TETRA'S MATH

数学と数学教育

複比例、電気料金の仕組み、電場の強さの単位、電流についての補足

 過去に書いたいくつかのエントリについての補足です。

 まず、かけ算で新しい量をつくる/テンソル積の手前にある複比例についてですが、参照した銀林先生の本『量の世界・構造主義的分析』に、複比例関数の例として人件費の話も出てきていることにあとで気づきました。(p.191〜192)

 労働がすべて等質であるとすると、人件費z円は、労働者の人数、つまり労働力x人と労働時間y時に複比例するという話です。そのなかで人時(man-hour)という単位も出てきていました。私が例に出したお米の話とは違いますが、人泊に近かったこともあり、触れておきたかったので追記します。

 次に、W(ワット)という単位がつく量はどのような量なのか について。このエントリのなかで、
 とにもかくにも、1200Wのドライヤーを月に2時間半使おうが、600Wの電子レンジを月に5時間使おうが、3kWhの電気量を使用したことにかわりはなく、その中身を区別することなく電気料金が請求されます。もっともここに、kWh→円というもうひとつの変換が加わるわけですが。
と書きましたが、これは、電気料金が電力と使用時間に複比例するといいたくて書いたものではないですし、実際に複比例はしておりません。

 電気料金には契約プランやアンペアがあり、基本料金もあり、使用量に応じた料金体系も段階的になっており、さらに燃料費調整額や再エネ発電賦課金があったり口座振替割引があったりといろいろ複雑で、単純に比例関係では考えられません。もっとも、より多くの電力を使えばそれに応じて電気料金は高くなるということは言えるかと思います。いずれにせよここで言いたかったのは、料金は電気使用量に応じて請求されるものであり、何をどのくらい使ったのか、その中身は問われない(と私は認識している)ということです。

 最後の1行「もっともここに、kWh→円というもうひとつの変換が加わるわけですが」というのが、逆に雑な書き方だったようです。失礼いたしました。

 それから、A(アンペア)が先かC(クーロン)が先かについての補足が2点あります。このなかの
電流というのはいかにも外延量的で、だからこそブレーカーが落ちると思うのですが、A=C/sと書くと、まるでAが内包量のように見えてきます。
という記述は、とても違和感を感じさせるものであるらしいということが投稿後にわかりました。それで、以下のように書き方を変えました。
 消費電力が高い電化製品を同時に使うとブレーカーが落ちる“Aという単位がつく量”は、私にとってはいかにも外延量的なのですが、A=C/sという式は、普通に考えれば内包量を表す式ということになるのでしょう。
 わり算というだけでは内包量創出といえないことをそのひとつ前のエントリでも書いていますが、とにもかくにもここまで話がくると、外延量・内包量の区別があまり意味をなさない、少なくとも私の理解の助けにはならない、というのがここでの主旨です。

 遠山啓も、これらの区別をきっちりつけさせることを目的としていたのではないと私は考えます。なので、遠山啓らの目的は目的として、それとは別の意味で、そろそろ私にとっては量の区別が意味をなさなくなってきた、それよりも量どうしの関係や、量が段階的に組みあがっていることに興味が向かっている、ということを書きたかったのでした。

 それから、図のなかの「E」についてですが、よくよく本文を読んでみれば、「電流の単位A(アンペア)」「電気量の単位C(クーロン)」「電場Eの単位」「電圧の単位V(ボルト)」「電気抵抗の単位Ω(オーム)」という書き方がしてあるので、電場Eの単位そのものの意味として便宜的に「E」という表記が使われているのではないかという理解にいたりました。なお、このEも図の中のEもイタリック体ではないです。それより前のEはイタリック体になっているので、こちらは量記号を表しているものと思われます。(いずれもp.191)

 最後に、cal(カロリー)とはどのような単位なのか運動や生活活動の強度の単位「METs(メッツ)」とはなんなのか についての小さな訂正です。前者で、
 で、calの何が難しいかというと、たとえば、14.4℃から15.5℃までという温度指定が出てきたりするのです。
と書きましたが、これは「14.5℃から15.5℃まで」の間違いでした。また、後者では「軽いジョギング」を5メッツとしていましたが、6メッツの間違いでした。どちらも訂正済みです。失礼いたしました。

 なお、今回はいろいろあったのでまとめて補足・訂正させていただきましたが、今後は、大きなことでなければ、そのつど、もとのエントリを修正あるいは補筆させていただきたいと思います。

 以上、補足でした。
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運動や生活活動の強度の単位「METs(メッツ)」とはなんなのか

 calのことを考えたので、この機会にメッツについてみていきたいと思います。生活費からははなれますが、別の意味で生活に直接関わる量といえます。>50代のダイエットを一石三鳥でやる

 メッツというのは、運動や生活活動の強さを示す尺度のことであり、私は石川善樹『最後のダイエット』で知りました。2015年の6月くらいのことです。「掃除機をかける」「調理や食事の準備」といった日常的な家事についてもメッツが示してあり、こういうのってありがたいなぁ…と思ったものでした。

 それまではメッツのことを知らなかったので調べようもなかったのですが、知った今、ネットで検索するとたくさんひっかかってきます。ウィキペディアの「メッツ」のなかにも入っています。

 どうやら2006年に厚生労働省が生活習慣病予防のために示した指標のようですが、さかのぼれた国内のそれらしき文書は確かに2006年がいちばん古いです。世に出てからけっこう時間がたっているのですね。

