TETRA'S MATH

数学と数学教育

「解けない問い」

 このエントリ、5月3日に前半部分を書いたのですが、きのうのエントリの次にこのタイトルがくるというのもなかなかオツなものがあるなぁ・・・と自分で感じています。(^^)

***

 久しぶりに近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』を手にしています。過去の自分のエントリをちょっと読み直してみて思ったことは、「けっこう時間かけて読んでいたんだなぁ・・・ 時間をかけて読むとわかることもあれば、ある程度の勢いでもってして読むとわかることもあるな・・・」ということです。

 というのも、下読みのつもりで第4章をざざざっとめくったときに、「ああ、自律性ってそういうことか」とストンと腑に落ちる感触があったからです。かつてこの言葉に対してショックを受けたことがあったけれど(>「自己」にまつわるとりとめのない曖昧な思考)、別にショックをうけるようなことではないぞ・・・と。あたりまえの話にさえ思えてくる。そのときに手がかりとなる言葉が個人的には「内在」であり、野矢茂樹『無限論の教室』のあとがきに触発されて考えた「内側から膨らんでくるイメージ」です。(>等比無限級数の収束と発散・対数螺旋)。

 で、第4章の最後のほうで「解けない問い」という言葉が出てくるのですが(檜垣立哉氏のドゥルーズに関する文献から借りてきた用語とのこと)、この言葉が上記の“ストン”にかなり役立ちました。

 思えば算数や数学の教科書・問題集に載っているのって、全部、「問題」ではないのですよね。あれは「解」の前半なのだ。「6×4」という計算問題は、「6×4=24」の前半部分を示しただけにすぎないのだ。だから先生は採点ができるし、○か×をつけることができる。
 数学の素朴な実在論が見落としてしまうのは、この「問題」という奇妙にも存在論的な審級である。「問題」は、意味論的には実在するとは言えない。その「問題」によってあらわされている内容について、それが「真」か「偽」のいずれであるかが、その「解」が提示される以前から決定されているのだとすれば、それは真に「問題」ではないだろうからである。「問題」とは、原理的に、解かれていないからこそ「問題」であるはずだ。解かれた「問題」は、「問題」ではなく「解」と呼ばれ、「問題」からはっきりと区別されなければならない。
  (p.144/9〜16行)
「解けない問い」は、意味論的(真偽値的)には「不定」であり、存在論的には「潜在的」である。これにたいして、解かれた問い、あるいは解ける問いの存在のモードは、「現実的」であり、意味論的には「真か偽か」である。
  (p.145)

 そして近藤さんはこう続けます。
 ここに、ある種の特異な時制が入りこんでいることがみてとられる。
 
 いまだ解かれていない問題と、すでに解かれた問題のあいだにある順序。しかしこれは本当に時制なのか? すくなくともそれは私たちの日常的な時間ではない。なぜならそこには、「いま・ここ」的なものがないから。数学的真理はつねにどの「いま・ここ」でも真理であるのだから「どこでもない」ものでしかない。

 では、この「時間」を進めるものはないかというと、「証明」のポテンシャルの増大という言葉で説明がされています。このことについてはあとでまた考えるとして、p.144にもどりますれば、上記引用部の直前に、こんなことが書いてあるのですよ〜!
この意味で、「数学的経験」は、本質的には「他者」の経験にほかならない。
  (p.144/7〜8行)

 もうショックは受けないよ(^^) 面白いねぇ〜
近藤和敬『カヴァイエス研究』 | permalink

日本科学未来館の企画展「世界の終わりのものがたり〜もはや逃れられない73の問い」

 ゴールデンウィークの中ごろは雨だったので、晴れていなくても楽しめるだろう場所に行くことにして、日本科学未来館に行ってきました。この科学館、一度行ってみたいと思いつつと先延ばしになっていたのですが、今回、お目当ての企画展がひっぱってくれました。行きたかったのは私だけど、結果的には娘のほうが楽しんだようです。

 その企画展とは、こちら↓
「世界の終わりのものがたり〜もはや逃れられない73の問い」
http://www.miraikan.jp/sekainoowari/

 「予期せぬ終わり」「わたしの終わり」「文化の終わり」「ものがたりの終わり」という4つのセクションに分けられて、「あなたの人生でいちばん心配なことはなんですか?」 「どんな病気になるか、あらかじめわかるとしたら知りたいですか?」「テクノロジーの進歩によって失われたものはありますか?」といった問いがたくさんたくさん問いかけられてくる展示です。

 それぞれの問いへの答えを付箋紙に書いて貼り付けるところもあれば、2つの選択肢が与えられて自分はどちらであるかということを意思表示させる(マグネットを貼る、ボールを入れる、等)ところもあって、なかなか趣向が凝らされていました。けっこう人が多くて、館内に入るときに少し並びましたが、この企画展に関してはある程度人が多いほうがいいかも・・・と思いました。というのも、他の人の「問いへの答え」が読めるし、意思表示の数も多いので。

