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「ダダ漏れの世界」とオートポイエーシス

 この文章は、『現代思想』2020年7月号「特集:圏論の世界」のなかの「2つの論稿のつながり」に触発されて書いている(ネタバレが気になる方は先に『現代思想』をどうぞ)。

 まずは、前回と同じく田口茂+西郷甲矢人「圏論による現象学の深化――射の一元論・モナドロジー・自己」について。

 いつものごとくこの手の文章を前から順に読めない私は、もろもろを理解する前に文末の註をのぞきにいった。そうしたらそこに「ここではオートポイエーシスを想起していいよ」的な一文があることに気づいた。

 許可が出たので逆にその番号をたどり、どこでだったら想起していいのだろうかと本文をたどったところ、その近くに「ダダ漏れ」という言葉があるのを確認した。

 その時点で、本稿で何が語られようとしているのかすでに了解した気分になってしまった。まだほとんど何も読んでいないというのに。

 オートポイエーシスについてはあとで触れることにして、まずはスライス圏と「ダダ漏れ」という言葉がどう関わるかを考えていくことにする(私の理解と表現で書いていますので、興味や疑問をもたれた方は、直接『現代思想』を確認してください)。

 たとえば圏Ωに、A、B、C、D、Eという対象があったとする。これらはすべて圏Ωの対象なのだから、ある意味、同じ地平にあることになる。言い換えれば、関係しあっている。

 一方、ΩのAによるスライス圏、Bによるスライス圏、……、Eによるスライス圏は、それぞれの対象を矢印の行き先とする射たちを対象とするので、圏Ωとは別物として、なおかつ、それぞれ別々に作られることになる。

 A、B、C、D、Eを人だと考えると、圏Ωでこれらの人々は関わりをもっているが、それぞれのスライス圏で、交わりのない、いわば「自分にまつわる圏」を作ることができる。

 交わりのないというのは共通部分をもたないということであるけれど、各スライス圏の対象はもちろんのこと、その対象どうしの射もΩをもとに構成されるのだから(前回、はしょってしまったけれど)、各「自分にまつわる圏」は、「みんなの圏Ω」とがっつり関わっている。

 このことを、本稿では「ダダ漏れ」と表現しているのだと私は理解した。

 A、B、C、D、Eを主体と考えると、すべての主体はいわば「ダダ漏れ」的に、遮るものなく関係し合っており、その意味では「相容れない」どころかむしろ「分離不可能」と言うべきほどにつながり合っている、と。

 この記述の部分に対して「オートポイエーシスを想起していいよ」的文末註があるのだ。

 というところまで読んで、いったんこの稿をはなれることにする。

 私がオートポイエーシスについてはじめて少しわかった気がしたのは、皮肉にも、郡司ペギオ幸夫さんがオートポイエーシスに対する(共感しつつの)批判的検討をしている内容に触れたときだった。>郡司ぺギオ-幸夫さんのプレゼン映像を見て思ったこと(2010年3月) (プレゼン映像自体は2007年のもの)

 せっかくなので、ここでの郡司さんの言葉を借りてオートポイエーシスについてざっくりまとめると、次のようになる。基本は細胞をモデルとして考える。

「外側からやってきた栄養が内部の化学反応のネットワークに組み込まれ、外側の壁をつくる部品を作り出し、それがつながって壁ができる。その壁は、外界とネットワークをうまく境界づけてくれるようなものと機能して、これが維持される」

 これに対してどういう批判的検討をしたかというと、オートポイエーシスは外部との接触面にできる亀裂 ― インターフェイス 、痛み=傷み、ダメージを想定していないので、時間と無関係であると論じている(ルイジ・ルイージの議論をもとにして)。というか、私はそう理解した。

 そしてその郡司さんも、今回の圏論特集に寄稿しておられる。タイトルは、「圏論の展開〜脱圏論への転回」。そのなかでオートポイエーシスの話も出てくる。

 郡司さんは今回の『現代思想』においては、「外部の物質を捉え、変質させて内・外の境界を形成しつつこれを維持する、オートポイエシスの形式的モデル」というふうに、よりコンパクトにまとめたうえで、オートポイエシスは、内と外という異質な二者を接続するために、外を内と対比可能なものに限定してしまっている、と指摘している。

 もちろん、オートポイエーシス以外にもいろいろな話が出てくるのだけれど、郡司さんの今回の論稿の主旨をひとことでまとめれば、「圏論ってなんでも説明できちゃうけど、“外”とのつきあいかたをこれからどうする?」みたいな感じなのではないかといまの私は受けとめている。

 受けとめたうえで、『時間の正体』のときとは少し違う取り組み方をしている。
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圏論「恒等射」to me、衝撃の再会

 この文章は、『現代思想2020年7月号 特集:圏論の世界』p.202〜214、田口茂+西郷甲矢人「圏論による現象学の深化」に触発されて書いている(後半はネタバレ度が高いので、ネタバレが気になる方は先に『現代思想』をどうぞ)。

 ちなみにこれから書くことの前半は、西郷甲矢人・能美十三『圏論の道案内』にも書いてあることであり、そのときにも「おお」と思ったのかもしれないが、いずれにせよ忘れていたことなので、『現代思想』から触発されたという体で書くことにする。