 メッツは、安静時を1として、それぞれの活動・運動がその何倍になるかで示されます。たとえば、普通の歩行は3メッツ、自転車に乗るのは4メッツ、軽いジョギングは6メッツというふうに。検索すると、けっこう細かくあれこれ示したメッツ表がひっかかってきます。

 また、メッツに時間をかけたものにはエクササイズ(Ex)という単位があてられているようです。つまり、メッツは「強さの単位」、エクササイズは「量の単位」ということになります。

 『最後のダイエット』では消費カロリー算出のための単位として出てきていて、その場合、正確には「メッツ×体重×1.05=1時間あたりに使ったカロリー」という計算式になるようです。計算のしやすさを考えると×1.05は省略しても問題なさそうですが、その1.05がどこからきているのかには興味があります。

 ちなみに、カロリーまでもっていかなくても、エクササイズの量だけでも使えます。週に23Exを心がけましょう、というふうに。カロリーを出すには体重が関わってくるので、必要な身体活動量を個人の体重に関係なく示すためにメッツとエクササイズを用いていることが「健康づくりのための運動指針2006〜生活習慣病予防のために〜」にも書いてありました。

 エクササイズという単位を基準に考えると、たとえば1エクササイズの運動として、20分歩くことと、15分自転車に乗ることと、7〜8分水泳をすることが等価になります。

 そのようなメッツの使い方のページはあれこれひっかかってくるものの、メッツそのものの誕生・普及の経緯や数値の出し方についての詳しいページはまだ見つけられていません。とりあえず2000年のアメリカの論文がありそうだということと、メッツが出てくるかどうかわからないけれど1993年の文献も関わっていそうだというところまでは見当がついたのですが、それ以上のことはわかっていません。

 いまのところ、ウィキペディアの「運動強度」のページと「Metabolic equivalents」のページを参考にしています。ここで出てくるMETがいま考えてるメッツと同じものであるという前提のもと。

 後者ではMETというふうにsなし表記になっており、前者ではsがつくのは複数形と説明しています。1MET、2METs、3METs、…ということでしょうか。なんだか不思議な感じがしますし、考えようによっては興味深い表記の仕方です。どうしようか迷ったのですが、このブログではいっそ「メッツ」のカタカナ表記でいくことにしました。

 後者のページをみてみると、4.184という数値を含む式が示されていて、calのことを勉強したおかげでこの数値にひるまなくてすむのがうれしいなぁと思いました。しかしまじまじと眺めているうち、つくづく不思議な計算式だと感じました。

 『最後のダイエット』でメッツを知ったときには、日常活動のメッツの数値(3.3、2.0、1.8というように、小数点以下第一位まで示されている)がありがたくて気がつかなかったのですが、考えてみれば、体重をかけるだけで1時間のおおよその消費カロリーが出てくるなんて、なんだかすごい話に思えてきました。そうなるとますます1.05の背景を知りたくなってきます。

 先ほどのページにもどると、式の直前に 3.5ml O2・kg^(−1)・min^(−1)という量が見られ、これに該当するであろう話が前者のページに書いてあります。これでいくと、メッツは有酸素運動の強度として、単位時間、体重1kgあたりの酸素摂取量をもとにしているということになるでしょうか。

 calというのはもともと、水の比熱が1となるようにつくられたものだと先日勉強しました。そして、いろいろな定義があるらしいこともわかりました。それがいったいどういうふうに消費カロリーに結びつくのか、やはりメッツの背景の計算式をもう一歩踏み込んで知りたい気分です。

 なお、後者には58.2W/m^2という量も出てきますが、難しそうなので、とりあえずそういうものがあるということだけ頭に入れておきます。

 とにもかくにも、また新しい○/(△□)の形の単位に出会えて面白かったです。

 それにしても思うことは。

 こういう単位はどのように作られ、どのように認められ、どのように普及していくのかということ。

 まさかつくったもの勝ちということはないですよね⁉ でも、つくれたらすごいですよね。単位の名称に人名由来のものがいくつもあることをあらためて思い出しています。単位の名前が「〜に因む」というとき、だれがどのタイミングで名前をつけているのでしょうね。いずれにせよ、その単位があることで何かが便利になるから誕生・普及していくのでしょう。

 国際単位系やcalについて調べているときには、規模が大きかったり、慣れ親しんでいることで、逆にそういうことに思いを馳せるところまでいきませんでしたが、メッツという馴染みのない、新しいといってもいいかもしれない単位と出会ったことで、単位というのは見出されるものであり、つくられるものなのだなぁ…ということをあらためて感じています。
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cal(カロリー)とはどのような単位なのか

 生活費の総点検中に出会った単位について考えています。

 次に、ガスです。ガスの使用量はm^3という単位でお知らせがきますが、実際にガスを使うときには、給湯器なりガスコンロなりを通して熱に変換して使っているので、そのままでは計算できません。

 まず、給湯器に関しては「水をお湯にするため」にガスを使っているわけなので、どのくらいの量の水をどのくらいの温度だけあげているか…ということから、ガスの使用量を計算することになりました。

 そこで出てくるのがcalという単位。このcalがなかなか難しいのです。最初は、水1gを1度あげるのが1calという計算をすればいいと思っていたのですが、調べるうちに、そう言い切ってはいけないような気がしてきて、生活ブログのほうでは「とりあえず考えてよさそう」でお茶をにごしました。>どうしてうちはガス料金がこんなに高いのか