 ただ、やっぱ73の問いは多すぎるかも〜〜 もう少しだけ整理できないかな? 何かをメモしながら歩いている女性がいたのですが、私もすべての問いをメモして、どこかに座るなり、うちに帰るなりしてから、ゆっくり考えたい気分になりました。でも、この企画はその場で与えられた順番で直感的に答えていくのがミソかもしれない・・・とも思うし、自分のアンテナがピッと反応する問いを自覚していくという楽しみ方もあるのかもしれません。

 実は科学未来館に行くまえに、別のイベント(恵比寿ガーデンプレイスでの色についてのイベント)に寄っていて、そこでは物足りなかったので科学未来館へ行っちゃえ!ということになったのですが、行くなら行くで、最初から未来館に集中すればよかったとあとで思うことでありました。常設展も充実しているのだし。もう少し時間と体力と気力に余裕をもって訪れたほうがより楽しめたかもなぁ!

 なお、私が特に面白いと思ったのは、リスクマップや、文明の変遷の年表など、いろいろなデータが示してあるところでした。その様子はこちらで見られます↓
http://www.miraikan.jp/sekainoowari/outline

 私が意思表示した問いはとても少なかったのですが(たぶん3〜4個くらい)、そのうちのひとつは「人が生み出したことと、人の手によらないことと、どちらが怖いのでしょう?」というもの。私は「人の手によらないこと」と答えました。この問いは「怖さ」をどう捉えるかで変わってくると思いますが、そのときに思ったことは、「人間って時にかなり愚かだと思うけれど、そうはいっても人がやることは所詮人間がやること、自然が起こす圧倒的な力にはおよばない」ということでした。ちなみに、1つ1つの問いを文面どおりには覚えていなかったし、そもそもどんな問いがあったかもほとんど覚えていないのですが、特設サイトであとで確認したところ、先の問いに「自然」という言葉は入っていないことが確認できました。そっか、あらためて考えるとうまい問い方だな・・・

 ひとまず今回の感想としては、「企画そのものは大変面白い」ということと、「科学館でこの企画をやる意味がもう少しよく伝わってくる内容にできないか?」ということが言えそうです。科学は知ること、科学技術(だったかな?)は使うこと、というような表示はありましたが・・・

 ちなみに展示の後半部分で、「この企画展には企業が協賛で入っているということはないだろうなぁ・・・」と思いました。もちろん、展示物にはいろいろな会社が関わっていることでしょうが。なんというのか、協賛できるような規模の企業で、この企画展に名を連ねることが会社として問題にならなくて、見ている側も矛盾を感じない企業はないだろうと思ったので。逆にいえば、企業のCMのフレーズやロゴのようなものが書き並べられている看板もありました。これって、ひとつひとつ許可を得たのかな? その場合、どんなふうに許可を得たのだろう・・・? ちなみにこれまたあとで確認&意識したのですが、日本科学未来館って国立なんですよね。そっか、なるほど。なお、この企画展は、「主催・企画・制作」が日本科学未来館、「協力」が臨海副都心まちづくり協議会、東京臨海副都心グループがとのことです。

 もう一度行こうかな・・・! 6月11日までやっているようです。
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ベクトルで主客反転を考える---「あなたはだれ?」

 というわけで、谷村省吾『理工系のためのトポロジー・圏論・微分幾何〜双対性の視点から〜』(2006年/サイエンス社)の第1章にもどります。「1.5 外延と内包」の次は「1.6 双対性」となっており、ベクトル空間という文脈で議論が展開されているのですが、一形式(あるいは線形汎関数)、双対空間の説明は割愛して、かつてこのブログで例にとったある具体的な状況について再び考えてみたいと思います。

 それは何かというと、「レストランの会計」のこと。もとはといえば、遠山啓はベクトルを矢線ではなく多次元量として教えるべきだと主張していたことから始まった話なのですが(>遠山啓はベクトルをどう教えるべきだと語っていたか)、あのときには、ベクトルの内積をレストランの会計として考えることと、「お会計不透明カフェ」の会計を透明にするための単位ベクトルのことを考えました。

 で、作用するベクトルで示した行列の式---4つのお店と、4つのグループ---を使って、ベクトルの主客反転のことを考えたいと思います。

 メニューは、コーヒー、ミルクティー、ジュース、アイスクリームの4品。そして、4つのお店でのそれぞれの単価を左側の行列で示し、4つのグループのそれぞれの注文数を右側の行列で示したのでした。この中から、どれか1つのお店の単価の組をヨコベクトルで取り出し、どれが1つのグループの注文数をタテベクトルで取り出すと、「単価×注文数」の合計で、グループが支払う金額を求めることができました。

