、ということで、上記の話へとつながっていくのです。

 実際、カヴァイエスは、直観主義の主張をそのままのかたちで同意しているわけではないのだそうです。ということは、やはりカヴァイエスはダメットに何か通じるものがあるのかもしれません。もちろん、直観主義の何を重視し、何を拒否したかは違っているかもしれませんが。

 そのような現状にあって、ブラウアーの直観主義とカヴァイエスの概念の哲学とのかかわりについて正当な評価をくだしているのが、スブスティク(Sebstik)という人なのだそうです。スブスティクいわく、

「カヴァイエスは、(直観主義が主張する)原直観の作用による数学的基礎づけに賛成することもなければ、ブラウアーによって数学に課された制限に賛成することもない。そうであったとしても、直観主義の2つの主題が、本質的には活動性と実効性の要求から成り立っている(カヴァイエスの)学知の構想のなかで、彼の学知の理論の中心に見出される。彼の学知の理論と深く共鳴しているブラウアーの認識論の詳細な検討を、カヴァイエスが先延ばしにしてしまったことは残念なことである」

  (p.54)

 そんなスブスティクも、上記の「活動性」と「実効性」について、その内容的な検討をじっさいにおこなったわけではないそうなのです。なので、それを近藤さんがやろうとしておられるのだと、私は理解しました。

(つづく)

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連絡

 こどものちかくのほうに、娘と分数を勉強しながら発見したことというエントリを書きました。
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論理学と数学の間で宙吊りになっているカントの「証明」

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第1章を読んでいます。

  さて、還元不可能な「意識」に依拠することによるカントの「論理学」の設定は、どのように可能になってくるのか?

 それは、「悟性および理性の自己認識は「形式にしたがって」生じる」ということを原理的に認めることから可能になる、と書いてあります。「  」内はカヴァイエスの言葉です。しかしカヴァイエスいわく、カントが言う意味での形式論理学は、いささかも形式的にことにあたっていない、と。

 「形式」という言葉は、先日のエントリ:カヴァイエスが修正する、カントの「直観」という用語で出てきました。巻末註も示しましたが、ひとまず「規則」ととらえてよさそうです。

 しかし、カントにとって「形式」は、「操作」の実効的な「遂行」によってあらわれる固有の「構造」のことではないようなのです。そして、もしもこの「形式」を、そのような固有の「構造」としてかんがえるとすれば、形式論理学とはそのような固有の「構造」そのものにおける必然性(すわなち「規則」)の把握であるはずであり、この意味で、カヴァイエスのかんがえるありうべき形式論理学とは、数理論理学を意味している、とのこと。

 そうなると、素朴な疑問がわいてきます。「形式論理学」と「数理論理学」の違いとはなんぞや?という疑問が。ウィキペディアの形式論理学を読んでみると、数理論理学とは異なるものだと考える場合について、次のような記述が見られます。
形式的論理学(formale Logik)とは、ドイツ観念論哲学の祖と言われるイマヌエル・カントがアリストテレス流の論理学に与えた名称。自己の唱えた超越論的論理学(transzendentale Logik)と対比したもの。 
 ・・・ん?
 エドムント・フッサールなどによって、従来の論理学をカントが「全く誤解して」名付けたものであり、対比されている超越論的論理学は形而上学と認識論の奇妙な混合物というべきものであると批判された(フッサール「形式的論理学と超越論的論理学」)。
 アリストテレス? そういえば昔、ちょっとだけかじったぞ・・・と思って検索してみたら、おお、2007年4月3日に論理学の呼び名というエントリを書いておりましたです。大いに混乱しておるようです。

 それはそうとしても、話がつながりません。ウィキペディアの説明によると、カントが唱えたのは形式論理学(たとえ誤解して名づけたとしても、とにかく従来の論理学)ではなく、超越論的論理学であり、それは形式論理学とは対比させられるようなものらしいので。

 というか、ここはあれですね、それぞれの文脈で使われている「形式論理学」「形式的論理学」が同じものをさしていると考えないほうがよさそうですね。形式論理学を、ある種の論理学の呼称として考えると、カヴァイエスいうところの「ありうべき形式論理学」という言い回しの意味もわからなくなるし。フッサールが批判したところの、「形而上学と認識論の奇妙な混合物」をカヴァイエスも批判していると考えると話がつながりますが。だからそれを形式的論理学と呼ばないほうがいいのではなかろうか。自己認識は「形式にしたがって」生じる、というようなことをカントが言っているらしいことはよしとして、そういう意味での「形式」にとどめておいたほうがいいのではなかろうか。