 そういえばあのとき、1Lの重さの換算のことをすっかり忘れていました>。もっとも、使用時間がものすごく適当なので、そういうことを気にできるレベルの計算にはもともとなっていないのですが。

 で、calの何が難しいかというと、たとえば、14.5℃から15.5℃までという温度指定が出てきたりするのです。温度によって同じ1度でも必要なcalが変わるというのはなんとなく納得できますが、それが温度によってどのくらい違ってくるのか、その程度もわからないし、とにかくその定義のしかたがわからない。

 そうこうするうち、calの定義にはいろいろあることがわかってきました。なお、現在この単位は、使ってよい対象が限定されているもよう。しかし…というか、だからというか、生活のなかでは J や m^3 より、よほど馴染みがあります。

 銀林先生の『量の世界・構造主義的分析』にcalの話も載っていて(p.175〜176)、calは水の比熱が1となるように決められていたこと、ジュールの実験によって、熱量はエネルギーの1つの形態である熱エネルギーに他ならないことがわかったこと、その結果によると、1calは4.1855Jに等価であること、1948年の国際度量衡会議以来、熱量の単位としては、基準温度によって大幅に変わるあいまいなcalをできるだけ用いないで、Jに統一することにしたことなどが書いてあります。

 そして、3600/860を含む式が出てきます。「逆にcalは,……とすることに決めたのであった」というふうに、3600/860から約4.18605を導き出す式になっています。おそらく、1kWh=860kcalの860だと思うのですが、この860がどこからきたのか、何が「逆に」なのかは、まだよくわかっていません。

 なお、現在の計量法は1992年制定であり、いま参照している銀林先生の本は昭和50年、つまり1975年の発行なので、当時は旧計量法であったと思います。

 そんなこんなで、銀林先生の本ですでに 4.1855 と 4.18605 の2通りの数値が出ており、他の数値も見かけて、この微妙な違いはなんなんだろう…と首を傾げていました。

 結局のところ、calの定義はいろいろあるし、実験から求められた数値もあるし、歴史的変遷もあるし、J/cal にあたるこれらの数値がいろいろあっても不思議はないのかもしれないなぁ…という理解にとりあえずいまは落ち着いています。そして現在は(熱力学カロリーとしては?)4.184で定義されている、と。

 ガスの話にもどると、都市ガスの1m^3あたりの発熱量は(ある条件のもと)45メガジュールだそうで、calとMJの換算ができるのならば、m^3として出せそうです。実際には1MJが約239kcalであるところからもっていきました。

 この数値はネットで探してきたものですが、1calを4.184Jとして計算すると1kcalが4184Jとなるので、1Jは、1÷4184×10^6=239.0…より、約239kcalという数値が出てくることは出てきます。

 calについて、まだもやもやした部分はありますが、「そういうことになっているらしい」ですませていた239という数字の背景が少しわかったのはよかったです。

 一方、ガステーブルコンロのほうは、取扱説明書にガス消費量がkWで示されています。12A、13A、LPガス用のほか、標準か強火力かグリルか全点火時かで12通り示してあります。

 となると、今度はkWをm^3までもっていかなくてはなりませんが、これは J をかませることで計算できそうです。電気のところでみたように W=J/s なので、1時間=3600秒から、1kWhを3.6MJとして計算してみました。

 今回は比熱について考えるところまでいきませんでしたが、比熱容量の単位をJの場合で表すと J/(kg・K) という形になるということは頭に入れておきたいと思いました。

 calについては煮詰まってきたので、ここらでいったんアップしてみます。また新たなことを知ったり、自分の勘違いがわかったら追記します。
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A(アンペア)が先かC(クーロン)が先か

 まず、最初に訂正を。前回、SI単位系という書き方をしていましたが、これはちょっとおかしい書き方だとあとで気づきました。国際単位系と書くか、SIと書いたほうがよさそうですね。今後しばらくは国際単位系と書いていきます。

 さて、前回、W(ワット)という単位がつく量について考えました。これがもし外延量だとすると、合併が加法につながる量だということになります。はたして、Wのつく量をつなげることはできるのか?

 そこではたと思ったこと。エアコンと衣類乾燥機とドライヤーを直接つなげることはできないけれど、エアコンと衣類乾燥機とドライヤーを一緒に使うと、わが家のブレーカーは落ちるじゃないかということ。契約アンペアが20Aなのです。

 そう、今度はA(アンペア)という単位が出てきます。堂々のSI基本単位。そうなるとV(ボルト)も気になりますが、こちらの単位を確認してみたところ、W/Aから導き出された形でした。
→ m^2・kg・s^(−3)・A^(−1)

 Wという単位がつく能力をもつ電化製品も、使い始めたとたん、Aという単位がつく量に変わるのでしょうか。あるいは、使い始めたとたん、Wにsがかかって、電力量という量になるということなのでしょうか。

 考えてみれば、エアコンにしろ衣類乾燥機にしろドライヤーにしろ、電流そのものを直接私が使っているわけではなく、それを温度変化なり風なり回転なりなんなりの形に換えてくれたものを使っているわけであり、その「なんなりの形」がそれぞれの家電の役割ということになるのでしょう。

