連鎖状の知性/上野修『スピノザの世界』(8)
上野修『スピノザの世界』の、図が示されている部分を中心に読んでいる。
前回書いたように、P「原因→結果」、Q「原因→結果」、R「原因→結果」、……を少しずつずらしながら3段に並べ、Pの結果がQの原因、Qの結果がRの原因と縦にイコールでつなげられた図がp.119に載っている。
これを簡略化すると、「…… P → Q → R ……」 と表せ、「観念の観念の系列が並行するから、正確には、こうだろうか」として、
…… P → Q → R ……
…… P´ → Q´ → R´ ……
と示されている。ここも、もしあるのなら3段階めまで示したあと、さらに続く「……」も加えてほしかった気がするが、もしかしたらそれはないのだろうかとだんだん不安になってきた。
しかし、「実際には連鎖はこんな直線でなくて、事物の秩序と連結と同じように枝分かれしたり合流したり、相当複雑なことになっているだろう」ということなので、あまり並行のイメージを強めるのもよくないのかもしれない。
そして、アフェクチオ(affectio)、コルプス(corpus)という言葉が出てくる。
前者は「変状」の意味であり、たとえば自動車に何かが当たってへこみ傷が付くようなことをスピノザはこう呼んだらしい。
後者はラテン語で、物体、身体を指す言葉であり、つまりはこれらに区別がないということ。
自動車についた傷がなぜそういう付き方になっているかを思考が理解するには、衝突物体と自動車との両本性が前提になる。われわれも同じで、われわれの身体Aがほかの物体Bから刺激されて変状aを自らのうちに生じる。
そしてこのaの認識は身体Aと物体Bの両方の認識に依存しかつこれを含む。
ということに関して、「身体A」の観念と、「物体B」の観念が結ばれて「身体Aの変状a」の観念へと矢印が向かう図が示されている。
そんなこんなでデカルトの心身合一の問題は解決されてしまうということのよう。身体と精神のあいだの不可解な結合を想定しなくても、ちゃんと心身合一が説明できてしまうから。
ただ、そうなると、「物体B」の観念になっている思考も「身体Aの変状a」を漠然とでも知覚しちゃうのではないか。スピノザはそれも認めるだろうと上野修さんは書いている。
これが、スピノザの万有霊魂論につながるらしい。
前回書いたように、P「原因→結果」、Q「原因→結果」、R「原因→結果」、……を少しずつずらしながら3段に並べ、Pの結果がQの原因、Qの結果がRの原因と縦にイコールでつなげられた図がp.119に載っている。
これを簡略化すると、「…… P → Q → R ……」 と表せ、「観念の観念の系列が並行するから、正確には、こうだろうか」として、
…… P → Q → R ……
…… P´ → Q´ → R´ ……
と示されている。ここも、もしあるのなら3段階めまで示したあと、さらに続く「……」も加えてほしかった気がするが、もしかしたらそれはないのだろうかとだんだん不安になってきた。
しかし、「実際には連鎖はこんな直線でなくて、事物の秩序と連結と同じように枝分かれしたり合流したり、相当複雑なことになっているだろう」ということなので、あまり並行のイメージを強めるのもよくないのかもしれない。
その全体が一挙に、無限知性として出てきている、とスピノザは考える。スピノザの神はこんなふうに観念連鎖の細部に遍在し、いたるところで知覚を生じている。そこには全体を高みから俯瞰する「神の視点」みたいなものはない。あるのは、いわば無限平面をびっしりと這(ルビ:は)い回る連鎖状の知性だけなのだ(第1部定理31)。(p.121)
そして、アフェクチオ(affectio)、コルプス(corpus)という言葉が出てくる。
前者は「変状」の意味であり、たとえば自動車に何かが当たってへこみ傷が付くようなことをスピノザはこう呼んだらしい。
後者はラテン語で、物体、身体を指す言葉であり、つまりはこれらに区別がないということ。
自動車についた傷がなぜそういう付き方になっているかを思考が理解するには、衝突物体と自動車との両本性が前提になる。われわれも同じで、われわれの身体Aがほかの物体Bから刺激されて変状aを自らのうちに生じる。
そしてこのaの認識は身体Aと物体Bの両方の認識に依存しかつこれを含む。
ということに関して、「身体A」の観念と、「物体B」の観念が結ばれて「身体Aの変状a」の観念へと矢印が向かう図が示されている。
神の無限知性の中に生成している「身体の観念」、それがわれわれが魂だとか精神だとか言っているものの正体である。(p.122)
そんなこんなでデカルトの心身合一の問題は解決されてしまうということのよう。身体と精神のあいだの不可解な結合を想定しなくても、ちゃんと心身合一が説明できてしまうから。
ただ、そうなると、「物体B」の観念になっている思考も「身体Aの変状a」を漠然とでも知覚しちゃうのではないか。スピノザはそれも認めるだろうと上野修さんは書いている。
これが、スピノザの万有霊魂論につながるらしい。