 圏論を学び始めたばかりのころ、「対象」「射」「合成」はなんとなくわかったが、「恒等射」でもやもやしたのを覚えている。おそらく、そのとき参考にしていたテキストの定義の文章や図にこだわりすぎていたのと、経験が足りなかったからだと思う。「恒等射」が何を意味しているのかもよくわからなかったし、なぜ定義されているのかもよくわからなかった。

 それでも当時の私なりになんとか腑に落とそうとして、あれこれイメージをつけていた。そして、「何もしない射」という雰囲気のイメージで定着して、現在にいたっていたように思う。

 「圏論による現象学の深化」では、序論のあと「1 射の一元論 ―― 圏論と媒介論的現実観」」という表題で話が展開されており、序論の段階から砂地に水がしみ込むような心持ちで読み始めた。

 圏論の主人公は「対象」ではなく「射」であるということは、学び始めのころからおさえていたことではあったが、主人公という言い方が可能なのは、主人公ではない登場人物がいればこそだ。つまり、「対象」があればこそ。

 その対象さえも「射」にしてしまえば、登場人物は射だけになる。それが、恒等射、という話なのだ。

 砂地に水がどばっと入った。「最初からそう言ってくれ」と言いたい気持ちもあったが、最初からそう言われたら「は?」だったと思う。

 恒等射を意味する identity という語が、これまでとは違う響きで響いてくる。

 対象と恒等射は一対一対応しており、これらを同一視することができる(といえばできる)。つまり、対象を射の特殊なケースと考えることができる(といえばできる)。(『圏論の道案内』を参考にしつつの私の表現)

 そうなると、「●→●→●→●→●」だったものの●の存在感が消え、「・→・→・→・→・」に近くなっていく。「・」を拡大すると、恒等射のイメージであれば、自分から自分へもどるくるんとまるまった矢印なのかもしれないが、いっそのこと「→」で示すと、

「→ ――→ → ――→ → ――→ → ――→ → ――→ → ――→ →」

となる。矢印だらけだ、否、矢印だけの世界だ。

(なお、この図示も言葉による表現も私の解釈によるものですので、興味や疑問をもたれた方は、ぜひ、『現代思想』2020年7月号を直接確認してください。)

 このあと「スライス圏」というものが出てくるのだが、スライス圏では、ある条件を満たす射を対象とみなすので、こちらはもとの「→」が別のところで「●」にさせられてしまう感じになる。

 せっかく矢印だらけにしたのになんでもとの矢印まで●にもどすんだよと思いたくなるが、スライス圏も圏なので、そこでまた別の「→」を考えることになり、結局、やっぱり、圏は矢印ありきなのだ。

 そのスライス圏の「射」はなんであるかはひとまずおいておいて「対象」について確認しておくと、圏Ωの対象Aを矢印の行き先とする圏Ωの射が、「ΩのAによるスライス圏Ω/A」の対象となる。要は、「圏Ωのどれかの対象→A」の形になっている「→」たちが、Ω/Aの対象になる。

 はたと気づけば、Aの恒等射だってAへ向かう射なのだから、Ω/Aの対象になれる。

 ちなみに、恒等射はA→Aという形で表される射だけれども、同じ形、つまりAからAへの射はほかにもいろいろありうる。「何もしない」射だけが恒等射なのだ。

 そうするとどういうことになるかというと、いま、対象Aの恒等射を対象Aと同一視しているのだから、圏Ωの「対象A=対象Aの恒等射」は、圏Ωの対象であると同時に、スライス圏Ω/Aの対象にもなれてしまうのだ。

 なんというあざとさでしょう(ほめ言葉)。

 砂地がもはや池。池がもはや私。

 こういう議論は画期的なのか、わりとあることなのか、私には判断がつかない。

 というわけで、恒等射と衝撃の再会を果たしたしだい。

 再会なんて言葉を使うということは、あいかわらず私は「恒等射」のような概念も擬人化して存在者として扱ってしまっていることに気づくが、その点はいまはよしとする。

 思い返せば出会いのころから油断するなということだったのだ。何を考えているかわからないという意味では、結局、「1」と同じじゃないか。>0と1にまつわるとりとめのない曖昧な思考

 ちなみに上記リンク先の文章は2009年6月、新型インフルエンザ流行のさなかに書いたもの。文章の雰囲気からして、少し落ち着いたころかもしれない。
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圏論「自然変換」のひとつの経験としての量の理論

 この文章は、『現代思想2020年7月号 特集=圏論の世界』p.147に示された図(以下、「単位系換算の図」)に触発されて書いている。なお、「量の理論」といっても、かつてこのブログに書いていたような数学教育協議会の「量の理論」の話ではない。

 「単位系換算の図」は、谷村省吾「科学の書き言葉としての圏論」の中で示されているもの。

 圏論を学ぼうとするとき、「射」はとりあえず理解できた気になれて、「関手」もなんとなく雰囲気はわかるけれど、「自然変換」でお手上げになる感覚があった。そしてどうやら、自然変換でつまずくのは私だけではないらしい(『圏論の道案内』第1章より)。

 「単位系換算の図」は、そんな私のような人が自然変換をつかみやすくするのにとても役に立つと思う。というわけで、「量を圏論で語る」ためではなく、「量を使って圏論の経験をひとつ重ねる」ために、この図について書いていこうと思う。