 そう考えると、自分が生活をするなかで、ほんとうにいろいろな量に関わっており、また、それらの量たちがお互いに絡み合っているのだなぁ…としみじみ思います。

 さて、銀林先生の『量の世界・構造主義的分析』では、p.131で A=C/s という式が出てきます。この式の形をみると、アンペアがクーロンで説明されているように見えます。電流は単位時間に流れる電気量(クーロン)によって表される、と。

 しかし、1948年の国際度量衡総会の決定では、むしろ、この電流アンペアを基本単位にとって、電気量クーロンは、1アンペアの電流が1秒間に運ぶ電荷と定義している、と話は続くのです。実際、2006年の文書でもC(クーロン)の単位はsAと表されています。

 消費電力が高い電化製品を同時に使うとブレーカーが落ちる“Aという単位がつく量”は、私にとってはいかにも外延量的なのですが、A=C/sという式は、普通に考えれば内包量を表す式ということになるのでしょう。>補足

 そういうふうに考えていくと、外延量・内包量の区別で量を考えていくのは難しくなってきます。もちろん、いま私がやりたいことは、この区別にとことんこだわることではなく、否定することで何かの主張をなし得たと思うことでもなく、自分をとりまく豊かな量の世界を感じ、それについて考えようとすることです。

 そのひとつの手がかりとして、外延量・内包量という区別を採用してみたわけですが、そんなこんなで、そろそろはなれようと思います。がしかし、はなれる前にひとつ書いておきたいことがあるのです。

 このエントリのタイトルの「A(アンペア)が先かC(クーロン)が先か」の「先」というのは、存在としての先ではなく、定義としての先を意味したものでした。したがって、「鶏が先か卵が先か」の話とは違うと最初は思っていました。しかし、違うといえば違うけれど、つながっている話ではある…と思いなおしました。

 私は国際単位系を意識しはじめたばかりのころ、メートルの定義に秒が含まれていることがひっかかったり、微妙に循環論法に感じられる記述があるのが気になったりしていました。

 しかし、ウィキペディアの「国際単位系」のページに「単位の定義に求められるのは何より実用性、すなわち現在の社会生活に必要かつ十分な精度を持ち、定義値が容易に実現できることである。このため、定義の独立性は意味を持たない」と書かれてあるのを読み、「そうだよなぁ」と納得したのでした。

 実際、国際単位系の2006年日本語版にも、七つの基本量は便宜的に独立であると考えられているけれども、多くの場合、互いに依存しているということを知っておく必要がある、といったことが書かれてあります。
NMIJ>https://www.nmij.jp/library/units/si/R8/SI8J.pdf

 折りしも、「鶏が先か卵が先か」という言葉の、それこそ「鶏」と「卵」のどちらが先なのかわからなくて検索していたら、ウィキペディアの「鶏が先か、卵が先か」のページで、「工学や科学での循環参照」に触れてあることを知りました。

 こういう話になると、山口昌哉先生のことを思い出します。>自己言及

 それで、私が書きたかったのは何かというと、内包量の存在のことです。内包量の定義は難しく、こと数教協の文脈でいくならば「外延量どうしのわり算で得られる量」だとするのがいちばんわかりやすいと私は思ってきました。

 なお、遠山啓はそのように定義はしておらず、“強さ”の量とか、合併から加法がでてこない量とか、そんな感じの説明をしています。また、算数に出てくる内包量は外延量÷外延量の形になるものが多い、という書き方をしていることもあります。(遠山啓著作集・数学教育論シリーズ5のp.108、110)

 ちなみにこういう話のときに合併という概念が出てくるのは、初等教育でとりあつかう量は、なにかの物体もしくは物質の一側面を表す指標であり、物体もしくは物質そのものではない、と遠山啓が考えるからだと私は理解しています(同上p.107)。逆にいえば、量の背後にはかならず物体もしくは物質が存在している、ということになります。

 そういうわけなので、内包量を、外延量÷外延量で得られるものととりあえず定義しているのは私なのですが、もしそうだとしたら、内包量は外延量のあとにくるものだということになります。しかし私は、内包量は内包量そのものとして存在しているのではないか…と考えていることを、書いておきたかったのでした。

 このあたりの話は、結局、内包量そのものと、内包量の数値化を同じと考えるかどうかという話に帰着するのかもしれません。

 さて、それはそうとして、量の単位の関係を考えていると、これらの関係を図に表したくなってきます。実際、銀林先生の本でも、電気関係の単位の系統が図示されているところがあります(p.191)。本に書かれてあるものを自分でかきおこしてみました↓



 「E」は電界の強さを表す単位だと思うのですが、どんな記号なのか、なんとよむのかわかりませんでした。国際単位系にも見つけられず。上の図のなかでは単位の記号を示していると思うのですが…。そうそう、量の話を読むときには、心をしっかりしておかないと、量記号と単位記号がごっちゃになりそうになります。>補足

 それにしても、単位って、人の名前からきているものが多いですね。先ほど、内包量はそれそのものとして存在していると思うと書いたばかりなのに、やっぱり量が量となるのは、人の営みとともにあるからなのかもしれなぁ…と、さっそく前言を撤回…まではいかないけれど、保留にすることになりそうです。

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W(ワット)という単位がつく量はどのような量なのか

 遠山啓著作集を読んでいましたが、最近、生活費の総点検をするなかでいろいろな単位に出会ったので、ここらで少しつっこんで考えてみることにしました。なお、生活ブログで電気ガス水道の使用量についてのエントリを書いています。