 ひとまず本にもどると、カントの学問論における「論理学」あるいは「形式」の理解においては、「操作」という観点が欠けている、とカヴァイエスはかんがえているようなのです。
言いかえれば、カントの学問論は、論理学と数学のあいだの厳密で維持可能な関係を確立できていないという欠点を抱えているとカヴァイエスはかんがえているのである。
  (p.48)

 だからこそカヴァイエスは、カントの学問論においては、真理の認識としての「証明」の概念が、論理学と数学のあいだで位置決定ができないまま放置されていると判断する、と。
「証明という用語のうえに基礎づけられた学問的理想の要求は、その証明という用語が三段論法と数学的構成とのあいだで未決定なままであるために、学問の展開が演繹されることになる学問の純粋で必然的な部分を、経験の原理を添加することで創造することに帰着してしまっている」
  (p.49)

 ここで三段論法が出てくるのですか・・・ううむ。

 そういえばクワインを読んでいたときに、カントは18〜19世紀の人であり、カントが亡くなってから100年以上たって、『プリンキピア・マセマティカ』が出版されたことになる(カントの時代と、20世紀とでは、「論理学」のパワーに雲泥の差がある)ことを確かめたのでしたっけ。(>「ア・プリオリ/ア・ポステリオリ」と「分析的/総合的」

 カントにおいては、三段論法は、「悟性」と「理性」の「形式」にしたがった自己認識によって確定された「論理学」であるとされるけれども、「数学的構成」は、「直観形式」と「悟性形式」にしたがう「図式」による概念の「構成」をともなった数学的証明として規定される、と。
カヴァイエスは、このような三段論法に固有の論理学の「分析」的特徴と、空間と時間の「直観形式」のうえに基礎づけられた数学の「綜合」的特徴のあいだに、埋めがたい断絶がさしはさまれているとかんがえている。言いかえれば、「証明」という概念の理解が、論理学と数学のあいだで宙吊りになってしまっているのである。
  (p.49)

 やっぱり、フッサールが批判した超越論的論理学と同じものなのではないのだろうか・・・。いずれにしろ、このあたりについては、第1章では「そういう話があるのね」くらいにとどめておいて、立ち止まるとしたら、第4章以降のほうがよさそうです。

 近藤さんはこのあと、「◆結論 哲学と数学をつなぐ媒介としての「操作」概念」という文章を書いておられますが、ここは割愛して、いよいよ次回からは「第2章 ブラウアーの直観主義と操作概念」に進みます。

(つづく)
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カントの「論理学」と、「意識」の絶対性/なぜか構造主義生物学へのリンク

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第1章を読んでいます。

 いまは何を読んでいるかというと、カントが「規則」における「絶対性」の問題を、「理性」と「悟性」について議論しながら、どうやって規定していくのか、について読んでいます。

 きのうのエントリで示したように、カントは、「悟性」と「理性」が生みだす「規則」は、自然のなかにある「規則」と同じ「規則」であると考えたわけですが、カヴァイエスはこれに対し、「言いかえるならば、学問は悟性および理性というある種の能力の産物なのである」として、こう続けます。

論理学はこれらの能力を指導することを欲するにもかかわらず、これらの能力が設定されたあとにしか定義されえない。[論理学の]抽象的な定義は、おそらくこれら悟性と理性という能力によってあたえられることになる。

  (p.47)

 私がこの部分を読んで思い出したのは、池田清彦『構造主義生物学』に書いてあった、人間の知能の発達に対する機能主義者(経験主義者)と構造主義者の主張の違い()のことでした。つまり、A:「人は学習によって能力が高まるのである」と、B:「人はある年齢になると能力が高まるので学習ができるようになるのである」という2つの考え方です。Aの代表は行動主義心理学創始者のジョン・ワトソン、Bの代表がピアジェということになっていました。で、そのあとに構造主義生物学の立場からのピアジェ批判というエントリも書いています。

 あのときは、「うーん、よくわからん・・・」で終わりましたが、いまだったら、あのときよりは少しわかるかも。何かわかるかというと、構造主義生物学の限界が。「構造」を「構成あるいは生成」と対立させて考えているうちは、先に進めないのかもしれません。また、遠山啓が言っていた、近代数学と現代数学の対立にもつながる話だろうと思います。

 さらにカヴァイエスは続けます。

諸規則の源泉である悟性は、「判断の権能」であり、あらゆる判断は、われわれの表彰を統一する機能である。その一方で、機能とは「さまざな表象を1つの共通の表象のもとに秩序づける働きの統一」として解されることになる

  (p.47)

 「表象」というものを、「操作」の実効的な「遂行」として理解するのであれば、「判断」とは、そのようにして浮かびあがる固有の「構造」をうえから俯瞰的に把握し、統一するものとして働くということになります。

 その点については納得なのですが、ひっかかったのは次の部分です。

ここでは、カントの「規則」にかんする議論が、意識における「諸能力」の議論になっていることがみてとられる。

  (p.47)

 「意識」とはなんだろうか?