 それで、お店の立場から見れば、単価は一定であり、グループによって注文数が異なっているので、お会計も異なってきます。このときはグループの注文数が変数になり、お店の単価の数値は関数側の数値になります。

 一方、グループとしては、どのお店に行ってもいつもこの注文数でオーダーするとしたら、どのお店に行くかで会計は異なるわけで、この場合は、お店の単価のほうが変数で、グループの注文数は関数側の数値になります。

 なので、お店の単価とグループの注文数の、どちらが変数になるのか、どちらが関数側になるかは、お店の立場にたつか、グループの立場にたつか、その立ち位置に依存することになります。

 谷村さんはこのことを、「太郎、次郎、・・・」といったいろいろな人と、「身長計、体重計、・・・」といったいろいろな測定器を例について説明しておられます。測定器を1つ選んで、いろいろな人を測ることもできるし、人のほうを固定しておいて、いろいろな測定器で測ることもできる。まさに学校で健康診断が行なわれるときの保健室の状況は前者にあたるでしょうし、わが子の健康手帳に綴られた内容は後者の記録にあたるでしょう。

 つまり、どちらが変数でどちらが関数かは、一時的、相対的なものにすぎない。もっといえば、関数と変数は対等の立場にある。

 というようなことが、paring、線形同型写像という言葉の説明とともに示されているのですが、そのあたりは割愛して、ひとまずベクトルには双対空間というものが存在することだけおさえておきます(ちょっと乱暴すぎる考え方ではありましょうが、上記のタテベクトルであらわされるベクトル空間に対して、上記のヨコベクトルで表されるような双対空間というものがある、といまは理解しています。いずれちゃんと考えることにします)。

 思えば、どちらも4つの数字の組み合わせで、とりあえずヨコとタテで区別しているだけの話であり、これを反転させることは、それほど奇異なことでもないように思えます。

 それで、関数fが変数vを別のものに変換させるものだとすると、このときハタラキとしての関数fは変数vを見つめているわけですが、実はfは変数でもあり、別の関数Tによって見つめられていた、ということになります。

 ほんでもって、双対空間の双対空間は自分であり、双対は2回施すと元に戻るので、ベクトルの双対空間で考えるとき、上記のTはもとの変数vであり、fは自分が見つめていたつもりのvに実は見つめられていた、ということになります。

 このことを、谷村さんは次のように書かれています(Rは白抜き)。

Vというのは正体のよくわからないものなので,実数Rという正体のよくわかっているものに対応させてやろう,何らかの測定値を引き出してやろうという働きの集合が双対空間V*=(V→R)である.言わば,V*はVに対して「あなた誰?」という問いかけを発しているのである.問いかけて答えを引き出すことがV→Rという矢で表されるのである.さらに,V**はV*に対して「あなたこそ誰?」と問うている.ところが,じつはVがV*に対して「あなたこそ誰?」と問い返す側に回っていたわけで,「『あなた誰?』と言っているあなたは誰?」という質問を発する者は,当初の「あなた」と呼ばれていた者である.この問いかけ合いが
  V**=(V*→R)=((V→R)→R)=V
という輪を描いてV自身にはね返って来るのである.

 「なんて面白い話なんだ!」と思ったあと、さらにこう続くのです。

この問いかけ合いは,自問自答ではなく,他者との対話であることに注意してほしい.双対性とは,他者との対話を通して,自他の立場を交換することによって自己認識を深める過程なのである。

 この部分にドキッとして、大変に感動したのでした。

 思い出されるのは「他者の他者」としての自己のことと、学校はなんのためにあるのかで紹介した井上正允先生の「自分とは異なる他者を自分のなかに取り込み,自足してきた自分から抜け出す<自分探し>を始める。」という言葉のこと。

 これまで双対というと、すぐに自己双対のことを思い浮かべていた私ですが、他者と対話すること、自他の立場を交換することにこそ、双対性の意味はあるらしいということを教えられました。しかし、まだ私は、実際にはその数学的内容を知らずにいます。知らずにいますが、このようなものならば是非理解したいと思ったわけなのでした。

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外延と内包の絶えざる往復と問いかけ

 谷村省吾『理工系のためのトポロジー・圏論・微分幾何〜双対性の視点から〜』(2006年/サイエ ンス社)の第1章の後半を読んでいますが、p.24〜25について書く前に、p.200のまとめをのぞいてみることにします。

 前回のエントリでは、円の外延的定義と内包的定義について触れましたが、第1章では、そのほか平面についても外延的定義と内包的定義が示されています。おもえば曲線や平面のまえに、直線で表される関係、すなわち高速エレベーターを題材に、比例の対応表について考えてみたときの対応表も、(整数だけを示しているとはいえ)ある意味外延的な表現であり、これをy=8xと表すことは内包的表現といえるのかもしれません。