 電気やガスや水道の使用量の内訳を考えるとき、W、kWh、J、cal、L、m^3などの単位が関係してきますが、まずはじめに電気の計算をするなかで W を kWh にしながらふと思ったのは、W のつく量は数教協でいうところの内包量にあたるのかな…ということでした。

 WはSI単位系ではあるけれど基本単位ではなく、その他の単位や基本単位を組み立てて表すことになるようです。基本単位ではない J を使うのなら J/s となり、この J(ジュール)はガス使用量を算出するときにお世話になりました。

 まずは基本単位の確認から。

   長さ: メートル m
   質量: キログラム kg
   時間: 秒 s
   電流: アンペア A
   熱力学温度: ケルビン K
   物質量: モル mol
   光度: カンデラ cd

 その J 自体もSIの基本単位ではなく、力の単位であるN(ニュートン)を使って、N・mと表せるようです。N、J、Wを順に表していくと次のようになります。

   N → kg・m/s^2
     → m・kg・s^(−2)

   J → N・m
     → m・kg・s^(−2)・m
     → m^2・kg・s^(−2)

   W → J/s
     → m^2・kg・s^(−2)/s
     → m^2・kg・s^(−3)

 こういう話になると手にしたくなるのが、銀林先生の『量の世界・構造主義的分析』です。Wについて書いてあるところを読んでみると、W=J/sを示したうえで、「これは毎秒1Jの仕事をする速さのことである」と書いてあります(p.128)。

 さらに、J について書いてあるページにとぶと、そこはかつて複比例について考えたとき(↓)に参照したページの直後でした。

 かけ算で新しい量をつくる/テンソル積の手前にある複比例

 銀林先生の本では、複比例を考えるにあたり運送料の例がとりあげられていました。貨物の運送料が貨物の重量と輸送距離に複比例すると考えれば、重さと長さをかけたものが「輸送量」を意味している、という話です。

 そして、このような重量×長さと同種の量は物理学では仕事(work)として知られている、と話は続いていきます。「仕事=力×長さ」として。このあとcgs単位系、MKS単位系などの話が出てきて、N、J、Wが登場します。

 さて、Jはエネルギー、仕事、熱量、電力量の単位ですが、数教協的にいえばこれは外延量と考えてよいのでしょう。銀林先生は先の本のなかで、エネルギーは物理学に出てくる最も外延的な外延量だと書かれており(p.189)、常に加法的であるとしています。また、エネルギー保存則にも触れています。

 電気使用量を計算するときは、JではなくkWhという単位になりますが、同じ種類の量だと考えれば、月々の電気料金の請求が1つのkWhの数値からなされることがわかるように、加法的であるというのはよくわかります。

 なお、kWhとJの関係については、後日、ガス使用量の計算でみていきます。

 とにもかくにも、1200Wのドライヤーを月に2時間半使おうが、600Wの電子レンジを月に5時間使おうが、3kWhの電気量を使用したことにかわりはなく、その中身を区別することなく電気料金が請求されます。もっともここに、kWh→円というもうひとつの変換が加わるわけですが。>補足

 というわけで、時間をかけてはじめて電力量となれる「Wという単位がつく量」、仕事率とも呼ばれるこの量は、ますます内包量に思えてきます。

 しかし。

 「力×長さ」は、「重量×長さ」と同種の量とされているのです。数教協風にいえば、「外延量×外延量」である、と。複比例のときに見たように、外延量どうしの積で新しい量が作られるのがあのとき新鮮だったわけですが、こうして作られた新しい外延量は加法性をもっているので、これもまた外延量ということになろうかと思います。

 ということは。「外延量÷外延量=外延量」ということがありうるのだということを、いまさらのように意識したしだいです。そうなると、外延量でわると内包量になる外延量と、外延量でわると新しい外延量ができる外延量がある、ということですよね。

 これまで、外延量というのは合併がそのまま加法を表す量のことだと理解してきました。こちらのほうはまあいいのですが、内包量の説明はなかなか難しく、「そうでない量」とするのもあいまいなので、外延量どうしのわり算で得られる量だ、としてきたことが多かったように思います。

 しかし、外延量どうしのかけ算で外延量が得られることを知ったいま、外延量どうしのわり算で得られる量を内包量とは言えなくなってしまいました。複比例のときには、複内包量という言葉が出てきましたが、複外延量という言葉はないのでしょうか。

 こうなってくると、外延量・内包量という分類では語れなくなってきそうです。

 それにしても、SI単位系を見ていると、量の次元って便利で面白いなぁということと、量というのはお互いに関係しあっているのだなぁ…ということをしみじみ感じます。
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折れ線と曲率

 遠山啓著作集・数学教育論シリーズ7「幾何教育をどうすすめるか」を読んでいます。1950年代後半から1960年代後半にかけての文章です。

 そんなこんなで、遠山啓は、折れ線・方眼による幾何教育を提案しましたが、折れ線というのは「辺と角」の連鎖なので、モノとしては線分で構成された図形になります。しかし、線分で構成されているわけではない図形、すなわち曲線についても折れ線の幾何は関わってきます。

 つまり、折れ線を無限に細かく分けていくと曲線になるというわけです。そのときの辺と角の表に当たるのは曲率を表わす微分方程式だ、と(p.30)。

 曲線の端から動点まで曲線に沿って測った長さをsとし、その点における接線と定直線とのなす角をθとすれば、曲率は dθ/ds、それを s の関数として表わした式は、dθ/ds=f(s)となり、
これは自然方程式とよばれているが,これは,つまり,方向転換の程度が各点で与えられているのである。これがほぼ折れ線の<辺−角>の表に相当する。
(p.30)