 とりあえず文面から判断するに、「悟性」「理性」が属するところの何かであるようです。ウィキペディアの「悟性」のページでいうところの「認識能力」のことでしょうか。しかし、それだと「能力」が重なってしまうので、意識=認識ということだろうか。あるいは、「自己」のようなものだろうか。ここにくるまでに、何か読み落としたかな?

 肝心なことは、意識は絶対的なものである、ということだと思うのです。だからこそ、カヴァイエスはこの点を集中的に批判したのだろうと思うことであり。

「規則の必然性-----いわば規則の無条件的で規範的な徴表-----は意識という絶対的なものに従属させられたままであり、意識の現前とその本質構造-----すなわち意識それ自体-----は還元不可能なものであって、いかなる合理的な内容によっても定義されないのである」
  (p.47〜48)

 ああ、もしかすると、「意識」がなんであるかはおいといて、(カントに言わせれば)とにもかくにも、いかなる合理的な内容によっても定義されない「意識」というものがあり、規則の必然性はそれに従属させられている、ということなのでしょうか。

 ならば、そのような還元不可能な「意識」に依拠することによるカントの「論理学」の設定は、どのように可能になってくるのか?

(つづく)
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カントのVerstandにあたるものに「悟性」という訳語をあてたのはだれなのか?

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第1章を読んでいる途中ですが、ちょっと寄り道をして、「悟性」という言葉について考えてみます。

 『純粋理性批判』などのカントの著書は、原文はドイツ語だと思うのですが、ウィキペディアによると、「感性」「悟性」「理性」はそれぞれSinnlichkeit、Verstand、Vernunftなのだそうです。エキサイト翻訳で英訳してもらったら、順に、Sensuality、Mind、Reasonとなりました。ちなみに、ドイツ語→日本語では、「好色」(!)、「心」、「理由」だそうです。

 ついでに、あれこれ調べてみました。

  「悟性」→Weisheit(独)、Understanding(英)

  Weisheit(独)→Wisdom(英)→「知恵」

  Understanding(英)→「理解」→Verständnis(独)

 フランス語だと、「悟性」に相当する言葉はないようで、Understanding(英)→comprendre(仏)→「わかります」 でした。

 それはそうとして、そもそもVerstandにあたるものに、「悟性」という訳をあてたのは、だれなのでしょうか。ウィキペディアで調べたところ、西周らしいです。悟性どころか、philosophiaに「哲学」の訳をあてたのも西周なのだとか。

 ちなみに「悟性」というのは、もともと禅の言葉であるらしく、達磨大師が「悟性論(ごしょうろん)」という書物を書いていたりするようです。↓
http://iriz.hanazono.ac.jp/data/zenseki_084.html

 もし、「悟性」をUnderstandingと捉えるとすると、悟性と理性の違い、すなわち Understanding と Reason の違いはなんなのだ?という疑問がわいてきます。reasonはもちろん、ratioのことでもあるでしょう。>《 比 》 はなぜ 《 理 》 なのか

 ウィキペディアによると、一般論としては、対象を理解する能力が「悟性」であり、その理解をもとに推論を行うのが「理性」という説明がされています。対象の理解とはなんぞや? それは理性ではないのか?

 で、近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第1章にもどりますれば、カントは例の「規則」における「絶対性」の問題を、「理性」と「悟性」について議論するなかで規定していくらしいのです。「自然におけるすべてのことは、規則にしたがって生じる。・・・・・・われわれのあらゆる能力はすべてそうなのだが、とくに悟性はその働きにおいて規則に結びついている。・・・・・・悟性は規則一般をかんがえる源泉であり、権能である」というふうに。

カントにとって、「悟性」と「理性」が生みだす「規則」とは、自然のなかにある「規則」と同じ「規則」である。それらは同じ「必然性」[nécessité]にしたがっているがゆえに、1つの普遍的な「規則」あるいは「法則」であり、そして「悟性」と「理性」はそれを感受するがゆえに、自然の「規則」(すなわち「自然法則」)をそれらによって理解することができるのである。
  (p.47)