 なお、私の理解と表現で書いていますので、興味や疑問をもたれた方は、ぜひ、『現代思想』2020年7月号を直接確認してみてください。本文とはかなり違う書き方をしています。

        *     *     *

 まずは、圏の基本をおさえておく。といっても定義ではない。圏には3つの矢があることについて。

 ・ 対象から対象への矢である「射」
 ・ 圏から圏への矢である「関手」
 ・ 関手から関手への矢である「自然変換」

 これを比例関係で考える。

 たとえば、「分速aメートルでx分歩くとyメートル進む」という関係は、y=axという式で表すことができる。このxとyの関係を x → y と表すならば、aを「→」そのものと考えてもよい気がしてくる。「時間」と「道のり」のあいだに「速さ」があると考えることもできるし、「時間」をもとにして「速さ」が「道のり」を決めていると考えることもできる。

 矢印で表される関係があるのだから、そこには圏の可能性がある。(圏の定義については文末のリンク先を参照してください)

 ところで、x分とyメートルで考え始めたが、ここにはすでに「測る」というアクションが含まれている。「測る」前に量は存在するのか?という難しい議論はひとまずおいといて、まだ測られていない「生の量」を考え、それで構成される圏をつくり、ひとまず「生の量の圏」と呼ぶことにする。

 生の量は、このままだとどうすることもできないので、数値化したい。その方法は複数ある。たとえばAさんは、時間を秒で数値化し、道のりをメートルで数値化することを考えた。この場合、速さは毎秒○メートルで表すことができる。

 具体的には、時間が180秒、道のりが360メートルのとき、速さは毎秒2メートルとなる。

 一方Bさんは、時間を分で数値化し、道のりをフィートで数値化した。そうすると時間は3分、道のりは1180.8フィート、速さは毎分393.6フィートとなる。

 余談だが、「フィートで測るものさしってあるのかな?」という疑問から、このたびスティンプメーターなるものの存在を知った。ゴルフ場のグリーンコンディションを示すための器具であるらしい。ゴルフをやる人にとってはおなじみのものなのかもしれないが、私は初めて知った。器具も測り方もきわめて素朴で、逆に感動した。

 話をもとにもどすと、AさんとBさんは、それぞれの別の単位(時間も道のりも)で「生の量」を数値化した。これらの数値は比例関係にある。なので、実数の集合を対象とし、実数から実数への比例関係を射とする「数値の圏」を用意すれば、Aさんの数値化もBさんの数値化も、それぞれ「生の量の圏」から「数値の圏」への関手となる。

 というわけで「数値の圏」も登場したことだし、これから先は「生の量の圏」の“生の”を省いて「量の圏」とする。

 AさんもBさんも、「量の圏」から「数値の圏」への関手を作ったが、その方法は異なっていた。何が異なっていたかというと、使う単位が異なっていた。異なっているのは単位だけだから、ここに出てくる数値はお互いに関係しあっている。

 先ほどの例でいえば、Aさんの場合は「180――(2)―→360」、Bさんの場合は「3――(393.6)―→1180.8」と表すことができる。「180」から「1180.8」までもっていくとき、先に2をかけて360としたあとフィートの値にするために3.28をかけてもいいし、先に180を分の値にするために3にしたあとで、393.6をかけてもいい。

 そんなふうにして、Aさんの採用した単位系から、Bさんの採用した単位系へと換算することができる。これがいわゆる「自然変換」にあたるということだと私は理解した。

※ 以下は、『現代思想』2020年7月号(青土社)p.146、147からスキャンした図です。



(p.146より)



(p.147より)


 「生の量」を数値化するとき、その必要に応じていくつもの方法が考えられるけれども、そういう具体的な必要性を抜きにすれば、Aさんの方法が絶対的なものだとか、Bさんの方法じゃないとだめだとか、そんなことはない。どっちでもいいし、同じ生の量を、その構造を保持したまま数値化するという意味では同じことだ。同じことだけれど、やっていることは違う。同じだけど違うから、変換を考えることができる。

 こうやって考えると、自然変換がとてもイメージしやすくなる。

 さらには、「自然変換って、ふつうにやってることじゃね?」とさえ思えてくる。

 もちろん、自然変換のイメージをこれでかためてしまうのはよくないだろうが、「今回の自然変換経験」に「これまでの自然変換経験」や「これからの自然変換経験」を重ねることで、「自然変換」というものをよりクリアに、あるいはより深く、あるいはより幅をもって理解できるようになるのではないかと思うのだった。


※ 各種定義は、たとえば次のページを参考にしてください。

谷村省吾「物理学者のための圏論入門」
https://drive.google.com/file/d/0B-wUHJlJ-mgXRnFpcXE5Q1lVLUk/view
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『〈現実〉とは何か』(西郷甲矢人・田口茂)5/5 ―― 読み終わりの羨望と希望

 あとがきの結びのところで、京都と札幌が「=」でつながれていることに気づいた。成就した遠距離恋愛ドラマのエンディングを見ているようだというのは大げさだとしても、「くそぅ、こやつら(羨)」という感覚は生じた。実際、読み始めたばかりのころからうらやましかった。

 と同時に、こういうことが起こり得るんだとあらためて心にしみた。そういうことが起こり得ること自体が、まわりまわって私自身の希望にもつながる感覚があった。

 西郷さんと田口さんをつなげたのは、ピート・ハットさんという方なのだそう……と書いてだいぶたってから気がついたのだが、これは『圏論の歩き方』に出てくるPietさんではないか!