とのこと。

 二つの曲線において、dθ/ds=f(s)という微分方程式の形が一致するとき、その二つの曲線は合同になるのであり、これが曲線の合同定理ともいうべきものだということを遠山啓は書いています。

 こういう話になると、おのずと折れ線と円の関係についても考えたくなりますが、実際、「折れ線と円」という項目もあります。

 上記の話を読んだとき、私は、自分の興味がこれまでとは少し違う雰囲気でつながっていくような感覚を味わいました。図形にはもともと興味があったし、それとは別に内包量にも興味があったわけですが、それらがいままでとは少し違うアプローチで出会った感じというか。微分方程式にはこれまでも触れる機会がありましたが、曲率は新しい出会いでした。

 分数の形をしていて、上にも下にもdがあるというおなじみの記法のなかに、θがあるのが私にとっては新鮮でした。

 なお、かつて、「dx」と「dy」と「dx/dy(ライプニッツの記法)」というエントリを書いたことがあります。

 また、微分方程式については、山口昌哉 『数学がわかるということ』・4/微分方程式のことというエントリなどを書いています。

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折れ線と方眼の幾何のどこに遠山啓らしさを感じるか

 前々回のエントリのなかで、折れ線と方眼による幾何は遠山啓らしいと書きました。なぜそう思うのかを、石原さとみさん出演のお酒のCM「主任って…」風にまとめると、次のようになります。

 遠山先生って…量が好きで…正方形状のものが好きで……
 デカルトが好き。

 量が好きなのは「量の理論」でこれまでさんざん見てきたことですが、幾何教育についても、「測度」を取り入れていること、「定木とコンパス」ではなく「物指しと分度器」よる作図を提案していることなどから感じられます。

 また、正方形状のものというのは、ここでは方眼のことですが、もちろんタイルからの発想です。実際、遠山啓は、
方眼の一つ一つは正方形であるから,切り抜くとタイルになることは量との関連を容易にする。したがって,それは数計算の出発点ともなり得る。水道方式とその点では共通の土台の上に立っているといってよい。方眼の幾何は水道方式の双生児のようなものである。
と書いています(p.14)。

 そしてデカルト。遠山啓とデカルトについては、かつて、今後のためのメモ3/遠山啓とデカルトというエントリを書いたことがありました。

 まず、方眼の幾何は座標につながります。そして、分析と総合。折れ線の幾何にも分析と総合の発想が取り入れられています。折れ線を分析すると辺と角の連鎖になり、辺と角の連鎖を総合すると折れ線になるので。

 ここですぐに付け加えなければならないことが2点あります。ひとつは、だからといって遠山啓はデカルト主義者である式の早トチリをするわけにいかないということ。>森毅が語る、遠山啓の思想の構図

 もうひとつは、遠山啓はユークリッド幾何の教育的価値について論じるなかでも分析と総合を出してきていること(p.55)。
ユークリッドの中にあざやかに表現されている思考法もしくは方法とはいったい何であろうか。それは何よりもまず分析と総合だと私は考える。複雑な図形,たとえば,多角形などをしだいに分解して,もっとも単純な三角形を得る。その三角形をさらに分解して点・線・角の要素に到達する。このように複雑なものを単純な要素に分解する手続きが分析(Analysis)なのである。このように最単純な要素にまで分解されたものをふたたびつなぎ合わせること,すなわち,再構成することが総合(Synthesis)である。
 なので、分析と総合という発想は、ユークリッド流を否定してのことではないことがわかります。

 話をデカルトにもどすと、遠山啓は幾何教育について、空間とそのなかにある図形とを区別して教えるべきだと語っており、その話もデカルトにつながっていきます。デカルトははじめから空間そのものから出発した、と。

 さらに、数教協ではおなじみのシェーマという用語についても、デカルトが関係してきます(p.100)。というか、話は地続きなのですが。

幾何学的直観は数学研究ばかりではなく,数学教育においても,きわめて重要な役割を演ずる。そのことは,人間の思考においてなんらかの映像もしくはシェーマが,本質的に重要な役割を担っているからである。そのことをもっとも早くから明言していたのは,おそらくデカルトであっただろう。

 シェーマというのは、直訳すれば「図式」になろうかと思いますが、数教協の方法論のなかでいえば、タイル、水槽、ブラック・ボックスなどがあてはまると私は理解しています。

 なお、遠山啓は、ペリー運動の影響と関係している“直観幾何”は批判しています。ここでいう“直観”というのは“論理抜き”という意味だとして(p.34)。

 遠山啓の幾何教育論を読むときには、「直観」という言葉の捉え方に慎重になったほうがよさそうです。
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なぜ、折れ線の幾何だったのか

 遠山啓著作集・数学教育論シリーズ7「幾何教育をどうすすめるか」を読んでいます。1950年代後半から1960年代後半にかけての文章です。

 折れ線というのは、文字通り「辺―角―辺」でできる折れ線のことで、「長さ―角度―長さ」の三つの量によってつくられる図形です。逆にいえば、折れ線が与えられるとこの三つの量が決まります。1回だけだとV字型になりますが、これを繰り返すことによりN型やW型にもなります。つまり、閉じなくていいのです。