 つまり、方程式は内包的性格のものであるのに対し、解は外延的性格のものであり、方程式を解くということは、内包から外延に迫ろうとするアプローチだと言えそうです。

 これを物理学の立場からいえば、物理法則は方程式で書かれ、物理現象は方程式の解で書かれる、ということになるのでしょう。「なるのでしょう」というか、そういうものの見方に私たちは慣れている、と。「チコ・ブラーエの天体観測データからケプラーが見出したものは,惑星の楕円軌道であって,万有引力の法則ではない.ガリレイは振り子の等時的振動を見たが、調和振動子の微分方程式を見たわけではない.」(p.200)

 という話をきいて私が思い出すのは、やっぱりバルマーの公式のことです(量子力学/バルマーとリュードベリの目のつけどころでもこの話題を書いています)。水素原子から発せられる4つの可視光線(赤、青、藍、紫)の振動数を1つの公式で表したものですが、この公式がうまれた背景には、外延から内包への強烈な意識、ひらめき、幸運があったのではないかと勝手に想像しているのでした。あるいは、ウィーンの輻射式からプランクの輻射式への流れも面白いなぁと思います。また、ハイゼンベルクの見えることだけ考えるという姿勢のことも思い出されます。

 こういうことを考えていると、おのずと「帰納と演繹」という言葉が浮かんできますが、実際この言葉はp.200のまとめの文章に出てきます。

あまたの現象から法則性を見出すことは,解から方程式への推察であり,外延から内包への帰納である.こうして基礎方程式が仮定され,その解が演繹され,実験・観察という手段でテストされる.そのような外延と内包の絶えざる往復と問いかけが自然界のありようであるし,人間が考えながら生きているということなのだろう.

 おそらくこのことは物理学のみならず、数学にもいえることなのだろうと思います。というより、物理学者にしろ数学者にしろ、あるいはどちらでもない一般人にしろ、みんな「自然の中で考えながら生きている人間」だと思うし、その「考える」ときに、物理学や数学といったいろいろなアプローチがあるのではなかろうかと思うわけなのでした。

 それはそうとして、上記の最後の一文に感動した私ではありますが、これだけだったら「そうだよねぇ」で終わっていたように思うのです。新しい発見まではいかなかったというか。でも、p.24〜25では、ちょっとドキっとすることが書いてあったのです。

(つづく)

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円の外延的定義と内包的定義

 というわけで、谷村省吾『理工系のためのトポロジー・圏論・微分幾何〜双対性の視点から〜』(2006年/サイエンス社)の第1章の後半をちょっと読んでいきます。それさえしておけば、ひとまずp.24〜25とp.200の感動のことは書けそう。ホモロジーやホモトピーや微分幾何学についてはいずれゆっくり取り組むことにして。

 第1章のお題は、「外延と内包の双対性」です。外延と内包といえば、つい最近もそうであったように、このブログでは外延量と内包量というように“量”をつけて考えることが多かったですが、今回は“量”はつかない外延と内包について考えます。>外延と内包

 まずは記法の確認も兼ねて、集合論に関する基本概念が一通り解説されていきます。集合、元(要素)、集合の規定のしかた(元を列挙するやり方と、元が満たすべき条件を列挙するやり方があること)、論理記号の簡単な説明があり、部分集合、補集合、交わり、合併集合(和集合)、差集合、集合族、空集合の説明、そして写像に関しての解説が続きます。

 その前半部分は割愛して「1.5 外延と内包」あたりからぼちぼち読んでいきます。谷村さんは、外延とは何か、内包とは何かを辞書のように一言で表現することは難しいとして、いくつかの例をあげて外延、内包とは何かを示しておられます。

 おそらくいちばんわかりやすいのは、集合の2通りの書き方だと思います。たとえば(本にあわせるために記号Bを使用)、

 B={2,4,6,8,10,12,14,16,18,20}

という集合の書き方は元を具体的にそのまま示しており、このような集合の規定の仕方は外延的記述ということになります。一方、同じ集合を、

 B={x|xは1以上20以下の,2で割り切れる整数}

と表すこともできるわけで、こちらは元が満たすべき条件を示しており、こちはら内包的記述となります。

 実はこれは本では2番目に出てくる例で、谷村さんはまず、平面上の円についての2通りの定義を示しています。高校で学んだことをほとんど忘れている私ですが、「ああ、これ、覚えてる・・・なんか名前がついていたよな・・・」と思いながら手元にある高校の教科書をのぞいて思い出しました。媒介変数表示というものですね。

      

 ちなみに手元の教科書では、この直前に弧度法を学んでいるようです。GRAPESでは媒介変数方式で曲線を定義することもできるので、ためしに円を描いてみました。tの値を動かすことにより円上の点を動かすことができるので、tの1つの値に対して円上の点が1つ対応することがつかみやすく、逆にいえば、tによって決まるxとyの組が1つの点を決め、それを集めていくことで円が形づくられる、と考えることもできます。