 気がつくのに時間がかかったのも無理はないと自分で思う。なぜなら、ハットさんが田口さんに会いに来るところから話が始まるから。

 しかし確かにその時点でハットさんは西郷さんのことを知っている。だからこそ田口さんと西郷さんをつなげられたわけであり。

 カフェで学生を「圏論ナンパ」して『圏論の歩き方』のきっかけをつくったり、西郷さんを海外の極左圏論主義者の「同志」たちとつなげたりしている天体物理学者 Piet Hut 氏(『圏論の道案内』より)。この方きっとすごいハブなんだ。なお、異分野協働のプロであるらしい。

 そのハットさんと田口さんをつなげたのがダン・ザハヴィさんという現象学者だという。ハブにはハブがいる。

 そのようないろいろな出会いと人の行動がこの本を現しめ、それに私も出会うことができた。9年という長い年月をかけて。

 この本に出会った私は、仏教の縁起について書いたときとは違う心持ちでブログの記事に取り組んでいた。その途中で、注文していた『現代思想』2020年7月号「特集:圏論の世界」が届いた。オープニングの加藤文元さんと西郷甲矢人さんの対談にざっと目を通したとき、「悪目立ち」という言葉が少し切なかった。「くすっ」と笑えばいいところなのかもしれないが。

 どの口がそれを言う、とも思う。『〈現実〉とは何か』をなかなか読まなかったのは、「様子見」だったからだ。自分が何かそこからもらえるのかどうかということ以上に、何か構えていた。当時はそういう意識はなかったけれど、結局、自分の興味に近そうであるからこそ飛びつかないようにしていたのかもしれない。

 今回のブログの記事を投稿することについても、最初は余計な懸念があった。それが払拭できたのは、私がこの書から間接的に得たいちばん大きなことは、「自分の問いを立てられるのなら、それでだいじょうぶ」ということだったから。もっといえば、「立てたい問いがあるのなら、立てていいのだ」ということも。それは、私がこの本に問うて得たひとつの答えだ。

 そしてそれを手放さなくてはいけない。というよりも手放したい。普遍性に参入するには問いが貧弱すぎて、すなわち答えが貧弱すぎて私は消えることすらできないが、手放すという自由の実践はできる。

         *     *     *

 「読み終わり」とタイトルに書いたが、この本はまだ読み始めたばかり。これからわかることもたくさんあるだろう。ひとまず初対面の感想を5記事ほど書いてみたが、この本の魅力をまったく伝えられていないことに落ち込んでいる。この際、本のあちこちにある標語的、魅惑的なフレーズをピックアップしてみようかとも思ったが、たぶん、それでも伝わらない。というか、いまの私には伝えられない。

 せめて最後に、「序」と「あとがき」から以下の部分を引用して、ひとくぎりにしたいと思う。


(「序」より)
すなわち、たとえどれほど「数学から遠い」と思われる分野であっても、また自身が数学に対して苦手意識をもっている研究者であってさえも、現実に真正面から取り組もうとすれば、それは結果として「数学になってしまう」のではないか、という実感である。


(「あとがき」より)
このような「現実論」においては、いわゆる哲学の専門家ではない人々との協同が必要となるだろう。しかしそれは、哲学を薄めてわかりやすくしたり、哲学を科学に「適合」させたりするような営みではなく、むしろその対話によって「共に哲学する」ことでなければならない。


 く、くそう、こやつら……!!(多大なる感謝を込めて)
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『〈現実〉とは何か』(西郷甲矢人・田口茂)4/5 ―― 第三章と第一章はどうか

 『第三章 「現われること」の理論 ―─ 現象学と圏論』は、まず現象学についての話から始まる。というか、始まっているのだと思う。

 なぜ「思う」かというと、なんだかもうすでに圏論の話が始まっているような感触があっったから。「射映」という用語やフッサールの名は現象学からきたものだろうけれど、「可逆性」という言葉も現象学で出てくるのだろうか。“思考の融合の書”ゆえ、いい意味で判断がつかなかった。

 そして圏論の説明に入っていく。思い切ったことをいえば、ここの部分はなんだったら読み流していいと思う。

 教科書のような書き方はされていないが、それでもおさえておかなければいけない出発点はあり、そこはおさえられている。これを書かないわけにはいかないと思う。けしてわかりにくくはない。むしろわかりやすい。

 が、どんなにわかりやすく書いてあるとしても、一度も圏論にふれたことがない人が、この本で圏論をわかろうとするのは無理があるように感じた。それは著者のせいではない。

 それこそ圏論についても、子どもが数をおぼえるときと同じように<順序やものを変えて>習得していくしかないのではなかろうか。つまり、テキストやアプローチを変えて。この本の圏論の説明の記述を何度も繰り返し読んだとしても、それだけでは圏論を理解することはできない。左手の指だけを使って数を数えているようなものだと思う。

 そのような学びのプロセスは、すべてが「固有」のものであることについても、久しぶりに考えた。

 逆にいえば、この本で触れる圏論もひとつの「圏論体験」になる。なので、読み「飛ばす」のはもったいないから、読み「流す」くらいはしていいと思う。でも、読み込む必要はないかもしれない。と誰に言っているかというと、「ここ読むの、大変そうだなー」「えー、これ理解できないと先のことがわからないのー」と思ったかもしれないかつての自分に言っている。