 遠山啓は、ユークリッドの方法の特徴のひとつに「三角形分割」をあげました。それはつまり、三角形を図形の要素とみることであり、三角形という2次元の単体から出発することです。

 そして、三角形の合同条件に登場するのは辺と角で、そこに面積は入っておらず、三角形の中身は考えられていません。また、それぞれの条件により合同が証明されると、残りの辺、角の相等が導き出されます。

 つまり、三角形を三辺と三角の6個の要素からなるものとして取り扱っているわけですが、遠山啓いわく、この6個の要素は互いに独立ではなく、かなり複雑な関数関係によってむすびつけられている、と。なるほど、だからこその正弦定理、余弦定理なのでしょう。

 これに対して、折れ線の幾何は1次元の複体をもとにしており、構成している二辺と一角はおたがいに何の関数関係もなく、三つの量は完全に独立しています。また、物指しと分度器を交互に使っていくと容易にできるので、小学生にも結構できる作図だ、と。

 本に書いてあることをあちこちから拾ってきて自分なりにまとめているのですが、なるほどこうやってみていくと、折れ線の幾何は「測度の不在」「三角形分割」「定木とコンパス」をきれいにクリアするものだったんだなぁと思えてきます。

 なお、角度は内角より外角をとったほうがよいと言っています。人間の歩く道で考えれば、方向転換の角度。3cmと5cmの辺が120度の角度をなしている場合、3cm進んで60度方向転換して5cm進むようなものだと考えればよいのでしょう。なので、折れ線というのは直進と方向転換を交互にくりかえしたものと言えます。

 ということを書いていると、記憶の底からうっすらと「タートル幾何学」という言葉が蘇ってきます。これってなんだったっけ…と検索をしていたら、LOGOという言葉とシーモア・パパートさんという妙に懐かしいお名前に遭遇。懐かしさを感じるだけでどこで出会ったのかよく思い出せず…。数教協とは別の文脈で出会ったのは確かで、少し心心当たりがあることはあるので、今度確認してみようと思います。

 それはそうと、このたび検索して知ったのですが、パパートさんはピアジェと交流があったのですね。前回書いたように、いま読んでいる遠山啓の幾何教育論をまとめた一冊の後半はピアジェの研究の紹介になっているのですが、それらがつながるのかどうかはまったく考察していない状況です。

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遠山啓の幾何教育論をまとめた一冊

 遠山啓著作集の数学教育論シリーズをぱらぱらとめくっていたら、7の「幾何教育をどうすすめるか」の一冊に心がとまりました。はたと気づけばこれまで、遠山啓が幾何教育についてどう語っているのかを、まとまった形で読んだことがありませんでした。

 大きな組み立ては、「幾何教育を改造する視点」「ユークリッド幾何の再検討」「幾何教育の展望」「幼児の空間的表象―ピアジェの研究の紹介」「幼児の自然発生的幾何学―ピアジェの研究の紹介」となっており、1950年代後半から1960年代前半にかけての文章を中心としてまとめられています(一部60年代後半のものを含む)。

 まず面白かったのが、オープニングの「図形教育の新しい視点」のなかに出てくる“生活”の話でした。生活単元学習のなかで強調された“生活”は、生活一般ではなく“消費生活”であり、“生産生活”はそのなかからは脱落していて、生産の脱落した消費生活だけを目安にしていくと、数の知識はたしかに必要だけど(金勘定)、図形の知識はほとんど不要であるといってよく、消費的であった戦後の生活単元学習では図形教育がほとんど無視された…というような内容の話です。

 ちなみに、森毅が語る、「遠山啓」の時代の区分でいえば第一期の終わり頃の文章ということになるので、生活単元学習の話が出てくるのでしょう。遠山啓の生活単元学習批判については次のエントリでざっくりまとめてあります。>遠山啓の生活単元学習批判の概要をもう一度おさらいしておく

 個人的には、数教協っぽい図形の題材として、比較的新しいところで多面体や敷き詰め、少し古いものとしてピックの定理、だいぶ古いものとして折れ線の幾何などが思い出されます。

 もっともこれは、数教協関係者の母の影響や何度か行った全国研究大会の記憶からそう思うので、それぞれの題材が数教協のメインストリームなのか、発表者独自の題材なのかはよくわからないままです。

 母が昔、数教協のレポートは図形分野が面白いと言っていたことがありました。他の分野のように方法論が確立されておらず、個性的で新しい発表に出会える機会が多かったのでしょう。

 著作集にもどると、遠山啓はユークリッド流の幾何教育の問題点をペリー運動をからませながら語ったうえで、その教育的意義についても触れ、ではどうすればいいかということで折れ線や方眼の幾何についての議論を展開し、その他の幾何分野についても具体的に論じていきます。

 なお、ペリー運動については、過去に別の文献をもとにした関連記事を書いています>ペリー、ムーア、クラインの教育改革運動

 遠山啓はユークリッド『原論』の特徴を「測度の不在」「三角形分割」「定木とコンパス」の3つにまとめ、折れ線や方眼の幾何といったものを提案しているのですが、それに対して「遠山啓らしいなぁ」としみじみ感じる私です。

 方眼については個人的にはほとんど印象にないなぁ…と思いつつ気づいたのは、そういえば数学教育協議会のマークは方眼にV字型の図形をあしらったものだということ。マークの由来がサイトのQ&Aにありましたが、詳細なエピソードはわかっていないもよう↓

http://www004.upp.so-net.ne.jp/ozawami/qa/hajimeni.htm#q6

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「遠山啓著作集・数学論1」より、関数の三用法で第1用法が2段階になっていること