 一方、円を表す方程式といえば、

   

という形のものもあり、どちらかというと高校数学ではこちらに重きがおかれているのではないかと思います。最初に出てきたxとyを別々の式で表すのが円の外延的定義であり、次に示したxとyを1つの式にまとめたものが、円の内包的定義です。

 媒介変数表示のほうは、xとyの組を具体的な1つ1つの点としてとらえようとしているけれど、x^2+y^2=1のほうはxとyの満たすべき条件を1つの式で表しているので、前者が外延的で後者が内包的というのもなるほどうなずけます。

 なお、もっと言えば、円の内包的定義とは「ある一点から等距離にある点の集合」ということになるのでしょうが、ここでは座標平面上での外延的定義、内包的定義について考えています。

(つづく)

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谷村省吾『理工系のためのトポロジー・圏論・微分幾何〜双対性の視点から〜』のp.24〜25とp.200に感動する

 2月の末に、谷村省吾『理工系のためのトポロジー・圏論・微分幾何〜双対性の視点から〜』(2006年/サイエンス社)という本を買いました。まだ読んではおらず、そばに置いておいてたまにぺらぺらめくっている状態です。この本のことを知ったのはだいぶ前で、買ったつもりでいたのに、まだ買っていなかったことに気づいて購入したしだい。ちなみにその背中を押してくれたのは檜山正幸さん(ていうか、檜山さん経由で知ったのだったかな?)。↓
http://d.hatena.ne.jp/m-hiyama/20070122/1169425937

 ざざざっとながめてみて、すでにp.24〜25とp.200に感動しております。なので、カヴァイエスにもどる前に、その部分についてちょっと書いておきたいと思います。

 著者の谷村省吾さんは数学者ではなく、専門は理論物理だそう。理論物理を専門としている方がトポロジー・圏・微分幾何学に関する入門書を書いた理由の一つは、現代の理論物理にはトポロジーや微分幾何学の方法が普及していて、自分もそれをよく利用している研究者なので、学生や研究者がこれらの数学にもっと親しみを持って、これらの数学を使ってもらえたらよいと思ったから、とのこと。また、トポロジーや圏論や微分幾何学は素人には近寄りがたい「高級な数学」ではなく、この世界に生起する出来事を語るためのとても自然な言語であり、これらを自分の言葉として活用できるようにしておくと,いろいろなことが生き生きと見えて楽しいですよ、ということを伝えたいとも書かれてあります。

 そしてもう一つ、「正規の数学者ではない私の方が数学の解釈や意味を多くの読者に伝えやすいだろうと思うからである」ということも動機になっているようです。由緒正しい数学書では定義・定理・証明を整然と書くというスタイルが確立していて、平易な言葉で説明するところまで手が回らないものだけれども、自分は数学者ではない身上の気軽さから、証明などそっちのけで、この数学を通して数学者や物理学者は何を語りたかったのか、何を見ようとしているのか、という本音や意味論、心意気みたいなものを議論できる立場にいる、と。

 数学も物理学も人の営みである.人の営みである以上,作った人が何に注意を払ったか,何を大事だと思ったか,という意思の働きが必ずその学問に吹き込まれている.数学を学ぶということは,そこに込められた意思や視点まで汲み取って学ぶことだと思う.

  (「まえがき」より)

 ああ、そういう本を読みたかった気がするなぁ・・・ かといってこの本はざっくりとした数学者列伝、数学史的読み物というようなものではまったくなく、まさに数学の入門書だと思います。数学の本を読みたいが証明はひとまずわきにおいといて(証明してくれた人を信じるから)、まずはその“意味”を教えてほしい、という気持ちが(特に圏論に対して)強くある自分にとっては、このうえない本なのかもしれません。こういう本がもっと増えるといいなぁ・・・ でも、数学者がこういう本を書くのはかなり勇気がいることでしょうし、ストレスフルなのでしょうね。どのジャンルの本も、そのジャンルのまっぽす専門家ではなく、隣接領域にいてよく知っている人に書いてもらうのがいちばん面白くてわかりやすいのかもしれません。

 さて、谷村省吾さんがこの本を通してもっとも伝えたかったことは何かというと、「双対(そうつい)性」という視点です。世界の深くて普遍的な本質を捉える「まなざし」として。

 双対ときいて私が最初に思い出すのは正多面体における双対関係のこと、なかでも正四面体の自己双対のことです。双対多面体とはある多面体の頂点と面を入れ替えた(という言い方はわかりにくいですが)多面体のことであり、過去のエントリでは「とれたての定理です 第5巻」から/正多面体の双対関係とヴァーチャル多面体の話で説明のための図を示しています。このエントリでは正六面体(立方体)と正八面体の双対関係を示す図になっていますが、同じことを正四面体にすると、正四面体は頂点も面も4つなので、やっぱり正四面体ができます。