(つづく)
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絶対性とは、ある一点において統一的に把握すること

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第1章を読んでいます。

 前回のエントリでは、カントの「直観形式」を「運動の直観」によっておきかえるというカヴァイエスのアイデアをのぞきました。そうなるとどういう問題が起こるかというと、「操作」の「遂行」という有限的で内容的な水準と、その「形式」という無限的で形相的な水準との関係をどうするの?という問題が起きます(本ではもうちょっとかっこよく書いてありますが^^;)。

 なんだかクリプキを思い出すのは私だけでしょうか? それともこれは、あたりまえの連想? なお、この問題にカヴァイエスが具体的にどう取り組んだかは、第4章以降で扱われているようです。

 で、ここでの論点をまとめると、
カヴァイエスによるカント解釈における本質的な論点は、数学的な「操作」の「遂行」を可能にし、「遂行」とともに「構成」され、その結果として顕わになる「形式」あるいは固有の「構造」が、無尽蔵な内容の予見不可能性を潜在的に含んでいるかどうか、というところにある。
  (p.45)

ということになります。だからこそ、私はカヴァイエス&近藤さんに興味を持っているのだろう、と思うことであります。

 話はまだ続くのですが、「予見不可能性」のほうはよいのです。気になるのはむしろ「絶対性」のほう。

 先日、そしてカントへ、「予見不可能な生成」と「絶対的価値」で書いたように、カヴァイエスがカント哲学から見出したのは「予見不可能性」だけではありませんでした。そうではなくて、「予見不可能な生成」と「絶対的な価値」という、一見、相容れない2つの特徴を同時に肯定しているところに、カヴァイエスはカント哲学の価値を見出したのだろうと思います。なんか、このあたりについて新しいものの見方を知ることができれば、自分の中の反実在論と実在論のねじれを解消できそうな予感。

 これも詳しくは第4章以降で書かれているらしいのですが、第1章では、この「絶対性」の問題が「証明」という概念と結びつくことについて示されています。

 カヴァイエスは、「アプリオリな綜合判断」における「絶対性」の問題を、理性および悟性によって把握される「規則」あるいは「規範性」の問題として議論しているそうです。ここで言う「規則」とは、このブログでおもに見てきた対比でいえば、「数」の観念に対応するものです(本で示されている対比でいえば、「関係」[比]にも対応するものです)。

 これは、「予見不可能」な「思考する作用」を、ある一点において統一的に把握することにかかわるものですが、近藤さんは、「ある一点において統一的に把握する」ことに対して、第2章で「見渡す」という表現をあてられています。ということに、ここで触れておられます。(ちなみに、第2章ではブラウアー出てくるよ!)

 この、「見渡す」ということは、私自身のテーマでもあります。もちろん、「見渡したい」ということではなくて、「見渡せない」ことを大前提とし、それを引き受けて、それとどうつきあうか、そこにどんな可能性を見出していくのか、そこにこそ可能性が見出せるのではないか、ということを考えたい、という意味でのテーマです。系統学習に対する疑問もこことつながっています。そして、郡司ペギオ-幸夫の著書に出てくる(らしい)「可能世界と単位元」の話を笑いどころと感じないこと(>数学と権威/数学と自然)ともつながるのだろうと思っています(ただし、檜山さんのような、「数理論理学や圏論をよくわかっている人」をイライラさせる要素が多分にあるんだろうな、ということは想像しています)。

(つづく)
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Meltykiss Dew

 さっきコンビニで見つけて、嬉々として買ってきました。

 明治Meltykiss Dew

 

 「すわ、テトラ!?」と思いきや、ピラミッド型でした。

 

 ピラミッド型でもわるくないけれど、欲をいえば是非テトラで作っていただきたかったような・・・

 でも、テトラだと口の中でちょっとシャープすぎるかな?