 現在の私としては、圏論の経験をまたひとつ重ね、しかもそれがたいへんに良質の経験だったので、よかったなぁと感じている。特に、「恒等射」「同型」「自然変換」について、新しい、よい体験を重ねることができた。

         *     *     *

 最後に第一章について。

 最初の章について最後に書くというのもなんだけれど、第一章はとりあえず読まないと話が始まらないところだし、第一章なのでまだ元気もあるから、読めばいいと思う。って、だれに言っているかといえば……(同上)。

 実は、この本の存在を知ってから実際に手に取るまでに(電子版だけど)、少し時間がかかった。気になりつつなんとなく気が向かなかった。それにはいくつか理由があるのだが(たとえば書名のこととか)、そのうちのひとつは「また二重スリットから始めねばならぬのか」という億劫さもあったように思う。

 二重スリットの実験については巻末注があり、粒子性を含めた実験は現代的なものとして参照のためのURLと書籍が示されている。
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『〈現実〉とは何か』(西郷甲矢人・田口茂)3/5 ―― たとえば第二章から第四章へ

 『〈現実〉とは何か』のページを最初にめくったとき、「これはわがことだ」と思った。「わがこと」というのは「私のこと」という意味だが、もちろん自分について書いてあるということではなく、自分の関心・興味、私の問いがここにある、ということ。

 一方、ゲンキンなもので、この本の成り立ちに深く感動しておきながら、「ここの記述はちょっと冗長じゃないかなぁ、ひとりで書いていたらもっと整理されてたかな?」なんてことを思ったりもした。「ひとりで」というのは、それぞれの著者が「私ひとりで」ということ。

 さらに、「われわれ」という複数形の一人称で語られているところについては、ほっとする場面もあれば、かすかにひっかかるときもあった。「われわれ」というのはつまり「私たち」ということ。

 その「私」(という語)についても、この本では丁寧に論じてある。そうなるといよいよ私にとって「わがこと」になっていく。そういうわけで、特に「わがこと」感が強かったのが「第四章 置き換え可能性から自由へ ―― 現実論のポテンシャル」。

 言われてみればなるほど確かに「私」という語はそうだ。だれが使うかによって意味が確定するし、だれが使ってもいい。小さい子どもは自分のことを名前で呼ぶことが多いが、それがいつからか「私」やそれに対応する言葉に変わっていく。大学生になった娘にそのことを聞いてみたら、面白い事実がわかった。

 娘が自分のことを「私」と呼び始めたのは、いま住んでるこの部屋に住み始めた頃だという。娘が小3のときにマンション内引っ越しをしているから、小3以降ということになるが、それは遅すぎるだろう思って「学校では私って呼んでたでしょ?」と聞いてみると、確かに私と呼んでいたらしく、実は小学校入学後にそういう指導があったらしいのだ。知らなかった。つまり、自分のことを「私」と称させる指導があったのだそう。

 そういうわけで学校では「私」、うちでは自分の名前で自分のことを呼んでいたらしいのだが、それを意識的にうちでも「私」に変えた頃の風景として覚えているのがこの部屋の玄関なので、上記のような答えになったらしい。「どうして変えたの?」ときいたら、「頭がよさそうに見えると思ったから、かっこいいと思ったから」とのこと。なぜかっこいいと思ったのかさらに聞いたら、「大人になったような感じがするから」との返事。

 具体的な一例を身近で確認できてよかったと思うと同時に、娘の変化に気づかなかった自分の観察力のなさも実感した。

 「私」の話は「倫理」の話を経て、「「実体論からの脱却」の話へとつながっていくのだが、仏教の「無我」「縁起」「空」との関連をふまえて、個人的にはさらに考えていきたい課題となった。というか、この本の中で「私」についての話が、いちばん「そうきたかーーー」と思うところだった。

 私はこれまで網の目を考えるとき、とても平面的に考えていた。なんのために圏論に興味もったんだよ、といまになって思う。

 章タイトルにもあるように、上記の議論は「自由」の話につながっていく。その途中で「確かさ」「同じもの」「変換」「幾何学の冒険」「問いがなければ答えがない」ということについての考察がなされていく。

 締めくくりは、『「現実論」としての思考 ―― 哲学と科学の深淵に還る』。

 感動的だった。
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『〈現実〉とは何か』(西郷甲矢人・田口茂)2/5 ―― いっそ第五章から第二章へ

 予想していたより読みやすい本だった。もう少し現象学の知識がないと読みにくいかと思っていたが、そんなことはまったくなかった。

 一方、圏論については、圏論のなんたるかについてわかりやすく丁寧に、かつ煩雑にならないように説明してあるのだが、それでもやっぱりたぶん圏論に接したことがある人でないとわからないのではないかと思った。このことについては別の文章でまた触れたい。

 その他の物理、数学の話題については、内容にそれほど踏み込んでないぶんわかりやすい。つまり、何のためにその話が出されているかがよくわかるようになっている。

 仏教はどうだろうか。人によっては「なぜここで仏教?」というストレスがかかるかもしれない。「なぜここで?」もなにも、この書ではかなり大きな手がかりとされている。というか、ぶっちゃけ、この本は仏教の本といっても許されるんじゃないか、くらいに私は思っている。龍樹がいかに天才だったかを画期的な方法で解説した本だ、と。