 また、論理学のことをちょっとかじったときには、「束」の双対律の存在感のことと、ブールはベキ等律は発見していたが双対律は発見していなかったことなどを知り、面白いなぁと思いました。>ブールが発見していた「ベキ等律」論理学の幾何学的表現と双対原理

 さらに、最近、デザルグの定理に縁があると書きましたが、デザルグの定理も自己双対的な定理らしいのです。確かこの定理との縁の始まりは、銀林先生が圏について説明する中で出てきたのを読んだときだと思うのですが、直接つながる話なのかどうかはまだわかりません。あと、遠山啓の本でもどこかで出てきていたような記憶がうっすらとあるものの、何の話だったかは思い出せず・・・。そしていちばん近いところでは、近藤和敬『カヴァイエス研究』の脚注で出会いました。>メタ数学と形式主義のプログラム、なぜかサントリー「山崎」

 ほんのさわりだけ書くつもりでしたが、いざ書き始めると、第1章についてだけは、ある程度のことを書いたほうがいいのかもしれないという気になってきました。第1章のお題は何かというと、「外延と内包の双対性」です。

(つづく)

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近況報告

 娘の学校が新学期に入ってから、(おもにPTAで)怒涛の日々を送っておりました。役員ではないのですが、この時期に一仕事ある委員会のうえ、不測の事態が生じてしまったので。でも、ようやく一段落してきました(であってほしい)。5月いっぱい作業は続きますが、あとはひたすら実務をこなすのみ。

 そんなこんなで、娘はさっそく算数で「単位量あたりの大きさ」を学んでいるのにも関わらず、そのことについて会話する気持ちの余裕もなかったのでございます。もったいないなぁ。なんというのか、この3週間ものを考えませんでした。考えているヒマがなかった。無思考の日々とよびたい。 

 でも、あるとき「忙殺」という言葉で検索をかけたくなり、かけていたら、面白いサイトに出会って、そのことは1つの収穫となりました。

 直接出会ったのはこのページですが↓
http://www.geocities.jp/feedbacknote/
kousatu/Chapter-0308.html


 そのほかの部分にも、自分の興味に近い話題があるようです。ちょっとずつ読んでいこうと思っています。
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かけ算、関数、モノとハタラキ (2)

 いろいろ書いてきましたが、結局、かけ算における「ハタラキ」という言葉の整理以上のことは書けない気がしてきました。トラックバックするほどの記事にはならなかったな・・・

 結果的には、メタメタさんがおっしゃっているように、遠山啓は「被乗数×乗数」の「乗数」をハタラキからモノにかえ、「4」「×6」から「4」×「6」に変えたことになるのだと思いますが、そうまとめてしまうと何か違うように感じて(そして自分のなかの混乱を整理するためにも)、一連のエントリを書いてみました。

 思うに、「6人の子どもにみかんを4こずつ配ったときのみかんの総数」を、6×4と書くほうが自然だと感じる人も、「消費税率を5%として、2000円買ったときの消費税の金額を求めなさい」になると、2000×0.05と書くほうが自然だと感じる場合が多いかもしれませんね。もちろん、後者の場合も0.05×2000と書いてもいいわけですが、この式にバツがつけられて納得できないという話はあまりきかないような気がします。実際にバツにならないのか、子どもがそういう式を書かないのか、そもそもそういう式を書く以前の問題(難しさ)があるのか、親の目に届かないのか、親が疑問に思わないのか、単に私がその疑問の声を知らないだけなのか・・・はわかりませんが。

 この場合、モノ・ハタラキの順であることよりも、「もとにする量」×「割合」であることがミソなのかもしれませんね。なにしろ、「もとにする量」なのだから。

 それはそうとして、遠山啓および銀林浩がいうところの「もの」と「働き」のポイントは、「この対立は固定的なものではない」というところにあるのだと思います。ハタラキは、モノとしてとらえることもできる(>抽象的な関数より、具体的な内包量)。そうすると、より高次な場面で、元ハタラキであるモノへのハタラキも考えることができる(>「構造と素子」と、圏論)。そこに、数学の1つの自由があるのかもしれません。

 また、「どちらがどちらに働きかけるのか」ということについても、固定されていないのかもしれないなぁ、と思うことであります。



 気がつけば、カテゴリー:「かけ算の順序」論争のエントリ数が80を超え、1日1行の『記憶と生』を追い越してエントリ数最大のカテゴリーになってしまいました。なんか途中から半分惰性でこのカテゴリーを指定していたような気がしないでもありませんが(^^;、ひとまず気はすみました。

 結局のところ、かけ算の順序をどうすんの、ということについては何の意見も出しておらず、なんのお役にも立っておらず、申し訳ないことであります。ただ、私もかけ算について考えてみたくなったので、自分の視点で考えてみました。

 「割合」については、高橋誠『受験算数』を読んだあと、また考察したいと思います(^_‐)。特に「2 金貨と食塩水の四千年」が楽しみ!