 好みの味なんだけど、6粒で298円はやっぱ高いなぁ〜

 洋酒が少〜し効いていて、大人向けかもしれません。って、1粒約50円のチョコを子どものおやつにはしないかな^^; こっそりひとりで、1粒ずつ楽しむチョコレートという感じ(隠すまでもなく、娘、興味を示さず)。でも、この価格じゃリピーターにはならないなぁ・・・

 ちなみにアルコール分は約0.8%とのことで、お子様やアルコールに弱い方はご遠慮くださいと書いてあります。そこまで?と思って、ためしにLOTTEのバッカスやラミーを調べてみたら、3%を超えているもよう。さすがにあそこまではいきません。ブルボンのトリュフのミルクガナッシュと同じくらいかな・・・検索中・・・1.0%未満? 未満じゃわからん・・・


 ちなみにプレリリースのページはこちら→http://www.meiji.co.jp/corporate/
pressrelease/2012/detail/20120112_01.html
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カヴァイエスが修正する、カントの「直観」という用語

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第1章を読んでいます。

 前回のエントリでは、「経験の可能性の条件」という言葉が出てきましたが、その条件についての内容的な規定として、「一次元の時間順序と三次元の空間配置からなる」という説明がかっこ書きで示されています。なお、前回の話では、この「経験の可能性の条件」の内容的な規定について、「数論」と「幾何学」が出てきました。

 カントは、一次元の時間順序と三次元の空間配置からなる「経験の可能性の条件」の内容的規定を、日常的知覚あるいは感覚的知覚の「直観形式」と、数学的認識の「直観形式」との一致によって説明している、というふうにカヴァイエスは考えているようなのです。ちなみに、前者の「直観形式」は、時間的綜合の形式と空間的綜合の形式、後者の「直観形式」は、数を数える形式と空間的延長の形式です。

 で、この点を、カヴァイエスは批判しているらしいのです。この2つの直観形式、時間形式と空間形式という二元性が問題を解決不可能にする、と。

 というわけで、カヴァイエスは、カントの「直観」という用語の設定を修正し、日常経験に依拠しないしかたでこの概念を理解する方法を求めるべきだとかんがえているようにおもわれる、と近藤さん。

 その代替案としてカヴァイエスが出してくるのは、カントが「図式論」のなかでもちいる「主観の働きとしての運動」を、「唯一の直観、すなわち運動の直観」として認めること、であるらしいのです。

この「運動の直観」をカヴァイエスが「唯一の直観」として理解するということは、「直観」という用語を、カントがしたように概念の「構成」のためにアプリオリに前提される形式的条件の受動的な把握として理解するのではなく、「構成する」という「働き」(あるいは「操作」)による「構成する」という「働き」の「内的な必然性」[nécessité interne]の把握として理解するということである。

  (p.43)

 (文章がたぶっていて「あれ? 校正ミス?」と思ってしまった私・・・)

 「運動の直観」という言葉で私が思い出したのは、内部観測のことでした。>アキレスはカメを追い越せないわけ

 そして、遠山啓が語っていた、時間・空間的という言葉。>今後のためのメモ2/近代数学と現代数学

 このカヴァイエスのカント解釈の道筋が、これまでにデカルトとライプニッツにかんして見てきた「操作」概念を重視するカヴァイエスの読みかたと適合している、というわけです。つまり、「運動の直観」とは、まさに「思考する作用」であったところの「操作」のことではないのか、と。

 カントの「直観形式」を「運動の直観」によっておきかえるというカヴァイエスのアイデアが意味することは、すなわち「形式」といったものが、「操作」の「遂行」とともにのみ顕わになるとかんがえるということである。そして、このようにかんがえることは、「操作」の「遂行」に先立つしかたで、その「操作」のしたがうあらゆる「形式」の全体を把握することが不可能であるということを認めることであるだろう。
  (p.43)

 なお、上記引用部分の「形式」については、以下のような巻末註がついています。

ここで言われている「形式」とは、後の議論において「規則」として言及されるものとほぼ一致している。「形式」を「規則」として解釈すること自体が、カヴァイエスの「概念の哲学」の本質の一部をなしていることには充分に注意が必要である。

  (p.220)

(つづく)
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カントがいうところの、「アプリオリな綜合判断」としての数学的認識と、「図式」

 カントの「アプリオリな綜合判断」について考えるために、もう一度、クワイン―ホーリズムの哲学を読んだときに簡単にまとめたアプリオリとアポステリオリ、分析的と総合的の違いを確認しておきます。(>「ア・プリオリ/ア・ポステリオリ」と「分析的/総合的」

  「アプリオリなもの」というのは経験に基づかずに知られるもの、「アポステリオリなもの」とは経験に基づいて知られるもののことで、アプリオリには「先験的」という日本語があてられることが多いのではないかと思います。アポステリオリの場合は、後天的、経験的となるのでしょうか。