 思い返せば『圏論の歩き方』で西郷甲矢人さんが仏教の縁起の話をちらりと出しているのを読んだとき、「こんなところで縁起の話とか出して大丈夫かな」とほんの少し思ったものだった。こういうことがひっかかってしまう人がいるような気がしたから。

 その後、『圏論の道案内』の第10章で、西郷さんの子ども時代(から)のヒーローが「ナーガールジュナ(龍樹)氏」と「ゴータマ・ブッダ氏」であることを知った。つまりは筋金入りだと知った。なお、お寺の跡継ぎに生まれたとか、そういうことではない。

 しかし、それで私が安心してもあまり意味はない。「どうしてここで仏教?」と思う人はそんな情報をもっていたとしても、結局やっぱり(場合によってはなおさら)不愉快に思うような気がするから。

 ちなみに私にとっては、西郷さんがヒーローとして、まずナーガールジュナの名をあげ、そのあと「もちろん」つきでブッダの名を出しておられるディテイルが、それなりの情報になっている。(ちなみに算術家モッガラーナの名も出てくる。)

 ついでに忘れないうちに書いておくと、西郷さんが仏教の話を出すときの出典が石飛道子さんの著書に偏っていることはけっこう気になっている。なお、石飛道子『「空」の発見』はこの本よりも前に購入済みなのだが、まだ読めていない。

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 思うに、この『〈現実〉とは何か』を読むとき、第一章をながめたあと、いっそ第五章の「〈自由〉から現実を捉えなおす――決定論から非可換確率論へ」を読んでしまうというのも手かもしれない。というか、自分はそう読んだ。ひととおりながめたあとなので言えることかもしれないけれど。

 第五章を読んでいると、第二章は読まないといけないことがわかってくる。第二章は『「数学」とは何をすることなのか ―― 非規準的選択』というタイトルになっており、この非規準的選択をおさえないとこの本は楽しめない。

 非規準的選択とは「何かを選ばなければならないが、一義的に決まるわけではない選択」のことであり、「iと−i」の話で導入がなされている。

 また、子どもが数の概念を習得するときの話も出されていてわかりやすい。ここを読んで私は、昔、母から聞いた話を思い出した。中学校の数学教師だった母は算数教育とも関わりがあり、その話題はもしかすると障害児教育についてのものだったかもしれない。

 子どもに指を使って数を教えようとするとき、親指から順に1、2、3、4、5と小指まで数えてみせると、小指を「5」と思ってしまうという話。詳細は覚えていないが、だいたいそんな内容だった。この子どもに数を教えようとする人が、いつでも左手の指を親指から小指まで右手でさして「1、2、3、4、5」と数えてみせると、その子にとっては「(左手の)親指、人差し指、中指、薬指、小指」=「1、2、3、4、5」となってしまうだろう。

 数がわかるためには、「どこから数えてもいいのだ」ということがわからなければならないが、そのためにはひとまずどこからか数えなければならない。つまり、基数の概念は、序数的なものを通じてしか成立しない。特定の「選択」によってしか「数える」ことは成立しない。しかし、「数える」ということは、その「特定の選択」に依存しないということをすでに含意している。

 数学を数学らしくしている「普遍性」は、「非規準的選択」を通してしか成立しないが、「普遍性」を成り立たせるために、選択した出来事は消えなくてはならない。つまり、選択した出来事はみずから「自分を見えなくする」必要がある。(なお、本の記述とは前後して抜粋している)

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 読み始めのメモで「スピノザ」の下に書いたのは、「おしえ」「きえる」というワードだった。この2語がどこからきたのかおおよその察しはついていたが、自分のブログでは確認できなかったのでネットで検索してさがしたところ、見つかった。おそらく、國分功一郎『スピノザの方法』をのぞいたときに見かけた、みずからの消滅をめざして活動する教師の在り方のことを思い出したのだと思う。

 また、『「問い」の問答』というワードもメモしている。南直哉さんと玄侑宗久さんの対談をまとめた本の書名からくるワードで、これについてもブログで少し書いたと思っていたのだが、見つからなかった。削除したのか、別のところに書いたのか、そもそも書いていないのか。「問いを閉じない」話が書いてあった記憶があるのだが、確認はできていない。
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『〈現実〉とは何か』(西郷甲矢人・田口茂)1/5 ―― 読み始めで明滅するもの

 何より、この本の成り立ちに深く感動している。

 読み始めてしばらくたったころ、「あれ、これってどこがどちらの担当だったっけ?」と疑問に思った私は、先に「あとがき」を読みにいった。そして、この本ができあがるプロセスを知って驚いた。この本は2人の著者の思考の融合の書なのだ。比喩ではなく、本当に。

 ことの始まりは刊行の9年前であったらしい。思い返せば『圏論の歩き方』の西郷さんのページの欄外に、確かに田口茂さんのお名前がある(p.207)。そのころまでに、もう5年ほどたっていたことになる。

 私はといえば、今年の春、久しぶりにこのブログの更新をする気になり、仏教の縁起について10記事ほど書いた。数学教育ブログに仏教のことを書くのもへんな話だが、ほかに場所がなかったのと、とにかくいまの考えをどこかに記録しておきたかったので、書いた。