 さて、娘はいよいよ5年生。

 算数濃いよ〜〜 

 楽しみじゃ。

 というわけで、本人登場

 ↓

はいは〜いぴまりんで〜すもうすぐ私も5年生です。
よく学校の先生達がいっていたのは、今ちゃんと勉強しておかないと学年が上がるった時こまるという話です。
ゲームとかでしたらどんどん難しくなるとかありますが、あれも基礎が大事なのかな。
だとしたらすごいかもゲームって楽しいしハマるし勉強とは大違いだから、そんな共通点があったとしたらすごいと思います
   


 余計なツッコミはしないでおきますか(^^) 
「かけ算の順序」論争 | permalink

かけ算、関数、モノとハタラキ (1)

(あとエントリ1つで終わりの予定でしたが、長くなったので2つに分けました。)

 というわけで、やっとここまできました〜

 小数のかけ算と、ブラックボックスと、圏論 (1)というエントリで、「ハタラキ」という言葉をぐちゃぐちゃに使ってしまった手前、この言葉をお借りしたメタメタさんのもとの記事にトラックバックする記事を書かなくちゃ・・・と思いつつエントリを書き始めてはや幾日。(っていうか、いかなくていいところまであれこれ寄り道していたので、こんなに時間がかかったのですが・・・^^;)

 あのときリンクさせていただいたページは、

「交換法則が成り立つかけ算」と「成り立たないかけ算」(その2)
http://ameblo.jp/metameta7/entry-11137286843.html

でしたが、これとは別の記事、

「マニュアル先生の「治療」法」
http://ameblo.jp/metameta7/entry-11188652088.html

についてのコメントで、(ついでの形で恐縮だったのですが)「モノとハタラキ」のことに触れさせていただいたところ、メタメタさんから、そもそも「もの」と「働き」という対の用語を知ったのは遠山の『無限と連続』だったという話をうかがいました。

 なので、その話から。

 遠山啓の『無限と連続』では、第2章が“「もの」と「働き」”というタイトルになっています。で、遠山啓がこの章に“「もの」と「働き」”というタイトルをつけた意味は、近代の「関数」から、現代の「群」へというエントリで書いた内容とほぼ同じことだろうと私は理解しています。

 あのとき参考文献にした遠山啓著作集の数学論シリーズ5『数学つれづれ草』をもう一度みてみると、遠山啓は「操作の数学」「紋章と模様」の中で、群について説明したあとp.25で次のように書いています。

これまでの説明では群は何かの構造Sを自分自身の上に写し,しかも,Sの構造を変えないような操作の集まりであった。紋章を自分自身の上に重ねる操作の群は紋章によっていろいろあるし,また,平面上の無限の模様もそうであった。
つまり,Sという構造があってはじめて,それに働く操作の集まりとして群Gが考えられるのである。そのさい,Sは働きを受ける“もの”であり,Gは働きそのものである―図21。Sは名詞的であり,Gは動詞的なものである。このようなばあい,Gはoperatorといい,Sはoperandということがある。

 というわけで、ここで出てくる対はオペレーターとオペランドになっています。オペランドとコンテンツでは微妙に意味が異なるとは思いますが、ひとまずこの対を「ハタラキとモノ」で考えても差し支えないでしょう。そして遠山啓は、このような(ハタラキとモノの)対立は人間の思想のなかでももっとも根本的なものの一つであり、19世紀になってはじめてでてきたわけではなく、初等数学における数と演算の対立も、広い意味でのモノとハタラキの対立だとみられる、というようなことを書いています。

 たとえば「4×6」という計算においては、「4」と「6」がモノで、「×」がハタラキにあたるのだと思います。したがって、かけ算は、(4、6)→24 の「→」にあたるハタラキなのだと思います。この段階では、「×6」がハタラキである、という発想もないのでしょう。

 しかし、次には関数fの話が出されており、数xにある関数fがはたらいてyになると考えたら、f(x)=yという関数は、やはりそのような対立の形でつかむこができる、としています。そこで、かけ算を関数の1場面ととらえることにしたら、「×」のみならず、「ある数値との乗法」というハタラキがうまれるな・・・と私は思いました。
 
 どういうことかというと、4×6=24 または 6×4=24 というかけ算を、4を固定して6から24を生み出すハタラキととらえることもできれば、6を固定して4から24を生み出すハタラキととらえることもできるな、ということです。