 それから、「分析的」な真理とは、その命題に現れることばの意味だけによって、その命題が真であることが決まってしまうような命題のこと、「総合的」な命題は、ことばの意味だけによっては真であるか偽であるかが決まらないような命題のことだ、という話をクワインのところで読みました。ちなみにクワインはのちに、「分析的/総合的」という区別そのものに反対することになります。

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』においては、「綜合判断」は、その述語が主語観念に含まれていない判断のことである、と説明しています。具体的には・・・と例を考えようとすると意外と難しい。たとえば「富士山は山である」というのは一般的には分析的な命題と言っていいと思うのですが(一方、「富士山は日本一高い山である」は綜合的な命題)、果たして本当にそうだろうか?と首を傾げてしまう私。「独身者は結婚していない」なら、まあいいかな。要は、独身者というのは結婚していない人のことだから、この命題に現れることばの意味だけで真であると判断できる命題になっている=分析的な命題、と考えていいのだろうと私は理解しています。一方、「独身者は長生きする」となると、綜合的な命題になるのだろうと思います。

 で、いま問題にしたいのは、「綜合判断」のほうです。綜合判断は、概念が適用される経験に依拠しなければできない判断なわけですが、経験に依拠するだけということであれば、経験のあとで事後的に構成される判断、すなわち「アポステリオリな綜合判断」と呼べばいいということになります。これは事実についての判断の特徴であり、「必然的な様相をともなう数学的認識からは厳密に区別される」とのこと。

 そして、数学的認識は「アプリオリな綜合判断」となる。で、アポステリオリではないのでアプリオリというのはとりあえずよしとしましょう。では、なにゆえ「綜合判断」なのか。それは、経験によるものでもないけれど、主語概念の分析によるのでもなく、その可能性の条件である「純粋直観形式」にしたがって主語概念を超えて拡張される、つまり、主語概念から出発する分析の範囲を越えて出ているので「綜合的」である、ということらしいのです。

 このあたりでぼちぼち「図式」を意識しはじめることにします。近藤さんの本では日本語のみで書かれていますが、図式というのは、いわゆる スキーマ:schema、数教協風にいえばシェーマ(たぶんピアジェ発)と言われるものだと思います。

 とりあえずウィキペディアの「純粋理性批判」における説明を読んでみると、「感性と悟性は異なる能力であって、これらを媒介するものは、構想力(Einbildungkraft) の産出する図式 (Schema) である」と書いてあります。また、カントのほうでは、「人間の認識能力には感性と悟性の二種の認識形式がアプリオリにそなわっている。感性には純粋直観である空間と時間が、悟性には因果性などの 12 種の純粋悟性概念(カテゴリー、すなわち範疇とも称する)が含まれる。純粋悟性概念は時間限定たる図式(schema)によってのみ感性と関係する」と書いてあります。

 そしてもうひとつ、犬竹正幸「『純粋理性批判』による図式論の意味」という論文を見つけたのでリンクさせていただきます。この論文の7ページめ(p18)に、
このことから解るように,カテゴリーの図式は,カテゴリーと現象ないし直観との間に存在する出来合いの仲介物ではない。では何故カントはこの図式を,カテゴリーの現象への適用を媒介する「第三者」と呼ぶのか。その理由は,カントが「経験の可能性」を,カテゴリーの客観的実在性がそれに基づくところの第三者もしくはMediumと呼ぶ場合と同じものである。
と書いてあります。ここではMediumという言葉が出てきています。

 『カヴァイエス研究』にもどると、「アプリオリな綜合判断」は、あたえられる多様な経験にたいして、それらがまえもってしたがうことを余儀なくされる「経験の可能性の条件」を、数学(幾何学と数論)によって把握することができるとかんがえることによって可能となる、と書いてあります。「経験の可能性の条件」というのはカントの文献からの言葉のようですが、その「経験の可能性の条件」の内容とはどのように規定されるのか、なぜそれが数論と幾何学だけから成り立っているのか。
そしてさらに、そのように限定された「経験の可能性の条件」に適合した「純粋悟性概念」を「超越論的」と呼ばれるしかたで理解し、そこにあらゆる可能な概念の形式があらかじめ包摂されているとかんがえることが可能でなければならない。そして、これらが可能であるとなれば、これらのような「純粋悟性概念」と「純粋直観形式」とに、上と下の両方から限定されている「図式能力」が、それらの両方の形式的条件に適合したアプリオリな表象(つまり内容)であるところの「図式」を形成することが可能になるとかんがえることができるようになる。そしてこのことが、数学において「概念を構成する」ことであるとカントによって主張されるのである。
  (p42)

(つづく)
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