 そのなかで『圏論の歩き方』にほんの少しだけ触れることになったが、あの時点では圏論ことはまったく頭になかった。純粋に、自分にとっての仏教の縁起の問題を考えたかっただけだった。(>要素が矢印や線分でつながれた図を意識するようになった経過

 そんなこんなで、とても久しぶりにシンクロニシティが起こっていることに興奮している。しかも面白いことに、因果性をテーマにシンクロしているのだ。

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 いまはもう公開していないブログの記事のなかに、「上野修『スピノザの世界』、読み始めで明滅するもの」(2012年9月)という文章がある。そこで私はこんなことを書いている。
よいタイミングで手にした本というものは、読んでいるとき、特に読み始めのときに、いろいろなことを思い出したり連想したりするものであり、読んでいる頭とは別のところでキラン、キランと光っては消えていく何か明滅するものたちをよく感じます。
 『〈現実〉とは何か』も、この明滅をかなりの勢いで感じながら初回のページをめくった。そのときにはスピードが大事だと思ったので立ち止まりたくなかったが、読み終わったときに忘れてしまって思い出せなくなるのももったいなかったので、ざっと単語だけメモをとりながら読んでいった。

 ということもあり、メモの最初のワードは「スピノザ」「明滅」となっている。そのあとページをめくり終わるまでにまったく別のことでまたスピノザを思い出し、私はあるワードを付け加えたのだった。

 メモの中にはスピノザのほかにもいくつか人名が含まれている。本に出てくる人名もあれば出てこない人名もある。郡司、辻下、カヴァイエス、遠山啓、田辺元、龍樹、ボルン、ハイゼンベルク。

 ここまではよかった。再度この人たちにアクセスするにはどうしたらいいかメドがたつから。「えっ」と思ったのが終盤で登場したニクラス・ルーマン。なぜ私はこの人名を知っているのか、どこで接触があったのか、思い出せない。直接ではないことはわかった。だれかがルーマンを参照していて、そのだれかと私は接触したことがあるのだ、きっと。

 いったん本から離れて別のことをしていたら、あることが思い当たった。試しに「ルーマン」でブログ内検索してみたら、なんのことはない、非公開の記事が4件もひっかかってきた。思い当たったそのことではなく、オートポイエーシスだった。

 ブログを書いてきてよかったとしみじみ思った。自分の思考の過程、出会いの記録。

         *     *     *

 『〈現実〉とは何か』に書かれてあることの8割は、新しいというより懐かしい。内容が懐かしいのではなく、そこにある「問い」が懐かしい。そして、残りの2割がとても新しい。

 もしかすると、ものすごく新しいものは、「ほんの少しだけ新しい」という顔をしているものなのかもしれない。
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要素の数と矢印の向きと縁起と

 宮崎哲弥『仏教論争』を手がかりに自分の縁起の問題に取り組んできた。自分が仏教の縁起に含ませていた「何かいいもの」のニュアンスがどこから来たかについては、だいたいこのあたりかなという察しがついたので、気がすんだ。

 ブッダが証悟した縁起がどういうものであったか私には判断できないけれど、少なくともそこに「何かいいもの」のニュアンスはなかったと考えるほうがしっくりくるという、当初の理解は変わることはなかった。

 また、要素の数の問題 ―― 一因一果なのか多因多果なのか ―― については、十二支縁起のそれはそれとしても、多因多果と考えるほうがやはりしっくりくる。

 矢印の向きについては進展があった。私は縁起に「何かいいもの」のニュアンスを含ませるとき、矢印は双方向と考えるのが自然だと考えていた。すごく俗な言い方をすれば「お互いさま」というニュアンスで。つまり、「私はあなたに縁っていて、あなたは私に縁っている」という発想において。

 しかし、「私はあなたに縁っていて、あなたは私に縁っていないけれど、だれかは私に縁っている」という発想でも「お互いさま」的な意味に拡張できるな、とこのたび思った。宇井伯寿の縁起観に触れたおかげだと言える。

 もちろん、宇井伯寿はそんなことが言いたかったのではなく、たとえ矢印が一方向でも、「A→B→C→D→E」のとき、AはB、C、D、Eすべての原因であり、BはC、D、Eの原因であり……というふうに一度に起こっていることだから、そこから来る全体性のことを言っているのだと私は理解している。

 いずれにせよ宇井伯寿の縁起観に「何かいいもの」のニュアンスはなく、それを言うなら縁起にポジティブなものを見出そうとしたのは木村泰賢のほうだった。

 ティク・ナット・ハンのインタービーイングはどうだろうか。一枚の紙ができるのに木が必要で、木が育つには雨が必要で、雨が降るには雲が必要で、……と考えたとしても、即「相互共存」にはならない。

 一枚の紙に雲や太陽を眺めたとしても、それを眺めている私は雲や太陽を「縁って起こして」いるだろうか。インタービーイングに循環の発想は組み込まれているだろうか。それとも一方向のビーイングなのだろうか。

 ブッダの説いた縁起はそのようなものではなかっただろうと私は思うけれども、だとしても相互依存の縁起にはイメージの広がりがあり、確かに魅力がある。

 であればいっそ、そのような関係性の話はむしろ仏教の縁起をはなれて考えたい。

 という話になると、魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』の第八章を思い出す。大乗仏教について魚川さんが長年抱いていた疑問についての記述。なぜ「大乗」の徒は、あくまで「仏教」の枠内において、自己の立場を確立しようとしたのか。