 久しぶりの更新です。

 思うところあって、少し前から遠山啓著作集のページをめくっています。実家から引き取ってきたもので、何冊か欠番はあるものの、数学論シリーズ6冊、教育論シリーズ4冊、数学教育論13冊とそれなりにそろった状態で保管していました。

 もうひとつ別の数教協関係のシリーズものもあり、読まないままスペースだけとっていて、どうしたものかと思っていました。もちろん、遠山啓著作集のほうはピンポイントで読んできましたし、しばらく手放す予定はないのですが、それにしても読まない部分のなんと多いこと。

 というわけで、いまさらながら、まずは遠山啓著作集をぱらぱらとめくっています。いま、数学論、教育論とすすんで、数学教育論の途中までざっとめくってみたところです。

 数学論の大きな話の部分はさすがに既視感があり、具体的な数学の話は、何かの機会に必要に応じて読みたいと感じる内容でした。また、教育論のほうは、読む前から予感はしてものの、やはりページをめくってみても読み込みたいという気力がわいてこず…。

 そんななか、ただひとつ目がとまったのが、数学論1「数学の展望台―I中学・高校数学入門」の後半にある「関数の性質」です。初出は1965年の『数学教室』。なぜ目がとまったかというと、「関数の三用法」が出てくるから。いわゆる「度の三用法」や「率の三用法」ではなく、x、y、f で構成されているのがいまさらのように新鮮だったのです。なので、この点について、ブログに書いてみることにしました。

 数教協の量の理論には「度」や「率」というものが出てきます。速さや密度のように、違う種類の量どうしのわり算でつくられる量が「度」。これに対して含有率などのように同種類の量の除法によって得られる量が「率」と呼ばれています。

 そして、度や率の三用法なるものがあり、速度と含有率のそれぞれを示すと、次のようになります。

第1用法:長さ÷時間=速度
第2用法:速度×時間=長さ
第3用法:長さ÷速度=時間

第1用法:含有量÷全体の量=含有率
第2用法:全体の量×含有率=含有量
第3用法:含有量÷含有率=全体の量

 これが関数の三用法になるとどうなるかというと、遠山啓はまず、正比例 y=ax の x、y、a を使って、度の三用法を次のように示します。

第1用法 ――― x,yが既知で,aが未知の場合
第2用法 ――― a,xが既知で,yが未知の場合
第3用法 ――― a,yが既知で,xが未知の場合

 これを一般化して y=f(x)に当てはめると、

第1用法 ――― x と y から f を求める。
第2用法 ――― f と x から y を求める。
第3用法 ――― f と y から x を求める。

となります。いわば「関数の三用法」とでもよばれるものができるわけですが、この分類は関数の指導体系をつくる上でかなり有効であろうと思われる…というようなことを遠山啓は書いています。

 さらに先を読むにつれ、私がなぜこの一節に立ち止まったのか解せました。第4用法という言葉が出てくるから。明確にそう示されているわけではなく、第1用法ではなく第4用法とよんだほうが適切かもしれない、という流れで。

 そして実際、この文章の組み立ては、「関数の三用法」「第1用法」「第2用法」「第3用法」「むずかしい第1用法」「関数の複合過程」となっているのです。「第3用法」では逆関数や代数方程式、運動方程式の話、「むずかしい第1用法」ではラグランジュの補間法、テーラー展開の話などが出てきます。

 注目したいのは「第1用法」のところで示されている次の話です。度や率の三用法では、第1用法は内包量の概念づくりに相当するもので、これをはじめにもってくるのは当然だけれども、関数では第1用法はそれほど簡単ではない、ある意味ではもっともむずかしくて、最後にもってくるようがよいともいえる…という話。

 むずかしい部分は第2用法、第3用法の後にくるので、第4用法というわけです。
第1用法のうちで関数の概念づくりに当たる部分は,f という操作・写像・変換等のコトバで表わされるものが存在することを理解させることに主力がおかれる。
(p.212)

 そしておなじみ、暗箱(black box)が出てきます。

 ブラック・ボックスというのは、f という文字のついた箱状のものに入口と出口がある簡単な装置のことで、図示されたもののほか、実際に箱として作ったリアルな教材もあります。

 私はかつて、数教協の「量の理論」が未完に終わっていることにこだわっていて、特に、小学校の「量」の学習の組み立てと、中学校へつながる比例の導入との間に大きな断絶があるところが気になっていたのですが、上記の記述には、それについて考えるためのひとつのヒントがあるかもしれないと感じました。

 そしてこのことは、銀林先生の『量の世界・構造主義的分析』のなかで、なかなか理解できずにいた二段階の内包量のことにもつながる話だと思います。

 正比例関数を介さず、直接的に構成される内包量

 先の引用部分に「 f という操作・写像・変換等のコトバで表されるもの」が「存在」すること、という文言があります。「量の理論」で出てくるブラック・ボックスという装置は、まさにこの「存在」を具現化し、存在たらしめるものであったのだろうとあらためて感じているのですが、私がひっかかっているのは「内包量」との段差なのでした。

 さらに以上のことは、かつてnoteで書いた以下の話にも関わってきそうです。

 「微分的」とはどういうことか(番外編)/私の問題意識

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