 たとえば、小数のかけ算と、ブラックボックスと、圏論 (1)では、1mの重さが2.3gの針金の長さと重さの関係をブラックボックスで表しましたが、あの場合、入力xは長さ、出力yは重さであり、ブラックボックスのなかに「2.3」という数値がひそんでいます。つまり、あの例では「2.3と乗法を行う」というのがハタラキとしての関数fなのだと思います。もし、xが加工されてyが出てくると考えるならば「x×2.3」と書いたほうが自然でしょうし、すでにあるハタラキfに入力xを反応させると考えれば、「2.3×x」と書いたほうが自然かもしれません(しかし、このことと「かけ算の順序」問題は、何の関係もないだろうと思います)。

 ほんでもって、新算数・数学教育実践講座」刊行会発行の『心に広がる楽しい授業 第11巻 比例の考え 正比例・1次関数』(1989年)において、最初は「(倍としての)割合」が出てくる話を書きましたが、ここでもブラックボックスは出てきています(本に載っている図とほぼ同じになるよう書き起こしました)。↓


  (上から順にp.11、38、46)

 ここではブラックボックスの中に「倍」としての数値がひそんでいます。数教協の先生方が、「1あたり量」と「倍」の違いをどれくらい意識していたかは不明ですが、とにもかくにもブラックボックスって便利だね・・・という感じではあります。っていうか、「倍」でもブラックボックスを使うのですね。

 しかし実際、「倍」をハタラキとみなす関数だってあるのでしょうし、2倍にするときにはy=2x、3倍にするときにはy=3xというような式で表せるのでしょう。遠山啓の比例水槽からして、比例定数を数値で表すならば「倍」になるわけであり(yの部分に入る水のかさ÷xの部分に入る水のかさ)。

 「倍」のブラックボックスって、適用範囲が広いなぁと思います。「6倍」は6倍するもののすべての量に適用できるし、10%は含有率だろうが消費税率だろうがなんだろうが適用できるので。

(つづく)
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「倍」のかけ算は「内包量×内包量」であるという考え方(シカゴブルースさん)

 今回の一連のエントリを書くなかで、検索中にもう1つとても興味深いページを見つけました。どうしていままで見つけられなかったのだろう・・・と、自分で不思議。

シカゴブルースさん>
■割り算から見た量(1)―内包量と外延量
http://okrchicagob.blog4.fc2.com/blog-entry-159.html
■割り算から見た量(2)―絶対量と相対量
http://okrchicagob.blog4.fc2.com/blog-entry-160.html

 (2)のページで、「3m×4倍」という「倍」のかけ算は、本質的には「3m/1 × 4= 12m」のように表記されるべきものなのであると書かれています。このことは、既測量を「1」とおくことは困難か?/「倍」としてのかけ算で示した図(青い「1」の上に4このオレンジの丸がのっている図)を見ると、なるほど確かにそうかもしれないと思えてくる話です。

 「1人あたり4こ」ではなく、「4こ」そのものを「1」とみなすことは、「1」あたり「4こ」という意味なのだと考えれば、まさにあの図では、青い「1」の上に、オレンジの「4こ」がのっているわけであり。

 これを私は、「3m × 4/1」と考えようとして、「3m × 4ナントカ/1ナントカ」にしなくちゃいけなくなって、なんだか気持ちわるかったわけなのでした。>かけ算の式を、「外延量」「内包量」の視点で考えてみる

 そしてシカゴブルースさんは、「割合(倍)のかけ算における(1にあたる量)は内包量である。」として、

普通の1あたりの量のかけ算が 内包量×外延量=外延量 という構造をしているのに対して、割合(倍)のかけ算は 内包量×内包量=外延量 (外見的には 外延量×内包量=外延量 とも解釈できる) という構造になっているのであり、これが倍(割合)のかけ算の特殊性である。この特殊性が割合(倍)の問題の難しさの主な原因となっている。

とまとめたあと、絶対量と相対量の話を書いておられます。これでいうならば、遠山啓は、小学校低学年においては、相対量ではなく絶対量で学ばせるべきと考えていたのだろうと思います。

 「倍」のかけ算が、「内包量×内包量=外延量」なのだとしたら、割合の三用法で出てくるわり算は、全部「外延量÷内包量=内包量」ということになるのですね。つまり、「24こ÷4こ=6倍」は、「24こ÷4こ/1=6」ということなのでしょう。そうなると、「6」という数は、4こ/1という内包量の存在を前提としてつくられるということだろうか。

 考えてみれば、4mだって、1m×4なのですが、この「1m」も内包量なのだろうか・・・という、新たな疑問もわいてくるのでした。

 いずれにしろ、「1あたり量」としての内包量と、「倍」としての内包量は性質が違っていて、「6人の子どもにみかんを4こずつ配るときのみかんの総数を求める」という同じ状況を、同じ4×6=24という式で表しているのに、考え方によって「4」や「6」や、あるいは「×」の意味が変わるというのは面白いなぁと思います。

 「倍」のかけ算は「内包量×内包量=外延量」であるか、ということについては、いずれ機会があったらまたゆっくり考えたいと思っています。
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