 『法華経』でいえば、仏滅についてアクロバティックな解釈を施すくらいなら、『久遠実成』の神なり教祖なりを別に立てる異宗教をはじめたほうがよさそうなのに、なぜそうしなかったのか、と。

 その疑問に一定の回答が得られたとして、魚川さんは“「物語の世界」への対応の仕方の違い”という言葉を使って説明しておられる。

 一方、飲茶『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』では、東洋哲学は「ウソ」であるということについて書かれた一節があり、面白い。

 東洋哲学は体験的に理解することが基盤であり、それゆえに伝達不可能という致命的な問題を抱えている。伝達不可能なものをなんとか伝達すべく東洋哲学者たちは手段を選ばない。したがって、「ウソも方便」ということになる。

 そうして伝わった少数の弟子たちが、新しい方便を開発する。そうするとどういうことになるかというと、同じ師匠を祖とするのに、まったく異なることを述べる宗派が乱立する。

 それでいっこうにかまわない。宗派の違いは方便の違い。方便自体はまったく重要ではなく、重要なのは方便を通して得られる「体験」の方。屋根に登って景色を見ることが重要なのであって、屋根にいたるためのハシゴはなんだっていい。

 という解説に、なるほどねぇと思った。

 とはいえ……というか、いずれにせよというか、自分にとって要素と矢印の関係性はワクワクするものであり、それは仏教とは別に考えたいという結論が出た。「仏教は生命讃美の教えにあらず」。

 生きることは苦である。

 というところから始まる仏教に、興味をもっているのだった。

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私の縁起の縁起

 仏教の縁起が自分の宿題となったのは、魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』を読んだときだった。縁起について書かれてある章を読んで、「自分がこれまで縁起に対してうっすらと抱いていたイメージは違う」と感じたのがその動機だった。

 そのうっすらとしたイメージは自分でも言語化できないもので、定義もなかったし、どういうものかもよくわかっていなかったが、「何かよいもの」のニュアンスを含んでいたと思う。というか、含ませていたことに気づいた。

 そして、なぜ自分がそういうイメージを縁起に抱かせていたのかがよくわからず気持ちわるくて、こだわることになったのだった。

 その「なぜ」については、結局、クリアにはわからずじまいだけれど、いちばん可能性が高いのは松岡正剛さんからの影響かもしれないなぁ、というところにいまは落ち着いている。そこに他の方の後押しも少し加わっていたのかもしれない。

 松岡正剛さんは千夜千冊のなかで「縁起」という言葉をたくさん使っておられる。仏教に直接関係するところでいえば、275夜『禅への鍵』ティク・ナット・ハン、846夜『空の思想史』立川武蔵、1021夜『インド古代史』中村元、1249夜『大乗とは何か』三枝充悳、1700夜『華厳の思想』鎌田茂雄において。

 縁起のことをある程度勉強したいまとなっては、このラインナップに納得がいく。

 まずはのっけからティク・ナット・ハンだ。インタービーイングにも触れられている。これについては「縁起」の問題が宿題になった経緯で書いた。そして『空の思想史』。もちろん龍樹が関わってくる。『インド古代史』はいったんおいといて、次は『大乗とは何か』、著者は三枝充悳。さらには『華厳の思想』。華厳哲学については宇井伯寿の縁起と華厳哲学で触れた。正剛さんは華厳経が好きなんだな、入れ込んでいるのだなぁと私は感じた。

 いったんわきにおいた『インド古代史』の著者は中村元。私はこの文章の最後の5行を読んだことをよく覚えている。だから、この文章をだいぶ前に読んでいたのは確か。このなかに原始仏教の縁起も少し出てくる。やはり正剛さんにとっての縁起の理解はそういうことであるらしい。

 千夜千冊からは何かと刺激をもらっていたので、私がこれらの文章に触れ、なんらかの縁起観を得ていたとしても不思議はない。しかも、仏教や縁起のことを直接学ぼうとして読んだわけではなく、他の興味からのアプローチだったので、かえって「なんとなくのイメージ」として縁起を受け取り、それを繰り返すうちに自分でも意識しない状態で縁起のイメージが形成されて定着しまったのかもしれない。そこにいつのまにか「何かいいもの」のニュアンスが醸成されてしまったのだろう。

 さらに、先日、ブログの整理中に鈴木健『なめらかな社会とその敵』についての読書記録を部分的に読み返す機会があり、「ああ、これもつながりの話だよな」と思っていたら、最後のページに「本書が目指すところは,仏教哲学のひとつの実装形態といっても過言ではないのかもしれない」と書かれてあったらしいことを自分のブログで思い出した(>鈴木健『なめらかな社会とその敵』を教育関係者に読んでほしいと思う理由)。すっかり忘れていた。

 おそらく、仏教の縁起の問題を超えて、上記のようなつながりのイメージとそれを肯定する気持ちが、自分の興味のいろいろなところにしみ込んでいたのだと思う。


(この記事を公開するのはだいぶ先になるだろうけれど、いまは2020年3月29日。不要不急の外出を控える東京の雪の日にこの文章の骨子を書いている。ということをメモしておきたかったので付記。)
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